麻生太郎

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麻生 太郎
麻生 太郎

麻生 太郎(あそう たろう、1940年昭和15年〉9月20日 - )は、日本政治家実業家衆議院議員(10期)。為公会(麻生派)会長。

経済企画庁長官(第53代)、内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)(第2代)、総務大臣(第345代)、外務大臣(第137138代)、内閣総理大臣第92代)や、自由民主党政務調査会長自由民主党幹事長自由民主党総裁(第23代)などを歴任した。

モントリオールオリンピッククレー射撃クレースキート競技)日本代表(41位)。元麻生セメント(現・株式会社麻生。麻生産業から分社した麻生セメントは、麻生と社名変更している。現在の麻生ラファージュセメントは、麻生からさらに分社化した麻生セメント(2代目)が社名変更したもの。)代表取締役社長。妹は寛仁親王妃信子クリスチャンカトリック)である。

経歴

政界入りまで

福岡県飯塚市麻生太賀吉・和子の長男として生まれる(父方の祖父の名前も“麻生太郎”である)。麻生塾小学校(閉校 後の学校法人麻生塾・麻生専門学校)を経て、小学3年生の頃上京し、学習院初等科に編入。

海外留学

1963年学習院大学政経学部を卒業した。 学習院大学卒業後は、下記のような海外留学生活を送ったとされている。

  • 1963年9月 - スタンフォード大学大学院に留学
  • 1965年 - スタンフォード大学大学院を中退、ロンドン大学政治経済学院に留学
  • 1966年8月 - ロンドン大学を中退

スタンフォード大学・大学院(米国)では政治学、ロンドン大学・大学院(英国)では経営学を学んだと2001年4月の自民党総裁選挙候補者プロフィール中には記載されていたが、現在の本人オフィシャルサイトにこの期間についての一切の記載はない。2007年9月16日 読売新聞には、1963年3月 学習院大政経学部卒業、同年9月 スタンフォード大大学院留学、と紹介されており、上記の総裁選候補者プロフィール中にあるロンドン大学への留学については記述が無い。

尚、米国での留学生活は麻生が過剰にアメリカナイズされる事を恐れた実家の意向で中断され、一旦帰国した後に、再度ロンドン大学に留学したとされている。 華やかな留学歴を持つが、肝心の学位は取得できないまま帰国しており、留学中は学業をはおろそかにしていたと自ら語っている。霍見芳浩ニューヨーク市立大学教授によれば、80年代に同氏が麻生太郎を訪ねた際に『「英国留学」ということだったので英文資料も持参していたが、見せようとすると、「私は、英国では遊んでばかりで、何も勉強しなかった」と正直な告白だった。ご謙遜かと疑ったが、そうではないのはすぐに明らかになった』といったやりとりがあったとのことである。

海外での事業

帰国後の1966年に実家の麻生産業(後に清算)に入社し、1960年代後半にブラジルサンパウロ市に1年近く駐在していたことがあると本人は語っている。また、麻生太郎の従兄弟に当る人物がブラジルに移民していたことも近年になって判明した。

その後、1970年から2年間に渡って西アフリカのシエラレオネにて、同国のダイヤモンド産業国有化政策実施後に地元有力者から鉱区の提供を受けた麻生家の現地駐在員として、ダイヤモンド採掘業に従事していた事が知られている。この採掘事業を開始したのは、麻生太郎の父親である麻生太賀吉と実弟で専務の麻生典太だったと言われており、同国のダイヤモンド採掘を長らく支配していたイギリス人とレバノン人以外の人に掘ってもらいたい、という現地の意向から麻生家に鉱区が提供されたと麻生典太は語っていたと言われる。その後、同国での内戦勃発に伴って麻生家は事業から撤収した。 2006年1月19日に日本記者クラブにて行われた外務大臣演説でシエラレオネのダイヤモンド採掘業での経験について発言しているほか、当時製作されたニュース映画にも現地の事業を指揮する麻生太郎本人がインタビューに答えて登場している

