安倍晋三
安倍 晋三 (あべ しんぞう)
| |
在任期間 | 2006年9月26日 - 2007年9月26日 |
生没年月日 | 1954年9月21日((2024-1954)+((11-9)*100+(27-21)>=0)-1歳)
- |
出生地 | 日本 東京都 |
出身校 | 成蹊大学法学部卒業 南カリフォルニア大学(中途退学) |
学位・資格 | 政治学士(成蹊大学) |
前職 | 神戸製鋼所従業員 衆議院議員秘書 |
世襲の有無 | 3世 安倍寛(祖父) 岸信介(祖父) 安倍晋太郎(父) |
選挙区 | (山口県第1区→) 山口県第4区 |
当選回数 | 衆5回 |
党派 | 自由民主党(町村派) |
花押 | |
安倍 晋三(あべ しんぞう、1954年9月21日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。内閣総理大臣(第90代、2006年9月26日 – 2007年9月26日)、内閣官房長官(第72代)、自由民主党総裁(第21代)、自由民主党幹事長を歴任。
目次
概要
親族に政治家が多く、父方の祖父の安倍寛(元衆議院議員)、母方の祖父の岸信介(第56・57代内閣総理大臣)、大叔父の佐藤栄作(第61 - 63代内閣総理大臣)、父の安倍晋太郎(元外務大臣)、弟の岸信夫(参議院議員)などがいる。妻は森永製菓社長令嬢の安倍昭恵。
大学卒業後、神戸製鋼所社員、外務大臣秘書官を経て衆議院議員となる。内閣官房副長官、自由民主党幹事長、同幹事長代理、内閣官房長官等を歴任。2006年に自由民主党総裁、内閣総理大臣に就任。2007年9月26日に内閣総理大臣を退任。
来歴
出生
1954年9月21日、当時毎日新聞の記者だった安倍晋太郎とその妻、洋子の次男として東京で生まれる(本籍地は山口県大津郡油谷町(現・長門市)。 父方の祖父は衆議院議員の安倍寛(この時既に故人)、母方の祖父は後の首相・岸信介で、大叔父にはやはり後の首相・佐藤栄作がいる、政治家一族であった。安倍は「幼い頃から私には身近に政治がありました」と回想している[1]。幼い頃は、野球選手や刑事になることに憧れていた[2]。
学生時代
成蹊学園(小学校・中学校・高等学校・大学法学部政治学科)を卒業。 小学4年生から5年生にかけての1964年から2年間平沢勝栄(後の衆議院議員、日本人拉致問題で助言したと言われる)が家庭教師についていた[3][1]。高校でクラブは地理研究部に所属[4]。高校卒業後、成蹊大学に進み行政学を学ぶ。大学ではアーチェリー部に所属し、準レギュラーだった[5]。大学生の頃は人付き合いが良く、大人しく真面目だったという[4]。1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った[6]。秋に南カリフォルニア大学への入学許可が出され[7]1978年に入学。政治学を専攻し春・夏・秋学期を履修した後、1979年に中退した[8]。
サラリーマン時代
1979年4月に帰国し、神戸製鋼に入社した。ニューヨーク事務所、加古川製鉄所、東京本社で勤務した[1]。加古川製鉄所での経験は、「私の社会人としての原点[9]」、あるいは「私の原点[10]」だったと回顧している。
政界へ
神戸製鋼での3年間勤務の後、1982年から当時外務大臣に就任していた父・晋太郎の下で秘書官等を務め、数々の各国首脳との会談に同席するなど父の後継者としての政治家修行を行う。1987年に松崎昭雄・森永製菓社長の娘で電通社員の昭恵と結婚する。その際の媒酌人を務めたのが、福田赳夫元総理だった。1991年に総裁候補の最有力と目されていた父・晋太郎が急死。
衆議院議員
1993年に亡父の地盤を引き継ぎ、第40回衆議院議員総選挙に山口1区(当時)より出馬し、初当選。父が派閥会長を務めていた清和会(当時三塚派、後の森派→町村派)に属す。1997年自民党青年局長就任し同次長には同い年で親友で同じ派閥の下村博文。
派閥領袖の森喜朗首相が組閣した2000年の第2次森改造内閣で、小泉純一郎に推薦され[11]、内閣官房副長官に就任。森政権の後を受け、2001年に成立した第1次小泉内閣でも引き続き内閣官房副長官を務める。
