島田紳助
島田 紳助(しまだ しんすけ、1956年〈昭和31年〉3月24日 - )は、元お笑いタレント、実業家。コンビ時代は紳助・竜介のボケ担当。本名、長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)。京都府京都市南区出身。1974年から2011年8月24日まで吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)に所属していたが、暴力団関係者との交際(詳細後述)を理由に、芸能界から引退した。
目次
プロフィール
自称身長170cm、体重70kg、血液型はAB型。妻は一般人で、3人の娘がいる。
京都市立唐橋小学校・京都市立八条中学校を経て大谷高校卒業、京都学園大学入学であるが、親が入学金を支払った直後に弟子入りしたため通っていない。このことと本人から自身の大学についてのエピソードが語られることもなく、学歴は大学中退である。
吉本興業に属しているが、別に「有限会社オフィス百三十アール」(通称 「130R」)という個人事務所を設けている。事務所の名前は鈴鹿サーキットにあるコーナーの名称に由来している。ちなみに、紳助に弟子入りを申し込んで断られた板尾創路はこの「130R」という名前を気に入り、紳助の了承を得て、「130R」という名前をほんこんと自身のコンビ名にした。
多くの芸能人からは「紳助さん」「紳助師匠」と呼ばれ、同期の明石家さんまと和田アキ子や上岡龍太郎・坂田利夫・笑福亭鶴瓶ら先輩芸人からは「紳助」と呼び捨てにされている。また、『クイズ!ヘキサゴンII』や『人生が変わる1分間の深イイ話』などで作詞家として活動する際の名義は「カシアス島田」である。ただし、紳助本人は「遠い親戚」と主張している。その他にオール巨人(オール阪神・巨人)からは「紳ちゃん」、松本人志(ダウンタウン)からは「紳助兄やん」、自身の妻は「みー君」(本名の公彦から)と呼んでいる。
嫌いなものは高い所と毛虫。苦手な食べ物はトマトジュース、パン、ホルモン。
挨拶や礼儀作法に厳しさを持つ。
2011年3月末まで、京都市特別観光大使。同年8月23日に引退を表明。また、株式会社ディンプスの相談役を、芸能界引退に伴い2011年8月24日付けで引責辞任した。
人物
家族・生活
1995年から約10年間、家族で大阪府能勢町に引越し、著書名を引用すると『「えせ」田舎暮らし』の日々を過ごす。そこでの日々はトークのネタとなっていた。
弟子・相方
元相方の松本竜助について、著書 どこ?に「彼が居たから8年もの間漫才が出来た」と記してある。また竜助に対し「俺は司会者になるために漫才をしている」と話していたとのこと。2004年の傷害事件で謹慎していた頃は、「ずっと竜助が励ましに来ていた」と語っている。2006年3月に竜助が倒れた際には東京での仕事を全てキャンセルして大阪へ駆けつけた。同年4月1日に竜助は亡くなったが、通夜と葬儀には参列しなかった。
政治観
『サンデープロジェクト』や『紳助のサルでもわかるニュース』の出演を機に予習として政治や時事問題について独学で勉強する。この頃から大阪府知事選挙や国政選挙での出馬の可能性についてしばしば報道される。
東国原英夫は、紳助が「俺は政治家じゃなくて、商人だ。豪商の立場から政治家を応援する」と自らに語ったことがあるとし、転身の可能性について否定している[1]。他タレントから政治活動への転身を勧められた際「賄賂でも持って来られたら言下に断れず、お礼を言ってそのまま貰ってしまう」と客観的に自身の性格を分析した。
『サンプロ』降板後、2004年参院選で、民主党から出馬した尾立源幸の選挙運動の応援演説に駆けつけた。尾立はこの選挙でトップ当選を果たした。同時に「民主党候補を支援したのは強力な2大政党制をつくるため。民主党が政権を取ったら今度は自民党を応援する」と語った。投開票日の夜、選挙事務所でABCなどのインタビューで「『サンプロ』をしてきた事への恩返し」と発言。
音楽活動(作詞家・音楽プロデューサーとして)
音楽好きで古くから音楽活動を行っており、音楽関係者とも幅広い交友関係がある。歌手活動の経験もあるが、自身の歌唱力には否定的な発言をしている。作詞家としてのペンネームは「カシアス島田」。
親交のあるアグネス・チャンから「自分の楽曲の作詞をしてほしい」と打診され了承したが、延ばし延ばしになりアグネスのコンサートに間に合わなかった。そればかりかアグネスに提供するつもりで『僕らには翼がある〜大空へ〜』の作詞をしていたところ、「これは『26時間テレビ』だな」と思い、そのまま番組テーマソングに流用した。このことを番組制作発表で堂々公表し、その会見の模様をテレビで偶然見ていたアグネスが、『行列のできる法律相談所』(2010年7月25日放送分のもので、『26時間テレビ』放送終了直後に放送された)でクレームを入れていた。アグネスには後日、『その丘で』という別の楽曲を提供している。 同曲はアグネスの代表曲『ひなげしの花』のアンサーソングであり、ひなげしの花で恋占いした頃を回想し、人生を思う内容で、紳助は「同世代が共感する歌で皆で泣く。人生を確かめ合う気持ちで作った」という。
