戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話
戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話(せんご50しゅうねんのしゅうせんきねんびにあたってのむらやましゅしょうだんわ、英:On the occasion of the 50th anniversary of the war's end)とは、1995年(平成7年)8月15日の戦後50周年記念式典に際して、第81代内閣総理大臣・村山富市が、閣議決定に基づき発表した「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題する声明[1]。一般に、村山談話として知られる。
概要[編集]
戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話(村山談話)は、1945年(昭和20年)8月15日の終戦から50年経った1995年(平成7年)8月15日、村山富市・内閣総理大臣が、閣議決定に基づいて発表した声明である。以後の内閣にも引き継がれ、日本国政府の公式の歴史的見解としてしばしばとり上げられる。
談話は、今日の日本の平和と繁栄を築き上げた国民の努力に敬意を表し、諸国民の支援と協力に感謝する第一段、平和友好交流事業と戦後処理問題への対応の推進を期する第二段、「植民地支配と侵略」によって諸国民に多大の損害と苦痛を与えたことを認め、謝罪を表明する第三段、国際協調を促進し、核兵器の究極の廃絶と核不拡散体制の強化を目指す第四段からなる。
特に、日本が「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たことを「疑うべくもないこの歴史の事実」とし、「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」した第三段と、慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(河野談話)によって存在を認めた、いわゆる従軍慰安婦問題などへの対応を示した第二段については、論争の的ともなっている。
村山首相は、この談話を発表したあとの記者会見で、いくつかの点について質問を受け、見解を示した[2]。まず、天皇の責任問題については「戦争が終わった当時においても、国際的にも国内的にも陛下の責任は問われておりません。」として、「今回の私の談話においても、国策の誤りをもって陛下の責任を云々するというようなことでは全くありません。」と、その存在を否定した。また、「遠くない過去の一時期、国策を誤り」としたことについて、「どの内閣のどの政策が誤った」という認識か問われ、しばし逡巡した後、「どの時期とかというようなことを断定的に申し上げることは適当ではない」と答えた。さらに、諸外国の個人から、戦争被害者として日本政府に対して賠償請求が行われていることについて、今後の日本政府の対応を問われ、「先の大戦に係わる賠償、財産請求権の問題につきましては、日本政府としては、既にサンフランシスコ平和条約、二国間の平和条約及びそれとの関連する条約等に従って誠実に対応してきた」とし、「我が国はこれらの条約等の当事国との間では、先の大戦に係わる賠償、財産請求権の問題は、所謂、従軍慰安婦の問題等も含めて」「法的にはもう解決が済んでいる」との認識を示し、個人補償を国として行う考えはないとした。
本文[編集]
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し[3]」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
沿革[編集]
- 橋本内閣
- 1996年(平成8年)1月24日、橋本龍太郎・内閣総理大臣は、衆議院本会議の代表質問において本談話の今後の取り扱いを問われ、本談話の意義を踏まえて対アジア外交を進めていく旨、答弁した[4]。
- 小渕内閣
- 1998年(平成10年)8月11日、小渕恵三・内閣総理大臣は、衆議院本会議の代表質問において歴史認識について問われ、本談話の基礎の上に立って外交を行っていく旨、答弁した[5]。
- 森内閣
- 2000年(平成12年)11月22日、森喜朗・内閣総理大臣は、参議院予算委員会において「かつての戦争」についての認識を問われ、「95年の村山内閣総理大臣談話というもの、これが我が国の過去の問題についての政府としての正式な見解でございます。これに基づいて、特に周辺近隣アジア諸国とはこの精神をしっかり受けとめて、そして外交交渉を進めていくということが大事だと考えております。」と答弁した。
- 小泉内閣
- 2005年(平成17年)8月15日の終戦の日、小泉純一郎・内閣総理大臣は、村山談話を踏襲した『小泉談話』[6]を発表して、再びアジア諸国に謝罪した。
- 安倍内閣
- 小泉の後を受けた安倍晋三・内閣総理大臣は、タカ派として知られ、首相就任前に、村山談話に対し批判的な発言をしていたため、首相就任後、村山談話にどのような態度を取るかが注目されていた。