2002年、小泉首相の北朝鮮訪問に随行し、小泉首相と金正日総書記との首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と強硬論を繰り返し主張した。拉致被害者5人の帰国は実現したものの、この日本人拉致問題は日本側の納得する形では決着せずに難航した。内閣参与の中山恭子と共に北朝鮮に対する経済制裁という強硬路線を主張した。拉致被害者の北朝鮮帰国方針にも中山と共に頑強に反対した[11]。対話路線などの慎重論を唱える議員が多かった中で、安倍の姿勢は多くの支持を得た[12]。
2003年9月、小泉首相によって自民党幹事長に抜擢された。自民党は総幹分離の原則が長く続いており、総裁派閥幹事長は1979年の大平正芳総裁時代の斎藤邦吉幹事長以来24年ぶりであった。大臣経験もない若手議員が第一与党幹事長に就任するのは極めて異例のことであるが、苦戦が予想される同年11月の総選挙のために安倍の「人気」が必要とされたためと見られた。11月の総選挙で与党は絶対安定多数の確保に成功したが自身と93年初当選同期で同じ清和研属す高市早苗や中村力は小選挙区敗北し比例復活すらならなかった。
幹事長時代には自民党内で恒常化していた「餅代」「氷代」(派閥の長が配下の者に配る活動資金)の廃止、自民党候補者の公募制の一部導入など党内の各種制度の改正を行った。2004年4月埼玉8区補欠選挙で自民党史上初の全国的な候補者公募実施し合格した新人柴山昌彦が当選(同公募には佐藤ゆかりも最終選考に残った)、同年夏の参議院選挙では目標の51議席を下回れば「一番重い責任の取り方をする」と引責辞職を示唆。結果は49議席で、しばらく現職に留まった後で辞任した。同年9月から後任の幹事長・武部勤の強い要請を受ける形で党幹事長代理に就任。幹事長経験者が幹事長代理に格下げになるということも大変異例なことだった。その幹事長代理として迎えた05年衆院選では保守派弁護士の稲田朋美を「刺客」(「郵政民営化関連法案に反対した元自民党候補」に対する対抗馬、福井1区の松宮勲への対抗馬)にスカウトした。
ポスト小泉
麻垣康三 も参照 小泉政権末期の早い段階から自民党内の「ポスト小泉」の最有力候補の一人と言われ、2005年10月31日付で発足した第3次小泉改造内閣では内閣官房長官を務める。
2006年9月1日に自民党総裁戦への出馬を表明。憲法改正や教育改革、財政健全化に取り組む方針を示す。また、総裁選に当選し次第、所属する派閥の森派を離脱する考えを示した。
2006年9月20日、小泉の任期満了にともなう総裁選で麻生太郎、谷垣禎一を大差で破って自由民主党総裁に選出、9月26日の臨時国会に於いて内閣総理大臣に指名される。戦後最年少で、戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣であった。
内閣総理大臣
安倍内閣 も参照
安倍内閣
就任表明では「美しい国」というテーマのもとに「戦後レジームからの脱却」「教育バウチャー制度の導入」「ホワイトカラーエグゼンプション」などといったカタカナ語を連発し、議員からは「わかりにくい」と揶揄された。
安倍は小泉前首相の靖国参拝問題のために途絶えていた中国、韓国への訪問を表明。2006年10月に中国・北京で胡錦濤国家主席と会談、翌日には、盧武鉉大統領と会談すべく韓国・ソウルに入り、小泉政権下で冷え切った日中・日韓関係を改善を目指した。
北朝鮮が核実験を実施したことに対しては「日本の安全保障に対する重大な挑戦である」として非難声明を発するとともに、国連の制裁決議とは別に、より厳しい経済制裁措置を実施した。
同年9月から11月にかけ、小泉時代の負の遺産とも言える、郵政造反組復党問題が政治問題化する。12月には、懸案だった教育基本法改正と防衛庁の省昇格を実現した。一方で、同月、安倍が肝いりで任命した本間正明税制会長が公務員宿舎への入居と愛人問題で、佐田玄一郎行改担当大臣が、架空事務所費計上問題で辞任、この後、閣内でスキャンダルが相次いだ。
