「小沢一郎」の版間の差分
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− | '''小沢 一郎'''(おざわ | + | [[Image:小沢一郎.jpg|400px|thumb|小沢 一郎]] |
+ | [[ファイル:小沢一郎 2.jpg|240px|thumb|小沢一郎]] | ||
+ | [[Image:小渕・小沢・海部.jpg|300px|thumb|[[自民党総務会]]で新幹事長が了承され握手する[[小渕恵三]]幹事長、[[小沢一郎]]前幹事長、[[海部俊樹]]首相。[[1991年]][[4月8日]]撮影]] | ||
+ | [[ファイル:小沢一郎 3.jpg|300px|thumb|小沢一郎の本音]] | ||
+ | [[ファイル:小沢一郎 4.jpg|300px|thumb|小沢一郎の本音]] | ||
+ | '''小沢 一郎'''(おざわ いちろう、[[1942年]][[5月24日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[衆議院議員]](14期)。民主党幹事長(第9代)。'''小澤 一郎'''(おざわ いちろう)とも表記されることもある。 | ||
− | [[ | + | [[自治大臣]]([[第2次中曽根内閣第2次改造内閣|第34代]])、[[国家公安委員会委員長|国家公安委員長]]([[第2次中曽根内閣第2次改造内閣|第44代]])。[[自由民主党]][[自由民主党幹事長|幹事長]]、[[新生党]]代表幹事、[[新進党]][[党首]](第2代)、[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]党首、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]][[民主党代表|代表]](第6代)、民主党代表代行(筆頭・選挙担当)、民主党幹事長を歴任。 |
− | {{ | + | == 経歴 == |
− | [[ | + | === 生い立ち === |
+ | [[東京府]][[東京市]][[下谷区]](現在の[[東京都]][[台東区]])[[御徒町]]に[[弁護士]]で東京府会議員だった父・[[小沢佐重喜]]、母・みちの[[長男]]として生まれる。父は44歳、母は42歳という高齢で生まれたため、まるで“[[孫]]みたいな”子供だったという。母・みちは元千葉県会議員[[荒木儀助]]の四女である。一郎は、みちにとってははじめて生んだ子供である。[[本籍地]]は[[岩手県]][[奥州市]](旧[[水沢市]])。3歳から14歳まで郷里の水沢で育った。 | ||
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+ | 水沢市立常磐中学校(現在の奥州市立東水沢中学校)の2年生を終了すると、東京の[[文京区立第六中学校]]に[[転学|転校]]する。言葉も[[東北弁|東北訛り]]の一郎は、なかなか級友たちの中に入っていけず、いつも教室の片隅でひとりぽつんと座っていたという。 | ||
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+ | [[東京都立小石川高等学校]]卒業後、父と同じ弁護士を目指して[[東京大学]]を志望し、2年間[[過年度生|浪人]]したが断念して、[[慶應義塾大学]][[経済学部]]、[[日本大学]][[大学院]][[法学研究科]]へと進学した。 | ||
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+ | === 自由民主党時代 === | ||
+ | ==== 田中派時代 ==== | ||
+ | 大学院在学中の[[1969年]]、父・佐重喜の急死に伴い[[第32回衆議院議員総選挙|第32回衆院選]]に旧岩手2区から[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を[[自由民主党幹事長|党幹事長]]として指揮したのが[[田中角栄]]で、以後[[木曜クラブ]](田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受けた。 | ||
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+ | 自民党総務局長、[[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]]を歴任し、[[1985年]]に[[第2次中曽根内閣第2次改造内閣]]で[[自治大臣]]兼[[国家公安委員長]]として初入閣した。 | ||
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+ | ==== 竹下派時代 ==== | ||
+ | 1985年、木曜クラブの領袖として影響力を保持していた田中に、反旗を翻した[[竹下登]]、[[金丸信]]らと共に派内勉強会「[[創政会]]」を結成。のちに[[経世会]](竹下派)として独立した。竹下の総裁就任に奔走し[[日本皇民党]]事件の際には金丸とともに[[稲川会]]幹部の元に出向いている。[[竹下内閣]]の発足後、小沢は党・[[政府]]の要職を歴任し[[竹下派七奉行]]の一人に数えられ、[[官房副長官]]にも就任した。 | ||
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+ | [[第1次海部内閣|第1次海部俊樹内閣]]では[[自由民主党幹事長|党幹事長]]に就任。苦戦が予想された[[第39回衆議院議員総選挙|第39回衆院選]]を、[[自由主義]]体制の維持を名目に[[経済団体連合会]](経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、勝利したなどの実績から'''「剛腕」'''と称された。 | ||
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+ | [[1990年]]、金丸を代表とする[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]訪問団(金丸訪朝団)に参加する。 | ||
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+ | 同年[[8月]]、[[湾岸戦争]]が勃発し、小沢は[[ペルシャ湾]]への[[自衛隊]]派遣を模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する[[外務省]]を抑え法案を提出した(なお、この法案は[[野党]]の反対で廃案となり、後に[[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律]](PKO協力法)が成立)。自衛隊派遣について国会で[[公明党]]の協力を得るため、[[東京都知事選挙]]で自民党東京都総支部連合会が推す現職の[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]]に代わり、新人の[[磯村尚徳]]を擁立するも都連が鈴木を支援した事もあり敗北。なおこの都知事選公示直前に出馬に意欲的であった[[アントニオ猪木]]と会談し猪木を出馬断念に追い込んだがこの際に多額の金銭が動いたと一部報道で報じられた。[[1991年]][[4月]]、責任を取り党幹事長を辞任した。直後に経世会会長代行に就任し、名実とともに派閥のNo.2となった。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めた。 | ||
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+ | 同年、政治改革法案が国会で廃案となったことを受け、首相の海部が衆議院の解散総選挙をぶち上げたが、党内の反発を招き、海部は首相辞任に追い込まれた([[海部おろし]])。その際、金丸が小沢に対し後継首相となるよう命じ、金丸の意を受けた[[渡部恒三]]なども小沢を説得したが、当時49歳という年齢や心臓病([[狭心症]])で[[6月]]に倒れたことなどを理由にこれを固辞したとされる。だが、[[田勢康弘]]から「この逸話は実は真実ではない」と指摘されており、このようなやり取りは実際には存在せず、金丸や竹下は当初から[[宮澤喜一]]擁立を目指していたとされている。 | ||
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+ | [[10月10日]]、[[自由民主党総裁選挙]]での派閥が支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮沢、[[渡辺美智雄]]、[[三塚博]]と自身の個人事務所でそれぞれ面談した(小沢面接)。しかし宮沢や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は当選回数こそ小沢よりも一回少ないが、年齢は小沢より上だった)を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。このことは後々まで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた(実際は当日[[ホテル]]の会場が満室でどこも予約できず、3人の事務所を小沢が訪ねる予定だったのだが、推薦を受ける立場の人間を訪ねてもらうのは失礼だという話になり、小沢の事務所で面談することになったという。宮沢も後に『日本経済新聞』連載の「[[私の履歴書]]」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧した)。 | ||
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+ | ==== 竹下派分裂、羽田派結成 ==== | ||
+ | [[1992年]]、[[東京佐川急便事件]]を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け派閥会長を辞任、議員辞職した(東京佐川急便事件に関しては、小沢も[[1993年]][[2月17日]]に[[証人喚問]]を受けている)。後継会長に小沢は金丸に近かった渡部恒三、[[奥田敬和]]らと共に[[羽田孜]]を擁立し、竹下直系の[[小渕恵三]]を推す[[橋本龍太郎]]、[[梶山静六]]らと対立。当初中立であった参院竹下派に竹下自らが関与して小渕支持を決定。この結果として後継会長は小渕に内定した。敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと[[改革フォーラム21]](羽田派)を旗揚げし、派閥は分裂した。 | ||
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+ | [[宮沢内閣改造内閣|宮沢喜一改造内閣]]における羽田派の閣僚ポストは、[[経済企画庁長官]]([[船田元]])と[[科学技術庁長官]]([[中島衛]])の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派は反主流派に転落した。これに対し小沢は主流派を「[[守旧派]]」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった[[政治改革]]の主張を全面に訴えた。 | ||
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+ | こうした中で小沢は、[[5月20日]]に、著書『[[日本改造計画]]』を発表した(実際に店頭に並んだのは6月下旬)。同書は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録し、1993年を代表する[[ベストセラー]]になった。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめた。 | ||
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+ | === 自民党離党、非自民連立政権成立 === | ||
+ | [[1993年]][[6月18日]]、野党から宮沢[[内閣不信任決議|内閣不信任案]]が上程され、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した([[嘘つき解散]])。同年[[6月21日]]に[[武村正義]]らが自民党を離党([[新党さきがけ]]を結党)した。これが羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、[[6月23日]]、[[新生党]]を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首(羽田)の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。[[新生党]]代表幹事時代には[[番記者]]との懇談会を廃止し、これまでの[[記者クラブ]]中心の会見から海外[[マスメディア|メディア]]や[[週刊誌]]記者なども会見に参加できるようにし注目を集めた。一方、自分の意に沿わぬ記事を書いたメディアと対立を起こした。 | ||
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+ | [[7月18日]]、[[第40回衆議院議員総選挙|第40回衆院選]]において自民党は過半数割れし、新生党、[[日本新党]]、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢内閣は総辞職した(後任の自民党総裁に[[河野洋平]]が選出)。小沢は総選挙直後から日本新党代表の[[細川護煕]]と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜した。[[8月9日]]、8党派連立の[[細川内閣]]が成立した。 | ||
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+ | 細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党[[書記長]]の[[市川雄一]]とともに政権の主導権を握ろうとし([[一一ライン]])、官邸主導の政治を目論む[[内閣官房長官]]の[[武村正義]]と激しく対立した。 | ||
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+ | [[1994年]]、小沢と[[大蔵事務次官]]の[[斎藤次郎]]が中心となり、[[消費税]]を廃止し7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定した。[[2月3日]]未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発を受けた。また、[[日本社会党|社会]]・さきがけ・[[民社党|民社]]各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。内閣官房長官の武村は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化した。武村か小沢かの選択を迫られた細川は小沢に軍配を上げ、政権の主導権を奪われた武村や武村率いるさきがけは与党内で孤立し、武村と細川の仲も急速に冷却する。一連の動きに嫌気がさした細川は、[[4月]]に突然辞意を表明した。 | ||
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+ | 細川の首相辞任を受けて、小沢は[[渡辺美智雄]]との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫。連立与党は羽田の後継首班に合意した。しかし、[[1994年]][[4月25日]]の[[首班指名]]直後に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、社会党は連立政権を離脱し、[[羽田内閣]]は少数与党となった。 | ||
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+ | 羽田内閣は1994年度[[予算]]を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが、結局は解散総選挙を断念。[[6月25日]]に内閣総辞職し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。 | ||
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+ | 小沢は羽田の後継として、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の[[海部俊樹]]を担ぐことを決めた。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、[[番町政策研究所|新政策研究会]](河本派)代表世話人でもあった。[[1994年]][[6月29日]]、自民党は[[内閣総理大臣指名選挙|首班指名選挙]]で社会党委員長の[[村山富市]]に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、「[[自由改革連合]]」を結成、連立与党の首班候補となった。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために、小沢の豪腕が必要とされた。 | ||
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+ | === 新進党時代 === | ||
+ | 1994年[[9月28日]]、[[日本共産党]]を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成された。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。こうして小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年[[12月10日]]に[[新進党]]結成大会が行われた。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任した。 | ||
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+ | [[1995年]][[7月]]、[[第17回参議院議員通常選挙|第17回参院選]]で、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得した。同年[[12月]]に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突し、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。しかし、この党首選挙直後に投票者名簿が破棄されるなど、選挙結果が不明瞭であったため、羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。 | ||
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+ | [[1996年]][[10月20日]]に[[第41回衆議院議員総選挙|第41回衆院選]]が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として[[消費税]]率の3%据え置き、18兆円[[減税]]を[[公約]]したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。原則比例代表との重複出馬を禁止とし、比例区で[[創価学会]]の支援を期待し[[公明党]]系の議員を優遇したため選挙地盤の弱い若手の[[新党ブーム]]世代の議員が多数落選したため、強い反発を浴びこれが後の政局においても禍根を残す事になった。また選挙直後開票中にも関わらず深夜になるまで党本部に姿を見せず雲隠れするなど党首としてあるまじき態度を取った事も強い批判を浴びた。 | ||
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+ | 総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、1996年[[12月26日]]、羽田は奥田敬和、[[岩國哲人]]ら衆参議員13名と共に新進党を離党、[[太陽党]]を結成した。 | ||
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+ | [[1997年]]、小沢は自民党の[[亀井静香]]らと提携する、いわゆる[[保保連合構想]]に大きく舵を切った。しかし、新進党内には、こうした保保連合路線に対して[[二大政党制]]を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、[[鹿野道彦]]は政策研究会「改革会議」を結成した。 | ||
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+ | [[12月18日]]の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が[[第18回参議院議員通常選挙|次期参院選]]を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。[[12月27日]]に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は混乱に陥り、分党を決定した[[両院議員総会]]は、混沌のうちに終わった。 | ||
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+ | === 自由党時代 === | ||
+ | ==== 結党・与党復帰 ==== | ||
+ | [[1998年]][[1月6日]]、[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]を結成、小沢は党首に就任した。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]に譲り渡した。 | ||
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+ | 同年[[7月12日]]の[[第18回参議院議員通常選挙|第18回参院選]]では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり[[比例代表制|比例代表]]で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参院選後の[[臨時会|臨時国会]]では、首班指名に民主党代表の[[菅直人]]を野党統一候補に臨み、参院では自民党の[[小渕恵三]]を抑え菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、[[衆議院の優越]]の原則から小渕が首相に就任した)。 | ||
+ | 小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。 | ||
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+ | 1998年[[10月]]、小沢は内閣官房長官[[野中広務]]と会談、連立交渉を開始し、同年[[11月19日]]、小渕内閣との間での連立政権について合意した。そして[[1999年]][[1月14日]]正式に[[自自連立政権]]が成立し、党幹事長の[[野田毅]]が[[自治省|自治大臣]]として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。この連立の間に衆議院[[議員定数]]20の削減、閣僚ポストの削減、および[[政府参考人|政府委員]]制度の廃止と[[党首討論]]設置を含む国会改革が行われた。 | ||
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+ | 1999年7月、公明党が政権に入り、[[自自公連立政権]]が成立した。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下した。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。[[中曽根康弘]]、[[亀井静香]]等は小沢の復党を認める方針であったが党内の反小沢勢力は「小沢の復党は認められない、小沢抜きでの復党は認められる。」とし小沢自身も「復党が認められなければ連立解消だ。」と珍奇ともいえる主張を行い両者は[[2000年]][[4月1日]]、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消した(なお、この後に小渕は[[脳梗塞]]で倒れ、[[5月14日]]に死去した)。 | ||
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+ | ==== 分裂 ==== | ||
+ | 自由党は、小沢を支持する連立離脱派と、[[野田毅]]・[[二階俊博]]などの連立残留派に分裂し、残留派は[[保守新党|保守党]]を結成した(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。小沢と袂を分かった保守党は[[政党助成金]]を半分ずつ分け合うために[[分党]]を要求したが、自由党はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。 | ||
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+ | [[2000年]][[6月25日]]の分裂直後に行われた[[第42回衆議院議員総選挙|第42回衆院選]]で、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦した。このとき、約20億円を投じたとされる[[テレビ]][[コマーシャルメッセージ|CM]](小沢が顔を殴られる)は話題となった(一方、保守党は7議席へと激減)。連立離脱後は野党共闘路線へ舵を切ることを余儀なくされたが、(過去に小沢から酷い目に合わされたと感ずる)旧新進党や旧社会党出身者が多い民主党を始めとした野党との関係は当然ギクシャクしたものにならざるを得なかった。 | ||
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+ | [[2001年]][[1月]]、将来の指導者育成を目指し、党内に[[小沢一郎政治塾]](小沢塾)を開設した。なお、小沢塾は民主党との合併後は小沢個人の私塾として運営。 | ||
