「オリックス・バファローズ」の版間の差分
細 |
細 |
||
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
195行目: | 195行目: | ||
;[[2013年]] | ;[[2013年]] | ||
+ | [[Image:オリックスチアLUNA4.jpg|350px|thumb|オリックスチアのLUNA]] | ||
日本ハム・[[糸井嘉男]]、[[八木智哉]]と[[木佐貫洋]]、[[大引啓次]]、[[赤田将吾]]の2対3のトレードが成立。 | 日本ハム・[[糸井嘉男]]、[[八木智哉]]と[[木佐貫洋]]、[[大引啓次]]、[[赤田将吾]]の2対3のトレードが成立。 | ||
203行目: | 204行目: | ||
== チーム成績・記録 == | == チーム成績・記録 == | ||
+ | [[Image:オリックスチアLUNA5.jpg|350px|thumb|オリックスチアのLUNA]] | ||
+ | [[Image:オリックスチアLUNA6.jpg|350px|thumb|オリックスチアのLUNA]] | ||
* リーグ優勝 12回(年間最高勝率は南海にプレーオフで敗退した1973年と近鉄にプレーオフで敗退した1979年を含む、近鉄とのプレーオフを制した1975年を除く13回) | * リーグ優勝 12回(年間最高勝率は南海にプレーオフで敗退した1973年と近鉄にプレーオフで敗退した1979年を含む、近鉄とのプレーオフを制した1975年を除く13回) | ||
*: (1967年 - 1969年、1971年 - 1972年、1975年 - 1978年、1984年、1995年 - 1996年) | *: (1967年 - 1969年、1971年 - 1972年、1975年 - 1978年、1984年、1995年 - 1996年) |
2015年3月29日 (日) 16:52時点における最新版
オリックス・バファローズ(ORIX Buffaloes)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団の一つである。
大阪府を保護地域とし、府内大阪市西区にある京セラドーム大阪を専用球場(本拠地)としており、兵庫県神戸市須磨区のほっともっとフィールド神戸でも年間数試合が開催されている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は同市北区にあるあじさいスタジアム北神戸、および神戸総合運動公園サブ球場である。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が同市西区に設けられている。
目次
球団の歴史[編集]
阪急時代[編集]
1リーグ時代[編集]
阪神急行電鉄(現阪急電鉄。以下、阪急と記す)は1920年に日本最初のプロ野球球団とされる「日本運動協会」の経営を引き取り「宝塚運動協会」として運営した事があるが1929年7月に解散しており、後の阪急ブレーブスとの球団としての繋がりはない。しかし小林一三はいずれプロ野球時代が来ると予見していた。1935年に読売新聞社が大日本東京野球倶楽部などが結成したのを受けて、小林は当時アメリカに出張中だったが、出先のワシントンから電報で球団設立を指示し、設立が進められ1936年1月23日に「大阪阪急野球協会」が設立される。発足当時の球団で球場を自前で所有する事を計画したのは阪急だけである。小林一三が慶應義塾大学出身だった事もあり、宮武三郎、山下実、山下好一ら慶應のスター選手を入団させ、初代監督にも同OBの三宅大輔を招いた。同年2月5日に結成された日本職業野球連盟に参加。
- 小林一三が、ライバル企業である阪神電気鉄道が立ち上げた大阪タイガースに対抗するため、設立を決意したとも言われる。球団名に阪神急行電鉄の通称である阪急の名称が入っているが、企業名を球団名に入れた日本で最初のプロ野球球団である。
1936年、トーナメント制の夏季の大阪大会で首位になっている。1937年5月1日、本拠地球場となる阪急西宮球場が開場、春季は8球団中4位となったが監督の三宅は妥協を許さぬ厳しい姿勢が選手の反発を招いて解任され、村上実が秋季の指揮をとるがチームは投手陣が弱く、粘りがないとされ、8球団中7位に終わっている。村上の後任には山下実がプレイングマネージャーで就任。
1938年、投手陣の健闘で春、秋共に3位となるが、上位の首位の巨人や2位の大阪タイガースにはどうしても勝てないという状況だった。1939年、この年より1シーズン制通しての成績で優勝、順位を決め、便宜上春夏秋の3季制としたが、春季は投手陣が踏ん張り9連勝もあり首位となっているが、巨人には未勝利のままで、年間を通じても巨人、大阪に次ぐ2位に終わっている。
1940年、井野川利春を4番選手兼任監督に迎える。森弘太郎が28勝を挙げ、山田伝が打率5位になるが3年続けて巨人、大阪に次ぐ3位に終わる。1941年、戦局悪化で各球団共に選手の応召が続き戦力が低下するが、森弘太郎がノーヒットノーランを達成するなど30勝を挙げ、最多勝となり、チームも勝率.631の成績を挙げるが、首位巨人と9ゲーム差の2位に終わっている。1942年以降も応召が続き8球団中4位、1943年、選手兼任監督の井野川が応召され西村正夫が監督になるが8球団中7位。1944年、夏季終了時点で応召による選手不足でリーグ戦続行が不可能となり、途中打ち切りとなり3位に終わっている。
1945年、西宮球場の倉庫でボールやバットが保管されていた事もあり、11月の戦後プロ野球初試合となる東西対抗戦が神宮球場で開催され、1946年よりリーグ戦が再開される。他球団に比べて、用具が揃ってた事や野口二郎や今西錬太郎が加入した事で、阪急の下馬評は高かったが、投手陣が6月に調子を落とし、長打力不足もあって、チームは8球団中4位に終わる。チーム名を「阪急ベアーズ」と改称したものの、翌年4月18日には「阪急ブレーブス」に再改称している。
1947年、総監督に浜崎真二、西村正夫が助監督、これに井野川利春も復員してきて助監督という首脳陣となった。野口二郎が24勝、今西錬太郎が21勝を挙げるが8球団中4位に終わり、オフには青田昇が巨人に移籍。1948年、投手は良いが、青田が抜けて長打力不足となったのが響き本塁打がリーグ最低の25本で、3年連続8球団中4位に終わる。1949年、長打力不足はこの年も続き、投手陣では天保義夫と今西錬太郎の二人で43勝をあげ、対巨人戦では11勝8敗と勝ち越すがそのうち7勝は天保が挙げており、この年は2位となった。この年のオフ2リーグ分立に伴い、阪急はパシフィック・リーグ所属となる。
2リーグ分裂から西本監督就任まで[編集]
パ・リーグ参戦初年度の1950年、開幕4戦目から球団新記録の11連敗と低迷し、54勝64敗2分で首位の毎日オリオンズと28.5ゲーム差の4位に終わる。1951年、天保義夫と野口二郎で合わせて13勝止まりで、7球団中5位と低迷。オフにはジミー・ニューベリー、ジョン・ブリットンが入団し、翌1952年にはニューベリーが11勝、ブリットンが打率3割の活躍を見せるが、2年連続7球団中5位。
1953年、西宮球場にナイター設備が完成し、5月5日よりナイター試合が行われるようになった。阪急はこの年のナイター試合で26戦21勝と「夜の勇者」のあだ名がつくほど強く、新加入のルーファス・ゲインズが14勝、ラリー・レインズが盗塁王になるなど、8月から9月には首位に立つこともあり、9月2日には大映、阪急、南海の3チームがゲーム差無しのそれぞれ1厘差で並んでいたが、ここから南海が12連勝、逆に阪急は5連敗で優勝争いから後退し[1]、最終的に南海と4ゲーム差の2位で終わっている。オフには梶本隆夫が入団。
1954年、新人の梶本隆夫がこの年の開幕戦の対高橋ユニオンズ戦で初登板で初先発し、初勝利を挙げている。梶本はこの年20勝をあげる活躍を見せるが、チームはその他の投手陣が安定せず、後半戦に息切れして 8球団中5位。ラリー・レインズが首位打者となるが、この年限りで退団。1955年、新加入のロベルト・バルボンが1番打者で163安打、49盗塁を記録し、チームも夏場まで好調だったものの、9月以降投手陣が不調となり、80勝を挙げたものの、99勝の南海から19ゲーム差の4位に終わる。1956年、米田哲也の入団に関して、阪神との二重契約問題が生じていたが、2月13日にコミッショナー裁定で阪急入りしている。その米田は9勝、梶本隆夫が28勝、種田弘が17勝を挙げるなど、リーグ1の投手陣と、盗塁のシーズン日本プロ野球記録を更新した河野旭輝の活躍で3位。監督は藤本定義が就任。
1957年1月25日、球団創設者である小林一三が死去。梶本隆夫が24勝、米田哲也が21勝と共に防御率1点台の成績を残すが4位に終わる。オフには立教大学の「立教三羽烏」の1人、本屋敷錦吾が入団。1958年、前半戦を2位で折り返し、8月には首位に立つ事もあり、南海、西鉄との首位争いとなるが、3位に終わる。チーム73勝のうち、米田と梶田で53勝を占めた。1959年、米田、梶田が5月まで勝てず、チームは前半戦に8連敗、オールスターを挟んで8月1日に11連敗を記録し、球団史上最低勝率を更新する.369で5位に終わる。藤本定義はシーズン途中で監督を辞任しており、戸倉勝城が指揮を継いだ。
1960年、あまりの打撃の不振から西宮球場にラッキーゾーンが設置され、本塁打は前年より7本増えたが、それでもリーグ最低の数字で、相手チームの本塁打も増える結果となり、梶本隆夫と米田哲也が共に20勝するものの4位に終わる。1961年、中田昌宏が南海の野村克也と共に最多本塁打を獲得するが、得点力不足で、米田、梶田は2年連続ともに20勝だが5位に終わり、この頃には「地味」という意味で「灰色の阪急」というあだ名が定着している。このオフ、コーチに西本幸雄を招いている。1962年、8月半ばまで2位を保つが、最終的には4位に終わっている。11月6日、西本が監督に就任。
西本監督時代[編集]
1963年、梶本隆夫がプロ入りして初めて10勝に届かない5勝、米田哲也がリーグ最多敗の23敗で、投手陣は石井茂雄が頼りと言う状況で、8連敗を3度記録するなど、最終的に57勝92敗1分で首位の西鉄から30.5ゲーム差の最下位に終わる。1964年、ダリル・スペンサーとゴーディ・ウインディが加入し、野球の戦術を熟知したスペンサーは阪急に「考える野球」をもたらし、やがて来る黄金時代へと大きく貢献する。チームは前半戦を首位で折り返し、南海との首位争いとなり、8月に対南海戦3連敗で2位に落ち、9月12日に南海との首位攻防戦に勝利し0.5ゲーム差としたが直後に3連敗、9月19日の東京オリオンズ戦に阪急が負けたことで南海が優勝、最終的に3.5ゲーム差の2位に終わる。
1965年、チームは前半戦だけで首位と27.5ゲーム差と離され、打線はスペンサー頼みで、スペンサーは7月にはサイクル安打を達成し、野村克也と本塁打王争いとなるが、10月に交通事故でシーズンを棒に振る。チームは4位に終わる。この年初めてドラフト会議が行われ、長池徳士や住友平が入団。
1966年、梶本隆夫が9月27日に15連敗を記録するなどこの年は2勝止まりで、打線は頼みのスペンサーが20本塁打63打点に終わり、チームも5位に終わる。10月14日、監督の西本幸雄の信任投票事件が起きて、西本は辞意を表明し、球団は青田昇を後任監督に進めるが、それを聞いたオーナーの小林光三が自ら西本を説得し、西本は19日に辞任を撤回している。
1967年、スペンサーが30本塁打、長池徳士が27本塁打するなど攻撃力がアップ、投手陣は足立光宏が20勝、米田哲也が18勝、梶本隆夫が15勝を挙げる。オールスタ-前には2位に8ゲームをつけ首位、10月1日、対東映フライヤーズ戦(西京極)に勝利し、球団初のリーグ優勝達成。しかし初の日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗退。
1968年、投手陣は米田哲也が29勝、打線ではそれまで9年間で8本塁打の矢野清がこの年27本塁打で「10年目の新人」と呼ばれる活躍を見せる。チームは南海との首位争いとなり、10月11日の共にシーズン最終戦を同率で並び、阪急は対東京戦、2点ビハインドの9回裏に矢野が同点打を放ち、10回裏にサヨナラ本塁打で勝利をおさめている。阪急の試合終了の8分後、同時に試合を行っていた南海が近鉄に敗れた事で、2年連続優勝達成。しかし日本シリーズでも2年連続で巨人に2勝4敗で敗退。ドラフトで後に「花の(昭和)44年組」と呼ばれる事になる山田久志、福本豊、加藤秀司が入団。
1969年、近鉄との優勝争いとなり、10月19日に対近鉄戦(藤井寺)に勝利して3年連続リーグ優勝達成。長池徳士が本塁打と打点の二冠王となる。しかし日本シリーズは3年連続で巨人に2勝4敗で敗退。
1970年、福本豊が一番に定着し初めて盗塁王を獲得し、この後福本は13年連続で同タイトルを獲得することになる。山田久志が10勝を挙げるが、打線が低調で4位に終わる。1971年、オールスター前までに2位に6ゲーム差をつけ、オールスター直後のロッテ戦で2連勝で差を広げるが、この直後8連敗しているが、9月28日のロッテ戦に勝利し、2年ぶり4度目のリーグ優勝達成。長池徳士31試合連続安打を記録するなどMVPとなり、山田久志が最優秀防御率を獲得。新旧戦力が噛み合った年になった。しかし、日本シリーズは巨人と4度目の対戦で、第3戦で9回2死から山田が王貞治に逆転サヨナラ3ランを打たれて敗れるなど、1勝4敗で敗退。オフには東映の大橋穣、種茂雅之らを阪本敏三、岡村浩二、佐々木誠吾との交換トレードで獲得。
1972年、移籍の阪本敏三と岡村浩二が揃ってダイヤモンドグラブを獲得するなど、守備が強化され、福本豊が当時のメジャーリーグ記録を上回る106盗塁を挙げるなど、最終的には2位に14ゲーム差をつける強さで、9月26日に南海に勝利して2年連続5度目のリーグ優勝達成。しかし、5度目の巨人との日本シリーズでは、2年連続1勝4敗で敗退。V9時代の巨人とはこれが最後の戦いとなったが、すべての年で3勝以上挙げれずに敗退しており、V9時代の日本シリーズで最も多く巨人に負けた球団となった。
