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岸 信介
(きし のぶすけ)
Nobusuke Kishi 1956.jpg


5657
日本の旗 日本日本国 内閣総理大臣
在任期間 1957年2月25日
 - 1960年7月19日

生没年月日 1896年11月13日

 - 1987年8月7日

出生地 山口県吉敷郡山口町
(現在の山口市
出身校 東京帝国大学
学位・資格 正二位大勲位
法学士
前職 衆議院議員
自由民主党幹事長
外務大臣
自由民主党総裁
世襲の有無 家族・親族参照
選挙区 旧山口2区
当選回数 衆10回
党派 自由民主党
花押
テンプレート

岸 信介(きし のぶすけ、1896年(和暦??年)11月13日 - 1987年(和暦??年)8月7日)は、日本農商務官僚政治家。第56、57代内閣総理大臣正二位大勲位。旧姓は佐藤。第61、62、63代内閣総理大臣佐藤栄作の実兄。

生涯

青年期まで

山口県吉敷郡山口町八軒家(現在の山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる(本籍地熊毛郡田布施町[1]。信介が生まれた時、曽祖父の佐藤信寛もちょうど山口に来ており、早速“名付親になる”といって自分の名前の一字を取って「信介」という名が付けられた[2]。数え年3歳になった頃、一家は田布施に帰郷し、造り酒屋を営む。佐藤家には酒造の権利が昔からあった。その権利は他家に貸していたものだったが母茂世(もよ)が分家するに当たって酒造の権利を取り戻して茂世(もよ)に与えられていた。秀助、茂世(もよ)夫妻は、本家のある田縫のすぐそばの岸田で酒造りに従事した。[3]

中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となった。

旧制岡山中学に学んだが、2年生になったばかりの頃、叔父の松介が肺炎に依り急逝したため山口に戻り、旧制山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)に転校。岡山中学では10番前後だったが山口中学では首席だった。

1914年(和暦??年)、山口中学を卒業。間もなく上京して、高等学校受験準備のため予備校に通ったが、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば映画や芝居を見に行ったりした。このため第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だった[4]

高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄三輪寿壮とは常に成績を争った。

1917年(和暦??年)、東京帝国大学に入学。大学の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった[2][5]。他の高校からやってきた者たちは俊英ぶりに驚かされたという。このころ岸を魅了していたのは北一輝の存在であった。中込に北を訪ねている。のちに岸は北について「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」と認め、「おそらくは、のちに輩出した右翼の連中とはその人物識見においてとうてい同日に論じることはできない」と語っている[6]1920年(和暦??年)7月に東京帝国大学法学部法律学科(法)を卒業。憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めるが岸は農商務省に入省した。

農商務省時代〜満州国時代

農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉(元首相伊藤博文の養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当45円を給す」という辞令をもらった。同期には平岡梓(作家・三島由紀夫の父)、三浦一雄吉田清二などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった[7]

1925年(和暦??年)に農商務省が商工省農林省に分割されると商工省に配属され、1933年(和暦??年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(和暦??年)4月には商工省工務局長に就任。1936年(和暦??年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(和暦??年)7月には産業部次長、1939年(和暦??年)3月には 総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎大平正芳伊東正義十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。

東條内閣の閣僚時代

東條内閣の閣僚の中の岸信介(中央の東條英機の左後ろの人物)

伍堂卓雄商工大臣が当時の商工次官だった村瀬直養の反対を押し切って岸の次官起用を決定し、1939年(和暦??年)10月に帰国して商工次官に就任する。その後、商工大臣に座った小林一三と対立、直後に発生した企画院事件の責任を取り辞任する。1941年(和暦??年)10月に発足した東條内閣商工大臣として入閣。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(和暦??年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。1943年(和暦??年)、戦局悪化への対応として商工省が廃止され軍需省へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。

1944年(和暦??年)7月22日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。

同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、すでに岡田と気脈を通じていた岸が、閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する。東條側近の四方諒二(しかた りょうじ)東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した[2]。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否。東條は内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となった。

1945年(和暦??年)年3月11日、岸は翼賛政治会から衣替えした親東條の大日本政治会には加わらず、反東條の護国同志会を結成した。

戦犯容疑者から復権まで

巣鴨プリズンから釈放直後

官房長官だった実弟の佐藤榮作と共に、長官官邸にて(1948年12月24日)