帰国後の経歴

1973年にセメント事業の分社化の後にグループ中核企業となった麻生セメント(現:株式会社麻生)の代表取締役社長に就任。炭鉱業からセメント業への転換を成功させた。なお、麻生産業時代にまた、社長業の傍らで、1976年モントリオールオリンピッククレー射撃の日本代表選手として出場(結果は41位)している。

政界入り後の経歴

1979年10月、第35回衆議院議員総選挙に(旧福岡2区、現:福岡県第8区)から出馬。初当選を果たし政界入りする。落選した第37回衆議院議員総選挙を除き、現在まで全ての総選挙で当選している。宏池会に所属。

1996年第2次橋本内閣経済企画庁長官に就任し、初入閣。

1999年1月、党内で長年所属した宏池会を離脱し、元総裁河野洋平を会長に大勇会(現在の為公会、通称”麻生派”)旗揚げ。

2001年4月、01年自民党総裁選に出馬し、小泉純一郎橋本龍太郎と戦い31票で3位。その後発足した小泉政権では党政務調査会長を務め、2003年9月からは総務大臣として入閣し、郵政民営化を担当した。

2006年9月、06年自民党総裁選に立候補するも内閣官房長官(当時)の安倍晋三に敗れる(安倍:464票 麻生:136票 谷垣禎一:102票)。

2007年3月20日、衆議院議員在職25年を迎え、衆議院より院議をもって表彰された。

2007年9月、07年自民党総裁選に立候補する。党員票では福田康夫を僅差で上回るも133票差で敗れる(福田:330票 麻生:197票)。

2008年9月、08年自民党総裁選に4度目の立候補をし351票を獲得。自民党総裁に就任する。

2008年9月24日、第92代内閣総理大臣に就任。麻生内閣組閣する。就任の際、「日本を明るく強い国にする」と述べた。

2008年10月2日麻生内閣メールマガジン「太郎ちゃんねる」を配信。創刊号では景気対策の必要性を訴えているほか、「麻生内閣の一員になったつもりで忌憚のない意見を」と呼びかけている。内閣としては初の動画も用意している。

2009年8月30日第45回衆議院議員総選挙で自由民主党が惨敗、衆議院第1党の座から転落。同日夜に退陣を表明。

2009年9月16日、自由民主党総裁を辞任。同日の臨時閣議にて麻生内閣総辞職を決定。政権を民主党代表鳩山由紀夫に明け渡した。

政治的主張

経済

道路整備などを主に主張するエコノミストのリチャード・クーが「経済政策の理論的支柱」として麻生の財政出動を中心とする政策作りに協力している。

定額減税公共事業を中心とする財政出動に積極的な意向を示しており、財政健全化よりも景気対策の優先を提唱している。2008年になってからは、財政健全化を目指した小泉政権構造改革路線の推進を否定し、「基礎的財政収支(プライマリーバランス)の11年度黒字化目標」の延期に言及している。

消費税の増税に関しては、「もはや、広く薄い負担を税制に追加していくとしたら消費税しかない」として消費税増税を示唆したが、2008年9月に世界的な金融危機が発生すると「消費税増税を早期に行えば、著しく景気を冷やす」として、当面の増税を見送ると述べる一方で、2011年以降に10%の消費税を導入する意向を示した。

労働問題に対しては、「企業の生産活動で得られた付加価値の分配は個々の企業が判断する」と述べ、国としては是正する意思の無いことを明らかにした。

首都圏と地方の間の格差問題については、「地方の自立には、きちんと財政出動をやって、道路、交通網を整備しないといけない」として地方経済振興の為に公共事業が必要との考えを示している。また、「(地方の)医療介護が一番しんどいのではないか。病院をつくるより病院と結ぶ道路を造った方が安い」と述べ、道路建設により地方の医療が向上するとの考えを示している。