1973年、この年よりパ・リーグは前・後期の2期制によるプレーオフ制度を導入。前期は3位に終わったものの、後期は前期優勝の南海に12勝0敗1分として、他球団を圧倒して10月5日に優勝する。阪急有利とみられた南海とのプレーオフは第5戦までもつれ、0対0で迎えた9回表に2点を取られて、3勝2敗で南海の「死んだ振り」に敗退し、西本幸雄は監督を辞任、西本の後任には上田利治が就任。
上田監督時代[編集]
途中の1979年-1980年の梶本監督時代を含む
1974年、前期は最終的にロッテとの優勝争いとなり、5月まで不調だった阪急は対南海3連戦に3連勝した事で調子をあげて6月20日に前期優勝決定。後期はロッテ、南海との優勝争いとなるが3位となり、通年では2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3連敗で敗退。
1975年、前期は新人の山口高志が7勝を挙げるなどあり、優勝。後期は6位だったものの、近鉄とのプレーオフでは山口の2完投もあり3勝1敗で3年ぶり6度目のリ-グ優勝達成。投手陣はチーム最多勝が山口と山田久志の12勝だったが、この年の2桁勝利投手は山口、山田らを含めて5人となった。打線では新外国人のボビー・マルカーノ、バーニー・ウイリアムスの活躍があった。広島東洋カープとの日本シリーズでは4勝0敗2分で負け無しで6度目の日本シリーズで初めて日本一達成。
1976年、山田久志が最多勝を獲得しこの年より日本プロ野球史上初の3年連続MVPを獲得、福本豊が盗塁王、加藤秀司が打点王になるなど「花の44年組」がいずれもタイトルを獲得、「阪急史上最強の年」とまで言われ、前後期とも優勝で2年連続7度目のリーグ優勝達成。4年ぶりに巨人との6度目の日本シリーズとなったが、阪急が3連勝のあと、巨人に3連勝されて迎えた最終第7戦は足立光宏が完投し、4勝3敗で初めて巨人に勝利しての日本一達成となった。
1977年、前期は南海、近鉄との在阪3球団による優勝争いとなり、6月3日からの対南海戦を3勝1敗とし、64試合目に優勝決定している。後期はロッテが先行、それを追う阪急との争いとなったが、最終3連戦で3連勝すれば逆転の可能性も残っていたが、近鉄に敗れた事で1分2厘の差で2位に終わる。ロッテとのプレーオフでは3勝2敗として、3年連続8度目のリーグ優勝。2年連続巨人との日本シリーズは山田久志の投打にわたる活躍で4勝1敗で3年連続日本一達成。投手陣では新人の佐藤義則が7勝を挙げて新人王を獲得。打線では代打本塁打の記録をもつ高井保弘が、2年前より導入された指名打者制のおかげでレギュラーに定着し、この年は4番にも入っている。
1978年、前後期ともに優勝し4年連続9度目のリーグ優勝。投手陣ではこれまで6勝の今井雄太郎が完全試合を達成するなど、2年目の佐藤義則と共に13勝を挙げ、打線では簑田浩二がレギュラーに定着、この年より8年連続ダイヤモンドグラブを獲得する活躍を見せる。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは3勝3敗とした第7戦、ヤクルトの大杉勝男のレフトポール際への本塁打の判定を巡って監督の上田が1時間19分の猛抗議。判定は覆らず先発していた足立光宏が試合再開後に降板、ヤクルトの松岡弘に完封負けで敗れ、3勝4敗でシリーズ敗退。上田は抗議の責任を取る形で、翌日監督を辞任。後任の監督は梶本隆夫が就任。
1979年、前期は近鉄とは1ゲーム差の2位に終わる。後期は優勝で、近鉄とのプレーオフに3連敗で敗退し、5年ぶりにリーグ優勝を逃す。加藤秀司が首位打者と打点王の二冠王。
1980年、山田久志、山口高志の故障もあり、前期4位、後期は5位で10年ぶりのBクラスとなる5位に終わり、梶本は監督を辞任し、後任には上田利治が3年ぶりに監督に復帰。
1981年、エースの山田久志が13勝12敗で貯金を作れず、前期3位、後期2位の通年2位。1982年、前期は2位で、この年山田が16勝するなど復調したが、後期は主軸打者が不振で5位となり、通年でも5位に終わった。1983年、広島の水谷実雄が加藤英司とのトレードで入り、水谷は4番で36本塁打、114打点で打点王になり、トリプルスリーを達成した簑田浩二や、ブーマー・ウェルズらと強力なクリーンアップを形成するものの、チームは首位の西武と17ゲーム差の2位に終わる。
1984年、開幕から3連勝し、5月から6月にかけて13連勝で独走態勢に入り、9月23日の対近鉄戦(藤井寺)で6年ぶりにリーグ優勝達成。ブーマー・ウェルズが外国人選手初の三冠王を獲得も、広島との日本シリーズではブーマーが徹底的にマークされ、3勝4敗で敗退。この年が阪急最後の優勝となった。1985年、勝ち越すものの首位の西武と15.5ゲーム差、3位の近鉄とゲーム差無しの1厘差で4位に終わる。
1986年、6月4日に近鉄と首位が入れ替わると、そのまま後退し、3位に終わる。佐藤義則の故障などで先発陣が不足するなど、監督の上田は「選手層が薄いと実感した」とコメントした1年となった。1987年、首位の西武と9ゲーム差の2位となるが、かつての先発3本柱の山田久志が7勝、佐藤義則が7勝、今井雄太郎が4勝に終わる。
1988年、開幕10試合で1勝9敗で、シーズン通して3位以上とならないまま、監督の上田として初の負け越しで4位となる。10月19日、球団がオリエント・リースに買収される事が発表され、この年が阪急ブレーブス最終年となった。山田久志と福本豊が現役引退。新球団名は「オリックス・ブレーブス」となり、監督は上田が続投、本拠地は西宮球場を使用する事になった、オフにはこの年同じくダイエーへ球団買収となった南海の門田博光が、ダイエー球団の本拠地の福岡へ行く事を拒み、オリックスに移籍。
オリックス時代[編集]
球団譲渡後〜1990年代[編集]
1988年11月4日、正式に阪急電鉄からオリエント・リースに球団が譲渡。オリエント・リースは翌1989年「オリックス」に社名変更。球団名は「オリックス・ブレーブス(ORIX Braves)」、会社名は「オリックス・ブレーブス株式会社」にそれぞれ変更された(1990年9月には、現在のオリックス野球クラブ株式会社へ社名変更)。球団事務所はそれまでの大阪府大阪市北区角田町から、同市同区曾根崎新地に移された。
球団オーナーは小林公平から宮内義彦オリックス社長に交代し、球団社長(兼球団代表)に近藤靖夫が就任した。
球団譲渡とともに、ユニフォームは黒と赤を基調としたデザインから、オリックスブルー(紺色)とブレーブスゴールデンイエロー(黄金)を基調にしたデザインへ変更される。「ブレーブス」の愛称と阪急西宮球場の使用が継続されたが、1988年に完成したグリーンスタジアム神戸を準本拠地とすることも併せて発表された。グリーンスタジアム神戸は阪急時代だった1988年5月の対南海戦でも使われたが、1989年には主催試合が14試合と増加し、1990年も13試合組まれた。
1989年、球団譲渡後の初年度となったシーズンは、南海から移籍した門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを引っ張ったが、優勝した近鉄にゲーム差なし、勝率1厘差の2位となった。
1990年、2年連続の2位に終わり、上田監督が辞任。同年シーズン終了後の11月1日より、40年以上も本拠地としていた西宮球場からグリーンスタジアム神戸に本拠地を移し、愛称を長年使用した「ブレーブス」から「ブルーウェーブ(BlueWave)」に変更、「オリックス・ブルーウェーブ」となる。監督も長年チームを率いた上田から土井正三に代わり、脱阪急色が進んでいった。
1991年から1993年まで土井がチームを率いたが、3年連続で3位に終わった。1992年には後にチームを支えることになる田口壮、鈴木一朗(イチロー)の両選手が入団しているが、田口は土井の厳しい指導からイップスとなり、鈴木は高卒1年目から起用されたものの、レギュラーに定着することは無かった。
土井がイチローを起用しなかったことについて、イチローの実力を見抜けなかったとする意見もあるが、後に能力自体は認識していたと土井自身は発言している。イチロー自身も、土井の訃報の際に確執の存在を否定している。
1994年、前年限りで退任した土井に代わり、仰木彬が監督に就任。仰木の下でレギュラーとして起用されたイチロー(この年に登録名を変更)は初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立し、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録。その功績に対してオフには正力松太郎賞が贈られた。また、それまで内野手だった田口を外野手に転向。左翼田口・中堅本西厚博・右翼イチローは当時12球団最強の外野陣と言われるほどの守備力の高い布陣となった。最終順位は2位に終わったが、イチローフィーバーに後押しされたチームは優勝争いにも加わり、観客動員も球団記録を大幅に更新した。
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の影響から一時は神戸での試合開催が危ぶまれることになる。しかし、宮内オーナーは「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」と神戸での開催を主張、最終的には神戸での試合開催が決定され、チームは「がんばろうKOBE」を合言葉にこのシーズンに臨むこととなった。
被災した神戸市民を励まそうと一丸となったチームは、6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースは独走状態となり、7月末に早くもマジックが点灯した。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、対戦成績では21勝5敗と大きく勝ち越した。また、4月19日には野田浩司が一試合奪三振19の日本新記録を達成すると、佐藤義則が8月26日の対近鉄戦(藤井寺球場)で、当時の史上最年長でのノーヒットノーランを記録している。また2年目の平井正史が抑えの切り札として15勝27セーブ42セーブポイントを挙げる、これは当時の日本記録である。
「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦に全敗し、念願の地元胴上げはならなかったものの、9月19日の対西武戦に勝利し球団譲渡後初のリーグ制覇を実現した。日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗で敗れたが、被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援でチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係は、ホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。
1996年、日本ハムに先行を許し、前半戦5ゲーム差をつけられたものの、後半戦脅威の追い上げで9月上旬には逆転し、9月23日の日本ハム(グリーンスタジアム神戸)との直接対決ではイチローのサヨナラ安打で勝利を収め、リーグ2連覇と2年越しの「神戸での胴上げ」を実現した。日本シリーズでも巨人を4勝1敗で下し、地元神戸でオリックス譲渡後初めてとなり、球団としても19年ぶりとなる日本一に輝いた。この年は観客動員数も大幅に伸び、過去最高の179万4000人を記録している。91年新人王の長谷川滋利がMLBアナハイム・エンゼルスに移籍。
1997年、リーグ3連覇がかかっていたが、後半戦において投手陣が崩壊。さらに若返りを焦ったあまり2連覇に貢献したベテランを相次いで放出してしまい勝負所で若い選手のミスが出てしまう。西武の前に2位に終わる。
1998年、開幕6連敗を経験するなど前半最下位に甘んじてしまうものの、後半リーグ驚異的な追い上げをし3位で終わったが、この年のパ・リーグはブルーウェーブ以外の5球団は1度は首位に立つくらい激戦だったにもかかわらず、優勝争いに絡めずにシーズンを終える。この年のドラフト会議で、沖縄水産高校の新垣渚を指名し、交渉権を獲得したが、入団交渉は難航し、球団編成部長の三輪田勝利が自殺するという事態となった。新垣は入団せず九州共立大学に進学し、後にダイエーに入団している。(詳細は三輪田勝利#1998年のドラフト、突然の死参照)
1999年、打率リーグ1位、防御率2位となったものの、若手の伸び悩みが目立って最終的な順位は3位だった。この頃から1995年と1996年のリーグ連覇を担った選手たちが、引退・トレード・FA等で次々とチームを去っており、弱体化の傾向が目立つようになる。そしてそれ以降優勝争いができないシーズンが続くことになる。
2000年〜2003年[編集]
ファームの収益性改善・独立採算を目指し、ファームのチーム名をサーパス神戸( - こうべ、SURPASS KOBE。後にチーム名は「サーパス」に変更。)に改称した。「ファームとは本来選手がいてはいけないところ」という理念のもとにファームの改革をしようとした結果だが効果は発揮せず、チームの弱体化に歯止めはかからないままだった。結局4位に終わり、オリックスへの球団譲渡後としては初、球団としては阪急時代最後のシーズンである1988年以来12年ぶりにBクラスに転落した。また、シーズンオフにはイチローがポスティング制度を利用して大リーグのシアトル・マリナーズに移籍した。
韓国・ハンファ・イーグルスから獲得した具臺晟や新人の大久保勝信を加えて臨んだ。イチローの守っていた右翼では若手の葛城育郎がレギュラーを確保し、大久保勝信も新人王を獲得するなど若手の台頭こそあったものの、それまでの監督生活13年間でBクラスは前年の1回だけと言う名将仰木を以てしても戦力不足は補えず、4位に終わったもののシーズン勝ち越しはしている。このシーズンをもって仰木は監督を退き、後任には石毛宏典が就任。この年に左翼のレギュラーで、チームの精神的支柱の田口壮がFA宣言を行い、大リーグのセントルイス・カージナルスに移籍した。
