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2013年6月2日 (日) 00:54時点における版
日本の歴史(にほんのれきし)、日本史(にほんし)とは、日本または日本列島における歴史である。本項では日本の歴史を概観する。
各時代の詳細は、各時代区分項目(各節の冒頭のリンク先)を参照されたい。
目次
歴史
旧石器時代
日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼる。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。
約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な温暖化が始まると、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、次の縄文時代へ移行していった。
縄文時代
約1万2千年前頃からは縄文時代と呼ばれる。草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。
この頃の人は縄文式土器を作り、早期以降定住化が進んでおもに竪穴式住居に住んだ。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。
弥生時代
紀元前8世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生式土器に由来する。稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。
当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の国が中国へ通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後葉に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。
古墳時代
3世紀中葉に畿内に出現した前方後円墳が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内・山陽・北部九州に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされる。
4世紀後半からヤマト王権は、武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島南部への進出を開始したが、これを契機として朝鮮半島や中国の技術・文物が倭国へ多く流入することとなった。5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、中国王朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。倭の五王は国内に対し治天下大王と称したが、これは倭国を中国と別個の天下とする意識の現れとされる。
倭の五王の後、5世紀後葉から6世紀前葉にかけてヤマト王権内部の政治混乱が見られたが、継体天皇の登場によりヤマト王権による列島支配が強まり、一方、朝鮮半島への進出傾向は大きく後退した。こうした内向的な時期を経てヤマト王権による支配体制が徐々に強化されていった。
飛鳥時代
6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。
6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前葉にかけて聖徳太子と蘇我氏により遣隋使派遣・冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。
7世紀中葉の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内は国制整備で一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。
奈良時代
8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。
この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。
文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教では鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。
平安時代
8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。
平安前期には百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで政府は11世紀初頭ごろから地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系においては負名体制が形成し、軍事面においては国衙軍制を通じて武士階層が登場した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が政権中枢を担う摂関政治が成立した。
12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の増加が著しくなり、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士が政治に進出していき、その結果、平氏政権が登場した。
奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、平仮名・片仮名の使用が開始し、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。
鎌倉時代
12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。
源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その後の過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。源氏の将軍は三代で断絶し、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立。また、承久の乱の結果、公家政権は武家政権に寄生する存在となった。
13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出など、大きな社会変動が生じ始めた。この動きは13世紀後半の元寇によって加速し、幕府の対応策は徳政令発布や得宗専制という形で現れた。また在地社会では悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。
文化面では運慶と快慶の金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面では鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。
南北朝時代
- 詳細は南北朝時代の項を参照。
14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と持明院統の北朝に朝廷が分かれた。室町時代の初期に当たる。
大覚寺統の後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に新政から離れ、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追い、南北朝の争いが全国で行われた。
文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、二条河原落書など文化の庶民化への動きが見られた。
室町時代
14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。
足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開いた。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を幕府-守護体制という。
3代将軍足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から[日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。
この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き、すなわち一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化し、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。
戦国時代
- 詳細は戦国時代の項を参照。
15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。
この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。
