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2024年4月12日 (金) 17:38時点における最新版
さだ まさし(本名:佐田雅志(読みは同じ)、1952年4月10日 - )は、日本のシンガーソングライター、タレント、小説家。ファンとスタッフの間では「まっさん」の愛称で親しまれている。身長は165cm。血液型はA型。
目次
概要[編集]
フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「関白宣言」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。
2013年7月19日現在、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、回数は実に4000回を越えている。トークの軽妙さはテレビ・ラジオ・コンサートのMCにて大きな魅力とされている。
小説家としても活動し、『解夏』『眉山』などの作品を発表している。
國學院高等学校卒業、國學院大學法学部中退。趣味はゴルフ。1983年に結婚し、一男一女の父である。
弟はさだ企画社長で元サッカー選手でもある佐田繁理。妹は歌手の佐田玲子。長男はユニット「TSUKEMEN」のメンバーとして2010年にメジャーデビューしたヴァイオリニスト・TAIRIKUこと佐田大陸。長女は2011年にメジャーデビューしたピアノ・デュオ「Pretty Bach」のメンバーの佐田詠夢。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
1952年4月10日、長崎県長崎市で佐田家の長男として生まれる。佐田家は元々島根県那賀郡三隅町(現浜田市)の大地主の家系である。その二男だった祖父・繁治は中国大陸で諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主であり、その繁治と結婚した祖母エンもまたソ連(現ロシア)のウラジオストクで料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在である。父・雅人は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子と結婚し、雅志・繁理・玲子の3人の子をもうけている。雅志の幼少時は、父・雅人は材木商を営み、自宅は部屋が10以上もある豪邸だった。
3歳よりヴァイオリンを習い始め才覚を現す。ただし1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗し、一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる。1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。以後、葛飾区や千葉県市川市で一人暮らしを続けることになる。
中学生時代に加山雄三やサイモン&ガーファンクルに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになる。その一方東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校(途中で東京都立駒場高等学校芸術科(現東京都立芸術高等学校)に志望校を変更)の受験に失敗し、失意のなか國學院高等学校に入学。以降ヴァイオリンへの熱意を失う。ただし豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、ギターや作詞・作曲以外にも、小説作り、落語、スポーツなど数々の方面で頭角を現す。
グレープでデビュー[編集]
國學院大學中退(法学部へ入学も、ほとんど大学には行かなかった)後、数々のアルバイトをしながらの生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷する。1972年、高校時代からの友人吉田正美(現・政美)が東京から長崎にいるさだを訪ね、そのままさだ家に住むこととなった。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい! よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することが出来なくなったという。以後二人は意気投合し同年11月3日、バンド「グレープ」を結成、音楽活動を開始する。11月25日、NBCビデオホールで開かれた初めてのコンサートには定員300あまりの客席に250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟の繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(さだはこのことをして「キャバレー方式」と呼んだ。)。やがて音楽プロデューサー川又明博によってスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。所属プロダクションはユイ音楽工房、ヤングジャパングループなどを当たるが不採用となり、最終的にはザ・バードコーポレーションからの採用を受け、デビューに至った。
デビュー曲はまったくヒットせず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったためか、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサーの蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって、放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞受賞することとなった。
1975年11月にリリースした「無縁坂」もヒット曲となった。しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られている。また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「朝刊」が思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまりグレープの音楽は暗いというイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散した。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。