2008年10月30日には、世界的な金融危機と景気低迷への対策として事業総額26兆9000億円にも及ぶ追加経済対策を発表。小渕内閣地域振興券とよく似た、2兆円を超える給付金(「4人家族で6万円程度になる」としている)を全世帯に支給し、過去最大規模の住宅ローン減税などを実施した。

この政策のうち、定額給付金について、毎日新聞は、過去の「地域振興券」が消費ではなく貯蓄に回ったことから、今回も「景気を浮揚させる効果は期待できない」との見方を示し、11月26日に開催された全国町村長大会では定額給付金を巡る不満が噴出していると報道した。麻生のあいさつに「丸投げやめろ」とやじが飛ぶ一方で「地方分権」を理由に事務を市区町村に委ねたことなどについて政府を批判した民主党幹事長鳩山由紀夫は大きな拍手を浴びた。しかし、経済協力開発機構(OECD)経済局のシニアエコノミスト、ランダル・ジョーンズは「即効性がある最も有効な措置」 だとの見方を示しており、最終的にはジョーンズの見解どおり、定額給付金の支給は、消費拡大に一定の効果を生み、家具や家電などの購買を促進させるなど、新たな消費を生むきっかけになった が、この政策は金融危機を回避するという緊急性から急いで決定された政策であったため、配布方法などできめ細かさに欠けるところがあり、「バラまき」という批判を浴びた。

外交・安全保障

ディック・チェイニーと会談する麻生(2007年2月21日ホワイトハウスにて)

外務大臣時代に、当時のブッシュ政権の中心にいた新保守主義の考え方に近い、自由と民主主義、法の支配、市場経済を重視する「価値の外交」(価値観外交)と、同じ価値観を持った国家と連帯する「自由と繁栄の弧」を唱えた。

発展途上国へのODA
ODAには積極姿勢を取っている。2007年1月26日、「ODAは、我が国外交の重要な手段であります。国際社会の一員としての責務を果たし、かつ、自らの繁栄を確保していくために、ODAを一層戦略的に実施します。「自由と繁栄の弧」形成のためにも、ODAを活用していきます。そのうえで、ODA事業量の100億ドルの積み増し、また対アフリカODAの倍増など、対外公約を達成すべく努めてまいります」と述べた。
アメリカ合衆国
2007年2月3日、京都市内の講演で「ドンパチが終わった後が大変だというのがイラクで分かった。(イラク戦争においてアメリカがイラクを)占領した後のオペレーションは非常に幼稚」とアメリカのイラク政策を批判した。
東アジア
韓国に対しては、2007年1月26日に「日本と韓国は、互いにとって最も近く、基本的価値を共にする大切な民主主義国同士であります。そのような間柄にふさわしい、未来志向の関係を打ち立てます」と述べている。また、2005年12月25日の韓国の大手メディアである中央日報のインタビューで、「韓国に一年に2度ずつ計40-50回ほど行っているが、私が知っているかぎり今の両国関係が最も良いのではないかと思う。それは韓国の生活水準が良くなり、自信をつけているためと思われる。サムスンだけでなく、韓国製品が非常に良くなった」と発言している。また、韓国人徴用者を強制労働させていた麻生炭鉱の調査については、「戦争前の話はよく知らないが、そういう資料が残っていれば提供する」と話した。
中国に対しては、2007年1月26日に「共通の戦略的利益に立脚した、互恵関係を築いてまいります」としている。
台湾に対しては、2006年3月9日、参院予算委員会で、「民主主義が成熟し、経済面でも自由主義を信奉する法治国家であり、日本と価値観を共有する国」と発言。台湾のメディアでは「日本の外相が『台湾は国家』と発言」と報道された。
北方領土問題
2006年12月13日の衆院外務委員会において、北方領土問題を解決するために北方4島(択捉国後色丹歯舞)全体の面積を2等分して、半分をロシアに譲ることにより解決を目指す考えを示した。これは元首相の海部俊樹から「北方領土の返還は党是だ。党の基本問題として守るべきものは守ってきちっとやってほしい」と批判された。
核武装論
2006年10月、自民党政調会会長(当時)の中川昭一が「核武装論も選択肢として考えておくべき」と発言したことで一部から非難を受ける。麻生は非核三原則の堅持を明言を前提としつつも、「隣の国が持つとなったときに、1つの考え方としていろいろな議論をしておくことは大事だ」「日本は言論統制された国ではない。言論の自由を封殺するということに与しないという以上に明確な答えはない」と中川の擁護とも解釈できる発言を行った。この発言が原因で、12月に民主党、社民党共産党など野党4党から外相としての不信任決議案を提出された。
憲法改正論議
2008年9月の国連総会での演説後、自衛隊の集団的自衛権の行使について「できるようにすべき」と憲法改正もある程度は必要との認識を持っている。