スポーツ
プロ野球・阪神タイガースファン。その一方で、近鉄バファローズの選手に「目標を達成できなければ、丸坊主にする公約を誓わせたり、千葉ロッテマリーンズの外国人選手が活躍できるかどうか?」予想したりするなど、他球団の選手に関しても公平に接している。「阪神ファンだが、若くて野球の実力があったならば巨人に入る」とも冗談交じりに話している。阪神関係者では掛布雅之や金本知憲と交友がある。1985年に「阪神が優勝したら坊主になります」と公言した(実際この年の阪神は日本一になった)が、板東英二が「仕事の都合上遠慮してください」と言われ、関係者にレトルトうどんを配ったことがある。
2007年の日本シリーズ第5戦において、中日ドラゴンズの落合博満監督(当時)が行った、完全試合目前だった山井大介から岩瀬仁紀への継投(2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投の項も参照)について批判的な見解を2008年1月1日付の『スポーツ報知』に掲載された当時宮崎県知事の東国原英夫との対談内で述べた。
1986年 - 1995年までの10年間、レーシングチーム『チーム・シンスケ』の監督として、鈴鹿8時間耐久ロードレースや全日本ロードレース選手権に参戦した。NHKのスポーツ番組でインタビューが放送されたこともある。1980年代後半はバブル景気の絶頂期であり、モータースポーツ界には各方面のタレントをお飾りで監督に仕立てた(つまりサーキットに来てもレース関係の仕事は何もしない)レーシングチームが2輪・4輪を問わず乱立していたが、紳助は自ら企画書を作成してスポンサー企業を回ったり、レース当日は自分で作戦を立ててライダーやスタッフに指示を出したりし、他のタレント監督とは完全に一線を画していた。その時の活動を書いた著書『風よ、鈴鹿へ』は、小説ではあるがノンフィクションに限りなく近い作品である。また、1991年にはバイクレースをテーマとした映画『風、スローダウン』の監督をつとめている。
自身も高校時代に経験しているためかボクシングに対しての造詣が深く、他のスポーツに比べて世間的にマイナーなイメージがある事を遺憾に思い、先述の亀田一家のパフォーマンスや過去にも辰吉丈一郎の対戦相手を挑発する言動にもボクシングを世間にアピールするための言動と評している。自身もボクシングに対しての敬意があり、当時数度の防衛を行ないながらも格闘技ファン以外にはほとんど認知されていなかった長谷川穂積を自身の番組のゲストで呼び、幾度となく取り上げ、知名度を全国区に広げるなどボクシングと王者に対する敬意は余念がない。現在長谷川とは家族ぐるみで交流がある。また渡辺二郎との交友履歴が長かったが、皮肉にもこれが彼を芸能界引退に導くこととなった。
漫画・アニメ
わたせせいぞうの作画で漫画原作を担当している。だが、本人は子供の頃から漫画を読まず、はまったアニメもないという。そのためアニメのタイアップ曲である風をさがしての作詞を真面目にせず、ファンから酷評された。
経歴
芸能界入りまで
父親が国鉄職員(南満州鉄道の職員歴もある)の家庭に生まれ育つ。「松本紳助」で紳助本人が語ったところによると「鳩みたいに真面目で温厚な性格で、自分が警察に補導されても『話し合いで解決できる』と言って一度も激怒しなかった」とのこと。
中学生の時は学校の窓ガラスを割ったり、教室で盗品を売りさばいたりしており、高校生の頃に車上荒らしで補導されて少年鑑別所に送致された経験がある。10代頃から広島ヤクザ・波谷守之に憧れていたという。少年時代は暴走族であったと語っており、現在も当時の話をしばしばネタにしている。高校のとき教師から叱責されたのを機会に「おもろい不良になろう」と改心(?)する。高校時代のあだ名は、泣きながら熱く語ることから「泣き虫みー君」。高校の三者面談で「公彦君はこの学校のゴミです」と言われたことがあった。また、高校時代に生徒会長に立候補しようとしたところ、教職員一同に「頼むからやめてくれ」と言われたという。後年、芸能界で大成した後に学校へ行くと「君はこの学校の誇りだ」と言われ、それに対して、「ゴミと誇り(埃)やったら変わらへん」と冗談めかして話している。高校時代の担任は宗教の教諭であり、注意するときに叱り付けるのではなく、「インドの偉いお坊さんはな・・・・」と悟られていた。その一方で「大学を出ないと人生のスタートラインに遅れる」と考えていて、勉強はやっていたという。
10代の頃は大場政夫に憧れ、ボクシングジムに通っていた。1973年には京都府高校フライ級1位を獲得(ただし紳助いわく出場者は3人)また、料亭に勤めていたことがあり、将来は寿司屋か競艇の選手か漫才師かと考えていた。
