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第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)は、1939年から1945年にかけて連合国と枢軸国の二つの陣営で行われた人類史上二度目の世界大戦。主な戦場はヨーロッパ戦線とアジア・太平洋戦線の二つ。戦争は連合国の勝利で終わった。第二次大戦ともいい、今日の日本では単に「戦後」といった場合、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)より後を指すことが多い。両陣営合わせて数千万人の死者を出した他、動員された人数、戦費、戦場の規模など、現在に至るまで人類史上最大の戦争である。ソビエト連邦とアメリカ合衆国は、第二次世界大戦から世界を指導する超大国となる。このことは後に45年続いた冷戦の構図をもたらした。国際連合の設立にはそのような対立を防ぐ期待があった。第二次世界大戦から生れた民族自決はその後のアジアとアフリカにおける脱植民地化の動きを加速し、一方西ヨーロッパでは統一への動きが始まる。
概要[編集]
日本、ドイツ、イタリアなどによって構成される枢軸国と、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国などが構成する連合国の間の戦争。
ヨーロッパでは、1939年8月23日に秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結され、同年9月1日早朝 (CEST) 、ナチス・ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦布告した事により開始された。9月17日にはソ連軍が東からポーランドへ侵攻し、ポーランドは独ソ両国により独ソ不可侵条約に基づいて分割・占領された。さらにソ連はバルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻して冬戦争を起こし、この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも[1]1940年3月にはフィンランドから領土を割譲させた。バルト三国にはソ連はまず軍隊を駐留させ、1940年6月には40万以上の大軍で侵攻。8月にはバルト三国を併合した。
ドイツ軍は1940年5月10日からヨーロッパ西部へ侵攻を開始。同年6月からイタリアが参戦。6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月からドイツ空軍の爆撃機・戦闘機がイギリス本土空爆(バトル・オブ・ブリテン)を開始。イギリス空軍戦闘機隊と激しい空中戦となる。その結果、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵入し、独ソ戦が始まった。それ以降、ソ連は連合国側に立って参戦する事となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。
アジアでは、1937年7月7日の蘆溝橋事件以降、日中間の戦争状態が続いていた。日本は阿部信行内閣当時、ヨーロッパの戦争への不介入方針を掲げたが、同内閣総辞職後、松岡洋右ら親独派が中心に1940年9月、日独伊三国軍事同盟を締結し、枢軸国側に立つ事になった。1941年12月8日(JST)、日本海軍機がハワイの真珠湾を攻撃した事で、日本とアメリカ合衆国が参戦。12月9日には中華民国が宣戦布告し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。さらに12月11日にはドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告。戦争は世界的規模で戦われるようになった。
1942年中盤までは、枢軸国が有利だった。ドイツ軍はヨーロッパの大半及び北アフリカの一部を占領。大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃していた。日本軍も東南アジアから中部大平洋の島々を広範囲に占領し、日本海軍機動部隊はインド洋でも交戦した。しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍がアメリカ海軍に敗北。1943年2月にはスターリングラードでドイツ第6軍が敗北。以降は連合国側が優勢に転じ、同年5月、北アフリカのドイツ・イタリア両軍が敗北。7月にはイタリアが連合国に降伏。アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。さらに1944年6月、フランスに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を強めていった。
太平洋では日本は占領していた島々をアメリカ軍に攻撃され、1944年7月にはマリアナ諸島のサイパン島がアメリカ軍に占領された。これにより、日本本土の大半はアメリカ軍の新型戦略爆撃機B-29の行動範囲内に含まれ、首都東京は同年11月から空襲の被害を受けるようになった。
1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻。同年4月30日、ナチスの指導者アドルフ・ヒトラーの自殺。5月2日のソ連軍によるベルリン占領を経て5月8日、ドイツが連合国に降伏。日本はその後も戦い続けたが、同年6月にはアメリカ軍は沖縄を占領。8月6日に広島、8月9日には長崎に原子爆弾がB-29から投下された。さらに同日、ソ連が日ソ中立条約を破棄して参戦。中国北東部・満州や朝鮮半島北部、南樺太へ侵攻してきた。日本は1945年8月15日に降伏。日本の降伏をもって第二次世界大戦は終結した。
参戦国[編集]
枢軸国の中核となったのはナチス・ドイツ、大日本帝国、イタリア王国の3か国、連合国の中核となったのはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国の5か国である。大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。
背景[編集]
ヴェルサイユ体制と世界恐慌[編集]
1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日同条約が発効。ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは領土の一部を喪失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロヴァキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、ドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。1923年1月11日、フランスが賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行し、ドイツでは社会不安が引き起こされ、ハイパーインフレーションが発生。マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落した。
アメリカ合衆国は、1920年代にはイギリスに代わって世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかし1929年秋、アメリカ経済は生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合して同年10月24日、株価が大暴落。ヨーロッパに飛び火して世界恐慌へと発展した。英仏両国はその対策としてブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかし、広大な植民地市場や豊富な資源を持たないドイツやイタリアではこのような解決策は不可能だった。両国の国民は絶望感と被害者意識をつのらせ、ファシズム、ナチズムの運動が勢力を得る下地が形作られた[2]。
ファシズムの台頭[編集]
イタリアにおいて、ファシズムの政治体制が最初に形成された。第一次世界大戦後、経済が悪化し政情不安に陥っていたイタリアでは、1922年10月28日、ファシスト党党首ベニート・ムッソリーニがローマ進軍を行い、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の協力もあって権力を獲得した。1925年、議会制民主主義を潰し、1935年10月、エチオピア侵略を進め、それが元で1937年12月11に国際連盟を脱退した。
ドイツでは1933年1月30日、ヴェルサイユ体制打破とナチズムを掲げるアドルフ・ヒトラーが首相に就任。翌1934年8月2日、ヒンデンブルグ大統領が死去すると総統に就任。独裁的権力を掌握した。ヒトラーは経済的には軍備増強と公共事業により総需要を喚起し世界恐慌を克服した。国際関係では、1933年10月19日国際連盟を脱退。1935年3月16日、ヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備を宣言。1936年3月にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させた。同年10月、イタリアとの間に「ベルリン・ローマ枢軸」の協定が結ばれ、同年11月25日には日本と日独防共協定を結び、翌1937年11月にはイタリアがその協定に参加。その後、これら3国の関係は日独伊三国軍事同盟へと発展してゆく。
日本は米英との協調外交を指向していたが、満洲、内モンゴル(満蒙)の支配権を巡り次第に対立するようになる。日本は昭和金融恐慌以後の苦境からの脱出を図り、円ブロック形成・拡大するため大陸進出を推進した。1931年9月18日、関東軍の謀略による柳条湖事件を契機に満州事変が勃発し、1932年3月1日、日本の傀儡政権満州国を樹立した。それが元で1933年3月27日には国際連盟を脱退。満洲事変後の1933年5月31日、日本は中国と停戦協定を結ぶが、1937年7月7日、北京郊外で盧溝橋事件が発生し日中戦争(日華事変)が勃発した。米英は日本の行動に反発し、日本は次第にナチス・ドイツへの接近を強めていった。
宥和政策とポーランド問題[編集]
第一次世界大戦で受けた膨大な損害への反動から、英仏両国は戦争忌避と平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義及びソビエト連邦をけん制する役割をナチス・ドイツに期待し、彼らの軍備拡張政策に対し宥和政策を取っていた。ヒトラーは、周辺各国におけるドイツ系住民の処遇問題に対して民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。
1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。 次いでヒトラーは、チェコスロヴァキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協し、ドイツはズデーテン地方を獲得。その後1939年3月15日、ドイツ軍はプラハを占領し、チェコを保護国とした。さらにポーランドがチェコのテシェン地方を、ハンガリーがルテニア地方を獲得し、チェコスロバキアは解体された。
ヒトラーの要求はこれに止まらず、1939年3月22日にはリトアニアからメーメル地方を割譲。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊及び国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求。英仏にとって前年のミュンヘン会談が妥協の限界であり、ヒトラーにとってミュンヘン会談の成功は、更なる要求への一歩でしかなかった。ミュンヘン会談での合意を反故にされた英仏は、宥和政策を捨て1939年年3月31日、ポーランドとの間に軍事援助を約束。ドイツとの対決姿勢をみせることになる。同年4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ヨーロッパに戦争の危機が迫る。そんな中、各国は外交上の駆け引きを展開し、ドイツはソビエト連邦と1939年8月23日、独ソ不可侵条約を締結。反共のナチス・ドイツと共産主義ソビエト連邦は相容れない、と考えていた世界中を驚かせた。
この条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト3国、フィンランド、ルーマニアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを黙認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは武力による問題解決を決断する。1939年9月1日未明、ドイツ軍はポーランドへ侵攻を開始し、9月3日、英仏両国はポーランドとの援助協約に基づきドイツに宣戦布告。ここに第二次世界大戦が勃発した[3]。
経過(欧州・北アフリカ)[編集]
大戦は、1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻したことに始まる。1940年にはドイツが北欧侵攻や日独伊三国軍事同盟で勢いが増し、1941年にはドイツ軍はソビエト連邦に侵攻。同年末には日本とアメリカが参戦してドイツの戦況に影響を与えた。1942年にはドイツ、イタリアの枢軸国は徐々に行き詰まり、1943年には連合国が優勢になり、枢軸国は北アフリカを放棄し、イタリアが降伏。1944年には連合国の勢いが更に増し、枢軸国は次々と降伏。1945年にドイツ軍は総崩れとなり、追い込まれたヒトラーは自殺。ナチス・ドイツは降伏して欧州における戦争は終結した。
1939年[編集]
9月1日未明、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など機動部隊約150万人、5個軍でポーランド侵攻[4]。ドイツ軍は北部軍集団と南部軍集団の2つに分かれ、南北から首都ワルシャワを挟み撃ちにする計画であった。 ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えるが、戦争準備ができておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しく、ドイツ軍戦車部隊とユンカースJu-87急降下爆撃機の連携による電撃戦で殲滅された。ただ、当時のドイツ軍は、まだ実戦経験が乏しく、9月9日のポーランド軍の反撃では思わぬ苦戦を強いられる場面も有った。
ソビエト連邦は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、9月17日、ポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達した。一方、ポーランドとの相互援助協定が有るにも関わらず、イギリスとフランスは、ソ連に対し宣戦布告はしていない。また両国はドイツには宣戦布告したが、救援のためポーランドまで進軍してドイツ軍と交戦はしていない。またヒトラーとしては、以前から宥和政策を実施し、反共産主義という点で利害が一致していた英仏両国が、宣戦布告してくるとは想定していなかった。
国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までに、ポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命した。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。ソ連軍占領地域でもカティンの森事件で25,000人のポーランド人が殺害され、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害又は国外追放された。
ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年の春まで西部戦線に大きな戦闘はおこらなかった事(まやかし戦争)もあり、イギリス国民の間に、「たぶんクリスマスまでには停戦だろう」という、根拠の無い期待が広まった。11月8日にはミュンヘンのビヤホール「ビュルガー・ブロイケラー」で、家具職人ゲオルグ・エルザーによるヒトラー暗殺を狙った爆破事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了したため難を逃れた。なお、国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画も、その後何回か計画されたが、全て失敗に終わる。
ソ連はバルト3国及びフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。しかしフィンランドはソ連による基地使用及びカレリア地方の割譲などの要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日からフィンランドに侵攻(冬戦争)。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。
1940年[編集]
2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始。フィンランド軍防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。 さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコビナ北部に侵入し、領土を割譲させた。
4月、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーに突如侵攻し(北欧侵攻)占領した。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。
5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルグのベネルクス3国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大要塞・マジノ線を迂回。アルデンヌ地方の深い森を突破し、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ナチス・ドイツのフランス侵攻)、フランス/イギリスの連合軍を英仏海峡のダンケルクへ追い詰めた。 一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、ドイツ軍が妨害をしなかったため、約3万人の捕虜と多くの兵器類は放棄したものの、精鋭部隊は撤退させる事に成功。6月4日までにダンケルクから約34万人もの英仏連合軍を救出した。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。
さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日にはパリを放棄。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見てムッソリーニのイタリアも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりに、イギリスとフランスに対し宣戦布告した。6月14日、ドイツ軍は戦禍を受けてないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した。[5]なお、その生涯でほとんど国外へ出ることが無かったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国した。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いる政権ヴィシー政権が樹立される。