ソロ歌手への転向[編集]
1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始める。その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、自身のプロダクション会社であるさだ企画を設立している。
1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなる。それまで一番売れた「精霊流し」でも最高同チャート2位であり、さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となった。後に異ヴァージョン(「もうひとつの雨やどり」、「雨どりや」、ライブにて、谷村新司との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなった。その後、山口百恵に提供した「秋桜」や「案山子」などがヒットする。
1978年10月に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、1979年1月に同レーベルから初のシングル「天までとどけ」をリリースした。同年7月にリリースした「関白宣言」は150万枚を超える大ヒットとなる。以後「親父の一番長い日」「道化師のソネット」「防人の詩」「驛舎」など、数々のヒット曲を放つ。
1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当。一方、翌1981年にかけ、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画『長江』(主題歌は「生生流転」)を制作した(1981年11月公開)。映画自体は120館上映というヒットであったものの、それ以上に制作費をかけ過ぎたため、約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの負債が残った[1]。
1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当する。テーマ曲「北の国から〜遥かなる大地より〜」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となる。
1985年、ソロ・コンサート通算1000回(東京厚生年金会館)を達成する。血液型による恋愛模様を描いた「恋愛症候群」をリリースしている。ちなみに、本人はA型で、父はAB型、母・弟はB型、妹はAB型、妻はO型、息子・娘はA型である。
1987年8月、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『夏・長崎から』を開催した。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった。
1993年、ソロ・コンサート通算2000回(大阪フェスティバルホール)を達成した。
1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始する(2003年4月にナガサキピースミュージアム開館)。
1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞した。
2000年4月1日、福岡ダイエーホークス開幕戦にて「君が代」を独唱した。ロンドン・ロイヤルアルバートホールにて日本人男性歌手では初となるコンサートを行う(女性は1994年の高橋真梨子が初)。
2001年9月、小説『精霊流し』を発表した。後にNHKでテレビドラマ化され、さらに映画化もされた。さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム『小説 精霊流しの世界』を発売した。
児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年にひろすけ童話賞を受賞する。
2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3000回(東京国際フォーラム)という前人未到の偉業を達成。9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を東京・名古屋・大阪にて各8夜構成で開催。グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。12月、小説集『解夏(げげ)』発表。2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。
2005年8月17日、FIFAワールドカップ予選日本対イラン」の試合にて「君が代」を独唱。9月6・7日、「ソロ通算3333回記念コンサート」を日本武道館にて2日間開催。同7日に32作目のオリジナルアルバム『とこしへ』発売。10月、サッポロビール「冬物語」で初のパッケージデザイン。
2006年1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送される。その後も続編が制作され、2013年現在も月に1回程度の放送が続いている。
2006年4月、シングル「がんばらんば(長崎弁ヴァージョン)」をリリース(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。
2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行う。その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言する。
2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、第48回日本レコード大賞・特別賞を受賞する。
2007年8月9日 広島市民球場開設50周年記念 「2007 夏 広島から さだまさし」を開催。広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の奥田民生に次いで2人目。
2008年秋、美空ひばりの曲をカバーしたアルバム『情継 こころをつぐ』をリリース。トップ10入りを果たす。出続けていたNHK紅白歌合戦に落選するが、『年の初めはさだまさし』は行われた。
2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブを両国国技館にて行う。コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行った。