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+ | 同年[[7月29日]]の[[第19回参議院議員通常選挙|第19回参院選]]では、自民党に[[小泉旋風]]が吹き、小沢の地元・[[岩手県選挙区]]でも大苦戦を強いられたが、僅差で勝利した。議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票に止まった(第18回参議院選挙より約100万票、第42回衆議院選挙より約220万票の減少)。 | ||
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+ | === 民主党へ合流 === | ||
+ | [[2002年]]、第19回参議院選挙での結果もあって、小沢は[[鳩山由紀夫]](当時[[民主党代表]])からの民主・自由両党の合併に向けた協議提案を受け入れた。しかし、民主党内の調整が不十分であったこと及び民主党内の小沢に対する拒否反応の為に頓挫した(なお、鳩山は代表辞任に追い込まれた)。鳩山辞任後に[[民主党代表]]に選出された[[菅直人]]によって、いったん合併構想は白紙に戻ったが、小沢は党名・綱領・役員は民主党の現体制維持を受入れることを打診し、両党間で合併に合意した。 | ||
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+ | 自由党と民主党の合併の直前に、自由党から13億6816万円の寄付が[[改革国民会議]]に対して行われた。改革国民会議は小沢一郎が代表を務めており小沢の関連団体である。13億6816万円のうち5億6096万円が税金を原資とする[[政党助成金]]であった。後にこの行為は問題視され、政党助成金法改正案として議論された。 | ||
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+ | [[2003年]][[9月26日]]、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は民主党の代表代行に就任した。[[11月9日]]の[[第43回衆議院議員総選挙|第43回衆院選]]で民主党は、公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得。民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の[[横路孝弘]]だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を共にした。また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが失敗に終わった。経済政策では、それまでの[[新自由主義]]から「地方経済」と「[[雇用]]」の重視の方針へ転換した。 | ||
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+ | 当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、[[東北地方]]出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。 | ||
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+ | [[2004年]][[5月]]、[[政治家の年金未納問題|年金未納問題]]による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅の後継代表に小沢が内定したが、直後に小沢自身も[[国民年金]]が強制加入制度になる[[1986年]]以前に未加入だったとして代表就任を辞退した(結局、[[岡田克也]]が後任代表となった)。2004年[[7月11日]]に行われた[[第20回参議院議員通常選挙|第20回参院選]]の後、岡田の要請により党副代表に就任した。 | ||
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+ | [[2005年]][[9月11日]]、[[第44回衆議院議員総選挙|第44回衆院選]]で民主党は現有議席を60近く減らす惨敗を喫し、岡田は代表を引責辞任し、小沢も党副代表の職を辞任した。岡田の後任代表となった[[前原誠司]]は、小沢に党代表代行への就任を依頼したが、これを固辞した。 | ||
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+ | === 民主党代表 === | ||
+ | ==== 代表就任 ==== | ||
+ | [[画像:Ichiro Ozawa election.jpg|200px|thumb|民主党ポスターの張られた様子([[2008年]]1月、[[広島県]][[甲奴町]])]] | ||
+ | [[2006年]][[3月31日]]に前原が、「[[堀江メール問題]]」の責任を取って党代表を辞任、[[4月7日]]の民主党代表選で小沢は119票を獲得し[[菅直人]]を破り、第6代の民主党代表に選出された。両院議員総会の演説で小沢は、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という19世紀のイタリア貴族の没落を描いた映画『[[山猫 (映画)|山猫]]』の一節を引用し、その上で「まず、私自身が変わらなければなりません」と述べ、「ニュー・小沢」を印象づけた。 | ||
+ | |||
+ | 代表選後、小沢は菅を党代表代行、鳩山由紀夫を党幹事長にする[[トロイカ体制]]を敷いた。また、前執行部と[[民主党の次の内閣一覧|次の内閣]]メンバー全員を残留させた。小沢は[[政令指定都市]]・[[都道府県]]の[[首長]][[選挙]]に関しては原則として[[相乗り]]禁止の方針を打ち出した。 | ||
+ | |||
+ | 大半の民主党議員は、小沢の代表就任まで自民党幹事長時代はおろか、つい最近の小沢の動向すら知らず、「選挙に強い」という噂を頼り半信半疑で眺めている者も少なくなかったが、小沢が党代表に就任した直後の[[4月23日]]に、メール問題での逆風下にあった衆議院[[千葉県第7区|千葉7区]][[補欠選挙]]で、僅差ながら勝利を収めた。半年後の[[9月12日]]の民主党代表選に[[無投票]]で再選された。 | ||
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+ | [[5月9日]]の会見で、衆院本会議を欠席しがちな理由として「食後すぐに仕事にとりかからないなど、医者の忠告を守っている」と、自身の体調管理を理由に挙げたことに関し、「議会軽視だ」と各方面から厳しい批判を受けた。また、自身の健康状態を語ったことに対して様々な憶測が流れた。[[9月25日]]臨時党大会で正式に代表に再選された後、[[狭心症]]の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院した。[[10月5日]]に退院し、自身の[[動脈硬化]]が進んでいることを明らかにした。 | ||
+ | |||
+ | ==== 国会運営 ==== | ||
+ | 民主党代表時代の小沢の国会での論戦は、前原時代の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にした。自著『[[日本改造計画]]』では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという立場を取った。一方、議員数の多さを背景に[[強行採決]]した場合には徹底抗戦や[[審議拒否]]も辞さない戦う野党の姿勢も示した。ただし、この姿勢は審議拒否を度々行うことで「充分な審議を放棄した」「与党案の成立を手助けしている」との批判を生むことがあった。 | ||
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+ | ==== 外交政策での党内対立 ==== | ||
+ | 2006年10月に北朝鮮が[[核実験]]を行った後の[[朝鮮半島]]情勢は「[[周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律|周辺事態法]]」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢ら[[トロイカ体制]]の見解を発表した。しかし、これに対して前代表である前原誠司を始めとする党内の若手から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。 | ||
+ | |||
+ | 小沢は「[[核武装論|核武装の論議]]を是認すれば『[[非核三原則]]を守る』という言葉も国民や国際社会に受け入れられない」と指摘した。しかし、その考えに不満を持つ一部[[保守]]層などが、自由党党首時代[[2002年]]の小沢の発言である「日本は一朝で数千発の[[核弾頭]]を持てる。」と日本の核保有能力について発言したことと比較して批判した。 | ||
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+ | [[防衛庁]]の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。民主党内には依然反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議に欠席した。 | ||
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+ | ==== 統一地方選、参院選 ==== | ||
+ | [[2007年]][[4月8日]]に[[統一地方選挙]](前半)が行われ、地元・岩手県の[[岩手県知事|知事]]選挙で'''小沢チルドレン'''の代表格である[[達増拓也]]が当選。[[岩手県議会]]議員選挙でも、議席を増やし第1党を維持し、その他の道府県議選・政令市議選でも民主党は230議席(合併前の自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。 | ||
+ | |||
+ | [[4月22日]]に行われた[[統一地方選挙]](後半)では、[[地方議会|市町村議会選挙]]で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。 | ||
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+ | [[7月29日]]に行われた、[[第21回参議院議員通常選挙]]で民主党は60議席を獲得、参議院第1党となり、野党全体(共産党を含む)で過半数を得た。選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかったが、[[7月31日]]の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けるとした。また、8月に前代表・前原、元代表・岡田等が党副代表に就任し、挙党体制を構築した。 | ||
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+ | ==== ねじれ国会 ==== | ||
+ | [[8月8日]]には、[[11月]]に期限切れとなる[[テロ対策特別措置法]](テロ特措法)問題についてマスコミ公開の中、アメリカの駐日大使[[ジョン・トーマス・シーファー]]と会談した。シーファーは小沢にテロ対策特別措置法の期限延長に対する理解を求めたが、小沢は[[アフガン戦争]]が国際社会の[[コンセンサス]]を得ていないとして[[海上自衛隊]]の支援活動は認められないと主張し、反対の意向を示した。[[8月30日]]にはドイツ首相[[アンゲラ・メルケル]]と会談したが、この席でも改めてアフガン戦争が国連によるコンセンサスを得たものではないと主張した。結局テロ特措法は[[安倍改造内閣|安倍内閣]]の突然の総辞職で、有効期限の延長が出来なくなり、そのまま失効した。 | ||
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+ | [[9月12日]]に首相辞任を表明した[[安倍晋三]]の後任となる、[[内閣総理大臣指名選挙]]が[[9月25日]]に行われ、参議院で決選投票の末に[[福田康夫]](自民党総裁)を抑えて、小沢が指名された(小沢133票、福田106票)。なお、衆議院で指名された福田が[[衆議院の優越]]規定に基づき首相となった。なお、両院の指名が異なったのは[[小渕恵三]]内閣下で民主党の[[菅直人]]が指名されて以来、9年ぶり4度目であった。 | ||
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+ | 2007年[[11月2日]]、小沢は福田と会談し、連立政権について提案があった為、意見を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったが、民主党内の反対を受け連立を拒否した。[[11月4日]]、連立騒動の責任を取り代表辞任を表明したが、民主党内の慰留を受け、[[11月6日]]代表続投を表明。[[11月7日]]の両院議員懇談会で代表続投が承認された。{{main|大連立構想 (日本 2007)}} | ||
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+ | その後、テロ特措法の後継の法律として衆議院に提出されていた[[テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法案]](新テロ特措法)に対する議決が行われ、民主党が多数を占める参議院では反対多数で否決されたが、[[2008年]][[1月11日]]に衆議院本会議で与党の3分の2以上の賛成多数で再び可決・成立した。この再可決の本会議で小沢は採決直前に退席し、党内の一部や他の政党の議員から批判された。対して小沢は「前からの約束で、選挙の約束は一番たがえてはいけないものだ」と強調。[[2008年大阪府知事選挙|大阪府知事選挙]]の応援があったこともあげ、新テロ対策特措法について、「国民にとっても民主党にとっても大事な法案ではない。反対の意思表示は既にしている。後は数あわせの本会議でしかない。結果は目に見えている。批判は理解できない。国民は理解してくれていると思う」と反論した。 | ||
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+ | [[2月29日]]、衆議院で2008年度予算案が野党3党の欠席のなかで強行採決された。小沢はこれに対し「信頼関係が完全に崩壊した」と発言し、強行採決をしたことで[[日本銀行総裁]]人事に影響を及ぼすのは、避けられないとの態度を示す。民主党も強行採決されたのを受け[[武藤敏郎]]副総裁の[[日本銀行]]総裁への昇格を拒否する方針を決め、参議院で日銀総裁人事を否決した。[[3月18日]]、政府与党は改めて[[田波耕治]]を総裁候補として提示したが、この人事案も参議院で不同意となり、結果として[[白川方明]]が総裁に就任した。 | ||
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+ | [[9月22日]]、民主党代表選で小沢が無投票での3選を果たした。 | ||
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+ | [[10月23日]]、前日まで衆院選対策のため福岡を訪れていたが、予定されていた[[インドの歴代首相|インド首相]][[マンモハン・シン]]との会談を、体調不良を理由に欠席、「会談の頭だけでも出た方がいいと代表にいってほしい」との[[鳩山由紀夫]]幹事長の説得も受け付けず、党役員会などの公務もキャンセルし、鳩山が代わって会談した。翌24日に公務へ復帰、衆院選対策のため青森へ出張した。 | ||
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+ | [[2009年]][[5月11日]]、西松建設疑惑関連で公設秘書が逮捕された件で、民主党代表を辞任した。自身の後継を決める代表選挙では、側近として共に[[トロイカ体制]]を支えた[[鳩山由紀夫]]を支持し勝利に導いた。 | ||
+ | |||
+ | === 民主党代表代行 === | ||
+ | [[5月17日]]、選挙担当の代表代行に就任。[[菅直人]]が代行が多くなったことから小沢に筆頭となるよう要請し、3名の代表代行の中では筆頭扱いとなった。代表代行への就任は実に5年ぶりとなる | ||
+ | 。 | ||
+ | |||
+ | [[第45回衆議院議員総選挙]]で政権交代を果たした後の[[9月3日]]、[[鳩山由紀夫]]民主党代表が小沢に幹事長就任を要請した。これに対し「代表から幹事長の就任を要請された。私は党人だから、お受けすると返事をしてまいりました」と述べ、要請を受け入れる意向を表明した。小沢の幹事長就任については、鳩山の掲げる「政策決定の内閣への一元化」に反して政府と与党の「権力の二重構造」となり、政策面で小沢の影響を排除できなくなるとの見方がでたが、これについて鳩山は「幹事長は党務だ。政策の決定は政府でやると確認した」と述べた。 | ||
+ | |||
+ | === 民主党幹事長 === | ||
+ | [[2009年]][[9月15日]]の民主党両院議員総会において、正式に幹事長に就任した。 | ||
+ | |||
+ | == 東日本大震災で国民見捨て放射能怖さに逃げた小沢一郎元代表!和子夫人が「離婚しました」と手紙「隠し子」も綴る == | ||
+ | 「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃 | ||
+ | |||
+ | 民主党の小沢一郎元代表(70)の和子夫人(67)が、[[2011年]]11月に地元・岩手県の複数の支援者に、「離婚しました」という内容を綴った手紙を送っていた。 | ||
+ | |||
+ | 便箋11枚にも及ぶ長い手紙の中で、和子夫人は、2011年3月の[[東日本大震災]]後の小沢元代表の言動について触れ、「このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」と書いている。 | ||
+ | |||
+ | 手紙では、小沢元代表の愛人や隠し子の存在についても触れている。8年前に隠し子の存在がわかったとき、小沢元代表は和子夫人に謝るどころか、「いつでも離婚してやる」と言い放ち、和子夫人は一時は自殺まで考えたとも記している。そして、このように綴っている。 | ||
+ | |||
+ | 「それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水を差すようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました。ところが3月11日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました」 | ||
+ | |||
+ | 「国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのです」 | ||
+ | |||
+ | こうした大震災後の小沢元代表の言動がきっかけとなり、和子夫人は2011年7月に家を出て別居を始めたという。その後も現在まで別居は続いているが、小沢事務所は「離婚の事実はない」としている。和子夫人はこうも綴っている。 | ||
+ | |||
+ | 「かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています」 | ||
+ | |||
+ | 現在、消費税増税法案の採決をめぐって、小沢元代表は造反をちらつかせて野田政権を揺さぶっているが、和子夫人の手紙はそうした政治情勢にも大きな影響を与えそうだ。 | ||
+ | |||
+ | <div style="border:solid #99c 1px; background:#eeeeee; padding:0.5em; margin:1em 0.5em"> | ||
+ | まだ短い余震がある中、お変わりございませんか | ||
+ | |||
+ | この度の大震災ではさぞ御苦労があったと思います。ご家族ご親類はご無事でいらっしゃったでしょうか。<br/> | ||
+ | 何のお手伝いもできず申し訳ありません。被害の余りの大きさに胸がつぶれる思いです。<br/> | ||
+ | 長年お世話になった方々のご不幸を知り、何もできない自分を情けなく思っています。 | ||
+ | |||
+ | このような未曾有の大災害にあって、本来政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、<br/> | ||
+ | 実は小沢は放射能が怖くて、秘書と一緒に逃げだしました。<br/> | ||
+ | 岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、<br/> | ||
+ | 岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました。 | ||
+ | |||
+ | お礼の手紙にこのようなことを申し上げるのは大変申し訳けなく、ショックを受けられると思いますが、<br/> | ||
+ | いずれお話しなければと思っていましたので、この手紙を差し上げました。<br/> | ||
+ | お聞き苦しいと思いますが、今迄のことを申し上げます。 | ||
+ | |||
+ | 八年前、小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才をすぎました。<br/> | ||
+ | 三年つきあった女性との間の子で、その人が別の人と結婚するから引きとれといわれたそうです。<br/> | ||
+ | それで、私との結婚前からつき合っていた●●●●という女性に、<br/> | ||
+ | 一生毎月金銭を払う約束で養子にさせたということです。 | ||
+ | |||
+ | 小沢が言うには、この●●●●という人と結婚するつもりだったが、水商売の女は選挙に向かないと反対され、<br/> | ||
+ | 誰れでもいいから金のある女と結婚することにしたところが、<br/> | ||
+ | たまたま[[田中角栄]]先生が紹介したから私と結婚したというのです。 | ||
+ | |||
+ | そして「どうせ、お前も地位が欲しかっただけだろう」と言い、<br/> | ||
+ | 謝るどころか「お前に選挙を手づだってもらった覚えはない。何もしていないのにうぬぼれるな」と言われました。 | ||
+ | |||
+ | その言葉で30年間皆様に支えられて頑張ってきたという自負心が粉々になり、一時は自殺まで考えました。<br/> | ||
+ | 息子達に支えられ何とか現在までやってきましたが、今でも、悔しさと空しさに心が乱れることがあります。 | ||
+ | </div> | ||
+ | |||
+ | ==「小沢王国」はなぜ崩壊したのか(2013年7月) == | ||
+ | 21日投開票された参院選の岩手選挙区(改選数1)で、[[生活の党]]の小沢一郎代表(71)が擁立した候補が惨敗し、地元・岩手県で小沢氏の影響力低下が鮮明になった。 | ||
+ | |||
+ | 県内4小選挙区のうち3選挙区を落とした昨年の衆院選に続く地元での敗北。かつて圧倒的な支持基盤の固さを誇った「小沢王国」はなぜ崩壊したのか。 | ||
+ | |||
+ | 「正直言って大変驚いている」。 | ||
+ | |||
+ | 小沢氏は21日夜の会見で、岩手選挙区の敗北についてこう述べた。小沢氏の同級生、中目(なかのめ)一行さん(70)は「崩壊したとは思っていない。われわれは次の選挙を見据えている」と語るが、今回はおひざ元の[[奧州市]]でも異変が現れた。 | ||
+ | |||
+ | 奥州市内の得票数は、3選を決めた無所属の[[平野達男]]前復興相(59)が2万8671票だったのに対し、生活新人の[[関根敏伸]]氏(57)は1万2578票と半分にも満たなかったからだ。県全体では平野氏の24万3368票に対し、関根氏は9万1048票にすぎなかった。 | ||
+ | |||
+ | 「小沢さんの時代は終わった」。 | ||
+ | |||
+ | 奧州市水沢区の主婦(70)はこう話す。小沢氏の秘書を20年以上務めた[[高橋嘉信]]元衆院議員(59)も「王国は完全消滅。政局と自分の立場だけ優先してきた結果だ。人の心は離れてしまった」。 | ||
+ | |||
+ | なぜ小沢氏への期待が薄れていったのか。過去に小沢氏と行動を共にした県政関係者は「この1年間だけでも政党が次々と変わり、政策も[[共産党]]などの野党と変わらなくなった。その変化に県民がついていけなくなった」と分析する。 | ||
+ | |||
+ | 理由はそれだけではない。[[平成23年]]3月の[[東日本大震災]]で岩手も甚大な被害が出たのに小沢氏が初めて被災地入りしたのは10カ月も後の24年1月。小沢氏に近い郷右近(ごうこん)浩県議(48)は「警備上の理由で被災地入りをやめてほしいという要請があったため」と明かすが、被災者の目に被災地入りが遅れた小沢氏は冷たく映った。 | ||
+ | |||
+ | 津波被害を受けた[[大槌町]]の主婦、浜田智子さん(37)は「岩手の人なら来てほしかった」と嘆く。小沢氏の後援会幹部は「尾を引いているのは間違いない」と認める。 | ||
+ | |||
+ | 「王国」の崩壊は今度どう影響するのか。 | ||
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+ | [[八幡平市]]の[[田村正彦]]市長(65)は | ||
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+ | 「小沢さんは自分の意に沿わない人を切り捨ててきた。市長選では露骨に対立候補をぶつけてきた」 | ||
+ | |||
+ | と振り返る。首長選で対立候補を立てるのは、小沢氏側かどうか色分けをはっきりさせる狙いがあるとされる。今月無投票で4選した[[住田町]]の[[多田欣一]]町長(68)は「もうぶつけることもできなくなるだろう。そうなると(選挙の)結果も変わってくる」と指摘しており、小沢氏の影響力低下はより加速するとみられる。 | ||
+ | |||
+ | == 「日韓は民族的にも言語学的にも非常に近い、力を合わせるのは当然で大部分の日本人も望んでいる」(2014年10月) == | ||
+ | 生活の党の小沢一郎代表は党機関紙(10月10日号)の巻頭提言で「日韓中3か国が東アジアで協力態勢をとれば、国際社会で新しい歴史的役割を果たすことができる」と3か国協力関係の重要性を訴えた。 | ||
+ | |||