一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンスを支援した。[6]
7月3日、イギリス海軍H部隊がフランス植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍艦船を、ドイツ側戦力になることを防ぐ目的で攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月に西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったが失敗に終わった。
西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指し、上陸作戦「アシカ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に対イギリス航空戦「バトル・オブ・ブリテン」を開始するよう指令。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて学童疎開を実施。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。
イギリス空軍は、スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケルHe-111やユンカースJu-88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、やがてロンドンなど、イギリスの諸都市に対して無差別爆撃を行った。メッサーシュミットBf-109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。その後、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にする。
参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ、準備をきちんとせず性急に侵攻したが、11月にはイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるありさまであった。 この年には枢軸国の日本、ドイツ、イタリアが日独伊三国同盟を結んでいる。
1941年[編集]
イギリスはイベリア半島先端の植民地[7]、ジブラルタルと、北アフリカのエジプト・アレキサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海[8]を確保して枢軸国軍に対する反撃を企画していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。
一方ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され。翌年1月6日にはエル・アゲイラまで撤退する。
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国やブルガリア王国などのバルカン半島(バルカン半島の戦い)諸国やギリシアなどエーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった
6月22日、ドイツは不可侵条約を破り、北はフィンランドから南は黒海に至る線から、イタリア、ルーマニア、ハンガリーなど他の枢軸国と共に約300万の軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始。独ソ戦が始まった。ソ連首相スターリンは情報部から、ドイツ軍の動向を繰り返し警告されていたが、それらはイギリスが意図的に流した偽情報と考え、侵攻に備えていなかった。そのため開戦当初、ソ連軍(赤軍)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねる。ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、ソ連政府は約960㎞離れたクイビシェフへ疎開を余儀なくされた。しかし、その頃からドイツ軍は泥まみれの悪路に難儀し、さらに戦線が伸びきって補給に問題が生じ、前進は鈍った。またソ連軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。また、冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。
ポーランドとフィンランド侵攻、バルト3国併合などの理由で、それまでソ連と距離をおいていた連合国側は、独ソ戦開始後、ソ連を連合国に受け入れることを決定。武器供与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の1941年4月13日には日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本政府は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。リヒャルト・ゾルゲなど、日本に送り込んだスパイの情報により、日本の対ソ戦放棄を知ったソ連は、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分け、これがその後、影響を与える事となった。ドイツ軍は厳寒のなか、11月19日、南部のロストフも占領し、モスクワ近郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退した。ナチス・ドイツは開戦以来、かつて無い深刻な敗北を喫した。
12月7日(現地時間)、日本海軍機がハワイを攻撃し太平洋戦争が勃発。それを受けて12月11日、ドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告。アメリカ合衆国が連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実ともに世界大戦となった。
1942年[編集]
東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日から攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からボルガ川西岸のスターリングラード[9]、コーカサス(カフカス)地方の油田地帯を目指す。一方ソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフを占領。8月9日、マイコプ油田を占領した。
ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた。しかし、米英両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定される事になる。
8月23日からスターリングラード攻防戦が開始された。まず空軍機で爆撃し、9月13日から市街地へ向けて攻撃が開始。連日壮絶な市街戦が展開された。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まってゆく。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に枢軸軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35㎞まで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。
北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸軍が、この年の1月20日から再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領。同23日にはエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100㎞のエル・アラメインに達した。しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。10月23日から開始されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。同盟国イタリア軍は終始頼りなく、事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見る事となる。さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、アメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。
政権取得以後、ナチス・ドイツ政府によってドイツ国内、また開戦後の占領地では過酷な恐怖政治が行われていた。秘密国家警察ゲシュタポ、ナチス親衛隊が国民生活を監視し、反政府的言動を厳しく弾圧したので、一般国民がナチス政権に反対する事はあまりに危険であった。この年の1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーで、「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンぜー会議を行った。ワルシャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、この年の7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス室を使って大量殺戮を実行したとされる。大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年にドイツが連合国に降伏する直前まで継続された。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者、政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、数百万人に達すると言われている。
1943年[編集]
1月10日、スターリングラードを包囲したソ連軍は、総攻撃を開始、包囲されたドイツ第6軍は2月2日、10万近い捕虜を出し降伏。歴史的大敗を喫した。勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ、2月15日にはハリコフを奪回する。しかし、3月には、マンシュタイン元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの戦いは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることは無く、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。
北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、独伊枢軸軍はチュニジアのボン岬で包囲された。5月13日、ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し、北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。連合国軍はさらに7月10日、イタリア本土の前哨シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、シチリア島内を侵攻。8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街メッシナを占領した。
連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは、元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵が、7月24日の大評議会で、ファシスト党指導者ベニート・ムッソリーニの戦争指導責任を追及した。この動きにムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チアーノ外務大臣ら、多くのファシスト党閣僚が賛同。孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王エマヌエーレ3世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。
9月3日、イタリア本土上陸も開始された。同日、ムッソリーニの後任、ピエトロ・バドリオ元帥率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。9月8日、連合国はイタリア降伏を発表した。ローマは直ちにドイツ軍に占領され、国王とバドリオ首相ら新政権は、連合軍占領地域の南部ブリンディジへ脱出した。逮捕後、新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソ山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊オットー・スコルツェニー大佐率いる特殊部隊によって救出された。9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ヒトラーの保護下ナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日、ドイツへ宣戦布告した。
イタリア戦線と、その後のヨーロッパ戦線での戦いで、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊第442連隊戦闘団は、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率314%という大きな犠牲を出しながら、アメリカ陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残した。これは戦後、日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献した。
また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地やフランス本国で対独抗戦・レジスタンスを指導した。
さらにこの年、連合国の首脳及び閣僚は1月14日カサブランカ、8月14 - 24日ケベック、10月19 - 30日モスクワ、11月22 - 26日カイロ、11月28 - 12月1日テヘランなど相次いで会議を行なった。今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化する事になった。
1944年[編集]
この年の1月、ソビエト軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月22日からはバグラチオン作戦が行われ、虚を突かれたドイツ中央軍集団は後退。ソ連はほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。 1944年8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連軍の呼びかけによりポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)するが、亡命政府系の武装蜂起であったためソ連軍はこれを救援せず、一方ヒトラーはソ連が救援しないのを見越して徹底鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡して10月2日、蜂起は失敗に終わった。
一方、本格的な反攻のチャンスを伺っていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハウアー将軍指揮の元、北フランスノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして(1940年以降ロンドンにあったフランス亡命政権「自由フランス」の指導者シャルル・ド・ゴール将軍率いる)自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を開始。多数の死傷者を出す激戦の末、上陸を成功させた。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに西部戦線(フランス戦線)が再び構築された。この上陸の2日前、6月4日にはイタリアの首都ローマが解放された。
敗北を重ねるドイツでは、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり1944年7月20日、国内予備軍司令部参謀長伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らによるヒトラー暗殺計画が実行されたが失敗した。疑心に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約7,000人を逮捕させ、約200人を処刑させた。また、北アフリカ戦線の指揮官で国民的英雄でもあるエルヴィン・ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させた上で10月14日、ロンメルは自殺した。[10]
ノルマンディーのドイツ軍は、必至の防戦により何とか連合軍の進出を食い止めていたが、7月25日のコブラ作戦で、ついに戦線は突破され、ファレーズ付近で包囲されたドイツ軍は壊滅的状態になった。8月には連合軍はパリ方面へ進撃を開始。また8月16日には南フランスにも連合軍が上陸している(ドラグーン作戦)。8月25日、自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。その際、ドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物や、市街地は大きな被害を受けることはなかった。フランスが解放された事により、親独ヴィシー政権は崩壊。指導者フィリップ・ペタン将軍は逮捕され、その後死刑判決を受けた。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者」の多くが死刑になり、何人かの者は国外に逃亡した。また女性は頭髪を丸坊主にされるなどの制裁を受けた。
9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一撃でドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアルンヘムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせる事は不可能になった。
またこの頃、ドイツ軍はかねてから開発中だった、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262やジェット爆撃機アラドAr234、同じく世界初の飛行爆弾V1飛行爆弾、次いで世界初の超音速で飛行する弾道ミサイルV2ロケットなど、新兵器を実用化させ、ロンドンやイギリス本土及びヨーロッパ大陸各地の連合軍に対し実戦投入したものの、圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるには至らなかった。
10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした。[11]
その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、ルクセンブルグの森林地帯アルデンヌ地方で、西部戦線における最後の反攻(バルジの戦い)を試みる。ドイツ軍の、少ない戦力ながら綿密に計画された反攻計画が功を奏し、冬の悪天候をついた突然の反撃により、パニックに陥った連合軍を一時的に約130km押し戻した。しかし、連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、体勢を立て直した連合国軍の反撃に遭い後退を余儀なくされる。