2010年7月16日、さだまさし3776回記念 富士山山中湖ライブを山梨・山中湖交流プラザきららにて開催。
2012年 デビュー40周年記念ツアー「さだまつり」を6月の長崎ブリックホールからスタート( - 2013年1月)。二夜構成で1日目が「前夜祭 ~しゃべるDAY~」として9曲程度しか歌わずにトーク中心、2日目が「後夜祭 ~うたうDAY~」として逆に殆ど喋らずに歌中心という内容だった。
2013年7月17日、日本武道館で、自身の記録を塗り替えるソロ・コンサート通算4000回目を達成。
シンガーソングライターとして[編集]
メロディーの傾向[編集]
西洋のポピュラー音楽やクラシック音楽の技法を駆使した作品が多い。彼は前述のように元々ヤッシャ・ハイフェッツに憧れたヴァイオリン少年であり、単旋律楽器であるヴァイオリンに親しんだことは彼の音楽性に大きな影響を残すこととなった。自分のコンサートでヴァイオリンを弾くことも多い。また、時にクラシックからの引用が見られる。
活発なコンサート活動[編集]
さだのコンサート回数は2013年7月には4000回に達し(オリコン調べによる、3000回を超えている日本人のプロ歌手はさだまさしのみ)、日本記録を伸ばし続けている。さだがこれほど多くのコンサートを行うようになったのは映画『長江』で多額の借金を抱えたことがひとつのきっかけだった。さだはこれ以後、返済のために年間100回以上、多い年には162回(1982年実績)ものコンサートを行なうようになった。
さだの作品には、「飛梅」「まほろば」「修二会」など仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌も多く、太宰府天満宮や東大寺などの社寺仏閣の宮司・管長らとも親交がある。このためか、東大寺大仏殿・薬師寺・平安神宮など、寺社でのコンサートも数多く行なっている。たまたま地方へコンサートに行った際、その日に地元高校の野球部が県大会で優勝して甲子園出場を果たし、コンサート当日にはその高校の野球部の帽子をかぶり校歌を歌うというサプライズを行ったこともある。
1980年代前半、中国へのコンサートの際には使用する音楽機材を運搬するために日本航空のDC-8貨物機をチャーターしている。現在では海外の大物アーティストが来日するときは当然のことになっているが、日本人アーティストで貨物機をチャーターしたのは2012年現在、さだのみである。
影響を受けたアーティスト[編集]
中学1年生の時にサイモン&ガーファンクルを聴いてギターの魅力に開眼した。全体の音をリードしていく楽器であり、単旋律楽器であるヴァイオリンとは対極にあるところに感激したと語っている。ポール・サイモンが1970年代末に「たかが音楽、いつだってやめられる」と言った時にはさだはショックを受け、ニューヨークまで行ってサイモンにその真意を問い質したことがある。
その次にさだが大きな影響を受けたのが加山雄三だった。「君といつまでも」を聞いて衝撃を受け、すぐさま下宿先に住んでいた青年のギターを借りて全く同じコード進行の曲を作ったのが彼の最初の作品だという。その時初めてギターを弾いたのだが、幼少時代からずっとヴァイオリンを弾いていたため比較的簡単に弾けたという。他にブレッド(デヴィッド・ゲイツ)のバラードタイプのナンバーにも非常に好感を寄せている。
同世代の日本のシンガーソングライターにはビートルズやボブ・ディランの影響を受けた者が多い中で、 加山雄三やサイモン&ガーファンクル等の影響でポピュラー音楽に目覚めたことは他のシンガーソングライターと一線を画す、彼の大きな特徴である[2]。
「噺家」として[編集]
さだまさしは歌から受ける印象とは違い明るく喋り好きな性格であり、高校・大学と落語研究会に所属していた。本人は「人生は明るく、歌は暗く」がモットーと話す。
コンサートでは「トーク」や「噺(はなし)」と呼ばれるMC(曲との間の喋り)を「3時間のなかの1時間」喋り、時には歌よりも長い時間繰り広げることもあり、その内容はほとんど落語か漫談のようである。本人は「とある落語家が弟子に『さだまさしのコンサートに勉強しにいってこい』と言った」と話す。
観客もトークを楽しみにしており、『のちのおもひに』収録の20周年記念ライブ第1夜の挨拶で「今日はあまり喋りません」と言ったら客席から「えーっ!」という声が挙がったこともある。まるで落語の演目のように定番となっているネタも多く、1994年にファンクラブ会員向けにオールリクエスト・コンサートを行った際には、歌だけでなくどのネタを喋るかまでリクエストで決めるという、普通の歌手ではあり得ないようなことまで行われた。
このため、ほとんどのライブ・アルバムでは「トーク」までノーカットで収録されており、さらには「トーク」単体で音源や本としてリリースされているほどである。
1994年から1997年にかけて『ステージ・トーク・ライブ 噺歌集』としてトーク(+インストゥルメンタル)のCD集が発売されたほか、2006年には『さだまさし トークベスト』というトークだけのベストアルバムまでリリースされ、「本業である歌のCDより売れている」(本人談)。コンサートでトークをするようになったのは、自身を嫌っているかのように見えた最前列の観客が話をしたときに笑ってくれ、嫌われていなかったとほっとしたことがきっかけだという。自身のトークはコンサートにおける必需品ではないが、アイスクリーム(歌)をおいしく食べるためのウエハース(トーク)という意味で「アイスクリーム屋のウエハース」だと喩えている。
また、その喋りの才能は、ラジオの深夜放送(文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』1981年~1994年)のパーソナリティとしても遺憾なく発揮された。2006年の元日には『セイ!ヤング』時代の雰囲気をテレビで再現した『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』なる生番組をNHK総合テレビで担当した。放送時間は2時間強だったが、番組内で歌われた歌はたった3曲で、ほとんどの時間をトークで進め、裏番組の番組名を読み上げたり、NHK紅白歌合戦を暗に批判するなどした。
また同年5月6日深夜には同じコンセプトで『横浜から突然生放送! 大型連休もさだまさし』を同じくNHK総合テレビで放送したが、こちらは1時間の番組内で歌ったのは実質的に唱歌「故郷」1曲のみであった。どちらの番組もやはり自虐ネタとして「低予算」を前面に押し出していた。以降も多くの生放送番組が放送されている。これらの番組に関しては「今夜も生でさだまさし」を参照。