歴史認識

日本統治時代の朝鮮台湾に対しては肯定的側面もあったとする発言をしている。2003年5月31日東京大学学園祭において「創氏改名朝鮮人が望んだ」(満州や日本国内で経済活動をする上で朝鮮名が不利な場合があったという文脈での発言)、「日本はハングル普及に貢献した」と述べた(当該項目も参照)。また、2006年2月4日福岡市での講演において、日本が植民地台湾義務教育に力を入れたと指摘した上で「台湾はものすごく教育水準が上がって識字率などが向上したおかげで今極めて教育水準が高い国であるが故に、今の時代に追いつけている」「我々の先輩はやっぱりちゃんとしたことをやっとるなと正直そのとき思った」と述べた。

2007年3月21日長崎県時津町で講演。日本独自の中東和平外交として、ヨルダン渓谷の開発を進める「平和と繁栄の回廊」構想に触れ、「米国人にできないことを日本がやっている。日本人というのは信用がある。青い目で金髪だったら多分駄目よ」と述べた。「われわれは幸いにして黄色い顔をしている。そこ(中東)で搾取をしてきたとか、ドンパチ、機関銃撃ったとか1回もない」と語った。

2006年5月26日、アジア各国の政府首脳や経済界リーダーを招いた国際交流会議「アジアの未来」において「近代の生んだ毒......。それはすなわち『国民国家』であり、『自民族中心主義』という意味に規定される『ナショナリズム』でした。この2つは、地図に黒々と、太い国境を引く思想でした。また時として、その国境を外へ外へ、無理やりにでも広げていくのをよしとする考えでした。(中略) 他人(ひと)のことは言いますまい。日本人は一度、国民国家とナショナリズムという、強い酒をしたたかにあおった経験があります。皆さんこれからのアジアは、国民国家の枠、ナショナリズムの罠に絡め取られるようではいけません」と述べた。

2008年10月2日には日本の過去のアジア支配に対する反省と謝罪を明確にした「村山談話」について、「いわゆる村山談話と17年8月15日の小泉純一郎首相の談話は、先の大戦をめぐる政府としての認識を示すものであり、私の内閣においても引き継いでいく」として麻生内閣でも、明確に堅持する方針を示した。

2008年10月31日には航空自衛隊幕僚長田母神俊雄旧日本軍の侵略行為を否定する論文を執筆していたことが判明したが、麻生は記者団に対して「個人的に出したとしても、立場が立場だから適切ではない」と述べた。

麻生内閣メールマガジン「太郎ちゃんねる(2008年12月4日配信)」において、「1941年12月に第二次世界大戦真珠湾攻撃で始まるんです」と発言した。

従軍慰安婦問題

  • 内閣総理大臣としては河野談話を踏襲することを表明したが、アメリカ合衆国下院に提出された慰安婦問題をめぐる対日非難決議案にある「日本軍による強制的な性奴隷化」といった記述について「客観的な事実にまったく基づいていない」と強い遺憾の意を示している。首相また、国連の自由権規約委員会が従軍慰安婦に対して日本政府に謝罪と補償などを行うよう求める勧告したときも、第171回国会において、内閣総理大臣として『この勧告は、法的拘束力を持つものではなく、市民的及び政治的権利に関する国際規約の締約国に対し、当該勧告に従うことを義務付けているものではないと理解している。』と述べ、慰安婦に対して謝罪や賠償をする意思がないことを表明した。