18歳で芸能界入り
18歳の時、B&Bに憧れ、B&Bの師匠である島田洋之介・今喜多代(現・今日喜多代)に弟子入り。同期に明石家さんま、オール巨人、桂小枝などがいる。「島田洋七を倒すことに俺の青春を賭けよう」と誓ったが、「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と当時を振り返っている。
「島田紳助」という芸名の由来は、「島田」は師匠の島田洋之介一門から、「紳助」という名前はいくつかの芸名候補の中から、師匠の島田洋之介が「『紳助』でいいやん」という一言で決まった。(他の芸名の候補に、「洋太」、「洋洋」、「洋福」、「洋慣」、「洋吾」などがあった。本人の談)。
- 紳助本人は数ある芸名候補の中で「けんじ」という芸名にしたいと思っていたが、反対に「紳助」が一番嫌だと思っていたという。理由は、子供の頃に同じ「しんすけ」という名前の友達がおり、その友達があまり良い印象ではなかったためだという。ちなみに、同期の杉本高文に「島田紳助」という芸名が決まった時に「その名前じゃ絶対に売れない」とからかわれ、紳助は落ち込んだが、逆に杉本が「明石家さんま」という芸名をもらったと聞いた時、紳助は「こいつ(芸能人として)終わった」と大笑いしたというエピソードがある。
弟子入りしてから竜介に出会うまでの2年間は別の芸人と2回コンビを組んでいるがどれもまったくうまくいかず、すぐに解散している。この2年間にキャバレーの呼び込みのバイトをしたり、緻密な研究ノートを書いたり、海原千里・万里、夢路いとし・喜味こいし、B&Bらすでにテレビで活躍している漫才コンビのレギュラーの本数の推移のグラフなどを書き、部屋いっぱいに貼っていた。トップホットシアターなどの劇場に通い漫才を生で研究していた。
20歳代
1977年9月にNGKで進行をしていた松本竜介(解散後松本竜助に改名)と漫才コンビ紳助・竜介結成。明石家さんまにコンビを組もうとして断られた結果、さんまが紹介したのが竜介だった。つなぎ作業着風の衣装を着てリーゼント姿の紳助が竜介と絡む芸風は「ツッパリ漫才」と呼ばれ、若い男性を中心に爆発的人気を得る。1980年頃からの漫才ブームでは、関西の雄として一角を担った他、後輩のダウンタウンにも大きな影響を与えた(詳細は紳助・竜介の項目を参照)。
1981年には、井筒和幸監督の映画『ガキ帝国』で竜介とともに映画初主演を果たした。 同年、後に伝説のバラエティ番組となる『オレたちひょうきん族』にコンビ揃ってレギュラー出演。この番組で紳助は、『ザ・ベストテン』のパロディコーナー「ひょうきんベストテン」の司会を務めたり、同期のさんまの恋人役で女装をしてコントを演じたりなど、竜介とのコンビにとらわれない形での出演が増え、紳助個人の才能を見せるようになる。
漫才ブームが次第に沈静化する中、1985年5月、紳助・竜介は解散。その際、「このままではサブロー・シローやダウンタウンには勝てない」と発言した。
30歳代
1987年、『歌のトップテン』で和田アキ子と共に2代目司会を担当。この番組で紳助は和田から司会術を学び、先述の「ひょうきんベストテン」や『ヤングプラザ』、『ヤングおー!おー!』、そしてこの『歌のトップテン』で司会者としての礎を築いた。
40・50代(引退前)は司会者としての活動が中心であり、パネラーとしての出演は滅多になかったが、この頃にはともに『クイズ!!ひらめきパスワード』、『わくわく動物ランド』、『アイ・アイゲーム』には解答者として出演していた。司会者以外で番組出演することは少なく、レギュラー番組では、松本人志との1対1のトーク番組「松本紳助」、ゲスト出演した番組では、『ダウンタウンDX』、『M-1グランプリ』の審査員(1回大会のみ司会兼審査員)などがある。
1988年頃、東京・大田区の羽田空港にて一般の男性を相手に刑事事件になりかねないトラブルを起こしている(この時は紳助竜介の相棒である松本竜介が間に入って止めたため、事なきを得ている)。
1990年代の紳助は、お笑いにとらわれない形での仕事が増えていく。特に1990年に、『サンデープロジェクト』の司会に起用されたことは話題を呼び、2004年まで14年も続く仕事となり、その間にタレントとしてのイメージを大きく変えることになった。 以降、司会者としての出演が増え、司会を務めた共に『EXテレビ』、『嗚呼!バラ色の珍生!!』、『ダウトをさがせ!』、『開運!なんでも鑑定団』などが人気番組となる。特に、1991年秋にはTBS系列の春・秋の名物大型特番『オールスター感謝祭』がスタートし、毎回200人もの芸能人を3〜5時間半の長時間仕切り上げ、司会者としての地位を不動のものにする。
こうした司会業の中で、若手の芸能人や素人の出演者を「いじる」才能が徐々に注目されるようになった。それまでバラエティ番組とは無縁だった歌手や俳優のバラエティ番組との相性を見抜いて自分が司会する番組に出演させることが多く、円広志や高木美保、misonoのように、それをきっかけに人気を上昇させ、活動の幅を広げていく芸能人も多数存在する。