内容はこの歌もあの歌も売れなかったといった自虐ネタが多い。自らが企画した映画『長江』がヒットしたものの予算オーバーで多額の借金を作りコンサートで返済するようになって以降髪の毛が薄くなっていることも恰好の題材であり、「谷村新司、さだまさし、松山千春は『フォーク界御三毛』」などと話す。NHKの『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』へゲスト出演した、スキマスイッチの常田真太郎(アフロヘアーがトレードマーク)が「そろそろ(アフロを)やめたい」と漏らした際にも「やれる時にやっておけ。いつまでもあると思うな親と髪!」と話した。
2005年6月9日にフジテレビで放送された『北野タレント名鑑』にて、「絶対に出ないだろう」という司会のビートたけしの声に反して、ノーギャラで嬉々として出演を了承するが、オヤジギャグを連発した上、最後まで顔が映らないまま番組が終了してしまう。だがこれで、逆にさだのトークの面白さを再認識させるとなった。宇多田ヒカルはこの番組を見てさだに興味を持ち、それが元になって、さだは喋りだけで音楽番組『HEY!HEY!HEY!』(フジテレビ系)へ出演している。
小説家として[編集]
小説のデビュー作はグレープ解散時期に出版した『本-人の縁とは不思議なもので…』(1976年3月、八曜社)収録の「超人達のコーヒーブレイク」である。その後ファンクラブ会報『まさしんぐworld』に「泣いた赤鬼」、「出雲路」などを連載する(その後「さまざまな季節に」(1981年11月、文藝春秋)に収録。)。
2001年、テレビ朝日で放送されていた『ほんパラ!関口堂書店』の番組企画をきっかけに、幻冬舎社長見城徹の指導のもと、自伝的小説『精霊流し』を刊行し、ベストセラーになった。2002年には短編小説集『解夏(げげ)』を刊行した。
『精霊流し』はNHK・夜の連続ドラマとして2002年にドラマ化(『精霊流し〜あなたを忘れない〜』)、2003年に映画化もなされた。『解夏』は映画化(2004年)され、さらにフジテレビ系ドラマ『愛し君へ』(2004年)の原作となった。
2004年には、第3作『眉山(びざん)』を発表。NHK-FMでラジオドラマ化され、漫画雑誌のシルキーでコミック化された。2007年には東宝制作で、犬童一心監督により映画化された。
なお、さだは『精霊流し』以前にもアルバム『ADVANTAGE』と『自分症候群』に曲のタイトルを題材にした短編小説を歌詩カードに掲載している(後に新潮文庫から『自分症候群』として出版)。
また、童話作家としても活動しており、自身の体験を基にした数冊の絵本を出している。コンサートのMCでもお馴染みの噺である、2作目の『おばあちゃんのおにぎり』は歌手として初めてひろすけ童話賞を受賞した。
さらにエッセイも数多く、毎日新聞や新潮社の雑誌『旅』(完了)、ダイヤモンド社の雑誌『TV Station』などへの連載も行っている。
ファンクラブの会報にも毎回さだの短編が掲載されている。読み切り形式でジャンルは不定。
人物[編集]
詩へのこだわり[編集]
アルバムのクレジットなどでは、「作詞」ではなく「作詩」と表記されている[3]。
さだの詩へのこだわりは、保有する長崎県長崎市(旧琴海町)の大村湾内にある「寺島」と呼ばれていた小さな島が、1995年4月1日にさだの意向で詩島(うたじま)と改名されたことにも表れる。島には「飛梅」という曲の舞台ともなった太宰府天満宮から勧請した「詩島天満宮」がある。
スポーツの応援[編集]
プロ野球では、長嶋茂雄監督が1980年に解任されるまで読売ジャイアンツファンだったが、その後は東京ヤクルトスワローズファンとなった。ヤクルトの初代オーナー・松園尚巳が長崎県出身だったのが理由である。ヤクルト優勝時に同ナインが『さだまさしのセイ!ヤング』に電話出演したこともあり、元選手兼任監督の古田敦也とは毎年一緒に酒を飲む仲だという。また神宮外苑を舞台にした曲『絵画館』の歌詞には「スワローズのユニフォーム」というフレーズがある。「今夜も生でさだまさし」でも直前のスワローズの試合結果によく言及している。その他、福岡ソフトバンクホークスも九州出身者として毎日新聞連載のコラムで「わがホークス」と表現しており、北海道日本ハムファイターズファンが試合中に「北の国から」を大合唱しているのを聴いて、思わず心が揺れたとも発言している。親交のある栗山英樹監督の要請で、2013年の北海道日本ファムファイターズ本拠地開幕戦にゲスト参加。「北の国から」を観客と共に歌い、国歌斉唱も行った。
浦和レッドダイヤモンズファンでもあり、1995年には「浦和花色木綿」というサポーターズクラブを結成。浦和レッズ発行のハンドブックには2008年版までオフィシャルサポーターズクラブ代表者として掲載されていた。かつてのバックメンバー坂元昭二も浦和サポーターである。自身のラジオ番組『有限会社 さだまさし大世界社』で、地元・長崎市が三菱重工等の企業城下町であり、前身の三菱重工業サッカー部以来のファンと公言している。
また1991年から2010年まで使用された競艇のSG・G1・一般競走の優勝戦のファンファーレはさだが作曲したものであった。
飲食店の経営[編集]
1980年代の前半に東京地下鉄・赤坂見附駅付近(地下)に「さすらひの自由飛行館」というカフェを経営していた。
- 店先(地上)にはケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダースのパロディで、さだまさし自身の立像が据えられていた。
- 地下に降りて行くとドアがあるが、そこはダミーのドアで、まごついていると横のところが開くようになっていた。
- 壁には音響装置があり、ヘッドフォンでさだまさしの曲を聴くことができた。
- トイレの壁には「便訓」という張り紙が貼ってあった。
- メニューには「あみんセット」(パンプキンパイ・シナモンティー・バラの形の角砂糖)や、アルバム『うつろひ』収録の「分岐点」にちなんだ「分岐点セット」(ミートパイとソーダ水)があった。
この他、渋谷に「モンペトクワ」というレストランを友人と共同所有していた(2004年9月末で閉店。西村知美の夫である西尾拓美が店長をしていた)。また、現在でも五反田にバー「MONPETQUOI'S BAR」と「モンペトクワ ごはん屋」が、故郷長崎市に「自由飛行館」がある。
フォントマニア[編集]