靖国神社問題

若き頃の麻生太郎
国体クレー射撃代表の麻生太郎

政治家の靖国神社参拝問題については、政教分離が問われるなど一番の問題は靖国神社宗教法人であることだとしており、2006年の総裁選では総理になった場合に靖国神社を非宗教法人化(国が関与できる特殊法人への移行)し、国立追悼施設にすることを公約に掲げた。2008年10月にも「神社という名前が問題なら、靖国廟でも招魂社でもいろんな形がある」として、非宗教法人化を支持する姿勢を示している。

2006年には、「首相になった際には靖国参拝を自粛する」という考えを示していた[1]。2008年に首相に就任した直後には「行くとも行かないとも答えることはない」として曖昧な姿勢を見せている。外交問題に飛び火した小泉首相の参拝について「中国が(参拝を中断しろと)言えば言うほど行かざるを得ない」とし、「これはタバコを吸うなと言うと吸いたくなるのと同じだ」と述べた。麻生本人は外相在任当時、外務大臣は個人ではないという理由で靖国神社には参拝しなかった。

A級戦犯分祀については、「靖国神社に戦死者でない人が祭られていることが非常に大きな問題点だ」「(首相の参拝について)他の国々、国内からいろいろ言われないよう、英霊から感謝されるような形で参拝できる制度を考えるべきだ」との見解を示している[2]が、靖国神社が宗教法人である限り政治の介入による分祀は厳に慎むべきであるとしている。そのため、靖国問題の解決策に関しては、靖国神社の非宗教法人化を行い、国が関与できるようにしてA級戦犯分祀することを「1つの方法」と発言し、「望ましい」として賛成している[3]

2006年1月28日名古屋で行われた公明党議員の会合で、「英霊天皇陛下のために万歳と言ったのであり、首相万歳と言ったのはゼロだ。天皇陛下が参拝(正確には「親拝」という)なさるのが一番だ」と述べ、「(天皇が)公人私人かという論議のため参拝できなくなったが、解決の答えはいくつかあるはず」と付け加えたが、批判を浴びると「今の状況で天皇陛下に参拝していただきたいとは一切言ってない」と発言を修正し、釈明した[4]

日本と韓国の緊張関係について、「両国が靖国問題にあまりにも執着しているのが最も大きな問題だ。 当分はマスコミが靖国問題を書かないのが一番よさそうだ。 問題をあおって増幅させた」との考えを表明している。

2006年5月26日に都内のホテルで開かれた国際交流会議「アジアの未来」で講演し、「23日に自分がカタールで中韓の外相と会談したので関係改善の流れが出て来た」と発言。これに対して韓国産業資源部長官は、「アジア共同体形成に関して各国間合意はできたが、韓中日の共同体構築努力が他地域に比べ足りない、原因は一部政治家の靖国参拝や歴史問題だ、ヨーロッパがいかにしてこれを克服したか考えて欲しい」と講演した。

首相在任中の2009年には「(靖国神社は)最も政治やマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべきものだ。もっと静かに祈る場所だ」として、終戦記念日に靖国神社参拝を行わない意向を示した。

2009年10月17日には、首相在任中には参拝しなかった靖国神社に参拝した。

人物

記者会見に臨む麻生

人物像

身長175cm、体重70Kg、血液型A型。名門一家に育ち、麻生財閥の元社長であるが、本人は「首相の家庭なんて幸せなもんじゃねえ」「両親にほったらかしにされて育った」「生まれはいいが、育ちは悪い」と語っている。口が上がり気味なため雑誌などの似顔絵ではへの字に描かれることが多い。べらんめえ調の軽妙な語り口と毒舌も織り交ぜた発言で、街頭演説などで聴衆の人気を博した。一方で過去の失言が指摘されたり、問題視されることがしばしばある。

