大場政夫

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大場 政夫
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基礎データ
本名 大場政夫
通称 永遠のチャンプ
階級 フライ級
身長
リーチ
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1949年10月21日(2024-1949)+((12-10)*100+(18-21)>=0)-1歳)
出生地 東京都墨田区[1]
没年月日 1973年1月25日(1973-1949)+((1-10)*100+(25-21)>=0)-1歳没)
死没地
所属 帝拳
構え 右ボクサータイプ
入場曲
アマチュアボクシング戦績
総試合数
KO・RSC勝
無効試合
獲得メダル
オリンピック 0 0 0
世界選手権 0 0 0
ヨーロッパ選手権 0 0 0
アジア選手権 0 0 0
世界ユース選手権 0 0 0
世界ジュニア選手権 0 0 0
世界女子選手権 0 0 0
0 0 0
獲得タイトル
全日本選手権優勝 0
全日本社会人選手権優勝 0
全日本女子選手権優勝 0
全国高校総体優勝 0
全国高校選抜優勝 0
国民体育大会優勝 0
0
0
0
プロボクシング戦績
総試合数 38
35
KO勝 16
2
1
無効試合
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大場 政夫(おおば まさお、1949年10月21日 – 1973年1月25日)は、東京都墨田区出身の日本のプロボクサーで、WBA世界フライ級タイトルを連続5度防衛。現役世界チャンピオンのまま不慮の事故死を遂げたため、永遠のチャンプと称される。

来歴[編集]

ギャンブル好きの実父の影響で家計は苦しく極貧の環境で育った。しかしプロボクシングファンだった実父の影響で、小学生の頃から「プロボクシングで世界チャンピオンになり、両親のために家を建てよう」と人生の目標を設定していた。

義務教育が修了した直後1965年6月1日、東京・帝拳ジムに入門。担任トレーナーは桑田勇(一時期師弟関係に齟齬をきたし高田茂男が担当していた時期も有った)。入門当初は身長160cm体重48kgとアスパラガスの様に貧弱で周りからはプロボクサー向きかどうか疑問視されていた。

1966年11月、プロデビュー。新人王戦にエントリーしたが東日本の予選で引き分け敗者扱いに終わった。

1970年10月22日、世界初挑戦でベルクレック・チャルバンチャイタイ王国の旗 タイ)を13回KOに降し、WBA世界フライ級タイトル獲得。 1971年4月1日、ベツリオ・ゴンサレスベネズエラの旗 ベネズエラ)を15回判定で降し初防衛。同年10月23日、フェルナンド・カバネラフィリピンの旗 フィリピン)を15回判定で降し2度目の防衛。翌1972年3月4日、花形進横浜協栄)を15回判定で降し3度目の防衛。同年6月20日、オルランド・アモレスパナマの旗 パナマ)を5回KOに降し4度目の防衛に成功した。

ラストファイト[編集]

1973年1月2日、日大講堂で行われた5度目の防衛戦の相手は「稲妻小僧」の異名を持つベテラン、チャチャイ・チオノイFlag of Thailand.svg タイ王国)だった。初回、いきなりの右ロング・フックをまともに受け、ダウンを奪われた。この時に右足首を捻挫し、以降はラウンド間に氷で冷やしつつ、足を引きずりながら打ち合いに応じた。大場は、強気のボクシングで試合中盤から形勢を逆転し、ついに最終12回、チャチャイから1度目のダウンを奪う。タイの老雄はレフェリーに促されるように立ち上がったが、鬼気迫る表情の大場の連打に晒され2度、3度とダウン。大場は逆転ノックアウトで12回KO勝利を収め、5度目の防衛に成功した。

悲劇の最期[編集]

チャチャイ・チオノイ戦から3週間が経過した1973年1月25日、大場は帝拳ジムへ向かうべく愛車シボレー・コルベットを運転していた。そして新宿区新小川町3丁目の首都高速道路大曲カーブ中央分離帯を乗り越え、対向車線から走ってきたトラックと衝突。この事故で現役世界チャンピオンのまま23歳というあまりにも短い生涯を終えた。大場の腕時計の針はこの事故により午前10時42分で止まっていた。享年?? 。

エピソード[編集]

  • プロデビュー前、林家三平CMでおなじみだったアメヤ横丁の有名な菓子問屋「二木の菓子」に勤めていた。
  • プロデビュー後、まだ無名だった時に『朝日ジャーナル』の「殴られる青春」という特集記事に登場している。
  • 世界チャンピオンになる前にフライ級日本チャンピオン(スピーディー早瀬)、東洋チャンピオン(中村剛)、世界チャンピオン(バーナベ・ピラカンボFlag of the Philippines.svg フィリピン)と対戦し、勝利したがいずれもノンタイトル戦であった。
  • 身長168㎝ リーチ170㎝と当時のフライ級では破格の体格を生かしたスピーディーでスタイリッシュなアウトボクサーだったが、その体格ゆえ常に減量苦を強いられていた。しかし強靭な精神力で試合の度に減量苦を乗り越え続けていた。
  • チャチャイ・チオノイ後、大場の減量が苦しくなって来たのを知っていた帝拳ジム関係者は、チャチャイ戦の後、大場の次戦の予定を組まず、暫く休養させることとし、時期を見計らって大場が保持していたWBA世界フライ級タイトルを返上した後、バンタム級に転向させて、ファイティング原田に次ぐ当時としては史上二人目となるはずの2階級制覇を狙って当時WBA世界バンタム級チャンピオンであったルーベン・オリバレスメキシコの旗 メキシコ)に挑戦させることを検討し始めていたという(尚、当時のボクシング界には現在のようにスーパーフライ級というクラスは存在していなかった)。
  • 島田紳助も少年時代、大場に熱烈に憧れボクシング習っていた。
  • 西田ひかるの痛快人間伝 -Dashing life story-』(1992年4月2日放映、NHK総合テレビジョン)や、日本テレビ放送網の『知ってるつもり』(1998年3月1日放映)でも大場の生涯が取り上げられた。
  • ソウは、大場を尊敬しており、リングネームの大場綜の大場は大場政夫から苗字を借りたものである。

脚注[編集]

  1. ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年

関連記事[編集]

外部リンク[編集]

前チャンピオン
ベルクレック・チャルバンチャイ
第25代WBA世界フライ級チャンピオン

1970年10月22日 – 1973年1月25日(返上)

空位
次タイトルホルダー
チャチャイ・チオノイ