なお、この年の7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構について、アメリカ・ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで45か国が参加した会議が行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争によって沢山の海外資産が無くなっていた上に、33億ポンドの債務を抱えていたため清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
1945年[編集]
1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパチア山脈にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュビッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦及び南樺太や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。
西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する。南部では4月20日ニュルンベルク、30日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。
3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発する。しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの地下壕に篭もり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。
4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、ハインリッヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらナチスの要人はそれを祝った。しかしその夜、彼らはベルリンから退去し始めた。4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲(詳細はベルリンの戦い参照)した。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はまともな武器も持たないヒトラー・ユーゲントなど少年兵や老人の志願兵を中心に最後の抵抗を進めていた。
ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが、スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みているニュースがヒトラーのもとに届く。彼はヒムラーの官職の一切を剥奪する。 一方、開戦前からのヒトラーの盟友、(イタリア降伏後はドイツの傀儡状態となっていた)ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。4月28日、愛人のクラレッタ・ペタッチと共に射殺され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。
盟友ムッソリーニが無残にも処刑され、長年共にいた側近の多くが降伏もしくは国内外に逃亡し、追い詰められたヒトラーは、自分の死体を見世物にされたり、宿敵スターリンの手に渡ることを恐れ、4月30日15時30分頃、ベルリンの地下壕内で、前日結婚したエヴァ・ブラウンと共にピストル自殺(毒薬を飲んでとの説もある)。死体は遺言に沿って焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチス党首および遺言執行人にマルティン・ボルマン党総務局長を指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。
連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見された。ユダヤ人絶滅計画をはじめ、ナチスの恐怖政治、ホロコーストの実行過程が明るみに出された。
5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。そのときベルリンの女性の多くがソ連兵に強姦された。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後、その多くは自殺だった(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著白水杜)。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。ドイツ以外でも、ソ連軍は侵攻したポーランド、ユーゴスラビア、オーストリア、ハンガリーでも大規模な暴虐・略奪行為を行い、スイス公使館の報告によると、ハンガリー女性の半数以上が強姦されたという 。
5月7日、ドイツのほとんどが連合軍に占領され、もはやドイツ軍の兵力も指揮系統も破綻し、ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥がソ連を除く連合国に無条件降伏し、アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハウアーの司令部に赴き、デーニッツ政府代表として降伏文書に署名した。翌5月8日にはソ連に対しても無条件降伏し、同日ベルリン市内のカールスホルスト(Karlshorst) の工兵学校におけるソ連軍に対する降伏式で陸軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥、海軍代表ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク提督、空軍代表ハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ (Hans-Jürgen Stumpff)上級大将 による降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日から始まった、ヨーロッパでの戦争は終結した。
その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、依然交戦中の日本の終戦と日本降伏後の処理を協議するポツダム会談が行われた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相[12]、4月12日のルーズベルト大統領の急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相が出席した。この会談で日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表と、ドイツの戦後分割統治が取り決められたポツダム協定の締結が行われた。
経過(アジア・太平洋)[編集]
1941年、日本軍の真珠湾攻撃で始まる。1942年前半までは日本が破竹の勢いで進撃し、広大な占領地を得た。しかし、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦で敗退し、勢いが止まる。1943年には、ソロモン諸島やニューギニアで消耗戦を強いられた。一方、米軍は同年11月から中部太平洋で本格的反攻を開始。1944年には、マリアナ諸島のサイパン島を占領。日本本土の大半は米軍の新型戦略爆撃機B-29の行動範囲内に入る。日本海軍連合艦隊は壊滅し、神風特攻隊による攻撃が始まる。1945年になると、B-29の本土空襲が激化し、軍需産業と国民の戦意に打撃を与えた。さらに硫黄島、沖縄が陥落。広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連参戦を受け、天皇の意思により日本はポツダム宣言を受諾。8月15日終戦となったが、ソ連軍の攻撃は終戦後も続き、日本は北方領土を占領された。9月2日、米戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印し、日本は正式に降伏した。1941年12月8日(日本時間)から1945年9月2日までの戦争を、大東亜戦争(当時の日本政府による呼称)若しくは、太平洋戦争(当時の連合国による呼称)と呼ぶ。また、地理的正確さを重視して、アジア太平洋戦争と呼ぶ論者もいる。
日本の参戦[編集]
1939年8月の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、当時の平沼騏一郎内閣は総辞職。その後もヨーロッパの戦争に不介入の方針をとっていたが、1940年6月、フランス降伏、枢軸国の勢力が拡大するに及んで近衛文麿内閣は同年9月27日、日独伊三国同盟を締結した。親独ヴィシー政権成立後、中国への援助ルート遮断を目的に日本軍は北部仏印進駐を開始した。アメリカとの戦争回避のため、日米交渉が1941年4月から開始されたが、軍部の強硬姿勢やフランクリン・ルーズベルト大統領の対日強硬策などにより交渉は難航した。
1941年6月の独ソ戦開始後、陸軍の一部には対ソ参戦を目指す北進論もあったが、ノモンハン事件での敗北後は北進に消極的な意見が強く、また資源確保には南進が重要であり、蘭印(オランダ領インド、現インドネシア)からの軍事物資大量買付け交渉が失敗すると、同年7月28日の南部仏印進駐を開始した。アメリカは対抗措置として在米日本資産を凍結。さらに石油禁輸に踏み切った。これによってアメリカ・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼んだ。
外務省は同年晩秋まで日米交渉を続けたが、同年10月18日、強硬派の陸軍大将東条英機内閣が成立。中国からの撤退で妥協する事は不可能となった。 11月26日、アメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐米大使に通称ハル・ノートが手渡された。中国大陸から全面撤退すべし、との強硬な撤退要求を受け、日本政府はこれを、全占領地からの撤退要求と解釈。事実上の最後通牒と認識し、日米交渉は完全に決裂した。同日、日本海軍機動部隊は南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からハワイに向け出港した。
12月1日の御前会議で、事実上軍部に牛耳られていた日本政府は対英米蘭開戦を決定。こうして日本は第二次世界大戦へ参戦する事となった。なお、日本政府がハル・ノートの内容に憤慨し、野村吉三郎大使に対しアメリカ政府との交渉打ち切りを指示していた事を、既にアメリカ政府は暗号解読によって察知していたといわれている。また、当時ナチスドイツに対し劣勢だったイギリスのウィンストン・チャーチル首相、中華民国の蒋介石総統らによるアメリカ参戦の要望も強かった。
1941年[編集]
12月8日(JST)、6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領ハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃(真珠湾攻撃)が行われた。日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたが、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかった事、攻撃当時アメリカ空母が出港中で、空母と艦載機を破壊できなかった事が、後の戦況に影響を及ぼす事になる。12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。なお、当時のイギリス首相チャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。
イギリス軍への攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への宣戦布告文書交付は、駐米大使館での暗号文書き起こし、大使館員のタイプ遅延などのため、外務省の指令時間より1時間近くも遅れた。このため、英米への攻撃が「だまし討ちだ」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝される事となった(なお、1939年9月のドイツとソ連のポーランド攻撃は完全に宣戦布告が行なわれかったが、このように喧伝されることは無かった。さらに、戦時国際法では期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告とみなすことは可能、とするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられた時点で、これは宣戦布告に等しい、とみなす考えも有る。最後通牒の項も参照されたし)。
かねてより参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に参戦した。また、既に日本と日中戦争(支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。
当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、ルーズヴェルト大統領以下、当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退を想定していた。さらに、日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸空襲、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。
日本陸軍は12月8日、タイ国国境に近いイギリス領マレー半島[13]・コタバルへ上陸し、シンガポールを目指し半島を南下。同日、日本陸海軍機がフィリピン[14]の米軍基地を攻撃し、12月10日にはルソン島へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。12月23日にはウェーク島も占領。ボルネオ(現カリマンタン)島[15]、ジャワ島とスマトラ島[16]などにおいて、イギリス・アメリカ・オランダなど連合軍に対する戦いで大勝利を収めた。12月25日にはイギリス領香港を占領した。しかし日本軍は、ポルトガル植民地東ティモールと、香港に隣接するマカオには、中立国植民地を理由に侵攻しなかった。[17]
中国戦線において、中国国民党の蒋介石率いる中華民国政府は、アメリカやイギリス、ソ連からの豊富な軍需物資、戦闘機部隊や軍事顧問など、人的援助を受けた。日本軍は、地の利が有る国民党軍の攻撃に足止めされ、中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦を展開、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、泥沼の消耗戦を余儀なくされた。なお、満洲国[18]や中華民国南京国民政府[19]も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。
1942年[編集]
東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となった事で、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。
2月、日本海軍伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。製油所の施設を破壊した。続く同6月、オレゴン州のアメリカ海軍基地を砲撃し被害が出た事も有り、アメリカは本土への日本軍上陸を危惧した。一方、早期和平を意図していた日本はアメリカ本土侵攻の意図は無かった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。
2月15日には、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールが陥落。また、3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。この頃、フィリピンの日本軍はコレヒドール要塞を制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現在はミャンマー)首都ラングーン(現在はヤンゴン)を占領。日本は連戦連勝、破竹の勢いで占領地を拡大した。しかし、4月18日、空母ホーネットから発進した米陸軍の双発爆撃機B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)は、日本の軍部に衝撃を与えた。
日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はインド洋にも進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン[20]のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。イギリス艦隊は大打撃を受けて、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアのキリンディニまで撤退した。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[21]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地、アフリカ沖のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性のあったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。
日本軍は第二段作戦として、アメリカ・オーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。
5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。
6月4日 - 6日にかけてのミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は作戦ミスと油断により主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失い(米機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。この敗北は太平洋戦争(大東亜戦争)の転換点となった。この海戦後、日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画されるが、終戦までに完成した正規空母は4隻(大鳳、天城、雲龍、葛城の4隻)のみであった(なお、アメリカは終戦までにエセックス級空母を14隻戦力化させている)。日本軍の圧倒的優位だった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は予想より早く反攻作戦を開始する。また、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするため、この海戦の大敗をひた隠しにする。
9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないため、アメリカ政府も、爆撃があった事実をひた隠しにする。