大学進学に際し、父親に「東大を受験したい」と言ったところ、父親から「官立大学はお金がない人がいくところで、お金持ちのおまえが行くのは税金がムダ。それに東大は役人になるためにいくところだ。おまえ役人になるのか?」と言われたため、東大へ行けないこともなかったがあえて私立の学習院大学へ進学した、と自著で述べている。また、成績はビリから5番目以内であったことも自著で述べている。

夢実現21世紀会議の議長を務め、「国づくりの夢実現検討委員会」を通じて日韓トンネルの実現に向けた政策提言を発表していることが2003年に自民党機関紙で伝えられた。また日韓議員連盟の副会長も務めている。

海外留学などの経験から、英語力が堪能であるため海外などでのスピーチは通訳なしで英語で行っているというふれこみである。しかし、週刊新潮によるとアメリカ合衆国大統領バラク・オバマが「麻生首相の英語はさっぱりわからない」と外務省が言ったとしている。。その一方で、「踏襲」を「ふしゅう」と読んだり、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだり、日本語の能力に関しては疑問符がついている。

総理大臣に就任以後も高級ホテルや高級料亭などを頻繁に行き来していることが報道されている。政治資金収支報告書によると、2006年度には資金管理団体「素淮会」から高級クラブなどに173回、合計で約3500万円を支出している。2007年度にも「ミシュランガイド」東京版で最高の3つ星を獲得した寿司店など高級店を「会合」名目で利用している。しかしこのような店はセキュリティ上有利なことなどから、与野党問わず大物議員が使うことは多いため、一概に麻生が多く使っているとは言えない。

2004年9月に、3年10か月の国民年金保険料未払い期間があったことが判明している。民主党代表(当時)の菅直人が「未納三兄弟」と呼称したうちの1人である。

2008年10月24日閣僚資産公開で福岡県の実家や都内一等地の邸宅、軽井沢の別荘など併せて4億395万円の個人資産を所持している事が分かった。前首相福田康夫が所持している総資産の6倍に及び、国会議員の中でも有数の「セレブ議員」と報道された。

邸宅

敷地面積2400平方メートル、土地代だけで時価50億円を超えると言われる大邸宅を渋谷区神山町の一等地に所有している。また、弟・泰の土地を併せれば5000平方メートルを優に超える。敷地内には木造3階建ての洋館が屹立し父・麻生太賀吉が存命中の頃は専属コックがおり、フランス料理のフルコースなども調理していた。報道機関では「麻生御殿」とも呼称される。東京の大邸宅の他には約2万坪の実家が福岡県飯塚市に存在する。

信仰

クリスチャンカトリック)である。靖国神社に参拝することもある(入閣している時はこれまで参拝してない)が、自身が神道ではなくクリスチャンということもあり、靖国神社の非宗教法人化を提唱している。終戦記念日8月15日ではなく、例大祭に合わせて参拝することが多い(カトリックでは8月15日は聖母の被昇天という祭日であり、この日に祝いのミサがあるという事情もある)。

クールビズスタイルになってからノーネクタイのシャツの襟の下に見える金色の鎖は、10代から50年以上首にかけているカトリック信徒としての十字架の鎖部分である[5]

漫画

読書が趣味。特に漫画好きであり、一部からは漫画文化のよき理解者として非常に人気が高い。自身のウェブサイトに掲載している『ビッグコミックオリジナル増刊』2003年7月2日号のインタビューによれば、自分の車内には常に最新の週刊コミック誌を置いているという。漫画好きであることは外国の首脳にも知られており、ポーランド外相からは、現地(ポーランド語)版の『犬夜叉』を寄贈されている。