40歳代
2000年代に入ってからはプロデュース業にも進出。『紳助の人間マンダラ』では、吉本興業のお笑いコンビであるランディーズ、ロザン、キングコングの3組によるアイドルユニット「WEST SIDE」をプロデュース。関西圏ではジャニーズ事務所のアイドル達をも凌駕するほどの大人気グループに成長させた。後述の引退後のインタビューの際に、多くのタレントのプロデュースを行った理由について、「自分が出たから、僕が関わった人間が1人でも世に出ればという気持ちがあった」「芸能界で成功するのは1000分の1の可能性くらいであり、そんな中で自分の関わった奴らをなんとか世に出してあげたら、自分も幸せな気持ちになるから」と語った。
2001年には吉本興業から「漫才復活のために知恵を貸してください」と頼まれ、漫才選手権大会(テレビ番組でもある)「M-1グランプリ」を企画。大会委員長として審査員も務めた。笑い飯・ブラックマヨネーズ・チュートリアルなど数多くの若手漫才師を世に送り出す。麒麟・南海キャンディーズなど優勝せずともこの大会をきっかけにブレイクしたコンビも多い。2008年度からは「国民的行事」と呼ばれるほどの注目度と人気が高まった(この年、関西地区での平均視聴率35%以上、瞬間視聴率は40%以上を記録した)。2010年度を以て惜しまれつつ終了したが、紳助は「惜しまれて終わるのが一番良い」と述べている。
2004年10月から2005年1月までの間は傷害事件(詳細後述)により一時、テレビから姿を消していたが、年明けに復帰。
2005年、石垣島に喫茶店「TOMURU(トムル)」をオープン(130R経営)。同年、京都で料理店を営んでいた古塚健一と共同で株式会社はせ川を設立。11月に大阪・東心斎橋に「寿司 はせ川」をオープンし、2007年9月には東京・西麻布にもオープン。その他、大阪・東心斎橋に「しゃぶしゃぶ チョモランマ はせ川」や「京風鉄板 はせ川」、「バー はせ川」などを展開する。
50歳代
2005年10月からの『クイズ!ヘキサゴンII』ではPaboや羞恥心といったユニットをプロデュースし、ブームを巻き起こす。これをきっかけに以降、カシアス島田名義で作詞活動を行なうようになる。
2007年 - 2010年まで国政選挙施行日の選挙特別番組『ZERO×選挙』でメインキャスターを務めた。
2009年6月14日放送分の『MUSIC JAPAN』に「カシアス島田」名義でコメント出演した。なお、NHKへは「おとうさんの時間」(1993年-1994年)のほか、「バラエティ生活笑百科」(1985年)や「私と尾崎豊~マイベストソング」(2003年4月14日)など数番組に出演歴がある。
2009年と2010年、毎年夏に放送されている大型長時間番組/『FNSの日』(2009年は『FNSの日26時間テレビ2009超笑顔パレード 爆笑!お台場合宿!!』/2010年は『FNSの日26時間テレビ2010超笑顔パレード 絆 爆笑!お台場合宿!!』)の総合司会を2年連続で務めた。その中でFNS局対抗企画として2年連続で開催した三輪車12時間耐久レースで大会委員長を務めた。
オリコン調査による「好きな司会者ランキング」では2009年・2010年で2年連続1位を獲得した。一方、 日経BP社刊『日経エンタテインメント!』編集部調査による「お笑い芸人人気調査」において、「嫌いな芸人ランキング」では2011年第1位を獲得した(これまで江頭2:50が9年連続トップに君臨していたが、紳助が江頭のV10を阻んだ。因みに好きな芸人ランキング1位は同期の明石家さんま)。
芸能界引退
2011年8月23日、最後のテレビ出演となった『開運!なんでも鑑定団』の放送終了直後、暴力団関係者との「黒い交際」を理由に引退を宣言し、この日を以って芸能界を引退した(詳細後述)。警察では、深い交際があったのではないかと捜査を進めているが、今のところ裁判で争えるような証拠は出ていない。
傷害事件
2004年10月25日、朝日放送社内にて『クイズ!紳助くん』収録前、勝谷誠彦の女性マネージャー(当時40歳)が、紳助の尊敬する会社の社長や上司を呼捨てにして話すのを聞き、さらにその女性が会社に入ってすでに5年目と知り、その女性を別室に無理やり連れ込み説教をしたが、反省の様子が全くないと腹を立て、拳や物で殴る、髪を掴んで壁に打ちつける、顔に唾を吐きかけるなどの暴行を加え、全治一週間の頸椎ねんざを負わせた。
すぐさま被害者である女性は大阪府警大淀警察署に診断書を提出し、10月28日付で傷害容疑で告訴した。紳助は警察に訴えられたと知ると、同日に吉本興業の東京支社で記者会見を開き、暴行傷害の容疑を認め、テレビカメラの前で「100対0で僕が悪いです」「被害者が芸能界を辞めろと言うならすぐに辞めます」と言って泣きじゃくって反省している様子を見せた。だが、記者からの質問に対してはひたすら「僕が悪い」を繰り返すだけで、質問には全く答えなかった。
