慶應義塾大学
慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語:Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は慶應・慶大(けいだい)など。主な卒業生は松田恒尚、足立文治など。
目次
[非表示]概観[編集]
大学全体[編集]
慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に1858年(安政5年)に開校した蘭学塾を起源に持つ大学である。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾」等旧私塾の流れを汲む。1863年(文久3年)には蘭学塾から英学塾に改めて、旧幕臣・吉田賢輔等を教授に迎え、1868年(慶應4年/明治元年)前年に木村摂津守の世話により、芝新銭座(現在の港区浜松町)の有馬家控屋敷跡に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた。なお、「義塾」とは英語の「public school」(共立学校)の訳語とされ、このとき、中津藩江戸藩邸の蘭学塾から近代私学としての一歩を踏み出した。まもなく、1866年(慶応2年)に親藩・紀州徳川家の藩命を受けて紀州藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は越後長岡藩・紀州藩・中津藩(慶應義塾の三藩)を中心とした士族が十中八九であった。1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設。同年10月には分校「大阪慶應義塾」・「京都慶應義塾」(京都集書院)を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた「適塾」(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大坂とのゆかりが深い。1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設、1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所を開校・運営、同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正微兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に「藍謝堂」(高島学校)、「高山歯科医学院」、「耕余義塾」、「亮天社」、「三田英学校」等がある。1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設。明治31年に政治科を開設。1917年(大正6年)大学部に医学科を開設して付属大学病院を開院、北里柴三郎が尽力。1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し、文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学となり、予科・大学院を付設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として慶應義塾評議員会が設けられた。1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとした事があり(獣医畜産専門学校)、1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。1944年(昭和19年)に「藤原工業大学」が寄附され工学部を開設。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部・環境情報学部を開設。2008年(平成20年)4月に「共立薬科大学」が合併したことにより、新たに薬学部と薬学研究科を設置して、大学は10学部、大学院は14研究科となった。卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、政変の後、漸次に経済人・実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した。
塾訓・目的[編集]
慶應義塾には、「慶應義塾の目的」という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝・紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を元に、福澤自身が書き直したものである。内容は以下の通り。
- 慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず
- 其目的は我日本国中に於ける気品の泉源智徳の模範たらんことを期し
- 之を実際にしては居家処世立国の本旨を明にして
- 之を口に言ふのみにあらず躬行実践
- 以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり
- 以上は曾て人に語りし所の一節なり 福澤諭吉書
この一文は、福澤諭吉が門下生たちに「恰も遺言の如くに」托したもので、慶應義塾の真に目的とするところを最も簡明に言い表したものと解されている。
また慶應義塾では、「独立自尊」を教育の基本に置く。これは、「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」などと説明されている(修身要領第2条)。独立自尊という言葉は、福澤諭吉の人となりを端的に示すものとされ、また、福澤の教えの根本を言い表すものともされる。
教育および研究[編集]
尾張屋清七版芝愛宕下絵図]]
- 綱領
- 「義塾」の「義」は社会公共のため協力して事を行う。という意味があり、これを念頭に置いている。大きな柱は「医療」と「研究」である。蘭学から適塾、慶應義塾医学所、北里柴三郎による伝染病研究所、北里研究所、満鉄衛生研究所までの歴史を汲む慶應義塾伝統の学問に立脚する医学は今日、ハーバード大学医学大学院と1890年(明治23年)以来の長年の研究リンクを持ち、伝染病研究所を母体とする歴史を持つ理化学研究所と連携・協力を行っている。終戦後は旧中島飛行機株式会社青年学校へ基礎学科の研究室を約十年間移し、研究活動を行っていた(のちの武蔵野分校)。グローバルCOEプログラム取得や慶應医学賞設立も行っている。大学部時代の各学科の特徴としては、『四書五経』などの研鑽を積んだのち、数学を基礎学とした有形学から入って、無形の学へ進む編成が成されており、この伝統は当世の各学問分野においても根付いている。実学の精神である、「実証に基づく理論的、合理的な科学(サイエンス)」(窮理図解)や「自我作古」の精神等から伝統的な学術研究に加え、医療、産官学連携や知財活動などを通した研究を行っており、科学研究費補助金は全体の10%に過ぎない。なお、上海交通大学によると、2010年度「総合201-250位(日本10位・私大1位)」「THE-QS World University Rankings」アジア版によると、2009年度「アジア20位(日本10位・私大1位)」、「ゴーマン・レポート (The Gourman Report)」によると、医学分野で「全世界17位(日本1位)」、パリ国立高等鉱業学校によると、2007年度「全世界11位(日本2位)」であった。トムソン・ロイターが発表した論文の引用動向からみる日本の研究機関ランキング(1999年 - 2009年)では、被引用数で国内13位。ISI-トムソン・サイエンティフィックの論文引用度指数は材料科学分野で日本国内1位(2004年 - 2008年)。分子生物学、遺伝学、精神医学、心理学、人文社会科学の各分野がトップ10入り(2002年 - 2006年)する他、高被引用論文では神経科学、臨床医学、生物学・生化学の各分野がいずれもトップ7以内に位置している。「特許資産規模」では国内の大学・研究機関で4位に位置している。戦前には枢密顧問官へ定期的に器量人を輩出、昨今は日本人宇宙飛行士を2名輩出している。文系では、その他官公私立大などが行うマスプロ教育を忌避しており、ゼミナールを中心とした少人数教育を一貫して追求している。
- 兵法
- 慶應義塾では新銭座時代から心身共に健康を保つ手段として学生の体育を奨励し、1892年(明治25年)の體育會創設によって専門家を雇って指導に当たらせた。初めは乗馬が主であり、1878年(明治11年)から剣術稽古が始まり、明治27年には神道無念流の根岸信五郎を師範に招いた。のち柔術、端艇、陸海軍操練、弓術、徒歩の各部が加わった。明治29年徴兵令適用により学校に兵式訓練が課せられるに至るが、これより先に慶應義塾では兵式操練が行われており、1892年(明治25年)12月、大日本帝国陸軍(旧陸軍)から銃剣その他兵器の払い下げに特別の便宜を与えられ、1893年(明治26年)夏頃までには「慶應義塾生徒隊」を結成し、1894年(明治27年)春東京府下で初めて発火演習を行った。なお、1898年には陸軍の軍旗(旭日旗)を製作している高級軍装品店より特別の許可をもってこれを購入。旭日旗自体はそのままに、竿頭は塾章であるペンマーク(軍旗では菊花紋章)に、房を浅葱色(常備歩兵連隊の軍旗では紫色)に変え、さらに福沢諭吉によって「慶應義塾生徒隊」の文字が書かれ(軍旗では連隊の隊号を記入)、翌1899年3月15日に福沢別邸において隊旗授与式が行われている。昭和12年には「慶應義塾特設防護団」が組織され、昭和14年には上海に研究所、北京に公館を創立。中国、南洋への学生研究旅行団が派遣され、昭和16年には帝都学校報国隊結成などを見、卒業年限の短縮が実施された。日露戦争では帝国軍人援護会を支援し、第二次世界大戦に突入すると学生は学窓を離れて工場・農村に生産増強の勤労奉仕に挺身し、表彰を受けた。
- 塾生皆泳