この年はチーム打率.235と極端な貧打に悩まされた。この貧打により、主戦投手の金田政彦が防御率2.50で最優秀防御率のタイトルを獲得するも4勝9敗、具臺晟もリーグ2位の防御率2.52を記録しながら5勝7敗と投手陣を見殺しにする試合が多く、阪急時代の1963年以来39年ぶりとなる球団史上2回目の最下位に転落してしまった。特に接戦に弱く、1点差だと15勝23敗、2点差だと8勝21敗であった。5月14・15日にはダイエーの主催ゲームとして台湾・台北市立天母棒球場で2連戦を開催、球団としては阪急時代の1962年に当時の米国統治下にあった沖縄での対大毎戦以来40年ぶりの日本国外での試合となった。
序盤からチームが低迷し、4月23日に石毛は解任された。代わってコーチを務めていたレオン・リーが監督に就任したが、前年とは対照的に打撃陣は好調であったが投手陣が大きく崩壊し、対ダイエー戦では20失点以上を6月から9月にかけて毎月に計4度記録するなど、日本プロ野球史上最多の927失点(自責点818点)、チーム防御率も5.95を記録。48勝88敗4分、最終的な借金が40と大惨敗であった。球団史上初の連続最下位となり、レオンが引責辞任。レオンの後任監督にはこの年まで西武の監督だった伊原春樹。このオフ、ダイエーからFAで村松有人を、阪神からムーアを獲得している。
2004年プロ野球再編問題[編集]
後述する近鉄との球団合併問題が発生し、ブルーウェーブとしての最後の年となった。
この年も投手陣が崩壊(防御率5.65)し、3年連続最下位に終わっている。特にダイエーには4勝23敗と大敗した。これはこのカードの最多敗戦記録であり、プロ野球全体でも同一カード最多敗戦タイ記録である。2004年はオールスター戦以降の対ダイエー戦が10戦全敗で、これについて当時監督だった伊原春樹は、「後半戦はダイエー戦の前にいつも西武戦が組まれていて、ダイエー戦ではまともな投手がいなかった」と述べている。
9月27日のYahoo! BBスタジアムでの最終戦は、合併相手でありこちらもこの試合が球団として最終試合となる対近鉄戦となったが、7-2で勝利している。
6月13日、日本経済新聞により大阪近鉄バファローズとオリックスの球団合併が報じられ、球団合併を両球団が検討していることが判明した。以後、紆余曲折を経て12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、「オリックス・バファローズ」となった。なお、この時に選手分配ドラフトが開催され、選手の約半数を新規参入球団『東北楽天ゴールデンイーグルス』に譲渡している。
合併後の監督には、近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年 - 1992年:近鉄、1994年 - 2001年:オリックス)が復帰。保護地域に関しては兵庫県を保護地域としてきた阪神タイガースとの兼ね合いもあり、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの保護地域である兵庫県と、近鉄の保護地域だった大阪府の両方を阪神タイガースとともに保護地域とするダブルフランチャイズの形が取り入れられ、神戸総合運動公園野球場と大阪ドームの両方を実質的な本拠地球場とした(専用球場の扱いについてはまとめて後述)。
球団事務所については、引き続き神戸市内に置くこととなった。
球団合併後〜2009年[編集]
合併により有力選手が加入したことに加え、仰木が監督に復帰したことから戦力は大幅に向上して臨んだシーズンとなった。肺がんに侵されながらも指揮を執る仰木の下でチームは最後までAクラス争いを続けたが4位でシーズンを終え、Aクラス入り・プレーオフ進出を逃がした。シーズン後に仰木は監督を退任し、代わって球団ゼネラルマネージャーだった中村勝広が監督に就任した。編成を司るGMより監督への就任は日本球界初となる。仰木は球団シニアアドバイザーに就任したが、12月15日に肺がんによる呼吸不全のため70歳で逝去した。オフには巨人を自由契約となった清原和博、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んでいた中村紀洋を獲得している。
8月27日の対北海道日本ハムファイターズ戦で敗れて7年連続Bクラスが確定し、5位に終わった。成績不振の責任を取って中村が監督辞任、後任はテリー・コリンズが就任。
11月20日よりこれまで神戸市(スカイマークスタジアム内)にあった球団事務所を大阪市北区堂島に移転した。この結果、球団業務の大半(球団本部、大阪営業部、ファンサービス部等)は大阪に集約され、一方の神戸事務所は神戸営業部等一部の業務のみに規模を縮小するなど、球団の経営機能は大幅に大阪にシフトしていくことになった。また、専用球場の登録はこの年に限り暫定的に神戸に移したがこのシーズン終了と共にまた大阪に戻し、試合数を大幅に増やすことになる(後述)。
1月6日に前川勝彦が大阪市内でひき逃げ事故を起こし、さらに無免許だったことが発覚して、業務上過失傷害と道路交通法違反の疑いで逮捕された。これを重くみた球団は1月18日付で前川を懲戒処分として所属契約を解消、その騒動の最中だった1月17日に、大幅な減俸を提示されて契約交渉が決裂した中村紀洋も同様に契約を解消した。この他球団の編成も完了している時期の契約解消について、選手会が野球協約上、問題のある交渉ではないかと批判している。低迷期より主戦打者だった谷佳知を、鴨志田貴司・長田昌浩とのトレードで巨人に放出し、ダン・セラフィニなどを補強。シーズン開幕前にタフィ・ローズを獲得して臨んだシーズンだったが、選手起用などで混迷は続いた。4月下旬から5月半ばにかけて17試合で1勝16敗と大きく負け越すと、優勝争いはおろかAクラス争いにすら加わる事無く、パ・リーグ他5球団に負け越し、3年ぶりの最下位となった。
オフにはかつてオリックスに在籍していた前巨人のジェレミー・パウエルの獲得を発表したが、1月29日になって福岡ソフトバンクホークスとの間で二重契約問題が発生し、パウエルはソフトバンクに入団している(詳しくはジェレミー・パウエル#二重契約問題参照)。
この年より協約上での保護地域を大阪府に統合。
3月1日にこれまで共同出資を行っており、袖のユニフォームスポンサー契約を結んでいた近畿日本鉄道とのスポンサー契約を更新しないことが発表された。
シーズンも開幕から低迷が続き、5月21日にコリンズが辞任を発表した。この辞任を受け、大石大二郎ヘッドコーチが監督代行に就任し、8月2日に監督に昇格した。大石の監督代行就任後、6月3日の巨人戦に勝利し、阪急時代も含めて通算4500勝を達成[2]するなどチームは持ち直していった。9月24日の対ソフトバンク戦に勝利して2001年シーズン以来7年ぶり、オリックス・バファローズとしては初のシーズン勝ち越しを決め、9月29日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝利して、初のクライマックスシリーズ進出を決めた。シーズンも2位で終わり、クライマックスシリーズでは第1ステージで3位日本ハムと対戦。2連敗で敗れ日本シリーズ出場はならなかったものの、15勝を挙げて新人王を獲得した小松聖を筆頭に、山本省吾・金子千尋・近藤一樹が先発10勝、加藤大輔が最多セーブ、坂口智隆はゴールデングラブ賞、タフィ・ローズは打点王を獲得するなど、チームの戦力は大幅に充実した。
1月19日にファームとネーミングライツを契約していた穴吹工務店との契約満了に伴い、10年ぶりにファームのチーム名がサーパスから一軍と同じオリックス・バファローズに変更された。2月23日、ビジター用ユニフォームと球団旗のデザイン変更が発表される(後述)。3月28日、関西プロ野球球団初の球団公式チアリーリングチームがデビューし、4月10日にチーム名「Bs Dreams(ビーズ・ドリームズ)」が発表された。
この年は、楽天を退団したホセ・フェルナンデスを加えローズ・カブレラ・ラロッカの4人でビッグボーイズを結成するなどし、開幕前の野球解説者の予想でも上位にあげられていたが、これら4人の外国人選手全員が死球などで全員が骨折するなど、極度の不運に見舞われ、主力選手の多くが怪我で離脱した。先発投手陣も、前年大活躍をした小松が開幕から大不振に陥ったのをはじめ、近藤が5月から不調に陥り、復帰した平野も開幕直後に体調不良で戦線離脱、開幕から金子と共に好調を維持していた岸田護も故障で離脱した。さらに、抑えの加藤を擁するリリーフ陣も不安定な投球が目立ち、9月以降は先発要員の金子が抑えに起用された。チームは5月に9連敗、6月に7連敗と大型連敗を繰り返し、6月は4勝14敗と大きく負け越して低迷。6月10日から1軍投手コーチ(ベンチ)の赤堀元之をブルペン、1軍投手コーチ(ブルペン)の清川栄治をベンチに配置転換した。6月18日からは1軍投手チーフコーチの佐々木修を2軍投手コーチに降格、先日1軍投手コーチとなった清川栄治を1軍投手チーフコーチに昇格する人事を発表している。しかし、これでも好調の兆しは最後まで見られず、優勝した日本ハムに6勝18敗、2位楽天には4勝19敗1分と大きく負け越すなど苦戦を強いられ、9月にはシーズン3度目の6連敗を喫した。9月9日の対楽天戦で敗戦を喫して2年ぶりにシーズン負け越しが決定。9月27日の対ロッテ戦で引き分けになり、勝率差でロッテに及ばなくなったため、2年ぶりに最下位となった。その責任を受けてGMの中村と監督の大石を解任、後任監督には岡田彰布が就任した。
2010年代[編集]
2月5日にキャンプ地の宮古島市のホテルで、小瀬浩之が転落死する事態が起きた。直後に阿部真宏とのトレードで西武から赤田将吾を獲得している。
3月20日から3月26日まで、1989年以来のパ・リーグ開幕4連勝を果たす。4月2日から4月7日まで5連敗・合計37失点と大量失点されたこともあり、4月8日に1軍バッテリーコーチの三輪隆が2軍バッテリーコーチに降格、2軍バッテリーコーチの吉原孝介を1軍バッテリーコーチに昇格する人事を発表した。
交流戦に入るとチームは機能し始めるようになり、16勝8敗の好成績を残し、6月13日の対横浜ベイスターズ戦を7-2で勝利し、交流戦6年目で初優勝した。交流戦後の後半戦に入ると一時は3位に浮上したものの主力選手の不振等で連敗を繰り返し、その後もCS出場圏内にとどまっていたが9月26日、日本ハムが勝ち、勝率差で日本ハムに及ばなくなったため、2年連続のBクラスが、9月28日には5位が決定した。T-岡田が本塁打王、金子千尋が最多勝を獲得している。
「オリックス・バファローズ改造計画」と称し、球団旗・ユニフォーム・ペットマーク・ロゴマークを全部一新、新マスコット(バファローブル、バファローベル)を導入した。
交流戦は、2位。チーム防御率リーグワーストと投手陣が低迷していた為8月3日付で一軍投手チーフコーチの福間納を育成担当へ降格、育成担当の赤堀元之は一軍投手コーチ(ブルペン)に昇格し、ブルペン担当だった小林宏はベンチへ昇格した。4年連続でシーズン中に投手コーチが交代することになった。
その後、8月28日の対ロッテ戦から9月7日の対楽天戦まで1997年以来14年ぶりの9連勝を達成した。9月は18勝5敗1分という好成績で3位となり、調子を落とした2位の日本ハムと一時は1.5ゲーム差にまで縮めるが、10月は3勝9敗1分と調子を落とし、最後は西武との3位争いの末、18日のシーズン最終戦においてオリックスがソフトバンクに敗れ、同じくこの日最終戦だった西武が勝った為、わずか勝率1毛差(.0001差)で4位となり3年連続のBクラス、クライマックスシリーズ出場を逃す結果となった。
オフには李承燁、朴賛浩、加藤大輔が退団。一方で、西武から許銘傑を、韓国のロッテ・ジャイアンツから李大浩を獲得。
球団創立以来初のキャプテン制度を導入。後藤光尊が就任。3月28日に阪神、米大リーグ・ヤンキースに在籍した井川慶を獲得。開幕カードの対ソフトバンク3連戦を全敗した後、4月19日に勝率5割にしたものの、直後に5連敗し以降は5割に戻すこともなく、交流戦は10勝13敗の7位とし、前半戦を借金13の最下位で終える。後半戦もそのまま順位を上げる事なく低迷。9月12日から25日にかけて球団ワーストとなる12連敗を記録。この連敗中の22日に岡田監督の退任が発表された。24日の対ロッテ戦に敗れ、球団ワーストタイとなる11連敗として、シーズン最下位が確定した。翌25日にはシーズンの最後まで指揮を取る事になっていた岡田監督と高代延博ヘッドコーチの休養が発表され、森脇浩司チーフ野手コーチが監督代行となるが、この日の対ソフトバンク戦にも敗れ連敗球団記録を更新した。翌26日に対ソフトバンク戦に勝利して連敗を止め、代行就任以降の成績を7勝2敗とする。10月8日、シーズン最終戦の対ソフトバンク戦(ヤフードーム)で西勇輝がノーヒットノーランを達成し、試合後、森脇が来季の監督に正式に就任すると発表した。12月25日、阪神からFA権利を行使した平野恵一が6年ぶりに復帰。
日本ハム・糸井嘉男、八木智哉と木佐貫洋、大引啓次、赤田将吾の2対3のトレードが成立。
交流戦は13勝10敗で、巨人・日本ハム・ロッテと同率の3位とした。10月1日の対ソフトバンク戦に2対9で敗れて5年連続のBクラスが確定、クライマックスシリーズ進出を逃し、10月6日の対ロッテ戦に3対1で勝利して5位を確定させた。
9月17日に6年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定。終盤までソフトバンクとの優勝争いとなり、一時は2位のオリックスに残り試合数の関係で優勝へのマジックナンバーが点灯もしたが、10月2日の対ソフトバンク戦(ヤフオクドーム)で延長10回裏にサヨナラ負けしたことで優勝を逃し、2位に終わる。日本ハムとのCSファーストステージでは1勝2敗で敗退。金子千尋が、自身初かつ球団史上初となる沢村賞を獲得。