これを受けて吉本興業では11月4日まで紳助を謹慎処分とし、期間中のレギュラー番組については、各局ともテロップ(収録した日付など)を挿入して通常通り放送した。ただし、『行列のできる法律相談所』については法律をテーマに扱っているだけにテロップ挿入で放送というわけにはいかず、緊急生放送として事務所の後輩で準レギュラーの東野幸治を代理司会に立てて放送した。
大阪府警大淀署は11月4日、紳助を「加害者」として傷害罪の疑いで書類送検、検察が略式起訴を請求し、大阪簡易裁判所において、「罰金30万円」の略式命令が下され、正式裁判の請求がなされることがなかったため有罪が確定した。
なお、紳助は、当初の11月4日までの芸能活動自粛期間の無期限延期を表明し、11月8日の『キスだけじゃイヤッ!』を最後にブラウン管から一時期姿を消した。被害者からは「芸能界を辞めて」と引退を要求されていたが、わずか2ヶ月程の謹慎の後、2005年1月2日『行列のできる法律相談所』内の生放送にて復帰の挨拶と事件についての謝罪を改めて行って復帰した。先述の東野やダウンタウンらが紳助のレギュラー司会の代理を務め、紳助の復帰まで繋いだ。
被害女性は事件後休職していたが、2006年6月限りで休職期間満了として退職扱いとなった。しかし、同年8月4日には被害女性が加害者の紳助と吉本興業を相手取り、4400万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁判所に起こした。また、仕事ができなくなったのは首の捻挫やPTSDなどが原因であるとして、退職扱いの無効と雇用関係の確認も求めている。賠償請求訴訟は2010年9月21日、原告主張が認められ1045万円の賠償命令が下ったが、退職扱いの無効と雇用関係の確認に関しては原告主張が認められず棄却となった。
書類送検時のメディアの呼称
紳助が書類送検されたことをメディアが報じた際、フジテレビは「島田紳助容疑者」、日本テレビは「島田紳助さん」、NHKは「島田紳助所属タレント」、TBS・テレビ朝日・テレビ東京は「島田紳助司会者」、共同通信社は「島田紳助タレント」、読売新聞・朝日新聞は「島田紳助容疑者」、毎日新聞は「島田紳助(呼び捨て)→島田紳助容疑者」、産経新聞は「島田紳助さん→島田紳助容疑者」、スポーツ新聞各紙(『スポーツニッポン』、『日刊スポーツ』、『スポーツ報知』、『デイリースポーツ』、『サンケイスポーツ』:大阪版)は「島田紳助(呼び捨て)」とそれぞれ呼称が分かれた。
在京キー局で唯一「容疑者」呼称をしたフジテレビは「(逮捕ではなく)書類送検ではあるが、紳助が記者会見で罪を認めたため、容疑者扱いとした」としている。また、フジテレビを含め「容疑者」呼称をしたメディアも「島田紳助(芸名)容疑者」とし、「長谷川公彦(本名)容疑者」とはしなかった。
暴力団関係者との交際と突然の芸能界引退
記者会見
2011年8月23日19時頃、所属する吉本興業から「島田紳助に関する緊急記者会見開催」がマスコミ各社に通知され、同日22時00分より吉本興業東京本部で紳助本人および吉本興業社長の大崎洋などによる記者会見の席にて「本日(=8月23日)付にて島田紳助が芸能界を引退する」という発表が行われた。引退事由は、紳助自身が「暴力団関係者との交際が発覚し、けじめを付けるため」とした。「僕の中では『この程度』なんです。頻繁に密着しているわけではない。『この程度』でも引退になるんだと、後輩に同じ過ちを繰り返させたくない」「自分の中ではセーフと思っていたが、芸能界のルールとしてはアウトだった(指摘されて知った)」「嘘を言っていたら、皆さんの前で腹を切りますよ」と語った。記者会見は50分程続いた。なお、各メディアは紳助の引退の一報を会見後に行った上、テレビ・ラジオで会見の生中継もなかった(吉本興業側からメディア側に通達があったという)。
記者会見では、暴力団関係者の氏名・団体名は非公表とされ、記者団にもそれに関する質問の自粛を求めた。吉本興業側の調べで、2005年6月頃から2007年6月頃までに、ある暴力団関係者とのメールのやりとりを行っているとの情報が寄せられ、8月21日の日本テレビ『24時間テレビ(2011年)』、『行列のできる法律相談所』生放送直後に紳助を呼び事実確認をした結果、事実であることを認め今回の引退に繋がった。吉本興業側は今回の件に関して「法的には問題はないが、芸能界のモラルとして社会的影響力の高いテレビ等に出演しているタレントとしては許されない。社としては厳しい態度で臨むべきだ」と判断した。
同年10月27日放送分のフジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした』内で石橋貴明が、紳助のこの引退会見での発言をパロディして「自分の中ではセーフだと思っていたんですが、50歳にして引退を決意しました」と発言する場面があった。石橋は以前にも、紳助が東京03に対して暴行寸前になった件をパロディ化していた。