- かつては全学部学科において水泳が必修科目であり、「塾生皆泳」なるスローガンのもと、水泳で50メートル泳法ができないと単位を取得できず、シーズンスポーツで水泳を選択することが義務付けられていた。複数の卒業生が、自著や対談の中で単位を取るのに水泳の特訓をしたと回想している。海軍軍人の長男(小泉信吉)を戦争で失った経験から小泉信三がこのような制度を作ったとされている。また、かつては体育実技において複数の競技が必修となっており、男子学生の場合、武道、球技、水泳(上記)、陸上競技を半期の内に大学の定めたローテーションに従って受講する必要があった。このような高校式の体育の授業を行っていた総合大学はきわめて珍しい。
- 旧海軍地下壕
- 戦中の様子を窺うことのできる重要な資料として、大日本帝国海軍(旧海軍)との間には深い関わりがあり(当時の塾長は小泉信三)、1944年3月に軍令部第三部が日吉校舎に入ると、次いで寄宿舎に連合艦隊司令部が、後に海軍省・航空本部・艦政本部の地下壕が構築され、日吉は実質的な海軍の中枢となった。太平洋戦争(大東亜戦争)における、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦、大和 (戦艦)の出撃命令などは全てこの日吉台地下壕から発せられたものであった。この経緯としては、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発すると、大学内でも配属将校はもちろん、特別高等警察(特高)が来るようになる。授業では自由主義や共産主義は厳しく弾圧され、国防論などの軍国主義的な講義が増え、教練も次第に厳しくなっていった(慶應義塾は当時の小泉信三塾長などが学究的に共産主義に不協和なスタンスをとったため、特高などによる監視はそれほど厳しくはなく、塾生は比較的自由に学問に取り組むことができた)。海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、横須賀軍港から近いことや、空襲避難に優れていたこと、各海域からの無線の受信状態や陸からの指揮統制システムに優れていたことなどが挙げられる。また、初代塾長岡本周吉(幕府海軍艦長)らが海軍兵学校の教官を務めたほか、明治期の卒業生は海軍関係者も多く、築地の海軍兵学寮や海軍主計学校に転じた者も多い。
学風および特色[編集]
カリキュラム制定をはじめとする近代的教育システムのほとんどを日本で最初に導入した学校として知られている。慶應義塾大学では、日本の学校で最初に定額の授業料を納入させたのは慶應義塾でありこれは福澤諭吉の発案である。また、古来日本の風習には無かった演説を初めて取り入れ、明治8年には日本最初の演説会堂三田演説館が建てられた。
沿革[編集]
略歴[編集]
- 慶應義塾の成立
18世紀後半の中津藩江戸藩邸では、第3代藩主奥平昌鹿の下で本草学や蘭学研究が行われ、明和8年(1771年)には青木昆陽の門人である藩医・前野良沢が中川淳庵、杉田玄白と『解体新書』の底本となった解剖学書『ターヘル・アナトミア』の解読を始めたのは、この中屋敷内であった。その同じ中屋敷内に80年余を隔て成立した蘭学塾が慶應義塾の原点である。その後藩主が変わり、中津藩では主に国学・漢学が重視されており、幕末の藩政改革では長崎の警備を任ぜられ、三重津海軍所を設置した鍋島閑叟侯の肥前藩や薩摩藩といった西南の雄藩からは立ち遅れた状況にあった。
幕末の中津藩江戸藩邸では、当主・奥平昌服が江戸汐留の上屋敷に居住し、祖父で薩摩藩島津家より養子に入った奥平昌高が中屋敷に隠居所を構えていた。昌高は蘭癖大名と評されていたが、単なる物好き程度ではなく、日蘭辞書『蘭語訳撰』(『中津辞書』)の刊行に尽力するなど本格的な蘭学研究者であった。その影響があってか、のちに統計学者として有名になる杉亨二が中津藩に招かれ、中屋敷において藩士に蘭学教授を行っていた。ところが、1853年(嘉永6年)のマシュー・ペリー黒船来航による米国の開国要求に対する江戸幕府の諮問をめぐって、昌高が7月に開国論を、翌月当主の昌服が鎖国論を上申したことで、藩内における両派の対立が明らかになり、杉の辞任騒ぎを引き起こした。このとき、中津藩砲術師範を務めていた佐久間象山のもとで西洋砲術を学んだ中津藩士・岡見彦三は、蘭学教育の継続を強く望み、知人の薩摩藩蘭医・松木弘安(のち寺島宗則)に、安政2年の大地震(安政の大地震)で失った住居の代わりとして、岡見所有の築地小田原町の持ち屋を無償で貸すことを条件に、蘭学教授を依頼した。しかし、安政4年4月になると、松木は参勤交代による藩主の就国に侍医として随行することになり、教授を続けることが出来なくなった。そこで当時大坂の適塾で塾長を務めていた福澤諭吉に白羽の矢が立ち、福沢は藩から江戸での蘭学教授を命ぜられるに至ったのである。現在、開塾の地の近くには創立100年を記念して、『慶應義塾発祥の地記念碑』が建てられている。
- 前期鉄砲州時代
1858年(安政5年)、中津藩より江戸築地鉄砲州(現・東京都中央区明石町)にあった中津藩中屋敷内での蘭学教授を命ぜられた福澤諭吉は、塾長として蘭学を学んでいた適塾がある大坂から、早速中津に戻り母に報告、大坂に戻って助手を務める同行者を求め、岡本周吉(古川正雄)・足立寛・原田磊蔵らと共に同年10月中旬、江戸に到着した。福澤の書簡(安政5年11月23日付宛名未詳)によれば、当初は3、4年の任期と心得ていたようである。汐留の上屋敷に出向いた福沢は、江戸定府の藩士・岡見彦三の支持で中屋敷の長屋を与えられ、そこで蘭学を教えた。足立寛や今泉みねの回想によると、長屋は二階建てで一階は六畳一室と台所など、二階は15畳ほどであったという。開塾当初の協力者は、村田蔵六(大村益次郎)の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介、久留米藩医・松下元芳、中定勝(大阪府仮病院医員)、山口良蔵などやはり適塾に連なる人物が多い。
- 福澤諭吉の渡航
安政6年(1859年)の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号 で渡米することとなり、軍艦奉行木村摂津守の従者として、咸臨丸で渡米。二度目は竹内下野守を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日(1862年1月30日)、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には松木弘安・箕作秋坪。慶応3年(1867年)には使節主席・小野友五郎と共に幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米。この間、中津藩士・島津祐太郎宛の書簡で、大量に英書や物理書を塾に持ち帰ったため、塾生が同じ版本を持って授業が受けられるようになり、それまでの教授法にも新紀元を開くに至った。
- 前期新銭座時代
文久元年冬から同三年秋までは芝新銭座(現東京都港区浜松町)の借家に塾が置かれていた。この塾がいつ築地鉄砲州から移転したかについては足立寛の回想にもはっきりしない。福沢は既に江戸定府の中津藩士となり、江戸幕府の外国方にも出仕しており、この時代は藩命による塾教師から本格的な学塾経営者への移行期と捉えられている。入門帳(入社張)の記録がはじまったのは、文久3年(1863年)の春からである。
- 後期鉄砲州時代
文久3年秋から1867年(慶応3年)末まで中屋敷内旧藩主隠居所に塾が置かれていた時代をいう。文久3年9月23日に幕府より諸藩へ、出府藩士の江戸市中住居禁止命令が出され、これを受けて福沢も藩邸内に戻ったと推測される。この移転について『福翁自伝』には何も経緯が記されておらず、格式を重んずる中津藩としては幕府に出仕する身とはいえ、旧藩主の隠居所を許可するとは考えがたく、藩側に貸与を進める意図があった。この時代の学塾運営は、英国の公立学校を参考に、中津へ帰郷し小幡篤次郎、小幡甚三郎、服部浅之助、小幡貞次郎、浜野定四郎、三輪光五郎らを連れ、横浜の外字新聞の翻訳、諸藩から依頼の翻訳、仙台藩の大童信太夫を通じた奥羽越列藩同盟との関係などが見て取れる。また、幕府の開成所から移ってきた永田健助によるとこの頃の塾の蔵書は「経済、修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史の類一と通り備わり、ウエブスター大字典の如きも数十部もあった」といい、幕府の学問所と同等の水準があった。
- 紀州塾
後期鉄砲州時代に、紀州藩から藩命を受けて同藩が建築費用を負担して設けた塾舎。藩の有力者岸嘉一郎が鉄砲州時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り。和歌山藩の入塾生は元治元年九月入塾の臼杵鉄太郎を最初とし、慶応元年三名、慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも紀州徳川家第15代当主徳川頼倫は三宅米吉、英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授)、米国人のウィリアム・S・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修め、鎌田栄吉(のち塾長)からは精神的な薫陶を受けている。また、維新後の和歌山における慶應義塾を範にとった変則中学の展開や、中井芳楠・長屋喜弥太が創設した私塾自修社(後の自修学校)、同地の義田結社「徳義社」の結成など、紀州藩との密なる関係がみてとれる。
- 後期新銭座時代
慶応4年1月から明治3年末までの再び芝新銭座に塾が置かれた時期をいう。塾舎は前期とは異なった場所で、新に越前丸岡藩有馬家の土地四百坪を購入した。慶応3年6月に鉄砲州一帯が外国人居留地に指定され、木村摂津守とその用人大橋栄二の世話で有馬屋敷を購入することができた。慶応4年には元号をとって『慶應義塾』と命名。同年四月頃までに奥平屋敷の長屋をもらい受け、約百五十坪の塾舎を四百両ほどの費用で完成した。授業は既に七曜制を用い、教科も(修心論・経済・歴史・地理・窮理・算術・文典)などを設置、「数理」を基本とした授業体系を確立した。1865年(慶応元年)頃の塾生数を示すものとしては、同年6月6日に入塾している立田革の懐旧談にて、『私の出府当時の江戸の洋学界は、芝新銭座江川塾(江川太郎左衛門)・下谷箕作塾(箕作家)其他二三あれど、生徒の数は大抵二三人多くも五六人、義塾は二十二三人の塾生あり、先づ江戸にて一等盛な洋學塾と評して差支ない。』とある。入塾生の傾向からみて、元治元年までの入塾生数がごく少なく、尚且つ九州出身者がその七割を占めるといった傾向を示していたのに比較して、この頃は入門者も月平均四・三八人となり、藩別にみても九州の比率が相当低くなってきている点などから推察すると、この頃から既に慶應義塾は江戸では最大の洋漢學塾の観を呈し始め、九州出身者中心の塾といった傾向から、全国的學塾に移行した。