8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦ではアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍による攻撃で重巡4隻を失う敗北を喫する。
その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北し、島を巡る戦況は泥沼化する。10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊が意地を見せ、アメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的に太平洋戦線での稼動可能空母が0という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、補給戦が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による通商破壊作戦を実行。日本軍の物資・資源輸送船団を攻撃。ガダルカナル島では補給が途絶え、餓死する日本軍兵士が続出した。長引く消耗戦により、1国でイギリス、アメリカ、オーストラリア、中華民国を相手にする日本は次第に守勢に回るようになる。
1943年[編集]
1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は絶望的となっていた。2月には、日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米両軍に大きな損害が生じた。ソロモン諸島での戦闘は依然続き、7月のコロンバンガラ島沖海戦で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃によりアメリカ艦隊に勝利するが、日本軍は物量に勝る連合軍によって次第に圧迫されていく。
4月18日、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将[22]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
5月には北太平洋アリューシャン列島のアッツ島にアメリカ軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が用いられた。。
ニューギニア島でも激戦が続いていたが、物資補給の困難から、8月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点、ラバウルは孤立化し始める。一方、初戦の敗退を乗り越え、戦力を整えたアメリカ軍はこの年の11月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始する。11月にはギルバート諸島のマキン島、タラワ島の戦いで日本軍守備隊が全滅、同島はアメリカ軍に占領された。
11月に日本の東条英機首相は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示する。しかしこの年の年末には、完全に態勢を立て直したアメリカ軍に加え、イギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、中華民国軍など、数カ国からなる連合軍と、さしたる味方もなく1国で戦う上、兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍との力関係は、連合国有利へと傾いていった。
1944年[編集]
ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。
連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。
6月、最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は惨敗を喫する。旗艦大鳳以下空母3隻、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊は壊滅した。しかし、戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦ではそれらを中心とした艦隊が編成される。
陸上では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。続く8月、テニアン島、グアム島が連合軍に占領され、アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。この結果、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。この年の11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。太平洋上の最重要拠点・サイパンを失った打撃は大きく、この段階で日本の勝利の可能性は完全に無くなったといってよい。
アメリカやイギリスのような大型戦略爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。アメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。しかし与えた被害は市民数名の死亡、数ヶ所に山火事を起こす程度であった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃する作戦を考案したが、これも戦況の悪化により中止された。
独裁体制を強化する東条英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったと言われている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、東条英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。
日本は大量生産設備が整っておらず、武器弾薬の大量生産も思うように行かず、その生産力はアメリカ、イギリス一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油、鉄鉱石などの物資をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた。連合軍による通商破壊戦で、外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況であった。
10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が起きる。日本海軍は空母瑞鶴などを米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅。組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。アメリカ軍はフィリピンへ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。
1945年[編集]
1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。2月には、首都マニラを奪回。日本は南方の要所であるフィリピンを失い、南方から日本本土への資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、資源の乏しい日本の戦争継続は厳しくなった。[23]
2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。圧倒的戦力を有する米海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で太平洋戦争(大東亜戦争)中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(米軍の死傷者が日本軍を上回った)を出した末に、硫黄島は陥落した。
前年末から、アメリカ陸軍航空隊のボーイングB-29爆撃機による日本本土への空襲が本格化していた。日本軍は単発エンジンの戦闘機で体当たりするなど必死に迎撃したが、8,000m以上の高々度を高速で飛来し、武装も強固なB-29を撃墜するのは至難の業であった。
3月10日未明、東京大空襲によって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。それまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が爆撃隊の司令官に就任すると、夜間無差別爆撃で焼夷弾攻撃が行われるようになった。東京、大阪、名古屋の3大都市の他、仙台、横浜、神戸、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になる。
アメリカ軍は占領した硫黄島を、B-29護衛のP-51D戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のB-29の不時着地として整備した。この結果、B-29迎撃はさらに困難となった。迎撃する戦闘機、熟練した操縦士も、底をついていた日本軍は、十分な反撃もできなかった。当時ドイツの技術を参考にジェット機「橘花」を開発し、敗戦直前の8月7日に初飛行に成功するが、結局実用化には至らなかった。また、連合軍の潜水艦攻撃や、機雷敷設により日本は沿岸の制海権も失っていく。アメリカ軍空母機動部隊は日本沿岸の艦砲射撃や、艦載機による空襲、機銃掃射を行った。
4月1日、連合軍は沖縄本島へ上陸。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた。支援のため沖縄に向かった戦艦大和も4月7日に撃沈。残るはわずかな空母、戦艦のみとなり、ここに日本海軍連合艦隊は完全に壊滅した。連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、連合軍艦艇に甚大な被害を与える。日本軍は練習機さえ動員し、必死の反撃を行うが、やがて特攻への対策法を編み出した連合軍艦艇に対し、あまり戦果を挙げられなくなっていた。沖縄戦は両軍と民間人に死傷者数十万人を出し、日本国内で民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本の軍民総動員の反撃で、アメリカ軍に大きな被害を与えたが、6月23日には沖縄は陥落する。
満洲国は南方戦線から遠く、日ソ中立条約により、ソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のB-29の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマでは開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にラングーンから日本軍を放逐した。
5月7日、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になる。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めたが、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北の責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。
すでに2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。次いで7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、米英ソによる首脳会談が行われた。同26日には、日本の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連による和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。このような降伏の遅れは、その後の本土空襲や原子爆弾投下、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも更なる惨禍をもたらすことになった。もしここで、ポツダム宣言をすぐに受け入れて降伏していれば、少なくとも広島・長崎への原爆投下は無かったかも知れない。
またアメリカ、イギリスを中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦も計画されたが、日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画は実行されなかった。
アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす名目と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的、さらに非白人種への人種差別意識も影響し、史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。なお、当時日本でも、独自に原子爆弾の開発を行っていたが、必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員した、アメリカのマンハッタン計画には遠く及ばなかった。
ソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年4月まで)有効の日ソ中立条約を破棄、8月8日、対日宣戦布告し翌9日、満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできずに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残る事となった。また、ソ連参戦で満洲と朝鮮北部、南樺太などの戦いで日本軍人約60万人が捕虜としてシベリアへ抑留された(シベリア抑留)。彼らはその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。満洲・南樺太・朝鮮半島に住む日本人女性は、流刑囚から多く結成されたソ連軍によって集団的に強姦され(ソ連軍による組織的強姦)、満洲から引き上げる日本人女性の一部は中華民国国民党軍や中国共産党軍に拉致され慰安婦にされるなど、多大な被害を受けた。
このような事態にいたってもなお日本軍部指導層は降伏を回避しようとし、御前会議での議論は迷走した。しかし鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は収束した。8月14日、同宣言受諾の意思を通告し、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を表明、全ての戦闘行為は停止された(日本の降伏)。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明、宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こし、鈴木首相の私邸を襲った。また玉音放送後、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をした他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。
翌日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した。北方領土の択捉島、国後島は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからであった。
日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し8月18日、退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満洲国首脳は日本への逃命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。
9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、イギリスやアメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席[24]の元、日本政府全権重光葵外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。
戦時下の人々の暮らし[編集]
日本[編集]
戦争に反対する言論、特に思想犯を政府は特別高等警察(特高)を使って弾圧した。単に戦争に反対しない、というだけではなく、積極的に戦争に協力する態度が要求された。人々は戦争が始まると「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」等という国家総力戦の標語(スローガン)を掲げ、ピリピリとした空気のなかで生活を送った。ガソリンの不足で町には木炭自動車が走り、電気を浪費するためパーマネントも禁止となった。
物価や物品の統制がなされ、贅沢品はもちろん生活必需品も不足し、窮乏生活を余儀なくされた。食料の配給制度が実施され、敗戦の色が濃くなってくると配給量も徐々に減らされ、その質も悪化していった。 また熟練工が戦場に動員され、代わりに学生が工場に動員あるいは徴兵(学徒動員)され、兵器製造や戦場にも駆り出された。子供の遊びにまでも戦争の影響があらわれ、戦意発揚の意図のもと戦争を題材にした紙芝居、玩具などが出回り、空き地では戦争ごっこが定番になった。学校の教科書にも戦争関連の問題が載るようになった。
本土に対する空襲は1944年6月の九州北部から始まり、さらに同年11月からは東京・名古屋・大阪方面も空爆にさらされ、沿岸地域では米軍艦による艦砲射撃も加えられるなど、戦争の災禍があらゆる国民に及ぶようになった。 そして沖縄では一般国民が米軍の、南樺太や北方領土の島々ではソ連軍の直接侵攻を受けた。
ドイツ[編集]
総統アドルフ・ヒトラーは、戦争中盤までは国民の生活水準をある程度考慮していた。その一方で、秘密警察ゲシュタポの監視により、国民の反政府・反戦的な言動は徹底的に弾圧した。スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗すると、ミュンヘンの大学生による反戦運動が表面化した。その時期、宣伝大臣ゲッベルスによる有名な「総力戦布告演説」が行なわれ、政府による完全な統制経済・総力戦体制が開始され、軍需大臣アルベルト・シュペーアの尽力もあり、1944年には激しい戦略爆撃を受けながらもドイツの兵器生産はピークに達する。
連合軍による空襲はすでに1940年から開始され、1942年にはケルン市が1,000機以上による大空襲に遭った。1943年には昼はアメリカ軍爆撃機が軍事目標を、夜はイギリス軍爆撃機がドイツ各都市を無差別爆撃した。そのためドイツ国民は、自宅のベッドに寝ている時間よりも、地下室や防空壕で過ごす時間の方が長い、とまで言われた。1944年のクリスマスの時期には、プレゼントを巡って「実用性を考えれば、棺桶が一番だ。」というブラックユーモアが流行した。総力戦体制の確立後、歌劇場、劇場、サーカス、キャバレーなど庶民の娯楽の場が次々と閉鎖に追い込まれた。そのような苦しい状況下において、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団といったドイツのみならず世界を代表する楽団は1945年の敗戦直前まで何とか活動を続けた。[25]ナチスが支援していたバイロイト音楽祭も、規模を縮小しながら1944年まで行われた。芸術の町ドレスデンが1945年2月、徹底的な無差別爆撃に遭った事で、ドイツの芸術にあたえた衝撃は計り知れない(ドレスデン爆撃の項目を参照)。