チーム成績・記録[編集]
- リーグ優勝 12回(年間最高勝率は南海にプレーオフで敗退した1973年と近鉄にプレーオフで敗退した1979年を含む、近鉄とのプレーオフを制した1975年を除く13回)
- (1967年 - 1969年、1971年 - 1972年、1975年 - 1978年、1984年、1995年 - 1996年)
- セ・パ交流戦優勝 1回 (2010年)
- 日本一 4回
- (1975年 - 1977年、1996年)
- Aクラス 46回
- (1937年春、1938年春 - 1942年、1944年 - 1949年、1953年、1955年 - 1956年、1958年、1964年、1967年 - 1969年、1971年 - 1979年、1981年、1983年 - 1984年、1986年 - 1987年、1989年 - 1999年、2008年)
- Bクラス 31回
- (1937年秋、1943年、1950年 - 1952年、1954年、1957年、1959年 - 1963年、1965年 - 1966年、1970年、1980年、1982年、1985年、1988年、2000年 - 2007年、2009年 - 2012年)
- 連続Aクラス入り最長記録 11年(1989年 - 1999年)
- 連続Bクラス最長記録 8年(2000年 - 2007年)
- 最下位回数 7回(1963年、2002年 - 2004年、2007年、2009年、2012年)
- 最多勝 88勝(1956年)
- 最多敗 92敗(1963年)
- 最多引分 11分(1971年、1979年)
- 最高勝率 .678(1978年)
- 最低勝率 .353(2003年)
- 最多連勝 15連勝(1971年)
- 最多連敗 12連敗(2012年)
その他の記録[編集]
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1989年)
- 最大ゲーム差 40.0ゲーム(1959年)
- 最高得点 758点(1985年)
- 最多本塁打 184本(1980年)
- 最小本塁打 3本(1944年)
- 最高打率 .285(1994年)
- 最低打率 .185(1943年)
- 最高防御率 2.57(1940年)
- 最低防御率 5.95(2003年)
歴代本拠地[編集]
- 1936年 宝塚球場
- 1937年 - 1990年 阪急西宮球場
- 1948年から暫定的にフランチャイズ制がしかれ、1952年より正式にフランチャイズ制がしかれる。
- 1958年から1982年頃までと1988年は阪急電鉄の沿線への配慮から西京極球場を、また、オリックスへ球団を譲渡した1989年、1990年は神戸地区のファン確保のためグリーンスタジアム神戸(神戸総合運動公園野球場)を準本拠地として使った。
- 1991年 - 2004年 グリーンスタジアム神戸→Yahoo!BBスタジアム(神戸総合運動公園野球場)
- 球場の名称は2002年までがグリーンスタジアム神戸、2003年と2004年はネーミングライツによりYahoo!BBスタジアム。なお、1991年・1992年は西宮球場を準本拠地として開催していた。
- 2005年 大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)
- 実質的にはスカイマークスタジアム(神戸総合運動公園野球場、Yahoo!BBスタジアムから改称)との併用。
- 2006年 スカイマークスタジアム
- 実質的には大阪ドーム(この年7月からネーミングライツにより「京セラドーム大阪」に名称変更)との併用。
- 2007年 - 現在 京セラドーム大阪
- スカイマークスタジアム(2011年、「ほっともっとフィールド神戸」に改称)は準本拠地扱いとなった。
球団合併後の2球場併用[編集]
2005年より球団合併に伴う暫定処置として3年間限定で「ダブルフランチャイズ制」が認められ、合併前に両球団が本拠としていた2球場をともに本拠地球場扱いとした。但し、野球協約における正式な本拠地球場である専用球場については規定通り1つとされ、大阪ドームが登録された。この年は大阪で34試合、神戸で32試合(他東京ドーム遠征2試合)が開催されている。球団は最終的には神戸での試合数を削減した上で大阪ドームに本拠地を一本化する方針であった(大阪ドームでの主催公式戦、当初案は2006年:42試合→2007年:54試合→2008年:60試合)。
ところが2005年10月、大阪ドームを運営する第三セクター「大阪シティドーム」が会社更生法を申請し、その後のドームの運営体制が不確定な事態となった影響から、オリックスは同年、専用球場の登録をスカイマークスタジアムに変更し、主催公式戦を半数ずつ開催する措置を執った。同年4月、オリックスが大阪ドームの施設買収に乗り出し、同年6月にシティドーム社を100%減資した上でオリックス子会社のオリックス・リアルエステート(現:オリックス不動産)が買収した(詳細は大阪シティドーム参照)。これを受けてオリックスは2007年、再び大阪ドームを専用球場として登録。同年も予定を変更して主催公式戦のうち48試合が大阪で開催された。
2008年以降はダブルフランチャイズ制が終了、専用球場の選択は保護地域の大阪府内にある京セラドーム大阪(大阪ドーム)に限られることになった。ただし神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)の準本拠地としての使用も継続とし、年間20試合程度を開催していった。2011年度からは大阪ドームでの試合数を増やし、近鉄との合併後初めて20試合をきった。これまで必ず行われ特別料金が設定されていた神戸での対巨人戦と対阪神戦も無くなった。
正式な本拠地球場は1つであるが、選手名鑑などでは両球場を併記している場合もある(1999年までの近鉄も本拠地と準本拠地が併記されていたことがあった)。球団合併以後の大阪ドーム、神戸総合運動公園野球場の試合数は以下の通りである。
年度 | 大阪 | 神戸 | その他 | 備考 |
---|---|---|---|---|
2005年 | 34試合 | 32試合 | 東京ドーム2試合 | |
2006年 | 34試合 | 34試合 | なし | この年に限り神戸を専用球場とした。 |
2007年 | 48試合 | 22試合 | 東京ドーム2試合 | |
2008年 | 48試合 | 22試合 | 東京ドーム2試合 | |
2009年 | 49試合 | 21試合 | 東京ドーム2試合 | 神戸の雨天中止分1試合を大阪に振替。 |
2010年 | 51試合 | 21試合 | なし | 神戸の雨天中止分1試合を大阪に振替。 |
2011年 | 58試合 | 14試合 | なし | 神戸のノーゲーム分1試合を大阪に振替。 |
2012年 | 58試合 | 14試合 | なし | 神戸の雨天中止分1試合を大阪に振替。 |
スポンサー[編集]
- オリックス(袖:1989年 - 。ヘルメット:2000年代の初め)
- ソーラーフロンティア(袖:2013年 - )
- イー・モバイル(袖:2008年 - 2012年)
- 近畿日本鉄道(袖:2005年 - 2007年)
- アトラス(テレビゲームメーカー)(ヘルメット:2004年 - 2005年)
- 京セラ(ヘルメット・ユニフォーム:2006年3月 - 2010年)
- NHN(表記:Han Game)(ヘルメット・パンツ左:2011年)
- gloops(ヘルメット(表記:大熱狂!!プロ野球カード)・パンツ左(表記:gloops):2012年-)
歴代監督[編集]
- 1936年 - 1937年 : 三宅大輔
- 1937年 : 村上実 (第1次)
- 1938年 - 1939年 : 山下実 (第1次)
- 1939年 : 村上実 (第2次)
- 1940年 : 山下実 (第2次)
- 1940年 - 1942年 : 井野川利春
- 1943年 - 1947年 : 西村正夫 (第1次) ※1
- 1947年 - 1953年 : 浜崎真二
- 1954年 - 1956年 : 西村正夫 (第2次)
- 1957年 - 1959年 : 藤本定義
- 1959年 - 1962年 : 戸倉勝城
- 1963年 - 1973年 : 西本幸雄
- 1974年 - 1978年 : 上田利治 (第1次)
- 1979年 - 1980年 : 梶本隆夫
- 1981年 - 1990年 : 上田利治 (第2次) ※2
- 1991年 - 1993年 : 土井正三 ※3
- 1994年 - 2001年 : 仰木彬 (第1次)
- 2002年 - 2003年 : 石毛宏典 ※4
- 2003年 : レオン・リー ※5
- 2004年 : 伊原春樹
- 2005年 : 仰木彬 (第2次) ※6
- 2006年 : 中村勝広
- 2007年 - 2008年 : テリー・コリンズ ※7
- 2008年 - 2009年 : 大石大二郎 ※8
- 2010年 - 2012年 : 岡田彰布 ※9
- 2013年 - : 森脇浩司 ※10
※太字は優勝達成監督
- ※1 ここから阪急ブレーブス
- ※2 ここからオリックス・ブレーブス
- ※3 ここからオリックス・ブルーウェーブ
- ※4 2003年4月23日に解任
- ※5 2003年4月23日より監督に昇格
- ※6 ここからオリックス・バファローズ
- ※7 2008年5月21日に辞任
- ※8 2008年5月21日より監督代行、2008年8月2日より監督に昇格
- ※9 2012年9月24日に辞任。
- ※10 2012年9月25日より監督代行、同年シーズン終了後に監督に昇格
永久欠番[編集]
- 無し
- 近鉄では鈴木啓示の1番が永久欠番に制定されていたが、合併時に消滅した。近鉄・オリックス両球団にとっても、永久欠番の扱いは合併時の課題だったが、鈴木本人が永久欠番を継続しない事を了承し、2005年より後藤光尊が着けた。
- また、オリックスでは欠番としてはいなかったものの、1988年限りで引退した福本豊の7番を着ける選手はいなかったため、しばらく空き番になっていた。2001年より進藤達哉が着け(同年に横浜ベイスターズからトレードで獲得)、進藤が退団後は、日高剛、濱中治が着けた。2010年濱中が退団し、2011年から再び空番となったが、2012年は赤田将吾が、2013年からは糸井嘉男が着けている。
- なお、2010年2月、宮古島キャンプ中にホテルで転落死した小瀬浩之がつけていた41番も、2012年シーズン終了時点まで誰も着けていない。
準永久欠番[編集]
- 51:イチロー
- 7年連続首位打者を獲得したイチローが2000年シーズン終了後にメジャーリーグに移籍した後、「51」を着けている選手はいない。2005年に仰木彬が監督に復帰した際、イチロー自身が「51番は監督に着けてほしい」と勧めたが、仰木も「そんな番号は恐れ多くて絶対着けられん」と断っている。また、2011年にバファローズに入団した坪井智哉(イチローと同学年)は、球団に51を希望するも却下された。
主な歴代の球団歌・応援歌[編集]
阪急軍時代[編集]
- 阪急の歌
- 作詞:阪急後援會、作曲:古谷幸一
阪急ブレーブス時代[編集]
- 阪急ブレーブス団歌
- 作詞:内海重典、作曲:入江薫、歌:ロイヤル・ナイツ
- 『阪神タイガースの歌』と同様に歌詞が「六甲おろし」で始まっていた。
- 阪急ブレーブス応援歌
- 作詞:サトウハチロー、作曲:藤山一郎、歌:ロイヤル・ナイツ
- 上記「団歌」のカップリングで発表。西宮球場では、ブレーブスの7回攻撃前に演奏されていた。
- カッチャカッチャ阪急
- 作詞:伊藤アキラ、作曲:佐藤勝、歌:ロイヤル・ナイツ
- ああ!王者
- 作詞:伊藤アキラ、作曲:佐藤勝、歌:山口高志・加藤秀司・山田久志・大熊忠義
- 若い阪急(阪急西宮球場人工芝記念ソング)
- ヒッティングマーチに多用された。
- Yes, you win!
- 歌:早見優
- 1983年のチームスローガン「フレッシュアンドチャレンジ」にちなんで作られた。但し、後年(球団売却後)CD及び配信音源化の上一般販売されたものは、当時西宮球場や阪急電鉄各駅で流れていたもの(非売品)とは歌詞が異なり、「阪急」の部分が「you win!」に差し替えられている。
オリックス・ブレーブス時代[編集]
オリックス・ブルーウェーブ時代[編集]
- 輝け潮流
- 作詞:伊藤アキラ 作曲・歌:三井誠
- ラッキーセブンの際には応援団がトランペット演奏していた。
- ビクトリーマーチ
- 歌:マリンサイド・ウォーカーズJR.
- 2000年以降、ラッキーセブンの際に場内に流された。
- リトル☆ネプチューン
- 歌:マリン・ウォーカーズ
- 試合開始前と勝利試合のヒーローインタビュー後に流された。バファローズ時代でも、ほっともっとフィールド神戸でのブルーウェーブ復刻試合で7回裏攻撃前に1番のみ・勝利試合のヒーローインタビュー後にフルコーラスが流された。
オリックス・バファローズ時代[編集]
- SKY
- 歌:MEGA STOPPER
- 7回裏攻撃前と試合に勝利した後流れる。
- PLAY BALL
- 歌:OUTSIDE SIGNAL(2005年)、MEGA STOPPER(2006年 - )
- 2005年上半期は試合開始前に流されていた。なお、タイトルは同じだが、2005年と2006年のもので歌詞などは大幅に変わっている。
- BLUE SPIRITS-蒼きフィールドの戦士たち-
- 歌:OBSOUL
- 2005年3月発表。主に試合開始前にネッピーとリプシーのダンスソングとして使われていた。
- ウイニングラン
- 歌:Queen's Tears Honey
- 2006年下半期から使われた。
- Bop!!