2007年3月の安倍の慰安婦発言が「二枚舌」[13]と欧米のマスコミから非難されたが、4月下旬には米国を初訪問し、小泉政権に引き続いて日米関係が強固なものであることをアピールした。5月28日、以前から様々な疑惑のあった松岡利勝農水大臣が議員宿舎内で、首を吊って自殺。官邸で訃報に接した安倍は涙を流し[14]「慙愧に耐えない」[15]と会見し、その晩は公邸で妻の昭恵に「松岡さんにはかわいそうなことをした」[14]と語っている。また年金記録問題が大きく浮上した。
こうした中で、6月当初の内閣支持率は小泉政権以来最低になったことがメディアに大きく報じられた。同月6日~8日には首相就任後初のサミットであるハイリゲンダム・サミットに参加、地球温暖化への対策を諸外国に示した。また、議長総括に北朝鮮による日本人拉致問題の解決を盛り込ませた。7月3日には久間章生防衛大臣の原爆投下をめぐる「しょうがない」発言が問題化。安倍は当初続投を支持していたが、批判の高まりにより、久間に厳重注意を行なった(久間は翌日辞任)。
参議院議員選挙、内閣改造
2007年7月29日の第21回参議院議員通常選挙へ向けての与野党の舌戦開始早々、自殺した松岡の後任である赤城徳彦農林水産大臣にもいくつかの事務所費問題が発覚。安倍はこういった閣僚の諸問題への対応が遅いと非難された。選挙中に発生した新潟県中越沖地震では発生当日に遊説を打ち切り現地入りした。2007年の参議院選挙では「年金問題」の早期解決を約束し、「野党に改革はできない、責任政党である自民党にこそ改革の実行力がある」とこれまでの実績を訴えた。選挙前、安倍は「そんなに負けるはずがない」[16]と楽観視していたが、結果は37議席と連立を組む公明党の9議席を合わせても過半数を大きく下回る歴史的大敗を喫した。これまで自民党が強固に議席を守ってきた、東北地方や四国地方で自民党が全滅、勝敗を左右する参議院一人区も、軒並み民主党候補や野党系無所属に議席を奪われた。
安倍は選挙結果の大勢が判明した時点で総理続投を表明したが、これについては、応援演説において「私か小沢さんか、どちらが首相にふさわしいか」と有権者に「政権選択」を迫るような趣旨の発言をしていたことから内外から続投に対する厳しい批判が出た。また、参院選直後の7月31日の自民党総務会においても、「決断されたほうがいい」などと党内からも退陣を促す声が出た(安倍おろし)[17]。同日、アメリカ下院では慰安婦非難決議が議決されていた。翌8月1日には赤城農相を更迭したが、「遅すぎる」と批判された。この頃から安倍は食欲の衰えなど体調不良を訴え始め、8月19日から8月25日のインドネシア、インド、マレーシア3ヶ国訪問後は下痢が止まらなくなり、症状は次第に悪化し始めた[16]。
安倍改造内閣
選挙結果や批判を受け、8月27日に内閣改造、党役員人事に着手した(安倍改造内閣)。ところが組閣直後から再び閣僚の不祥事が続き、求心力を失う。9月9日、オーストラリア・シドニーで開催されたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の終了にあたって開かれた記者会見において、テロ特措法の延長問題に関し9月10日からの臨時国会で自衛隊へ給油が継続が出来なくなった場合は、内閣総辞職することを公約した。この間も安倍の健康状態は好転せず、体調不良によりAPECの諸行事に出席できない状況となり、晩餐会前の演奏会を欠席した[18]。
2007年9月10日に第168回臨時国会が開催され、安倍首相は所信表明演説を行った。その中で安倍首相は「職責を全うする」などという趣旨の決意を表明した。なお、この表明では自身の内閣を「政策実行内閣」と名づけ、「美しい国」という言葉は結びに一度使ったのみであった。午後には「(改正案を通すのは)厳しいでしょうか」と辞任を示唆する発言を麻生幹事長に漏らしていたが、麻生から「テロ特措法があがった後でよろしいのではないですか。絶対今じゃないです。」と慰留された[19]。9月11日には妻の昭恵に対し「もうこれ以上、続けられないかもしれない」[20]と語ったが、辞任の具体的な日程までは一切明かさなかった[20]。