1945年(和暦??年)8月15日太平洋戦争が終結した後、故郷の山口市に帰郷していた所をA級戦犯容疑者として逮捕された。東京巣鴨拘置所に収監されたが、冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、戦犯不起訴となる。東條ら7名の処刑の翌日の1948年(和暦??年)12月24日に釈放、公職追放となる。

1952年(和暦??年)公職追放解除となり、4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ、日本再建連盟を設立、会長に就任した[8]1953年(和暦??年)、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも党内の反対が激しく入党はできず、自由党に入党、公認候補として衆議院選挙に当選したが、1954年(和暦??年)に吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導、1955年(和暦??年)に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任した。同年には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同し「55年体制」が始まる。

岸内閣誕生

1956年(和暦??年)12月14日、自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れた(岸251票、石橋258票)が、外務大臣として石橋内閣に入閣した。2か月後に石橋が脳軟化症に倒れ、首相臨時代理を務めた。巣鴨プリズンに一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名された。国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の3月21日に自民党総裁に就任)。石橋内閣を引き継ぐ形で、前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。就任記者会見では「汚職貧乏暴力の三悪を追放したい。」と抱負を述べ、三悪追放が流行語にまでなった。また石橋内閣が提唱していた1千億減税も就任直後に実施している。1958年(和暦??年)4月25日衆議院を解散。5月22日の総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣が発足した。

1958年に日米安全保障条約改定にあたり、米側は『在日米軍裁判権放棄密約事件』で露見した裁判権放棄を公的に表明するよう要求したが、岸は国内の反発を恐れ認めなかった。

当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改正案を出したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、社会党総評を初めとして反対運動が高まり、撤回に追い込まれた。また、日本教職員組合(日教組)との政治闘争においては、封じ込め策として教職員への勤務評定の導入を強行した(これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。

この他、最低賃金制や国民年金制度など社会保障制度を導入し、後の高度経済成長の礎を構築した。また、鳩山とともに復古的改憲論を主張した。

六十年安保騒動

岸の総理大臣在任中の最大の事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年(和暦??年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。

新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどった。警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆(=暴力団組長)の会合に派遣。錦政会会長稲川角二住吉会会長磧上義光テキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会である。「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供のヘリコプターセスナ機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」(『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』)。

連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(ホワイトハウス報道官)が羽田で群衆に包囲されてヘリコプターで救出され避難する騒ぎになった。6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学学生樺美智子の死亡事件が発生した。こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」(サイレント・マジョリティ発言)と沈静化を図るが、東久邇片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得ない状況となった。

6月15日と18日には、岸から自衛隊治安出動を打診された防衛庁長官赤城宗徳が拒否[9]。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准昭和天皇が調印した。「私のやったことは歴史が判断してくれる」の一言を残し、新安保条約の批准書交換の日の6月23日、混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。その言葉通り岸の成し遂げた功績は現代では高く評価する声が多い(安保闘争を起こした全学連世代の学生のほとんどが日米安保の内容すら知らずに暴動を起こしており、安保改正の内容自体は紛れもなく日本側にとって完全に有利なものであった)。文芸評論家の福田和也などが「本物の責任感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」として高く評価している。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。

日韓国交回復

岸は首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸信介・椎名悦三郎瀬島龍三笹川良一児玉誉士夫らとは満州人脈が形成される。

日韓国交回復後、岸・椎名・瀬島らと日韓協力委員会を組織する。また日韓の反共政策を推進する過程で「統一協会」とも1973年(和暦??年)より親交を持ち「国際勝共連合」結成に協力、1984年(和暦??年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際[1]、米国で脱税容疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)を連名で送るなど[2]、同教団が政界へ影響力を広げるにあたって重要な役割を果たしたとされる。

中華民国・蒋介石との関係

岸は中華民国蒋介石総統とは勝共連合の設立(1954年)を通じて親密であり、1957年首相就任3ヵ月後には台湾を訪問、蒋介石と会談し日華協力委員会を作った。また日本で活動する反蒋介石・台湾独立運動家の強制送還も、胸三寸で決められるほどの影響力を行使した。その蒋介石死後も岸は「蒋介石総統遺徳顕彰会」の中心として日本各地に蒋介石を讃える石碑を建立する活動を行った。古沢襄は、岸の名刺を示すだけで蒋介石や息子の蒋経国に面会できたと語っている[10]