- 歌:MEGA STOPPER
- 2006年シーズンから使われた第5の公式応援歌。球団が使っている映像などでは道頓堀リバープレスや通天閣でのロケが行われている。
- CALLING
- 歌:MEGA STOPPER
- 2010年発表。
- Hey! Believer 〜あの日のウイニングボール〜
- 歌:MEGA STOPPER
- 2010年発表。
チームの特徴[編集]
球団名[編集]
- 球団愛称の正式表記は「バファローズ」であるが、メディアにはたびたび「バッファローズ」と誤表記されることがある。これは近鉄が名乗っていた時代も同様であった。大阪近鉄バファローズ#球団愛称も参照。
- 1991年に球団が神戸へ移転するに当たり、愛称公募が行われた(1990年8月13日の本拠地移転発表とともに発表)。当時の新聞報道によれば、神戸にちなんだ「ゴッドドアーズ」など駄洒落も多かったが、最も多くファンから寄せられた愛称は「ブルーサンダー打線」に引っ掛けた「サンダーズ」だった。しかし、球団側は結局この名称を採らず、公募とは脈絡のない「ブルーウェーブ」に決定。このため、ファンやマスコミから「決定事項の出来レースだったのではないか」との声も多く挙がり、またこれと併せて、当時の報道として「球場(グリーンスタジアム)は山の中にあるのに、何故「ブルーウェーブ=青い波」なのか?」との多数のファンの意見も伝えられていた。
- 2012年現在、パ・リーグの球団で唯一、愛称の前に企業名(経営母体の名称)のみがつけられている(地域名の付かない)球団である。
- ブレーブス時代はアルファベットでの略称を「B」としていた。後に近鉄パールスが近鉄バファロー(1959年 - 1961年)→バファローズ(1962年 - 2004年)となった際に「B」で始まる球団名が重複することになったが、この際は後発の近鉄が「Bu」とアルファベット2文字の略称を使っていた。その後、1991年にオリックスがブルーウェーブへ改称した際に「BW」と2文字の略称へ変更。現在は近鉄が使っていた「Bu」の略称は引き継がず、「B」で始まる2球団が合併したという意味もこめて「Bs」としている(資料によってはブレーブスのBの意味も込められているとしている)。なお、横浜大洋ホエールズ(1978年 - 1992年)より改称したセ・リーグの横浜ベイスターズ(1993年 - 2011年)は「BS」でなく「YB」、その後身である横浜DeNAベイスターズ(2012年 - )は「DB」と表記する。
- 阪急時代、球団名を漢字一文字で表す場合は、同じ「阪」が付く阪神タイガースと区別するため、「急」と表記していた(阪神は「神」。こちらは阪急が消滅して以後、現在も続いている)。
- 2010年3月、2011年のシーズンより「バファローズ」から名称を変更する方向で調整していることが報じられた。報道によると名称はファンからの公募により決定するが、「バファローズ」の名称が多かった場合は、変更しない。また、「大阪」の冠を付けるとも伝えられていた。しかし、オーナーの宮内は2010年10月8日の会見で球団名の変更について、「合併する際の近鉄サイドの強い要望も有り、バファローズの名前は親からもらった名前として使っていきたい」と否定する発言を行っている。
マスコット[編集]
- 1981年、日本プロ野球ではヤクルトスワローズのヤー坊、日本ハムファイターズのギョロタンに次いで3番目となる球団着ぐるみマスコット「ブレービー」(背番号:100)を採用。阪急西宮球場での試合中、5回裏終了時にスクーターでフィールドを駆けていた。ブレービーは1990年まで使われた。また、1988年にはブレービーの子どもとして「勇太」が登場したが、同年オフにオリエント・リース(現・オリックス)に球団が譲渡されたのに伴い、わずか1シーズンのみで消滅した。
- なおブレービーは、2012年5月26日・27日の対広島戦と6月2日・3日の対巨人戦でブレーブス時代のホーム用ユニフォームを復刻した際に、4試合限定で約20年ぶりに復活。
- ブルーウェーブとなった1991年からは「ネッピー」(背番号:111)が登場。ネッピーは海神ネプチューンの息子で、年齢は13歳という設定。登場当時は上半身は裸で、貝殻の首飾りをしていた。また1999年からは「海賊の娘で、嵐で船が難破して海で遭難していたところをネッピーに助けられた」という設定で、「リプシー」(背番号:222)が登場、ネッピーとともにユニホーム姿となる。いずれもデザインは松下進。ネッピーと共に12球団唯一の人間型マスコットである。球団合併後もそのまま起用され続けていたが、2010年シーズンを最後に全面リニューアルのため“引退”。2011年1月には西神プレンティにおいて「引退セレモニー」が行なわれ、以降は「ふるさとの海に帰る」とコメントしている。ちなみに、Jリーグ・ガンバ大阪のマスコット、ガンバボーイはネッピーの弟である(同じ松下進デザイン)。
- ブルーウェーブ時代には、他にも「ブルーパイレーツ」という海賊4人組のマスコットがいた。
- なおネッピーは、2011年9月10日の対西武戦でブルーウェーブ時代のビジター用ユニフォームを、2013年4月12日 - 14日の対日本ハム戦でホーム用ユニフォームをそれぞれ復刻した際に限定復活している。
- 東北楽天ゴールデンイーグルスの球界初のしゃべるマスコット「超特大ゴーヤ」が象に踏まれているところを、偶然居合わせた坂口智隆と赤田将吾が救出した縁で、恩返しとして2010年よりオリックスへ移籍し1年間応援することとなり、名前も「1・2・3・4ゴーヤ」と改名した。さらにシーズン終了後には勝手に残留表明まで行った。また、「3・4・5・6・7八カセ」(最後の読みは「はかせ」だが、カタカナの「ハカセ」ではなく漢数字の「八カセ」である)というゴーヤがマッドサイエンティストに扮装したかのようなマスコットまで登場したが、本人は「誰がゴーヤやねん!」と誰も言ってないのに否定している(ただし、公式動画で時折正体がばれるようなボロを出している)。その結果、メカに覆われたほとんど別物のマスコットになった。なお、2012年からは「大阪八カセ」に改名して活動している。
- 2011年1月に新マスコットを発表。デザインは幸池重季によるもので、「バファローと草食動物のオリックスを掛けあわせた架空の生き物」の兄妹。名称は公募にて、兄が目の色のブルーと、球団スローガンの「新・黄金時代」にふさわしい、強く勇敢な雄牛「ブル」を意味し、また、ファンを「ブルブル」と身震いさせる様な熱い戦い、勝利を、という思いが込められた「バファローブル」(BuffaloBULL)、妹は勝利の女神で、勝利の「鐘(ベル)」を鳴らすという意味を込め、「美しさ(フランス語のBeLLe)」を兼ね備える、「バファローベル」(BuffaloBELL)に決定となった。なお背番号はネッピー・リプシーを受け継ぎ兄のブルが「111」、妹のベルが「222」。
応援スタイル[編集]
- 阪急時代の応援は、高校野球のようなブラスバンドによる選手別応援歌演奏が特徴となっていた。現在の応援歌にも阪急時代から受け継がれている曲が一部存在する。
- オリックス・バファローズを応援する際は、旧近鉄系の「大阪私設應援團」と旧オリックス系の「神戸蒼誠会」「天体観測」などの私設応援団が先導して行う。ちなみに「天体観測」の名前の由来は「選手がスター(星)になって、遠い存在になっても応援し続ける」というもの。
- 合併以降、ラッパなどの鳴り物の多様化やタオルを使った応援など近鉄のやっていたような激しい応援スタイルに近いものとなっている。また大阪私設応援団が応援の指揮をとることが多いなど、外野スタンドでは旧近鉄ファンの勢力が強くなっている。個人応援歌も近鉄の応援団が加わったのもあり従来のオリックスとは違う、迫力のある激しい応援歌になりつつある。
- 2010年以降(岡田監督就任以降)、シーズン途中やキャンプ中のトレードなどによって途中加入した選手が増えたため、一部選手の応援歌は過去在籍していた選手の応援歌を流用する場合も出てきた。また、セ・パ交流戦で先発投手が打席に立つときは、過去の選手応援歌を流用して歌う場合がある。(2011年の例:金子千尋→イチロー、中山慎也→村松有人)
- 7回の攻撃前に飛ばされるジェット風船は、旧近鉄のチームカラーの赤色のものと、旧時代からのオリックスのチームカラーの青色のものがツートンで使われていたが、2011年の新ユニフォーム導入後は青と金色のツートンが公式色となった。なお、現在では勝利時にも風船を飛ばされることも多くなっている(勝利時も色は7回攻撃前と同じ)。
営業・ファンサービス[編集]
- 神戸移転後、プロ野球初の男性DJ(=スタジアムDJと命名され、この言葉が今の場内アナ全般に使われるようになった)としてDJ・KIMURAを採用したり、内野グラウンドの天然芝化や内野スタンドのネット撤去、フィールドシートの設置、2004年からは「Take Me Out to the Ball Game」のヤフーBBスタジアム版を演奏など、メジャーリーグのボールパークの雰囲気に近付けるファンサービスを実施したが、観客動員数向上への目立った効果は出なかった(なおフィールドシートの名称が当初「殿馬シート」であったとする俗説があるが、実際には『ドカベン』とのコラボレーションであった「ドカベンチケット」内のみでの名称であり、球場ではこの名称は使われなかった)。
- 2005年シーズンより場内アナウンスを堀江良信(フリーアナウンサー)が担当している。選手名を全てスタメン発表から英語読みで呼ぶ。「○番、守備位置の英語、名前・苗字、(初打席のみ背番号)」2010年より球団非公式マスコットとなった1・2・3・4ゴーヤ(現在は大阪八カセ)との掛け合いも披露することもある。
- 地元大阪と神戸で開く主催ゲーム(オープン戦・公式戦いずれも)では、地元の企業・団体が1シリーズ(2~3連戦単位)で協賛し、球場のスタンド(大阪は2階席のバックスクリーン、神戸は左中間・右中間のバックスクリーン寄り)に「(協賛スポンサー名)シリーズ」の看板を掲げている。
- 大阪・神戸のホームゲームではその試合でオリックスが勝利をした場合、一塁側ベンチからクラッカー(キャノン砲)が発射され、紙テープで祝福するのが恒例となっている。
- 神戸で試合をする場合、5回と6回のイニングスインターバルにアトラクションとして花火ナイターが開かれる。基本的には毎回300発だが、交流戦やシーズン最終戦(神戸での最終戦)など特別な日には「スーパー花火ナイター」として多めに花火を打ち上げる。
- 2005年度から吉本興業と業務提携を結んだ。3月27日の朝日放送『なにわ人情コメディ 横丁へよ~こちょ!』(NGKで3月9日収録)に仰木彬監督や選手が劇中に出演し、チームをPRした。また、3月28日のホームゲーム開幕戦・対ロッテ戦(大阪ドーム)では、国歌斉唱をDonDokoDonの山口智充が担当した。この業務提携は2006年度も「よしもとプロデュース・Bsミックスモダン大作戦」として継続。3月31日の関西テレビ『NGKにバファローズがやってきた! ミックスモダン大作戦~結束~』(NGKで3月9日収録)には中村勝広監督・清原和博・中村紀洋らが出演してチームをPR。4月2日の大阪ドーム開幕戦(対北海道日本ハムファイターズ戦)では友近が国歌斉唱、また4月4日の対ロッテ戦では池乃めだかが国歌斉唱、レイザーラモンHGが始球式を行った。
- 2005年8月、『魔法戦隊マジレンジャー』とのコラボレーション企画が実施された。これは仰木監督の采配が「仰木マジック」とマスコミに称されていたことと、マジレンジャーが様々な魔法を使って悪を退治していくという物語のつながりから実現したもので、マジレンジャーの映画化記念イベントを兼ねて企画された。
- 2006年7月からはJリーグJ1のガンバ大阪と連携。2006年には宮本恒靖(現ヴィッセル神戸)と清原和博のポスターやグッズを合同で作製したり、オリックスの試合で宮本が始球式、ガンバの試合で吉井理人と北川博敏がキックオフセレモニーに出場した。なお、GS神戸を本拠としていた時代、隣接するユニバー競技場を本拠地としたヴィッセル神戸と提携し、ホームゲームが重複して開催される日は共通チケットを発売した。
- ただ、京セラドームの観客動員がやや伸び悩んでいることや神戸のファンの確保などの観点から、協約上のダブルフランチャイズが終了する2008年以後も兵庫県内(主として神戸)で20試合程度の準本拠地開催を行えるよう、兵庫県をフランチャイズとする阪神タイガースと交渉を進めており、2008年度以後も2007年度と同じ試合数(大阪48、神戸22、東京2)を確保している。なお、一軍の公式戦では上述3球場での開催のみだが、オープン戦とウエスタン・リーグでは姫路球場など神戸以外での兵庫県内の球場を使う事例がある。
- セ・パリーグ間交流試合では、大阪を事実上のメインとした2007年以後、対阪神戦、対巨人戦はそれぞれ大阪・兵庫で1試合ずつ、更にそれ以外のカードのうちの1チーム2連戦を兵庫県内で開催する事例が多い。ダブルフランチャイズだった2005年と2006年はカードによって開催地が異なるケースが多く、同じカード・同じ球場で3連戦行う試合もあれば、上述2球団のように試合日によって開催球場を変える場合もあった。特に5月下旬のホームゲームの場合、大阪ドームでは他のイベント(コンサートなど)に使われるため、ある1カード(2-3連戦)が全て兵庫県内で行われる試合もある。
- 前述したが2011年は大阪での試合を増やす方針から、神戸での試合が20試合を切る見通しである。これに伴い、交流戦主管全試合(12試合)は京セラドームでの開催となった(当初5月31日と6月1日の横浜戦だけほっともっと神戸での開催が予定されたが、公式戦日程変更のため京セラドームに変更された。また阪神戦・巨人戦は元から2試合とも京セラドームでの開催となっていた)
- 2009年8月7日~9日のロッテ三連戦では関東にフランチャイズを置くロッテを東軍、オリックスを西軍に見立てて、大坂夏の陣をモチーフとしたイベント「Bs大坂夏の陣」が行われた。普段は本場メジャーリーグのようにファーストネームからコールするスタジアムDJもこの日は姓から順、ポジションも漢字読みでコール、さらにスコアボードの外国人選手にも漢字を使った当て字で表記される(例、ローズ→狼主、アレックス→亜力士、ラロッカ→羅六華)など戦国時代のような和風さを連想させる演出が行われた。また来場者には、先着6万人に赤色のユニフォームがプレゼントされた。