- 三田移転
福沢が発疹チフスに罹ったことから明治4年初頭から三田へ移転を開始。三田は島原藩邸のあった広壮な地域で、これまで新銭座を中心として奥平屋敷や吉田賢輔の上杉麻布邸、柏木忠俊の斡旋による江川太郎左衛門長屋や、その他寺院などに分散していた宿舎を一つに統合できた。在学生323名、東京府下における最大の私塾となった。移転後芝新銭座の校地を近藤真琴の攻玉塾へ譲り、現在は『福沢近藤両翁学塾跡』(港区浜松町)の碑が立っている。明治6年5月、慶應義塾を訪れた福山藩の藩儒江木鰐水も「塾本、島原公邸、在三田、地勢高爽、前臨品川海、砲台在目前、右望品川後之山、左望江戸諸勝、皇居亦左近、(中略)而与諭吉氏登楼並講堂之楼、皆勝景、眺望雄豁美麗」と嗟嘆している。
- 医学教育
新銭座時代から慶應義塾医務部が既に設けられており、薬品や医学者を揃えた。近藤良薫(のちの横浜十全病院長)・安藤正胤、印東玄得(のちの大学東校教授)・田代基徳(のちの軍医医監、陸軍軍医学校長)・栗本東明(長崎病院眼科医長兼内科医長)といった医学者を育てている。
年表[編集]
- 1796年 - 豊前国中津藩第5代藩主、奥平昌高が藩校・「進脩館」を設置。
- 1838年 - 足守藩士・緒方洪庵が大坂船場で「適々斎塾(適塾)」を開く。
- 1839年 - 松代藩士・佐久間象山が神田 (千代田区)お玉ヶ池に「象山書院(五月塾)」を開く。
- 1853年 - 黒船来航
- 1855年 - 佐久間象山門弟の中津藩江戸留守居役・岡見彦三清熙が藩邸内に「蘭学所」を設置して、杉亨二、松木弘安(寺島宗則)らを招聘。
- 1858年 - 安政の大獄。福澤諭吉が江戸築地鉄砲洲の中津藩江戸藩邸「蘭学所(蘭学塾)」の講師として江戸出府(従者は吉川正雄、足立寛、原田磊蔵)。
- 1860年 - 咸臨丸出帆。桜田門外の変。
- 1863年 - 横浜見物を機に英学塾へ改組。
- 1864年 - 長州征伐が勃発。
- 1866年 - 紀州藩より多数の入塾生を迎え、同藩の援助を受けて中津屋敷内に「紀州塾」建築。
- 1868年 - 木村摂津守(木村芥舟)の世話により芝新銭座に移転、「慶應義塾」と改称。「適塾」が閉鎖。塾内に病室を設置(校医の起源)。
- 1869年 - 汐留の中津藩上屋敷内に「汐留出張所」を設置。童子寮を設ける。
- 1870年 - 弘前藩の招聘で英学教師二名派遣契約。三田島原藩邸借入につき大納言岩倉具視を訪問して尽力を依頼、隣接地江川太郎左衛門屋敷の長屋を借り受けて「外塾」設置。汐留出張所を麻布龍源寺に移転。芝山内広度院に分塾設置。
- 1871年 - 芝新銭座の校地を近藤真琴の攻玉塾へ譲り、三田の島原藩中屋敷跡地へ移転。学業勤惰表(成績表)の印行を開始
- 1872年 - 藩校進脩館が閉鎖。出版局(のち、出版社)開設。
- 1873年 - 慶應義塾医学所開設。神山県よりの招請で宇和島、大洲両学校に教師二名派遣契約。学課改定、正則科・変則科を新設。正則科は修業年限7年(本科4年、予備等3年)、変則科は満17歳以上を入学の条件とし、修業年限には定めなし。明治六年政変(征韓論政変)後に土佐藩の「立志学舎」へ教員を派遣。三田藩に「志摩三商会」が設立される。
- 1874年 - 「和田塾」(のちの幼稚舎)を置く。
- 1875年 - 正則・変則両科を本科、予備とし予備を大人童子両科に区別、本科に数学、予備の大人科に算術を課す。
- 1876年 - 本科を五等に区分し、予備科大人科を単に予備科、予備科童子科を単に童子科と改称。井上良一の発案で「万來舎」設置。「協議社」「猶興社」など結成され演説、文筆活動を行う。
- 1877年 - 県令をうけて神戸商業講習所の経営を引き受ける。東京大学 (1877-1886)開設にあたって義塾出身の濱尾新を総理補に選出。西南戦争により塾生減少。東京英語学校(前・開成学校、後・大学予備門)と共に、本科第三等生徒およびそれ以上の者に対する徴兵免役の指令、東京府より出さる(明治9年11月7日東京府宛伺書提出)。教員間の読書研究会として、「読書院」発足。
- 1878年 - 三菱商業学校(明治義塾)を設置。大久保一翁、勝海舟を訪ね徳川家より義塾維持資金借用の事につき相談。剣術稽古開始。晩学生のため科外(のち別科) を設置。
- 1879年 - 官立大学化を望まず、島津氏らの旧大名に維持資金の援助を賜る。日本初の簿記教育を開始。法律科設置、帰朝したての金子堅太郎らにより英米法の夜間講義行われる(専修学校 (旧制)に改組)。支那語科開設。理学講義開始。大人科・童子科を予備科(のち予科)と改称。
- 1880年 - 清から教師を受け入れる。「慶應義塾維持法案」発表 岡山商法講習所、大阪商業講習所の所長以下教員らに赴任。大学予備門に倣って予備科の課程を設く。「交詢社」設立。
- 1881年 - 明治十四年の政変。「慶應義塾仮憲法」制定。
- 1882年 - 物理学会創立。「時事新報」創刊。
- 1883年 - 酒井良明により「酒井寄宿舎」発足。
- 1885年 - 科外を別科と改称し、正科修業年限5ヵ年、別科4ヵ年とする。ペンの記章を付け始める。
- 1886年 - 帝国大学発足にあたって義塾出身の渡邊洪基を総長に選出。
- 1889年 - 慶應義塾規約制定。第1回評議員会開催。雑誌「文園」創刊。
- 1890年 - 大学部設置準備につき皇室より一千円下賜。大学部が発足し、文学・理財・法律の三科を設置。また大学部と区別するために従来の課程を普通部とした。雑誌「寮窓の燈」創刊。
- 1892年 - 体育会創設。
- 1893年 - 司法省指定校に選出、大学部法律学修了者に判事検事登用試験受験資格を与えられる(司法省告示第九十一号)。日本法律科を新設。この頃、別科の修業年限二年(三級)となる(従来は三年四ヵ月、五級)。
- 1895年 - 朝鮮より国王選出の南班出身少荘官吏の留学生入学。「亮天社」と講師派遣契約。
- 1896年 - 微兵に関する特典適用さる。普通科、高等科、大学部の在学生は満二十八歳まで徴集を猶予され、また右三科中いずれかを卒業した者は無試験にて一年志願の特典を得る(文部省告示第十八号)。操練部盛んとなり、銃器を整備。紅葉館にて福沢挨拶「慶應義塾の目的」とす。神奈川県耕余義塾の卒業生を高等科第三等第一期へ無試験編入の契約。普通部学科課程改正。従来の正科(本科三年四ヵ月、予科二年八ヵ月) を廃し、高等科(三年)、普通科(五年) として高等科を初級導門過程、普通科を中学課程に該当せしめ、普通科から高等科に進むものは修業年限を合計七ヶ年とし、別科はそのまま置く。
- 1897年 - 三田理財協会発会。学制改革を議決。主力を大学に集中し、大学卒業生の養成を目的とすることを決定(三十一年五月より実施)。
- 1898年 - 一貫教育制度樹立。政治科開設。『慶應義塾学報』(後の『三田評論』)を創刊。端艇部艇庫、芝浦製作所構内に竣工(三十年十一月着工)。大学部に政治科を設置。塾長鎌田栄吉の就任披露園遊会開催、広尾の福沢別邸に総理大臣伊藤博文をまじえ参加者約300名。
- 1899年 - 私学初の留学生6名を欧米に派遣。インド人、清国人、シャム人1名入学。普通学科および大学科卒業生、海軍少主計候補生の受験資格を得る(三十年勅令第三百十四号、海軍高等武官補充条例第七条)。三田篤学会発会。
- 1900年 - 「修身要領」献上、台湾人学生8名入学、特別級を設け授業を行う。中等教員無試験検定(文学科〔倫理、教育、漢文、英語、歴史〕、理財学科〔英語、簿記、歴史〕) の特典を得る。大晦日に世紀送迎会(第1回)開催。
- 1901年 - 社頭福沢諭吉死去により、全塾休学服喪。明治天皇夫妻、皇太子夫妻より見舞品下賜。皇室より祭棄料一千円下賜。
- 1904年 - 大学部文学科卒業生、中等教員無試験検定(修身、教育、英語)の特典を受く。専門学校令により大学部の学科課程を改正、文学科、理財科、法律科、政治科の四科にわかつ。修業年限は五年とし、はじめの二年は予科として一般教養を授け、三年より本科としておのおのの専攻にわかつ。
- 1905年 - 商工学校開校。海軍大将東郷平八郎の凱旋を塾長以下教職員、塾生ら新橋駅に迎う。
- 1906年 - 大学部の上に大学院設置。星亨の蔵書約一万三千冊の委託保管を引き受ける(星文庫、大正2年12月16日、13回忌にあたり寄贈)。商工学校、徴兵令第十三条の認可を受け後兵に関する特典を適用さる。
- 1909年 - 『三田学会雑誌』創刊。
- 1910年 - 『三田文学』創刊。
- 1910年 - 第三高等学校との蹴球試合を網町グラウンドにて行う(日本最初の蹴球対決試合)。
- 1912年 - 創立50年記念図書館(現図書館旧館)施工。亜細亜協会の図書約三千冊の委託保管を引き受ける。
- 1913年 - 新聞科設置。
- 1915年 - 三田大講堂施工。
- 1916年 - インドの詩人・タゴールを迎えて講演。
- 1917年 - 大学部に医学科を開設につき皇室より三万円下賜。日本初の学生新聞『三田新聞』創刊。
- 1918年 - 11月25日に原敬内閣成立を祝う、「政党内閣祝賀大園遊会」を三田大講堂で開催。原敬首相、憲政会、立憲政友会関係者ら参加者5千人超。医学部付属看護婦養成所始業。
- 1920年 - 大学令による旧制大学となり、文学部・経済学部・法学部・医学部を設置。三年制の予科を附設。大学病院開院。
- 1922年 - 専門部開設。アルベルト・アインシュタインが日本で最初の講演を三田大講堂で行う。
- 1923年 - 9月、皇后、大学病院収容の関東大震災被災者を慰問(十七日には竹田宮妃の慰問あり)。
- 1924年 - 専門部、高等試験令第八条の認定を受け、卒業生は高等文官予備試験を免除さる(文部省告示第二百九十号)。唐手研究所、食養研究所設立。
- 1925年 - 専門部の名称を高等部と改称認可。学則にも一部改正を加う。
- 1926年 - 望月軍四郎より支那研究基金設立。
- 1930年 - 第1回連合三田会大会。