2009年12月4日放送の「スタジオパークからこんにちは」で、パソコンに様々な有料フォントを買って入れていると発言した。更に近年パソコンで歌詞を書く事も多く、歌詞のフォントをその歌の雰囲気に合うフォントで書いているとも語った。実際にさだが使用しているアップルのMacBook(型式は不明)がスタジオに持ち込まれていて、先述した歌詞のフォントをその歌の雰囲気に合うフォントで書いているを実演した。多数のフォントを買って入れていると語った通り、ワープロソフトのフォント一覧に多数のフォント名が表示されていた。
また、フォントが(読む人に対して)冷たすぎると感じているため、取扱説明書が嫌いであるとも語っている。
人気・評価[編集]
ファンクラブ「まさしんぐWORLD」の会員数は、現在約25,000人。未だにコンサートの観客動員力は高く、チケットが発売後すぐに売切れてしまうことも多い(実際に、武道館で3333回記念コンサートを行った時は2日間分が9分で売り切れた)。東京・大阪などの大都市圏で行われるコンサートの場合は、ファンクラブの会員でも1人2枚しか先行予約できないことも多い。
2004年に長崎市栄誉市民となった。存命中の人物に贈られたのはさだが初めてである。NHKが行った「紅白歌合戦出場歌手に関する世論調査」では15位にランクインした。2005年のNHK紅白歌合戦で歌ってほしい歌のアンケート(スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜)でも「関白宣言」が男性歌手の中で82位になった。
交友関係[編集]
ミュージシャン[編集]
- 谷村新司
- さだ曰く「フォーク界御三毛(ごさんけ)」の長兄。日本武道館でジョイント・コンサートを行ったこともある。
- 南こうせつ
- 『ミュージックフェア』などで共演する機会も多い先輩。イベントなどで共演する度に「神田川」の前奏・間奏のヴァイオリン演奏を依頼され、そのたびにさだが「精霊流し」のイントロをわざと間違えて弾く、というギャグをかましている。
- 小田和正
- グレープ時代、北海道でオフコース(小田・鈴木二人体制時代)とのジョイント・コンサートを行ったこともあるほか、「佐世保」では小田がバックコーラスを務めている。また、2007年12月には小田が毎年出演している特番『クリスマスの約束』にさだが出演し、2人で共同制作した楽曲『たとえば』を披露した。
- 松山千春
- 「フォーク界御三毛」のもう一人。コンサートなどではお互いに親しいがゆえの悪口を言い合って会場を盛り上げたりしていた。過去さだが松山の実家に遊びに行ったこともある仲だったが現在は疎遠になっている。『夜のヒットスタジオ』の最終回では各々がコンサート先の系列局から中継で顔を出し、例の如く漫才のような罵倒合戦を展。、司会の古舘伊知郎に「往年の(『笑点』における)小円遊と歌丸のようです」と揶揄され、出演者の笑いを誘った。
- 中島みゆき
- 1970年代以来の友人。「みゆき」「まさし」と呼ぶ間柄で、『今夜も生でさだまさし』でも度々さだが名前を出している。「あの人に似ている」を共作しているが、この曲は男の歌(さだ担当)・女の歌(中島担当)がそれぞれ同じコード進行の別メロディーで進行し、サビで一緒になるという複雑な構成になっている。これは、当初さだ・中島で作詞・作曲のどちらかをそれぞれ分担するというオファーになっていたものを、さだが「せっかく中島みゆきとやるのだから」と中島に提案し、あえて複雑にしたものである。その後、中島の要請で2人でのセルフ・カヴァーが実現し、中島のアルバム『おとぎばなし-Fairy Ring-』に収録されている。この時のインタビューではお互いに「ファンだ」と言い合っていた。また、妹の玲子のデビュー曲「くらやみ乙女」は中島が提供している。
- 森山良子
- 森山直太朗
- 森山良子はグレープ時代の「掌」やソロデビュー後の「セロ弾きのゴーシュ」「秋桜」をカヴァーしている。息子の直太朗とは会報誌でさだとの対談が行われる等の親交がある。さだが原作を手掛ける『解夏』のドラマ版『愛し君へ』の主題歌を担当したことから互いのライブ等に行くようになる。多くのライブ本数をこなすさだを尊敬しており、自身もライブこそが最大のコミュニケーションと活動の場をステージに置く事を大切にしている。
- 岡村孝子
- さだに憧れシンガーソングライターとなる。自身のユニットあみんの名称も、『夢供養』収録の「パンプキン・パイとシナモン・ティー」に登場する喫茶店の名前から採った。2005年にはNHKの音楽番組『夢・音楽館』で共演し、岡村の「銀色の少女」ではさだが詩を提供した。なお、岡村との共演が2007年のあみん再結成のきっかけとなった。
- 小林幸子
- 芸能界では先輩だが、さだを「お兄ちゃん」と慕っている。さだも「約束」と「茨の木」を提供している。
- 加山雄三
- 中学時代、初めて歌を作るきっかけを作った人物(後述)。さだの憧れの人物の一人である。『夏・長崎から』などコンサートでも度々共演している。
- 平原綾香
- 父親の平原まことが何度かさだのバックメンバーとしてコンサートやレコーディングに参加しており、親子で親交があり、綾香自身もさだのファンだと公言している。「秋桜」「ひまわり」をカヴァーしているほか[4]、2006年正月のNHK『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』や最後の『夏・長崎から』にもゲスト出演した。
- BEGIN
- 『夏・長崎から』に2度ゲスト出演。『長崎から』に影響され、2001年から故郷・沖縄で『うたの日コンサート(後にカーニバル)」を行い、さだもゲスト出演した。
- 岩崎宏美
- 自ら「まさし教信者」と公言する程のファンで、「まさし」「宏美」と呼び合いファンクラブ向けの「まさしんぐWORLDコンサート」にゲスト出演するなど親交も深い。岩崎の2012年のアルバム『Dear Friends VI』は全曲さだの曲のカヴァーで構成されている。
- 福山雅治
- 同郷の後輩。さだに対し敬意を払い、福山が言及する際はほぼ必ず「偉大なる」と前置きする。「秋桜」をカバーしたほか、自身のラジオ番組で「雨やどり」をかけ「好きでよく歌うのだが、歌うと泣いてしまう」と語った。他にも「関白宣言」「精霊流し」などをラジオのBGMとして使用している。
アレンジャー・バックメンバーなど[編集]
- 佐田玲子(妹)
- 佐田大陸(息子)2007年のアルバム『Mist』で初共演。
- 吉田政美(元グレープ)
- 石川鷹彦
- 倉田信雄
- 木村誠
- 三沢またろう
- 松原正樹
- 坂元昭二
- 宅間久善
- 旭孝
- 徳沢青弦
- 佐渡裕
- 渡辺俊幸
- 服部克久
- 服部隆之
- 福田郁次郎
- 山本直純
- チキンガーリックステーキ
- 紺野紗衣