+ | その一方で「[[安倍総理]]は、かつての日本の中国への進出を美化しないまでも肯定的な考え方を随所で示している」として「歴史的認識の違いという部分はあっても、こうした安倍総理の考え方に中国は反発している」との認識を示し、「現在の日中関係の異常な状態も安倍内閣が続く限り解消することは難しいと思われる」と安倍内閣では日中関係の改善が難しいだろうとの見方を示した。 | ||
+ | |||
+ | 日韓関係においても「親しい間柄ほど関係がこじれると修復が難しい。今の状況は本当に不正常で両国にとってプラスになっていない。これも安倍内閣が続く限り打開の道はありません」と懸念を示した。 | ||
+ | |||
+ | 小沢代表は「日韓関係は日中関係以上に不可分な関係」とし「民族的にも、言語学的にも非常に近い。大和朝廷時代には通訳者がいなくても会話ができたといわれ、新羅、百済とは政治的な人材交流も活発だった。こうした歴史的事実を考えれば、国際社会の中で両国が力を合わせていくのは当然で、大部分の日本人もそれを望んでいるのではないか」と両国が力を合わせていくのは当然としている。 | ||
+ | |||
+ | そのうえで、中国内部で起きている民族運動や自由を求める改革運動、経済格差への反発などに懸念を示し、日韓が連携して中国社会をソフトランディングさせ、民主化の方向に持っていくことができればと願っていると、まず日韓関係の改善、そして日中関係の改善、日韓中3か国の協力態勢の構築で歴史的な役割が果たせるだろうと結んでいる。 | ||
+ | |||
+ | 日韓首脳会談の実現にむけた接触は局長級協議など継続的に行われているものの、従軍慰安婦問題などへの対応がネックになり、具体化につながっていない。 | ||
+ | |||
+ | == 主な政治的主張 == | ||
+ | [[ファイル:小沢一郎 5.jpg|300px|thumb|小沢一郎]] | ||
+ | [[ファイル:小沢一郎 6.jpg|260px|thumb|小沢の本音]] | ||
+ | 最初の著作である「日本改造計画」では[[新自由主義]]を主張したが、民主党代表に就任すると[[リベラル]]色を強めた。一方、2004年に公表した現行憲法の下での国連派遣部隊構想、さらにそれを発展させ2007年10月に公表した国際安全保障政策では、現行憲法との論理的整合性を維持しながら日本の国際安全保障政策([[国連中心主義]])を主張した。 | ||
+ | |||
+ | === 外交、防衛政策 === | ||
+ | ; 基本姿勢 | ||
+ | : 外交では、[[太平洋戦争]]に対する反省を踏まえて二つの「共生」を主張している。一つは人間と人間、国家と国家との「共生」、つまり日本及び世界の平和を確保すること、もう一つは人間と自然との「共生」、つまり日本が率先して地球環境の保全を進めることである。それ以上に重要なのは、安全保障については、日本の法律より国連決議が風船すると「世界」で述べたことである。その結果、小沢氏は多くの批判を受けることとなった(日本国民が民主主義で選択した日本の法律が、国連の常任安保理事国のせめぎ合いによる決定より劣る、という発言であったため)。 | ||
+ | : また、世界の国々、特に[[アメリカ合衆国|米国]]とは相互の信頼に基づく対等な関係を積み上げ、[[中華人民共和国|中国]]、[[大韓民国|韓国]]をはじめ[[アジア]]諸国と平和で自由で開かれた信頼関係の実現を主張した。具体的には、米国との真の[[日米同盟]]の確立、核廃絶、アジア外交の強化、貿易・投資の自由化、[[政府開発援助]]([[政府開発援助|ODA]])の抜本的見直し等。[[2009年]][[2月24日]]には「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分だ…あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う…米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事柄についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と述べた。 | ||
+ | ; [[A級戦犯]]、[[靖国神社]] | ||
+ | : [[東京裁判]]は不当な報復裁判であり、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない。しかし当時の国家指導者は敗戦責任があり、[[天皇]]陛下が参拝できるよう靖国神社から削除すべき。行く行かないは個人の自由だが、公約をし、政治信念で行くのならば[[8月15日]]に公式参拝を行うべき。ただし靖国神社は[[戊辰戦争]]の招魂社だという問題がある。小沢自身は[[賊軍]]とされる岩手の出身である。 | ||
+ | : 1986年4月2日の国会答弁では「誰もが自然の気持ちで行くべきであると思う。私もそのような自分の気持ちが沸いてきた時今までも参拝してきたしするつもりである」、「国務大臣であろうがなかろうが今後も行きたい」、「A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない」、「たまたま敗戦によって戦勝国から戦犯とされた人もいる」などの発言があった。 | ||
+ | : また、2008年2月21日の[[朝鮮日報]]からのインタビューでは、「靖国神社問題は日本側が大きな間違いをしている。民主党が政権を取ったら、戦争責任者を靖国神社から分祀し、韓国と中国に強力な信頼関係を築く」と述べた。 | ||
+ | ; 核武装 | ||
+ | : 日本には数千発の核兵器を製造する能力がある(2002年)ものの、軍事的、政治的にも何のプラスにもならない。議論もしてはいけない(2006年)。党内には、核保有を認める意見や核武装を議論すべきとの意見があった。 | ||
+ | ; [[日本国憲法第9条|憲法9条]] | ||
+ | : 「[[専守防衛]]」に徹し、憲法前文の平和主義と憲法9条の第一項と第二項は保持。第9.5条として平和のための国際協力と国連待機軍の設置を付加。自衛隊は国防に専念させる。なお、自衛権は、個別的であれ集団的であれ、我が国が急迫不正の侵害を受けた場合に限って行使。急迫不正の定義は明確にしない。 | ||
+ | ; [[自衛隊]]の海外派遣 | ||
+ | : 小沢は[[国際治安支援部隊]]に対しては容認しており、[[ダルフール紛争]]への部隊の参加、国連治安支援部隊([[ISAF]])への参加など国連中心主義を強調した。ただし、その際の武器の使用基準見直しについては明言していなかった。なお政府は、ISAF本体への護衛参加については、合憲であるとの見解をまとめている。<ref>「自衛隊のアフガン派遣、政府が『合憲』解釈」 『読売新聞』、2007年12月22日。</ref>。 | ||
+ | ; [[集団的自衛権]]と[[集団安全保障]] | ||
+ | : [[イラク戦争]]型 (集団的自衛権の行使)‐ 他国が自衛権を発動して開始した戦争に参戦する[[有志国軍]]([[OEF]])への参加は憲法違反だとし、[[テロ対策特別措置法]]の延長にも反対した。 | ||
+ | : [[湾岸戦争]]型(集団安全保障に基づく武力行使) ‐ 国連が承認した[[国連軍]]、[[多国籍軍]]の参加には賛成。 | ||
+ | ; [[周辺事態法]]について | ||
+ | : 2006年10月に北朝鮮が[[核実験]]を行った後の[[朝鮮半島]]情勢は「[[周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律|周辺事態法]]」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢ら[[トロイカ体制]]の見解を発表した。しかし、これに対して前原誠司を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。 | ||
+ | ; [[北朝鮮による日本人拉致|北朝鮮拉致]]について | ||
+ | : 「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と述べたと報道された。 | ||
+ | ; 領土問題 | ||
+ | : 「われわれが与党になったら領土問題にケリをつける」「例えば、[[尖閣諸島]]は歴史的に見ても日本の固有の領土だ。それを明確にさせる。自公政権のように弥縫策で先送りすることはしない」と述べ、領土問題の速やかな解決を宣言している。また、2008年7月15日には、 記者会見で学習指導要領の竹島問題について問われ、「教科書云々の前に日韓の考え方の差を埋めるために、しっかり話し合いをすべきだ。話し合いを避けて教科書に載せる載せないの類は順序が違う。事実上韓国が実力支配しているわけですから、それを放置しておいて俺の領土だと言ってもどうしようもないでしょう」と日本政府を批判した。 | ||
+ | ; [[チベット]]と中華人民共和国 | ||
+ | : [[2008年のチベット動乱]]の後、2008年4月17日の講演で、チベット問題について「中国の政権が抱える矛盾が民族問題を契機として持ち上がった。共産主義独裁の政権と政治の自由は、原理からいって成り立たない」と発言し、「共産党政権が時代の変化に応じて生き延びようとするなら、自分自身が変化しなければいけない」と中国を批判した。 | ||
+ | ; 防衛庁の省への昇格 | ||
+ | : [[防衛省|防衛庁]]の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。ただし、民主党内に反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議は欠席した。 | ||
+ | |||
+ | === 法務 === | ||
+ | ; 憲法改正(憲法96条)の為の国民投票法案 | ||
+ | : 与党提出の法案に反対した。その後民主党案との修正協議を経て修正与党案が成立した。なお社民・共産は法案そのものに反対した。 | ||
+ | |||
+ | 国民投票法案については[[日本国憲法の改正手続に関する法律]]を参照 | ||
+ | |||
+ | ; [[外国人参政権|永住外国人の地方参政権]] | ||
+ | : 旧植民地政策により日本に移住、戦後そのまま在住した永住外国人・その家族が日本国籍を獲得しにくい場合でも、その歴史的事情を勘案し、また地域の住民との連帯感を醸成するために地方参政権を与えるべきと主張している。 | ||
+ | ; 公務員改革 | ||
+ | : 幹部職員の内閣一元管理。公務員に対しては、スト権の付与と守秘義務違反の軽減を行う。また、政官接触を自由化する。[[特殊法人]]、[[独立行政法人]]、[[特別会計]]は見直す方向。 | ||
+ | |||
+ | === 経済、財政政策 === | ||
+ | [[小さな政府]]ではなく、「官で出来ることは官で、民で出来ることは民で」。過疎化した地方など無駄な[[公共事業]]を極力減らしていく方針。 | ||
+ | ; 税制 | ||
+ | : [[年金]]の特定財源化を行い、すべての年金を一元化する。1人月額6万円を支給する基礎年金と従来の保険料方式を維持した所得比例年金の2階建て。[[消費税]]は5%に維持するが、その税収はすべて全額を福祉目的税化し、基礎年金に割り当てる。しかし、消費税5%分(約13兆円)だけでは年金の基礎部分を賄えないため、必要な財源は既存予算から捻出するように努力する。13兆円では、国民の半数にしか年金が支給できないとの批判があったが、「給付する人を低所得者に限るため、13兆円で足りる」と反論した。 | ||
+ | : [[道路特定財源]]の一般財源化を行い、[[揮発油税]](ガソリン税)の暫定税率を廃止する。2008年[[3月28日]]にはこれに関して「暫定税率を延長する必要はなく、国民生活のために還元をしたほうが良い」と主張した。廃止に伴う地方財政への影響に関しては、道路特定財源の内で地方へ行くと予定されているのは9000億円であるが、そのうち市町村分の3000億円には手当てが必要であるとの見解を示し、その手当てを[[一般会計]]・[[特別会計]]の余剰金の利用や無駄の削減で市町村分へ配分することは可能だとした。 | ||
+ | ; [[地方分権]] | ||
+ | : [[中央集権]]体制から地方主権体制への移行。中央政府の権限は外交・治安などに限定し、その他の権限を地方に移譲する。また、個別[[補助金]]は官僚支配を生み[[利権]]の温床となるため廃止し、自主財源として一括交付する。財源・権限を地方に移譲することで地域経済の活性化につながる。地方分権を推進するため、市町村の300程度への集約を行う。 | ||
+ | ; 格差是正 | ||
+ | : 社会的格差を是正する。子育て支援をし、親と同居している世帯に対して「親手当」、子供がいる世帯に対して「子ども手当」を交付する。[[管理職]]は自由競争だが、非管理職は[[終身雇用]]にする。[[労働法]]は長期安定雇用を基本とするべき。挫折した経営者・労働者の再起、再就職の支援制度を拡充する。 | ||
+ | ; [[移民]]政策 | ||
+ | : 自民党と財界一部に「移民受け入れ」を検討する動きがある事を受け、「まったくダメだ。現在でも『奴隷労働』と言われる非正規労働者の問題が深刻なのに。発展途上国から単純労働者を受け入れることは、一種の奴隷制度ではないか。治安問題を心配する声もあるが、それ以前に、そういう形での移民受け入れは人間の尊厳に対する冒涜であり、人道的にとても認められない。」と述べ、与党の移民政策を批判した。 | ||
+ | |||
+ | === 教育政策 === | ||
+ | 与党案とは異なる民主党独自の「教育基本法」の制定。教育予算は先進国中低位の現状を是正し引き上げる。5歳から高校まで義務教育を広げる。すべての国民に[[高等教育]]の機会を与えるため、[[奨学金]]制度を拡充する。教師などの教育職員は[[国家公務員]]として身分を安定させ、[[労働争議|争議]]権を認めない。 | ||
+ | |||
+ | === 農業政策 === | ||
+ | わが国の安全保障を確保するためには現在39%に低下している食料自給率を他の先進国並みに高める。農家、農村の活力を再生するために、穀物などの主要農産物について[[戸別所得補償制度]]を導入する。[[トレーサビリティ (流通)|トレーサビリティ制度]]の拡充と加工食品の原材料も含めた原産地表示の義務づけを行い、食の安全を確保する。 | ||
+ | |||
+ | === 他党、支持母体との関係 === | ||
+ | ; 選挙協力 | ||
+ | : 思想的には保守であるが、自公政権打倒のためには'''共産党を含めた全野党による選挙協力'''も辞さないことを表明した。社会党の[[社公民路線]]以来、「非自民・非共産」として、共産外しが常態となっていた野党第一党の代表としては異例の見解であった。そのため、自公からはもちろん、党内の[[反共主義]]者からの批判が見られた。共産党は現時点では「市場主義重視」の民主党の「[[第三の道]]」路線に対して自公共々批判的であるため、実現しなかった。 | ||
+ | ; 大連立 | ||
+ | : 2007年末に取り沙汰された大連立騒動([[大連立構想 (日本 2007)]])では、民主党が政権を取る為には、自民党と連立し、連立政権の中で民主党のマニフェストを実現して、実績と政権担当能力を示す必要があると主張した。大連立構想が立ち消えになった後は自民党との対決姿勢を強め、選挙による政権交代を目指している。 | ||
+ | ; [[労働組合]]との関係 | ||
+ | : 未組織労働者や市民層からの支持を増やすことで協調的に労組との関係を維持した。 | ||
+ | |||
+ | == 小沢グループ == | ||
+ | 小沢一郎を支持する民主党のグループ。もともとは旧自由党出身の議員のみであった。合併当初は「党中党」は避けようという観点からほとんど会合なども行われなかった。その後、2004年6月に当時当選1回~2回の議員を対象とした小沢主宰の勉強会「一新会」が発足。これ以降徐々に会合等を開くようになる。 | ||
+ | |||
+ | 一新会に加え、2005年秋に発足した落選者や候補者を対象とした「一新会倶楽部」に加え、2001年から続く「小沢一郎政治塾」の存在もあって選挙ごとに勢力を拡大。[[2007年]]の[[第21回参議院議員通常選挙]]で当選した新人議員の多くが加入し、党内最大派閥となった。小沢を中心に旧自由党出身の議員の結束は固いが、[[渡辺秀央]]、[[大江康弘]]のように小沢と選挙等をめぐって対立し離党した議員もいる。一方、一新会のメンバーの場合他のグループに参加しているメンバーも多く結束は自由党出身議員と比べ幾分緩い傾向がある。 | ||
+ | |||
+ | 政策的にはかつては右派的、新自由主義的なものが多かったが小沢の政策の変化に加え新人議員の取り込みの過程で様々な立ち位置の議員が所属したことからそういった傾向は薄れつつある。小沢同様、政策よりも選挙や政局を重視する傾向があり、政策重視を掲げる「凌雲会」や「花斉会」とは対立することが多い | ||
+ | |||
+ | ; [[一新会]] - 約20名 | ||
+ | :* 衆議院議員 - [[三井辨雄]]、[[仲野博子]]、[[松木謙公]]、[[石川知裕]]、[[横山北斗]]、[[田名部匡代]]、[[階猛]]、[[石関貴史]]、[[武正公一]]、[[神風英男]]、[[小宮山泰子]]、[[高山智司]]、[[内山晃]]、[[菊田真紀子]]、[[村井宗明]]、[[篠原孝]]、[[牧義夫]]、[[鈴木克昌]]、[[吉良州司]] | ||
+ | ; 旧[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]グループ - 約10名 | ||
+ | :* 衆議院議員 - [[藤井裕久]]、[[中井洽]]、[[山岡賢次]]、[[山田正彦 (政治家)|山田正彦]]、[[黄川田徹]] | ||
+ | :* 参議院議員 - [[西岡武夫]]、[[一川保夫]]、[[工藤堅太郎]]、[[佐藤公治]]、[[平野達男]]、[[森ゆうこ]]、[[室井邦彦]]、[[広野允士]] | ||
+ | ; その他 - 約10名 | ||
+ | :* 衆議院議員 - [[奥村展三]]、[[青木愛]]、[[太田和美 (政治家)|太田和美]] | ||
+ | :* 参議院議員 - [[川上義博]]、[[主濱了]]、[[喜納昌吉]]、[[藤原良信]]、[[大久保潔重]]、[[平山幸司]]、[[米長晴信]]、[[谷岡郁子]]、[[藤原良信]] | ||
+ | |||
+ | == 不祥事 == | ||
+ | === 事務所費問題 === | ||
+ | [[2007年]][[1月]]、自身の資金管理団体「陸山会」が2005年分の[[政治資金収支報告書]]に4億円を超える不透明な[[事務所費]]を計上していることが発覚した。鳩山幹事長は『(小沢から)「東京都世田谷区内に約3億6500万円相当の土地と建物を購入し、費用を事務所費として計上した」と聞いており「全く問題ない」』と反論した。 | ||
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+ | また、自身の資金管理団体が10億円を超す不動産を保有し(小沢個人名義で保有)、またその一部を賃貸運用していることなどが発覚し、物議を醸した。それに対し小沢は1月の衆院代表質問で、これらの「支出の詳細、領収書、関係書類を含め公表する用意がある」とし、同じく事務所費問題を抱える自民党に対し、大臣など責任ある立場の議員に公表を迫った。 | ||
+ | |||
+ | [[2月20日]]、国会内での記者会見で、東京・世田谷区に約3億7000万円の秘書宿舎を建設し、加えて不動産取引の仲介手数料や[[登記]]費用として1100万円を計上したという、2003年〜2005年の事務所費などを公開した。一方、10億円は国民の常識からかけ離れているとの批判もあるが、それだけ支援者からの寄付金が多かったということであり、また不動産を所有しても政治資金団体の財産なので問題はないと主張した。同時に、資金管理団体の小沢名義の資産を個人資産にしないという確認書を公開した。なお、陸山会の代表は小沢自身であり、この確認書は「陸山会代表である小沢一郎」と「個人である小沢一郎」の間で交わされたものになっている。 | ||
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+ | その後2007年[[10月9日]]、[[第21回参議院議員通常選挙|参院選]]で与野党逆転した後、初の本格的論戦で注目されていた衆議院予算委員会総括質疑の初日、「陸山会」が政治資金で購入したマンションの部屋をコンサルタント会社と財団法人に事務所として貸し、2002年から2006年の間に賃料計980万円を得ていたことが報じられた。 | ||
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+ | 9日に民主党幹事長の[[鳩山由紀夫]]は「法に触れるようなことは何もしていない」とコメントし、「このタイミングで問題化させるのは政治的意図があるからではないのか」とも切り返した。また小沢代表も翌10日の記者会見で「1円単位で領収書を公開した2月時点で(メディアから)追及は全く無かった。それが半年以上も経過した今回一面トップで報じることは、政治的思惑でもって意図的に[[誹謗中傷]]した報道であると認識している」とし、これを一面で報じた毎日新聞をはじめ報道を批判するなど強く不快感を示した。なおこれらの違法性を強く否定しつつも今後不動産の売却を進めていく考えを表明した。 | ||
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+ | なお、この件を報じた週刊現代を名誉毀損で小沢は出版社を提訴。しかし、一審二審ともに小沢側の全面敗訴の判決が出され、上告をしなかったため、小沢の全面敗訴が確定している。 | ||
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+ | 2009年4月13日参議院決算委員会で自民党西田議員が本件について詳細に発表したとき、民主党議員からの野次により委員会が一時中断した。 | ||
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+ | === 政策秘書公職選挙法違反容疑 === | ||
+ | [[第21回参議院議員通常選挙]]で当選した同党の[[青木愛]]の選挙運動員が事務所の指示を受け、参院選公示前日の7月11日、業者に依頼して選挙ポスター付きの看板設置に関する契約を1本当たり500円で千数百万円分の契約を結んだ疑いで逮捕された。印刷会社社長が警察からの事情聴取で、小沢の政策秘書に報告しその内容を掴んでいたのではないかとも取れる供述を行なった。これに対し、小沢自身は8月31日の記者会見で「選挙違反に当たるような行為は一切していないという(秘書からの)報告で、私もそう思っている」と捜査や報道を批判し強く不快感を示した。9月14日、千葉地検は逮捕した印刷会社社長らを「選挙違反にはあたるが、違法性の程度が比較的軽かった」と判断して起訴猶予処分とし、小沢の政策秘書も立件せず捜査を終結した。 | ||
+ | |||
+ | === 政治資金規正法違反疑惑 === | ||
+ | ==== 概略 ==== | ||
+ | 準大手[[ゼネコン]]の[[西松建設]]が、OBらを代表とした政治団体を通じて、小沢や[[森喜朗]]・[[二階俊博]]など、与野党の国会議員の資金管理団体へ多額の政治献金を継続していたことが[[2008年]]12月末に表面化した。これに関連して[[2009年]][[3月3日]]に陸山会(小沢の資金管理団体)の会計責任者兼公設第一秘書が[[政治資金規正法]]違反の容疑で逮捕された。 | ||
+ | |||
+ | ==== 経過 ==== | ||
+ | [[2008年]]12月下旬、[[西松建設]]がOBらを代表とした政治団体(「新政治問題研究会」・「未来産業研究会)を通じて、小沢や[[森喜朗]]・[[二階俊博]]など、与野党の国会議員の資金管理団体へ多額の政治献金を継続していたことが表面化した。 | ||
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+ | [[2009年]]3月3日、陸山会(小沢の資金管理団体)の会計責任者兼公設第一秘書が[[政治資金規正法]]違反の容疑で逮捕され、東京にある小沢の資金管理団体「陸山会」事務所には家宅捜索が行われた。 | ||
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+ | 2009年3月4日、東京地検特捜部は小沢の地元事務所を家宅捜索。 | ||
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+ | 2009年3月4日、小沢は「献金が違法ということが明らかになったときに返却するつもりだ」と述べた。 | ||
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+ | 2009年3月5日、自民党では二階派及び森が西松建設からの献金の返還を表明。大阪府吹田市の阪口善雄市長も「違法性のある献金ならば何らかの形で返したい」と西松建設が購入した70万円分のパーティー券について述べている。一方、衆議院議員時代に西松建設に20万円のパーティー券を購入してもらった長野県知事[[村井仁]]は西松建設からの献金の返却について考慮しないと答えている。 | ||
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+ | 2009年3月10日、民主党の[[西岡武夫]]参院議院運営委員長が「党執行部と相談した上で検事総長の証人喚問を考えたい」とコメント。 | ||
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+ | 2009年3月12日、東京地検特捜部は小沢の元秘書・[[石川知裕]]衆院議員を参考人聴取した。 | ||
+ | |||
+ | 2009年3月13日、西松建設の捜査について民主党内から検事総長の証人喚問を求められていることに対して[[森英介|森法相]]は「検察官を証人として国会に出頭させることは、検察官の独立性と公正性の保持の観点から悪影響を及ぼす」として反対を表明した。 | ||
+ | |||
+ | [[ファイル:Nishimatsu Ozawa.PNG|thumb|right|200px|西松建設から小沢側へ行われたとする[[トンネル献金]](検察による起訴内容。起訴状によると、公設第一秘書は2003年から2006年にかけて西松建設からの献金と知りながらダミーの政治団体「新政治問題研究会」「未来産業研究会」の名義で小沢の資金管理団体である陸山会には2,100万円、小沢が代表を務める民主党岩手県第四区総支部には1,400万円の寄付を受取り、その上で政治資金収支報告書に虚偽の記載を行ったとされた。 | ||
+ | |||
+ | 2009年3月27日、民主党代議士会は小沢の代表続投を了承した。 | ||
+ | |||