- 1932年 - 創立75年記念式典、皇室より秩父宮殿下をつかわされ教育奨励を賜る。
- 1934年 - 日吉地区(現在の日吉キャンパス)を設置、予科を移転。
- 1937年 - 北里博士記念医学図書館施工。
- 1938年 - 天皇、皇后の御真影、および教育勅語謄本下賜、奉戴式挙行。学術調査団として史学科考古学班を中国大陸に派遣。
- 1939年 - 北京公館および中支研究所設立。藤原工業大学開校式。海南島学生医療奉仕隊出発。歯科医学会結成。「興亜奉公日」行事挙行。
- 1940年 - 「居常心得」訓示。
- 1941年 - 月ヶ瀬温泉治療学研究所開設。
- 1942年 - 語学研究所設置。外国語学校を開設。
- 1943年 - 学徒出陣壮行会。
- 1944年 - 獣医畜産専門学校開設。藤原工業大学(1939年設立)が慶應義塾に寄付され、工学部を設置。名誉教授制設定。
- 1945年 - 戦時教育令および同施行規則に基づき学徒隊規程制。農学研究所を設ける。GHQによって日吉キャンパスが接収される。
- 1946年 - 慶應義塾大学亜細亜研究所廃止。女子の大学入学許可。
- 1948年 - 通信教育部を設置。新制第一高等学校、第二高等学校開校。農業高等学校開設。
- 1949年 - 学制改革により新制大学となる。日吉キャンパスの接収解除、返還される。
- 1950年 - 女子高等学校開設。厚生女子学院開設。
- 1952年 - 新制大学医学部設置。
- 1957年 - 慶應義塾の創立から100周年にあたり商学部を開設。
- 1958年 - 創立100年記念式典にて、昭和天皇が「おことば」を述べる。
- 1959年 - 産業研究所開設。
- 1961年 - 大学体育研究所、大学院商学研究科設置。新聞研究所開設。
- 1962年 - ビジネススクール設置。言語文化研究所発足。
- 1965年 - 財団法人慶應がんセンター発足。
- 1967年 - 医学部創立50周年記念式典。三田演説館、重要文化財に指定。
- 1969年 - 慶應義塾図書館、重要文化財に指定。塾史資料室設置。
- 1975年 - 中等部にてユニコーン像復元。
- 1976年 - カナダ政府寄贈のカナダ講座設置。
- 1977年 - 厚生女子学院(看護専門課程)開設、専修学校となる。
- 1978年 - 大学院経営管理研究科設置。大学帰国子女入学規程制定。
- 1981年 - 工学部を理工学部に改組。
- 1982年 - 慶應義塾図書館(新館)開館。
- 1988年 - 女子厚生学院を改組して慶應義塾看護短期大学看護学科が開学(募集は平成12年度まで)。
- 1990年 - 湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を新設。
- 1991年 - 総合政策研究所・環境情報研究所・言語コミュニケーション研究所開設。
- 1994年 - 大学院政策・メディア研究科修士課程開設。
- 1996年 - 大学院政策・メディア研究科後期博士課程開設、総合政策研究所・環境情報研究所・言語コミュニケーション研究所をSFC研究所に改組。HUMIプロジェクト発足。第1回慶應医学賞授賞式。
- 2001年 - 看護短期大学を看護医療学部に改組。看護短期大学の募集を停止。
- 2002年 - 湘南藤沢キャンパスに教職課程設置。
- 2004年 - 大学院法務研究科(法科大学院)を開設。
- 2005年 - 大学院健康マネジメント研究科修士課程開設。
- 2007年 - 大学院健康マネジメント研究科後期博士課程開設。図書館蔵書デジタル化でGoogle社と提携。
- 2008年 - 学校法人慶應義塾と学校法人共立薬科大学が合併、薬学部と大学院薬学研究科を設置。同年大学院システムデザイン・マネジメント研究科と大学院メディアデザイン研究科を開設。イギリスのチャールズ皇太子が三田キャンパスを訪問。大阪市福島区中之島の再開発地区「ほたるまち」に、「慶應大阪リバーサイドキャンパス」を設置。慶應義塾創立150年記念式典にて今上天皇・皇后が臨席、天皇が「おことば」を述べる。G8大学サミット開催(北海道大学)。
- 2009年 - ダボス会議にて「東大・慶應レセプション」を開催。東京工業大学との副専攻制度、単位互換、学生交流が開始。
- 2010年 - MBA連携協定を、京都大学経営管理大学院、神戸大学大学院経営学研究科の3校で締結。東京医科歯科大学を幹事とした医学系大学産学連携ネットワーク協議会 (medU-net) を開設。
- 2011年 - 矢上キャンパスで弥生時代から奈良時代の大集落、60棟以上の竪穴式住居跡等を発掘
基礎データ[編集]
所在地[編集]
- 三田キャンパス(東京都港区)
- 日吉キャンパス(神奈川県横浜市港北区)
- 矢上キャンパス(横浜市港北区)
- 信濃町キャンパス(東京都新宿区)
- 湘南藤沢キャンパス(神奈川県藤沢市)
- 芝共立キャンパス(東京都港区)
- 新川崎タウンキャンパス
- 鶴岡タウンキャンパス
- 浦和共立キャンパス
- 慶應大阪リバーサイドキャンパス
- 慶應丸の内シティキャンパス
象徴[編集]
校歌[編集]
- 校歌は慶應義塾塾歌。
- 作詞:富田正文、作曲:信時潔。1940年に完成、翌年発表。慶應義塾関係者は「塾歌」と呼び、大学のみならず、一貫教育校(高等学校、普通部、幼稚舎など)を含め、慶應義塾社中で広く歌われている。幼稚舎の授業では塾歌が扱われるため、一貫教育校出身者のほとんどが歌えるようになるが、歌えない外部の塾生も増えてきている。式典で塾歌が必要なときは全員に楽譜が配られる。酒席などで歌われることは無いため、塾生同士の結婚式などでは、代わりに「若き血」が歌われる。
- 旧塾歌
- 現塾歌が制定されるまで使用された。作詞は角田勤一郎(塾員)、作曲は金須嘉之進による。1904年発表。
- 若き血
- 若き血(わかきち)は応援歌。作詞・作曲とも堀内敬三。1927年に発表。東京六大学野球連盟の応援では1得点挙げるごとに観客が肩を組み若き血を合唱するなど、スポーツの応援では定番の曲となっている。「塾歌よりも若き血を歌える」という塾生もいる。歌詞の最後にある「陸の王者」は藤山一郎が「りくのおうしゃ(清音)」と歌っていたことから濁らないのが正式である、と塾関係者の一部ではいわれている。しかし、ほとんどの塾生・塾員は「おうじゃ」と濁音で歌っている。なお、携帯電話の着信メロディとしてダウンロードできる。
- ダッシュケイオウ
- ダッシュケイオウは応援歌。高校野球など慶應義塾大学とは関係ない学校でも使用される機会もある。
- 慶應義塾大学應援指導部(電子音による再生)
校旗・校色[編集]
スクールカラーは紺と赤。校旗(塾旗)はペン章を含んだ二種三色の色使いであることから、三色旗とも呼ばれている。しかし実際には青と赤の2色を3段に配したもので、例えば青、白、赤のフランスの国旗のように、3色からなるものではない。明治27年11月26日に旅順口陥落の祝賀としてカンテラ行列を行った際に掲げられていたものが最初であるとされる。なお現在、大学紋章、ペンマーク、塾旗は、それぞれ特許庁に商標登録されており、慶應義塾および慶應義塾大学のサービスマークとして法的に保護されている。
紋章[編集]
エンブレムは、「ペンマーク」と呼ばれ、2つのペンを右を上にして斜めに交叉させたマークである。大学内にあるマンホールまでこのシンボルマークが使われている。1990年(平成2)年、交換留学協定校であるオーストラリア・クイーンズランド大学からの申し出をきっかけに、慶應義塾大学の新しい紋章が制定された。クイーンズランド大学キャンパス中庭を囲む回廊の石柱の一本一本には、それぞれ世界の著名大学の紋章が刻まれている。同大学の申し出とは、その一本に慶應義塾大学の紋章を加えたいというものであった。このような経緯により考案された新紋章のデザインは、ペンマークと塾旗の色調を基調として、英文大学名、義塾の創始年とペンマークの由来となった「ペンは剣よりも強し」という成句のラテン語表記“Calamvs Gladio Fortior”から構成されている。
マスコット[編集]
マスコットはユニコーン。三色旗の上に描かれたものが応援の際などに使われる。慶應義塾のアメリカンフットボール部や、バスケットボール部の愛称もユニコーンズである。かつて三田山上にあった大講堂正面玄関屋上に設置されていた。1975年(昭和50年)に大講堂取り壊し後に保存されていた一基のユニコン像が中等部卒業生の寄附を元に修復、中等部玄関に設置された。1978年(昭和53年)には慶應義塾商工学校同窓会によって復元像が一基寄贈された。
赤煉瓦[編集]
赤煉瓦は長年にわたり慶應義塾の知のシンボルとして大きな役割を果たしてきたとされている。幕末に伝来した煉瓦建築は、地震国である日本では、明治・大正までの期間しか造られず、その後の災害などで多くは現存していない。そのため、赤煉瓦と花崗岩による図書館(旧館)は、日本人によって設計された明治末年の西洋建築として稀少な建造物である。設計・監督は曾禰達蔵と中條精一郎。三田大講堂は東京大空襲で全焼し、現在は西校舎が建っている。戦後、象徴的な赤煉瓦建築の再興を図り、2000年に東館が完成した。
教育および研究[編集]
学部[編集]
- 文学部
- 人文社会学科
- 哲学系
- 哲学専攻
- 倫理学専攻
- 美学美術史学専攻
- 史学系
- 日本史学専攻
- 東洋史学専攻
- 西洋史学専攻
- 民族学考古学専攻
- 文学系
- 国文学専攻
- 中国文学専攻
- 英米文学専攻
- 独文学専攻
- 仏文学専攻
- 図書館・情報学系
- 図書館・情報学専攻
- 人間関係学系
- 社会学専攻
- 心理学専攻
- 教育学専攻
- 人間科学専攻
- 哲学系
- 人文社会学科
- 経済学部
- 法学部
- 商学部
- 医学部
- 医学科(6年制)
- 理工学部
- 総合政策学部
- 環境情報学部
- 看護医療学部
- 薬学部
- 通信教育課程
文学部[編集]