- 平原まこと
- ジミー・ハスケル
- 井上知幸
- 住吉昇
その他[編集]
- 倉本聰
- 公私共に仲が良く、お互い「先生」「まさし」と呼び合う仲である。さだは倉本が脚本を手がけた人気ドラマ『北の国から』の主題歌「北の国から〜遥かなる大地より〜」を作曲している。また、倉本が骨折した際、さだはライブツアー中で見舞いにも行けず、倉本と再会できたのはギプスも外れてほぼ完治に近い状態であった。しかし、ギプスが装着されていた部分の体毛が以前より濃くなっていたことに気がつき、「まさし、おまえ頭を骨折しろ!」と叫んだとのこと。これも、さだが得意とするステージトークでの自虐ネタとして使用していると共に2人の仲の良さを証明しているものである。
- 笑福亭鶴瓶
- 現在は名番組として鶴瓶の代表作となっている『鶴瓶の家族に乾杯』は、NHKからさだまさしに持ち込まれた企画であった。初回はさだがホストで鶴瓶はパートナーであったが、コンサートによる多忙のため、番組の続編を鶴瓶に任せて、現在の形態となっている。このとき、さだは「鶴瓶ちゃんなら」ということで彼に司会をバトンタッチしたほど、お互いに信頼しあっている。なお、主題歌はさだが担当している。鶴瓶自体は『名古屋から生放送』に電話出演した際に、『鶴瓶の家族に乾杯』について「あれ、アンタの番組やないか」と言っており、本来はさだの番組であるべきだと思っているらしい。
- おすぎ
- まだ映画評論家としての地位を確立していなかった頃、おすぎの映画評論に感銘を受けたさだが自らのラジオ番組におすぎの映画評論コーナーをレギュラーで持たせていたことがあり、おすぎとさだの親交も厚い。
- 原田泰治
- 原田が書いた『さだおばさん』をたまたま書店で目にしたことから交流が始まり、ついにはさだが原田の故郷である諏訪に引っ越し、原田の家の近くに自宅を建ててしまったほどの仲である。
- 的場均
- 1990年代初頭の『さだまさしのセイ!ヤング』では競馬予想を展開する度に「的場(が来る)!」と断言していた(ちょうど当時の的場はライスシャワーに騎乗し、数々の重賞レースを制している時期だった)。的場が通算一千勝を達成した際にはさだが作った「ひとりぽっちのダービー」を的場が歌ったCDが作られ、関係者に配布された。
- 宮崎康平
- 元島原鉄道の役員で、「島原の子守唄」の作者、古代史研究家。さだの父雅人の友人であったことから親交があり、さだは幼い頃から「マー坊」と呼ばれていた。宮崎が没した際には、彼の著書『まぼろしの邪馬台国』にちなんだ楽曲「邪馬臺」(アルバム『うつろひ』収録)を制作している。
- 蟹江篤子
- 「精霊流し」ヒットの立役者であり、さだは「蟹江おねぇさん」と呼んで慕っている。名古屋からのさだの生放送番組の際には、スタジオ観覧に来ていた蟹江をさだが発見し、ハガキを読ませてしまうという異例の事態になった。
- 立川談春
- 落語家。上述のように落語好きなさだとは親交が深く、「セイ!ヤング」や2009年のファンクラブ向けコンサートにゲスト出演したこともあるほか、談春の著作『赤めだか』にもさだの名前が出てくる。『さだまさしトリビュート さだのうた』ではさだのトークのネタ「父さんとポチ」を落語の演目としてカヴァーしている。談春は、元々さだのファンである。
- 芸能人の友人も多いが、最も仲が良いのは中学・高校の同級生、そして長崎にいた頃の小学校の同級生であり、今でも2週間おきに会って飲んでいる。とコンサートで話している。さだのコンサートで学生時代の話になるとその時の担任の先生や同級生の名前もファンに教えている。
- 長崎県出身で「財界官房長官」と呼ばれた財界の実力者今里広記・日本精工元会長と知己となり、彼の紹介で谷川徹三、山本健吉、梅原龍三郎といった芸術家・文化人とも交流を持った。特に山本健吉には多大な影響を受けている。
さだまさし研究会(さだ研)[編集]
さだの熱心なファンは全国各地に多く、その特色のひとつとして、各地にファンの集まりである「さだまさし研究会」(略称:さだ研)なるものが数多く結成されていることが挙げられる。かつて原宿・表参道にあったさだまさしの店「A・WEEK(ア・ウィーク)」には全国各地のさだ研の会報が置かれていてそこでの交流があったり、毎夏の『夏 長崎から さだまさし』に幟を持参して参加した各団体が一堂に揃って写真撮影する光景も見られた。
学生サークルの場合は同じ大学のさだファン同士で集まってのサークル設立が多いが、社会人や一部の学生団体には『セイ!ヤング』に投稿した「さだ研を作りたい」旨の葉書が採用されて設立されたものも少なくない。『セイ!ヤング』では一時期、毎週のようにさだ研設立の葉書が読まれて一種のブームが巻き起こったほどである。またパソコン通信やインターネット上に設立されたさだ研もある。
「さだ研」が『セイ!ヤング』でブームになるきっかけは、1990年に450回記念の一環で行われた東大・早稲田大・信州大の3大学対抗のさだにまつわるクイズの大会だった。結果は東大さだ研が圧勝。この番組企画の直後からあちこちで「さだ研を作りましょう」という葉書が番組に飛び込むようになっていった。また番組側やさだ本人も好意的にそれらの葉書を採用し、1992年には550回記念で一般リスナー対象に「さだカルトクイズ大会」が行われることになった。このクイズ大会のために一般のさだファン同士やさだ研内でも「勉強会」や「情報交換」などが行われた。
最盛期には全国に数多くの団体が存在していたが、1994年の『セイ!ヤング』の番組終了とともに団体数は激減している。現在既存の学生系さだ研の多くはすでに解散か、新入生がなかなか入ってこないために上級生のみ、もしくは現役学生がゼロに近いOB・OGのみの「OB・OG会」のような活動になっている。全盛期には「さだ研に入る」ことを目標に大学受験を突破したさだファンも少なからず存在していたが、『セイ!ヤング』の終了と共に学生世代のファン人口が激減したこともあって継続してサークルを運営する世代が育たなくなっており、既存の各団体の現役生は毎年頭を悩ませているという。
社会人系サークルも『セイ!ヤング』終了と同時期に活動停止・解散した団体が多かったが、中には10年以上も地道に活動を続けている団体や、サークルを10年以上続けて別の趣味をメインにしたサークルへの事実上の合併・組織改編を果たしてしまった団体も僅かながらある。
また逆に『セイ!ヤング』等による「全盛期」を知らない団体の中にはインターネットが普及したことによって地元会員以外のメンバーも掲示板などで集い会員を増やしているものもあり、さらにはmixi・インターネットさだ研のようにインターネット上のみで活動し、盛況となっているさだ研もある。早稲田大学さだ研が独自にブログを立ち上げていたり、京都大学さだ研が毎年長崎で配布する会報を会の公式サイト上でPDFファイルで公開している。