その後の報道
会見翌日以降の報道機関の調べで、関係を持っているとされた暴力団関係者は、1人は渡辺二郎(渡辺が暴力団になる以前から親交があった)、もう1人は、山口組ナンバー4・筆頭若頭補佐であると報道された。別の報道で、渡辺は山口組系極心連合会相談役であると報じられている。関西テレビ『紳助の人間マンダラ』担当中の1998年、番組内で行った発言[2]が右翼団体の癪に障り、放送していた関西テレビの本社に頻繁に街宣がかけられ、引退を考えるまでに精神的に追い詰められていた。しかし、渡辺が暴力団関係者にそれを鎮めるよう依頼し、右翼団体の街宣は収まった。以来、それを鎮めた暴力団関係者との交流が始まった。25日には、暴力団関係者に送った手紙や同席写真が、暴力団関係者の警察の家宅捜索の際に見つかっていたことが報道された。
後にはさらに、別の山口組大幹部―山口組のナンバー2と目される弘道会会長・高山清司と見られる人物と肩を寄せ合って写った写真が『FRIDAY』に掲載されるに至っている。紳助は後述のインタビューの際、これらの写真に関して、「自分のミスだった」「昔に撮った写真で存在を忘れていた」と釈明した上、改めて自身が暴力団と深い関係がないことを強調し、その証拠として「もし深い関係があるなら、自分は逮捕されている」と主張している。
2012年1月4日に吉本興業社長の大崎が記者会見を開き、「いつの日か、私達吉本興業に戻ってきてもらえるものだと信じております」「私達は彼の才能を惜しむものであります」「これは吉本興業の全社員、全タレント、全芸人の思いです」と紳助の芸能界復帰を希望する発言を行った。『週刊ポスト』2012年5月25日号によると、この会見翌日、吉本興業には抗議の電話が殺到し、大崎自身にも世間から厳しい批判の目が向けられたという。吉本興業側が紳助の復帰を熱望する理由については、「紳助の抜けた穴が想像以上に大きく、若手芸人で埋めるのは無理だったことに加え、経営状態も決して盤石とは言えず、“稼ぎ頭”に早く戻ってきてほしいという切実なる本音」であると推測している。ただし、大崎の発言以後、週刊誌等のメディアは紳助の芸能界復帰説を書き立てるようになった。2012年春以降は、具体的な復帰プランについて報じる週刊誌なども出ている。
また、2012年1月28日公開の映画・『犬の首輪とコロッケと』で、声のみ出演。
芸能関係者・政界その他各界からのコメント
紳助はダウンタウンの登場が自らに漫才を諦めさせ、紳竜解散を決意するきっかけとなったため、自分が芸能界を辞める際はまず友人関係にある松本人志に話をすると予てから心に決めていた。そのため今回の引退決意に際して紳助は松本に電話及び電子メールにて自身の引退を伝え、それを受け取った松本は「辞めないでください、漫才だけは辞めないでください」と慰留するも紳助の意思は固く、「自分のわがまま、美学を通させてください」と返されたという。また紳助は和田アキ子にも引退を報告しようとしたが、和田が海外旅行中で出なかったため、報告は松本のみになった。和田は帰国後、「弟のように可愛がっていたのに残念」と語った。
ロンドンブーツ1号2号・田村淳は「吉本興業の尊敬する先輩の1人が引退されること、ただただ残念でなりません。僕が司会の仕事をするようになった時に紳助さんの番組を沢山見て、勝手に学ばせてもらってました…中々一緒に仕事をする機会が少なかったですが、まだまだ勉強させてもらいたかったです」と述べた。休養中のナインティナインの岡村隆史に最もコンスタントに連絡をしていた先輩が紳助であり、引退に際しては「常に自分を気にかけてくれた、ただただ熱く後輩想いの良き先輩、戻ってきて欲しい」とコメントした。また、任命されたTHE MANZAI 2011の司会をやり遂げたいと決意を露わにした。
紳助の番組をきっかけにブレイクした、上地雄輔は自身の公式ブログで、「しんすけさんは、誰がなんと言おうと、何を言われようとオイラの父ちゃんです。「お父ちゃん」なんて書いてまた不謹慎て書かれても報道されても、間違いなく大事な大事なオイラの父ちゃんは父ちゃんです。あの人はそんなすごいスーパーマンです。ただオイラはオイラの大好きな人の笑顔と、きれいな涙を何があろうと、守ると決めたらズェッテーに守ります。文句があんならどーかほっといて(;_;)」とコメントした。それ以外にも紳助の番組に出演した芸能人はブログやテレビ番組で引退を惜しむを出した。