蘭学塾として出発した当初から語学校としての性格を持っており、英学塾にも持ち越され、ドイツ語・フランス語の専門学を始めた。明治九年刊行の『日本開化史』(平山果・宮内貫一編)には当時の高い世評漢詩が載っている。旧制大学時代に設置されていた文学科を新制大学時に改組して設置した学部。理財・法律と並んで慶應義塾で最も古い伝統を持つ。1910年(明治43年)に哲学、史学、文学の3専攻を興す。特徴として、入学時は全員が人文社会学科に所属し、2年進級時に17専攻を選択できるという点があげられる。また、三田文学会の機関誌として三田文学を発行し、三田文学新人賞を主催している。1921年(大正10年)創刊の史学をはじめ、哲学1926年(大正15年)、藝文研究1951年(昭和26年)、Library and information science1963年(昭和38年)などの紙媒体を持ち、教員の研究成果を発表している。
使用キャンパス[編集]
- 日吉キャンパス:神奈川県横浜市
- 文学部1年生はここにて、法学部、経済学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。
- 三田キャンパス:東京都港区
- 文学部2-4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミ(15名前後)に入る。
経済学部[編集]
理財科[編集]
Economics(理財科)の歴史を汲む学部で、「天下国家を論ずるよりも実学ではあるがまず科学」といわれる。Political Economics(経済)の語源は「経世済民」であって政治的なニュアンスがある。「理財」は、江戸時代の藩による「士民撫育」という哲学を支える理念として、備中松山藩の山田方谷『理財論』に述べられている。「事の外に立ちて事の内に屈せず」・「義を明らかにして利を計らず」とある。明治には、「哲学政治学及び理財学科」となる。日本最古の経済学の伝統を体系化する学部で、戦前には、あまたの「慶應経済人」と称される卒業生を輩出した。Garrett Droppers(ドロッパース)が初代教授として就任し、後任はヴィッカース。経済学原理をはじめ近世経済史、財政論、保護及自由貿易史、経済学諸派概論等の重要科目は、ドロッパースひとりで担当した。適切な訳語「理財学」が「国を治め民を救う」に変更されると、日本では経済学を「国民経済学」、それに対して、会計学・経営学を「私経済学」とした。
経済学科(旧理財科)[編集]
旧制大学時代に設置されていた理財科を新制大学時に改組して設置した学部。1920年(大正9年)、理財科が経済学部に改称。1929年(昭和4年)には学課改定が行われ、経済学部は経済学科と商業学科とに分割された。選択科目に二分して甲、乙2班が設置されるようになった。環境経済学などの他の大学では余り開講されていない学問分野もある。Professional Career Programmeという、経済学教育を英語で行うということを特色としたプログラムが用意されている。授業はもとより、教員やTAとの連絡や会話も英語で行われている。これによって、英語力の強化と経済学を強みにしたキャリア構築の可能性を学生に提供している。PCPとしては、国内外の専門大学院進学の基礎となる力を身につけることを目標に掲げている。また、東京工業大学との単位互換を行っている。
使用キャンパス[編集]
- 日吉キャンパス:神奈川県横浜市
- 経済学部1,2年生はここにて、法学部、商学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。
- 三田キャンパス:東京都港区
- 経済学部3,4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミ(15名前後)に入ることで経済学研究を行う。
法学部[編集]
法律学科[編集]
英米法を日本語で教授する夜間法律科を旧山口藩士児玉淳一郎の発案で、1879年(明治12年)12月に日本で初めて発足させたもの(最初の講義は相馬永胤)が法律学科の源流となっている。夜間法律科が専修学校(現・専修大学)として分離独立した後、1890年(明治23年)に大学部法律科として再出発し、ハーバード大学の教員を迎え入れた。成績優秀者は飛び級で大学院進学が可能。近年、法曹界や高級官僚に進む卒業生が増加傾向にあり、併設する法科大学院卒業生の平成20年度新司法試験合格率では一橋大学法科大学院に次いで2位、東京大学法科大学院を上回った。合格者数では3位であった。
政治学科[編集]
政治科創立にあたっては試行錯誤があり、江戸幕府の庇護にあった義塾は明治政府に仕官することをためらっていた。これは武士の名残で「二君に仕えず」という初一念があったものである。武士的教養から華々しく活動することをあまり好まない傾向があったが、明治初期には塾内に「東洋議政会」が結成された。また当時日本には政治学が科目には無く「国家学」の名を持っていた。120名の専任教員を持ち、日本の政治学科としては教員数及び科目数が最多である。
使用キャンパス[編集]
- 日吉キャンパス:神奈川県横浜市
- 法学部1,2年生はここにて、経済学部、商学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。
- 三田キャンパス:東京都港区
- 法学部3,4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミ(15名前後)に入ることで法学研究を行う。
商学部[編集]
1957年、慶應義塾創立100周年を機に設立。ただし、商学研究自体は、1873年に福澤諭吉がアメリカの商業学校で使用されていた『ブックキーピング』という教科書を『帳合之法』という翻訳書として発行した時点まで遡る。また、明治11年に設置し、商学の先駆を成した分校「三菱商業学校」又は明治義塾からの歴史を汲む。1935年には経済学部内に経済学科(甲科)とは別に商業学科(乙科)が開設されている。これは福澤諭吉の建学の精神の一つである「実学」を最も体現すると言われている学部と自負し、経営、会計、商業、経済・産業の4つの領域からなる。この経済学部商業学科が実質的に分離して設立されたのが商学部である。
使用キャンパス[編集]
- 日吉キャンパス:神奈川県横浜市
- 商学部1,2年生はここにて、法学部、経済学部1,2年などの学生と共に、教養科目を受講。
- 三田キャンパス:東京都港区
- 商学部3,4年生は、ここで本格的な授業を受講し、かつ少人数制のゼミ(15名前後)に入ることで商学研究を行う。
医学部[編集]
医学所[編集]
慶應義塾では慶應義塾医学所発足前から幾人かの蘭方医学者・洋医を養成している(足立寛陸軍軍医総監、松山棟庵、安藤正胤、印東玄得、近藤良薫等)。当時、西洋医学を教授する唯一の医学校だった大学東校がドイツ医学を採用し、医学=ドイツという定評があった中、医学所では専ら英国医学の教授を試みていた。
医学所は1880年(明治13年)6月に廃止された。出身者らは長い間、金蘭会と称して時々同窓会を開いていた。また、今日の慈恵会の病院は松山棟庵、隈川宗悦ら、この医学所関係の者がのちに志を合わせて基をつくったもので、その学流は東京慈恵会医科大学に亜流の形で伝わっていることになる。
歯科医学[編集]
日本における歯科医師の第1号登録者小幡英之助や、日本最初の歯科医学教育機関の設立者高山紀斎やその継承者血脇守之助などは、いずれも慶應義塾の学窓から巣立った若者であった。明治初年の日本では、歯の治療をする者は口中科とよばれ、専門の教育機関も設けられていなかった。そのため、歯科医たらんと志すものはまず開業歯科医師の門に入り、徒弟を勤める傍ら、師匠の技術を修得した。高山紀斎はサンフランシスコの開業医の下で修業し、帰国後、開業すると同時に多くの門下生を育成し、歯科の専門書を刊行し、明治23年1月には、伊皿子の自宅の隣地に日本における最初の歯科医学の教育機関である高山歯科医学院を創設した。門下生の血脇守之助は、新聞記者や英語の教師をした後、高山歯科医学院に入学して歯科医となり、同学院を継承して東京歯科医学院と改称した。これが現在の東京歯科大学の前身である。(慶応大学医学部と東京歯科大学に直接の関連があるわけではない)
医学科[編集]
医学部は、1917年(大正6年)、福澤諭吉の遺志を汲み、北里柴三郎を初代学部長として設立された。北里柴三郎が描いた理想的な医学教育機関を創立した。皇室から三万円、三井財閥からも支援十万円を受け、教授陣には北里研究所員を中心とする医学部主事北島多一ら門下生があげて参加し、その陣容を整えた。また、秦佐八郎、志賀潔らが教鞭をとってきた学部でもある。なお、私立のなかで唯一旧制医学専門学校からの昇格ではない。また、1906年(明治39年)に南満州鉄道株式会社他満州国に大日本帝国が進出すると、教授・金井章次との関係から南満医学堂、満鉄衛生研究所に多くの教授を送り込んだ。慶應義塾大学では看護学系が看護医療学部として分かれているため、医学科のみが置かれている。6年教育であり、日吉キャンパスで主に一般教養を、信濃町キャンパスで医学を学ぶ。2001年度入学生までは信濃町キャンパスが2年の秋学期一部から(2年次の秋学期の特定曜日のみ信濃町で解剖学などの実習)だったため、旧制大学時代に倣って1,2年を予科1、2と呼び、3、4、5、6年を学1、2、3、4と呼ぶ。基礎医学と臨床医学の連携のもと、患者側の視点に立った臨床のための医学の発展を目的として設立されている[1]。医学部6年生の夏休みにアメリカのメディカルスクールに短期留学できるほか、ラテンアメリカなどの医学部での交流プログラムがある。また、低学年の間にも海外の他大学[1]との交流会などが用意されている。また、ロックフェラー財団からの慶應義塾への寄付は戦前戦後を通じてしばしばあり、なかでも医学部の受けた恩恵は特に大きく、昭和初年だけに限ってみても予防医学教室の建設、あるいは医学部関係の留学生派遣、いずれも同財団のフェローシップによるものであった。さらに、生物学の訪問教授招聴を準備し、それによってデューク大学の生物学教授パースら5名が来任し、医学部で講義を担当した。様々な経緯から、北里大学、東京都済生会中央病院、国立がんセンター中央病院、国立病院機構東京医療センター、東京慈恵会医科大学、国家公務員共済組合連合会立川病院など慶應義塾とゆかりの深い医療機関が多く存在する[2]。
沿革[編集]
- 1870年 - 慶應義塾の塾生前田政四郎の希望により、福澤諭吉が英国式の医学所の開設を決定する。
- 1873年 - 慶應義塾内に医学所を開設する。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を訓練の場所とした。