漫画好きであることを自身の政策や政治的主張に利用することも多く、2006年2007年自民党総裁選の際には秋葉原で街頭演説し、漫画を始めとした日本のソフトコンテンツ産業の対外競争力・影響力を評価し、日本人であることに自信を持つべきであると述べた。2006年4月にデジタルハリウッド大学で行われた政策スピーチでは、主人公が交渉人として世界を股にかける漫画である勇午について触れ、「『勇午』を読んでない人は外交なんて語っちゃダメ」と論じた。 2007年5月22日には海外の漫画家を対象とした「国際漫画賞」を創立することを発表。「漫画のノーベル賞のようなものを作りたい」と述べている。同年5月30日からウィーンで開催された核拡散防止条約 (NPT) 運用検討会議の第1回準備委員会では、日本政府代表団が広島被爆体験を描いた漫画『はだしのゲン』の英訳版を加盟国に配布することになったが、これは麻生の肝入りで実現したものである。外務省英語版30冊を出版社から譲り受け、今後も「漫画外交」を活発に展開させることを予定している。

羽田空港で『ローゼンメイデン』を読んでいたところを見たという2ちゃんねるの書き込みがインターネット上で話題となり、一部のおたく層から『ローゼン麻生』『ローゼン閣下』と呼ばれるようになった。2006年5月に行われたサブカルチャー雑誌『メカビ』Vol.1のインタビューにおいて『ローゼンメイデン』について、「少女コミックの割には、話が重厚にできている」と感心したことを述べているが、「羽田空港で読んでいたかどうかは覚えていない」としている。だが、2008年2月18日のSMAP×SMAPにゲスト出演した際に質問され「空港で噂のローゼンメイデンが置いてあったので読んだ」と語り、さらに『英語でしゃべらナイト』では、「ああ、これが最近噂の…」と思ってパラパラとめくっていたところを週刊誌に激写されたと語った。なお、2008年度版の『現代用語の基礎知識』には「ローゼン麻生」という項目が収録されている。こうしたことから、漫画好きの人々からの支持は高いと言われている。

ただし全ての漫画に理解があるというわけではなく、1989年 - 1991年に掛けての「有害コミック」騒動では、1991年「子供向けポルノコミック等対策議員懇話会」を結成し、会長となった。この会では、業界関係者を招致し、自主規制の現状について説明させた。

2008年8月2日に死去した漫画家赤塚不二夫について、「あの種のギャグ漫画の草分け的存在で『シェー』をはじめ、よく笑った」とコメントした。

2008年9月25日の英有力紙フィナンシャル・タイムズでは「貴族的家柄で失言と偏愛的な青年向け漫画愛好家である麻生太郎」と表され、国外でも漫画好きの政治家と認知されている。

2008年9月26日東京・秋葉原で遊説を行い、さらに同所で開かれた「秋葉原エンタまつり08」の特別ステージにゲスト出演。『ジャパニメーションは、21世紀日本の資源。正しく国益。』という持論に基づき、漫画家・アニメーターの待遇向上による作品の品質向上、多国間における著作権保護の促進による国際競争力強化、ネット時代の柔軟なコンテンツ流通のあり方等について政策として強力に取り組むと共に、平和日本の文化として世界へのアピールを宣言。多くの聴衆からの熱狂的支持を受けた。

10月26日には再び秋葉原で街頭演説を行った。その際2008年6月8日に起こった秋葉原通り魔事件を取り上げ、「世の中が暗くなっている」と話し、「明るい世の中にしよう」と呼びかけた。また、麻生は中小企業、零細企業、地方銀行について触れ、従業員の最低賃金を上げることや、非正規雇用正規雇用にし、その際の負担は政府が賄うということを話し、就任当時から語っている景気対策の必要性を訴えた。また、総理大臣になってからの多忙さで、漫画があまり読めなくなったことも話した。

