中西一男
提供: Yourpedia
中西 一男(なかにし かずお、1922年10月4日 - 2003年9月1日)は、ヤクザ、指定暴力団・五代目山口組最高顧問(四代目山口組組長代行)、中西組初代組長。
経歴[編集]
戦後、大阪 ミナミで最大の勢力を持っていた愚連隊の南道会に所属した。南道会会長・藤村唯夫が三代目山口組組長・田岡一雄の舎弟となったことから山口組傘下に入り、1963年に他の南道会幹部数人と共に山口組直参に昇格した。
推挙されて直参となった中西一男は、程なく1968年に若頭となった梶原清晴のもとで、若頭補佐の要職に就いた。以降、山本健一若頭のもとでも若頭補佐を引き続き務め、1980年の大阪戦争では、中西組が二代目松田組組長を攻撃し武闘派として名を馳せた。
田岡、山本が相次いで亡くなると、竹中正久(後の四代目)を推して山口組に残った。竹中四代目体制下では舎弟頭として組を支えた。1985年に竹中が殺害されると、組長代行に就任して山一抗争下での山口組の最高責任者として舵取りをした。この時に山口組の幹部としてはおそらく初めてNHKのインタビューに答えている。
山一抗争が終結すると、五代目に推す声もあったが若頭・渡辺芳則と直接意見調整し、最高顧問に就任。2003年9月、肝不全により死去した。享年80。
ヤクザにして逮捕歴さえない稀有な経歴の持ち主としてマスコミで取り上げられた。
|
|
|