- 1880年 - 医学所が閉鎖される。
- 1916年 - 慶應義塾に医学部の創設が許可される。
- 1917年 - 医学部予科1年生の募集開始。初代の医学部長として北里柴三郎が就任する。
- 1920年 - 医学部が大学医学部に昇格。医学部校舎と附属病院が信濃町に新築される。
- 1937年 - 北里記念医学図書館が創立される。
使用キャンパス[編集]
理工学部[編集]
工学部[編集]
1936年(昭和11年)、塾長小泉信三がハーバード大学創立300年祝典に参列するため渡米し、各地の諸大学を視察、急激に発展向上しつつある工学一般の趨勢を見聞して帰朝し、工学部設立が急務であることを説いた。これにより、当時の理事である楓智雄が中心となって設立の研究蘭査を始め、着手することになった。王子製紙社長の塾員藤原銀次郎は、各国の製紙工業等をつぶさに視察し、その長短を比較研究して、日本の製紙工業はもとより、工業界全般の発展のために思いを巡らせていたが、たまたま1935年(昭和10年)、アラスカに出張した帰途、スタンフォード大学を見学し、この大学の来歴に深い感銘を受けて帰朝。さらに日本の諸大学の工学部をもくわしく視察し、みずから日本に理想的な大学を設立してあたかもスタンフォード大学のスタンフォードたらんと密かに決するところがあった。一方、藤原はかねてより評議員として義塾の教育にも深い関心を寄せていたのであるが、ここにおいて慶應義塾の意図するところと藤原の意図するところと一致するものがあり、小泉と藤原の折衝が始まり、ようやく意見の一致を見るに至って、財団法人藤原工業大学を創立し、その大学の教育はこれを挙げて慶應義塾に一任することとなり、校舎も日吉の義塾構内に建設することとなった。かくて小泉信三が学長、楓智雄が理事、藤原銀次郎が理事長となって藤原工業大学が発足した。そして、創立後一応目的を達成したるとき、または藤原亡きのちはこの大学の全部が義塾に寄付されることとなっていたのである。
理工学部(旧工学部)[編集]
工学部を受け継ぎ、1981年(昭和56年) 理工学部に改称。数理工学科を数理科学科に改組し、物理学科と化学科を開設した。この際、工学部から理工学部になってお利口になった、と言われる。また、物理科と化学科創設期に、大学院入試で物理学専攻よりも化学専攻の学生の方が物理の点数が良かった、という珍現象が起きている。 第二次世界大戦後、財団法人慶應工学会が発足。現在の土地のうち2千坪を北海道炭礦汽船から寄贈された。かつて工学部のあった小金井の土地は売却され、湘南藤沢キャンパスの建設費用に充てられた。以前はI系(機械工学科、電気工学科、計測工学科、物理科)、II系(管理工学科、数理科学科)、III系(応用化学科、化学科)という系別の入学制度で、一年時の成績で各系の学科に振り分けられていた。しかしI系で科により定員のアンバランスがあり、特定の科に成績の悪い学生が集まっていた弊害を無くすため、現在は学門制度を取り入れている。学門1:物理、学門2:数学、学門3:化学、学門4:機械、学門5:情報、であり、入学時に5つある学門の何れかに所属し、それぞれの特色により進学できる学科が異なる。もちろん講義の必修科目にも多少違いがある。一年次に進路を考え、二年次にそれぞれの特色に沿った学科に進学することで、進路の幅にやや余裕が持てるメリットがある。 学部卒業生の7割は大学院に進学する。研究は徹夜で取り組むことも多いために一晩中電気が点いている様から「不夜城」の異名をとる。研究室は世界最先端の研究を行うところから、そうでないところまで玉石混交である。また、Youtubeに専門チャンネルを開設している。
沿革[編集]
- 1939年(昭和14年) - 藤原銀次郎により藤原工業大学(機械工学科・電気工学科・応用化学科)が開校。
- 1944年(昭和19年) - 藤原工業大学が慶大に寄付され工学部となる。
- 1972年(昭和47年) - 現在の矢上キャンパスに移転。
- 1971年(昭和46年) - 松下幸之助氏より寄付を受け、松下記念図書館竣工。
- 1981年(昭和56年) - 工学部から理工学部に改組。
使用キャンパス[編集]
- 日吉キャンパス:神奈川県横浜市
- 理工学部1、2年生はここで他学部生と共に学ぶ形となっている。
- 矢上キャンパス:神奈川県横浜市
- 矢上キャンパスは日吉キャンパスのすぐ北側に位置する。理工学部3、4年生および研究科生はここでより専門的な教育を受け、または研究活動もここで行う。
総合政策学部・環境情報学部・看護医療学部 (SFC)[編集]
総合政策学部と環境情報学部は湘南藤沢キャンパス (SFC) において、他の学部とは大きく違った独自の教育が実施されている。この節では両者に共通する特徴などをまとめる。
また、湘南藤沢キャンパス (SFC) に設置されている看護医療学部についてもこの節で記述する。
- 基本理念
- 「創造性の重視」「問題発見・解決型」。今の世の中に存在する雑多な諸問題を発見・解決していく人材の創出を目的としている。そのため、従来のリベラルアーツと専門知識の詰め込みだけではなく、研究プロジェクトを中心に置き、その中で見えてくる学生自身に不足している知識 (カリキュラム) を発見・取得し、補いながら研究を進めていくという、従来とは全く違う独創的なスタイルの構築を関係者は意図している。
- 特徴
- 大学では「学問の再編成」をキーワードとして自由度の高い履修システムを使用している。基本的に各授業には学年による履修制限を課さず、学部1年生から専門的な授業を履修できる。また、学部と大学院で共有する授業を多く設置している。また、「半学半教」の理念から学生、特に学部生の雇用に積極的である。具体的には図書館スタッフ、コンピュータやマルチメディアの相談員、キャンパス内の設備利用ガイドの編集員、教育補助員(学部生はSA、院生はTAと称する)などである。湘南藤沢キャンパス内にある湘南藤沢中・高等部と大学の連携として、湘南藤沢中・高等部の「ゆとりの時間」という選択授業の中で一部大学授業を履修できる。
薬学部[編集]
医学部、看護医療学部、理工学部などと連携することで、創薬から臨床までを一貫して追求できる環境が整っている。前身は共立薬科大学。
薬学科(6年制)[編集]
薬学科(6年制)では、薬物の適正使用に必要な知識の修得とその進歩を担う薬剤師を育てることを目標としている。薬学科では単に薬学という知識と技能ではなく、完成度の高い薬剤師としての生き方を学ぶ。1年生に対し、ヒューマニズム、プレゼンテーション、IT教育を統合した科目、双方向的な小グループでのチュートリアル教育 (SGL) を導入。その後、2、3年次は薬学専門科目を履修して、4年次には、医療薬学を中心とした講義と臨床の現場に出る前の事前実務実習を行う。また、実務実習に出る前に、統合型の医療系集中講義を履修させる。5年次には5ヶ月の病院および薬局での実務実習を行う。また、各講座に入り、卒業研究を行う。
薬科学科(4年制)[編集]
薬科学科(4年制)では、医薬品の創製、分析、管理、さらには食品、化粧品、環境や食品衛生分野を中心とした化学系領域の教育・研究に力を注いでおり、薬学という科学を基盤に健康、医療の進歩に携わる人材を育成することを目的としている。薬科学科は1学年30名と少数であるが、1年生の段階から卒業後の進路に密着した講義、実習が用意され、薬科学科担当講座教員と密接に連絡を取りながら、教育と研究指導を受けることができる。
使用キャンパス[編集]
- 日吉キャンパス:神奈川県横浜市
- 薬学部1年生はここにて、法学部、経済学部などの学生と共に、教養科目を受講。
- 芝共立キャンパス:東京都港区芝公園
- 薬学科2年-6年生、薬科学科2年-4年生までは、ここで本格的な薬学教育・研究を行う。
通信教育課程[編集]
戦後、設置にあたって連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の民間情報教育局 (CIE) から日本にも通信教育の制度を行ってはどうかという勧めがあった。これは、もちろん社会教育から大学を含めた学校教育に至る通信教育を意味したもののようで、ことに大学の通信教宥については国立のものは予算その他の関係で困難であろうから私立大学で研究して欲しい。慶應義塾あたりがこの制度を実施してくれれば、という希望が CIE や文部省にあったということであった。このようなことから、前記の計画を通信教育一本にまとめて踏み切ることになり、文科系の文、経、法の三学部に実施する方針が立てられた。
財団法人私立大学通信教育協会に加盟している。慶應義塾大学本部のある三田キャンパスに事務局がある。慶應義塾大学通信教育部学則第1章第2条より「通信教育部は、文学部・経済学部及び法学部の通信教育課程の実施に当たる」組織であり、通信教育課程そのものは各学部に属する。そのため、「慶應義塾大学文学部人文社会学科哲学系通信教育課程」が正確な表記となる。他例、「慶應義塾大学経済学部通信教育課程」(経済学部は学科などが定められていない)、「慶應義塾大学法学部法律学科通信教育課程」など。
2008年までスクーリングが三田キャンパスと日吉キャンパスの2つしか受講ができなかったが、E-スクーリングの授業を大幅に拡大したり、2009年9月から大阪リバーサイドキャンパスにて大阪スクーリングが受講できるようにするなど、社会人や地方の学生に対して授業が受けやすいように緩和し、少しでも卒業できるような体制になるようサポート体制を強化している。
学部構成[編集]
文学部・経済学部・法学部の3学部で構成される。文学部は、人文社会学科I類(哲学系)・II類(史学系)・III類(文学系)。経済学部は、指定されている学科はなく、商学部のカリキュラムを含んでいる。したがって、経済学部・経済学科というものは存在しない。法学部は、甲類(法律学科)・乙類(政治学科)がある。
- 入学の種類及び入学資格
- 入学選考は基本的には書類選考だが、学問領域関連書籍の論評などを含む志望理由書を提出する必要がある。
- 普通課程(入学)
- 高等学校卒業または見込み者
- 高等学校卒業程度認定試験(大検含む)合格者。
- 大学入学資格が付与されている専修学校高等課程の卒業者または見込み者。
- 特別課程(編入学)
- 学士入学
- 普通課程(入学)
- 入学式