- 2009年8月29日~30日の対埼玉西武ライオンズ戦では35歳前後のファンを対象とした「R35ゲーム」が開催された。30歳代の入場者には西宮球場最後のシーズン(1988年)の内野自由席大人の価格で招待され、また当時の青春時代を思い起こさせるため、ウグイス嬢にタッチの朝倉南役で知られる日高のり子が起用された。翌年、2010年7月19日にも50歳代を対象とした「R50ナイト」が開催され、当時の世代に馴染みの深いアニメ作品『巨人の星』の星飛雄馬役の古谷徹、星明子役の白石冬美が場内アナウンスに起用された。
- 2008年より毎年ホーム開幕3連戦の内野自由席、外野自由席、一部指定席のチケット料金を値引し、さらに帽子やユニフォームをプレゼントするサービスが振舞われている。その甲斐も合って同カードは3万人以上の客入りを記録している。
- 2009年10月24日、日本球界ではいち早く先駆けて球団公式ツイッターを開設。
- 2010年5月30日、1995年の阪神・淡路大震災から15年経過したのを受けて、セ・パリーグ間交流試合において1995年当時日本シリーズで争った対東京ヤクルトスワローズ戦(スカイマークスタジアム)を、「がんばろうKOBEデー」として行われた
当日は、当時スタジアムDJをしていた「DJ.KIMURA」が担当し、選手たちは当時使用していた「BlueWave」時代のユニホームを着用して試合が行われた。(球場でも復刻グッズが販売された)
また応援団も1995年当時に使用していた「応援歌」に差し替えて行われた。(例:「坂口智隆」→「イチロー」・「T-岡田」→「藤井康雄」)
試合は3 - 1でオリックスが勝利し、観客動員も2010年最多の34,545人が球場に詰めかけた。 - 2010年7月16日-7月18日、「大坂夏の陣」を再び開催。甲冑をイメージした赤の特別ユニフォーム。全選手表示を漢字表記にしている。外国人(セギノール=「関乃流」、バルディリス=「英火(ニックネームの「AB」より)」等)はもとよりT-岡田を「暴君竜」(Tがティラノザウルスをイメージした登録名であるため)とした。この年はソフトバンクと対戦したが3戦全敗で終わった。
- 2011年1月30日から、公式サイトに「ハングル対応版」が登場。李承燁と朴賛浩の2人の韓国人選手の加入で韓国国内からのアクセスが多くなることを想定して設置された。
- 2011年7月1日-7月3日、3度目の「大坂夏の陣」を開催。リベンジレッドをテーマとした赤の特別ユニフォームを着用して試合に臨んだ。今回は対戦相手のソフトバンクも水色の特別ユニフォームを着用し、赤対水色の対決となった。前年同様に全選手表示を漢字表記(外国人選手では去年の例に加えへスマン=「兵州男」、フィガロ=「飛牙呂」など。移籍して対戦相手となったカブレラはカタカナ表記だが、告知画像では「亜力士(鷹へ寝返り)」とブラックジョークを交えて表記。)にしている。結果はオリックスの3戦全勝で前年のリベンジを果たした。
- 2012年5月12日・13日、「Bs選手会プロデュースデー2012」を開催。テーマはテレビ朝日の「スーパー戦隊シリーズ」をモチーフにした「野球戦隊バファローズ」。
- 2012年「LEGEND OF Bs2012」を開催。「感動、激動の80's」と銘打ち、5月25・26日の広島戦と6月2・3日の巨人戦で阪急ブレーブスの1980年代当時の復刻版ホームユニフォームを着用、阪急時代のマスコットキャラクター「ブレービー」を復活させるなど阪急時代の雰囲気を再現。ちなみに、広島と巨人は、阪急と日本シリーズで対戦したことがある。
- 2012年6月29日-7月1日、4度目の「大坂夏の陣」を開催。前年のものと同じコンセプトの赤の特別ユニフォームを着用して試合に臨んだ。選手表示は選手紹介時にはこれまでの「夏の陣」同様に全て漢字表記(スケールズは「博比ノ助(「ボビー」と「スケ」から)」とした)が、試合中は通常と同じ表記とした。
前身球団へのスタンス[編集]
当球団は、50年を超える伝統を持つチームを吸収合併し、なおかつ存続側の球団自体もオーナー企業の変更や本拠地移転を経験した複雑な歴史を持つ。
球団は2006年に「阪急ブレーブス・近鉄バファローズ・ブルーウェーブの『3つのB』の伝統を大切にする」と宣言し、球団理念にもそれをうたっている一方、公式ウェブサイトの「ヒストリー」においてはオリックスが球団を買収した1988年(ブレーブスについては同年10月)以降の歴史のみが本文に記載されている。球団関係者からは2007年の時点で「それぞれの球団のファンにすると、中途半端な印象があるのかもしれません」「2つの球団が合併したとはいえ、選手の大半は近鉄側でしたから、大阪に力点を置いた事業展開を行うべきだったのかもしれません」といった、複雑な成立過程を持つ球団ゆえの悩みを認める発言がなされている。
2011年シーズンには「LEGEND of Bs 2011 蘇る黄金の70's」と題して1970年代の阪急・近鉄に光を当てたイベントが実施され、両球団の復刻ユニホームの使用や当時の選手とかつての阪急応援団長・今坂喜好による始球式がおこなわれたほか、このイベントの専用ウェブサイトでは両球団の創立以来の歴史も(1970年代を中心とする形ながら)記載された[1]。</br> 2012年は前記の通り「LEGEND of Bs 2012 劇的 感動の80's」と題して1980年代の阪急・近鉄をクローズアップしたイベントを実施し、1980年代の両チームの歴史を記載した専用ウェブサイトも開設された[2]。</br> 2013年現在、これらの専用ウェブサイトへのリンクが上記「ヒストリー」のページに掲示されており、間接的な形ながら前身球団の歴史を公式ウェブサイトから知ること自体は可能になっている。</br> 復刻ユニホームの公式戦着用は2013年シーズンにも、オリックス・近鉄両球団の1990年代以降合併までの歴史を振り返る「LEGEND OG Bs 2013 Miracle!夢が叶ったあの時」のイベントとともに実施されている。
その他[編集]
- 1936年の公式戦スタート時から存続する伝統ある球団でありながら、監督は生え抜きにこだわらず積極的に外部の人間を受け入れる傾向にある。このため、同球団の選手から他球団のユニフォームを着ることなく監督に就任した、いわゆる生え抜き監督は、山下実・西村正夫・梶本隆夫の3人しかおらず、他にアマチュアから直接選手兼監督として入団した井野川利春・浜崎真二を加えた5人のみが純粋な生え抜き監督である。他に選手出身監督としては、1年だけ他球団選手経験のある戸倉勝城、選手歴の晩年を同球団で送り、その後古巣の監督も経験した後に就任した岡田彰布がいる。なお、オリックスになってからの選手出身監督は岡田彰布が初めてである。また大石大二郎と森脇浩司が合併前の近鉄バファローズでの選手経験がある。
- 1980年代後半、阪急が親会社だった最後の時期にドラフトで指名予定の選手に配布したプロモーションビデオに系列の東宝芸能の看板女優である沢口靖子を案内役で起用された。
- 兵庫県競馬組合の特別レースに協賛しており、2004年までは「ブルーウェーブ特別」として行っていたが、チームの合併と名称変更に伴い2005年から「バファローズ特別」にレース名を改めている。
ユニフォームの変遷[編集]
一軍[編集]
- 1936年…現在のホーム用にあたる白地に飾り文字、ビジター用にあたるユニフォームは紺が使われていた。
- 1937年 - 1940年…チームカラーがオレンジに変更される。また紺地に白のペンシルストライプが登場。
- 1940年 - 1944年…戦況の悪化により「H」マークを廃止。また、左袖には阪急の社章が入る。
- 1945年 - 1949年…「H」マークが復活。ビジター用に当たるグレーは「HANKYU」のロゴ。当時はペンキで描いていた。
- 1947年 - 1952年…ロゴの「H」マークが丸くなり、ホーム用に阪急独特のナール型(丸文字)背番号が登場。ビジター用は同じ書体で丸味のない角型。茶の「Braves」は1950年まで使用。
- 1951年 - 1954年…ペンシルストライプを復活。また、ロゴが赤茶に変更される。
- 1955年 - 1959年…アトランタ・ブレーブスを意識したホーム用ユニフォームが登場。同時にチームカラーが紺と海老茶に変更される。1957年から帽子のマークを変更。
- 1960年 - 1961年…「Braves」の書体が変更され1980年代初頭まで使われる。前立てラインが登場。また帽子のツバを赤に変更。
- 1962年 - 1971年…縦縞が初登場。この時代はマイナーチェンジが繰り返される。
- 1972年 - 1983年…衣類の技術的進化によりカラフルな色が出せるようになり、丸首ニット製ベルトレスユニフォームを採用。プルオーバーとなる。ロゴ、胸文字、背番号が赤(縁取り:黒)、アンダーシャツ、ストッキング、が黒、首、袖が赤、黒、白のライン、帽子は黒地にHマーク、ツバが赤。マイナーチェンジを重ねつつ、1983年まで基本スタイルが踏襲され、黒、赤、白=常勝阪急のイメージが定着する。
- 1975年 - 1979年…袖とパンツのラインが太くなり、首部分に伸縮ゴムが入る。1975年 - 1977年の3年連続日本一(1975年 - 1978年は4年連続リーグ優勝)になったゲンのいいユニフォーム。ビジター用はグレーからスカイブルー、スパイクが黒から赤地に白ライン(美津濃製の「M」ライン)となる。
- 1977年より…背番号の上に選手のネームが入る。
- 1980年 - 1983年…アンダーシャツ・ストッキングを赤に変更。同時に、ベルト式(オーバーカバータイプ)になり、ボタン型となる(但し、第3ボタンまでがボタン式であとは飾りボタンのプルオーバー型)。スパイクが白地に赤ラインになる。
- 1981年 - …袖のラインを「黒・白・赤」から「赤・白・黒」に変更(パンツのラインは変更なし)。下述する1984年以降のユニホームにも引き続き採用した。
- 1984年 - 1988年…帽子のマークが「H」から西洋の騎士が身につける「プレートアーマー」のマスクをイメージした「B」に変わり、前面が白になる。同時にホーム用がモデルチェンジ。ボタン無しのVネックプルオーバータイプとなり、「Braves」のロゴが筆記体から変わる。また、1947年以来続いていたナール(丸文字)型の背番号の書体が変更となり、角文字になり、胸番号がゴシック体になる。
- 1985年 - 1988年…ビジター用もモデルチェンジする。デザイン書体などはホーム用同様で、胸ロゴが「HANKYU」から「Hankyu」へと小文字のゴシック体にかわる。左袖にはブレービーのワッペン(三角形)がつく。
- 1989年 - 1990年…球団がオリックスに譲渡され、球団名がオリックス・ブレーブスに変更される。チームカラーをオリックス・ブルー(紺)とブレーブス・ゴールデン・イエロー(黄色)に変更。阪急時代のプルオーバーのVネックが継続される。ビジター用の上着は紺になる。背番号、胸番号の書体が高校野球型の書体となる(この番号の書体はブルーウェーブになってからも使用され、2000年まで使用された。ただし「8」のみ、同じ書体を使用していた広島や中日のものと異なり、中央の交差部分がX型ではなく横棒になっていた)。袖のワッペンは、右のみ。ホーム用はオリックスの社章、ビジター用はブレービーのワッペン(三角形)。ビジター用のワッペンは1989年夏から変更(デザインは同じで、枠のみ逆三角形に変更)。帽子マークはチームロゴと同じ「Braves」。またヘルメットの前面左から鍔にかけて「赤の3本ライン」が入り(阪急で使われたものを継続し、親会社の新しいロゴにも取り入れられることになった)、これは「バファローズ」となった後も2010年まで使用した(ビジター用は2009年に廃止)。
- 1991年 - 2000年…本拠地の神戸移転と球団名変更を機に胸のロゴを「BlueWave」に、帽子マークを「BW」に変更される。基本デザインは従来どおりの紺と黄色(チーム名が変更されたため、この黄色の呼称も「ブルーウェーブ・ゴールデン・イエロー」に変更された)のユニフォーム。左袖はホーム用はオリックスの社章、ビジター用は「BlueWave」。この間、右袖のワッペンだけマイナーチェンジが繰り返される。
- 2001年 - 2004年…プルオーバーを廃止しボタン式に変更。帽子やアンダーシャツ、ソックスの色がより濃い紺色になり、さらに前ラインが入り、選手名、背番号書体が変更され、斜体がかかる。
- 2005年 - 2010年…近鉄との吸収合併により球団名がオリックス・バファローズに変更される。ユニフォームは胸のロゴを「BlueWave」から「Buffaloes」に変更し左袖に近鉄の文字を追加、帽子は「BW」を「Bs」に変更(胸・帽子ともにブルーウェーブ時代と同じ書体)しただけでそれ以外は従来どおり。新しいユニフォームを見た旧近鉄選手やファンなどからの批判もあり、急遽大阪ドーム用のユニフォームを作成することになった。
- 大阪ドーム用ユニフォームは帽子と胸の左側部分に、従来とは異なるデザインの紺に黄色の縁取りがある「Bs」マークを使用。ロゴは水牛の角をモチーフにデザイン。前立てにはブルーウェーブ時代のユニフォームと同様に紺のラインが入っている。また、紺のラグランスリーブと袖口の赤いラインに近鉄のイメージが残るように配慮されている。ラグランスリーブは1974年から1996年までの近鉄のユニフォームに使用していた。
- 2005年は阪神・淡路大震災から10年目の年で、神戸用ホームの左胸には「がんばろうKOBE 10th」のワッペンがつく。
- 2006年 - 2008年…神戸用ホームユニフォームの帽子・胸ロゴも大阪用と同じ書体のロゴに変更。2005年以後の神戸を除く地方遠征(公式戦では東京ドーム)は神戸仕様を使っていたが、2008年の東京シリーズは大阪仕様のものを着ていた。
- 2009年 - 2010年…ビジター用のユニフォームのデザインが変更。「ORIX」の文字や背番号などが白い文字になった。パンツのラインが赤色に変更。また、キャップはホーム用も含め大阪用に統一された(神戸用ユニフォームは廃止)。