晩年

政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫田中角栄による自民党内の主導権争い(角福戦争)が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。1969年(和暦??年)の第32回衆議院議員総選挙では、側近の1人今松治郎の秘書だった森喜朗が自民党の公認得られず無所属新人として旧石川1区で出馬する際、岸の秘書中村長芳に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、岸の応援で陣営に勢いがつき初当選果たした森は生涯恩義を忘れていない。

1972年(和暦??年)7月、第3次佐藤内閣改造内閣が倒れた後、憲法改正を目指し密かに政権復帰を狙った[11]。自民党総裁選挙で福田赳夫が田中角栄に完敗したことで、大変落胆した[12]

1979年(和暦??年)10月7日衆議院解散を機に、派閥を福田に、地盤を吹田あきらに譲り、政界引退。国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価された[13]

晩年は御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、自主憲法制定などに関し積極的な発言を続けた。これは女婿安倍晋太郎外孫安倍晋三など後世に大きな影響を与え、自民党清和政策研究会の基本政策となって現在まで受け継がれている。1976年(和暦??年)10月には“民主主義・自由主義体制を尊重しつつ、政党・派閥を超えて、国家的課題を検討・推進する”政治団体「時代を刷新する会」を設立。

死ぬまで自民党内で影響力は衰えを見せず、事実上の安倍派(福田派)の元老であり、フィクサー黒幕とも呼ばれた。

略年譜

  • 1896年(和暦??年)11月13日、山口県吉敷郡山口町八軒家(現在の山口市)に生まれる。
  • 1919年(和暦??年)11月、岸良子と結婚する
  • 1920年(和暦??年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。外国貿易に関する事項の調査を嘱託。9月、外国貿易に関する事項の調査嘱託を解かれ任農商務属、商務局勤務
  • 1921年(和暦??年)5月 - 任農商務事務官、叙高等官七等商務局勤務、監理課勤務、叙従七位。11月、長男信和誕生
    • 1922年(和暦??年)7月、兼任農商務参事官、叙高等官七等、農商務事務官として山林局勤務、大臣官房文書課勤務
  • 1923年(和暦??年)5月、鉱山局勤務、陞叙高等官六等。10月、叙正七位
  • 1924年(和暦??年)12月、水産局勤務
  • 1925年(和暦??年)3月、大臣官房文書課兼務を免ぜらる、農林事務官。4月、任特許局事務官兼商工書記官、叙高等官六等、大臣官房文書課勤務(兼)。7月、叙高等官五等。8月、叙従六位
  • 1926t年(和暦??年)2月、商務局兼務。4月、欧米各国へ出張。5月、米国に於ける製鉄事業の企業、組織及印度に於ける製鉄事業の情況並本国との斯業関係調査を嘱託
  • 1927年(和暦??年)4月、帰朝。7月、陞叙高等官四等。9月、叙正六位
  • 1928年(和暦??年)6月、長女洋子生る。11月、昭和三年勅令第百八十八号旨に依り大礼記念章を授与さる
  • 1929年(和暦??年)4月、木戸大臣官房文書課長海外出張中代理、商工審議会幹事被仰付。8月、陞叙高等官三等。9月、叙従五位。
  • 1930年(和暦??年)5月、工務局兼務、欧州各国へ出張。6月、任臨時産業合理局事務官兼特許局事務官兼商工書記官、叙高等官三等、臨時産業合理局第一部勤務。12月、臨時産業合理局第二部兼務
  • 1932年(和暦??年)1月、任商工書記官兼臨時産業合理局事務官叙高等官三等、工務局工政課長、臨時産業合理局第一部勤務
  • 1933年(和暦??年)2月、兼任外務書記官(〜1934年3月)、通商局勤務。12月、大臣官房文書課長、工務局工政課長兼務
  • 1934年(和暦??年)1月、大臣官房統計課長兼務、統計主任、工務局工務課長兼務。4月、叙勲五等授瑞宝章、従軍記章を授与さる。9月、叙正五位
  • 1935年(和暦??年)1月、対満事務局事務官被仰付。3月、第六十七回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。4月、商工省工務局長心得、臨時産業合理局第二部長、叙高等官二等、臨時産業合理局第二部長、任臨時産業合理局事務官兼商工省工務局長
  • 1936年(和暦??年)4月、任商工省工務局長兼臨時産業合理局事務官、臨時産業合理局第二部長。10月、満州重工実業部次長として渡満
  • 1937年(和暦??年)7月、産業部次長 満州開発五ヶ年計画の立案など経済政策に辣腕
  • 1939年(和暦??年)10月、商工省へ復帰、任商工次官、叙高等官二等
  • 1941年(和暦??年)10月、東条内閣で商工大臣
  • 1942年(和暦??年)4月、衆議院議員(〜1943年10月)
  • 1943年(和暦??年)10月、任国務大臣、商工次官兼任、叙高等官一等。11月、国務相、軍需次官(〜1944年7月)
  • 1945年(和暦??年)9月、戦犯容疑者として巣鴨拘置所入所(〜1948年12月)
  • 1950年(和暦??年)3月、東洋パルプ会長(〜1953年1月)
  • 1953年(和暦??年)3月、自由党入党 4月 - 衆議院議員(〜1979年9月) 12月 - 憲法調査会会長
  • 1954年(和暦??年)11月、自由党を除名、日本民主党幹事長
  • 1955年(和暦??年)11月、自由民主党幹事長
  • 1956年(和暦??年)12月、石橋内閣で外務大臣(〜1957年2月)
  • 1957年(和暦??年)2月、内閣総理大臣(〜1960年7月)。3月、自由民主党大会開催、総裁に当選
  • 1979年(和暦??年)10月、政界引退、日本人初の国連平和賞受賞。
  • 1987年(和暦??年)8月7日、死去、(1987-1896)+((8-11)*100+(7-13)>=0)-1歳没。
山口県田布施町及び静岡県御殿場市冨士霊園にある。