- 三田で行われ、入学オリエンテーションは、札幌・仙台・名古屋・大阪・岡山・福岡の各地で開かれる。
- スクーリング
- 夏期スクーリング
- 夜間スクーリング(毎年概ね9月下旬から12月中旬まで毎週月曜日から金曜日までの18時-20時まで東京の三田校舎で実施されている)
- 実験スクーリング(夏期において日吉キャンパスで行われる。希望者のみ受講できる。学士入学者は受講不可)
- 体育実技スクーリング(選択制で4単位まで卒業所要単位として加算される。日吉キャンパスにて夏期に行われる。冬期にはスキースクーリングもある)
- 通年スクーリング(通学課程の授業を受けられる特別なスクーリングで、受講には一定の条件が必要。)
これらの各種スクーリングは、東京の三田キャンパス、横浜の日吉キャンパス、ならびに大阪リバーサイドキャンパスでの開講となっている(開講科目は、各キャンパスにより異なる)。
- 単位修得試験
- 年に4回行われる。三田キャンパス以外でも行われている。各群1科目、合計最大6科目まで受験できる。
- 卒業論文が必修で8単位ある。
- 慶友会
- 卒業生の同窓会組織として慶友会を持つ。
入学状況[編集]
学部学生の出身高校所在地別入学者比率は、以下のようになっている。
2007年(平成18年)度
- 1位 - 関東:63.3%(東京都:29.6%)
- 2位 - 北陸・東海・甲信越:12.1%
- 3位 - 近畿:6.0%
- 4位 - 九州:5.3%
- 5位 - 中国・四国:5.2%
- 6位 - 沖縄・海外:4.0%
- 7位 - 北海道・東北:3.8%
- 1位の関東地方では東京都出身者が全国で一番多く、次いで神奈川県が多い。
- 全国8地方中、大学において上位7地方と第1位の都道府県を全体に対する比率と共に記載した。
- その地方出身が最も入学している大学に、地方の内部リンクを設定した。
- 三重県は近畿地方に含め、中部地方には含めないが、異なる場合には但し書きする。
大学院[編集]
- 文学研究科
- 経済学研究科
- 法学研究科
- 社会学研究科
- 商学研究科
- 医学研究科
- 理工学研究科
- 政策・メディア研究科
- 健康マネジメント研究科
- 薬学研究科
- 慶應義塾大学大学院経営管理研究科 (KBS)
- システムデザイン・マネジメント研究科
- メディアデザイン研究科
- 法務研究科(法科大学院)
附属機関[編集]
附属研究所[編集]
- 慶應義塾総合研究推進機構
- 慶應義塾大学国際連携推進機構 (OGI)
- 慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構 (DMC)
- 慶應義塾大学法学研究所
- 慶應義塾大学言語文化研究所
- 慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所(旧新聞研究所)
- 慶應義塾大学SFC研究所
- 慶應義塾大学産業研究所
- 慶應義塾大学東アジア研究所(旧地域研究センター)
- 慶應義塾大学先端生命科学研究所
- 慶應義塾大学体育研究所
- 慶應義塾大学附属研究所(斯道文庫)
- 慶應義塾大学亜細亜研究所(廃止)
- 慶應義塾大学北京公館・中支研究所(廃止)
附属センター[編集]
- 研究支援センター本部
- 三田研究支援センター
- 日吉研究支援センター
- 矢上研究支援センター
- 信濃町研究支援センター
- 湘南藤沢研究支援センター
- 先端研究教育連携スクエア事務室
- 慶應義塾福澤研究センター
- 慶應義塾大学国際センター
- 慶應義塾大学アート・センター
- 慶應義塾大学教職課程センター
- 慶應義塾大学外国語教育研究センター
- 慶應義塾大学教養研究センター
- 慶應義塾大学スポーツ医学研究センター
- 慶應義塾大学保健管理センター
- 慶應義塾大学研究推進センター
- 慶應義塾大学知的資産センター
- 慶應義塾大学インキュベーションセンター
- 慶應義塾大学日本語・日本文化教育センター
- 慶應義塾大学総合医科学研究センター
- 慶應義塾大学先端科学技術研究センター (KLL)
- 慶應義塾大学グローバルセキュリティ・リサーチセンター (G-SEC)
附属病院[編集]
- 慶應義塾大学病院
- 慶應義塾大学月が瀬リハビリテーションセンター
全国共同利用・共同研究拠点[編集]
- 慶應義塾大学パネルデータ設計・解析センター
- 慶應医科学開放型研究所
出版会[編集]
慶應義塾大学の出版部門として慶應義塾大学出版会がある。慶應義塾大学出版会は組織的に独立した株式会社であり、大学の附属機関ではない。しかしながら慶應義塾大学関係の書籍を出版するなど、大学本体との関わりが深いので、本節においてまとめた。詳細は該当記事を参照のこと。
研究[編集]
日本学術振興会 (JSPS) 事業
21世紀COEプログラム[編集]
- 採択12件
- 2002年
- 生命科学
- システム生物学による生命機能の理解と制御
- 化学材料科学
- 機能創造ライフコンジュゲートケミストリー
- 情報電気電子
- アクセス網高度化光・電子デバイス技術
- 人文科学
- 心の解明に向けての統合的方法論構築
- 学際複合新領域
- 次世代メディア・知的社会基盤
- 2003年
- 医学系
- 低侵襲・新治療開発による個別化癌医療確立
- 幹細胞医学と免疫学の基礎・臨床一体型拠点 -ヒト細胞とin vivo 実験医学を基盤とした新しい展開-
- 数学物理学地球科学
- 統合数理科学、現象解明を通した数学の発展
- 機械土木建築その他工学
- 知能化から生命化へのシステムデザイン
- 社会科学
- 市場の質に関する理論形成とパネル実証分析
- 多文化多世代交差世界の政治社会秩序形成ー多文化世界における市民意識の動態
- 日本・アジアにおける総合政策学先導拠点
グローバルCOEプログラム[編集]
- 採択7件
- 2007年
- 生命科学
- In vivo ヒト代謝システム生物学拠点
- 情報電気電子
- アクセス空間支援基盤技術の高度国際連携
- 人文科学
- 論理と感性の先端的教育研究拠点形成
- 2008年
- 医学系
- 幹細胞医学のための教育研究拠点
- 機械土木建築その他工学
- 環境共生・安全システムデザインの先導拠点
- 社会科学
- 市場の高質化と市場インフラの総合的設計
- 市民社会におけるガバナンスの教育研究拠点
世界を対象としたニーズ対応型地域研究推進事業[編集]
- 採択1件
- 平成19年
- 中央アジア
- 中央アジアにおける環境共生と日本の役割-価値創造に基づく地域研究のあり方-
組織的な大学院教育改革推進プログラム[編集]
- 採択2件
- 平成20年
- 人文社会学系
- 社会イノベータ育成コースの創設
- 医療系
- 創薬に向けた医薬科学を先導する人材の養成
質の高い大学教育推進プログラム(教育GP)[編集]
- 採択2件
- 平成20年
- メディカルプロフェショナリズム教育の推進
- ユビキタス社会の問題発見解決型人材育成
学生生活[編集]
部活動・クラブ活動・サークル活動[編集]
学園祭[編集]
各キャンパスごとに、「三田祭」(三田キャンパス)、「四谷祭」(信濃町キャンパス)、「矢上祭」(矢上キャンパス)、「七夕祭」、「秋祭」(湘南藤沢キャンパス)、「共薬祭」(芝共立キャンパス)が開催されている。
このうち、三田祭が最大規模であり、他キャンパスの学生も多く参加する。慶應義塾大学が公式に「学園祭」としているのは三田祭のみである。その他のキャンパスごとのイベントは有志によるものに過ぎないとされているが、実質的には「学園祭」として認知されており、慶應義塾大学の受験生向けパンフレットなどにも紹介されている。
なお、日吉キャンパスで行われる「日吉祭」は高等学校の文化祭で、大学との関係はない。
三田祭[編集]
三田祭は、毎年11月23日前後に例年4日間行われる。運営しているのは三田祭実行委員会。三田祭の規模は大学祭では日本国内最大要出典である。
七夕祭[編集]
湘南藤沢キャンパスで七月の第一土曜日に毎年開かれる学園祭。湘南藤沢キャンパス開校時から続いており、学生有志による七夕祭実行委員会が運営している。
花火や縁日のような出店、御輿などの夏祭りをテーマとした企画が中心。また学生と大学周辺地域との協力を目的としていることが特徴である。
スポーツ[編集]
体育会の正式名称は「慶應義塾體育會」(けいおうぎじゅくたいいくかい)である。「慶應義塾大学体育会」としている文献が存在するが、正式名称では「大学」の語は使用しない。2008年現在、40部54部門が所属している。体育会各部間の意見交換や、体育会全体に関わる会議・行事の企画・進行や広報活動を行う組織として、體育會本部を置く。体育会部員から選出された常任委員がこうした業務に携わっている。また、体育会事務室という慶應義塾大学の部署が設置され、専任の大学職員が常駐している。体育会事務室は学生主体の體育會本部と連絡を取りながら体育会の運営をサポートしている。
- 東日本医科学生総合体育大会の発起大学であり、定期的に対抗戦を行っている。
- 戦前までは東京帝国大学との間で「対帝大医学部野球戦」が開催されていた。戦後は大阪大学、一橋大学との間でスポーツ交流戦を行う構想があったが、実現していない。
- 馬術部は特に名門で、大正9年(1920年)4月陸軍士官学校において塾長鎌田栄吉出席のもとに慶應義塾乗馬会の発会式を挙げる。以来同校馬術教官から教授を受け、大正12年(1923年)4月1日に同校校庭で開かれた関東学生乗馬協会主催の第一回関東乗馬大会に優勝した。
- ラグビー部は慶應義塾體育會蹴球部が正式名称である。1899年創立であり、日本ラグビーフットボール協会では「日本ラグビーのルーツ校」としている。関東大学ラグビー対抗戦グループに所属している。1910年(明治43年)に網町グラウンドにて日本最初の蹴球対決試合を第三高等学校(現・京都大学)との間で開催した。
- 野球部は東京六大学野球連盟に加盟しており、東京六大学野球が発祥する大元となった慶早戦は大学野球ファンの間では著名である。なお、大学野球における慶早戦の盛り上がりがきっかけとなり、ラグビー部や端艇部(ボート競技)でも慶早戦が行われるようになった。詳細は慶早戦を参照。
- 箱根駅伝では、1932年に優勝している。
- サッカー部はソッカー部が正式名称。サッカー関係者には伝統校として著名である。