敗戦間際、ソ連軍の残虐な報復から逃れるために西部へ避難するドイツ人が続出した。ベルリンの戦いの頃には、少年や老人までもが義勇兵として武器を取りソ連軍と戦った。そのような状況で、ゲシュタポやナチス親衛隊はなおも国民や兵士を監視し、逃亡と見なした者を処刑して回ったという。
イギリス[編集]
開戦当初は戦争とは思えないほど平穏な日々だったが、フランスの降伏後は、単独でナチス・ドイツと戦った。ドイツ軍の上陸を想定し、沿岸地域の住民に対し様々な対策を試みた。1940年8月下旬からはロンドンをはじめ、各都市がドイツ空軍爆撃機の夜間無差別爆撃に遭い、多くの市民が死傷した。又、ドイツ海軍Uボートによる通商破壊により生活物資の供給は逼迫、困窮した生活を余儀なくされた。1944年には、戦争がイギリスに有利になり、国民生活にも徐々に余裕が出てきたが、同年6月8日からはドイツ軍が新たにV-1飛行爆弾でロンドンやイギリス南東部を攻撃し、さらに9月13日からはV-2ロケットでの攻撃も加わり、市民に死傷者が出た。戦争が有利に展開したのに再度防空壕への避難を余儀なくされ、特にV-2は当時の戦闘技術で迎撃不可能だったので、市民への心理的影響は決して小さく無かった。
アメリカ[編集]
戦線から遠く離れてるため戦火に巻き込まれずにすんだが、しかし国民のほぼ1割が最前線に投入され、そのためビジネスの減少を招き国債が増発される一方、国民のほとんどを労働者が占めるアメリカでは生活保障がなく、終戦まで失業者が増える一方であった。
影響[編集]
概要[編集]
第二次世界大戦の結果、ファシスト・イタリアが倒れ、ドイツと日本が降伏した。犠牲者数は世界でおよそ6,000万人と言われる。主要参戦国における死亡者数の概数は、ソ連2,000万人(軍人1,300万人・市民700万人)、中国1,350万人(350万人・1,000万人)、ドイツ730万人(350万人・380万人)、ポーランド540万人(12万人・530万人)、フランス60万人(25万人・36万人)、イギリスおよびイギリス連邦50万人(45万人・6万人)、日本210万人(170万人・38万人)、アメリカ40万人(40万人・0.17万人)、イタリア40万人(33万人・8万人)と推定されている。
敗戦国となった枢軸諸国にはアメリカ軍を中心とする戦勝国の軍隊が進駐した。敗戦国への処遇は第一次世界大戦の戦後処理の反省に基づいたものとなった。第一次世界大戦の戦後処理では、敗戦国ドイツの軍備解体が不徹底であったため、ドイツは再度第二次世界大戦を挑むことができた。しかし第二次世界大戦の戦後処理では敗戦国の軍備は徹底して解体され、敗戦国が他国に対して再度侵略行為を行うことは不可能となった。一方で、敗戦国への戦争賠償の要求よりも経済の再建が重視された。西ヨーロッパではマーシャル・プランが実施され、日本ではGHQによる政治経済体制の再構築が行われた。戦後、敗戦国は経済的には復興したが、軍事力においては限られた影響力しか持たない状態が続いている。
ドイツ東部を含む東ヨーロッパおよび外蒙古・朝鮮半島北部などにはソ連軍が進駐した。ソ連は東ヨーロッパで戦前の政治指導者を粛清・追放し、代わって親ソ連の共産主義政権を樹立させた。中国でも中国共産党が国共内戦に勝利し、世界はアメリカ・西ヨーロッパ・日本を中心とする資本主義陣営と、ソビエト・東ヨーロッパ・中国を中心とする共産主義陣営とに再編された。この政治体制はヤルタ会談から名前を取ってヤルタ体制とも呼ばれる。そしてその後も二つの陣営は1990年代に至るまで冷戦と呼ばれる対立を続けた。
第二次世界大戦の直接の原因となったドイツ東部国境外におけるドイツ系住民の処遇の問題は、最終的解決を見た。問題となっていた諸地域からドイツ系住民の大部分が追放されたことによってである。ドイツはヴェルサイユ条約で喪失した領土に加えて、中世以来の領土であった東プロイセンやシュレジエンなどを喪失し、ドイツとポーランドとの国境はオーデル・ナイセ線に確定した。
戦勝国となったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国はその後核兵器を装備するなど、軍事力においても列強であり続けた。この5か国を安全保障理事会の常任理事国として1945年10月24日、国際連合が創設された。国際連合は、勧告以上の具体的な執行力を持たず指導力の乏しかった国際連盟に代わって、経済、人権、医療、環境などから軍事、戦争に至るまで、複数の国にまたがる問題を解決・仲介する機関として、国際政治に関わっていくことになる。
だが戦勝国も国力の疲弊にみまわれた。東南アジアでは、日本が占領した植民地をアメリカ、イギリス、フランス、オランダが奪回し、宗主国の地位を回復したが、一方で、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、本国での植民地支配への批判の高まりといった状況が生じ、疲弊した宗主国にとって植民地帝国の維持は困難となった。その後1960年代までの間に、多くの植民地が独立を果たした。その意味においても、世界を一変させた戦争であった。
戦争裁判[編集]
第一次世界大戦の戦後処理では敗戦国の戦争指導者の責任追及はうやむやにされたが、第二次世界大戦の戦後処理では、国際軍事裁判所条例に基づき、戦争犯罪人として逮捕された敗戦国の戦争指導者らの「共同謀議」、「平和に対する罪」、「戦時犯罪」、「人道に対する罪」などが追及された。ドイツに関してはニュルンベルク裁判が、日本に関しては極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷された。ドイツではヘルマン・ゲーリングら、ナチスの閣僚、党員、軍人、関係者ら訴追され、ホロコーストや捕虜虐待などに関して、それぞれ絞首刑、終身禁固刑、20年の禁固、10年の禁固、無罪などの判決が下された。日本では戦争開始の罪、中国、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソビエト連邦への侵略行為を犯したとして、東条英機ら28名が戦犯として訴追され、絞首刑、終身禁固、20年の禁固、7年の禁固刑などの判決が下された。
この裁判では、戦勝国の行為については審理対象外とされたため、連合国側が枢軸国側に対して戦時中行なった国際法違反の戦争犯罪―広島・長崎への原爆投下、ドレスデン大空襲、ハンブルク大空襲、東京大空襲・大阪大空襲など、民間人に対する無差別戦略爆撃は、連合国側の爆撃の方が、枢軸国のものより遥かに大規模であった。また大戦初期のソ連によるポーランド[26]、フィンランドに対する侵略。大戦末期のベルリンなど、ドイツ国内におけるソ連兵による虐殺、捕虜虐待、残虐行為や略奪行為。さらに中立条約を結んでいた日本や満洲国に対する侵攻・略奪行為。降伏後の日本の北方領土に対する侵攻・占拠-などについての責任追及は全く行われていない。 また、東欧諸国のドイツ系少数民族の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留など戦後の事例について、戦勝国側の加害責任を訴える声も大きいものの、同じく不問とされている。
また東京裁判においては、投獄されていた岸信介がアメリカとの政治取引で釈放された。またサンフランシスコ講和条約締結後は、終身禁固刑を受けた戦犯も釈放される一方、上官命令でやむをえず捕虜虐待を行った兵士が処刑されたりするなど、概して裁判が杜撰であった点は否めない。さらに「人道に対する罪」という交戦時には無かった事後法によって裁くなど、原理的な疑義も指摘されている。
日本では、それら連合軍の残虐な行為が全く裁かれなかった事を、戦勝国のエゴ、勝者の敗者に対する復讐裁判として否定する意見が存在する。また、日本に対する戦争裁判を罪刑法定主義や法の不遡及に反することを理由として否定する意見もある。罪刑法定主義や法の不遡及を守りながら日本の戦争犯罪を裁けるのか、あるいは裁くべきなのか、またその判決が世界に受け入れられるのか、人道罪を否定した場合、虐殺など戦争犯罪を止めることができるのか、など難問は多い。
ヨーロッパ[編集]
マーシャルプランへの不参加をソ連が表明して、更に参加を希望していたチェコスロバキアなどの東欧諸国に圧力をかけて不参加を強要させた。9月には東欧や仏伊の共産党によりコミンフォルムを結成し、西側に対抗する姿勢をとった。これによりヨーロッパの分裂が決定的になった。
ヤルタ体制の中で東欧諸国は否応なく、チャーチルが名づけたところの「鉄のカーテン」の向こう側である共産主義体制に組み込まれることとなり、ドイツという共通の敵を失ったソビエトとアメリカは、その同盟国を巻き込む形でその後1980年代の終わりまで半世紀近く冷戦という対立抗争を繰り広げた。また、フランスやイギリス、ソビエトなどの主要連合国はアメリカに倣い核兵器の開発・製造を急ぐこととなり、後に成立した中華人民共和国やインド、パキスタンなどがこれに続いた。
ヨーロッパ全域[編集]
- 二度の世界大戦の原因の一つとして挙げられるのが、ザールラント(ドイツ領、戦間期は、自由市)及びアルザス・ロレーヌ[27]で産出される石炭及び鉄鉱石をめぐっての争いであった。そのため、石炭、鉄鉱石を共同管理することによって、戦争を回避する目的で、1951年に、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が結成された。
- 1958年にベネルクス(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、イタリア、西ドイツ、フランスが欧州経済共同体 (ECC) 、欧州原子力共同体 (EURATOM) が結成され、1967年に拡大、発展する形で、EEC、ECSC、EURATOMと欧州共同体 (EC) に統合した。
- ECは、1973年に、デンマーク、イギリス、アイルランド、1981年に、ギリシャ、1986年には、スペインとポルトガルが加盟し、12か国体制へ発展した。
- ECは、1993年11月1日のマーストリヒト条約欧州連合(EU)に発展した。2007年1月1日には、旧東欧圏であるルーマニアとブルガリアが加盟し、27か国体制へと発展を遂げた(詳細は、欧州連合を参照のこと)。
ドイツ[編集]
世界を戦争の渦に巻き込んだアドルフ・ヒトラーは敗戦直前に自殺。残虐行為を実行した親衛隊の長官ハインリッヒ・ヒムラー、ナチスイデオロギーの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスも同じく自殺し、残されたヘルマン・ゲーリングなどナチス首脳部の一部は、連合軍による国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)によって裁かれ、ゲーリング、リッペントロープ外相、ヴィルヘルム・カイテル元帥ら12名に絞首刑の判決が下された。
その他にも、ヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールや、ナチス占領下のフランスで、ナチス高官の愛人の庇護のもと自堕落な生活を送っていたココ・シャネルなど、国籍を問わず、ドイツの犯罪行為に加担したと考えられる芸術家や実業家なども非ナチ化裁判で罪を問われ、活動を禁止された者が数多くいた。
- 領土の喪失
- 第一次世界大戦後も領有していた東プロイセンやシュレジエン、ナチス政権が回復した旧ドイツ帝国の領土であるダンツィヒやポーランド回廊など、オーデル・ナイセ線以東の広大なドイツ領を喪失した。
- ナチス政権がミュンヘン会談によりチェコスロバキアから獲得していたドイツ人居住地域のズデーテン地方はチェコスロバキアに返還された。
- これらの地域からドイツ人は追放され、大量のドイツ避難民が移動する中で多くの死者が出た(ドイツ人追放)。
- この他、大戦中にドイツが併合した地域[28]は、フランス(アルザス・ロレーヌ)・デンマーク(シュレスウィヒ・ホルスタイン)・ベルギー・ルクセンブルクの諸国にそれぞれ返還された。
- 西部のザールラントは自由州として分離され、フランスの管理下に置かれたが、その後、1957年に住民投票で西ドイツに復帰した。
- ナチス政権が併合したオーストリアはドイツの被占領地域から分離され、1955年のオーストリア国家条約でドイツとの合併は永久に禁止された。
- 東西分割
- 高官の国外逃亡と責任逃避
- 終戦直前にアドルフ・アイヒマンなどの多くのドイツ政府高官が、自らの身を守るためにドイツ国内外のナチス支持者[30]やバチカンの助けを受けスペインやアルゼンチン、チリなどの友好国に逃亡し、そのまま姿を消した。その一部はその後イスラエル諜報特務局や、「ナチ・ハンター」として知られるサイモン・ヴィーゼンタールなどの手で居場所を突き止められ、逮捕された後にイスラエル政府などによって裁判にかけられたものの、残る多くは現在に至るまで逃げおおせ、姿を消したままである。
- 賠償
- ソ連は戦争により被った膨大な被害に対する賠償として、ドイツ東部における自国占領地帯で工業施設の解体・移送を行なった。このことが東ドイツの発展を阻害し東西ドイツの経済格差を生み出す要因となった。また、ダイムラー・ベンツやクルップ、メッサーシュミットなど、ドイツの戦争遂行に加担し、強制労働に駆り出されたユダヤ人を利用した企業は、膨大な賠償金の支払いを課せられることになった。
オーストリア[編集]
- 1938年にドイツによって併合(合邦)されたドイツとは分断され、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4か国によりオーストリア全土が分割占領された。
- これとは別に、首都のウィーンもドイツのベルリンと同じく上記の4か国により分割占領された。
- ただし、ドイツとは異なり、ナチスによる併合により消滅していた中央政府が復活し、第二共和制が発足して、文民統治を維持した。
- その後、冷戦の激化にもかかわらずオーストリア政府は国家統一の維持に成功し、1955年のオーストリア国家条約により主権を回復した。[31]
- ドイツへの併合に協力し、その後オーストリア・ナチス党の指導者になった。[32]アルトゥル・ザイス=インクヴァルトは、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルグ裁判で裁かれ死刑になった。
- 冷戦終結後、国家分断の危険から遠ざかるにつれて第2次大戦以前にドイツに併合され、(選挙でそれを望んだのはオーストリア国民だが)多くのオーストリア人がそのままドイツ軍の一員として戦争行為に加担したことに対する戦争責任について問い直す動きが見られた。
ギリシャ[編集]
1942年から内戦状態になり(ギリシャ内戦)、終戦後はイギリスとソ連の秘密協定によって西側の勢力下に置かれようとしていた。その後はアメリカ合衆国の支援の下、軍事独裁政権が成立、国王が亡命、1974年にキプロスでのクーデターが失敗し、その余波で軍事政権が崩壊、国民投票によって君主制が廃止、共和制に移行した。冷戦期には北大西洋条約機構に加盟した。
イタリア[編集]
- 領土の喪失
- 第一次世界大戦で獲得した「未回収のイタリア」のうち、トリエステは国連管理下の自由市となった。
- その後、1954年にトリエステ自由市の半分以上を占めるイストリア半島をユーゴスラビア(現在はスロベニアとクロアチア ――この時にリエカ(フィウメ)を獲得――)に割譲し、トリエステ市を含む北西部がイタリアに復帰した。
- エーゲ海東部のドデカネーズ諸島をギリシアに割譲した。
- 参戦前の1939年に宣言したアルバニア併合が無効とされ、アルバニアの独立が完全に回復された。
- 戦争中にイギリス軍に占領されたトリポリ、キレナイカ[33]、ソマリランド[34]等のアフリカ植民地を放棄し、これらの地域はイギリスの委任統治領になった。
- 共和制移行
フィンランド[編集]
大戦中にソビエト連邦からの侵略(冬戦争)に対抗するため、ナチス・ドイツの協力を仰いだ事で敗戦国扱いを受け、侵略者ソ連から戦争犯罪に問われる事になった。しかし、ドイツの支援はフィンランドにとってはやむを得ない選択であった。何の落ち度も無かったにも関わらず、1939年から1940年にかけてのソ連の不当な攻撃が”敵の敵は味方”と言う感情にフィンランドを貶めたといえる。不運だったのは1941年6月からの継続戦争において、フィンランドに味方する近隣諸国はいなかった事。スウェーデンを除き北欧はナチスの旗の下にあった。スウェーデンは中立を守りきったがフィンランドにはそれが不可能であった。それでもフィンランドは自己の生存権のため、ドイツのレニングラード包囲戦には深く加わらず、ドイツの敗戦時には、連合国に寝返り、国内からナチスの勢力を追い払った。ソ連は勝利国として、フィンランドに対し、制裁と戦争法廷による戦争犯罪の追求を行ったが、フィンランド人にとっては、不当な制裁であり、ソ連と戦ったマンネルヘイム将軍らは国家の英雄とたたえられている。しかしソ連は戦後も勝利国としてフィンランドへの干渉を強めて行く事となる。
イギリス[編集]
イギリスは第二次世界大戦を通じて約十一億ポンドの海外資産をすべて失い、戦争が始まったとき七億六千万ポンドであった対外債務は、終戦時、三十三億ポンドに膨れ上がった[35]こともあり、イギリス経済は疲弊してしまった。追い打ちを掛けるかのように日本の敗戦からの二日後の8月17日、アメリカ合衆国はレンドリース法を停止し対英援助を打ち切った。窮地に陥ったイギリス政府は戦後復興のために、1945年12月英米金融協定を調印したがこれにより大英帝国内部の特恵関税制度が否定され、経済面から大英帝国の崩壊が始まった。イギリス経済の疲弊により植民地を維持することが困難になり、また、各地の独立運動も相俟って、大英帝国は崩壊した。そして、ミャンマーなどを除く元植民地の多くはその後もイギリス連邦の一員としてイギリスとの絆を保っている。
- 日本の敗戦によりシンガポール、マレー半島や香港などの日本の占領下に置かれた植民地がイギリスの手に戻り、前記の2地域は1960年代に至るまで、香港は1997年に至るまでイギリスの植民地であった。
- インドは戦後もイギリスによる統治がしばらく続いたものの、独立運動の激化により1947年8月15日にインドは独立した。
- 敗戦国のイタリアがトリポリ、キレナイカ(共に現在のリビア)、ソマリランド(現在のソマリア)等のアフリカの植民地を放棄し、これらの地域はその後しばらくの間イギリスの委任統治領になった。
フランス[編集]
- ヴィシー政権は崩壊し、首班のフィリップ・ペタン元帥は逮捕され死刑判決を受けたが、その後政権を担った自由フランスの指導者ド・ゴールにより終身刑に減刑された。また、ココ・シャネルなど多くの対独協力者が断罪され、投獄されたり死刑となった。
- モロッコやアルジェリアなどのアフリカの植民地を回復したが、戦後のフランスの国力低下に伴いそのほとんどが独立することになる。
- 本土がドイツに占領された後より、事実上日本の影響下にあったフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に独立運動指導者のホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言したが、植民地支配復活を狙うフランスとの間に第一次インドシナ戦争が起こり、さらに後のベトナム戦争へつながる。
ソビエト[編集]
- ヨーロッパ地域
- ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。旧東プロシアのケーニスベルクとその周辺は、カリーニングラードと改称して現在もロシアの”飛び地”として領有。
- 開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を復活させた。
- 上記の新領土内の非ロシア人の住民を追放して、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。
- 進駐したソ連軍の軍事的な恫喝により、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリアなどに親ソ共産政権を樹立し、衛星国とし影響下においた。