+ | 2009年4月28日、党本部で記者会見を行い、企業・団体献金の即時全面禁止を表明した。企業・団体献金の取り扱いについて「ディスクロージャー(情報開示)が大事だが、解釈の違いが起きたりすると、政治に間違った影響を与える。即時に全面禁止すべきだ」と述べた。民主党として「即時全面禁止」を盛り込んだ政治資金規正法改正案の提出を検討するとともに、次期衆院選の政権公約(マニフェスト)に盛り込む見通し。一方、法案化については、即座禁止ではなく「5年以内の禁止」を盛り込んだ政治資金規正法改正案の提出を目指している。 | ||
+ | |||
+ | 民主党のマニフェストは、菅直人代表代行と岡田克也副代表がそれぞれ党代表を務めていた2002年と2004年の衆院選のマニフェスト(政権公約)では「公共事業受注企業からの政治献金全面禁止」が明記されていたが、小沢が代表に就任した際「個人献金より企業献金の方が癒着が少なく、望ましい」と持論を述べ、2007年の参院選のマニフェストからは削除された。 | ||
+ | |||
+ | ==== 献金の背景とルート ==== | ||
+ | 1993年の鹿島建設東北支店の談合の仕切り役交代を契機に、公共事業の受注調整に際して小沢側の意向が大きな影響力をもつようになったとされる。一方、西松建設は東北地方を不得手としていたことから、受注の便宜を目的として1995年頃に小沢側と毎年2500万程度の献金を行う約束を行った。その後、東北地方での西松建設の受注高は増加したが、西松内部でも小沢側への献金の効果とする見方と談合の結果とする見方に分かれているようである。一方、小沢は献金と工事受注の結果とは関係がないとの認識を表明している。 | ||
+ | |||
+ | 西松建設側の供述によれば、公設秘書は西松建設に対して小沢の地盤である岩手県奥州市で建設中の[[胆沢ダム]]について「胆沢ダムは小沢ダム」と発言し、献金を要請していたという。 | ||
+ | |||
+ | 献金は1999年ごろまでは西松建設名義で行われていたが、2003年以降は以下の2ルートで献金が行われている。 | ||
+ | :* 西松建設→政治団体(『新政治問題研究会』・『未来産業研究会』)→陸山会・民主党岩手県第4区総支部等(毎年1500万円) | ||
+ | :* 西松建設→下請け業者(松和会)→民主党岩手県第4区総支部(毎年1000万円) | ||
+ | この内、起訴されたのは政治団体経由の献金であり、下請け業者ルートの献金については起訴されていない。なお、談合決別宣言等の影響により2006年の500万を最後に政治団体経由の献金も打ち切られ、政治団体も既に解散している。 | ||
+ | また西松建設に限らず複数のゼネコンからの下請け業者ルートも報告された。 | ||
+ | |||
+ | なお、西松建設がおこなった内部調査によれば、政治家への献金目的について「発注を得たいというより、受注活動を妨害しないでほしかった」と供述する社員がいたとしている。 | ||
+ | |||
+ | ==== ダミー団体との認識 ==== | ||
+ | 小沢は秘書逮捕を受けた2009年3月4日の会見で「政治団体の原資がどういう形でどういうところから入ってくるのか、それは知るすべもありません」としていた。この小沢会見の直後、捜査関係者及び西松関係者を情報源として、小沢側が献金に際し直接西松建設と献金額の調整を行い、同社宛てに請求書を送付していたとの報道がなされた。また、検察はこの請求書や西松側の供述を証拠に小沢秘書が西松建設のダミー団体であることを十分認識していたと判断しているとされた。西松建設への請求書報道に対し、小沢は3月22日の会見で、秘書に任せていたため小沢自身は当該政治団体からの献金の存在も知らず、請求書の送付についても「わからない」とした。 | ||
+ | |||
+ | 2009年[[6月19日]]、検察は国沢前社長の初公判において「新政治問題研究会・未来産業研究会からの献金が、実質的に西松建設側からの献金だと知っていた」、「西松建設側からの支援は会社として行われてきたもので、窓口となっていた幹部の一存ではなく、西松の社長やしかるべく役職の人が決裁し、会社の経営判断で行われてきたと認識していた」とする小沢秘書の供述調書を明らかにした。 | ||
+ | |||
+ | ==== 小沢に対する弁護と批判 ==== | ||
+ | 小沢は[[事件]]について自ら説明をおこなったが、この中で小沢が[[捜査]]について「不公正な[[国家権力]]、[[検察]][[権力]]の行使」と述べていることについては[[民主党]]の内外から批判の声が出ている。また[[報道機関]]による[[世論調査]]では、国民が納得していないとの結果が得られたとしている。3月27日にも民主党の参院議員総会と代議士会で説明しているが、代議士会において[[小宮山洋子]]議員からは「法廷闘争と選挙戦略は全く別だ。地元では『新しい体制を作ってほしい』という声が多い」 と小沢の代表続投に異議を唱えられ、[[近藤洋介 (政治家)|近藤洋介]]議員からは「世論調査では説明に納得していない国民が8割いる。なぜ数千万円の献金をもらい続けたのか」と説明を求められ、一方[[小沢鋭仁]]、[[小宮山泰子]]両議員には代表の続投を支持され、全体として代表続投が決まった。 | ||
+ | |||
+ | [[達増拓也]][[岩手県知事]]は小沢の[[公設秘書|公設第一秘書]]が逮捕された翌日、その[[政治資金規正法]][[違反]]事件について「これほど疑念を持たれている捜査はないんじゃないか。現段階では、よほどのことがないまま政治活動の自由が大きく制限されている」と[[東京地検特捜部]]の捜査を批判し、小沢の[[記者会見]]における[[政治献金|献金]]の違法性の否定については「非常に分かりやすく、得心できた」と大きな意味があったとしている。 | ||
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+ | 民主党の[[機関誌]]「プレス民主」[[2009年|09年]][[4月17日]]号で、[[ジャーナリスト]][[高野孟]]と[[田中康夫]][[新党日本#歴代代表|新党日本代表]]がこの捜査や小沢一郎代表交代論を批判した。 | ||
+ | |||
+ | 民主党の[[枝野幸男]]元[[政調会長]]は小沢の[[民主党代表|代表]]続投の判断について「今後も説明の努力をされ、(世論調査結果に表れる)納得できないとか辞めるべきだというのを大幅に下げる政治責任がある」とコメントし、小沢が多額の企業献金を得ていることについては「政治体質が私と百八十度違う。我が党の党首にはふさわしくないと一貫して思っている」と述べている。民主党員である[[小宮山洋子]]議員は公然と小沢の代表辞任を要求していた。 | ||
+ | |||
+ | 盟友とされる[[国民新党]]の[[亀井静香]]代表代行は小沢の代表辞任を求めた。 | ||
+ | |||
+ | 小沢は、この問題における党内の動揺を受け、[[5月11日]]に民主党代表を辞任した。 | ||
+ | |||
+ | ==== 報道における問題 ==== | ||
+ | 公設第一秘書の起訴直後、各報道機関によって『秘書が起訴内容を大筋認める』との報道がなされたが、秘書の弁護人は『大筋を認めたとする報道と弁護人らの認識は全く異なっている』とするコメントを発表した。その後、西松の国沢前社長の公判で『私は新政治問題研究会、未来産業研究会からの献金が、実質的に西松建設側からの献金だと知っていました』と秘書が供述したことが判明した。 | ||
+ | |||
+ | また、報道が[[検察]]や与党の意を汲んだマスメディアによる[[情報操作]]であるとの指摘もある。また、『[[東京新聞]]』が西松から献金を受け取った与党政治家の件について記事にしたところ、東京検察([[東京地方検察庁]]?)はそれが望ましくない内容であるという理由で、3週間『東京新聞』の取材拒否をしたという。 | ||
+ | |||
+ | ==== 検察の捜査姿勢に対する賛否 ==== | ||
+ | 小沢側は事件に対する検察の捜査が[[国策捜査]]に当たると非難した。民主党の[[原口一博]]衆議院議員はこれを否定する一方で捜査当局でしか知り得ない情報がメディアから流布されることを問題とし、国家公務員による秘密漏えいの疑いを指摘している。[[上杉隆]]によれば、[[週刊朝日]]をはじめとした一部のマスコミが、小沢よりも検察側に疑義があるとキャンペーンを張ったことで、小沢への批判は弱まったとしている。 | ||
+ | |||
+ | 公設第一秘書らの起訴の際、東京地検の次席検事は記者会見において「国会議員の政治団体が、特定の建設業者から長年にわたり多額の金銭提供を受けてきた事実を、国民の目から覆い隠したもの。規正法の趣旨に照らして見過ごせない重大で悪質な事案と判断した」と説明し、記者から「なぜ悪質といえるのか」「被告の認識は」との質問がなされていたが、特捜部長は刑事訴訟法第47条において公判前の書類開示は禁止されていることから、公判において明らかにすると回答した。また、収支報告書上に記載された献金についての立件については「寄付者の名義を変えてしまうことをどう評価するか。みなさんにご判断いただきたい」と答えている。 | ||
+ | |||
+ | また、小沢と同様に西松建設から献金を受け取った議員のうち、二階を除く自民党議員(森、尾身など)に対し検察側が捜査の動きを見せていないことについて、[[角福戦争]]以降、歴史的に旧田中派と敵対して来た[[清和政策研究会]]の意向が検察の捜査に反映されているとの指摘がある。 | ||
+ | |||
+ | 『産経新聞』が[[フジニュースネットワーク|FNN]]と合同でおこなった世論調査では、半数近くが「検察側の捜査は政治的に不公平」と回答し、「公平」とする回答を上回った(次期衆院選が近づく時期に国政に影響する捜査が不適切かという件については、「思わない」が「思う」を上回った)。 | ||
+ | |||
+ | === 労働保険未加入問題 === | ||
+ | 2009年3月3日、小沢の事務所が雇用しているアルバイトや私設秘書について、労働保険に未加入だったことが分かった。同事務所は「少なくとも3、4年は未加入になっており、かなりの人数分の未納保険料を納付することになる」と説明、今後、過去の雇用状況を調べた上で労働局に届け出る予定としているが、労働保険未加入発覚時のペナルティは、発覚時の前年度と前々年度分の保険料と、10%の追徴金のみであり、未加入分の多くは問責されないこととなる。 同事務所では、小沢の初当選以来、「正規の秘書」以外は届け出ていない可能性もあり、対象者は数百人規模になるという。 | ||
+ | |||
+ | == 人物 == | ||
+ | === 人物評 === | ||
+ | かつては「豪腕」、「壊し屋」、と称され、「政治とは権力闘争である」という政治観の持ち主であった。[[金丸信]]は小沢、[[羽田孜]]、[[梶山静六]]の3人を「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評した。 | ||
+ | |||
+ | 民主党内外では小沢[[アレルギー]]の存在が指摘され、これは若手議員よりも自民党当時を知る議員により強いとされた。「独断専行、側近政治、顔が見えない」との批判や、自民党分裂とその後の分裂工作、新進党分裂・解党等がその原因とされる。 | ||
+ | |||
+ | 周囲からは東北人気質も相まって朴訥な人物と評された。そのことから説明する努力に欠け、側近が離れる一因となっているとも指摘された。本人曰く「去るもの追わず。来るもの拒まず」。また、強面のイメージであるが私生活では[[恐妻家]]として知られた。 | ||
+ | |||
+ | === 健康管理 === | ||
+ | 1991年に狭心症で入院して以来は健康管理に余念がなく、早朝に30分ほどの散歩をすることを日課とし、アルコールは日本酒を3合までに控えるよう心がけ、約2時間の昼寝を欠かさない。2008年10月6日から13日まで風邪で入院、同月23日に予定されていた[[インド]]の[[マンモハン・シン|シン]]首相との会談を含む党役員会などの公務も体調不良ということでキャンセルし、シン首相との会談は[[鳩山由紀夫|鳩山]]幹事長が代理を務めたものの健康不安説も再燃した。第171回国会(会期2009年1月5日 - 6月3日)では、2月末までに11回開かれた衆院本会議のうち4回欠席している。 | ||
+ | |||
+ | === 信条 === | ||
+ | [[田中角榮]]を『'''オヤジ'''』として慕い、政治のイロハと人生の薫陶を受けたと語る。それは「どぶ板」とも言われる、[[人口密度]]の低い農村部から始め有権者の家を一戸一戸回っていく地道な選挙活動を決して怠らない事をオヤジから学んだという。歴史上の人物では、[[福澤諭吉]]を日本文明の祖として尊敬し、[[西郷隆盛]]を尊敬するものの、政治家・人物としては[[大久保利通]]を目指していると述べた<ref>『小沢主義志を持て、日本人』 ISBN 4797671297 より</ref>。また、[[司馬遼太郎]]を愛読している。 | ||
+ | |||
+ | === 自民党離党 === | ||
+ | 小沢が自民党を離党した理由は、「談合政治」と言われる旧来型政治の打破と、[[イギリス]]や[[アメリカ]]のような[[二大政党制]]に持って行きたいという明確なビジョンがあったという。その思惑は、小沢が[[自由党]]を[[民主党]]に合流させることで成就するのだが、[[小選挙区制]]を導入すれば同じ選挙区から[[自民党]]と[[社会党]]の政治家が選ばれるということが無くなるためであった。小沢は、自ら進んで自民党を離党したのでは無く、既得権益を持った一部の議員に追い出されたのだと述べた。 | ||
+ | |||
+ | == 家族・親族 == | ||
+ | ; 実家 | ||
+ | * 父・[[小沢佐重喜|佐重喜]](弁護士、政治家) | ||
+ | * 母・みち(元千葉県会議員[[荒木儀助]]の四女) | ||
+ | :[[奥野修司]]の著書『小沢一郎 覇者の履歴書』50頁には「みちは[[明治]]三十四年二月十五日に[[千葉県]]の元[[庄屋]]の娘として生まれている。実家はかなりの[[豪農]]で生まれたときからお嬢様として育てられたという。九段の精華高等女学校では、のちの[[鹿島建設]]会長夫人になる[[鹿島卯女]]も同窓だった。」、85頁には「このみちは[[明治]]三十四年に[[荒木儀助]]と妻かのの四女として[[千葉県]][[東葛飾郡]][[風早村]]で生まれているが生家は“[[駅]]からよその土地を踏まずに家まで帰ることができた”といわれるほどの大[[地主]]だったようだ。父親の儀助も[[千葉県]]の県会議員になっているほどだからかなり裕福だったことは推測できる。両親はともに教育熱心だった。のちに[[医者]]や[[弁護士]]になっている家族もたくさんいて、みち自身も東京九段の精華高等女学校を[[卒業]]しているほどである。」とある | ||
+ | * 姉(2人) | ||
+ | ; 自家 | ||
+ | * 妻・和子([[新潟県]]の建設会社[[福田組]]会長・福田正の長女) | ||
+ | * 三男あり | ||
+ | ; 他家 | ||
+ | * その他の親戚・[[竹下亘]](政治家、元[[首相]][[竹下登]]の異母弟、妻は福田正の二女)、[[金丸信]](政治家)など | ||
+ | |||
+ | == 系譜 == | ||
+ | ; 小沢家 | ||
+ | :小沢一郎は自身の[[家系]]について、[[古代]]東北の英雄として知られた[[蝦夷]]・[[アテルイ]]の末裔であるため“反骨精神が旺盛だ”と述べている。父[[小沢佐重喜]]は[[岩手県]][[胆沢郡]]水沢町(現[[奥州市]])の[[農家]]に生まれ、{{和暦|1923}}、[[日本大学]][[法学部]]を卒業するとその年の12月に25歳の若さで[[司法試験|弁護士試験]]に合格し翌年弁護士事務所を開業する。[[東京市]]会議員、[[東京府]]会議員を経て、{{和暦|1946}}、衆議院議員に当選する。[[第2次吉田茂内閣]]の[[運輸大臣]]、[[第3次吉田茂内閣]]の[[逓信大臣]]、初代[[郵政大臣]]兼初代[[電気通信大臣]]、[[第5次吉田茂内閣]]の[[建設大臣]]、第2次池田内閣で[[行政管理庁]]長官、[[北海道開発庁]]長官等を歴任する。父・[[小沢佐重喜|佐重喜]]について一郎は「親父は、じいさまが[[酒]]に溺れて身上をつぶして[[水呑百姓|水飲み百姓]]の[[小作人]]のせがれとして食うや食わずで育ったんだ。それで、ものすごく貧乏だったせいかどちらかというと反体制的な考え方だった。[[戦後]]の[[経済]]万能主義の社会や政治を嫌悪していたし、エスタプリッシュメントというものに対する反発を非常に強くもっている男でした」と述べている。 | ||
+ | |||
+ | <pre> | ||
+ | (14代) | ||
+ | 竹中藤右衛門━━┳寿美 | ||
+ | ┃ | ||
+ | ┣竹中宏平━━竹中祐二 | ||
+ | ┃ ┃ | ||
+ | ┗竹中錬一 ┃ | ||
+ | ┃ ┃ | ||
+ | 米内光政━━━━和子 ┃ | ||
+ | (元首相) ┃ | ||
+ | (元首相) ┃ | ||
+ | ┏竹下勇造━━━━┳竹下登━━┳公子 | ||
+ | ┃ ┃ ┃ | ||
+ | ┗武永貞一 ┣竹下三郎 ┣まる子 | ||
+ | ┃ ┃ | ||
+ | ┃ ┗一子 | ||
+ | ┃ ┃ | ||
+ | ┃金丸信━━━金丸康信 | ||
+ | ┃ | ||
+ | ┗竹下亘 | ||
+ | ┃ | ||
+ | ┃ | ||
+ | 福田正━━━━━┳雅子 | ||
+ | ┣福田実 | ||
+ | ┗和子 | ||
+ | ┃ ┏男 | ||
+ | 小沢佐重喜 ┣━━━━╋男 | ||
+ | ┃ ┃ ┗男 | ||
+ | ┣━━━━━小沢一郎 | ||
+ | ┃ | ||
+ | 荒木儀助━━みち | ||
+ | </pre> | ||
+ | |||
+ | == エピソード == | ||
+ | ; 田中角栄 | ||
+ | :* [[田中角栄]]の長男である正法(1947年、5歳で夭折)と小沢が同じ1942年生まれであったため、角栄は小沢を息子のように可愛がったとされた。それに対して小沢も角栄を慕い、田中派から独立した経世会に所属した国会議員で唯一、田中の[[裁判]]をすべて欠かさず傍聴した。旧竹下派の中では唯一田中家・[[田中真紀子]]から許されているため、[[命日]]には田中家を訪問した。そのため親交が深く、真紀子の自民党離党、民主党会派入りに小沢は尽力した。また、「政治の父は田中角栄」と公言した。 | ||
+ | :* かつて田中角栄の懐刀だった小沢と福田の因縁の戦いは、'''「第二の[[角福戦争]]」'''と呼ばれた。しかし当人たちにはそのつもりが全く無く、福田を舌鋒鋭く批判する角栄の娘の[[田中真紀子]]元外相の方が注目され、これが真の「第二の[[角福戦争]]」だと見る向きもあった。 | ||
+ | ; 囲碁 | ||
+ | : 2007年10月、[[自民党]]元官房長官の[[与謝野馨]]と囲碁で対決した。二人は政界きっての囲碁の実力者で2時間半の激戦の末、小沢が勝負を制した。小沢は「こっち(与謝野氏)は正統派だしね」、与謝野も「(小沢氏との)最後の一局は、4、5年前、私が負けたんですよ」と互いに勝負の感想を述べた。また、12月には作家の[[渡辺淳一]]と囲碁で対決し、小差ながらも勝利した。 | ||
+ | ; 愛犬 | ||
+ | : 2006年4月の衆議院[[千葉7区]][[補欠選挙]]で党の広告に[[柴犬]]の「もも」を起用。補選で「もも」は小沢や候補者たちの応援に出向き話題をさらった。小沢によれば当時の小沢の飼い犬であった柴犬「ちび」と似ているという。2007年10月、その「チビ」を失うが、2008年、新たに柴犬の子犬2匹を飼い始め、毛並みの色から「クロ」、「チャイ」と名付けた。 | ||
+ | ; ニートについて | ||
+ | : 2005年3月の夕刊フジのコラムにて、[[ニート]]について以下のような見解を示した。 | ||
+ | :: 「本人たちは「誰の迷惑にもなっていない」と言うかもしれないが、親の稼ぎで食わしてもらっているうえ、国民全体で支える公共的サービスは享受している。病気でもない働き盛りの若者が、漠然と他人に寄生して生きているなど、とんでもない。」 | ||
+ | :: 「政府は「[[少子化|少子]][[高齢化社会|高齢化]]の進む人口減少社会で、経済の活力を一段と失わせかねない」として、今後、ニートの就職支援に本腰を入れるというが、果たしてそんな次元の話なのか。僕に言わせれば対策は簡単だ。一定の猶予を与えて、親が子供を家から追い出せばいい。無理矢理でも自分の力で人生を生きさせるのだ。追い詰められれば、彼らも必死に考えて行動するはずだ。それでも働きたくないというなら、勝手にすればいい。その代わり、親の世話には一切ならず、他人に迷惑(犯罪も含む)もかけず、公共的サービスも受けないことだ。[[無人島]]でも行って[[自給自足]]の生活でもすればいい。」 | ||
+ | : またニートの親については、「僕は自宅で小鳥を飼っているが、親鳥はヒナが大きくなるまでは一生懸命に世話をするが、一定の時期がくると冷たいほど突き放して巣立ちさせる。ニートの親は動物にも劣るといっても過言ではない」と評し、その責任を激しく糾弾した。 | ||
+ | ; 韓国をめぐるエピソード | ||
+ | :* [[1999年]]4月に[[大韓民国|韓国]]を訪問した際、同月18日に日本の党幹部・閣僚クラスの政治家としては初めて(当時)となる、[[ソウル特別市|ソウル]]にある[[金九]]、[[尹奉吉]]、[[李奉昌]]、[[白貞基]]といった、抗日[[独立運動家]]の墓地を参拝した。この事に関して、[[東亜日報]]は「新しい韓日関係のため韓国に近づこうとする努力の一環として評価している」と報じ、[[文化日報]]は「[[極右]]保守的なカラーを薄めるための高度の計算だとの指摘もある」と述べた。 | ||
+ | :* 小沢は日本の政治家としてはじめて韓国人秘書を正式に受け入れた。身分として国が雇い給与が高い公設秘書(公設第1・第2・政策担当)ではなく、私費で雇い給与の安い数十人の私設秘書の中の一人であった。また、この女性は日本の政界に従事するという関係から、駐日韓国大使館とも随時政局などについて情報交換を行っていた。この韓国人秘書は2007年7月に韓国政府の[[大韓民国女性部|女性部]]主催の「世界韓民族女性ネットワーク」に日本側代表として参加している。この団体は、欧米各国で[[従軍慰安婦]]に関する日本政府への抗議デモや集会を700回以上行っている。なおこの女性は小沢の秘書を務める傍ら東京大学の博士号を取得し、[[2008年]]5月に秘書を離職した後は大学院の教員に就任している。 | ||
+ | :* 小沢は、韓国人の一部が領有権を主張し、韓国資本に土地が買収されている問題が発生している[[対馬]]について、前連合会長の[[笹森清]]に「どう思うか?」との質問をし、笹森が「私は対馬のことを心配している。ウォン経済に買い占められそうだ」と答えると、小沢は「今は絶好のチャンスだ。円高だから(韓国領の)[[済州島]]を買っちまえ」と[[山田正彦 (政治家)|山田正彦]][[衆議院議員]]の[[パーティー]]で行ったあいさつで語ったことが各報道機関によって伝えられた。小沢自身はこの発言の存在を否定している。 | ||
+ | ; 米国、中国との国際交流 | ||
+ | : 小沢は、日米、日中の交流が世界の平和と安定に不可欠と考えて、政治家としての公的な仕事とは別に自分のライフワークとして草の根レベルの国際交流活動を続けた。米国とは1990年に「ジョン万次郎の会」を立ち上げ、1992年に財団法人ジョン万次郎ホイットフールド記念国際草の根交流センターを設立した。2001年、日本に関心の高い[[シカゴ]]市の特定中学校の生徒を毎年20人程度日本に招待した。中国とは、1986年に第1回長城計画が中華全国青年連合会の協力を得て開催され、青年指導者、大学生を毎年数十名を招待した。国際交流活動は、実施団体とともに小沢事務所が担当したため、複数の外国人の大学院留学生が事務所で働いていた。 | ||
+ | ; ニコニコ動画 | ||
+ | : [[2007年]]7月、[[第21回参議院議員通常選挙]]の直前に[[ニコニコ動画]]へ出演し、話題となった。その後も[[2008年]]11月や[[2009年]]元旦に「1万人ネット会見」を行った。また、2008年9月から公式動画コーナー「小沢一郎チャンネル」を開設した。 | ||
+ | |||
+ | == 発言 == | ||
+ | * 「公約は膏薬(こうやく)。張り替えれば効き目がでる」(新進党時代の同僚議員への口癖) | ||
+ | * 「どの女と寝ようといいじゃないか」(1994年、野党連合政権時代に新会派設立への動きを例えて) | ||
+ | * 「記者会見はサービス」(1993年、記者団に) | ||
+ | * 「日本人は特殊な人種だ。(世界から)特殊学級扱いされている。ばかじゃないかと」(2003年 [[小泉純一郎]]首相の自民党総裁再選を批判して) | ||
+ | * 「安倍内閣は脳死状態」(2007年、参院選敗北後の安倍晋三内閣の求心力低下を皮肉り) | ||
+ | * 「給油法案は、国民にとって重要な法案ではない」(2008年、同法案の衆院再議決を欠席したことについて) | ||
+ | * 「日本がもたもたして在日韓国人の地方参政権を認めないのは遺憾だ」(2008年、韓国の李明博大統領との会談で) | ||
+ | * 「総理大臣になって首脳会談ということなら、多少体調が悪くても欠席することはない。私、野党だから。総理大臣じゃない。国務大臣でもない。勘違いしないでください」(2008年、インド・シン首相との会談をドタキャンしたことについて) | ||
+ | * 「おれはまったく米国のことは信用していない。日本の国益を守るために言うべきことは言わないといけない」(2009年2月14日都内の料理屋で国民新党の亀井静香代表代行らと会談において、クリントン米国務長官から会談を打診されていることに関して) | ||
+ | * 「私は、日米同盟がなによりも大事であるということをずーっと以前から、最初から唱えてきたひとりでありますと。」 (2009年2月17日クリントン国務長官との会談後のインタビューで) | ||
+ | * 「政治の細かいことを知る必要はない。自分たちの1票で政権を代えることができる。それだけを分かってもらえたらいい」(2008年10月19日 インターネットのテレビ番組にて) | ||
+ | * 「僕は選挙担当だから。選挙以外のことは他の人に聞いてください。」(2009年05月30日TBS[[知っとこ!]]西松問題の説明責任を問われて) | ||
+ | * 「担ぐ神輿は軽くてパーなのが一番だ。」(但し、これは実際には側近平野貞夫の発言「担ぐ神輿は軽いほうがいい」を誇張して小沢の発言として伝えられたもの) | ||
+ | * 「自民党に投票したら投票に行かなかった人と同じで政治について文句を言う資格はない」 | ||
+ | * 「これ以上何を謝ればいいんだ。」[[盧泰愚]]大統領訪日の際に。 | ||
+ | * 「じゃあやり直したらいいじゃねえか、そんな事を言うんだったらやりなそうじゃないか。」[[宗教法人法]]改正問題で[[大久保直彦]]議員らに小沢の姿勢は弱腰と詰問され野次に対しての応酬で。 | ||
+ | |||
+ | === 拉致問題に関する発言 === | ||