明石家さんまは紳助の引退に理解を示し、「帰ってきたって良いんですよ」「引退する気持ちは物凄い分かる。疲れてくるんですよ。いろんなことに。僕も何度もやめようと思った」とコメント。紳助とは同期であり親友の間柄だが本人から連絡は来ず会社からの報告で引退を知ったと語った。また、一番の友達というイメージであろう自分に記者が詰めかけるだろうと予想していたが、1人たりとも取材が来ず落胆したという。本人は紳助に「やめないでくれ」と泣いたり、面白コメントを残す用意をしていたらしく、記者会見まで開くつもりだった。公には「嬉しいわ」「本人とは連絡とっていない。あいつは法律で決まっているかのように大事な話は一切せえへんねんな」「あいつが辞めたことで、仕事が増えるやろ。(引退の真相を)俺が調べてラジオで言うわ」とコメントしている。
一方でビートたけしは自らの暴力団との関わりを語り、過去にトラブル解決の申し出があっても全て断ってきたと紳助との違いを強調した上で、「タレントとしてそういうのを上手くやって逃げるのも本人の“芸”だって言ってるんだけど、紳助は“芸”がなかった」と語った(詳しくは当該記事を参照のこと)。またやしきたかじんは「歯切れが悪い。メールくらいでは吉本は切らない」と記者会見で語られた以上の事実があるのではないかとの見方を示した。大橋巨泉は「カナダで、限られた情報しか手に入らない」「反社会的勢力との交際は、公人としてはまずい」とした上で、「『引退』には反対」「『1年間の謹慎、休養』くらいが妥当ではないのか」「これからが面白いと思っていたのに、残念でならない」と過去に自らが才能を見出した紳助の引退を惜しんだ。
政界その他各界からもコメントが多数寄せられた。『行列のできる法律相談所』への出演から政治家へ転身した者のうち橋下徹は「紳助さんの番組がなければ知事になれなかった」としつつも「暴力団追放の旗振りを僕がしている以上、寛容にはなれない」と述べた。同様に丸山和也は「きれい事で腑に落ちない。響かないワンマンショーだった。」「『どこが悪いんですか』と突っ張って開き直るべきだった。」「そうしないから『他に理由があるのかな』『先手を打ったのかな』と思ってしまう。」「『後輩に示しがつかない』『僕の美学』と、お涙頂戴の世界にするのは逆にカッコ悪い。」と評した。また、内閣官房長官(当時)の枝野幸男は「政府は企業活動からの暴力団排除に向けた取り組みを推進しており、引退はやむを得ない。天才的で国民に広く親しまれていただけに残念」とコメントした。
それ以外には麻生千晶は「番組で人の顔の造作や体型についてまであれこれ言い、“突っ込み”と称する『いじり』と『いじめ』を繰り返していた。そんな彼の手法を真似(まね)する子供も増えたと聞き、彼が女性マネジャーへの傷害事件を起こした後も、各テレビ局の対応は甘く、彼を使い続けたテレビ局や吉本興業にも責任がある」と評した。
他に海外メディアも引退を伝えた。
テレビ各局への影響
紳助の引退で、出演番組の放送についての対応はテレビ局毎に分かれた。共通していることは、引退後に収録された番組でトーク、ナレーターなどで紳助に関連する内容に触れる場合、紳助の実名を伏せて「あの人」「前任者」「大物司会者」などに言い換えて放送した。在京局・在阪局制作の紳助出演番組を購入して放送(再放送含む)するローカル局も該当番組を差し替えるなど対応に追われた。また、岡村隆史や松本人志が紳助を連想させる言葉として、「素敵やん」を用いている。こういった紳助の実名を伏せるなどの自粛について笑福亭鶴瓶がTBS『たけしが鶴瓶に今年中に話しておきたい5~6個のこと』内にて「『紳助』は放送禁止用語何でっか?」とこの件にふれていた。
詳細な情報に関しては、各番組の記事を参照のこと。
- 開運!なんでも鑑定団
- 「番組内容に問題があったわけではない。お宝の鑑定自体が番組のメインで、紳助さんありきの番組ではない」と放送継続を早期に決定。同月27日には、代理司会として先述謹慎時にも起用された今田耕司を起用し9月13日放送分までの3回分が収録された。それ以降の放送での司会進行役は未定とされていたが、2011年9月14日にテレビ東京より今田を後任の正司会者にすることが発表された。
- 行列のできる法律相談所
- 8月最終週分の放送を中止し、代替番組(直前番組『世界の果てまでイッテQ!』の特別編)が放送された。その後、同月29日に番組の存続が日本テレビから発表された。9月以降は司会者を変え、9月4日放送分の代理司会を東野幸治に決定し収録が行われた。その後は東野幸治と宮迫博之後藤輝基(フットボールアワー)が交代で司会を務める。他12月4日は綾部祐二(ピース)が司会を務めた。2012年1月15日のスペシャル・22日は明石家さんまが、3月4日のスペシャルはベッキーが司会を務めた。2012年1月から再放送が再開される。
- 人生が変わる1分間の深イイ話
- 『行列』同様8月最終週は代替番組(直後番組『しゃべくり007』の特別編)が放送され、その後は引き続き羽鳥慎一の司会で放送された。さらに、紳助の番組での肩書きだった「スペシャルコメンテーター」は週代わりゲストで対応して放送を続行すると報じており、実際にその様な体裁で番組が続行されている。
- 紳助社長のプロデュース大作戦!