メモ

  • 岸は自伝の中で「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、ことに曽祖父・信寛の威光がまだ輝いていた。また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである[14][15]。」、「佐藤の子供だというので、自然に一目も二目も置いて付き合われたので、好い気になって威張っていた傾きもあった[16]」と述べている。子供たちの教育はすべて母・茂世の手で行われ、スパルタ式の教育で信介ら兄弟が泣いたりして家へ帰ろうものなら叱りつけて家の中に入れなかったという。また、佐藤家の家運が傾き貧乏になった時も「ウチは県令士族家柄ですからね!」と頑として挫けず、対外的な意地を張り通したという(武士は食わねど高楊枝)[17]
  • 東京都渋谷区南平台(地区は松涛)の岸邸隣に世界基督教統一神霊協会(統一教会)があり、岸も、統一教会本部やその関連団体「国際勝共連合」本部に足を運んだ[18]。日本での「国際勝共連合」の設立の際に児玉誉士夫笹川良一と共に協力した[19]
  • 1974年(昭和49年)5月7日、東京の帝国ホテルで開かれた、統一教会の教祖文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」の名誉実行委員長となった[20]
  • 戦後政治史上において吉田茂とは鋭く対立したが、安保改定に当たっては、同条約締結時首相の任にあった吉田に敬意を表し、神奈川県大磯町の別荘に隠棲していた吉田の元に度々足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたという[21]
  • 満州国官僚時代、軍・財界の実力者東條英機星野直樹鮎川義介松岡洋右らと共に、満州の「弐キ参スケ」、長州出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」とも呼ばれた。晩年も政財界に隠然たる影響力を有した事から、「昭和の妖怪」(元々は西園寺公望の綽名)などと称された。
  • 週刊文春』2007年10月4日号に、岸が中央情報局(CIA)から資金提供を受けていたという記事が掲載された。筆者はニューヨーク・タイムス記者のティム・ワイナー。文春では『LEGACY of ASHES The History of the CIA』の紹介がなされている。翌年に文藝春秋で邦訳『CIA秘録』が出版された。
  • 岸は内閣総理大臣として3度、通常国会で施政方針演説を行ったが、1957年(和暦??年)の石橋湛山内閣時に内閣総理大臣臨時代理として石橋総理大臣の代役で施政方針演説を行っている。日本政治史上、内閣総理大臣以外の人物が施政方針演説を行った唯一の例である。
  • 晩年は福田派のプリンスとなっていた娘婿の安倍晋太郎を総理にすることに執念を燃やし、「岸の安倍狂い」と言われた。
  • 血液型O。
  • 首相在任中は自虐史観に否定的だったが、政界引退後の最晩年のインタビューでは「まあ大東亜戦争は侵略か進出かといえば結果的には侵略でしょうな」と述べた事がある。