+ | 2009年3月2日付産経新聞朝刊1面における「民主党解剖1」の記事中において、小沢が、2月上旬、都内で開かれた民主党議員と支持者による会合において「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と発言したことが報じられた。 | ||
+ | |||
+ | この記事を受けて、救う会には、電話やメールで問合せが殺到し、救う会では、西岡力会長代行が「小沢民主党代表発言は事実なのか」と題するコメントを発表した。これに対して民主党は、民主党幹事長代理から産経新聞社編集局長と政治部長宛に「記事は『事実無根の報道』」として記事の訂正と謝罪を求め、3月4日中に回答することを要請した。 | ||
+ | |||
+ | この要請に対して、産経新聞政治部長は、3月4日、文書で民主党幹事長代理宛に「正当な取材の結果得られたもので、かつ裏づけもとれているもの」という旨を回答している。なお、小沢のこの発言については、産経新聞以外のメディアではほとんど取り上げられず、民主党も、救う会へ宛てたFAX以外では、反論も含めて一切触れていない。 | ||
+ | |||
+ | == 所属議員連盟 == | ||
+ | * [[憲法調査推進議員連盟]] | ||
+ | * 民主党東北議員団連盟 | ||
+ | * 民主党日英議員連盟 | ||
+ | * [[北京オリンピックを支援する議員の会]]顧問など | ||
+ | |||
+ | == 選挙歴 == | ||
+ | {| class="wikitable" | ||
+ | |- | ||
+ | !当落!!選挙!!施行日!!選挙区!!政党!!得票数!!得票率!!<small>得票順位<br/>/候補者数</small>!!比例区!!<small>比例順位<br/>/候補者数</small> | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第32回衆議院議員総選挙]]||1969年12月27日||[[岩手県第2区 (中選挙区)|岩手県第2区]]||自由民主党||align="right"|'''71,520'''||align="right"|'''26.71'''||align="right"|'''1'''/6|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第33回衆議院議員総選挙]]||1972年12月10日||岩手県第2区||自由民主党||align="right"|'''60,675'''||align="right"|'''19.18'''||align="right"|'''2'''/8|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第34回衆議院議員総選挙]]||1976年12月5日||岩手県第2区||自由民主党||align="right"|'''71,449'''||align="right"|'''21.98'''||align="right"|'''1'''/6|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第35回衆議院議員総選挙]]||1979年10月7日||岩手県第2区||自由民主党||align="right"|'''70,183'''||align="right"|'''21.52'''||align="right"|'''1'''/7|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第36回衆議院議員総選挙]]||1980年6月22日||岩手県第2区||自由民主党||align="right"|'''72,838'''||align="right"|'''22.27'''||align="right"|'''1'''/8|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第37回衆議院議員総選挙]]||1983年12月18日||岩手県第2区||自由民主党||align="right"|'''63,212'''||align="right"|'''18.87'''||align="right"|'''4'''/6|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第38回衆議院議員総選挙]]||1986年7月6日||岩手県第2区||自由民主党||align="right"|'''95,208'''||align="right"|'''24.80'''||align="right"|'''1'''/7|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第39回衆議院議員総選挙]]||1990年2月18日||岩手県第2区||自由民主党||align="right"|'''89,449'''||align="right"|'''24.08'''||align="right"|'''1'''/7|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第40回衆議院議員総選挙]]||1993年7月18日||岩手県第2区||新生党||align="right"|'''142,451'''||align="right"|'''40.82'''||align="right"|'''1'''/6|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第41回衆議院議員総選挙]]||1996年10月20日||[[岩手県第4区]]||新進党||align="right"|'''125,619'''||align="right"|'''64.68'''||align="right"|'''1'''/4|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第42回衆議院議員総選挙]]||2000年6月25日||岩手県第4区||自由党||align="right"|'''119,099'''||align="right"|'''59.70'''||align="right"|'''1'''/4|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第43回衆議院議員総選挙]]||2003年11月9日||岩手県第4区||民主党||align="right"|'''128,458'''||align="right"|'''65.11'''||align="right"|'''1'''/4|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第44回衆議院議員総選挙]]||2005年9月11日||岩手県第4区||民主党||align="right"|'''124,578'''||align="right"|'''59.95'''||align="right"|'''1'''/4|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | |当||[[第45回衆議院議員総選挙]]||2009年8月30日||岩手県第4区||民主党||align="right"|'''133,978'''||align="right"|'''62.55'''||align="right"|'''1'''/5|| - || - | ||
+ | |- | ||
+ | !colspan="11"|当選回数14回 (衆議院議員14) | ||
+ | |} | ||
+ | |||
+ | == 文献 == | ||
+ | === 著作 === | ||
+ | ; 単著 | ||
+ | * 『[[日本改造計画]]』([[講談社]]、1993年5月、ISBN 4062064820) | ||
+ | * 『語る』(小林泰一郎構成、[[文藝春秋]]、1996年4月、ISBN 4163502106) | ||
+ | * 『男の行動美学』([[プラネット出版]]、1999年9月、ISBN 4939110028) | ||
+ | * 『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』([[五百旗頭真]]・[[伊藤元重]]・[[薬師寺克行]]編、[[朝日新聞社]]、2006年6月、ISBN 4022501634) | ||
+ | * 『剛腕維新』([[角川学芸出版]]、2006年8月、ISBN 4046210885) | ||
+ | * 『小沢主義(オザワイズム)―志を持て、日本人』([[集英社]]、2006年9月、ISBN 4797671297) | ||
+ | ; 共著 | ||
+ | * 『日米関係を読む』(アジア調査会編、[[ジェームズ・ファローズ]]・[[松永信雄]]共著、プラネット出版、1990年11月、ISBN 4881913123) | ||
+ | * 『ジョン万次郎とその時代』([[川澄哲夫]]編、[[廣済堂出版]]、2001年7月、ISBN 4331507963) | ||
+ | * 『政権交代のシナリオ―「新しい日本」をつくるために』([[菅直人]]共著、[[PHP研究所]]、2003年11月、ISBN 4569631908) | ||
+ | |||
+ | === 関連文献 === | ||
+ | * 『小沢一郎の「真実」―金丸、竹下を手玉にとる剛腕幹事長』([[アイペック]]、1990年、ISBN 4870471000) | ||
+ | * 『平成名勝負物語—橋本龍太郎vs小沢一郎』([[小林吉弥]]著、[[勁文社]]、1990年、ISBN 4766912497) | ||
+ | * 『劇画 橋本龍太郎VS小沢一郎—激闘譜』([[さいとうたかを]]著、日本フローラルアート出版局、1991年、ISBN 4930831008) | ||
+ | * 『小沢一郎の政治謀略―政界の裏の裏がわかる本』(菊池久著、[[山手書房新社]]、1991年、ISBN 4841300228 ) | ||
+ | * 『小沢一郎探検』(朝日新聞政治部編、[[朝日新聞社]]、1991年、ISBN 4022563435) | ||
+ | * 『小沢一郎・全人像』(小田甫著、[[行政問題研究所出版局]]、1992年、ISBN 4905786908) | ||
+ | * 『平成動乱 小沢一郎の野望』([[板垣英憲]]著、[[DHC]]、1993年、ISBN 4887240023) | ||
+ | * 『小沢一郎の秘密』([[佐藤淳一]]著、[[データハウス]]、1993年、ISBN 4887181698) | ||
+ | * 『小沢一郎・日本改造計画の危険性』([[本澤二郎]]著、[[エール出版社]]、1993年、ISBN 4753912345) | ||
+ | * 『小沢一郎の逆襲―ベールに包まれた政界再編のシナリオを読む!』([[竜崎孝]]著、サンドケー出版局、1993年、ISBN 491493809X) | ||
+ | * 『あの人 ひとつの小沢一郎論』([[渡辺乾介]]著、[[飛鳥新社]]、1993年、ISBN 4870311291) | ||
+ | * 『小沢一郎の腕力ポイント読み』([[伊勢暁史]]著、[[明日香出版社]]、1994年、ISBN 4870307081) | ||
+ | * 『小沢一郎総理大臣待望論』(板垣英憲著、ジャパン・ミックス、1994年、ISBN 4883211541) | ||
+ | * 『どっこい小沢一郎は生きている 全発言で探る、この男の次の一手』([[上之二郎]]著、[[ベストセラーズ]]、1994年、ISBN 4584191131) | ||
+ | * 『小沢一郎真実の叫び―これだけはいいたい 小沢は日本の未来に危惧を抱き、平和な国と社会のために改革を図る』([[蒲生輝]]著、[[三心堂出版社]]、1994年、ISBN 4915620778) | ||
+ | * 『小沢一郎日本国崩壊をすくう』(蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620956) | ||
+ | * 『小沢一郎―覇者の履歴書』([[奥野修司]]著、データハウス、1994年、ISBN 4887182457) | ||
+ | * 『小沢一郎の日本vs.武村正義の日本―あなたはどちらの国に住みたいか この2人がわかれば日本の将来が見えてくる』([[小板橋二郎]]著、[[こう書房]]、1994年、ISBN 4769605080) | ||
+ | * 『池田大作vs小沢一郎 どうなる日本どうなる両雄の展開』([[後藤寿一]]著、[[銀河出版]]、1994年、ISBN 4906436412) | ||
+ | * 『「小沢一郎日本改造計画」への挑戦状! 20代議員の描くキラリと光る改造計画』(「新党20代議員の会」編著、[[マネジメント社]]、1994年、ISBN 4837803431) | ||
+ | * 『河野洋平と小沢一郎の大戦略―宿命のライバル』([[本沢二郎]]著、[[総合法令]]、1994年、ISBN 4893463829) | ||
+ | * 『悪魔の使者小沢一郎―あの強腕を裏で操るのは何者か 日本改造なんてとんでもない』([[ヤコブ・モルガン]]著・[[忍野昭太郎]]訳、[[第一企画出版]]、1994年、ISBN 4887190166) | ||
+ | * 『小沢ウオッチング』([[立尾良二]]著、[[東京新聞]]出版局、1995年、ISBN 4808305216) | ||
+ | * 『小沢一郎の時代』(板垣英憲著、[[同文書院]]、1996年、ISBN 4810380300) | ||
+ | * 『お笑い大蔵省極秘情報』([[テリー伊藤]]著、飛鳥新社、1996年、ISBN 4-87031-293-X) | ||
+ | * 『小沢一郎―その「恐怖支配」の実態』([[久慈力]]著、[[マルジュ社]]、1996年、ISBN 4896161017) | ||
+ | * 『政治が歪める公共事業―小沢一郎[[ゼネコン]]政治の構造』(久慈力・[[横田一]]著、[[緑風出版]]、1996年、ISBN 4846196143) | ||
+ | * 『盛岡大学疑惑を追及する―教育を食い物にする紳士たち』(久慈力著、[[新泉社]]、1997年、ISBN 4787797158) | ||
+ | * 『拝啓小沢一郎党首殿』([[松沢成文]]著、[[ごま書房]]、1997年、ISBN 4341017748) | ||
+ | * 『小沢一郎の行動美学』(三菟雅文著 プラネット出版社 1999年 ISBN 4939110028) | ||
+ | * 『小沢一郎の大勝負 竜馬か!? 悪魔か!?』 (板垣英憲著、[[リヨン社]]、2003年、ISBN 4576031910) | ||
+ | * 『日本変革 菅直人+小沢一郎は政治をどう変えるのか』(板垣英憲著、ベストセラーズ、2003年、ISBN 4584159769) | ||
+ | * 『政党崩壊―永田町の失われた十年』([[伊藤惇夫]]著、[[新潮社]][[[新潮新書]]]、2003年、ISBN 4106100231) | ||
+ | * 『闇将軍―野中広務と小沢一郎の正体』([[松田賢弥]]著、講談社、2003年、ISBN 4062117061) | ||
+ | * 『永田町「悪魔の辞典」』(伊藤惇夫著、文藝春秋、2004年、ISBN 4166603884 ) | ||
+ | * 『政治の数字―日本一腹が立つデータブック』(伊藤惇夫著、文藝春秋[[[文春新書]]]、2005年、ISBN 4106101173) | ||
+ | * 『小沢一郎の政権奪取戦略』([[大下英治]]著、[[河出書房新社]]、2005年3月、ISBN 4309243347) | ||
+ | * 『小沢一郎の日本をぶっ壊す』(大下英治著、[[幻冬舎]]、2006年8月、ISBN 4344408217) | ||
+ | * 『小沢一郎の真実』([[平野貞夫]]著、講談社、 2006年9月、 ISBN 4066213557) | ||
+ | * 『「小沢一郎」入門―カリスマの原点 小沢一郎は何を考えているのか』([[森田実]]著、[[三笠書房]][知的生き方文庫]、 2006年10月、 ISBN 4837975887) | ||
+ | * 『政権交代―小沢一郎最後の戦い』(板垣秀憲著、 [[共栄書房]]、2007年7月、ISBN 4763410334) | ||
+ | * 『[[小沢民主党は信用できるか]]』([[高市早苗]]編著、[[PHP研究所]]、2008年2月 ISBN 9784569697949) | ||
+ | 雑誌関連文献抄 | ||
+ | * 『[[月刊現代|現代]]』2004年2月号、小沢一郎・[[横路孝弘]]・伊藤達美「小沢一郎×横路孝弘―民主党の両極 安全保障論で合意する」 | ||
+ | * 『[[週刊金曜日]]』2005年1月14日号、「本多勝一の憂刻ニッポン―小沢一郎(上)現行憲法の下で「無血革命」を目指す」[http://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/appear/2005/ar20050308142225.html] | ||
+ | * 『[[AERA]]』2006年1月23日号、[[後藤正治]]「小沢一郎 思想政治家で終わるのか」 | ||
+ | * 『[[世界 (雑誌)|世界]]』2007年11月号、小沢一郎「公開書簡 今こそ国際安全保障の原則確立を」 | ||
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小沢 一郎(おざわ いちろう、1942年5月24日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(14期)。民主党幹事長(第9代)。小澤 一郎(おざわ いちろう)とも表記されることもある。
自治大臣(第34代)、国家公安委員長(第44代)。自由民主党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首(第2代)、自由党党首、民主党代表(第6代)、民主党代表代行(筆頭・選挙担当)、民主党幹事長を歴任。
目次
経歴[編集]
生い立ち[編集]
東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)御徒町に弁護士で東京府会議員だった父・小沢佐重喜、母・みちの長男として生まれる。父は44歳、母は42歳という高齢で生まれたため、まるで“孫みたいな”子供だったという。母・みちは元千葉県会議員荒木儀助の四女である。一郎は、みちにとってははじめて生んだ子供である。本籍地は岩手県奥州市(旧水沢市)。3歳から14歳まで郷里の水沢で育った。
水沢市立常磐中学校(現在の奥州市立東水沢中学校)の2年生を終了すると、東京の文京区立第六中学校に転校する。言葉も東北訛りの一郎は、なかなか級友たちの中に入っていけず、いつも教室の片隅でひとりぽつんと座っていたという。
東京都立小石川高等学校卒業後、父と同じ弁護士を目指して東京大学を志望し、2年間浪人したが断念して、慶應義塾大学経済学部、日本大学大学院法学研究科へと進学した。
自由民主党時代[編集]
田中派時代[編集]
大学院在学中の1969年、父・佐重喜の急死に伴い第32回衆院選に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後木曜クラブ(田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受けた。
自民党総務局長、衆議院議院運営委員長を歴任し、1985年に第2次中曽根内閣第2次改造内閣で自治大臣兼国家公安委員長として初入閣した。
竹下派時代[編集]
1985年、木曜クラブの領袖として影響力を保持していた田中に、反旗を翻した竹下登、金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会(竹下派)として独立した。竹下の総裁就任に奔走し日本皇民党事件の際には金丸とともに稲川会幹部の元に出向いている。竹下内閣の発足後、小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の一人に数えられ、官房副長官にも就任した。
第1次海部俊樹内閣では党幹事長に就任。苦戦が予想された第39回衆院選を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、勝利したなどの実績から「剛腕」と称された。
1990年、金丸を代表とする北朝鮮訪問団(金丸訪朝団)に参加する。
同年8月、湾岸戦争が勃発し、小沢はペルシャ湾への自衛隊派遣を模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する外務省を抑え法案を提出した(なお、この法案は野党の反対で廃案となり、後に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO協力法)が成立)。自衛隊派遣について国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で自民党東京都総支部連合会が推す現職の鈴木俊一に代わり、新人の磯村尚徳を擁立するも都連が鈴木を支援した事もあり敗北。なおこの都知事選公示直前に出馬に意欲的であったアントニオ猪木と会談し猪木を出馬断念に追い込んだがこの際に多額の金銭が動いたと一部報道で報じられた。1991年4月、責任を取り党幹事長を辞任した。直後に経世会会長代行に就任し、名実とともに派閥のNo.2となった。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めた。
同年、政治改革法案が国会で廃案となったことを受け、首相の海部が衆議院の解散総選挙をぶち上げたが、党内の反発を招き、海部は首相辞任に追い込まれた(海部おろし)。その際、金丸が小沢に対し後継首相となるよう命じ、金丸の意を受けた渡部恒三なども小沢を説得したが、当時49歳という年齢や心臓病(狭心症)で6月に倒れたことなどを理由にこれを固辞したとされる。だが、田勢康弘から「この逸話は実は真実ではない」と指摘されており、このようなやり取りは実際には存在せず、金丸や竹下は当初から宮澤喜一擁立を目指していたとされている。
10月10日、自由民主党総裁選挙での派閥が支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮沢、渡辺美智雄、三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した(小沢面接)。しかし宮沢や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は当選回数こそ小沢よりも一回少ないが、年齢は小沢より上だった)を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。このことは後々まで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた(実際は当日ホテルの会場が満室でどこも予約できず、3人の事務所を小沢が訪ねる予定だったのだが、推薦を受ける立場の人間を訪ねてもらうのは失礼だという話になり、小沢の事務所で面談することになったという。宮沢も後に『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧した)。
竹下派分裂、羽田派結成[編集]
1992年、東京佐川急便事件を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け派閥会長を辞任、議員辞職した(東京佐川急便事件に関しては、小沢も1993年2月17日に証人喚問を受けている)。後継会長に小沢は金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らと共に羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す橋本龍太郎、梶山静六らと対立。当初中立であった参院竹下派に竹下自らが関与して小渕支持を決定。この結果として後継会長は小渕に内定した。敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、派閥は分裂した。
宮沢喜一改造内閣における羽田派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派は反主流派に転落した。これに対し小沢は主流派を「守旧派」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった政治改革の主張を全面に訴えた。
こうした中で小沢は、5月20日に、著書『日本改造計画』を発表した(実際に店頭に並んだのは6月下旬)。同書は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録し、1993年を代表するベストセラーになった。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめた。
自民党離党、非自民連立政権成立[編集]
1993年6月18日、野党から宮沢内閣不信任案が上程され、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した(嘘つき解散)。同年6月21日に武村正義らが自民党を離党(新党さきがけを結党)した。これが羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首(羽田)の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。新生党代表幹事時代には番記者との懇談会を廃止し、これまでの記者クラブ中心の会見から海外メディアや週刊誌記者なども会見に参加できるようにし注目を集めた。一方、自分の意に沿わぬ記事を書いたメディアと対立を起こした。
7月18日、第40回衆院選において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢内閣は総辞職した(後任の自民党総裁に河野洋平が選出)。小沢は総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜した。8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。
細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし(一一ライン)、官邸主導の政治を目論む内閣官房長官の武村正義と激しく対立した。
1994年、小沢と大蔵事務次官の斎藤次郎が中心となり、消費税を廃止し7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定した。2月3日未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発を受けた。また、社会・さきがけ・民社各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。内閣官房長官の武村は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化した。武村か小沢かの選択を迫られた細川は小沢に軍配を上げ、政権の主導権を奪われた武村や武村率いるさきがけは与党内で孤立し、武村と細川の仲も急速に冷却する。一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。