辞意表明
2007年9月12日午後2時(JST)、「内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞する」と退陣を表明する記者会見を行った[21]。これにより同日予定されていた衆議院本会議の代表質問は中止となった。
安倍は辞任の理由として「テロ特措法の再延長について議論するため民主党の小沢代表との党首会談を打診したが、事実上断られ、このまま自身が首相を続けるより新たな首相のもとで進めた方が良い局面になると判断した」「私が総理であることが障害になっている」などとした(小沢代表は記者会見を開き「打診を受けたことは1回もない」と否定。なお、小沢は党首会談について報じられてからも「意見を変える気はない」と明言している)。一方で、自身の健康に不安があるという理由も与謝野馨内閣官房長官が同日中会見で述べている。24日の記者会見では本人も健康問題が辞任の理由の一つであることを認めた。
もともと胃腸に持病を抱えているといわれており[22]、辞意表明当日の読売新聞・特別号外でもそのことについて触れられていた。また、辞意表明前日には記者団から体調不良について聞かれ、風邪をひいた旨を返答している[23]。なお、辞任に追い込まれた実質的原因については、本人が記者会見をこなしていることもあり、健康問題ではないとする見方をする論者も、立花隆を初めとして存在する。ちなみに、自身の健康問題で辞任した首相は過去に、石橋湛山や小渕恵三などがいるが、彼らは脳梗塞など重い病に侵されたためであり、記者会見が可能だった安倍とは比べものにならないほどの病状だった。
突然の辞意表明に対する批判
臨時国会が開幕し内政・外交共に重要課題が山積している中で、かつ所信表明演説を行って僅か2日後での退陣表明は、各界各方面から批判を浴びた。
野党側は安倍の辞意表明について「無責任の極み」であるとして次のような批判をおこなった[24]。
- 「40年近くの政治生活でも、過半数を失って辞めず、改造し、所信表明をし、そして代表質問の前に辞職と言う例は初めてで、本当にどうなっているのか、総理の心境・思考方法については良く分かりません」[25](民主党・小沢一郎代表)
- 「参院選の後に辞めていればよかった。こういう形の辞任は国民に失礼」(民主党・鳩山由紀夫幹事長)
- 「所信表明直後の辞任は前代未聞」(共産党・志位和夫委員長)
- 「タイミングがあまりにひどい、無責任です。『ぼくちゃんの投げ出し内閣』だ。小沢代表との会談が断られただけで辞任するのは子供っぽい理由」[25](社民党・福島瑞穂党首)
与党側でも古賀誠元自民党幹事長などから退陣に至る経緯・理由が不透明であるという批判や、その他議員からも「なぜ今日なのか、無責任だ」という批判が出た[25]。塩川正十郎元財相も「非常に無責任な辞め方。熱意と努力で乗り切ってもらいたくて支えてきた。支えてきた者から見たらこんな辞め方は無い」と批判した[26]。また、公明党の北側一雄幹事長からも「なぜこの時期に辞意表明なのか、非常に理解しがたい」と批判された[25]。
麻生太郎自民党幹事長は同日の会見において、記者からの「総理はいつ辞任を決断していたのか」との問いに対し、「2日くらい前といえばそうだし、昨日と言えばそうだし…、この3日間意向は全くかわらなかった」[25]などと述べ、安倍の辞任を2日前(安倍晋三が臨時国会でテロ特措法の延長ができなければ内閣総辞職すると述べた日と同日)にはすでに知っていたことを明らかにした。
9月13日に朝日新聞社が行なった緊急世論調査では、70%の国民が「所信表明すぐ後の辞任は無責任」と回答している[27]。
国外の反応
日本国外のメディアもトップニュースで「日本の安倍首相がサプライズ辞職」、「プレッシャーに耐えきれなかった」(アメリカCNN)などと報じた。欧米諸国の報道では批判的な意見も多かったが[28]、安倍内閣の下で関係が良好だった中華人民共和国、韓国、台湾のマスコミは同情的な意見が目立った要出典。
入院・内閣総辞職