- チェコスロヴァキアではソ連支配に対する抵抗が強かったが、非共産党系の政治家を暗殺、処刑するなどして共産党が政権を手に入れた後、ソ連型社会主義をモデルにした国家政策が急速に進められた。ハンガリーでは、1956年にソ連支配に抵抗するハンガリー動乱が勃発したが、ソ連はソ連軍などワルシャワ条約機構軍を介入して圧殺した。
- バルト三国
- ロシア革命後に独立を果たしたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国は独ソ不可侵条約に基づき、ソ連軍が一方的に進駐し、その圧力の下で、1940年にソビエト連邦に強制的に併合された。その後はナチス・ドイツの占領下に入るなどしたものの、大戦終了後に再びソビエト連邦に併合され、追放・処刑された三国の住民の代わりに、多くのロシア人が流入し居住することになる。エストニア、ラトビアの国境も変更され、ソ連の一共和国になった。再度の独立は冷戦後の1991年まで待たねばならず、ロシア系住民の処遇問題、エストニア、ラトビアはロシアと国境問題を抱えることになった。
- 極東地域
- 日本領の南樺太(サハリン南部)を占領し、さらに日本降伏後の1945年8月18日から千島列島へ侵攻し、色丹島・歯舞群島を9月5日までに占領した。1946年2月2日に、これら南樺太および千島列島の領有を宣言する。なお、これに対して日本は公的には認めておらず、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方領土については日本の領有を主張し、南樺太と得撫島(ウルップ島)以北については帰属未確定としている(詳細は北方領土を参照)。
- 日本が旧満洲に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。これは中華人民共和国の成立後、1955年まで続いた。
ポーランド[編集]
1939年にソ連に占領された東部地域は回復されず、そのままソ連領[36]に編入された。その代償として、ポーランド回廊をドイツから回復した上、オドラ川(オーデル川)およびニセ川(ナイセ川)以東の旧ドイツ領やダンツィヒ自由市(現在のグダニスク)を併合し、ポーランド領土は大きく西方へ移動した。失った東部領は新たに得た西部領の2倍に及び、東部領から追われたポーランド人が旧ドイツ領から追放されたドイツ人のかわりに西部領に住み着く人口の大移動が起こった。 その後、この新たなドイツ=ポーランド国境(オーデル・ナイセ線)の承認が、戦後に成立した西ドイツ政府の大きな政治課題となった。
また、国連の総会のポーランドの代表権問題が生じ、当時はソ連が支持するルブリン政権とアメリカ・イギリスが支持する亡命政権の二重権力状態にあった。その後に亡命政権の閣僚の三分の一を入れ、連合政権を作る事で妥協が図られた。その後、ソ連の強い軍事的な影響力の元に共産主義系の勢力が政府の実権を握り、亡命政権系の政治家は逮捕されたり亡命に追いやられた。
チェコスロバキア[編集]
- ナチス・ドイツにより解体状態だった国家が再建され、ズデーテン地方も回復した。なお、この際に起こったドイツ人住民の集団追放はその後の西ドイツとの関係に影を落とした。
- ドイツの保護国だったスロバキアはチェコと一体となった共和国に復帰した。ハンガリーに奪われた南部の領土は回復したが、一部はソビエト領(現在のウクライナ)として併合された。
- 当初、共産党系と非共産党系の閣僚を含む政府が成立したが、ソ連軍の圧力の下、非共産党系の政治家は次々と暗殺、処刑あるいは辞任に追い込まれて、1948年に事実上の共産党の単独政権が成立し、その後、ソ連型社会主義をモデルにした国家政策が急速に進められた。
ハンガリー[編集]
第一次世界大戦後に失ったチェコスロバキア(ブラチスラバを含む)やユーゴスラビア[37]のハンガリー人居住地域を併合したが、敗戦により無効とされ、第一次大戦後の国境線まで後退した。ヤルタ会談におけるチャーチルとスターリンの秘密協定に基づいて、ソ連の勢力圏とされハンガリー社会主義労働者党の一党独裁によるハンガリー人民共和国が成立し、ソ連の衛星国となった。
ユーゴスラビア[編集]
ポルトガル[編集]
- 中立国であったにもかかわらず、軍事的、政治的圧力を受け事実上連合国の基地として使用されていたアゾレス諸島と、同じく事実上日本に占領されていた植民地の東ティモールは両軍の撤退により回復された。
- また、大戦中を通じその地位が保全されたマカオとインドのゴアも、引き続き植民地として統治していくこととなった。
アルバニア[編集]
- 1939年にイタリア(ムッソリーニ政権)が強行した併合が取り消され、独立を回復した。
- ユーゴスラビアと同様、パルティザン闘争によって自国領土の大半を解放したアルバニア共産党(1948年からアルバニア労働党)によるアルバニア人民共和国が成立し、王制が廃止されてエンヴェル・ホッジャが指導する社会主義政権が成立した。
- その後、ユーゴスラビアとの関係が悪化して1948年に国交を断絶し、ソ連との関係を深めた。また、ギリシャ内戦で敗れた共産主義ゲリラのギリシャ民主軍 (EDS) に出撃拠点を提供し、その敗退後はメンバーの亡命を受け入れた。
スイス[編集]
大戦中は、中立を維持していたスイスだが、スイスの中立にも負の側面があったことを否定することができない。1点目は、ホロコーストから逃れたユダヤ人の亡命問題と財産の返還の問題である。2点目は、ナチス略奪金塊問題である。
- 大戦中に30万人に近い亡命者を受け入れた。スイスの人口に比較すればかなりの人数の亡命者を受け入れた形であるが、他方で、「救命ボートは満員だ」として、ユダヤ人の入国を認めなかった。その人数は亡命が認められた数が21,858人であったのに対して24,000人が断られた。
- 大戦中にドイツは、中立国を中心に各国と金塊の取引を行ったが、その約8割はスイスとの取引であった。問題は、金塊の出所であり、すでに1941年の段階で、占領下においたベルギーからの略奪品であろうという情報が広まっていたにもかかわらず、スイスは1943年までドイツの金を受け取り、スイスフランと交換していた。事実上、スイス中央銀行は略奪金塊の「洗浄装置」の役割を果たしていた。[38]
この他にもスイス領の町をドイツ領の町と間違えられたためにスイスの一般市民がアメリカの爆撃機により誤爆されたことが挙げられる。この誤爆では、死者40人、負傷者多数を出したという。
バチカン[編集]
大戦中はバチカンは中立を維持していた。しかし大戦勃発直前に教皇に登位したピウス12世はナチスのホロコーストを黙認したと非難されることがある。イスラエルはピウス12世はユダヤ人を保護したとして評価しているが、「教皇がナチスを非難していればホロコーストの犠牲者は少なくなったはず」との声も根強い。さらにピウス12世は死後ヨハネ・パウロ2世によって列福されたことが、さらに波紋を呼んでいる。また、大戦終結時に多くのナチス党員がドイツから逃亡するのに対して、バチカンが有形無形の援助を行ったとの証言がある。
スウェーデン[編集]
スウェーデンは、ナチス・ドイツのチェコスロバキア併合を目の当たりにした頃から危機意識を強め、スウェーデン社会民主労働党政権の元で大規模な軍備の増強を行っていた。すでにスウェーデンは、ナチスの台頭によって開戦は避けられぬものと考えていた。1939年にナチスは、スウェーデンとデンマーク、ノルウェーに対し不可侵条約を申し入れたがスウェーデンとノルウェーは拒否する。[39]1940年、ナチス・ドイツが不可侵条約を破棄し北欧に宣戦布告(北欧侵攻)するとスウェーデンは他国への援助を一切拒否し、武装中立を貫いた。しかし戦後、スウェーデンの中立は利己的なものとして非難されている。開戦期には、枢軸国寄り、後期は連合国寄りである。もっとも単なる中立ではなく、両者に対する和平交渉仲介も行った。
- 武装中立政策を取っていたものの、第一次世界大戦時と同様義勇軍を組織していた。なお、戦火に見舞われた近隣のデンマークやノルウェー、フィンランドのレジスタンスを匿うと同時にユダヤ人を保護したことはその後大きな賞賛を受けた。
- 武装中立化においてスウェーデンは、50万人の国民軍を形成することに費やした。これによってナチスの侵攻を食い止めることを前提とするものであった。しかしスウェーデン政府は、上記の通り、ナチスに対する義勇軍を黙認し、デンマーク、ノルウェー、フィンランドに対するレジスタンスの保護及び支援を行い、ナチス・ドイツの敗勢以後は連合国との連係を強め、最終的には連合軍の勝利に貢献した。ただしこの中立は、初期にはナチスに譲歩し、後期は連合国の要求に応じるなど中立性に欠けるものとして、戦後、国内外から非難された。
- 大戦期にスウェーデン政府は外交交渉を頻繁に行った。対戦初期、ナチス・ドイツの侵攻に対し、ナチスと面識のある元探検家スヴェン・ヘディンをドイツへ派遣し、直接ヒトラーからスウェーデン侵攻の意図が無いことを確認させることに成功した。大戦末期には大日本帝国と連合国に対するスウェーデン外務省仲介による和平交渉も行っている。また、スウェーデン王家の一族であるスウェーデン赤十字社副総裁フォルケ・ベルナドッテを通じて、ヒムラーと和平交渉も行っている。さらにフィンランド救済のためにソ連との和平交渉仲介も行われたが、結果的にスウェーデンの和平交渉はすべて失敗に終わった。1944年にはラウル・ワレンバーグによるユダヤ人救出も行われた。
- スウェーデンの軍備拡大は必ずしも対ナチス・ドイツを対象としたものではなく、中立を宣言した様にナチスに対し敵愾心を持っていた訳ではなかった。戦争開始時点では、ソ連のフィンランドに対する圧力に重点がかかっており外交にもそれが優先されていた。ソ芬戦争においては、ナチスの支援の元、フィンランドとの軍事同盟が構想されていた。しかしソ連の抗議によって破談する。ナチス・ドイツが北欧侵攻を開始したことでスウェーデンは中立を余儀なくされたのである。[40]しかし大戦後は、伝統的な武装中立に回帰し、対ソ連への外交戦争が開始されるのである(ノルディックバランス)。スウェーデンの外交戦略はすでにナチス・ドイツではなく、戦後の東西冷戦に向けられていたのである。
デンマーク[編集]
ナチス・ドイツによる侵攻を経験したデンマークは戦後、中立政策から、集団安全保障に安全保障の方針を切り替えることになった。その時にはスウェーデンの外相ウンデーンの提唱したスカンジナビア軍事同盟に共鳴したが、スウェーデンが設立の意思がないことが分かると、北大西洋条約機構に加盟した。しかし、これはデンマークの安全保障を補完するものであり、対米追随を意味するものではなかった。デンマークの安全保障はいわゆるノルディックバランスと呼ばれるものである。
ナチス・ドイツ占領中アメリカの保護下にあったグリーンランドは返還された。またアイスランドは独立した。
ノルウェー[編集]
ナチスドイツの侵攻を受けたノルウェーは従来安全保障を英国に依存していたが、第2次世界大戦後はアメリカに依存するようになった。北大西洋条約機構にも加盟し、西側諸国の一員になった。しかし、ソ連を刺激しないように国内に米軍基地をおかず、さらに非核政策をとるなど他の北欧諸国同様、ノルディックバランスと呼ばれる中立政策を志向した。
ナチスドイツ占領中、ヒトラーが「ノルウェー人は純粋なアーリア人種である」と唱えたため、「レーベンスボルン政策」がとられ、多くのノルウェー人女性とドイツ人SS将校との間の混血児が生まれた。ノルウェー政府はそれに対し隔離政策など迫害政策をとった。後にノルウェー政府はこの政策を「過ちである」と謝罪賠償した。
東アジア[編集]
東アジアでは、国内の対立を抗日という同一目標により抑えていた中国大陸の中国国民党と中国共産党の両勢力は、再び内戦状態(国共内戦)となり、アメリカが政府内の共産主義シンパの策動を受け中国国民党への支援を縮小したこともあり、ソビエトの支援を受けた中国共産党勢力が最終的に勝利した。その後中国共産党は1949年に北京を首都とした中華人民共和国を建国し、中国国民党は台湾島に逃れることとなる。
一方朝鮮半島では、領土分割され支配権を放棄し撤退した日本に替わり、38度線を境に南をアメリカやイギリスをはじめとする連合国が、北をソ連が統治することになり、その後それぞれ「大韓民国」と「朝鮮民主主義人民共和国」として独立を果たす。しかし、ソ連のスターリンから承認を受けた金日成率いる北朝鮮軍が1950年に突如、大韓民国に侵略を開始。ここに朝鮮戦争が勃発することになる。なお、開戦後50年以上経った現在も南北朝鮮の間の戦争は公式には終結しておらず、大韓民国側に立つ国連軍と北朝鮮との間での一時的な休戦状態が続いている。
日本[編集]
- 連合国による占領
- 詳細は 連合国軍占領下の日本 を参照
- 敗戦後直ちにイギリス、アメリカ、フランス、ソ連などを中心とした連合国諸国による占領が開始され、司令部となる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京に置かれた。
- GHQによる間接政治のもと、新憲法制定、農地改革、財閥解体などの大規模な国家改造が行われた。
- 駐留したアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍の兵士による日本人女性への強姦、殺人、略奪事件が多発するも、この蛮行は現在も不問とされている。その強姦によって生まれた混血児を収容する為に、岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜の努力によりエリザベス・サンダースホームが出来る。そしてGHQはアメリカ軍兵士の性行為の相手をする慰安婦を日本において募集している。
- GHQは1952年、日本国との平和条約が発効するまで存続していた。この条約により、日本はソビエト連邦、中華人民共和国など共産圏の国を除く連合国との講和が完了し事実上の主権を回復した。しかし同時に締結された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約によって進駐軍のうち米軍は日本に駐留継続することとなった(在日米軍)。
- 領土の喪失
- 日清戦争以後に獲得した海外領土を全て失うこととなり、関東州租借地を中華民国(中国、以下同)に返還した。
- 韓国併合以降の朝鮮半島の実効支配を喪失し、アメリカ・ソ連軍両軍による分割占領状態になった。これが1948年以降の南北分断、そして1950年の朝鮮戦争につながっていく。
- 委任統治後に併合を宣言していた南洋諸島の実効支配を喪失し、アメリカによる信託統治に移行した。
- 沖縄戦によりアメリカ軍に占領されていた沖縄島をはじめとする琉球諸島(大東島・沖大東島を含む)や先島諸島(尖閣諸島を含む)は日本の潜在的主権を維持したままアメリカ軍政下に入った。一時は奄美諸島もアメリカの施政権の下におかれたが、1972年までに全ての地域が日本に復帰した。
- 小笠原諸島・火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島もアメリカの施政権下に入った。これらの地域では一部の欧米系住民以外の民間人居住を認めなかったが、1968年に日本に復帰した。
- 南樺太・千島列島の実効支配を喪失し、ソ連による統治が開始された。ただし、日本政府は法的にはこの地域の帰属を未確定と主張している。また、日本政府は千島列島南部の国後島・択捉島について、日露和親条約により平和的手段で領有が確定していた固有の領土と主張し、北海道の属島である歯舞群島・色丹島とともに支配を続けるソ連に対して返還を強く求めることになった(北方領土問題)。
- 戦犯問題
- 1946年には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された。また日本国内だけでなく日本以外のアジア各地でも裁判が行われ多くが処刑された。
- 勝者が敗者を裁くという構図のもと、きちんとした証拠も弁護人も不十分なまま、杜撰な手続き、裁判中の度重なる通訳のミスや恣意的な裁判進行などにより処罰・処刑(偽証罪が無かったため私怨による密告だけを元に処刑されたものがほとんどとする意見もある)が行なわれたと言われ、批判されている。
- その一方でこの裁判を全否定することは、戦後日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った平和主義を破壊するものとして、東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もある。また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になっただろうとする説もある[41]。
- この裁判で処刑された人々(特にA級戦犯)が、1978年10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀されることとなり、後にこの扱いを巡って議論を引き起こすことになる(靖国神社問題、A級戦犯合祀問題)。
- 戦時賠償・抑留問題
- 日本の戦時賠償についての詳細は日本の戦争賠償と戦後補償を参照
- 近隣諸国との関係
- 日本は「アジアの列強植民地の解放」という名目で、当時欧米列強諸国の植民地であったマレー半島やシンガポール、中国大陸などアジアのほぼ全域に進出、欧米列強諸国の植民地政府を廃止し占領、軍政下においた。また、占領地のなかのいくつかの地域については、日本に友好的な指導者を後押して独立させた。
- しかし戦争当初の目的として資源確保のためにこれらの地を占領した日本にとってそれまでの宗主国の持っていたような資源・資産面など対植民地での優位な状態を保つことが出来ず、これらの地においては軍政の名において当初の目的以上に搾取することを余儀なくされ、各地に人的・資源的に過酷な状態を招いた。日本はこれらの国々に戦後賠償としての意味合いも含め、政府開発援助(ODA)を行うことになる。
- なかでも、第二次世界大戦以前から統治・戦争状態が長かった後に戦勝国となる中華民国に代わり現在中国大陸を統治する中華人民共和国や、現在中華民国の統治下にある台湾を別として大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国といった当時、併合した国や保護下においた地域にその後できた三国との間に対しては遺恨を残すことになった。朝鮮民主主義人民共和国以外では戦時賠償問題が国際法上既に決着している一方で、これらの国の国内事情も絡んで、現在でも歴史認識などの問題 [43]で日本側が非難されることが多く、中華人民共和国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国では激しい反日教育が行われている。又、大韓民国では日本統治時代の親日派の子孫の財産を没収する親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法や日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法の制定など、反日的政策が実行されている。(特定アジアの項も参照。)
- 皇室制度
- 天皇制を維持するか否か(国体問題)は、連合国占領軍の大きな課題であったが、長年の間多くの国民の支持を受け続けていた天皇制を廃止すると逆に占領統治上の障害が生じるとして、連合国内の一部の反発を退け、北東アジアにおける共産主義の伸張を食い止める目的もあり、天皇制は維持されることに決定され、昭和天皇の戦争責任も追及されずに終わった。
- 上記の決定に伴い、昭和天皇は統帥権の放棄を行うなど戦前に儀礼的に就いていた全ての地位から退き、新たに「国民の象徴」という地位を持つことになった。
- 天皇制こそ維持されたものの、アメリカの指導により華族制度が廃止され、また、直系の皇族以外は皇族としての地位を失う(臣籍降下)ことになった。
- 1910年の日韓併合と同時に日本の王公族となった李王家の継承者である李垠は、これに合せて臣籍降下され事実上李王家は廃絶された。その後大韓民国が設立された後も李承晩大統領の妨害などもあり王位に戻ることはなかった。