細川の首相辞任を受けて、小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫。連立与党は羽田の後継首班に合意した。しかし、1994年4月25日の首班指名直後に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、社会党は連立政権を離脱し、羽田内閣は少数与党となった。
羽田内閣は1994年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが、結局は解散総選挙を断念。6月25日に内閣総辞職し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。
小沢は羽田の後継として、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹を担ぐことを決めた。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。1994年6月29日、自民党は首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となった。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために、小沢の豪腕が必要とされた。
新進党時代[編集]
1994年9月28日、日本共産党を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成された。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。こうして小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任した。
1995年7月、第17回参院選で、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得した。同年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突し、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。しかし、この党首選挙直後に投票者名簿が破棄されるなど、選挙結果が不明瞭であったため、羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。
1996年10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。原則比例代表との重複出馬を禁止とし、比例区で創価学会の支援を期待し公明党系の議員を優遇したため選挙地盤の弱い若手の新党ブーム世代の議員が多数落選したため、強い反発を浴びこれが後の政局においても禍根を残す事になった。また選挙直後開票中にも関わらず深夜になるまで党本部に姿を見せず雲隠れするなど党首としてあるまじき態度を取った事も強い批判を浴びた。
総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、1996年12月26日、羽田は奥田敬和、岩國哲人ら衆参議員13名と共に新進党を離党、太陽党を結成した。
1997年、小沢は自民党の亀井静香らと提携する、いわゆる保保連合構想に大きく舵を切った。しかし、新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成した。
12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月27日に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌のうちに終わった。
自由党時代[編集]
結党・与党復帰[編集]
1998年1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任した。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。
同年7月12日の第18回参院選では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参院選後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参院では自民党の小渕恵三を抑え菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した)。 小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。
1998年10月、小沢は内閣官房長官野中広務と会談、連立交渉を開始し、同年11月19日、小渕内閣との間での連立政権について合意した。そして1999年1月14日正式に自自連立政権が成立し、党幹事長の野田毅が自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。この連立の間に衆議院議員定数20の削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と党首討論設置を含む国会改革が行われた。
1999年7月、公明党が政権に入り、自自公連立政権が成立した。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下した。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。中曽根康弘、亀井静香等は小沢の復党を認める方針であったが党内の反小沢勢力は「小沢の復党は認められない、小沢抜きでの復党は認められる。」とし小沢自身も「復党が認められなければ連立解消だ。」と珍奇ともいえる主張を行い両者は2000年4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消した(なお、この後に小渕は脳梗塞で倒れ、5月14日に死去した)。
分裂[編集]
自由党は、小沢を支持する連立離脱派と、野田毅・二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成した(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。小沢と袂を分かった保守党は政党助成金を半分ずつ分け合うために分党を要求したが、自由党はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。
2000年6月25日の分裂直後に行われた第42回衆院選で、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦した。このとき、約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題となった(一方、保守党は7議席へと激減)。連立離脱後は野党共闘路線へ舵を切ることを余儀なくされたが、(過去に小沢から酷い目に合わされたと感ずる)旧新進党や旧社会党出身者が多い民主党を始めとした野党との関係は当然ギクシャクしたものにならざるを得なかった。
2001年1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。なお、小沢塾は民主党との合併後は小沢個人の私塾として運営。
同年7月29日の第19回参院選では、自民党に小泉旋風が吹き、小沢の地元・岩手県選挙区でも大苦戦を強いられたが、僅差で勝利した。議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票に止まった(第18回参議院選挙より約100万票、第42回衆議院選挙より約220万票の減少)。
民主党へ合流[編集]
2002年、第19回参議院選挙での結果もあって、小沢は鳩山由紀夫(当時民主党代表)からの民主・自由両党の合併に向けた協議提案を受け入れた。しかし、民主党内の調整が不十分であったこと及び民主党内の小沢に対する拒否反応の為に頓挫した(なお、鳩山は代表辞任に追い込まれた)。鳩山辞任後に民主党代表に選出された菅直人によって、いったん合併構想は白紙に戻ったが、小沢は党名・綱領・役員は民主党の現体制維持を受入れることを打診し、両党間で合併に合意した。
自由党と民主党の合併の直前に、自由党から13億6816万円の寄付が改革国民会議に対して行われた。改革国民会議は小沢一郎が代表を務めており小沢の関連団体である。13億6816万円のうち5億6096万円が税金を原資とする政党助成金であった。後にこの行為は問題視され、政党助成金法改正案として議論された。
2003年9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は民主党の代表代行に就任した。11月9日の第43回衆院選で民主党は、公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得。民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を共にした。また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが失敗に終わった。経済政策では、それまでの新自由主義から「地方経済」と「雇用」の重視の方針へ転換した。
当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、東北地方出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。
2004年5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅の後継代表に小沢が内定したが、直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる1986年以前に未加入だったとして代表就任を辞退した(結局、岡田克也が後任代表となった)。2004年7月11日に行われた第20回参院選の後、岡田の要請により党副代表に就任した。
2005年9月11日、第44回衆院選で民主党は現有議席を60近く減らす惨敗を喫し、岡田は代表を引責辞任し、小沢も党副代表の職を辞任した。岡田の後任代表となった前原誠司は、小沢に党代表代行への就任を依頼したが、これを固辞した。
民主党代表[編集]
代表就任[編集]
2006年3月31日に前原が、「堀江メール問題」の責任を取って党代表を辞任、4月7日の民主党代表選で小沢は119票を獲得し菅直人を破り、第6代の民主党代表に選出された。両院議員総会の演説で小沢は、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という19世紀のイタリア貴族の没落を描いた映画『山猫』の一節を引用し、その上で「まず、私自身が変わらなければなりません」と述べ、「ニュー・小沢」を印象づけた。
代表選後、小沢は菅を党代表代行、鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を敷いた。また、前執行部と次の内閣メンバー全員を残留させた。小沢は政令指定都市・都道府県の首長選挙に関しては原則として相乗り禁止の方針を打ち出した。
大半の民主党議員は、小沢の代表就任まで自民党幹事長時代はおろか、つい最近の小沢の動向すら知らず、「選挙に強い」という噂を頼り半信半疑で眺めている者も少なくなかったが、小沢が党代表に就任した直後の4月23日に、メール問題での逆風下にあった衆議院千葉7区補欠選挙で、僅差ながら勝利を収めた。半年後の9月12日の民主党代表選に無投票で再選された。
5月9日の会見で、衆院本会議を欠席しがちな理由として「食後すぐに仕事にとりかからないなど、医者の忠告を守っている」と、自身の体調管理を理由に挙げたことに関し、「議会軽視だ」と各方面から厳しい批判を受けた。また、自身の健康状態を語ったことに対して様々な憶測が流れた。9月25日臨時党大会で正式に代表に再選された後、狭心症の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院した。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。
国会運営[編集]
民主党代表時代の小沢の国会での論戦は、前原時代の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にした。自著『日本改造計画』では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという立場を取った。一方、議員数の多さを背景に強行採決した場合には徹底抗戦や審議拒否も辞さない戦う野党の姿勢も示した。ただし、この姿勢は審議拒否を度々行うことで「充分な審議を放棄した」「与党案の成立を手助けしている」との批判を生むことがあった。
外交政策での党内対立[編集]
2006年10月に北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢らトロイカ体制の見解を発表した。しかし、これに対して前代表である前原誠司を始めとする党内の若手から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。
小沢は「核武装の論議を是認すれば『非核三原則を守る』という言葉も国民や国際社会に受け入れられない」と指摘した。しかし、その考えに不満を持つ一部保守層などが、自由党党首時代2002年の小沢の発言である「日本は一朝で数千発の核弾頭を持てる。」と日本の核保有能力について発言したことと比較して批判した。
防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。民主党内には依然反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議に欠席した。
統一地方選、参院選[編集]
2007年4月8日に統一地方選挙(前半)が行われ、地元・岩手県の知事選挙で小沢チルドレンの代表格である達増拓也が当選。岩手県議会議員選挙でも、議席を増やし第1党を維持し、その他の道府県議選・政令市議選でも民主党は230議席(合併前の自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。
4月22日に行われた統一地方選挙(後半)では、市町村議会選挙で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。
7月29日に行われた、第21回参議院議員通常選挙で民主党は60議席を獲得、参議院第1党となり、野党全体(共産党を含む)で過半数を得た。選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかったが、7月31日の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けるとした。また、8月に前代表・前原、元代表・岡田等が党副代表に就任し、挙党体制を構築した。
ねじれ国会[編集]
8月8日には、11月に期限切れとなるテロ対策特別措置法(テロ特措法)問題についてマスコミ公開の中、アメリカの駐日大使ジョン・トーマス・シーファーと会談した。シーファーは小沢にテロ対策特別措置法の期限延長に対する理解を求めたが、小沢はアフガン戦争が国際社会のコンセンサスを得ていないとして海上自衛隊の支援活動は認められないと主張し、反対の意向を示した。8月30日にはドイツ首相アンゲラ・メルケルと会談したが、この席でも改めてアフガン戦争が国連によるコンセンサスを得たものではないと主張した。結局テロ特措法は安倍内閣の突然の総辞職で、有効期限の延長が出来なくなり、そのまま失効した。
9月12日に首相辞任を表明した安倍晋三の後任となる、内閣総理大臣指名選挙が9月25日に行われ、参議院で決選投票の末に福田康夫(自民党総裁)を抑えて、小沢が指名された(小沢133票、福田106票)。なお、衆議院で指名された福田が衆議院の優越規定に基づき首相となった。なお、両院の指名が異なったのは小渕恵三内閣下で民主党の菅直人が指名されて以来、9年ぶり4度目であった。
2007年11月2日、小沢は福田と会談し、連立政権について提案があった為、意見を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったが、民主党内の反対を受け連立を拒否した。11月4日、連立騒動の責任を取り代表辞任を表明したが、民主党内の慰留を受け、11月6日代表続投を表明。11月7日の両院議員懇談会で代表続投が承認された。その後、テロ特措法の後継の法律として衆議院に提出されていたテロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法案(新テロ特措法)に対する議決が行われ、民主党が多数を占める参議院では反対多数で否決されたが、2008年1月11日に衆議院本会議で与党の3分の2以上の賛成多数で再び可決・成立した。この再可決の本会議で小沢は採決直前に退席し、党内の一部や他の政党の議員から批判された。対して小沢は「前からの約束で、選挙の約束は一番たがえてはいけないものだ」と強調。大阪府知事選挙の応援があったこともあげ、新テロ対策特措法について、「国民にとっても民主党にとっても大事な法案ではない。反対の意思表示は既にしている。後は数あわせの本会議でしかない。結果は目に見えている。批判は理解できない。国民は理解してくれていると思う」と反論した。
2月29日、衆議院で2008年度予算案が野党3党の欠席のなかで強行採決された。小沢はこれに対し「信頼関係が完全に崩壊した」と発言し、強行採決をしたことで日本銀行総裁人事に影響を及ぼすのは、避けられないとの態度を示す。民主党も強行採決されたのを受け武藤敏郎副総裁の日本銀行総裁への昇格を拒否する方針を決め、参議院で日銀総裁人事を否決した。3月18日、政府与党は改めて田波耕治を総裁候補として提示したが、この人事案も参議院で不同意となり、結果として白川方明が総裁に就任した。
9月22日、民主党代表選で小沢が無投票での3選を果たした。
10月23日、前日まで衆院選対策のため福岡を訪れていたが、予定されていたインド首相マンモハン・シンとの会談を、体調不良を理由に欠席、「会談の頭だけでも出た方がいいと代表にいってほしい」との鳩山由紀夫幹事長の説得も受け付けず、党役員会などの公務もキャンセルし、鳩山が代わって会談した。翌24日に公務へ復帰、衆院選対策のため青森へ出張した。
2009年5月11日、西松建設疑惑関連で公設秘書が逮捕された件で、民主党代表を辞任した。自身の後継を決める代表選挙では、側近として共にトロイカ体制を支えた鳩山由紀夫を支持し勝利に導いた。
民主党代表代行[編集]
5月17日、選挙担当の代表代行に就任。菅直人が代行が多くなったことから小沢に筆頭となるよう要請し、3名の代表代行の中では筆頭扱いとなった。代表代行への就任は実に5年ぶりとなる 。
第45回衆議院議員総選挙で政権交代を果たした後の9月3日、鳩山由紀夫民主党代表が小沢に幹事長就任を要請した。これに対し「代表から幹事長の就任を要請された。私は党人だから、お受けすると返事をしてまいりました」と述べ、要請を受け入れる意向を表明した。小沢の幹事長就任については、鳩山の掲げる「政策決定の内閣への一元化」に反して政府と与党の「権力の二重構造」となり、政策面で小沢の影響を排除できなくなるとの見方がでたが、これについて鳩山は「幹事長は党務だ。政策の決定は政府でやると確認した」と述べた。
民主党幹事長[編集]
2009年9月15日の民主党両院議員総会において、正式に幹事長に就任した。
東日本大震災で国民見捨て放射能怖さに逃げた小沢一郎元代表!和子夫人が「離婚しました」と手紙「隠し子」も綴る[編集]
「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃
民主党の小沢一郎元代表(70)の和子夫人(67)が、2011年11月に地元・岩手県の複数の支援者に、「離婚しました」という内容を綴った手紙を送っていた。
便箋11枚にも及ぶ長い手紙の中で、和子夫人は、2011年3月の東日本大震災後の小沢元代表の言動について触れ、「このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」と書いている。
手紙では、小沢元代表の愛人や隠し子の存在についても触れている。8年前に隠し子の存在がわかったとき、小沢元代表は和子夫人に謝るどころか、「いつでも離婚してやる」と言い放ち、和子夫人は一時は自殺まで考えたとも記している。そして、このように綴っている。
「それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水を差すようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました。ところが3月11日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました」
「国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのです」
こうした大震災後の小沢元代表の言動がきっかけとなり、和子夫人は2011年7月に家を出て別居を始めたという。その後も現在まで別居は続いているが、小沢事務所は「離婚の事実はない」としている。和子夫人はこうも綴っている。
「かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています」
現在、消費税増税法案の採決をめぐって、小沢元代表は造反をちらつかせて野田政権を揺さぶっているが、和子夫人の手紙はそうした政治情勢にも大きな影響を与えそうだ。
まだ短い余震がある中、お変わりございませんか
この度の大震災ではさぞ御苦労があったと思います。ご家族ご親類はご無事でいらっしゃったでしょうか。
何のお手伝いもできず申し訳ありません。被害の余りの大きさに胸がつぶれる思いです。
長年お世話になった方々のご不幸を知り、何もできない自分を情けなく思っています。
このような未曾有の大災害にあって、本来政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、
実は小沢は放射能が怖くて、秘書と一緒に逃げだしました。
岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、
岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました。
お礼の手紙にこのようなことを申し上げるのは大変申し訳けなく、ショックを受けられると思いますが、
いずれお話しなければと思っていましたので、この手紙を差し上げました。
お聞き苦しいと思いますが、今迄のことを申し上げます。
八年前、小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才をすぎました。
三年つきあった女性との間の子で、その人が別の人と結婚するから引きとれといわれたそうです。
それで、私との結婚前からつき合っていた●●●●という女性に、
一生毎月金銭を払う約束で養子にさせたということです。
小沢が言うには、この●●●●という人と結婚するつもりだったが、水商売の女は選挙に向かないと反対され、
誰れでもいいから金のある女と結婚することにしたところが、
たまたま田中角栄先生が紹介したから私と結婚したというのです。
そして「どうせ、お前も地位が欲しかっただけだろう」と言い、
謝るどころか「お前に選挙を手づだってもらった覚えはない。何もしていないのにうぬぼれるな」と言われました。
その言葉で30年間皆様に支えられて頑張ってきたという自負心が粉々になり、一時は自殺まで考えました。
息子達に支えられ何とか現在までやってきましたが、今でも、悔しさと空しさに心が乱れることがあります。
「小沢王国」はなぜ崩壊したのか(2013年7月)[編集]
21日投開票された参院選の岩手選挙区(改選数1)で、生活の党の小沢一郎代表(71)が擁立した候補が惨敗し、地元・岩手県で小沢氏の影響力低下が鮮明になった。
県内4小選挙区のうち3選挙区を落とした昨年の衆院選に続く地元での敗北。かつて圧倒的な支持基盤の固さを誇った「小沢王国」はなぜ崩壊したのか。
「正直言って大変驚いている」。
小沢氏は21日夜の会見で、岩手選挙区の敗北についてこう述べた。小沢氏の同級生、中目(なかのめ)一行さん(70)は「崩壊したとは思っていない。われわれは次の選挙を見据えている」と語るが、今回はおひざ元の奧州市でも異変が現れた。
奥州市内の得票数は、3選を決めた無所属の平野達男前復興相(59)が2万8671票だったのに対し、生活新人の関根敏伸氏(57)は1万2578票と半分にも満たなかったからだ。県全体では平野氏の24万3368票に対し、関根氏は9万1048票にすぎなかった。
「小沢さんの時代は終わった」。
奧州市水沢区の主婦(70)はこう話す。小沢氏の秘書を20年以上務めた高橋嘉信元衆院議員(59)も「王国は完全消滅。政局と自分の立場だけ優先してきた結果だ。人の心は離れてしまった」。
なぜ小沢氏への期待が薄れていったのか。過去に小沢氏と行動を共にした県政関係者は「この1年間だけでも政党が次々と変わり、政策も共産党などの野党と変わらなくなった。その変化に県民がついていけなくなった」と分析する。
理由はそれだけではない。平成23年3月の東日本大震災で岩手も甚大な被害が出たのに小沢氏が初めて被災地入りしたのは10カ月も後の24年1月。小沢氏に近い郷右近(ごうこん)浩県議(48)は「警備上の理由で被災地入りをやめてほしいという要請があったため」と明かすが、被災者の目に被災地入りが遅れた小沢氏は冷たく映った。
津波被害を受けた大槌町の主婦、浜田智子さん(37)は「岩手の人なら来てほしかった」と嘆く。小沢氏の後援会幹部は「尾を引いているのは間違いない」と認める。
「王国」の崩壊は今度どう影響するのか。
「小沢さんは自分の意に沿わない人を切り捨ててきた。市長選では露骨に対立候補をぶつけてきた」
と振り返る。首長選で対立候補を立てるのは、小沢氏側かどうか色分けをはっきりさせる狙いがあるとされる。今月無投票で4選した住田町の多田欣一町長(68)は「もうぶつけることもできなくなるだろう。そうなると(選挙の)結果も変わってくる」と指摘しており、小沢氏の影響力低下はより加速するとみられる。
「日韓は民族的にも言語学的にも非常に近い、力を合わせるのは当然で大部分の日本人も望んでいる」(2014年10月)[編集]
生活の党の小沢一郎代表は党機関紙(10月10日号)の巻頭提言で「日韓中3か国が東アジアで協力態勢をとれば、国際社会で新しい歴史的役割を果たすことができる」と3か国協力関係の重要性を訴えた。
その一方で「安倍総理は、かつての日本の中国への進出を美化しないまでも肯定的な考え方を随所で示している」として「歴史的認識の違いという部分はあっても、こうした安倍総理の考え方に中国は反発している」との認識を示し、「現在の日中関係の異常な状態も安倍内閣が続く限り解消することは難しいと思われる」と安倍内閣では日中関係の改善が難しいだろうとの見方を示した。