栄典

家族・親族

実家(佐藤家)
  • 曾祖父 信寛長州藩、島根県令)- 佐藤家第10代当主[22]
  • 祖父 信彦(漢学者、県会議員)
  • 祖母 みね(徳山藩士・国広治左衛門娘)
  • 実父 秀助(山口県庁官吏、酒造業:田布施・岸要蔵三男)
  • 実母 モヨ(佐藤信彦長女)
  • 市郎(軍人・海軍中将)
  • 栄作(政治家・首相)
養家(岸家)
  • 養父・伯父・岳父 信政(山口県士族
  • 従妹・妻 良子
自家
他家

系譜

岸家
毛利元就陶晴賢厳島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人であったという。毛利はその功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召し立てた。この“ガン”を岸家の先祖とする説がある[24]
佐藤家(佐藤氏系譜(武家家伝)
佐藤家の祖先について、確証はないが、遠祖は源義経の家臣佐藤忠信であるという口伝がある。確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久といい、寛文2年(1662年)頃から萩藩となり、扶持方2人・米2石4斗を受けた。下級武士であり、この待遇はその後もあまり変わらない。役によって4石5斗あるいは6石に加増されたこともある。代々、市郎右衛門あるいは源右衛門を名乗った。歴代佐藤家の当主の中で世に出たのは、まず4代目の源右衛門信早である。その功を認められて禄高を6石に加増されている。熊毛郡下田布施村の「宝暦検地絵図」などの文書も残した。7代目の佐藤嘉津馬は安永8年(1779年)12歳で病死する。佐藤家はこの7代まで現在の山口市南部にあたる大内町御堀の周辺に住んだ。7代目の嘉津馬夭折の後、佐藤家はに住む一族吉田八兵衛の3男菊三郎に別の親戚福田某の娘を嫁に迎え、夫婦養子とする。8代目市郎右衛門信孝であり、この信孝の時代から、佐藤家は田布施に移った。
曽祖父・寛作信寛長州藩士として御蔵元本締役、大検使役等を歴任、長沼流兵学を修め、幕末期の思想家吉田松陰に兵要録を授けた。明治になると、島根県県令、浜田県権知事等の要職に就いた。
祖父・信彦は山口県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。父・秀助は山口県庁に奉職し、勤めを辞めてからは酒造業を始めた[25]。佐藤家の家紋は“源氏車”である[26][27]
                     
                    ┏昭和天皇━━━━━━━━━今上天皇
    明治天皇━━━大正天皇━━━━━┫   
                    ┗三笠宮崇仁親王━━━━━━寬仁親王   
                                   ┃     ┏彬子女王 
                                   ┣━━━━━┫
                            麻生太賀吉  ┃     ┗瑶子女王
                               ┃  ┏信子
                               ┣━━┫
                               ┃  ┗麻生太郎
                              ┏和子 
                       吉田茂━━━━┫
                              ┗桜子
                      吉田祥朔     ┃
                        ┣━━━━━吉田寛
                       ┏さわ
                       ┃      ┏寛子(栄作夫人)
                       ┣佐藤松介━━┫
                       ┃      ┗正子
佐藤信孝━━佐藤信立━━佐藤信寛━━佐藤信彦━╋佐藤寛造 
                       ┃  
                       ┃(池上)                     
                       ┣佐藤作造  
                       ┃ 
                       ┗茂世     安倍晋太郎
                        ┃        ┃
                        ┣━┳佐藤市郎  ┣━━安倍晋三
                        ┃ ┃      ┃
                    (佐藤)┃ ┃(岸)   ┃
                     ┏岸秀助 ┣佐藤信介━━洋子
                     ┃    ┃
                     ┃    ┃
                岸要蔵━━┫    ┗佐藤栄作━┳佐藤龍太郎━━佐藤栄治
                     ┃          ┃
                     ┃          ┗佐藤信二
                     ┗岸信政━━良子
                         (信介夫人)                     
  


資料館・旧宅

岸信介・佐藤栄作兄弟宰相の遺品展示室(田布施町郷土館)
岸信介、佐藤栄作兄弟の出身地、田布施町郷土館内に設置。国連平和賞ノーベル平和賞などの遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している。
御殿場の旧岸信介邸
所在地:静岡県御殿場市東山1082-1
岸が晩年の17年間を過ごした静岡県の邸宅は、2003年(平成15年)に長女によって地元御殿場市へ建物が寄贈され、土地は御殿場市の財産区が購入した。現在同市では、2年後の公開を目標に文化施設「御殿場東山ミュージアムパーク(仮称)」として整備を進めている。なお、御殿場市の市制50周年を記念して、2005年(平成17年)10月5日から10月10日まで一般公開された。