この街頭演説では総裁選時とは異なり「アキバはいつまでもてめーの味方ぢ(じ)ゃねーぞ」と書いた紙を掲げる左翼活動家でエロ漫画家の山本夜羽音の一団や、「アキバを利用している」等と批判的な見解を示す者がおり、「秋葉原ですら麻生離れがすすんでいる」という報道がなされた。

週刊少年ジャンプで人気を博しており、麻生も好きだと公言している漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の両津勘吉の銅像が東京・亀有に2008年11月に設立され、アニメで両津の声を務めたラサール石井と原作者や麻生も参加し除幕式が行われたが、その際に麻生は原作者の秋本治には挨拶したにも関わらずラサール石井に対しては知らなかったためか完全に無視し、そのことに憤慨したラサール石井がblogで「握手どころか、1回も目を合わすこともない。漫画好きなんじゃないの?庶民派アピールなんじゃないの?俺、両さんの声やってるんすけど。ははあ。この人、俺のこと知らないな。漫画好きでもアニメはみてないのね。なんで俺をシカト?いやあ、なんかヘンだよこの人。ていうか、馬鹿だなあ」などと麻生批判を展開したことが話題になった。このblogはラサールに対する批判で炎上し、該当記事はその後削除された。

2008年11月20日、アニメ映画監督として知られる宮崎駿(学習院大学では麻生と同期)が、都内の日本外国特派員協会で行われた記者会見の中で、機会のあるごとに麻生が「オタク」文化を理解する人物として自分を積極的に打ち出していることについて、記者が宮崎にどう考えるかと質問したところ、「恥ずかしいと思う。それはこっそりやればいいことです」と述べ、熱心に漫画を読んでいることをわざわざ首相が宣伝する必要はないという考えを示した。これに対して、ネット上の一部で「オタク批判だ!」という宮崎への批判も出たが、スタジオジブリ関係者は、「ネットで言われているような『漫画を読むのは恥ずかしい』などと宮崎監督は言っているわけではない」「麻生首相はマンガ好きであることを、若者に対する自らの政治アピール(政治利用)として使っている。アキバに行って『オタクのみなさん』などと演説したりなど、見るからに、マンガを強引で露骨に全面に出しているのは、行き過ぎではないか、と批判しているのだと思います」との見解を示している。

『後継者の品格—現代に見る帝王学』の著者の新井洋は「麻生さんは、育ちが悪いと自分を卑下することで、逆に家柄の良さをひけらかしています。マンガオタクも秋葉原好きも、自分が庶民的であることのアピールですが、真の帝王学を学ばれた方はそういうひけらかしはしません」と述べている。

衆議院議員平沼赳夫は、読売新聞の連載記事でのインタビューにて「総理が秋葉原で漫画の話をしてはいけない。総理は歴史、政治、道徳、宗教学などの本を読まなければいけない」と苦言を呈している。中曽根康弘は、麻生が「勉強になる」と公言する漫画『ゴルゴ13』を読み、「バカだね」と発言した。

クレー射撃

大学時代からクレー射撃を始め、22歳の時全日本選手権を当時の日本新記録で優勝。1974年に行われた第2回メキシコ国際射撃大会に優勝。1976年のモントリオールオリンピック代表に選出される。2000年5月には日本クレー射撃協会会長に就任した。

他党、支持団体との関係

公明党との関係

脚注




Flag of Japan.svg          歴代内閣総理大臣          Go-shichi no kiri crest 2.svg
91
福田康夫
92
2008年 - 2009年
93
鳩山由紀夫
第代
[[]]
第代
第代
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第代
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第代
第代
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第代
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第代
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第代
[[]]
第代
第代
[[]]
伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衞
寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一
濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎
阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂
片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮
三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曾根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹
宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎
安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
菅直人
野田佳彦
  1. 『読売新聞』 2006年8月4日
  2. 『時事通信』 2006年3月8日
  3. 『日本経済新聞』 2008年9月15日
  4. 『共同通信』 2006年1月31日
  5. 側近の議員である松本純がウェブサイトで説明している。