退陣表明の翌日(9月13日)、慶應義塾大学病院に入院。検査の結果、胃腸機能異常の所見が見られ、かなりの衰弱状態にあると医師団が発表した。これについても海外メディアで報道され、イギリスBBCは「昨日官邸をチェックアウトした安倍首相は、今日は病院にチェックインした」「日本は1週間以上も、精神的に衰弱しきった総理大臣を抱えることになる」と報じた。
遠藤武彦農相に不正な補助金疑惑が発覚した際、遠藤の辞任の流れを与謝野馨内閣官房長官と麻生幹事長の2人だけで決めて安倍を排除したことから、安倍が「麻生さんに騙された」と発言したと言われる[29]。 この内容について9月14日の報道ステーションが麻生にインタビューで問い質したところ、麻生は「(9月14日に安倍氏の見舞いに行った時)『そんなこと言われて与謝野とふたりで困っている』と安倍総理に言ったら、『そんなこと言ってない』と笑っておられました。どなたかが意図的に流したデマでしょう」と反論をしている。同日のNEWS ZEROは、番組終盤に安倍の「麻生さんに騙された」という発言を速報という形で伝え、麻生と安倍との間に不穏な空気が流れていたとする報道を行った。
また、自民党の若手による「麻生-与謝野クーデター説」について与謝野官房長官は、9月18日の閣議後の会見において明確に否定した。さらに麻生幹事長は9月19日に「事前に安倍首相の辞意を知っていたのは自分だけではない」とし、与謝野官房長官も同日「中川(秀直)さんは11日(辞任表明の前日)に安倍さんに会っていて、知っていてもおかしくない」と、中川前幹事長も事前に安倍の辞意を知っていたことを示唆した[30][31]。
安倍内閣メールマガジンは9月20日配信分において「国家・国民のためには、今身を引くことが最善と判断した」とのメッセージのもと、これをもって最終号を迎えた[32]。
なお、病院側は、安倍首相の容体は回復軌道には入っているものの退院できる状態ではないとした。病室内では新聞は読まずテレビも基本的には視聴せず、外部の情報をシャットアウトした環境下で治療を行った[18]。9月21日は安倍首相53歳の誕生日だが、病院で誕生日を迎えることになった[33]。このように安倍首相は退陣まで公務復帰できなかった状況だが、与謝野官房長官は「首相の判断力に支障はない」と内閣総理大臣臨時代理は置く予定はないという方針をとっていた[34]。20日の官房長官会見では「首相は辞任と病気の関係を説明するべき」としていた[35]。
入院中、妻の昭恵から政治家引退を勧められたが、安倍は「いや、それは違う」と答え、議員辞職は拒否した[18]。
9月23日に行われた自民党総裁選には欠席して前日に不在者投票を行い、前総裁のあいさつは谷川秀善両院議員総会長が代読した。
9月24日17時、慶應義塾大学病院にて記者会見を行い、自身の健康状態及び退陣に至る経緯について「意志を貫くための基礎体力に限界を感じた」と釈明し、政府・与党、国会関係者並びに日本国民に対して「所信表明演説後の辞意表明という最悪のタイミングで国会を停滞させ、多大な迷惑を掛けたことを深くお詫び申し上げたい」と現在の心境を開陳、謝罪した。また、自民党若手による「麻生クーデター説」については本人の口から改めて否定された[36]。さらに、首相としての公務に支障があったにも関わらず臨時代理を置かなかったことについては「法律にのっとって判断した」としたが、これについては政府内でも批判の声があった[37]。
9月25日、安倍内閣最後の閣議に出席し、国会へ登院して衆議院本会議での首班指名選挙に出席する意思を明らかにした。9月25日の安倍内閣最後の閣議で閣僚全員の辞職願を取り纏めて内閣総辞職した。安倍前首相は最後の閣議の席上、全閣僚に対して一連の事態に対する謝罪及び閣僚在任に対する謝意を述べた。26日には皇居で行われた福田康夫首相の親任式に出席した後、再び病院へと戻った。なお、安倍内閣の在職日数は1年あまりとなる366日であり、日本国憲法下では歴代7位の短期政権となった。改造内閣はわずか31日の短命に終わった。
内閣総理大臣退任後
健康の回復