- 2010年…ビジター用のキャップ及びヘルメットのデザインが変更。「Bs」の文字が白一色になり、オリックスのCIである斜め線が廃止された。つばの部分が赤色になった(ホーム用は変更なし)。また、デザイン変更に伴い、ニューエラ製のキャップからミズノ製へと変更。
- 2011年 - …帽子ロゴなどを除いて大幅にリニューアル。帽子はネイビー地にロゴがゴールド一色となる。ホーム用は胸に「Buffaloes」が6年ぶりに復活(ネイビーのロゴにゴールドの縁取り)し、ラケットラインにゴールドを配色。ロゴのうち左側の「f」をひっくり返すことで「牛の角」をイメージ。ビジター用はグレー地となり、「ORIX」のロゴもチームロゴと同じ字体に変更(オリックス球団初のロゴ変更)、ラケットラインはネイビー。日曜日のホームゲームで着用するサードユニホームも採用し、これは上が濃紺、下が白のユニホームとなる。3種とも、右袖に新ロゴマークを挿入。ユニフォームのデザイナーは池越顕尋、生地はミズノ社製でWBC日本代表のユニフォームと同じ素材を使用し、従来のものよりも約35グラムも軽く、また速乾性にも優れている。
- 2012年…キャプテン・後藤光尊の左胸にキャプテンマーク(金縁に紺色)を導入。
限定ユニフォーム[編集]
前身球団の復刻版[編集]
- 「がんばろうKOBE」のスローガンが15周年目となる2010年5月30日の東京ヤクルトスワローズ戦に、1日限定でブルーウェーブ時代のユニフォームが復刻された。なお、当日選手が着用したユニフォームはチャリティー販売に出品され、売上金の一部が復興関連団体に寄付された。
- 2011年5月7・8日の対ロッテ戦および5月20・21日の対広島戦では「LEGEND OF Bs 2011 〜蘇る黄金の70'S〜」と題して、阪急ブレーブスの1977年 - 1979年当時の復刻版ユニホームを着用した(デザインは上述。背ネームのない1977年前期までのバージョン。ウエスト部は当時と異なりカバー付きベルト仕様)。最初のロッテ戦のみ、スコアボードの表示も「阪急」とした。また同年8月12 - 14日の対西武戦・同月26日 - 28日の対ロッテ戦では近鉄バファローズの1974年 - 1977年当時の復刻版ユニホームを着用した(デザインは大阪近鉄バファローズ#ユニフォームの変遷を参照。背ネームがなく、猛牛マークと炎を組みわせた袖章の1976年までの物だが、ウエスト部は1978年以降に準じたカバー付きベルト仕様)。同年9月10日・11日の対西武戦はブルーウェーブ時代の復刻版ビジターユニフォームを着用。
- 2012年…「LEGEND OF Bs2012~感動、激動の80's~」と銘打ち、5月25・26日の広島戦と6月2・3日の巨人戦で阪急ブレーブスの1984年 - 1988年当時の復刻版ホームユニフォーム(デザインは上述、なおバックネームは当時と異なりヘボン式を採用)を、8月4・5日のロッテ戦と同月24 - 26日の西武戦で近鉄バファローズの1978年 - 1996年当時の復刻版ホームユニフォーム(デザインは大阪近鉄バファローズ#ユニフォームの変遷を参照、帽子は1978年後期からのものを使用)を着用する。
- 2013年4月19日 - 21日のソフトバンク戦で「OSAKA CLASSIC 2013」と銘打ち、近鉄バファローズの1978年 - 1996年当時の復刻版ホームユニフォームを着用する。また、ソフトバンクも南海ホークスの1984年 - 1988年当時の復刻版ホームユニフォームを着用する(デザインは福岡ソフトバンクホークス#ユニフォームの変遷を参照)ほか、「LEGEND OF Bs2013~Miracle!夢が叶ったあの時~」と銘打ち、4月12日 - 14日の日本ハム戦でブルーウェーブ時代の1991年 - 2000年当時の復刻版ホームユニフォームを、6月15・16日のヤクルト戦と8月23日 - 25日の日本ハム戦で大阪近鉄バファローズの1999年 - 2004年当時の復刻版ホームユニフォームを着用する(デザインは大阪近鉄バファローズ#ユニフォームの変遷を参照)。
※なお復刻ユニフォームには、当時とは違い、スポンサーの「イーモバイル」の広告が張り付けられている。
大坂夏の陣[編集]
- 2010年7月16 - 18日の対ソフトバンク戦に行われるイベント「Bs 大坂夏の陣」にて、特別ユニフォーム(略称:ZIN-UNI2010)が着用された。デザインは戦国時代をイメージしたもので、肩には甲冑をあしらった装飾が施されており、色も普段の青と違い、赤を基調としている。
- 2011年7月1日 - 3日のソフトバンク戦では「Bs大坂夏の陣2011」と銘打ち、前2年間での「夏の陣」が1勝5敗と大きく負け越していることや史実の「大坂夏の陣」でも西軍が敗れていることを理由に、上半身を「リベンジレッド」と名づけられた赤色としたユニフォームを着用した。結果はホークス相手に三戦全勝し、リベンジを果たした形となった。デザイン自体はサードユニフォームをベースとしており、右袖にはロゴマークに代わってイベント用マークが入る。またラケットラインは入らない。
- 2012年6月29日-7月1日のロッテ戦では「Bs大坂夏の陣2012」と銘打ち、前年同様の赤色ユニフォーム(コンセプト「LEGEND RED」)を着用する。なお、昨年の「リベンジレッド」と異なる点は白のラケットラインが入る部分である。
二軍[編集]
- 2000年 - 2009年…「サーパス神戸」(2006年以後は単に「サーパス」のみ)時代のユニフォーム。帽子は、青地に青緑色の文字で「SURPASS」。
- ホーム用:ベースは白、パンツは白、シャツの首・袖口・パンツの横ラインに青と青緑のツートンカラーのライン、胸マークは青フチに青緑の文字で「SURPASS」、左袖に穴吹工務店の社章、右袖にサマー・シルキー。背ネームは青、背番号は青緑のフチに青。
- ビジター用:ベースは青、パンツは白、シャツの首・袖口・パンツの横ラインに青緑と青のツートンカラーのライン、胸マークは青フチにシルバーの文字で「SURPASS」、左袖に穴吹工務店の社章、右袖にサマー・シルキー。背ネームは青緑、背番号は青緑のフチにシルバー。
球団旗の変遷[編集]
一軍[編集]
- 1936年 - 1947年…藍色地に野球のグローブとボールを模したマーク。グローブの上の部分に「OSAKA」、下の部分に「NIPPON」、ボールの部分に「HANKYU」。
- 因みに、戦時中に英語禁止令が出たため、阪急に対しても球団旗のデザイン変更命令が出されたが、阪急側は「『OSAKA』『NIPPON』『HANKYU』はローマ字であって、英語ではない」と拒絶した。この球団旗は愛称が「ブレーブス」になるまで使用された。
- 1947年 - 1988年…球団ニックネームを「ブレーブス」に。藍色地に黄色で勇者のマーク。その下に赤いリボン、それに白地で「HANKYU」。後に、勇者マークのデザインをシンプルにしたものにリニューアル。
- 1989年 - 1990年…オリックスに球団が譲渡され、球団名が「オリックス・ブレーブス」に。左右セパレート型で、左は白地にオリックスの社章、右は藍色地に「Braves」。
- 1991年 - 2005年…球団名が「オリックス・ブルーウェーブ」に。上下セパレート型に変更。上が白地にオリックスの社章、下が藍色地に「BlueWave」。
- 2005年 - 2008年…大阪近鉄バファローズを吸収合併し、球団名が「オリックス・バファローズ」に。デザインはブルーウェーブ時代の「BlueWave」を「Buffaloes」に変更しただけ。
- 2009年 - 2010年…球団旗からオリックスの社章が消える。白地に大きく「Bs」。その下に細い赤色のライン、小さく「ORIX Buffaloes」
- 2011年 - …白地に上部に小さく「ORIX BUFFALOES」。その下には、この年より導入された「Buffaloes」のロゴ(「Buffaloes」のfの文字が続くところで左右反転し牛の角を表現)が大きく入る。
二軍[編集]
- 2000年 - 2002年…ファームのチーム名を「サーパス神戸」とする。上が白、下が青緑のセパレート型。上は、白地に穴吹工務店の社章。下は青緑を地色にサーパス神戸のロゴ。
- 2003年 - 2008年…穴吹工務店との契約が切れたため、球団旗を変更。上の穴吹工務店のロゴ部分を削除、下の青緑地にサーパス神戸のロゴを全面に。穴吹工務店との再契約後もデザインは戻さずそのまま使用。
主なキャンプ地[編集]
キーワード[編集]
無安打で勝利[編集]
戦前の1939年5月6日、甲子園で行われた南海とのダブルヘッダー第2試合では、南海の宮口美吉・平野正太郎両投手に無安打に抑えられながら2-1で勝利した。4回裏に1点を先制されたものの6・7回に犠打・失策・四球をからめて1点ずつを取り逆転勝利したもの。無安打に抑えられながら得点をあげた試合(無安打有得点試合、「ノーヒットありラン」とも言う)は他に1939年の金鯱(8月3日の対イーグルス戦・西宮)・1959年の巨人(5月21日の対阪神戦・甲子園)・1964年の南海(5月13日の対近鉄戦・大阪)があるが、勝利したのはこの時の阪急だけである。
1試合の最多得点・最多得点差勝利[編集]
1940年4月6日に西宮で開かれた南海戦で、阪急は32-2の30点差という大量得点で勝利を飾った。これは1試合の最多得点及び、最多得点差勝利の日本プロ野球記録である。
押し出しで1試合8得点[編集]
1944年5月16日、西宮での対産業戦の7・8回に記録。その時の打撃は以下のとおり(太字は押し出し四球)。
- 7回表(産業の投手は森井茂):山田伝四球、上田藤夫投手ゴロ失策、野口明三塁内野安打、高橋敏左翼越え二塁打で山田・上田生還、阪田清春中堅前安打で野口生還、打者大平茂の時に阪田二盗、大平三塁ゴロで高橋本塁封殺、打者伊藤健一の時に大平二盗、伊藤一塁ゴロ野選、坂井豊司四球で阪田生還(産業の投手が井上嘉弘に交代)、笠松実四球で大平生還、山田四球で伊藤生還(産業の投手が松尾幸造に交代)、上田四球で坂井生還、野口四球で笠松生還、高橋三振、阪田二塁ゴロで野口二塁封殺
- 8回表:大平四球、伊藤四球、坂井一塁内野安打、笠松四球で大平生還(産業の投手が加藤正二に交代)、山田二塁ゴロ失策で伊藤生還、上田四球で坂井生還、野口三振、三木久一四球で笠松生還、阪田中堅前安打で山田生還、大平投手フライ、伊藤左翼前安打で上田・三木生還、坂井右翼フライ
パ・リーグで最も遅い試合終了時刻[編集]
1953年8月30日の対南海戦(西宮)は当時のパ・リーグの試合規定で23:45までの時限をオーバーしながら延長18回・23:54まで試合を続け、パ・リーグで最も遅い試合終了時刻を記録している。
合計97歳の先発投手[編集]
1950年11月5日、阪急西宮球場で開かれた、対毎日オリオンズ戦。当時阪急の監督だった浜崎真二は毎日の湯浅禎夫総監督に「(毎日の)リーグ優勝が決まった後なので、わしが投げるからあなたもどうだろう」と持ちかけて、湯浅も「よし」と快諾。両監督が先発投手になった。
この当時の年齢は浜崎が48歳10ヶ月、湯浅が48歳1ヶ月で2人合せて96歳11ヶ月という最年長先発投手となった。浜崎は3回2/3(4回の2アウトまで登板)したが、21人の打者に対して8本の被安打、5失点(自責点も5点)で敗戦投手。一方の湯浅は4回を投げて勝ち投手にはなれなかったが19人に対して2本の被安打、2失点(自責点も2点)と好投した。
敵地での主催ゲーム[編集]
1999年6月11日からはダイエーの本拠・福岡ドームでダイエーとの3連戦をオリックスの主催ゲームとして開催した。これは神戸が屋外球場なので梅雨時の試合消化が難しくなることを懸念し、ダイエー側の許諾を得て福岡ドームで主催ゲームを開催することになった。しかしベンチのスペース上、主催のオリックスは三塁側、ビジターのダイエーは一塁側と通常のダイエー主催ゲームと同じ配置だった。また、当時ダイエーの監督だった王貞治は、「(本拠地でビジターとして試合しようとも)とにかく勝てばいいんだよ」と、珍事には動じていないことを強調した。13日には試合途中で控えの内野手を使い切ってしまったため、外野手のイチローが三塁を守るというハプニングもあった。イチローが公式戦で外野以外のポジションを守ったのはこの時だけである。
オリックスのホームゲームであるにもかかわらず観客の大半がダイエーを応援し、ダイエーが勝った試合終了後には花火の打ち上げとヒーローインタビューが行われるなど、ダイエーのホームゲームと変わらない球場の雰囲気だった。ただし、観客動員は3試合ともホークス主催の同球場同カードより1万人程度低く、観客動員の当ては外れた形となった。
これより10年前、1989年にダイエーは当時親会社のヘッドオフィスがあった神戸を準本拠地として主催試合を開催することを計画していたが、兵庫県をフランチャイズとしているオリックス(当時)と阪神の許諾を得られなかった為に実現に至らなかった過去の経緯から、同年オリックス主催のダイエー戦13試合(うち2試合中止で西宮に代替)を神戸で開催した。
契約金ゼロの新人選手[編集]
2000年~2002年のドラフトで契約金を出来高制とした“契約金ゼロ”の選手を入団させ話題になった。これはドラフトの時点ではドラフトにかかるには一歩足りないと思われる選手を入団テストの上でドラフト指名して二軍で育成し、その後一軍登録日数が一定に達するなどの条件で出来高として契約金相当額を支払う、という現在の育成選手制度に近いものであった。2001年に北川智規が先発投手として数試合に登板したほか、2002年には高見澤考史が一軍に定着し、出来高を受け取っている。しかし北川はその後一軍に定着できず、高見澤は故障に泣き、どちらも2004年までに自由契約となった。
その他の選手はほとんど一軍で戦力になることはなく、中島俊哉(現在は楽天)以外は2005年までにプロ野球を去っている。なお、この時入団した選手は前述の高見澤、北川、中島の他、高橋浩司・庄司大介(以上2000年入団)、板倉康弘・深谷亮司・藤本博史・橋本泰由(以上2001年入団)、塩屋大輔(以上2002年入団)である。開田博勝のように契約金ゼロでの指名ということを事前に伝えておらず、入団拒否に至った例もある。