1990年リリースのアルバム『夢回帰線II』に収録されている「Song for a friend」の歌詩カードには、「コーラス:南カリフォルニア大学さだまさし研究会合唱部」という架空の団体名が記されている。
大学生活を描いたマンガ『幕張サボテンキャンパス』(みずしな孝之著)」にて、主要登場人物の一人が「さだ研」に加入している。
ディスコグラフィ[編集]
主な著作[編集]
- ステージトーク集『噺歌集』全5巻(文藝春秋)
- ステージトーク集『さだまさし 話のアルバム』(新潮CD文庫)
- 『僕の愛読詩集』(新潮社カセット文庫)井伏鱒二との対談付
- さだまさしのセイ!ヤング(赤本・青本)(音楽之友社)
- エッセイ『本 人の縁とは不思議なもので…』(八曜社) - 初の著作本
- エッセイ『時のほとりで』(新潮文庫)
- エッセイ『さまざまな季節に』(文藝春秋)
- エッセイ『ゆめいくみはっぴい(夢行身発飛)』全3巻(新書館)
- エッセイ『風待煙草』(CBSソニー出版)
- エッセイ『せとぎわの魔術師』(講談社)
- エッセイ『日本が聞こえる』(毎日新聞社)
- エッセイ『まほろばの国で』(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第二弾)
- エッセイ『いつも君の味方』(講談社)
- エッセイ『本気で言いたいことがある』(新潮社)
- エッセイ『美しき日本の面影』(新潮社)
- エッセイ『もう愛の唄なんて詠えない』(ダイヤモンド社)
- エッセイ『まほろばの国で 終章』(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第三弾)
- アルバムライナーノート集『自分症候群』(新潮社)
- 小説『精霊流し』(幻冬舎)
- 小説『解夏』(幻冬舎)
- 小説『眉山』(幻冬舎)
- 小説『茨の木』(幻冬舎)
- 小説『アントキノイノチ』(幻冬舎)
- 小説『かすてぃら 僕と親父の一番長い日』(2012年4月5日、小学館) ISBN 978-4093863292
- 小説『風に立つライオン』(幻冬舎)
- 童話『ふうせんのはか』(くもん出版)
- 童話『おばあちゃんのおにぎり』(くもん出版)
- 童話『23時間57分のひとり旅』(くもん出版)
- 歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ『秋桜』(サンマーク出版)
- 歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ『償い』(サンマーク出版)
- 歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ『親父の一番長い日』(サンマーク出版)
- 歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ『案山子』(サンマーク出版)
- 歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ『奇跡』(サンマーク出版)
- ピクチャーブック『遙かなるクリスマス』(講談社)
- 『落談まさし版三国志英雄伝』(自由書館(絶版)、文藝春秋)
また、1981年にはアルバム『うつろひ』の発売に合わせて、「嫁入新聞」というパロディ新聞を発行している。
出演[編集]
主な映像作品など[編集]
- 映画『翔べイカロスの翼』(主演・音楽、1980年)
- 映画『関白宣言』(原作・出演・主題歌、1980年) - 主演・佐田繁理
- 映画『長江』(監督・主演、1981年)
- 映画『さだおばさん』(原田泰治原作 監督・音楽、1994年) - 「欽ちゃんのシネマジャック」の1本として(アニメ作品)
- 『はらぺこあおむし』(エリック・カールの絵本のアニメ版 日本語版の朗読、2001年)
- 映画『精霊流し』(原作・主題歌、2003年)
- 映画『解夏』(原作・主題歌、2004年)
- 映画『釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった♪♪』 (刑事役、2005年)
- 映画『眉山-びざん-』(原作、2007年)
- 映画『ぼくとママの黄色い自転車』 (主題歌、2009年)
- 映画『アントキノイノチ』 (原作、2011年)
主なラジオ番組出演[編集]
- 文化放送『セイ!ヤング』(グレープ時代)
- 同『さだまさしの全力投球』(1979年9月~1980年3月)
- 同『さだまさしのセイ!ヤング』(1981年10月-1994年3月)
- 同『さだまさしのラジオまっぴるま』(1985年10月7日~1987年4月3日)
- 同『有限会社さだまさし 大世界社』(1994年~1998年)
- 同『さだまさしのゆく世紀くる世紀(笑)」』(1999年~2001年・不定期)
- 同『さだまさしのセイ!ヤング21』(2001・2002年度 月曜担当)
- 同『セイ!ヤング ネクステージ』(2007年4月2日)
- 『さだまさしのトークシアター』(地方局向け番組。1990年代前半に放送)
- JFN『さだまさし 夢回帰線』(1990年代)
- 毎日放送『さだまさしの気まぐれ夜汽車』
- ニッポン放送『さだまさしのサンデーパーク』
- FM NACK5『さだまさし WEEKLY 〜Mist〜』(2007年10月7日~12月30日 )
主なテレビ出演[編集]
- 24時間テレビ 「愛は地球を救う」10(日本テレビ、1987年8月22日)SAVE THE CHILDRENコンサート
- 植木等デラックス(毎日放送、1991年)
- さだまさし音楽工房(NHK教育、1992年)作詞・作曲講座。共演:佐田玲子・服部隆之
- 花王名人劇場「さだまさしとゆかいな仲間」シリーズ(関西テレビ、1980年代中期)
- 愉快にオンステージ(NHK総合、1990年代初頭)ホスト役の一人。
- 徹子の部屋(テレビ朝日)
- フードファイト(日本テレビ 2000年)
- 日曜劇場『末っ子長男姉三人』(TBS、2003年12月21日)本人役で出演。
- さだまさしの見るラジオ・聴くテレビ(NHK-BS2、2001年8月5日・2002年6月5日)「今夜は生でさだまさし」の原型
- 今夜も生でさだまさしシリーズ(NHK総合、2006年~)
- 元日テレビ〜今年は見せますNHK〜(NHK総合、2008年1月1日)