脚注

  1. 信介が物心ついて、田布施の家で、冬の夜など、兄弟姉妹が炬燵をとり囲んで、雑談などしている時、信介少年は自分だけが山口の八軒家で生まれたということにより、ちょっと仲間はずれになったような感じがしたこともあったという(吉本重義著『岸信介傳』19-20頁)
  2. 2.0 2.1 2.2 () 「黙れ兵隊」と一喝 - 古澤襄 杜父魚文庫 [ arch. ] 8月26日
  3. 『正伝 佐藤栄作(上)』 23頁
  4. 『岸信介傳』54、55頁
  5. 『岸信介傳』62頁
  6. 『巨魁 <岸信介研究>』 37頁
  7. 『岸信介傳』 78-80頁
  8. () 小泉・安倍・中川の“政治的DNA” 『歳川隆雄のコンフィデンシャル情報』 [ arch. ] 8月26日
  9. 副島隆彦『日本の秘密』(弓立社、1999年、ISBN 4772703616
  10. () 「昭和の妖怪」の素顔 古沢襄(杜父魚文庫) [ arch. ] 8月26日
  11. 原彬久『岸信介』(岩波新書 1995年1月20日)
  12. 安倍洋子『わたしの安倍晋太郎―岸信介の娘として』(『ネスコ』1992年4月)
  13. () 日本財団図書館 「興四海野春風―2002 20年の歩み―」 [ arch. ] 8月26日
  14. 『岸信介傳』 27頁
  15. 『巨魁――岸信介研究』 15-16頁
  16. 『巨魁――岸信介研究』 16頁
  17. 『岸信介傳』25、26頁
  18. 久保木修己『愛天愛国愛人 ─母性国家、日本のゆくえ─』(世界日報社、1996年発行)
  19. () 第078回国会 外務委員会 第4号 1976年(昭和51年)10月21日 [ arch. ] 8月26日
  20. () 第095回国会 文教委員会 第2号 1981年(昭和56年)10月22日 [ arch. ] 8月26日
  21. 原彬久「ポスト小泉の麻生氏と安倍氏、祖父が争った国のかたち―闘い方が時代を占う指標に」(『朝日新聞』2005年12月15日夕刊14面)
  22. 吉本重義著『岸信介傳』21頁に「この曽祖父は、佐藤家の歴史においては最も傑出した人であった。もっとも、その叔父九右衛門は坪井家に養われて長井雅楽の一味として当時、藩政の要路にあり、非常な傑物だったといわれる。佐藤家に伝わる政治家的な性格は、この坪井九右衛門や、曾祖父の信寛によって最も顕著にあらわれた。」とある。
  23. 歌手岸洋子の方は芸名であり同姓同名の別人である。
  24. 『忍魁・佐藤栄作研究』 58-59頁
  25. 栄作は父について「父は非常に勉強好きな人で、寡黙な人だった。私があまり口をきかないのも、性質が父親に似たせいだろう」と述べている(『忍魁・佐藤栄作研究』 19頁)
  26. 山田栄三『正伝 佐藤栄作』(上)新潮社 15-26頁
  27. 『正伝 佐藤栄作』(上)15-26頁

関連人物

関連項目

参考文献

著書

  • 『現代法学全集(23) 保険業法・取引所法・税法・担保附社債信託法』(南正樹星野直樹栗栖赳夫共著、日本評論社、1928年)
  • 『日本戦時経済の進む途』(研進社、1942年)
  • 『岸信介の回想』(矢次一夫伊藤隆との鼎談、文藝春秋、1981年)
  • 『二十世紀のリーダーたち』(サンケイ出版、1982年)
  • 『岸信介回顧録――保守合同と安保改定』(廣済堂出版、1983年、ISBN 433150171X
  • 『我が青春――生い立ちの記・思い出の記』(廣済堂出版、1983年、ISBN 4331501728
    • 岸信介の後援会誌『風声』に昭和28年第2号から昭和31年第11号にわたって連載された「我が生い立ちの記」の全文から成るもの。
  • 『耐雪―岸信介幽窗の詩歌集』(山口県田布施町郷土館 研究紀要別冊 2001年
  • 『岸信介証言録』(原彬久編、毎日新聞社、2003年、ISBN 4620316229
  • 『青年に望む』
  • 『日本の進路と安保条約』 自民党発行のブックレット