日韓関係においても「親しい間柄ほど関係がこじれると修復が難しい。今の状況は本当に不正常で両国にとってプラスになっていない。これも安倍内閣が続く限り打開の道はありません」と懸念を示した。
小沢代表は「日韓関係は日中関係以上に不可分な関係」とし「民族的にも、言語学的にも非常に近い。大和朝廷時代には通訳者がいなくても会話ができたといわれ、新羅、百済とは政治的な人材交流も活発だった。こうした歴史的事実を考えれば、国際社会の中で両国が力を合わせていくのは当然で、大部分の日本人もそれを望んでいるのではないか」と両国が力を合わせていくのは当然としている。
そのうえで、中国内部で起きている民族運動や自由を求める改革運動、経済格差への反発などに懸念を示し、日韓が連携して中国社会をソフトランディングさせ、民主化の方向に持っていくことができればと願っていると、まず日韓関係の改善、そして日中関係の改善、日韓中3か国の協力態勢の構築で歴史的な役割が果たせるだろうと結んでいる。
日韓首脳会談の実現にむけた接触は局長級協議など継続的に行われているものの、従軍慰安婦問題などへの対応がネックになり、具体化につながっていない。
主な政治的主張[編集]
最初の著作である「日本改造計画」では新自由主義を主張したが、民主党代表に就任するとリベラル色を強めた。一方、2004年に公表した現行憲法の下での国連派遣部隊構想、さらにそれを発展させ2007年10月に公表した国際安全保障政策では、現行憲法との論理的整合性を維持しながら日本の国際安全保障政策(国連中心主義)を主張した。
外交、防衛政策[編集]
- 基本姿勢
- 外交では、太平洋戦争に対する反省を踏まえて二つの「共生」を主張している。一つは人間と人間、国家と国家との「共生」、つまり日本及び世界の平和を確保すること、もう一つは人間と自然との「共生」、つまり日本が率先して地球環境の保全を進めることである。それ以上に重要なのは、安全保障については、日本の法律より国連決議が風船すると「世界」で述べたことである。その結果、小沢氏は多くの批判を受けることとなった(日本国民が民主主義で選択した日本の法律が、国連の常任安保理事国のせめぎ合いによる決定より劣る、という発言であったため)。
- また、世界の国々、特に米国とは相互の信頼に基づく対等な関係を積み上げ、中国、韓国をはじめアジア諸国と平和で自由で開かれた信頼関係の実現を主張した。具体的には、米国との真の日米同盟の確立、核廃絶、アジア外交の強化、貿易・投資の自由化、政府開発援助(ODA)の抜本的見直し等。2009年2月24日には「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分だ…あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う…米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事柄についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と述べた。
- A級戦犯、靖国神社
- 東京裁判は不当な報復裁判であり、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない。しかし当時の国家指導者は敗戦責任があり、天皇陛下が参拝できるよう靖国神社から削除すべき。行く行かないは個人の自由だが、公約をし、政治信念で行くのならば8月15日に公式参拝を行うべき。ただし靖国神社は戊辰戦争の招魂社だという問題がある。小沢自身は賊軍とされる岩手の出身である。
- 1986年4月2日の国会答弁では「誰もが自然の気持ちで行くべきであると思う。私もそのような自分の気持ちが沸いてきた時今までも参拝してきたしするつもりである」、「国務大臣であろうがなかろうが今後も行きたい」、「A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない」、「たまたま敗戦によって戦勝国から戦犯とされた人もいる」などの発言があった。
- また、2008年2月21日の朝鮮日報からのインタビューでは、「靖国神社問題は日本側が大きな間違いをしている。民主党が政権を取ったら、戦争責任者を靖国神社から分祀し、韓国と中国に強力な信頼関係を築く」と述べた。
- 核武装
- 日本には数千発の核兵器を製造する能力がある(2002年)ものの、軍事的、政治的にも何のプラスにもならない。議論もしてはいけない(2006年)。党内には、核保有を認める意見や核武装を議論すべきとの意見があった。
- 憲法9条
- 「専守防衛」に徹し、憲法前文の平和主義と憲法9条の第一項と第二項は保持。第9.5条として平和のための国際協力と国連待機軍の設置を付加。自衛隊は国防に専念させる。なお、自衛権は、個別的であれ集団的であれ、我が国が急迫不正の侵害を受けた場合に限って行使。急迫不正の定義は明確にしない。
- 自衛隊の海外派遣
- 小沢は国際治安支援部隊に対しては容認しており、ダルフール紛争への部隊の参加、国連治安支援部隊(ISAF)への参加など国連中心主義を強調した。ただし、その際の武器の使用基準見直しについては明言していなかった。なお政府は、ISAF本体への護衛参加については、合憲であるとの見解をまとめている。[1]。
- 集団的自衛権と集団安全保障
- イラク戦争型 (集団的自衛権の行使)‐ 他国が自衛権を発動して開始した戦争に参戦する有志国軍(OEF)への参加は憲法違反だとし、テロ対策特別措置法の延長にも反対した。
- 湾岸戦争型(集団安全保障に基づく武力行使) ‐ 国連が承認した国連軍、多国籍軍の参加には賛成。
- 周辺事態法について
- 2006年10月に北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢らトロイカ体制の見解を発表した。しかし、これに対して前原誠司を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。
- 北朝鮮拉致について
- 「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と述べたと報道された。
- 領土問題
- 「われわれが与党になったら領土問題にケリをつける」「例えば、尖閣諸島は歴史的に見ても日本の固有の領土だ。それを明確にさせる。自公政権のように弥縫策で先送りすることはしない」と述べ、領土問題の速やかな解決を宣言している。また、2008年7月15日には、 記者会見で学習指導要領の竹島問題について問われ、「教科書云々の前に日韓の考え方の差を埋めるために、しっかり話し合いをすべきだ。話し合いを避けて教科書に載せる載せないの類は順序が違う。事実上韓国が実力支配しているわけですから、それを放置しておいて俺の領土だと言ってもどうしようもないでしょう」と日本政府を批判した。
- チベットと中華人民共和国
- 2008年のチベット動乱の後、2008年4月17日の講演で、チベット問題について「中国の政権が抱える矛盾が民族問題を契機として持ち上がった。共産主義独裁の政権と政治の自由は、原理からいって成り立たない」と発言し、「共産党政権が時代の変化に応じて生き延びようとするなら、自分自身が変化しなければいけない」と中国を批判した。
- 防衛庁の省への昇格
- 防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。ただし、民主党内に反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議は欠席した。
法務[編集]
- 憲法改正(憲法96条)の為の国民投票法案
- 与党提出の法案に反対した。その後民主党案との修正協議を経て修正与党案が成立した。なお社民・共産は法案そのものに反対した。
国民投票法案については日本国憲法の改正手続に関する法律を参照
- 永住外国人の地方参政権
- 旧植民地政策により日本に移住、戦後そのまま在住した永住外国人・その家族が日本国籍を獲得しにくい場合でも、その歴史的事情を勘案し、また地域の住民との連帯感を醸成するために地方参政権を与えるべきと主張している。
- 公務員改革
- 幹部職員の内閣一元管理。公務員に対しては、スト権の付与と守秘義務違反の軽減を行う。また、政官接触を自由化する。特殊法人、独立行政法人、特別会計は見直す方向。
経済、財政政策[編集]
小さな政府ではなく、「官で出来ることは官で、民で出来ることは民で」。過疎化した地方など無駄な公共事業を極力減らしていく方針。
- 税制
- 年金の特定財源化を行い、すべての年金を一元化する。1人月額6万円を支給する基礎年金と従来の保険料方式を維持した所得比例年金の2階建て。消費税は5%に維持するが、その税収はすべて全額を福祉目的税化し、基礎年金に割り当てる。しかし、消費税5%分(約13兆円)だけでは年金の基礎部分を賄えないため、必要な財源は既存予算から捻出するように努力する。13兆円では、国民の半数にしか年金が支給できないとの批判があったが、「給付する人を低所得者に限るため、13兆円で足りる」と反論した。
- 道路特定財源の一般財源化を行い、揮発油税(ガソリン税)の暫定税率を廃止する。2008年3月28日にはこれに関して「暫定税率を延長する必要はなく、国民生活のために還元をしたほうが良い」と主張した。廃止に伴う地方財政への影響に関しては、道路特定財源の内で地方へ行くと予定されているのは9000億円であるが、そのうち市町村分の3000億円には手当てが必要であるとの見解を示し、その手当てを一般会計・特別会計の余剰金の利用や無駄の削減で市町村分へ配分することは可能だとした。
- 地方分権
- 中央集権体制から地方主権体制への移行。中央政府の権限は外交・治安などに限定し、その他の権限を地方に移譲する。また、個別補助金は官僚支配を生み利権の温床となるため廃止し、自主財源として一括交付する。財源・権限を地方に移譲することで地域経済の活性化につながる。地方分権を推進するため、市町村の300程度への集約を行う。
- 格差是正
- 社会的格差を是正する。子育て支援をし、親と同居している世帯に対して「親手当」、子供がいる世帯に対して「子ども手当」を交付する。管理職は自由競争だが、非管理職は終身雇用にする。労働法は長期安定雇用を基本とするべき。挫折した経営者・労働者の再起、再就職の支援制度を拡充する。
- 移民政策
- 自民党と財界一部に「移民受け入れ」を検討する動きがある事を受け、「まったくダメだ。現在でも『奴隷労働』と言われる非正規労働者の問題が深刻なのに。発展途上国から単純労働者を受け入れることは、一種の奴隷制度ではないか。治安問題を心配する声もあるが、それ以前に、そういう形での移民受け入れは人間の尊厳に対する冒涜であり、人道的にとても認められない。」と述べ、与党の移民政策を批判した。
教育政策[編集]
与党案とは異なる民主党独自の「教育基本法」の制定。教育予算は先進国中低位の現状を是正し引き上げる。5歳から高校まで義務教育を広げる。すべての国民に高等教育の機会を与えるため、奨学金制度を拡充する。教師などの教育職員は国家公務員として身分を安定させ、争議権を認めない。
農業政策[編集]
わが国の安全保障を確保するためには現在39%に低下している食料自給率を他の先進国並みに高める。農家、農村の活力を再生するために、穀物などの主要農産物について戸別所得補償制度を導入する。トレーサビリティ制度の拡充と加工食品の原材料も含めた原産地表示の義務づけを行い、食の安全を確保する。
他党、支持母体との関係[編集]
- 選挙協力
- 思想的には保守であるが、自公政権打倒のためには共産党を含めた全野党による選挙協力も辞さないことを表明した。社会党の社公民路線以来、「非自民・非共産」として、共産外しが常態となっていた野党第一党の代表としては異例の見解であった。そのため、自公からはもちろん、党内の反共主義者からの批判が見られた。共産党は現時点では「市場主義重視」の民主党の「第三の道」路線に対して自公共々批判的であるため、実現しなかった。
- 大連立
- 2007年末に取り沙汰された大連立騒動(大連立構想 (日本 2007))では、民主党が政権を取る為には、自民党と連立し、連立政権の中で民主党のマニフェストを実現して、実績と政権担当能力を示す必要があると主張した。大連立構想が立ち消えになった後は自民党との対決姿勢を強め、選挙による政権交代を目指している。
- 労働組合との関係
- 未組織労働者や市民層からの支持を増やすことで協調的に労組との関係を維持した。
小沢グループ[編集]
小沢一郎を支持する民主党のグループ。もともとは旧自由党出身の議員のみであった。合併当初は「党中党」は避けようという観点からほとんど会合なども行われなかった。その後、2004年6月に当時当選1回~2回の議員を対象とした小沢主宰の勉強会「一新会」が発足。これ以降徐々に会合等を開くようになる。
一新会に加え、2005年秋に発足した落選者や候補者を対象とした「一新会倶楽部」に加え、2001年から続く「小沢一郎政治塾」の存在もあって選挙ごとに勢力を拡大。2007年の第21回参議院議員通常選挙で当選した新人議員の多くが加入し、党内最大派閥となった。小沢を中心に旧自由党出身の議員の結束は固いが、渡辺秀央、大江康弘のように小沢と選挙等をめぐって対立し離党した議員もいる。一方、一新会のメンバーの場合他のグループに参加しているメンバーも多く結束は自由党出身議員と比べ幾分緩い傾向がある。
政策的にはかつては右派的、新自由主義的なものが多かったが小沢の政策の変化に加え新人議員の取り込みの過程で様々な立ち位置の議員が所属したことからそういった傾向は薄れつつある。小沢同様、政策よりも選挙や政局を重視する傾向があり、政策重視を掲げる「凌雲会」や「花斉会」とは対立することが多い
- 一新会 - 約20名
不祥事[編集]
事務所費問題[編集]
2007年1月、自身の資金管理団体「陸山会」が2005年分の政治資金収支報告書に4億円を超える不透明な事務所費を計上していることが発覚した。鳩山幹事長は『(小沢から)「東京都世田谷区内に約3億6500万円相当の土地と建物を購入し、費用を事務所費として計上した」と聞いており「全く問題ない」』と反論した。
また、自身の資金管理団体が10億円を超す不動産を保有し(小沢個人名義で保有)、またその一部を賃貸運用していることなどが発覚し、物議を醸した。それに対し小沢は1月の衆院代表質問で、これらの「支出の詳細、領収書、関係書類を含め公表する用意がある」とし、同じく事務所費問題を抱える自民党に対し、大臣など責任ある立場の議員に公表を迫った。
2月20日、国会内での記者会見で、東京・世田谷区に約3億7000万円の秘書宿舎を建設し、加えて不動産取引の仲介手数料や登記費用として1100万円を計上したという、2003年〜2005年の事務所費などを公開した。一方、10億円は国民の常識からかけ離れているとの批判もあるが、それだけ支援者からの寄付金が多かったということであり、また不動産を所有しても政治資金団体の財産なので問題はないと主張した。同時に、資金管理団体の小沢名義の資産を個人資産にしないという確認書を公開した。なお、陸山会の代表は小沢自身であり、この確認書は「陸山会代表である小沢一郎」と「個人である小沢一郎」の間で交わされたものになっている。
その後2007年10月9日、参院選で与野党逆転した後、初の本格的論戦で注目されていた衆議院予算委員会総括質疑の初日、「陸山会」が政治資金で購入したマンションの部屋をコンサルタント会社と財団法人に事務所として貸し、2002年から2006年の間に賃料計980万円を得ていたことが報じられた。
9日に民主党幹事長の鳩山由紀夫は「法に触れるようなことは何もしていない」とコメントし、「このタイミングで問題化させるのは政治的意図があるからではないのか」とも切り返した。また小沢代表も翌10日の記者会見で「1円単位で領収書を公開した2月時点で(メディアから)追及は全く無かった。それが半年以上も経過した今回一面トップで報じることは、政治的思惑でもって意図的に誹謗中傷した報道であると認識している」とし、これを一面で報じた毎日新聞をはじめ報道を批判するなど強く不快感を示した。なおこれらの違法性を強く否定しつつも今後不動産の売却を進めていく考えを表明した。
なお、この件を報じた週刊現代を名誉毀損で小沢は出版社を提訴。しかし、一審二審ともに小沢側の全面敗訴の判決が出され、上告をしなかったため、小沢の全面敗訴が確定している。
2009年4月13日参議院決算委員会で自民党西田議員が本件について詳細に発表したとき、民主党議員からの野次により委員会が一時中断した。
政策秘書公職選挙法違反容疑[編集]
第21回参議院議員通常選挙で当選した同党の青木愛の選挙運動員が事務所の指示を受け、参院選公示前日の7月11日、業者に依頼して選挙ポスター付きの看板設置に関する契約を1本当たり500円で千数百万円分の契約を結んだ疑いで逮捕された。印刷会社社長が警察からの事情聴取で、小沢の政策秘書に報告しその内容を掴んでいたのではないかとも取れる供述を行なった。これに対し、小沢自身は8月31日の記者会見で「選挙違反に当たるような行為は一切していないという(秘書からの)報告で、私もそう思っている」と捜査や報道を批判し強く不快感を示した。9月14日、千葉地検は逮捕した印刷会社社長らを「選挙違反にはあたるが、違法性の程度が比較的軽かった」と判断して起訴猶予処分とし、小沢の政策秘書も立件せず捜査を終結した。
政治資金規正法違反疑惑[編集]
概略[編集]
準大手ゼネコンの西松建設が、OBらを代表とした政治団体を通じて、小沢や森喜朗・二階俊博など、与野党の国会議員の資金管理団体へ多額の政治献金を継続していたことが2008年12月末に表面化した。これに関連して2009年3月3日に陸山会(小沢の資金管理団体)の会計責任者兼公設第一秘書が政治資金規正法違反の容疑で逮捕された。
経過[編集]
2008年12月下旬、西松建設がOBらを代表とした政治団体(「新政治問題研究会」・「未来産業研究会)を通じて、小沢や森喜朗・二階俊博など、与野党の国会議員の資金管理団体へ多額の政治献金を継続していたことが表面化した。
2009年3月3日、陸山会(小沢の資金管理団体)の会計責任者兼公設第一秘書が政治資金規正法違反の容疑で逮捕され、東京にある小沢の資金管理団体「陸山会」事務所には家宅捜索が行われた。
2009年3月4日、東京地検特捜部は小沢の地元事務所を家宅捜索。
2009年3月4日、小沢は「献金が違法ということが明らかになったときに返却するつもりだ」と述べた。
2009年3月5日、自民党では二階派及び森が西松建設からの献金の返還を表明。大阪府吹田市の阪口善雄市長も「違法性のある献金ならば何らかの形で返したい」と西松建設が購入した70万円分のパーティー券について述べている。一方、衆議院議員時代に西松建設に20万円のパーティー券を購入してもらった長野県知事村井仁は西松建設からの献金の返却について考慮しないと答えている。
2009年3月10日、民主党の西岡武夫参院議院運営委員長が「党執行部と相談した上で検事総長の証人喚問を考えたい」とコメント。
2009年3月12日、東京地検特捜部は小沢の元秘書・石川知裕衆院議員を参考人聴取した。
2009年3月13日、西松建設の捜査について民主党内から検事総長の証人喚問を求められていることに対して森法相は「検察官を証人として国会に出頭させることは、検察官の独立性と公正性の保持の観点から悪影響を及ぼす」として反対を表明した。
[[ファイル:Nishimatsu Ozawa.PNG|thumb|right|200px|西松建設から小沢側へ行われたとするトンネル献金(検察による起訴内容。起訴状によると、公設第一秘書は2003年から2006年にかけて西松建設からの献金と知りながらダミーの政治団体「新政治問題研究会」「未来産業研究会」の名義で小沢の資金管理団体である陸山会には2,100万円、小沢が代表を務める民主党岩手県第四区総支部には1,400万円の寄付を受取り、その上で政治資金収支報告書に虚偽の記載を行ったとされた。
2009年3月27日、民主党代議士会は小沢の代表続投を了承した。
2009年4月28日、党本部で記者会見を行い、企業・団体献金の即時全面禁止を表明した。企業・団体献金の取り扱いについて「ディスクロージャー(情報開示)が大事だが、解釈の違いが起きたりすると、政治に間違った影響を与える。即時に全面禁止すべきだ」と述べた。民主党として「即時全面禁止」を盛り込んだ政治資金規正法改正案の提出を検討するとともに、次期衆院選の政権公約(マニフェスト)に盛り込む見通し。一方、法案化については、即座禁止ではなく「5年以内の禁止」を盛り込んだ政治資金規正法改正案の提出を目指している。
民主党のマニフェストは、菅直人代表代行と岡田克也副代表がそれぞれ党代表を務めていた2002年と2004年の衆院選のマニフェスト(政権公約)では「公共事業受注企業からの政治献金全面禁止」が明記されていたが、小沢が代表に就任した際「個人献金より企業献金の方が癒着が少なく、望ましい」と持論を述べ、2007年の参院選のマニフェストからは削除された。
献金の背景とルート[編集]
1993年の鹿島建設東北支店の談合の仕切り役交代を契機に、公共事業の受注調整に際して小沢側の意向が大きな影響力をもつようになったとされる。一方、西松建設は東北地方を不得手としていたことから、受注の便宜を目的として1995年頃に小沢側と毎年2500万程度の献金を行う約束を行った。その後、東北地方での西松建設の受注高は増加したが、西松内部でも小沢側への献金の効果とする見方と談合の結果とする見方に分かれているようである。一方、小沢は献金と工事受注の結果とは関係がないとの認識を表明している。
西松建設側の供述によれば、公設秘書は西松建設に対して小沢の地盤である岩手県奥州市で建設中の胆沢ダムについて「胆沢ダムは小沢ダム」と発言し、献金を要請していたという。
献金は1999年ごろまでは西松建設名義で行われていたが、2003年以降は以下の2ルートで献金が行われている。
- 西松建設→政治団体(『新政治問題研究会』・『未来産業研究会』)→陸山会・民主党岩手県第4区総支部等(毎年1500万円)
- 西松建設→下請け業者(松和会)→民主党岩手県第4区総支部(毎年1000万円)
この内、起訴されたのは政治団体経由の献金であり、下請け業者ルートの献金については起訴されていない。なお、談合決別宣言等の影響により2006年の500万を最後に政治団体経由の献金も打ち切られ、政治団体も既に解散している。 また西松建設に限らず複数のゼネコンからの下請け業者ルートも報告された。
なお、西松建設がおこなった内部調査によれば、政治家への献金目的について「発注を得たいというより、受注活動を妨害しないでほしかった」と供述する社員がいたとしている。
ダミー団体との認識[編集]
小沢は秘書逮捕を受けた2009年3月4日の会見で「政治団体の原資がどういう形でどういうところから入ってくるのか、それは知るすべもありません」としていた。この小沢会見の直後、捜査関係者及び西松関係者を情報源として、小沢側が献金に際し直接西松建設と献金額の調整を行い、同社宛てに請求書を送付していたとの報道がなされた。また、検察はこの請求書や西松側の供述を証拠に小沢秘書が西松建設のダミー団体であることを十分認識していたと判断しているとされた。西松建設への請求書報道に対し、小沢は3月22日の会見で、秘書に任せていたため小沢自身は当該政治団体からの献金の存在も知らず、請求書の送付についても「わからない」とした。
2009年6月19日、検察は国沢前社長の初公判において「新政治問題研究会・未来産業研究会からの献金が、実質的に西松建設側からの献金だと知っていた」、「西松建設側からの支援は会社として行われてきたもので、窓口となっていた幹部の一存ではなく、西松の社長やしかるべく役職の人が決裁し、会社の経営判断で行われてきたと認識していた」とする小沢秘書の供述調書を明らかにした。
小沢に対する弁護と批判[編集]
小沢は事件について自ら説明をおこなったが、この中で小沢が捜査について「不公正な国家権力、検察権力の行使」と述べていることについては民主党の内外から批判の声が出ている。また報道機関による世論調査では、国民が納得していないとの結果が得られたとしている。3月27日にも民主党の参院議員総会と代議士会で説明しているが、代議士会において小宮山洋子議員からは「法廷闘争と選挙戦略は全く別だ。地元では『新しい体制を作ってほしい』という声が多い」 と小沢の代表続投に異議を唱えられ、近藤洋介議員からは「世論調査では説明に納得していない国民が8割いる。なぜ数千万円の献金をもらい続けたのか」と説明を求められ、一方小沢鋭仁、小宮山泰子両議員には代表の続投を支持され、全体として代表続投が決まった。
達増拓也岩手県知事は小沢の公設第一秘書が逮捕された翌日、その政治資金規正法違反事件について「これほど疑念を持たれている捜査はないんじゃないか。現段階では、よほどのことがないまま政治活動の自由が大きく制限されている」と東京地検特捜部の捜査を批判し、小沢の記者会見における献金の違法性の否定については「非常に分かりやすく、得心できた」と大きな意味があったとしている。
民主党の機関誌「プレス民主」09年4月17日号で、ジャーナリスト高野孟と田中康夫新党日本代表がこの捜査や小沢一郎代表交代論を批判した。
民主党の枝野幸男元政調会長は小沢の代表続投の判断について「今後も説明の努力をされ、(世論調査結果に表れる)納得できないとか辞めるべきだというのを大幅に下げる政治責任がある」とコメントし、小沢が多額の企業献金を得ていることについては「政治体質が私と百八十度違う。我が党の党首にはふさわしくないと一貫して思っている」と述べている。民主党員である小宮山洋子議員は公然と小沢の代表辞任を要求していた。
盟友とされる国民新党の亀井静香代表代行は小沢の代表辞任を求めた。
小沢は、この問題における党内の動揺を受け、5月11日に民主党代表を辞任した。
報道における問題[編集]
公設第一秘書の起訴直後、各報道機関によって『秘書が起訴内容を大筋認める』との報道がなされたが、秘書の弁護人は『大筋を認めたとする報道と弁護人らの認識は全く異なっている』とするコメントを発表した。その後、西松の国沢前社長の公判で『私は新政治問題研究会、未来産業研究会からの献金が、実質的に西松建設側からの献金だと知っていました』と秘書が供述したことが判明した。
また、報道が検察や与党の意を汲んだマスメディアによる情報操作であるとの指摘もある。また、『東京新聞』が西松から献金を受け取った与党政治家の件について記事にしたところ、東京検察(東京地方検察庁?)はそれが望ましくない内容であるという理由で、3週間『東京新聞』の取材拒否をしたという。
検察の捜査姿勢に対する賛否[編集]
小沢側は事件に対する検察の捜査が国策捜査に当たると非難した。民主党の原口一博衆議院議員はこれを否定する一方で捜査当局でしか知り得ない情報がメディアから流布されることを問題とし、国家公務員による秘密漏えいの疑いを指摘している。上杉隆によれば、週刊朝日をはじめとした一部のマスコミが、小沢よりも検察側に疑義があるとキャンペーンを張ったことで、小沢への批判は弱まったとしている。
公設第一秘書らの起訴の際、東京地検の次席検事は記者会見において「国会議員の政治団体が、特定の建設業者から長年にわたり多額の金銭提供を受けてきた事実を、国民の目から覆い隠したもの。規正法の趣旨に照らして見過ごせない重大で悪質な事案と判断した」と説明し、記者から「なぜ悪質といえるのか」「被告の認識は」との質問がなされていたが、特捜部長は刑事訴訟法第47条において公判前の書類開示は禁止されていることから、公判において明らかにすると回答した。また、収支報告書上に記載された献金についての立件については「寄付者の名義を変えてしまうことをどう評価するか。みなさんにご判断いただきたい」と答えている。