結局「契約金ゼロ枠」の選手がほとんど活躍していないこともあり、2003年秋から05年まで常務GMを務めた中村勝広が「夢や憧れだけで入団させることは本人やチームのためにならない」とし、同年から廃止された。以降、育成選手も梶本達哉のみしか指名されておらず、怪我などで育成枠に降格する例としては宮本大輔などがいたが、育成枠自体があまり積極的に活用されることはなかった。しかし、近年はフレディ・バイエスタスなどの外国人を育成枠で獲得し、2011年度のドラフト会議で稲倉大輝・柿原翔樹が育成枠指名された。
・最多失点・最多失点差敗北[編集]
2003年、対ダイエー戦で2回も大量失点試合を喫した。まず7月26日に福岡ドームで7-26・続いて8月1日にヤフーBBで1-29と大敗を喫した。後者は2リーグ分立以降の1試合の最多失点・最多失点差敗北の記録となってしまった。因みにこの年は他にも6月17日に盛岡で11-21・9月14日にヤフーBBで11-20で敗れており、同一カードでの20失点以上を4試合もしてしまったのは日本プロ野球史上ワースト記録である。
ベースボール・モンキー[編集]
2006年、ボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」がやってきて、審判にボールを手渡すという、当時広島やロッテがファンサービスの一環で行っていた「ベースボール・ドッグ」に対抗した「ベースボール・モンキー」を導入した。
しかし、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、同年限りで引退。
大阪・神戸とオリックスの今[編集]
オリックスは1991年 - 2004年まで神戸を本拠としており、1995年の阪神・淡路大震災以後、復興のシンボルとして注目を集めた。2005年に近鉄と合併してからは大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)との併用となり、年間30試合程度に試合数が削減されたが、やはり神戸のチームという印象が根強く、観客動員の面でも神戸での試合が大阪よりも比較的よく入っていたというデータがあった。また、震災10周年の2005年は、神戸と東京での主催試合では「がんばろうKOBE」のロゴを入れたワッペンをつけて試合に臨んだこともあった。
前述のように2007年に事実上京セラドームに一本化(協約上は2008年度以後)され神戸を含めた兵庫県での主催試合も20試合程度に削減され、2011年以降はさらにその数を減らしている。
なお、神戸はメインだった2003年から合併後の今日まで、オリックス球団が管理許可制度の下で球場の運営を行っている。このことも年15試合以上公式戦を開催する要因にもなっている。
東京での主催ゲーム[編集]
ブルーウェーブ時代の2004年、現在のフランチャイズが確立してから関西に本拠地を置く球団としては初めて東京都(東京ドーム)で主催公式戦・対北海道日本ハムファイターズを開催した。これは前述の福岡ドームでの件とは違い、これまで同地を本拠としていた日本ハムが札幌ドームに移転したために伴うものと、オリックスが会社設立40周年を迎えたことを記念して、現在のオリックスの本社がある東京で主催ゲームを開催することにしたものである。
2006年は専用球場を一時的に神戸にした関係上、東京ドームでの主催ゲームはなかったが、その年以外では2009年まで毎年「オリックスグループお客様感謝DAY」と銘打ち、オリックスグループの社員と取引先の顧客を無料で招待する試合として、リーグ戦期間中の週末の2試合を利用して開催した。
対戦相手は、バファローズとなった2005年も2004年に続いて対日本ハム戦を行った。2007年は対西武ライオンズ戦2試合を開催。ちなみに西武が東京ドームでパ・リーグのチームと試合をするのは、日本ハムが北海道に移転する前の2003年以来で、2008年は対千葉ロッテマリーンズ戦2試合、2009年は対東北楽天ゴールデンイーグルス戦2試合が行われたが、福岡ソフトバンクホークスとのカードは開催されていない。東京ドームでの主催試合の通算成績は5勝5敗である。
2010年以降は開催されない。なお、2010年のオリックスグループの社員と取引先の顧客を招待する試合は、3月30日、3月31日に行われた日本ハム主催試合のビジターゲームにて行った。
10者連続安打[編集]
2010年6月7日、対広島東洋カープ戦4回戦(福山市民球場)の6回表1死1塁、坂口智隆の二塁内野安打から荒金久雄、後藤光尊、T-岡田の3者連続タイムリーに北川博敏の3ランで打順一巡の猛攻。坂口の左前打までプロ野球新記録となる1イニング最多連続打席安打、前身の阪急時代の9者連続安打を抜く10者連続安打を達成した。しかし、奇しくも同日の15分前に千葉ロッテマリーンズも同記録を達成しており、タイ記録扱いとなった。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
オリックス | 2 | 0 | 1 | 5 | 0 | 8 | 1 | 4 | 0 | 21 |
広島 | 0 | 3 | 1 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 1 | 10 |
- 10者連続安打詳細(括弧内は得点)
- 坂口:二安
- 荒金:左二 (1)
- 後藤:左安 (1)
- T-岡田:右安 (1)
- 北川:右本 (3)
- 日高:中安
- 一輝:右安
- 喜田:中安
- 大引:中安 (1)
- 坂口:左安 (1)
放送[編集]
テレビ中継[編集]
地上波[編集]
- 関西地区・兵庫県
- NHKプロ野球(NHK大阪放送局)
- スーパーベースボール(ABCテレビ)
- プロ野球中継(関西テレビ)
- サンテレビボックス席(サンテレビ)※兵庫県
阪急時代は同じく阪急電鉄が大株主であった関西テレビとの結びつきが強く、土曜・日曜のデーゲームを中心に数多くの試合を放送していた。オリックス・ブルーウェーブへの改称後は、毎日放送[3]が多数の中継を担当した。現在はABCと関西テレビで、対阪神の交流戦と、それ以外の月数試合深夜での録画放送が行われるのみである。読売テレビ・テレビ大阪は系列局への裏送りが中心。
サンテレビはオリックス売却後はナイター中継中心となったが、阪急時代は阪急電鉄・阪急百貨店の筆頭提供で、デーゲームを放送する事もあった。現在でも対阪神の交流戦のほか、阪神戦がない日や、中継権獲得不可能な阪神の試合(主に東京ドームの対巨人戦)の裏カード時などに年数試合完全生中継が行われる。
- 全国
- NHKプロ野球(NHK)※一部デーゲーム
2005年まで(パリーグ同士の対戦については2004年まで)はフジテレビ系列(関西テレビが株主である関係で年1試合のみナイターの全国生中継が行われていた)、2006年まではテレビ朝日系列、2007年までテレビ東京系列でも全国中継していた。ほか、1989年-1990年代末期まではTBS系列でも放送されていたり、対巨人のオープン戦に限り日本テレビ系列で放送されたが、いずれも現在は放送していない。
韓国[編集]
イ・スンヨプとパク・チャンホの韓国人選手が加入した2011年から韓国SBSテレビが主催ゲームの放映権を獲得し、スポーツ専門チャンネル「SBS CNBC」にて放映されることとなっている。
衛星放送[編集]
- BS
- NHKプロ野球(NHK BS1)※2008年からは対巨人戦も放送
- スーパーベースボール(BS朝日)※交流戦の対巨人戦のみ
- J SPORTS STADIUM(J SPORTS系・2012年まで)
- どのチャンネルで放送するかは特に決まっておらず、空いているチャンネルで適宜放送。(主に中日戦の中継がない日のJSPORTS2での放送が多い)J SPORTS系以外の下記チャンネルの枠で放送する場合もある。
- FOX SPORTS ジャパン(2013年より)
- CS
- J SPORTS STADIUM
- アクティブ!ベースボール(スカイ・A sports+、GAORA)
CS放送は球団とJ SPORTSが制作著作権を保有。関西テレビ放送の関連会社メディアプルポ・エキスプレスが共同で制作協力している。パ・リーグTV向けの映像はCS向けと同一内容。
ラジオ中継[編集]
- NHKプロ野球(NHK大阪ほか各局。時折全国中継も実施)
- ラジオ関西ジャイアンツナイター(ラジオ関西)
- 対巨人戦中心。オリックス戦は対巨人の交流戦(RFラジオ日本主管制作で『ラジオ日本ジャイアンツナイター』と同時放送)等年間数試合のみ。
- 予備カードで放送(他地方局への裏送りとして制作される場合もある)。
- 対阪神の交流戦の他、阪神戦の開催がない日(雨天中止、もしくは移動日)にホームゲームが開催される場合、中継を行うことがある(ただし、デーゲームと月曜ナイターは、原則として交流戦の対阪神戦のみ)が、時期によっては全国放送のナイターを優先することもあり、対応はまちまちである。予備待機については、ビジター側の放送局の自主制作有無に関係なくアナウンサーを配置する。
- ホームゲームであってもJRN・NRNの予備順位に準拠しており、交流戦の対阪神戦や、聴取率調査期間における例外を除けば、原則として全国放送カードとなった日にしか中継されない(6月までの土・日は全国放送であっても自社での放送がない裏送りとなる事がある)。ただし阪神戦の開催がなく、かつ全国放送カードが巨人戦以外である場合(主にパ・リーグ公式戦のみ開催時)には自社で中継することもある。なお、ビジター側の放送局が自主制作する場合は、予備カードとしての実況もそちらに委託する事がある。
- ビジター戦を中心に中継
- 「オリックス×日本ハム」をナイターのみ中継。2012年までの一時期は年間数試合程度中継(全国放送時、開幕戦、聴取率調査期間、夏の高校野球期間中の試合、終盤の優勝・CS争いのかかった試合のみ)だった。放送する場合も原則としてABCやMBSからの本番カード受けまたは裏送り形式。
- 「オリックス×日本ハム」を全試合中継。原則としてABCやMBSからの裏送り形式。(聴取率調査期間を中心に自主制作の場合もある)
- 「オリックス×楽天」を年間数試合程度中継(全国放送時、開幕戦、夏の高校野球期間中の試合、終盤の優勝・CS争いのかかった試合のみ)。放送する場合も原則としてABCやMBSからの裏送り形式。
- 「オリックス×西武」が平日にナイターとして行われる場合に中継。自社スタッフの乗り込み形式(ABC技術協力)。
- 「オリックス×西武」が日曜に行われる場合に中継。自社スタッフの乗り込み形式。
- 以上「オリックス×ソフトバンク」を全試合中継。以前は自社スタッフの乗り込みも行っていたが、現在は原則としてABCやMBSからの裏送り形式のみ。
- 阪急時代の1979年 - 1988年には、福岡県を本拠地とする球団がなかった関係上、平和台野球場や北九州市民球場(当時:小倉球場)で主催ゲームを行う事があり、その際にはRKBやKBCが予備待機及び全国中継を制作することがあった。
- 以上「オリックス×中日」(交流戦)を中継。両局とも基本的にABCやMBSからの裏送り形式で中継するが、予備からの昇格の可能性が皆無に近い場合は、実況アナウンサーのみCBCや東海ラジオから派遣されることがある。また、CBCは自社スタッフが乗り込んでの中継を行ったこともある。(曜日により、ABC・MBSのどちらかが技術協力)
- かつてナゴヤ球場・ナゴヤドームでオリックス主催ゲームが行われた際、CBCや東海ラジオが予備待機及び全国中継を制作した事があった。
- 「オリックス×広島」(交流戦)を中継。該当カードは曜日及びネットワークにかかわらず全てABCからの裏送り形式で中継。ただし全国放送で広島の関与しないオリックス主催試合をネット受けする場合、水曜と木曜はMBS制作のものを放送する。
応援番組[編集]
- テレビ
- 阪神間・大阪市内をサービスエリアとする、ケーブルテレビ局ベイ・コミュニケーションズが制作。同局およびジェイコムウエスト傘下の関西地区ケーブルテレビ各局にて放送。
- ラジオ
- 2010年4月5日より放送。毎週月曜日19:30-20:00
過去の放送番組[編集]
- テレビ
- パリーグアワー(関西テレビ)
- ブレーブスレポート(関西テレビ。阪急時代に放送)
- オリックスアワー(関西テレビ。1989年。月・水・金曜の7:40 - 7:45に放送)
- 週汗(しゅうかん)オリックス(サンテレビ)
- ラジオ
脚注[編集]
関連書籍[編集]
- 阪急時代の歴史をまとめたもの
- 阪急ブレーブス五十年史(1987年1月、阪急ブレーブス・阪急電鉄株式会社編、阪急ブレーブス発行)…国立国会図書館の所蔵情報
- 阪急ブレーブス黄金の歴史 1936→1988 よみがえる勇者の記憶 永久保存版(2011年5月、ベースボール・マガジン社発行)ISBN 9784583617756
- オリックス時代の歴史をまとめたもの
- オリックス20年 History 1989-2009よみがえる青い記憶(2009年9月、ベースボール・マガジン社発行)ISBN 9784583616193
関連項目[編集]
- 神戸アスリートタウン構想
- ブルーサンダー打線
- ミックスモダン打線
- オリックス・バファローズの選手一覧
- オリックス・バファローズ主催試合の地方球場一覧
- 松下進 - 球団マスコットであったネッピー・リプシーのキャラクターデザイン担当者。
- 大前一樹 - シニアビジュアルプロデューサー。『J SPORTS STADIUM』オリックス戦中継の番組プロデューサーで、自ら実況も務める。
- 大阪産業大学 - 2008年より、教育に関する連携協定を締結。
- 摂南大学 - 2011年より、教育に関する連携協定を締結。
- オリックス・バファローズの応援団
外部リンク[編集]
- オリックス・バファローズ
- オリックス・バファローズ(@Orix_Buffaloes)- Twitter
日本プロ野球 | |
---|---|
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ |
東北楽天ゴールデンイーグルス 埼玉西武ライオンズ 千葉ロッテマリーンズ 福岡ソフトバンクホークス オリックス・バファローズ 北海道日本ハムファイターズ |