伝記研究

  • 吉本重義 『岸信介傳』 東洋書館、1957年
  • 伊藤整「岸信介氏における人間の研究」『中央公論』1960年8月号
  • 荒井荒雄『原理運動の謀略と自民党―岸信介原罪論』(青村出版社、1976年)
  • 岩川隆 『巨魁 岸信介研究』徳間文庫 1982年、ちくま文庫 2006年
  • 原彬久 『岸信介』 岩波新書、1995年
  • 塩田潮 『岸信介』 講談社 1996年、ワックブックス 2006年
  • 岩見隆夫『昭和の妖怪 岸信介』(朝日ソノラマ、1994年/学陽書房・人物文庫、1999年)
  • 安倍洋子「父岸信介の素顔」『中央公論』1987年10月号、のち『わたしの安倍晋太郎 岸信介の娘として』 文春ネスコ 1992年
  • 中村長芳「岸信介に仕えた35年」『文藝春秋』1987年10月号
  • 細川隆一郎『岸信介 日本宰相列伝.20』(時事通信社、1986年)
  • 岸信介伝記編纂委員会編 『人間岸信介 波瀾の九十年』(岸信介遺徳顕彰会、1989年)
  • 高橋正則 『昭和の巨魁 岸信介と日米関係通史』(三笠書房、2000年)
  • 渡辺昭夫編『戦後日本の宰相たち』(中央公論社、1995年/中公文庫、2001年)ISBN 9784120024955
  • 坂元一哉『日米同盟の絆―安保条約と相互性の模索』(有斐閣、2000年)
  • 秦郁彦『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年 180-181頁)
  • 神一行 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 (角川書店 2002年 61-75頁)
  • 中村隆英宮崎正康編『岸信介政権と高度経済成長』(東洋経済新報社、2003年)
  • 池田慎太郎『日米同盟の政治史―アリソン大使と「1955年体制」の成立』(国際書院、2004年)
  • 城下賢一「岸信介と保守合同(1・2)」『法学論叢』157巻3・5号(2005年)
  • 小林英夫 『「昭和」をつくった男 石原莞爾、北一輝、そして岸信介』 ビジネス社 2006年
  • 太田尚樹 『満州裏史-甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』(講談社、2005年)
  • 春名幹男 『秘密のファイル―CIAの対日工作』(上下)(共同通信社、2000年/新潮文庫、2003年)
  • ティム・ワイナー 『CIA秘録』(文藝春秋、上下 2008年)
  • 福田和也 『悪と徳と―岸信介と未完の日本』、『正論』2003年2月号より断続連載中
  • マイケル・シャラー “America's Favorite War Criminal: Kishi Nobusuke and the Transformation of U.S.-Japan Relations”(日本政策研究所)、『「日米関係」とは何だったのか 占領期から冷戦終結後まで』(市川洋一訳、草思社、2004年)

外部リンク


官職
先代:
日本の旗 日本 内閣総理大臣
第56・57代:1957年 - 1960年
次代:
先代:
日本の旗 日本 内閣総理大臣臨時代理
1957年
次代:
先代:
日本の旗 日本 外務大臣
第86・87代:1956年 - 1957年
次代:
先代:
日本の旗 日本 商工大臣
第24代:1941年 - 1943年
次代:
党職
先代:
自由民主党総裁
第3代 : 1957年 - 1960年
次代:
先代:
結成
自由民主党幹事長
初代 : 1955年 - 1956年
次代:
Flag of Japan.svg          歴代内閣総理大臣          Go-shichi no kiri crest 2.svg
第55代
石橋湛山
5657
1957年 - 1960年
第58代
池田勇人
第代
[[]]
第代
第代
[[]]
第代
[[]]
第代
第代
[[]]
第代
[[]]
第代
第代
[[]]
第代
[[]]
第代
第代
[[]]
伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衞
寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一
濱口雄幸
犬養毅
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岡田啓介
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阿部信行
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小磯國昭
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東久邇宮稔彦王
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片山哲
芦田均
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石橋湛山
岸信介
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宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎
安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
菅直人
野田佳彦
歴代の外務大臣
外務大臣(太政官達第69号)
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西德二郎
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号))
大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 - 松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -

田中義一 - 幣原喜重郎 - 犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衞文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豐田貞次郎 - 東郷茂德 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂德 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂

外務大臣(外務省設置法(昭和24年法律第135号))
吉田茂
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号))
吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平
外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号))
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦

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