- 元日テレビ〜お便りだけが頼りです〜(NHK総合、2008年1月1日)-『年の初めはさだまさし』とは別番組。タカアンドトシと共演
- 正月テレビ!〜これこそわが町元気魂!〜(NHK総合、2008年1月2日)
- まさしとタカトシのハッピー・モーニング・ショー(NHK総合、2008年1月3日)
- まさしとタカトシのハッピー・ニューイヤー・ショー(NHK総合、2008年1月3日)
- JNN共同制作番組「ふぞろいの魚たち」(長崎放送、2010年2月11日) - 語り
- 鶴瓶の家族に乾杯(NHK総合)
- 前身となる番組はさだと鶴瓶による番組だった。現在の形式になってからも複数回出演し、主題歌も担当している。
- さだまさしドラマスペシャル
- 『夢であいましょう』(NHK総合、2013年8月23日)
NHK紅白歌合戦[編集]
『NHK紅白歌合戦』には1990年から2007年までほぼ毎年出演していた。
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 |
---|---|---|---|---|
1979年(昭和54年)/第30回 | 初 | 関白宣言 | 08/23 | 金沢明子 |
1980年(昭和55年)/第31回 | 2 | 防人の詩 | 08/23 | 五輪真弓 |
1990年(平成2年)/第41回 | 3 | 風に立つライオン | 19/29 | 小林幸子(1) |
1991年(平成3年)/第42回 | 4 | 奇跡~大きな愛のように~(1回目) | 21/28 | テレサ・テン |
1992年(平成4年)/第43回 | 5 | 秋桜(1回目) | 27/28 | 和田アキ子(1) |
1993年(平成5年)/第44回 | 6 | 主人公 | 22/26 | 藤あや子 |
1995年(平成7年)/第46回 | 7 | 精霊流し | 10/25 | 石嶺聡子 |
1996年(平成8年)/第47回 | 8 | 案山子 | 20/25 | 和田アキ子(2) |
1997年(平成9年)/第48回 | 9 | 秋桜(2回目) | 18/25 | 由紀さおり・安田祥子 |
1998年(平成10年)/第49回 | 10 | 北の国から'98 | 19/25 | 由紀さおり・安田祥子 |
1999年(平成11年)/第50回 | 11 | 奇跡~大きな愛のように~(2回目) | 22/27 | 小林幸子(2) |
2000年(平成12年)/第51回 | 12 | 無縁坂 | 09/28 | 長山洋子 |
2001年(平成13年)/第52回 | 13 | きみを忘れない〜タイムカプセル〜 | 25/27 | 川中美幸 |
2002年(平成14年)/第53回 | 14 | 精霊流し(2回目) | 25/27 | 和田アキ子(3) |
2003年(平成15年)/第54回 | 15 | たいせつなひと | 14/30 | ZONE |
2004年(平成16年)/第55回 | 16 | 遥かなるクリスマス | 23/28 | 中島美嘉 |
2005年(平成17年)/第56回 | 17 | 広島の空 | 15/29 | 森山良子 |
2006年(平成18年)/第57回 | 18 | 案山子(2回目) | 19/27 | アンジェラ・アキ |
2007年(平成19年)/第58回 | 19 | Birthday | 15/27 | 坂本冬美 |
CM[編集]
- ダスキン(完了)
- ダスキンのCMにはかなり長期間出演しており、3分間のコント仕立てのCM「ダスキン100番100番劇場」などにも主演している。ダスキンのキャラクターとして定着し、子供達からは一時期「ダスキンのおじさん」と呼ばれるほどだった。
- 常盤薬品工業「パスビタンD」(1992年)
- 『セイ!ヤング』で募ったファンのエキストラをホールに入れて「あなた三昧」を歌うコンサート風のバージョンと、マネージャー廣田泰永とさだとの楽屋での掛け合いの2バージョンがオンエア。
- 長崎俵物(2005年~)ナレーションと音楽(案山子)
- 西日本新聞(2005年~)音楽(愛)
- ソフトバンクモバイル(2009年)
- CM内で「私は犬になりたい¥490」を歌っている。
- サッポロビール「サッポロ クリーミーホワイト」(2010年~)音楽(北の国から2010)
- ナレーターを担当したバージョンもある。
- 日本香堂「青雲クリーン・心のケータイ」(2012年)白秋歌の歌唱
- 3行詩「心のケータイ」募集を兼ねたプロモーションで、CFソングを担当。
受賞[編集]
- 第16回日本レコード大賞 作詩賞(1974年)
- 第19回日本レコード大賞 西条八十賞(1977年)
- 長崎市政協力表彰(1989年)
- 長崎県民栄誉賞(1996年・第2号。ちなみに第1号はサッカー指導者の小嶺忠敏)
- 長崎市栄誉市民(2004年4月、「長崎の魅力を全国に発信し、イメージアップを図ったことへの貢献」が認められる)
- 第48回日本レコード大賞 特別賞(2006年)
役職[編集]
- 長崎ブリックホール名誉館長
- 諏訪市原田泰治美術館名誉館長
- 十津川村観光大使
- カボス大使
- 平城遷都1300年記念事業協会評議員。
脚注[編集]
- ↑ この借金については自身31作目のシングル「建具屋カトーの決心〜儂がジジイになった頃」の中の歌詩にも盛り込まれている。本人は「ガビ山からゴビ砂漠に向かってションベンして、借金して、島の王様で、昔は歌手、と言っても『嘘つけ、このハゲ!』なんか言われてしまうだろう」と述べている。
- ↑ ポール・サイモンについて「人がビートルズを基準に、その比較論で、音楽について評価する時に、僕はビートルズでなしに、彼を基準に、音楽を映してきた気がする。」と述べている(『さだまさし 全一冊』TOKYO-FM出版 P60、元は1980年に書かれた文章)
- ↑ グレープ時代は「作詞」とクレジットしているが、公式デビュー前のEP盤「Grape-1」(「蝉時雨」、「雪の朝」など収録)では「作詩」とクレジットしている。
- ↑ 「おひさま〜大切なあなたへ」など、さだのプロデューサー・渡辺俊幸が関わる平原の楽曲も何曲か存在する。
関連項目[編集]
- グレープ (ユニット)
- クラフト (フォークグループ)
- 佐田繁理(実弟)さだ企画社長、元サッカー選手
- 佐田玲子(実妹)歌手
- 佐田大陸(実子)ヴァイオリニスト(関連:「千の風」・塩谷靖子)
- 佐田詠夢
- チキンガーリックステーキ
- ユーキャン - 所属レコード会社
- 宮崎康平
- 川崎医療福祉大学
- 夏!まだまだ長崎から
- 詩島 - 長崎県長崎市の島。さだまさしが所有している。
- 西伯カントリーパーク野球場
- つんく♂