- 新憲法
- 連合国軍最高司令官総司令部のマッカーサー総司令官の指示、決裁の元、アメリカ人がその大勢を占める総司令部の民政局長であるコートニー・ホイットニーらの手によって新憲法の草案が作成された。それを基に日本政府案が作られ、帝国議会での審議を経て、1946年11月3日に「日本国憲法」として公布された。
- アメリカはこれ以前にも影響下に置いた中南米の国々に、アメリカにとって有利な内容を含む憲法[44]を半ば強要したことがあり、日本国憲法の制定もこれに習ったものだとの見方がある。また、日本国憲法が軍隊廃止条項をもつことから、冷戦時代は日米間の軍事協力に不都合なものとなり、冷戦後には国連などによる国際協力体制で軍事力の行使を含む平和維持活動を求められた際に問題となっている。このため冷戦時代より、この憲法が日本を不当に押さえ込む「押し付け憲法」と考え、改憲により「自主憲法」に変えようという主張・勢力が成立当初から存在したが、近年では自由民主党や民主党の保守系議員の一部を中心にその動きが盛んである。一方、日本社会党などの左翼政党はこれを軍備放棄の政策として歓迎(日本共産党は1960年代まで自主軍備や天皇制反対の立場から憲法改正を主張)、現在でも社会民主党、日本共産党などは護憲を主張しており、これらの間で「憲法改正論議」が冷戦時代から現在にかけて議論されている。
満洲国[編集]
- 満洲国は1945年8月のソ連軍の侵攻後に、事実上の宗主国である日本が連合国に降伏したため瓦解し、その後、中国東北部の支配権はソ連の占領を経て中華民国に返還された。
- 皇帝である愛新覚羅溥儀は8月に退位し、その後日本へ逃亡する途中に侵攻してきたソ連軍に一緒に行動していた側近・閣僚とともに捕らえられ、その後1950年に中華民国の国民党政府ではなく、ソ連と友好的関係にあった中華人民共和国の中国共産党政府に引き渡され戦犯として服役した。
- なお、皇室の一部は戦後日本に逃れたものの、溥儀の退位と逮捕、その弟である愛新覚羅溥傑などの主要皇族の逮捕に伴い皇室も事実上消滅した。
中華民国[編集]
- 清代以来日本が租借していた関東州を全て回収し、崩壊した満洲国に代わり満洲全土での主権を回復した。ただし、同盟国であるソ連の要請により、旅順・大連両港や旧東清鉄道の租借権が改めて貸与された。
- フランスから広州湾租借地の返還を受けたが、イギリス領や同国租借地を含む香港はイギリス支配に復帰した。なお、マカオは中立国のポルトガル領であったことのみならず、租借地や戦争で奪い取った地でないこともあり、ポルトガル領のままとなった。
- 日清戦争で失った台湾島を日本から回復し、台湾島の住民も当初はこれを歓迎した。しかし、当時国共内戦を戦っていた中国国民党による過度な大陸への物資輸出と大陸からのインフレ波及により、台湾経済は混乱した。また、中国国民党は日本人に代わる特権階級として振舞い、台湾島住民の排斥と腐敗が横行した。中華民国政府による急速な中国化政策の推進は、台湾島住民との間に緊張を高めた。こうして1947年に二・二八事件が発生した。
- 上記のように、終戦以降連合国および戦勝国としての正式な地位は、日中戦争(支那事変)から長い間日本軍に対しての戦いを続けていた中国国民党の蒋介石率いる中華民国にあった。しかし戦後4年経った1949年に、ソビエト連邦の支援の下国共内戦に勝利した中国共産党が北京に中華人民共和国を樹立し、敗北した国民党は中国大陸から台湾島に遷都した。その後冷戦下で東西両陣営による政治的駆け引きが行われた末に中華民国が1971年に国際連合から追放されたことで、戦後20年以上の時を経て、戦勝国と国際連合の常任理事国としての地位を終戦時には国家として存在していなかった「中華人民共和国」が引き継いだ。
東南アジア[編集]
東南アジア地域では日本軍を排斥した欧米各国が植民地に対する支配の回復をはかったが、様々な要因[45]により、大戦後に多くの東南アジアの植民地は独立を果たした。
タイ[編集]
第二次世界大戦以前より独立国であったタイ王国は、日本軍との一悶着の末、枢軸側として参戦したが、その裏では在米タイ公使館のセーニー・プラーモートがピブン政権と絶縁し東南アジア向けの反日放送を行ったり、ピブン内閣の実力者プリーディー・パノムヨンらが在日大使館を中心に日本内外に広範なスパイ網を構築し、情報提供によって米軍の日本本土空襲を支援するなど、連合軍側への鞍替えに向けた活動も行っていた。これはいわゆる「自由タイ」抗日運動として知られている[46]。自由タイはタイ国内ではピブーンによって半ば公認された活動となっていき、日本の敗戦の色が濃くなると、また日本と結んだ条約で内政が悪化するとピブーンは1943年首都を日本軍の影響が少なく、陸軍の部隊のあるペッチャブーンに移転する計画を秘密裏に画策、民族主義的な思想の持ち主であったルワン・ウィチットは1943年10月30日外相を解任され、代わりに自由タイのメンバーとして知られていたディレークが外相に任命された[47]。1945年8月16日、プリーディーが摂政の立場で「対英・対米への宣戦布告は無効であった」との宣言が出された[48]。こうしたタイの二重外交は戦後、アメリカの政策と相まって成功しアメリカはタイを敗戦国とすることを避けた。
一方で、イギリスはほとんど敗戦国として処理したといえる。イギリスは終戦時、速やかに平和条約を結ぶことは拒否[49]、さらに米を賠償させた上で翌年の1946年1月1日にようやく平和条約を結ぶことを許した[50]。また、タイ王国は戦時中に回復したフランス領インドシナの一部、イギリス領マレーおよびビルマの旧タイ領土を再びフランス、イギリスに取られた形となった。しかしながら、連合諸国による本格占領とこれに乗じた植民地化を免れ、続いて独立国としての立場を堅持することになった。
フランス領インドシナ[編集]
日本から独立が与えられていたフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)がインドシナ共産党の主導下で八月革命を引き起こし、ベトナム帝国からの権力争奪闘争を各地で展開した。その後、9月2日に、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の建国を宣言した。
ところが、旧植民地の再支配を謀るフランスは独立を認めず、9月末にはサイゴンの支配権を奪取したことで、ベトミンと武力衝突した。その後、ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月にはフランス連合内での独立が認められた。だが、フランスはベトナムが統一国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立などベトナムの分離工作を行なった。これにより、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。
オランダ領東インド[編集]
オランダ領東インド (インドネシア)では、日本の軍政に協力していた独立派が日本の降伏直後にスカルノを大統領とするインドネシア共和国の独立を宣言し、オランダとの独立戦争に突入した(インドネシア独立戦争)。
この戦争には、元日本軍将兵、約2,000名が義勇兵として独立軍に参加している。インドネシアの国営英雄墓地では、その戦争により戦死した約1,000名の日本軍将兵が埋葬され、6人の日本人が独立名誉勲章(ナラリア勲章)を受章した。この戦争の結果、1949年12月のハーグ円卓会議により、オランダは正式にインドネシア独立を承認した(ハーグ協定)。
イギリス領マラヤ[編集]
イギリスはマレー半島に居住する各民族に平等の権利を与え、シンガポールを除く海峡植民地とイギリス領マラヤ諸州からなる「マラヤ連合案」を提示した。華僑とインド系住人はこれに賛成したが、マレー人には不評で、その結果、ダトー・オンを党首とする形で、統一マレー国民組織 (UMNO) が結成された。
イギリスは、1946年に発足したマラヤ連合との間で1947年にマレー人の特権を認める連邦協定を結び、1948年にマラヤ連邦が発足した。しかし華僑はこれに不満で、同年主として華僑からなるマラヤ共産党の武装蜂起が始まった。だが、マラヤ共産党の弾圧、その後各民族系政党が集まった(UMNO、マレーシア・インド人会議 (MIC)、マレーシア華人協会 (MCA))アライアンスの結成と独立の準備は着々と進んでいった。1955年7月の総選挙で圧倒的な勝利を収め(52議席中51議席をアライアンスが占めた)、1957年8月31日にマラヤ連邦はマレーシアとして完全独立を果たした(詳細は、統一マレー国民組織を参照)。
一方、シンガポールは戦後イギリスの直轄植民地となり、その後は自治国となり完全独立をめざすこととなった。サラワクと北ボルネオ(現在のサバ州)も戦後イギリスの直轄植民地となり、段階的に自治の供与が始まった。多大な石油資源を持つブルネイは保護領のままで、その独立は1980年代まで持ち越されることになった。
アメリカ領フィリピン[編集]
戦前、独立に向けての準備が進められていたが、日本の占領によって日本の傀儡政権が誕生する。終戦後に再びアメリカの統治下に戻され、その後1946年7月4日にマニュエル・ロハスを初代大統領にフィリピン共和国として独立を果たした。しかしアメリカ軍基地が国内に残され、多くのアメリカ資本が居座るなどアメリカの影響は残され、事実上アメリカの植民地状態が継続されたままであった。
南アジア[編集]
イギリス領インド[編集]
イギリスは戦後もしばらくの間はインドを統治し続けたが、大戦によりイギリスの国力は疲弊し、大英帝国を維持することが出来なくなった[51]。
また、マハトマ・ガンディーやジャワハルラール・ネルーらインド国民会議派が指導する独立運動の激化並びにヒンズー教徒とイスラム教徒との間の宗教対立にイギリス政府は耐え切れなくなったことも相俟って、アトリーは1947年2月20日、インドから1948年6月までに撤退することを決断し、ルイス・マウントバッテンを最後のインド総督として派遣した[52]。
マウントバッテンはネルー達に、ヒンズー教徒が多いインドとイスラム教徒が多い東西パキスタンに分割独立する案を受諾させ、また藩王国が印パに所属する過程が円滑に進むように、イギリス連邦に加盟することまでも受諾させる事に成功した[53]。そして、アトリーが当初宣言した予定より1年早い1947年8月15日、イギリス領インドは、ヒンズー教徒が多いインドと、イスラム教徒が多い、パキスタンに分割独立した(東パキスタンを構成するバングラデシュは1971年、パキスタンより独立した)。
しかしこの様なイギリスの都合に合わせ性急に行われた分割独立が、その後のインドとパキスタン両国の間における対立を引き起こし、その後も両国は対立を続けることになる。
オーストラリア・ニュージーランド[編集]
イギリスの植民地である両国は安全保障をシンガポールを拠点とするイギリス軍に依存していたが、マレー作戦およびシンガポール陥落以後に、オーストラリアが日本軍にダーウィン空爆やシドニー湾攻撃などの被害に遭ったことを受け、安全保障のパートナーを宗主国の英国からアメリカに変更。ANZUSが成立する。
中東・北アフリカ[編集]
イスラエル[編集]
オスマン帝国領をイギリスとフランスで分割したサイクス・ピコ協定によってパレスチナはイギリスの委任統治領となった。
1929年に始まった第5アリヤ(パレスチナへのユダヤ人の移住)は、雨垂れ式であったが、ヒトラーが権力の座についたことで、1933年から36年の4年間で、164,267人のユダヤ人が合法的に移住した[54]。その結果、パレスチナにおけるユダヤ人人口は、40万人に達した。そのことが、土着していたアラブ人との対立を招く結果となった。
ホロコーストとアトリー政権の親ユダヤ政策が、パレスチナの混迷をさらに招く形となった。1945年8月、トルーマンは、アトリーに書簡を送り、ホロコーストで生き残ったユダヤ人10万人のパレスチナ移住許可を求めた。
イギリスは、フランスとは異なり[55]、パレスチナの委任統治を継続したが、パレスチナの治安情勢の悪化とエクソダス号事件によって、委任統治を放棄することを検討しだした。
1948年5月16日、イスラエルは、独立を宣言。同時に、第一次中東戦争が勃発した。イスラエルは、国連決議よりも割り当てられた領域よりも広い領域の確保に成功するとともに、この戦争がパレスチナ難民問題を生み出す契機となった。
サウジアラビア[編集]
イギリスの後援で造られたヒジャーズ王国を滅ぼして、アラビア半島を統一した国家であり、この国の石油資源は、1933年に設立された石油会社を介してアメリカの資本の支配下にあった。
ヨルダン[編集]
1950年まではトランスヨルダンという国名であって、1946年に独立したものの、外交・軍事の実権はイギリスにあり、イスラエルと同時期にイギリス・フランスの委任統治領として成立した国家であったが、1950年に占領していたヨルダン川西岸を自国領にすると宣言し、その後国名をヨルダンと変えた。
イラク[編集]
イラク王国はイギリスの委任統治領から1932年に独立したものの、国内でのイギリス軍の移動の自由が認められイギリスによる石油資源の支配が行われているなど外交・軍事の実権はイギリスにあった。これに対しアラブ民族主義者はイギリスからの独立を企てドイツに接近した。国内は乱れ、1941年3月末にはついにアラブ民族主義者の軍幹部が決起し親英派の国王側近が追い出される事態となった(1941年イラク政変)。
しかしイラクでの利権喪失とイラクの石油が枢軸国の手に落ちることを恐れたイギリスは軍を侵攻させ、1か月余りの後に再びイラクを占領した(イギリス・イラク戦争)。以後、第二次大戦後までイラクはイギリス軍の占領下に置かれ、ヴィシー政権支配下のシリアへの侵攻と、イラク同様にドイツ側に落ちる恐れのあったイランへの侵攻はイラクから行われた。
第二次大戦後もイラクは英米の同盟国として振舞い、ソ連を封じ込めるバグダッド条約機構の一員となるものの、1958年にアラブ民族主義の青年将校によるクーデターが勃発し共和国が誕生し、王室は滅ぼされた。
イラン[編集]
第二次世界大戦中、米英からソ連に対する軍事物資援助のルートになっていたことで、北半分にソ連軍、南半分にイギリス軍が進駐していた。しかし終戦後、ソ連軍がなかなか撤退する気配を見せなかったので、イラン政府が1946年1月にソ連軍の撤退を求めて国連安全保障理事会に提訴した。その後翌年にソ連軍は撤退した。しかしこの結果、アゼルバイジャンの地方政権が半年後に崩壊してしまう契機となった。[56]
レバノン[編集]
第一次世界大戦終了後、サイクス・ピコ協定により、シリアとレバノンはフランスの、ヨルダンとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。だが、第二次大戦中、本国フランスがナチス・ドイツに占領されたこともあり、独立の準備が進んでいたシリアやレバノンは、フランスからの独立を模索することとなる。
ビシャラ・アル・フーリーが中心となり、1943年にフランスからの独立を達成し、自由経済政策を推進し、レバノンは経済的な繁栄を誇った。しかし、1948年、ユダヤ人の手により、イスラエルが建国されると同時に勃発した第一次中東戦争により、アラブ側は敗退を余儀なくされ、10万人規模のパレスチナ難民がレバノンに流入した。このことが、レバノンの各宗派間のバランスの上に成り立っていた政治運営を困難にさせた面は否定できない。
また、各宗派間の対立が周辺諸国(シリア、イラン、イスラエル)の介入を招き寄せる結果となり、現在の混迷の原因もこの大戦に起因している。
トルコ[編集]
1946年8月にソ連が黒海から地中海を通る要衝であるボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の管理をトルコに要求したために、一時的にソ連との対立が激化した。しかしその後にはソ連が要求を取り下げたので米ソ対立は緩和していった。[57]
エジプト[編集]
エジプトもイスラエルと同様にイギリスの委任統治領にあり、1922年にイギリス側の一方的独立宣言と1936年イギリス・エジプト条約により形式的に独立に近づいていたが、スエズ運河一帯にはイギリス軍が駐留し、元来エジプト領だったスーダンの統治をめぐってイギリスに従属的立場に置かれていた。
しかし、1956年ガマール・アブドゥン=ナーセルはスエズ運河の国有化を宣言、英仏イスラエルの三カ国はナセルの行為に反発し、第二次中東戦争が勃発した。米ソ両大国の英仏イスラエルに対する反発により、エジプトはスエズ運河の国有化に成功しアラブ地域の盟主の地位を確立した。
南北アメリカ[編集]
その全てが連合国、もしくは中立国であった中南米諸国は、ブラジルなどいくつかの国が連合国の一員としてヨーロッパ戦線に派兵を行ったが、その本土が直接戦争による被害を受けることはほとんどなかった[58]。
戦後においては、共産主義思想の浸透を懸念したアメリカが、ただ「反共産主義的である」という理由だけでチリやキューバ、ブラジル、ドミニカ共和国、中米など多くの軍事独裁政権に対し経済的、政治的な援助を行った(PBSUCCESS作戦、チリ・クーデター、コンドル作戦)。それだけではなく、そもそもこうした政権の成立の過程にもアメリカ合衆国による介入がある場合が殆どだった。その結果、冷戦の終結によってアメリカがこれらの軍事独裁政権に対する援助を中止した1990年代初頭までの長きに渡って(1959年に起きたキューバ革命によって社会主義政権になったキューバを除いた)ほとんどの中南米諸国の国民は、腐敗した軍事独裁政権下で不安定な政治と富の独占、そしてそれがもたらす貧困にあえぐこととなる。
アメリカ合衆国[編集]
戦中、国家主導の軍事増産が経済回復をもたらし、景気刺激政策が定着していった。しかしミリタリー・ケインジアン・エコノミーというようにきわめて軍事色が強くなった。同じ時期に軍や官僚機構と癒着し、1950年代に「軍産複合体」と批判されるような構造を作り出すこととなった。
- 日本占領
- 日本の占領を連合軍の中で中心的に行い、アメリカにとって有益となる占領政策を行った。連合軍による日本占領の終了後もアメリカ軍基地を数多く残し、また、政財界に大きな影響力を堅持するなど日本を実質的な影響下におくことに成功した。
- イタリア上陸時にアメリカ軍がマフィアを使ったように、暴力団を、占領下における左翼勢力を押さえ込むための暴力装置として活用し、そのことによって暴力団に大きな資金が転がり込み、勢力を飛躍的に伸ばす結果を生んだ。
- 日本領土である沖縄や小笠原諸島、奄美諸島をアメリカ軍の施政権下に置いた。
- 撤退した日本軍に代わり朝鮮半島の南部を占領した。大韓民国の独立後も朝鮮戦争期を経て現在に至るまで同地域にアメリカ軍基地を残したままである。
- フィリピン統治
- 太平洋諸島統治
- マフィアとの協力
- 連合国軍のイタリア上陸時における、イタリア系マフィアの現地協力組織による連合軍に対する情報提供や後方支援の他、アメリカ国内の港湾地域における対スパイ活動と引き換えに、アメリカ当局が当時アメリカ国内に収監されていたイタリア系マフィアの指導者の多くを減刑、もしくは釈放したことにより、戦後それらの組織がアメリカ国内で大きな力を持つことになった。
新たに登場した兵器・戦術・技術[編集]
第一次世界大戦は工業力と人口が国力を左右したが、第二次世界大戦はそこに科学技術の差が明確に加わることとなった。戦争遂行のために資金・科学力が投入され、多くのものが長足の進歩を遂げた。
- 兵器
- 電子兵器(レーダー、近接信管)やミサイル、ジェット機、4輪駆動車、核兵器などの技術が新たに登場した。電子兵器と4輪駆動車を除く3つは大戦の後期に登場したこともあって戦局に大きな影響を与えることはなかったが、レーダーは大戦初期のバトル・オブ・ブリテンあたりから本格的に登場し、その優劣が戦局を大きく左右した。また、アメリカやドイツ、日本などがこぞって開発を行った核兵器(原子爆弾)の完成とその利用は、日本の降伏を早めるなど大きな影響を与え、その影響は冷戦時代を通じ現代にも大きなものとなっている。なお、大戦中期に暗号解読と弾道計算のためにコンピュータが生み出された。