その後、入院していた慶應義塾大学病院から「一時帰宅」し、東京・富ヶ谷の私邸で自宅療養に入った[38][39]。
11月13日に新テロ特措法案の採決を行なう衆議院本会議には「はってでも出たい」と出席し、白票(賛成票)を投じた。後の記者会見において安倍前首相は「回復しました」と元気な様子を見せた。また、同採決を地方出張のため棄権した民主党代表小沢一郎に対して、「無責任じゃないですか。本当は(小沢は)賛成だったんじゃないかという人もいますがね」と強く批判した。
2008年1月、『文藝春秋』に手記を寄稿。2007年9月の退陣に関し、体調悪化のため所信表明演説で原稿3行分を読み飛ばすミスを犯したことが「このままでは首相の職責を果たすことは不可能と認めざるを得なかった。決定的な要因のひとつだった」と告白するなど、辞任の主な理由は健康問題だったとしている[40]。
2008年には第169回国会会期中に妻の昭恵とスキー旅行[41]や選抜高等学校野球大会の観戦[42]に出かけるなどしている。
政治活動の再開
2007年末、産経新聞のインタビューにて、「『美しい国』づくりはまだ始まったばかり」[43]と述べ、2008年からは活動を本格的に再開し「ジワジワと固まりつつある良質な保守基盤をさらに広げていく」[43]と答えている。
2008年以降は政治活動を徐々に本格化させ、中華人民共和国国務委員の唐家璇と会談するなど外交への取り組みも再開した。同年1月、参院選時の公約への根強い批判に反論し、年金記録の照合作業を2008年3月までに終わらせると公約したが国民一人一人への支払いを保証したわけではない、と主張した[44]。また、本来は国民各自が責任を持って年金記録を管理すべきと指摘し、政府に頼る風潮に疑問を呈した[44]。
2008年3月5日、安倍は勉強会「クールアース50懇話会」を立ち上げ、塩崎恭久や世耕弘成らが入会した[45]。設立総会において、安倍は「北海道洞爺湖サミットを成功させるのは私の責任」[46]と語り、同懇話会の座長に就任した。
3月6日、清和政策研究会(町村派)の総会に出席し、「首相として1年間、美しい国づくりに全力を傾注してきたが、残念ながら力が及ばなかった。私の辞任に伴い、みなさんに風当たりも強かったのではないか。心からおわびを申し上げたい」[47]と述べて所属議員に謝罪した。この総会にて安倍の派閥への復帰が承認され、清和政策研究会相談役に就任した。4月28日に「主権回復五十六周年記念国民集会」でスピーチ、4月30日には「中国の人権状況を考えるシンポジウム」に参加した。
2008年8月15日朝、首相在任中に果たせなかった終戦記念日の靖国神社参拝をおこなった。
略歴
- 1954年9月21日:東京都に生まれる。本籍地は山口県大津郡油谷町(現・長門市)。
- 1977年3月:成蹊大学法学部政治学科卒業
- 1977年4月:米国カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に入学。その後、ロングビーチの語学学校に転校した。
- 1978年4月:南カリフォルニア大学に入学。政治学を専攻し春・夏・秋学期を履修し、1979年に中退。
- 1979年4月:株式会社神戸製鋼所入社
- 1982年11月:神戸製鋼所退社、外務大臣(安倍晋太郎)秘書官に就任
- 1993年7月:衆議院議員初当選(旧・山口1区)
- 1993年7月:衆議院議員初当選
- 1999年10月:衆議院厚生委員会理事
- 2000年7月:第2次森改造内閣で内閣官房副長官に就任
- 2001年4月:引き続き第1次小泉内閣で内閣官房副長官に就任
- 2003年9月:自由民主党幹事長に就任
- 2004年9月:自由民主党幹事長代理に就任 党改革推進本部長に就任
- 2005年10月:第3次小泉改造内閣で内閣官房長官に就任
- 2006年9月:自由民主党総裁に選出、第90代内閣総理大臣に就任
- 2007年9月:自由民主党総裁及び内閣総理大臣を辞職
- 2007年9月:安倍内閣総辞職
主な所属議員連盟
政見・政策
国家像
「わが告白 総理辞任の真相」『文藝春秋』2008年2月号