- バスケットボール部の愛称はユニコーンズ。全日本学生バスケットボール選手権大会初代王者でもある。
- アメリカンフットボール部の愛称も「ユニコーンズ」である。関東学生アメリカンフットボール連盟に所属している。
- ラクロス部は1985年に日本初のラクロス部として創設され、特に男子ラクロス部は全日本優勝5回、関東学生リーグ優勝15回という成績を残している。
園遊会[編集]
園遊会は、学位授与式(卒業式)の後に開催される卒業パーティーである。2008年3月までは慶應義塾大学卒業準備委員会が主催をしていた。パーティーで行われる抽選大会の1等賞品は毎年通例として外車であった。このような豪華な賞品を出すことについて、一部卒業生や大学教職員の間からは必ずしも賛同の声ばかりが寄せられるわけではなかった。2006年現在、会費は2万円強で参加は任意である。賞品はOBが役員を務める企業からの寄付が多い。卒業準備委員会の粗雑な財務管理や園遊会参加後の卒業生の行為による苦情から、2009年3月からの園遊会の開催は一旦中止となり現卒業準備委員会も解散することとなった。
なお、解散した卒業準備委員会とは別の団体が、2009年3月以降も(非公式ではあるが)毎年有志により園遊会を存続させるための活動を行っている。日吉記念館の工事延期に伴い2009年度卒業式の会場が、予定されていた卒業式の会場(パシフィコ横浜)から同館となる可能性が高まり、卒業式の予定そのものが不確定となった。これによって園遊会の会場となる舞浜のホテルの予約が現段階で確定できないことが判明し、2009年度園遊会は中止となることが決定された。しかし、開催の声が根強く、2009年度は有志により西麻布alifeでの小規模開催となった。そして、2010年度より特別委員会として園遊会実行委員会が全塾協議会より正式承認されたが、それ以後も大学・全塾協議会の調整が着かず2011年(震災の影響により最終的に中止)・2012年は卒業生有志により開催されることとなった。
- テイクオフラリー
- SFC(湘南藤沢キャンパス)では、キャンパス開設当初から独自の卒業パーティーが開催されている。2009年、園遊会の中止によって慶應義塾大学における公式の卒業パーティーはテイクオフラリーのみとなった。
大学関係者と組織[編集]
大学関係者組織[編集]
慶應義塾では、在学生を「塾生」、卒業生を「塾員」、この二者に加えて教員などを合わせた関係者全てを「(義塾)社中」と呼ぶ。また、福澤諭吉を除いては、敬称を「君(くん)」とする習慣がある。これは、慶應義塾において「先生」は福澤諭吉ただ一人であるという思想から発生したもので、現在も構内掲示などの教員名は「-君」表示になっているほか、慶應義塾の公式文書においてもしばしば「君」表記が使用される。明治期においては生徒は教師に向かっては「さん」付けが一般で、それ以外は塾長、教頭、その他の古参教員でも等しく「--さん」が一般に用いられた。
慶應義塾における「塾長」とは、慶應義塾大学の学長と学校法人慶應義塾の理事長を兼ねており、慶應義塾内で学長や理事長と言った呼称が使われることはまずほとんどない。
三田會[編集]
三田會(みたかい)は慶應義塾大学の卒業生(塾員)による同窓組織。
三四会・紅梅会[編集]
- 三四会
- 医学部の同窓会。1917年に創設。本部のある「三田」と医学部のある「四谷」から一字ずつ取った。若手の研究を奨励し、実学としての慶應医学の発展を図るため、「三四会奨励賞」を制定し毎年発表している。
- 紅梅会
1934年設立、看護教育を受けた卒業生による同窓会。
大学関係者一覧[編集]
施設[編集]
キャンパス[編集]
三田と日吉キャンパス間の交通については、かつては東急東横線・渋谷駅経由で都バスもしくは山手線を乗りついて1時間近く掛かったが、東急目黒線の日吉延伸後は日吉駅から直通で都営三田線に乗り入れられ、白金高輪駅経由で40分弱での行き来が可能になった。
三田キャンパス[編集]
- 使用学部:文学部2-4年と経済学部・法学部・商学部3・4年
- 使用研究科:文学研究科・経済学研究科・法学研究科・社会学研究科・商学研究科・法務研究科(法科大学院)
- 使用附属施設:Stub
- 交通アクセス:JR山手線・京浜東北線田町駅、都営三田線・都営浅草線三田駅、南北線・白金高輪駅、麻布十番駅、都営大江戸線赤羽橋駅
慶應義塾中等部が綱坂を挟んで隣接している。また、付近に慶應義塾女子高等学校がある。
日吉キャンパス[編集]
- 使用学部:文学部・医学部・薬学部1年と経済学部・法学部・商学部・理工学部1・2年
- 使用研究科:経営管理研究科、システムデザイン・マネジメント研究科、メディアデザイン研究科
- 使用附属施設:Stub
- 交通アクセス:東急東横線、東急目黒線、横浜市営地下鉄グリーンライン日吉駅
慶應義塾高等学校がキャンパス内に併設されている。また、駅を挟んだ向かい側に慶應義塾普通部がある。慶應義塾大学の学生の間には、他のキャンパスへの進級後に日吉キャンパスの授業を再履修する意味を表す「来日」、留年して日吉キャンパスに留まる意味を表す「在日」、他のキャンパスに進級できず慶應を去る意味を表す「日没」という俗語がある。
矢上キャンパス[編集]
- 使用学部:理工学部3・4年
- 使用研究科:理工学研究科
- 使用附属施設:Stub
- 交通アクセス:東急東横線、東急目黒線、横浜市営地下鉄グリーンライン日吉駅
藤原工業大学の将来のキャンパス用地として戦前から藤原銀次郎が用意していた土地に、1972年に工学部(現 理工学部)が小金井キャンパスから移転して開設された。なお、藤原工業大学の校舎は、開校時には日吉キャンパス内(現在の日吉図書館、第4校舎付近)に設けられていたが、戦災を受け、戦後は小金井市に移転していた。
信濃町キャンパス[編集]
- 使用学部:医学部2-6年および看護医療学部3年
- 使用研究科:医学研究科
- 使用附属施設:慶應義塾大学病院、総合医科学研究センター、北里記念医学図書館、信濃町メディアセンター(北里記念医学図書館内部)
- 交通アクセス:JR中央・総武緩行線信濃町駅
- 構内に「慶應稲荷大明神」が存在し、受験シーズンには慶應諸学校受験者の参拝が見られる。
湘南藤沢キャンパス (SFC)[編集]
- 使用学部:総合政策学部・環境情報学部の全学年および看護医療学部の1・2・4年
- 使用研究科:大学院政策・メディア研究科、健康マネジメント研究科
- 使用附属施設:慶應義塾大学湘南藤沢学会、SFC-IV、SFC研究所
- 交通アクセス:小田急江ノ島線・相鉄いずみ野線・横浜市営地下鉄ブルーライン湘南台駅、JR東海道本線・湘南新宿ライン辻堂駅からバス
芝共立キャンパス[編集]
- 使用学部:薬学部薬学科2-6年と薬科学科2-4年
- 使用研究科:大学院薬学研究科
- 使用附属施設:慶應義塾大学薬学部附属薬局、生体防御薬学研究センター
- 交通アクセス:JR山手線・京浜東北線浜松町駅、都営地下鉄三田線御成門駅、都営地下鉄浅草線・大江戸線大門駅
かつて共立薬科大学の本部が設置されていたキャンパス。両学校法人の合併により慶應義塾大学のキャンパスとなった。
サテライトキャンパス[編集]
サテライトキャンパスは学校法人間による統合及びリベラルアーツ教育拠点、産学及び大学間連携を目的にして設置されている。一部の施設は慶應義塾大学の通信制大学の単位認定試験会場でもあり、スクーリングなどの指定会場でもある。サテライトキャンパスとして以下が設置されている。
- 新川崎タウンキャンパス(神奈川県川崎市と共同設置。略称はK2TC)
- 鶴岡タウンキャンパス
- 浦和共立キャンパス
- 慶應大阪リバーサイドキャンパス
- 慶應丸の内シティキャンパス
文化財[編集]
慶應義塾大学は以下の国宝・重要文化財を所有している。
国宝[編集]
重要文化財[編集]
- 建造物
- 三田演説館 - 1967年(昭和42年)指定
- 慶應義塾図書館・旧館 - 1969年(昭和44年)指定
- 典籍・古文書・歴史資料
- 大かうさまくんきのうち - 「太閣様軍記の中」織田信長から豊臣秀吉にかけて文筆をもって仕えた太田和泉守牛一の著者自筆、原装の抄写本
- 後鳥羽院御抄並越部禅尼消息 - 藤原俊成の養女である越部禅尼が、甥の藤原為家にあてた歴代の撰集の論評や消息
- 相良家文書(1,253通、30巻、84冊、1帖、21鋪 附:鎧小札残欠209枚、鉄二枚胴具足残欠2枚) - 肥後国の南、人吉藩主相良家伝来の鎌倉から江戸時代にかけての文書
- 解剖存真図 2巻 - 江戸時代後期の医師南小柿寧一(みながきやすかず)によって描かれた2巻の彩色された人体解剖図集
- 対馬宗家関係資料(朝鮮通信使記録417点、記録類478点) - 対馬宗家文書として江戸時代に対馬藩の藩主であった宗家に伝来した古文書・古記録
- 考古資料
以上の文化財はメディアセンター貴重書室、及び、文学部民族学考古学研究室が保管する。
系列校[編集]
慶應義塾の各教育機関は、大学とそれを頂点とする附属学校という関係ではなく、あくまで同一学校法人が運営する独立した学校の集合体という形態を取っている。
一貫教育校[編集]
慶應義塾では自らの設置する以下の学校へ入学した場合、大学まで全員が進学することを前提に統一したカリキュラムを組んで教育を行っている。そこで、慶應義塾では以下の学校についてはまとめて「一貫教育校」と呼んでいる。以下の学校を卒業すると全員、無試験で大学への推薦入学できる(エスカレーター式)。これらの学校から推薦入学する生徒は、大学全体の2割以上を占める。
- 高等学校
- 中高一貫校
- 中学校
- 小学校
脚注[編集]
関連項目[編集]
- 慶應義塾の建造物
- 中津市立小幡記念図書館
- 津國屋
- 三田通り
- 慶應仲通り
- 文銭堂本舗
- 慶應医学賞(ラスカー賞、ガードナー国際賞、ウルフ賞と並び医学領域で最も権威のある国際賞の一つ)
- 時事新報
- 交詢社
- 民間雑誌
- 中津藩
- 慶應義塾外国語学校
- ラーメン二郎(慶應義塾大学西校舎学生食堂へ誘致の署名活動を1990年代前半に行った。港区三田に本店を構えるラーメン店。)
- 慶大生ファンド詐欺事件
公式サイト[編集]
外部リンク[編集]
- 慶應義塾大学病院(大学病院の理念等の記述あり)
- 慶應塾生新聞
- koara-a慶應義塾史コレクション
- 慶應義塾大学通信教育課程