- 当初は番組内では紳助以外では最高位の役職「部長(司会補佐)」の陣内智則が「社長(司会進行)」に昇格して放送継続するとの報道があったものの、その後9月中の放送休止及び10月以降の放送は未定であるとの発表を経て同年9月7日に、『サンケイスポーツ』のTBSへの取材で、「紳助が企画を立てるという番組の特性上継続はできない」として、番組の打ち切りを認め、同年8月16日放送分を以って終了。また、当時赤坂サカスで開催されていたイベント『夏サカス2011〜笑顔の扉〜』の番組ブースは同年8月28日の会期終了を前に8月24日で閉鎖となった。
- 番組内でのプロジェクトで宮古島に滞在していたノッチ(デンジャラス)夫妻の動向に関しては『中居正広の金曜日のスマたちへ』9月30日分「夫婦波乱万丈」において、放送された。2011年11月1日からはナインティナインを起用した『もてもてナインティナイン』がスタートした。番組内企画の1つであった「お見合い大作戦」もその番組に移して続行している。
- クイズ!ヘキサゴンII
- 引退発表翌日の同年8月24日およびその翌週の8月31日は代替番組が放送された。また、当時開催中であった『お台場合衆国』の番組イベントは同年8月31日の会期終了を前に8月24日を以って中止となった。
- そして同年9月2日にフジテレビから、同月7日は藤本敏史(FUJIWARA)とつるの剛士で、14日は品川祐(品川庄司)と上地雄輔の代理司会で放送することが明かされ、翌3日に収録が行われた。それ以降の放送に関しては、放送の継続に関しても五分五分としていたが、2011年9月14日の『日刊スポーツ』の報道において、『プロデュース大作戦!』と同様に紳助抜きで番組を維持するのが難しいと判断され、9月28日放送の卒業式特番を以って終了した。紳助の冠番組以外で打ち切られた唯一の番組ということにもなった。2011年いっぱいは特番および代替番組を放送し、2012年1月から新番組として代替番組としても数回放送された『おじゃマップ』を開始した。なお、元々発売が決定していた番組発アルバム『WE LOVE ヘキサゴン 2011』は同年11月23日に発売されたが、同アルバム購入者による投票という形式で企画予定していた、ヘキサゴンファミリーによる総選挙(AKB48選抜総選挙のパロディ)は中止となった。
- クイズ!紳助くん
- 2011年8月29日放送分からレポーター集団「なにわ突撃隊」を前面に出し、「熱血!なにわ突撃隊スペシャル」として放送されていた。収録済みだった8月29日・9月5日・9月12日放送分はロケパートのみに編集し、9月19日・26日放送分に関しては名場面集となっている。騒動発生早々に「打ち切り内定第一号」とする報道もあったが、局側は放送継続に関して2011年8月30日時点では検討中としていた。しかしABCは2011年9月20日に打ち切りを正式決定し、特番は9月26日に終了した。後番組には『ナイトinナイト』火曜に放送されていた『ごきげん!ブランニュ』が2011年10月31日から移動して放送されている他、同番組枠は火曜日に移動し、2011年11月1日から雨上がり決死隊が司会を務める『雨上がりのやまとナゼ?しこ』が開始した(前述が裏番組『痛快!明石家電視台』(MBS)の準レギュラーのためである)。
- オールスター感謝祭
- 引退から約1ヶ月後の2011年10月1日に放送が予定されていたが、引退直後は放送自体が一旦白紙となった。その後リレーによる司会で開催することが決定したが、当日の放送まではメンバーを発表せず、その状況を逆手にとって「MC不在で番組最大のピンチ」「新司会者は誰なのか!?」といった番組宣伝CMを流し、当日の事前番組でも島崎和歌子が新司会者について打ち合わせをする模様を放送した。そして、本編の放送内で登場とともに発表され、今田耕司・田村淳・東野幸治が交替で司会を務めた。2012年春からは今田が正式な2代目の総合司会に就任している。
- なお、2011年秋では、今田が紳助とのメールのやりとりについて発言している。また、2012年春では、解答者の爆笑問題・太田光が「島田さんはどうしたんですか?」と今田に尋ね、それに今田が「海外の海でのんびりされております」と答え、他の解答者が拍手するという場面も見られた。
これ以外に紳助が出演予定だった特別番組が多数あったが、いずれも放送中止もしくは代替出演者を立てるなどの対応が行われた。例えば『THE MANZAI 2011』は計画の白紙が一時報じられたものの、その後予定通り開催された。なお、紳助が務める予定だった「大会審査委員長」は代役を置かず空席となった(紳助に代わる番組の顔としてビートたけしが「大会最高顧問」として出演)。
CS放送では『オレたちひょうきん族』の再放送(フジテレビONE)や『クイズ!紳助くん』(スカイ・エー)も終了となった。
引退時点で唯一のCMであり、主に『行列のできる法律相談所』の枠で放送されていた、三浦工業のCMは引退後の24日に放送中止を決定した。
引退以降の本人の動向
2011年10月8日、自身の父親(享年87)が病気により死去。これと前後して自身の次女が初孫を出産した。
『週刊文春』2012年4月26日号(2012年4月19日発売)に、8ヶ月の沈黙を破る形でインタビューが掲載され、紳助は「僕は芸能界に未練はない」「沖縄での隠棲生活は『精神的にギリギリの苦しさ』やった」などと振り返り、最後に「これからは世界を旅したい。人間生きてるだけで幸せだと思う」と語ると同時に、芸能界復帰や政治家転身を否定した。一方、「いつか『テレビに出れる人』になりたい」とも語っており、自身の引退で迷惑をかけた人達(番組スタッフ等)への償いをしたいという気持ちがあるとし、(『行列のできる法律相談所』のスタッフを指して)彼らから「特番やろう」「BS(の番組)やろう」と言われたなら「1回だけやりたい」とも述べている(レギュラー番組を持つなど完全な芸能界復帰は否定)。