また、小沢と同様に西松建設から献金を受け取った議員のうち、二階を除く自民党議員(森、尾身など)に対し検察側が捜査の動きを見せていないことについて、角福戦争以降、歴史的に旧田中派と敵対して来た清和政策研究会の意向が検察の捜査に反映されているとの指摘がある。
『産経新聞』がFNNと合同でおこなった世論調査では、半数近くが「検察側の捜査は政治的に不公平」と回答し、「公平」とする回答を上回った(次期衆院選が近づく時期に国政に影響する捜査が不適切かという件については、「思わない」が「思う」を上回った)。
労働保険未加入問題[編集]
2009年3月3日、小沢の事務所が雇用しているアルバイトや私設秘書について、労働保険に未加入だったことが分かった。同事務所は「少なくとも3、4年は未加入になっており、かなりの人数分の未納保険料を納付することになる」と説明、今後、過去の雇用状況を調べた上で労働局に届け出る予定としているが、労働保険未加入発覚時のペナルティは、発覚時の前年度と前々年度分の保険料と、10%の追徴金のみであり、未加入分の多くは問責されないこととなる。 同事務所では、小沢の初当選以来、「正規の秘書」以外は届け出ていない可能性もあり、対象者は数百人規模になるという。
人物[編集]
人物評[編集]
かつては「豪腕」、「壊し屋」、と称され、「政治とは権力闘争である」という政治観の持ち主であった。金丸信は小沢、羽田孜、梶山静六の3人を「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評した。
民主党内外では小沢アレルギーの存在が指摘され、これは若手議員よりも自民党当時を知る議員により強いとされた。「独断専行、側近政治、顔が見えない」との批判や、自民党分裂とその後の分裂工作、新進党分裂・解党等がその原因とされる。
周囲からは東北人気質も相まって朴訥な人物と評された。そのことから説明する努力に欠け、側近が離れる一因となっているとも指摘された。本人曰く「去るもの追わず。来るもの拒まず」。また、強面のイメージであるが私生活では恐妻家として知られた。
健康管理[編集]
1991年に狭心症で入院して以来は健康管理に余念がなく、早朝に30分ほどの散歩をすることを日課とし、アルコールは日本酒を3合までに控えるよう心がけ、約2時間の昼寝を欠かさない。2008年10月6日から13日まで風邪で入院、同月23日に予定されていたインドのシン首相との会談を含む党役員会などの公務も体調不良ということでキャンセルし、シン首相との会談は鳩山幹事長が代理を務めたものの健康不安説も再燃した。第171回国会(会期2009年1月5日 - 6月3日)では、2月末までに11回開かれた衆院本会議のうち4回欠席している。
信条[編集]
田中角榮を『オヤジ』として慕い、政治のイロハと人生の薫陶を受けたと語る。それは「どぶ板」とも言われる、人口密度の低い農村部から始め有権者の家を一戸一戸回っていく地道な選挙活動を決して怠らない事をオヤジから学んだという。歴史上の人物では、福澤諭吉を日本文明の祖として尊敬し、西郷隆盛を尊敬するものの、政治家・人物としては大久保利通を目指していると述べた[2]。また、司馬遼太郎を愛読している。
自民党離党[編集]
小沢が自民党を離党した理由は、「談合政治」と言われる旧来型政治の打破と、イギリスやアメリカのような二大政党制に持って行きたいという明確なビジョンがあったという。その思惑は、小沢が自由党を民主党に合流させることで成就するのだが、小選挙区制を導入すれば同じ選挙区から自民党と社会党の政治家が選ばれるということが無くなるためであった。小沢は、自ら進んで自民党を離党したのでは無く、既得権益を持った一部の議員に追い出されたのだと述べた。
家族・親族[編集]
- 実家
- 奥野修司の著書『小沢一郎 覇者の履歴書』50頁には「みちは明治三十四年二月十五日に千葉県の元庄屋の娘として生まれている。実家はかなりの豪農で生まれたときからお嬢様として育てられたという。九段の精華高等女学校では、のちの鹿島建設会長夫人になる鹿島卯女も同窓だった。」、85頁には「このみちは明治三十四年に荒木儀助と妻かのの四女として千葉県東葛飾郡風早村で生まれているが生家は“駅からよその土地を踏まずに家まで帰ることができた”といわれるほどの大地主だったようだ。父親の儀助も千葉県の県会議員になっているほどだからかなり裕福だったことは推測できる。両親はともに教育熱心だった。のちに医者や弁護士になっている家族もたくさんいて、みち自身も東京九段の精華高等女学校を卒業しているほどである。」とある
- 姉(2人)
- 自家
- 他家
系譜[編集]
- 小沢家
- 小沢一郎は自身の家系について、古代東北の英雄として知られた蝦夷・アテルイの末裔であるため“反骨精神が旺盛だ”と述べている。父小沢佐重喜は岩手県胆沢郡水沢町(現奥州市)の農家に生まれ、1923年(和暦??年)、日本大学法学部を卒業するとその年の12月に25歳の若さで弁護士試験に合格し翌年弁護士事務所を開業する。東京市会議員、東京府会議員を経て、1946年(和暦??年)、衆議院議員に当選する。第2次吉田茂内閣の運輸大臣、第3次吉田茂内閣の逓信大臣、初代郵政大臣兼初代電気通信大臣、第5次吉田茂内閣の建設大臣、第2次池田内閣で行政管理庁長官、北海道開発庁長官等を歴任する。父・佐重喜について一郎は「親父は、じいさまが酒に溺れて身上をつぶして水飲み百姓の小作人のせがれとして食うや食わずで育ったんだ。それで、ものすごく貧乏だったせいかどちらかというと反体制的な考え方だった。戦後の経済万能主義の社会や政治を嫌悪していたし、エスタプリッシュメントというものに対する反発を非常に強くもっている男でした」と述べている。
(14代) 竹中藤右衛門━━┳寿美 ┃ ┣竹中宏平━━竹中祐二 ┃ ┃ ┗竹中錬一 ┃ ┃ ┃ 米内光政━━━━和子 ┃ (元首相) ┃ (元首相) ┃ ┏竹下勇造━━━━┳竹下登━━┳公子 ┃ ┃ ┃ ┗武永貞一 ┣竹下三郎 ┣まる子 ┃ ┃ ┃ ┗一子 ┃ ┃ ┃金丸信━━━金丸康信 ┃ ┗竹下亘 ┃ ┃ 福田正━━━━━┳雅子 ┣福田実 ┗和子 ┃ ┏男 小沢佐重喜 ┣━━━━╋男 ┃ ┃ ┗男 ┣━━━━━小沢一郎 ┃ 荒木儀助━━みち
エピソード[編集]
- 田中角栄
- 田中角栄の長男である正法(1947年、5歳で夭折)と小沢が同じ1942年生まれであったため、角栄は小沢を息子のように可愛がったとされた。それに対して小沢も角栄を慕い、田中派から独立した経世会に所属した国会議員で唯一、田中の裁判をすべて欠かさず傍聴した。旧竹下派の中では唯一田中家・田中真紀子から許されているため、命日には田中家を訪問した。そのため親交が深く、真紀子の自民党離党、民主党会派入りに小沢は尽力した。また、「政治の父は田中角栄」と公言した。
- かつて田中角栄の懐刀だった小沢と福田の因縁の戦いは、「第二の角福戦争」と呼ばれた。しかし当人たちにはそのつもりが全く無く、福田を舌鋒鋭く批判する角栄の娘の田中真紀子元外相の方が注目され、これが真の「第二の角福戦争」だと見る向きもあった。
- 囲碁
- 2007年10月、自民党元官房長官の与謝野馨と囲碁で対決した。二人は政界きっての囲碁の実力者で2時間半の激戦の末、小沢が勝負を制した。小沢は「こっち(与謝野氏)は正統派だしね」、与謝野も「(小沢氏との)最後の一局は、4、5年前、私が負けたんですよ」と互いに勝負の感想を述べた。また、12月には作家の渡辺淳一と囲碁で対決し、小差ながらも勝利した。
- 愛犬
- 2006年4月の衆議院千葉7区補欠選挙で党の広告に柴犬の「もも」を起用。補選で「もも」は小沢や候補者たちの応援に出向き話題をさらった。小沢によれば当時の小沢の飼い犬であった柴犬「ちび」と似ているという。2007年10月、その「チビ」を失うが、2008年、新たに柴犬の子犬2匹を飼い始め、毛並みの色から「クロ」、「チャイ」と名付けた。
- ニートについて
- 2005年3月の夕刊フジのコラムにて、ニートについて以下のような見解を示した。
- 「本人たちは「誰の迷惑にもなっていない」と言うかもしれないが、親の稼ぎで食わしてもらっているうえ、国民全体で支える公共的サービスは享受している。病気でもない働き盛りの若者が、漠然と他人に寄生して生きているなど、とんでもない。」
- 「政府は「少子高齢化の進む人口減少社会で、経済の活力を一段と失わせかねない」として、今後、ニートの就職支援に本腰を入れるというが、果たしてそんな次元の話なのか。僕に言わせれば対策は簡単だ。一定の猶予を与えて、親が子供を家から追い出せばいい。無理矢理でも自分の力で人生を生きさせるのだ。追い詰められれば、彼らも必死に考えて行動するはずだ。それでも働きたくないというなら、勝手にすればいい。その代わり、親の世話には一切ならず、他人に迷惑(犯罪も含む)もかけず、公共的サービスも受けないことだ。無人島でも行って自給自足の生活でもすればいい。」
- またニートの親については、「僕は自宅で小鳥を飼っているが、親鳥はヒナが大きくなるまでは一生懸命に世話をするが、一定の時期がくると冷たいほど突き放して巣立ちさせる。ニートの親は動物にも劣るといっても過言ではない」と評し、その責任を激しく糾弾した。
- 韓国をめぐるエピソード
- 1999年4月に韓国を訪問した際、同月18日に日本の党幹部・閣僚クラスの政治家としては初めて(当時)となる、ソウルにある金九、尹奉吉、李奉昌、白貞基といった、抗日独立運動家の墓地を参拝した。この事に関して、東亜日報は「新しい韓日関係のため韓国に近づこうとする努力の一環として評価している」と報じ、文化日報は「極右保守的なカラーを薄めるための高度の計算だとの指摘もある」と述べた。
- 小沢は日本の政治家としてはじめて韓国人秘書を正式に受け入れた。身分として国が雇い給与が高い公設秘書(公設第1・第2・政策担当)ではなく、私費で雇い給与の安い数十人の私設秘書の中の一人であった。また、この女性は日本の政界に従事するという関係から、駐日韓国大使館とも随時政局などについて情報交換を行っていた。この韓国人秘書は2007年7月に韓国政府の女性部主催の「世界韓民族女性ネットワーク」に日本側代表として参加している。この団体は、欧米各国で従軍慰安婦に関する日本政府への抗議デモや集会を700回以上行っている。なおこの女性は小沢の秘書を務める傍ら東京大学の博士号を取得し、2008年5月に秘書を離職した後は大学院の教員に就任している。
- 小沢は、韓国人の一部が領有権を主張し、韓国資本に土地が買収されている問題が発生している対馬について、前連合会長の笹森清に「どう思うか?」との質問をし、笹森が「私は対馬のことを心配している。ウォン経済に買い占められそうだ」と答えると、小沢は「今は絶好のチャンスだ。円高だから(韓国領の)済州島を買っちまえ」と山田正彦衆議院議員のパーティーで行ったあいさつで語ったことが各報道機関によって伝えられた。小沢自身はこの発言の存在を否定している。
- 米国、中国との国際交流
- 小沢は、日米、日中の交流が世界の平和と安定に不可欠と考えて、政治家としての公的な仕事とは別に自分のライフワークとして草の根レベルの国際交流活動を続けた。米国とは1990年に「ジョン万次郎の会」を立ち上げ、1992年に財団法人ジョン万次郎ホイットフールド記念国際草の根交流センターを設立した。2001年、日本に関心の高いシカゴ市の特定中学校の生徒を毎年20人程度日本に招待した。中国とは、1986年に第1回長城計画が中華全国青年連合会の協力を得て開催され、青年指導者、大学生を毎年数十名を招待した。国際交流活動は、実施団体とともに小沢事務所が担当したため、複数の外国人の大学院留学生が事務所で働いていた。
- ニコニコ動画
- 2007年7月、第21回参議院議員通常選挙の直前にニコニコ動画へ出演し、話題となった。その後も2008年11月や2009年元旦に「1万人ネット会見」を行った。また、2008年9月から公式動画コーナー「小沢一郎チャンネル」を開設した。
発言[編集]
- 「公約は膏薬(こうやく)。張り替えれば効き目がでる」(新進党時代の同僚議員への口癖)
- 「どの女と寝ようといいじゃないか」(1994年、野党連合政権時代に新会派設立への動きを例えて)
- 「記者会見はサービス」(1993年、記者団に)
- 「日本人は特殊な人種だ。(世界から)特殊学級扱いされている。ばかじゃないかと」(2003年 小泉純一郎首相の自民党総裁再選を批判して)
- 「安倍内閣は脳死状態」(2007年、参院選敗北後の安倍晋三内閣の求心力低下を皮肉り)
- 「給油法案は、国民にとって重要な法案ではない」(2008年、同法案の衆院再議決を欠席したことについて)
- 「日本がもたもたして在日韓国人の地方参政権を認めないのは遺憾だ」(2008年、韓国の李明博大統領との会談で)
- 「総理大臣になって首脳会談ということなら、多少体調が悪くても欠席することはない。私、野党だから。総理大臣じゃない。国務大臣でもない。勘違いしないでください」(2008年、インド・シン首相との会談をドタキャンしたことについて)
- 「おれはまったく米国のことは信用していない。日本の国益を守るために言うべきことは言わないといけない」(2009年2月14日都内の料理屋で国民新党の亀井静香代表代行らと会談において、クリントン米国務長官から会談を打診されていることに関して)
- 「私は、日米同盟がなによりも大事であるということをずーっと以前から、最初から唱えてきたひとりでありますと。」 (2009年2月17日クリントン国務長官との会談後のインタビューで)
- 「政治の細かいことを知る必要はない。自分たちの1票で政権を代えることができる。それだけを分かってもらえたらいい」(2008年10月19日 インターネットのテレビ番組にて)
- 「僕は選挙担当だから。選挙以外のことは他の人に聞いてください。」(2009年05月30日TBS知っとこ!西松問題の説明責任を問われて)
- 「担ぐ神輿は軽くてパーなのが一番だ。」(但し、これは実際には側近平野貞夫の発言「担ぐ神輿は軽いほうがいい」を誇張して小沢の発言として伝えられたもの)
- 「自民党に投票したら投票に行かなかった人と同じで政治について文句を言う資格はない」
- 「これ以上何を謝ればいいんだ。」盧泰愚大統領訪日の際に。
- 「じゃあやり直したらいいじゃねえか、そんな事を言うんだったらやりなそうじゃないか。」宗教法人法改正問題で大久保直彦議員らに小沢の姿勢は弱腰と詰問され野次に対しての応酬で。
拉致問題に関する発言[編集]
2009年3月2日付産経新聞朝刊1面における「民主党解剖1」の記事中において、小沢が、2月上旬、都内で開かれた民主党議員と支持者による会合において「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と発言したことが報じられた。
この記事を受けて、救う会には、電話やメールで問合せが殺到し、救う会では、西岡力会長代行が「小沢民主党代表発言は事実なのか」と題するコメントを発表した。これに対して民主党は、民主党幹事長代理から産経新聞社編集局長と政治部長宛に「記事は『事実無根の報道』」として記事の訂正と謝罪を求め、3月4日中に回答することを要請した。
この要請に対して、産経新聞政治部長は、3月4日、文書で民主党幹事長代理宛に「正当な取材の結果得られたもので、かつ裏づけもとれているもの」という旨を回答している。なお、小沢のこの発言については、産経新聞以外のメディアではほとんど取り上げられず、民主党も、救う会へ宛てたFAX以外では、反論も含めて一切触れていない。
所属議員連盟[編集]
- 憲法調査推進議員連盟
- 民主党東北議員団連盟
- 民主党日英議員連盟
- 北京オリンピックを支援する議員の会顧問など
選挙歴[編集]
当落 | 選挙 | 施行日 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 得票順位 /候補者数 |
比例区 | 比例順位 /候補者数 | |
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当 | 第32回衆議院議員総選挙 | 1969年12月27日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 71,520 | 26.71 | 1/6 | - | - | |
当 | 第33回衆議院議員総選挙 | 1972年12月10日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 60,675 | 19.18 | 2/8 | - | - | |
当 | 第34回衆議院議員総選挙 | 1976年12月5日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 71,449 | 21.98 | 1/6 | - | - | |
当 | 第35回衆議院議員総選挙 | 1979年10月7日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 70,183 | 21.52 | 1/7 | - | - | |
当 | 第36回衆議院議員総選挙 | 1980年6月22日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 72,838 | 22.27 | 1/8 | - | - | |
当 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 63,212 | 18.87 | 4/6 | - | - | |
当 | 第38回衆議院議員総選挙 | 1986年7月6日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 95,208 | 24.80 | 1/7 | - | - | |
当 | 第39回衆議院議員総選挙 | 1990年2月18日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 89,449 | 24.08 | 1/7 | - | - | |
当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年7月18日 | 岩手県第2区 | 新生党 | 142,451 | 40.82 | 1/6 | - | - | |
当 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 岩手県第4区 | 新進党 | 125,619 | 64.68 | 1/4 | - | - | |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年6月25日 | 岩手県第4区 | 自由党 | 119,099 | 59.70 | 1/4 | - | - | |
当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月9日 | 岩手県第4区 | 民主党 | 128,458 | 65.11 | 1/4 | - | - | |
当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年9月11日 | 岩手県第4区 | 民主党 | 124,578 | 59.95 | 1/4 | - | - | |
当 | 第45回衆議院議員総選挙 | 2009年8月30日 | 岩手県第4区 | 民主党 | 133,978 | 62.55 | 1/5 | - | - | |
当選回数14回 (衆議院議員14) |
文献[編集]
著作[編集]
- 単著
- 『日本改造計画』(講談社、1993年5月、ISBN 4062064820)
- 『語る』(小林泰一郎構成、文藝春秋、1996年4月、ISBN 4163502106)
- 『男の行動美学』(プラネット出版、1999年9月、ISBN 4939110028)
- 『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編、朝日新聞社、2006年6月、ISBN 4022501634)
- 『剛腕維新』(角川学芸出版、2006年8月、ISBN 4046210885)
- 『小沢主義(オザワイズム)―志を持て、日本人』(集英社、2006年9月、ISBN 4797671297)
- 共著
- 『日米関係を読む』(アジア調査会編、ジェームズ・ファローズ・松永信雄共著、プラネット出版、1990年11月、ISBN 4881913123)
- 『ジョン万次郎とその時代』(川澄哲夫編、廣済堂出版、2001年7月、ISBN 4331507963)
- 『政権交代のシナリオ―「新しい日本」をつくるために』(菅直人共著、PHP研究所、2003年11月、ISBN 4569631908)
関連文献[編集]
- 『小沢一郎の「真実」―金丸、竹下を手玉にとる剛腕幹事長』(アイペック、1990年、ISBN 4870471000)
- 『平成名勝負物語—橋本龍太郎vs小沢一郎』(小林吉弥著、勁文社、1990年、ISBN 4766912497)
- 『劇画 橋本龍太郎VS小沢一郎—激闘譜』(さいとうたかを著、日本フローラルアート出版局、1991年、ISBN 4930831008)
- 『小沢一郎の政治謀略―政界の裏の裏がわかる本』(菊池久著、山手書房新社、1991年、ISBN 4841300228 )
- 『小沢一郎探検』(朝日新聞政治部編、朝日新聞社、1991年、ISBN 4022563435)
- 『小沢一郎・全人像』(小田甫著、行政問題研究所出版局、1992年、ISBN 4905786908)
- 『平成動乱 小沢一郎の野望』(板垣英憲著、DHC、1993年、ISBN 4887240023)
- 『小沢一郎の秘密』(佐藤淳一著、データハウス、1993年、ISBN 4887181698)
- 『小沢一郎・日本改造計画の危険性』(本澤二郎著、エール出版社、1993年、ISBN 4753912345)
- 『小沢一郎の逆襲―ベールに包まれた政界再編のシナリオを読む!』(竜崎孝著、サンドケー出版局、1993年、ISBN 491493809X)
- 『あの人 ひとつの小沢一郎論』(渡辺乾介著、飛鳥新社、1993年、ISBN 4870311291)
- 『小沢一郎の腕力ポイント読み』(伊勢暁史著、明日香出版社、1994年、ISBN 4870307081)
- 『小沢一郎総理大臣待望論』(板垣英憲著、ジャパン・ミックス、1994年、ISBN 4883211541)
- 『どっこい小沢一郎は生きている 全発言で探る、この男の次の一手』(上之二郎著、ベストセラーズ、1994年、ISBN 4584191131)
- 『小沢一郎真実の叫び―これだけはいいたい 小沢は日本の未来に危惧を抱き、平和な国と社会のために改革を図る』(蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620778)
- 『小沢一郎日本国崩壊をすくう』(蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620956)
- 『小沢一郎―覇者の履歴書』(奥野修司著、データハウス、1994年、ISBN 4887182457)
- 『小沢一郎の日本vs.武村正義の日本―あなたはどちらの国に住みたいか この2人がわかれば日本の将来が見えてくる』(小板橋二郎著、こう書房、1994年、ISBN 4769605080)
- 『池田大作vs小沢一郎 どうなる日本どうなる両雄の展開』(後藤寿一著、銀河出版、1994年、ISBN 4906436412)
- 『「小沢一郎日本改造計画」への挑戦状! 20代議員の描くキラリと光る改造計画』(「新党20代議員の会」編著、マネジメント社、1994年、ISBN 4837803431)
- 『河野洋平と小沢一郎の大戦略―宿命のライバル』(本沢二郎著、総合法令、1994年、ISBN 4893463829)
- 『悪魔の使者小沢一郎―あの強腕を裏で操るのは何者か 日本改造なんてとんでもない』(ヤコブ・モルガン著・忍野昭太郎訳、第一企画出版、1994年、ISBN 4887190166)
- 『小沢ウオッチング』(立尾良二著、東京新聞出版局、1995年、ISBN 4808305216)
- 『小沢一郎の時代』(板垣英憲著、同文書院、1996年、ISBN 4810380300)
- 『お笑い大蔵省極秘情報』(テリー伊藤著、飛鳥新社、1996年、ISBN 4-87031-293-X)
- 『小沢一郎―その「恐怖支配」の実態』(久慈力著、マルジュ社、1996年、ISBN 4896161017)
- 『政治が歪める公共事業―小沢一郎ゼネコン政治の構造』(久慈力・横田一著、緑風出版、1996年、ISBN 4846196143)
- 『盛岡大学疑惑を追及する―教育を食い物にする紳士たち』(久慈力著、新泉社、1997年、ISBN 4787797158)
- 『拝啓小沢一郎党首殿』(松沢成文著、ごま書房、1997年、ISBN 4341017748)
- 『小沢一郎の行動美学』(三菟雅文著 プラネット出版社 1999年 ISBN 4939110028)
- 『小沢一郎の大勝負 竜馬か!? 悪魔か!?』 (板垣英憲著、リヨン社、2003年、ISBN 4576031910)
- 『日本変革 菅直人+小沢一郎は政治をどう変えるのか』(板垣英憲著、ベストセラーズ、2003年、ISBN 4584159769)
- 『政党崩壊―永田町の失われた十年』(伊藤惇夫著、新潮社[新潮新書]、2003年、ISBN 4106100231)
- 『闇将軍―野中広務と小沢一郎の正体』(松田賢弥著、講談社、2003年、ISBN 4062117061)
- 『永田町「悪魔の辞典」』(伊藤惇夫著、文藝春秋、2004年、ISBN 4166603884 )
- 『政治の数字―日本一腹が立つデータブック』(伊藤惇夫著、文藝春秋[文春新書]、2005年、ISBN 4106101173)
- 『小沢一郎の政権奪取戦略』(大下英治著、河出書房新社、2005年3月、ISBN 4309243347)
- 『小沢一郎の日本をぶっ壊す』(大下英治著、幻冬舎、2006年8月、ISBN 4344408217)
- 『小沢一郎の真実』(平野貞夫著、講談社、 2006年9月、 ISBN 4066213557)
- 『「小沢一郎」入門―カリスマの原点 小沢一郎は何を考えているのか』(森田実著、三笠書房[知的生き方文庫]、 2006年10月、 ISBN 4837975887)
- 『政権交代―小沢一郎最後の戦い』(板垣秀憲著、 共栄書房、2007年7月、ISBN 4763410334)
- 『小沢民主党は信用できるか』(高市早苗編著、PHP研究所、2008年2月 ISBN 9784569697949)
雑誌関連文献抄
- 『現代』2004年2月号、小沢一郎・横路孝弘・伊藤達美「小沢一郎×横路孝弘―民主党の両極 安全保障論で合意する」
- 『週刊金曜日』2005年1月14日号、「本多勝一の憂刻ニッポン―小沢一郎(上)現行憲法の下で「無血革命」を目指す」[1]
- 『AERA』2006年1月23日号、後藤正治「小沢一郎 思想政治家で終わるのか」
- 『世界』2007年11月号、小沢一郎「公開書簡 今こそ国際安全保障の原則確立を」
脚注[編集]
- ↑ 「自衛隊のアフガン派遣、政府が『合憲』解釈」 『読売新聞』、2007年12月22日。
- ↑ 『小沢主義志を持て、日本人』 ISBN 4797671297 より
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- ■小沢一郎ウェブサイト■(公式サイト)
- 小沢一郎メールマガジン(公式メルマガ)
- 民主党岩手県連
- 小沢一郎 写真特集 (小沢ショック-毎日jp)