- 第一次世界大戦時に本格的な実用化が進んだ航空機は、大戦直前に実用化された日本の零式艦上戦闘機やドイツのメッサーシュミットBf109のような近代的な全金属製戦闘機だけでなく、川西航空機九七式飛行艇のような飛行艇や、アブロ ランカスターやボーイングB-29などの大型爆撃機、大型グライダー、ジェット機など、さまざまな形で戦場に導入された。これらの航空機において導入されたさまざま技術は、戦後も軍用だけでなく民間でもさかんに使用されることになった。
- また、アメリカのダグラスDC-3やボーイングB-17に代表されるような、量産工場での大量生産を前提として設計された大型航空機の出現による機動性の向上は、ロジスティクス(兵站)をはじめ戦場における距離の概念を大きく変えることになった。また、ジープなどの本格的な4輪駆動車の導入やバイクやサイドカーの導入など、地上においても機動性に重点をおいた兵器が数々登場し、その技術は広く民間にも浸透している。
- 戦術
- 戦車やそれを補佐する急降下爆撃機を中心にした電撃戦(ドイツ)、航空母艦やその艦載機による機動部隊を中心とした海上作戦(日本)、ボーイングB-29やB-17のような4発エンジンを持った大型爆撃機による都市部への無差別爆撃(アメリカ、イギリス)や、V1やV2などの弾道ミサイルによる攻撃(ドイツ)、戦闘機を敵艦に突進させるなどとした神風特別攻撃隊(日本)、非戦闘民に対する核兵器の使用(アメリカ)などは、第二次世界大戦中だけでなくその後の戦争戦術にも大きな影響を与えた。
- 技術・代用品の開発・製造
- 絹に替わるものとしてナイロンが生まれたように、天然ゴムにかわる合成ゴムの開発製造、人造石油の開発・製造などが行われた。
評価[編集]
帝国主義の終焉と植民地解放[編集]
第二次世界大戦は帝国主義が極限に達したことで勃発したが、結果的に帝国主義を終焉させ植民地解放を促す契機となった。
長年、イギリス、オランダ、フランス、アメリカなど白人諸国家の植民地統治下にあったアジア地域は、緒戦の日本軍の勝利と占領により、一時的に白人宗主国支配から切り離された。これにより非白人国が白人の宗主国を打倒した事実を、植民地統治下の住民が直接目にする事となった。これは被植民地住民にとって、宗主国・白人に対する劣等感を払拭する大きな力になったと、後年に中華民国総統・李登輝、マレーシア・マハティール・ビン・モハマド首相、インドネシア・スカルノ大統領など、当時の被植民地出身の首脳らが述べている。そして日本軍の敗北後、白人宗主国勢力がアジア地域に戻ってきた際、現地住民らは、一部日本軍兵士も含め、独立運動に立ち上がった。彼らは日本軍の遺棄兵器を、終戦直後の権力空白時に入手し、それが独立運動推進に寄与したとされる。以上の諸点から、日本がアジア各国の植民地解放を結果的に促進したとする見解がある。
また連合国の勝利で大日本帝国が崩壊し、同帝国統治下の朝鮮、その他太平洋諸国が独立し、台湾、満州国は中華民国領土へ復帰した。
なお、戦場とならなかったサハラ以南のアフリカ諸国(ブラックアフリカ)の独立運動がアジア地域より遅く、1960年代以降本格化した事は、この戦争の存在と大きく関係しているという意見も有るが、それはサハラ以南の地域では白人の宗主国が戦後も残存し、また経済・社会発展がアジア地域より遅れていたに過ぎない、という反論も有る。
東ヨーロッパにおいては戦勝国・ソビエト連邦が同地域のほとんどを占領し、バルト三国などを併合し、ポーランド、ドイツ、ルーマニアなどから領土を獲得すると共に、ポーランド、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどに親ソ共産主義政権を樹立させた。戦後冷戦下においてこれらの国を「衛星国」という名の新たな植民地として支配する事になり、その状態は1991年まで続いた。
大戦と民衆[編集]
第一次世界大戦は国家総力戦と呼ばれたが、第二次世界大戦で、一般民衆はさらに戦争と関わる事を余儀なくされた。戦場の拡大による市街地戦闘の増大や航空機による戦略爆撃、無差別爆撃。ナチスドイツによるホロコーストなど一民族への大量虐殺、日本軍による中国での大規模な破壊・略奪・虐殺を行った「三光作戦[59]」(燼滅作戦)など、戦争の様相は第一次世界大戦より過酷なものとなり、空前絶後の被害を受けた。さらに、侵略者に対し、占領下の民衆らによるパルチザン・レジスタンスなどゲリラ的に抵抗する活動が開始され、民衆自身が直接戦闘に参加した。しかし、それは時として正規軍関係者からの過酷な報復を招いた。
また、婦女子の産業・軍事への進出が第一次世界大戦当時より促進された。しかしこのことが多くの国において参政権を含む女性の権利獲得に大きな役割を果たした面もある。また原子爆弾や焼夷弾などの大量破壊兵器の登場は、多くの民衆を戦闘に巻き込んだ事から、彼らの反戦意識を向上させ、戦後の反戦運動や反核運動へ繋がっていった。
『よい戦争』[編集]
特に1970年代以降のアメリカでは、ベトナム戦争との対比で、第二次世界大戦を「よい」戦争 (good war) とみる風潮が広まった。「民主主義対ファシズム」の単純な構図でアメリカが前者を守る正義を行ったとみる。この動きを多数の大衆インタビューにより、スタッズ・ターケルは『よい戦争 (The Good War)』[1]としてまとめた。この本はその後ピューリッツァー賞を受賞した。
しかし、戦後の冷戦構造の中でアメリカは、上記のソビエト連邦の動きに対抗するべく「反共産主義的」であるとの理由だけで、チリやボリビアなどの中南米諸国や、韓国、フィリピン、南ベトナムなどのアジア諸国のファシズム的な軍事独裁政権を支援した。そのためにこれらの国は長きに渡り混乱と貧困の中に置かれた。日本の占領過程では暴力団を手先として使ったり、東條内閣の商工大臣であった岸信介や中国大陸で海軍の威を借りて現地人に対する略奪行為を指揮していた児玉誉士夫などを、一度は戦犯容疑者としながら従順で利用価値があるとみるや釈放し復権させるなど、影響圏に収めた国々で自らの利益を優先した行動をとった。
民主主義と戦争[編集]
大戦中「民主主義の武器庫」を自称していたアメリカは、それとは裏腹に深刻な人種差別を抱えていた。人手不足から被差別人種であるアフリカ系アメリカ人(黒人)も従軍することになったが、大戦中に将官になったものが1人もなく、大半の兵は後方支援業務に就かされる[60]など差別は解消されなかった。[61]参戦によっても差別構造が変わらなかったのは、主に暗号担当兵として多くが参戦したネイティブ・アメリカン(先住民)[62]も同様であった。
また、根強い黄禍論に基づいて繰り広げられた日系人に対する差別は、対日戦の開戦後に強行された日系人の強制収容により一層酷くなった。これは第二次世界大戦におけるアメリカの汚点の一つであり、問題解決には戦後数十年もの時間を要し、日系アメリカ人については1988年の「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)、日系ペルー人に至っては1999年まで待たなければならなかった。また、現在でもこれらの大戦時の日系人への差別行為の歴史については、アメリカ史の触れられたくない部分として、アメリカ社会では語ろうとする事さえタブー視される事が珍しくない。
一方で第442連隊戦闘団などの日系アメリカ人部隊の果敢な戦いぶりは、戦後日系アメリカ人に対する見方を大きく変える原動力となったが、あくまで印象が変わったという程度であり、現在においても、非公式な場での差別発言やアメリカ政府が日本政府に強硬に要求する態度に、アメリカ優位のものの見方が現れている。
また、敗戦国・日本に対し、大戦中戦争を指導するどころか、経験した事も無い戦後生まれが多数を占める現在においても、「謝罪と賠償は相続される」との観点(この論理からは、日本は、未来永劫謝罪と賠償をしなければならないとされている)から要出典、大戦当時は国家として存在すらしていなかった中華人民共和国や大韓民国によって謝罪と賠償を求めるロビー活動が、当該国内や日本国内、日本の最大輸出先であるがゆえ、日本に対し大きな影響力を持つアメリカ国内においても活発であり、また金銭面の誘惑からそれに同調、加担するアメリカの議員も多い。
第二次世界大戦を題材とした作品一覧[編集]
脚注[編集]
- ↑ Minus a Member at Time magazine on Monday, Dec. 25, 1939
- ↑ 油井大三郎・古田元夫著、『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』 中央公論社 1998年 p.191
- ↑ ここでは第二次世界大戦の背景として基本的な要因のみをあげる。より詳しくは第二次世界大戦の背景を参照のこと。
- ↑ なおこの時、ドイツによる事前の宣戦布告は行われなかった。
- ↑ この調印に際してドイツ軍は第一次世界大戦時に当時のドイツ軍が連合軍に対する降伏文書に調印した食堂車を特別に調印場所として用意した。
- ↑ 法的にはペタン元帥率いるヴィシー政府は合法的な正統政府であり、ド・ゴールの自由フランス亡命政府は、新政府の方針に反旗を翻し、脱走した陸軍将校ド・ゴールによる非合法的政府ともいえる。
- ↑ アフリカ方面では、アフリカ大陸に広大な植民地を持つフランスが降伏したことに伴い、北部のフランス植民地、アルジェリアとチュニジア、モロッコ、アフリカの東沖マダガスカル島などがヴィシー政権の管理下となった。
- ↑ イギリスのウィンストン・チャーチル首相は地中海のことを「ヨーロッパの下腹」と呼んだ。
- ↑ 現在のヴォルゴグラード。
- ↑ なお、国民の士気の低下を恐れて陸軍の英雄、ロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され、1944年10月18日、盛大な国葬が営まれた。
- ↑ 油井大三郎・古田元夫著、「世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ」(中央公論社 1998年)pp.104-105、およびウィンストン・チャーチル著、佐藤亮一訳、『第二次世界大戦』第四巻第19章(河出書房新社)
- ↑ 会談途中、7月25日の総選挙でチャーチル率いる保守党が労働党に敗北し、クレメント・アトリーと交代する。
- ↑ 当時はイギリスの植民地。
- ↑ 当時はアメリカの植民地。
- ↑ 当時はイギリスとオランダの植民地
- ↑ オランダの植民地。
- ↑ しかし後にポルトガル政府の暗黙のもと、両地を事実上統治下においた。
- ↑ 1932年に日本の協力の元に設立された「五族協和」を国是とした日本の事実上の傀儡政権。
- ↑ 1940年3月、日本の協力の元に汪兆銘を首班として南京に設立された政権。
- ↑ 現在のスリランカ
- ↑ 正式にはドイツ占領下のフランス。
- ↑ 戦死後海軍元帥となる。
- ↑ 日本は1940年以来、ヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに進駐し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日、「明号作戦」を発動してフランス植民地政府及び駐留フランス軍を武力で解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥る事は少なく、かなりの戦力を維持していたので連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行なわなかった。
- ↑ 8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も戦勝国の一員として臨席した。
- ↑ 中川右介 『カラヤンとフルトヴェングラー』 幻冬舎新書、2007年、112頁。 ISBN 978-4-344-98021-1
- ↑ カティンの森事件については1992年にロシア政府が謝罪した。
- ↑ 普仏戦争でのフランスの敗戦でドイツ領に併合、第一次世界大戦後、フランス領に復帰する。
- ↑ その多くが第一次世界大戦までの旧ドイツ帝国領だった。
- ↑ アメリカ・イギリス・フランス管理エリアとソ連管理エリア。
- ↑ 一部の西ドイツの政府高官もその逃亡に有形無形の援助を行った。
- ↑ 永世中立国宣言、ドイツとの合邦を永久に禁止した。
- ↑ さらにドイツの外務大臣にも就任した。
- ↑ 共に現在のリビア。
- ↑ 現在のソマリア。
- ↑ 中西輝政『大英帝国衰亡史』、PHP研究所、1997年 ISBN4-569-55476-8
- ↑ 現在はリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ。
- ↑ 現在のセルビアのボイボディナ自治州などが範囲。
- ↑ 森田安一『物語 スイスの歴史』(中公新書、2000)pp.241-243
- ↑ デンマークは受諾した。
- ↑ フィンランドへの義勇軍は、ナチスではなくソ連に向けられていた。
- ↑ 半藤一利「昭和史」
- ↑ 沖縄を始めとする各地にアメリカ軍の基地が存在しており、騒音問題やアメリカ軍人による日本人女性への強姦などアメリカ兵による犯罪が多発していることもあり、返還が議論されている。
- ↑ 南京大虐殺を巡っての論争や、靖国神社問題、歴史教科書問題、慰安婦問題などがある
- ↑ 軍隊の非保有、法律制定に対するアメリカ大使の同意権など。
- ↑ 宗主国の国力の疲弊とそれに伴い直接支配がもはや利益を齎さないと判断され放棄された、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、日本軍統治下で創設された対日協力軍の独立軍への転化、戦前から独立が予定されていた、本国で人道上の理由により植民地支配への批判が高まったなどがある。
- ↑ これらの活動については日本語書籍では市川健二郎著『自由タイの指導者達 日本占領下のタイの抗日運動』勁草書房、1987年 ISBN 4326350733 や同氏による論文等を参照。タイ語では ดร.วิชิตวงศ์ ณ ป้อมเพชร: ตำนานเสรีไทย เริงไชย พุทธาโร บรรณาธิการ, กรุงเทพฯ: แสนด่าว, 2546 ISBN 9749590651 が自由タイに関する古典的著作とされている。
- ↑ คณะรัฐมนตรีคณะที่ ๑๐: ๗ มีนาคม ๒๔๘๕ - ๑ สิงหาคม ๒๔๘๗ - สำนักเลขาธิการคณะรัฐมนตรี
- ↑ 赤木攻『タイ政治ガイドブック』Meechai and Ars Legal Consultants CI.,LTD.、1994年、p258
- ↑ Terwiel B.J.: Thailand's Political History, Bangkok: River Books, 2005, p.279, ISBN 9749863089
- ↑ 村嶋英治著『現在アジアの肖像9 ピブーン 独立タイ王国の立憲革命』岩波書店、1996年、p.245、 ISBN 4000048643
- ↑ 長崎暢子「第9章 ガンディー時代」p.422 辛島昇編『南アジア史』(山川出版社 2004年)、英領インドが成立して以来、対英負債を抱えてきたのは常にインドである。(省略)だが、第二次世界大戦は長い間の債務関係を一挙に逆転させ、今度はイギリスが、1945年に13億ポンドという膨大な負債をインドに対して持つ債務国となった
- ↑ Ibid. p.422
- ↑ Ibid. p.422-423
- ↑ ウリ・ラーナン他著、滝川義人訳『イスラエル現代史』p.87
- ↑ 1943年に、レバノンとシリアは独立を達成した。
- ↑ 油井大三郎・古田元夫著、「世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ」(中央公論社 1998年)pp.207-210
- ↑ 油井大三郎・古田元夫著、「世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ」(中央公論社 1998年)pp.212-213
- ↑ 詳細は en:Ecuadorian-Peruvian war を参照
ただし、例外として、枢軸と連合関係なく、ペルーとエクアドルは領土の問題で軍事衝突が起こった為、事実上南米大陸では戦争は起きている。
- ↑ これは日本語として不自然な漢語由来の名称であるから作戦自体が中華民国及び中国共産党のプロパガンダであるとする主張もある。
- ↑ 実際の戦闘に参加したものは5%に過ぎなかった。
- ↑ アメリカ政府によるアフリカ系アメリカ人に対する法的な差別の解消は、1960年代に活発化した公民権運動とそれの結果による公民権法の成立を経なければならなかった。ただし、現実の差別解消はその後数十年経った現在もなお完全に実現されたとは言い難く法の下では平等であっても社会的な生活階層に占める人種割合や下位の社会階層から抜け出る事が人種により差が残る等世俗慣習として差別は依然として残っている。アメリカ政府はアメリカは自由で平等な国であるので、差別は国内には存在しないとしている。
- ↑ ナバホ族の難解な言語をそのまま暗号としてを用いた。コードトーカー参照
参考文献[編集]
- 総記
- 福田和也『第二次大戦とは何だったのか?』筑摩書房 2003年 ISBN 4-480-85773-7
- 油井大三郎・古田元夫 『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論社 1998年 ISBN 4-12-403428-8
- 防衛庁防衛研究所戦史部編 『戦史叢書』 朝雲新聞社
- J.M.ロバーツ 『世界の歴史9 第二次世界大戦と戦後の世界』 五百旗頭真訳 創元社 2003年 ISBN 4-422-20249-9
- 軍事史学会編 『第二次世界大戦 発生と拡大』 錦正社 1990年
- 回顧録・評伝
- ウィンストン チャーチル『第二次大戦回顧録』毎日新聞社(翻訳)毎日新聞社 ISBN 4-1220-3864-2
- 産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班 『ルーズベルト秘録』扶桑社 2000年 ISBN 4-594-03015-7
- ロベール・ギラン『アジア特電 1937~1985―過激なる極東』矢島翠訳毎日新聞社1986年
- 田久保忠衛『戦略家ニクソン』中央公論社1996年 ISBN 4-12-101309-3
- 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』新潮社 2003年 ISBN 4-7641-0454-7
- ロバート・ホワイティング『東京アンダーワールド』 勁文社 / 角川文庫 2000年 ISBN 4-04-247103-X
- 立作太郎『平時国際法論』(日本評論社)
- 川上忠雄『第二次世界大戦論』(風媒社) ISBN 4-8331-0207-2
- ズビグネフ・ブレジンスキー『「大いなる失敗―20世紀における共産主義の誕生と終焉』 伊藤憲一訳 飛鳥新社 1989年
- 各国史
- 武田龍夫 『物語 北欧の歴史』 中公新書 1993年 ISBN 4-12-101131-7
- 萩原宜之 『ラーマンとマハティール』 岩波書店 1996年
- 森田安一 『物語 スイスの歴史』 中公新書 2000年 ISBN 4-12-101546-0
- ウリ・ラーナン他『イスラエル現代史』滝川義人訳 明石書店 2004年 ISBN 4-7503-1862-0
- 堀口松城 『レバノンの歴史』 明石書店 2005年 ISBN 4-7503-2231-8
- 辛島昇編 『南アジア史』 山川出版社 2004年 ISBN 4-634-41370-1
- 中西輝政 『大英帝国衰亡史』 PHP研究所 1997年 ISBN 4-569-55746-8
関連項目[編集]
- 第二次世界大戦の背景
- 第二次世界大戦の参戦国
- 第二次世界大戦の会談・会議
- 第二次世界大戦に関連する人物の一覧
- 第二次世界大戦を題材とした作品一覧
- 第二次世界大戦に関する映画の一覧
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