- 2006年(平成18年)10月5日、安倍首相は、衆議院予算委員会で、村山談話について「アジアの国々に対して大変な被害を与え、傷を与えたことは厳然たる事実」であることは「国として示した通りであると、私は考えている」と再確認し、これを1993年(平成5年)の『河野談話』とともに、「私の内閣で変更するものではない」と明言した。
- 福田内閣
- 2008年(平成20年)5月7日、福田康夫・内閣総理大臣は、胡錦濤・中華人民共和国主席の日本訪問を受け、日中首脳会談に臨んだが、首脳会談後の共同声明では村山談話について一切言及しなかった[7][8]。
- 福田は自由民主党総裁選挙における総裁候補だった2007年(平成19年)9月19日、日本外国特派員協会での記者会見にて「首相が言ったことだから正しいものと考える必要がある」と述べ、同じく候補者の麻生太郎も「歴代内閣は皆、同じことを申し上げてきている」と発言している[9]。
- 麻生内閣
- 2008年(平成20年)10月2日、麻生太郎・内閣総理大臣は、衆議院本会議の代表質問において、村山首相談話を受け継ぐのかどうか問われ、村山談話や小泉談話は「さきの大戦をめぐる政府としての認識を示すものであり、私の内閣においても引き継いでまいります。」と答弁した。なお、同年11月、政府見解と異なる認識を示した論文を発表したとして航空幕僚長を更迭され、退職した田母神俊雄は、参考人として招致された参議院外交防衛委員会の席で、「いわゆる村山談話なるものを公然と批判したことは全くありませんし、論文の中でも全く触れておりません。」とした上で、「村山談話と異なる見解を表明したということで更迭をされた」との認識を示した。
- 鳩山由紀夫内閣
- 2009年(平成21年)9月21日(日本時間22日)、アメリカ合衆国のニューヨークにおいて、胡錦濤・中華人民共和国主席と会談した鳩山由紀夫・内閣総理大臣は、「互いの違いを乗り越えられる外交をするのが友愛の外交だ」とした上で、「村山富市首相談話を踏襲する」と表明した[10]。
脚注[編集]
- ↑ 従来は「声明」といっていたものを今日日本語では「談話」と表現しているが、英語では従来通り「ステートメント = 声明」という、より明確な意思表示を表わす表現になっている。→ 外務省公式英訳
- ↑ 「戦後50年に当たっての村山内閣総理大臣の談話及び記者会見」(『村山演説集』より)、東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室。
- ↑ 「杖るは信に如くは莫し」(よるはしんにしくはなし)。「頼りとするものとしては、信義に勝るものはない。」の意。出典:「春秋左伝」、襄公8年(紀元前565年)。
- ↑ 1996年(平成8年)1月24日、衆議院本会議における橋本首相答弁は次の通り。「私は、施政方針演説の中ですべての思いをこの一言に込めたつもりでありましたが、それは「我々は過去の重みからも未来への責任からも逃げることはできない」という一言であります。昨年は戦後五十周年という節目で、国会での決議、内閣総理大臣談話が発出されたところでもございました。政府といたしましては、これらを踏まえて、今後ともアジア近隣諸国等との間の過去の歴史を直視しながら、将来に向けて各国との相互理解や相互信頼を促進すべく積極的に取り組んでいく決意でありますし、このため、昨年開始いたしました平和友好交流計画の推進を初めとするさまざまな課題に着実に取り組んでまいります。こうして培われる各国との信頼関係を基礎として、我が国は国際協調を進め、平和の理念を推進してまいる、そうありたいと考えております。」
- ↑ 1998年(平成10年)8月11日、衆議院本会議における小渕首相答弁は以下の通り。「政府の考え方は一九九五年の内閣総理大臣談話のとおりであり、その基礎の上に立って関係諸国との信頼関係を一層強化していくとともに、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、これを通じて平和の理念と民主主義を推進していく立場をとっております。中国や韓国とも、こうした立場を踏まえて、関係の発展に努めてまいります。」
- ↑ 内閣総理大臣談話、首相官邸。
- ↑ 戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明、外務省。
- ↑ 日本国政府と中華人民共和国政府との気候変動に関する共同声明、外務省。
- ↑ 『読売新聞』2007年9月20日
- ↑ 日中首脳会談:要旨、2009年9月23日付『毎日新聞』、同年9月30日閲覧。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 『「村山談話」とは何か』 村山富市・佐高信著 角川ONEテーマ21 角川書店 2009年 ISBN 9784047102002
外部リンク[編集]
- 「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話) - 外務省ウェブサイト
- 小泉内閣総理大臣談話 - 外務省ウェブサイト