そうした流れの中で16世紀中葉に登場した織田信長は、兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していった。
この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が開始し、火縄銃やキリスト教などが伝来し、日本社会に一定の影響を与えた。
安土桃山時代
織田信長は将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。しかし、信長が本能寺の変により滅ぼされると、天下統一事業は豊臣秀吉が継承することとなった。
秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、太閤検地の実施を通して荘園公領制・職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。秀吉は朝鮮への出兵を実行して失敗し、後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化した。
秀吉による天下統一が成り、政治や経済の安定がもたらされると、大名と武士を中心として豪壮な桃山文化が展開した。
江戸時代
慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。
豊臣秀吉が死去すると、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して征夷大将軍に任じられ、大坂の役で豊臣氏を滅ぼした。幕府は禁中並公家諸法度や武家諸法度で朝廷や大名を統制し、諸大名は参勤交代で江戸と領国の往復を課せられた。幕府はキリシタンを禁止し、島原・天草一揆を経て鎖国を完成させ、オランダや清との長崎の出島における交易がわずかに行われた。李氏朝鮮とは朝鮮通信使による交渉が保たれた。
政治が安定すると経済が発展して、徳川綱吉の時代には好景気に沸き商人や町人が力を伸ばし元禄文化が栄えた。
中期には幕府の財政が悪化し、徳川吉宗は享保の改革を行い一時財政を立て直すが、再び悪化し、その後に寛政の改革、天保の改革などで建て直しが図られたが、根本的な解決にはならなかった。貨幣商品経済の発展にともない、化政文化などの町人文化が栄える一方で、旧来の米の年貢収入を基盤とする大名や旗本は窮乏化した。大名は藩政改革を行い、長州藩や薩摩藩はこれに成功して後に雄藩と呼ばれるようになる。
末期は特に幕末と呼ばれ、欧米諸国から開国を迫られ、ペリーが来航して日米和親条約などの不平等条約が結ばれ鎖国は崩れた。開国にともない尊皇攘夷の考えが強まり、半ば内乱状態になり幕府の権威は弱体化して、遂に徳川慶喜は大政奉還を行い朝廷に政権を還した。
元禄文化や化政文化などの町人文化が栄えた。寺子屋や藩校で広く教育が行われ、歌舞伎が演じられ、俳諧が詠まれ、浮世絵が描かれ、お陰参りなど旅行が行われた。
明治時代
明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。
朝廷とそれを推戴する諸藩は、王政復古の大号令や戊辰戦争などを経て江戸幕府勢力を退けると、新たな政府(明治新政府)を樹立した。新政府は欧米の諸制度を積極的に導入し、廃藩置県など明治維新と呼ばれる様々な改革を行った。また同時に欧米の文化・文物が導入され、その有様は文明開化と呼ばれた。新政府は帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設は急速に進展した。日本は、日清戦争と日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で韓国併合を行った。
文化面では欧米から新たな学問・芸術が伝来し、それまでの日本に存在しなかった個人主義に基づく小説という文学が登場するなど、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、仏教弾圧(廃仏毀釈)などの動きも見られた。
大正時代
大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれる。
日本は第一次世界大戦に参戦して勝利し、列強の一つに数えられるようになる。米騒動を契機とする大正デモクラシーと呼ばれる政治運動により、普通選挙が実施され政党政治が成立した。日本は大戦特需による未曾有の好景気に沸くが、大戦が終わるとその反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに関東大震災が追い討ちをかけた。
昭和時代
昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。
大正期から続いた不景気から回復できないまま、世界恐慌が直撃し、社会不安が増大する。政党政治に代って軍部が力を持ち、満州を占領して満州国を樹立し、やがて中国との泥沼の日中戦争に発展する。アメリカやイギリスの反発を招いて国際連盟を脱退。日本は国際的に孤立してドイツ、イタリアのファシスト政権と三国同盟を結び、第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入した。
日本軍はアメリカ軍の物量に圧倒され、原爆を投下されて太平洋戦争に敗れた。戦後はGHQの占領の下で、日本国憲法が制定され、天皇は象徴とされ、国民主権や平和主義などが定められた。サンフランシスコ平和条約により主権を回復し、日米安全保障条約が結ばれ、冷戦下の西側陣営となる。政治的には自民党と社会党の保革55年体制が続く。経済的には高度経済成長を遂げ、経済大国と呼ばれるに至った。昭和の末期にはバブル景気と呼ばれる好景気に沸いた。
平成時代
昭和末期から続いたバブル景気が崩壊し、長い不景気に苦しみ、経済面での構造改革が進められた。その効果もあって、平成14年ごろから景気が回復し始め、平成18年にはいざなぎ景気を超える長期間の景気拡大を達成した。政治面では冷戦が終結した結果、自民党と社会党との55年体制が消滅して保守化傾向が進展した。そのため、長年タブーだった自衛隊の海外派遣が行われ、憲法改正や教育基本法改正が論議されるようになった。
時代区分
日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説とよべるものはない。しかしながら、一応のところ、(原始・)古代・中世・近世・近代(・現代)とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつにおくかは論者によって大きく異なる。
古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、6世紀と見る説、7世紀初頭と見る説、律令国家が形成された7世紀後半と見る説などがある。中世については、中世通じての社会経済体制であった荘園公領制が時代の指標とされ、始期は11世紀後半~12世紀の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した16世紀後半の太閤検地にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、明治維新前後に終わるとされる。近代の始期は一般に幕末期~明治維新期とされるが、18世紀前半の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、太平洋戦争での敗戦をもって近代と現代を区分することもある(以上の詳細→古代、中世、近世、近代、現代)。
上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。
一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古史料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治センターの所在地に従って、飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と区分するが、これだけでは必ずしも十分でないため南北朝時代・戦国時代という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は本来なら「東京時代」と呼称すべきであろうが、天皇の在位に従って明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と呼ばれている(詳細→日本史時代区分表)。
また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化・明治文化・大衆文化~などとする区分もある(詳細→日本の文化#歴史)。
歴史認識・歴史叙述
日本における近代的な歴史思想の導入は、19世紀後半の明治維新以降のことであるが、それ以前も、古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。
古代
ヤマト王権が統一国家を形成しようとしていた6世紀には、倭王家の系譜を記す『帝紀』・倭国の神話を記す『旧辞』が、7世紀前半には厩戸皇子らによって『天皇記』が編纂された。そうした修史の伝統を継承して、律令統一国家が成立した8世紀前半には、日本最初の正史である『日本書紀』が完成した。『日本書紀』は中国の正史の影響を強く受けており、天皇支配の正統性を強く訴え、皇位継承の経緯に関する記述が主たる内容だったが、もう一つ重要な点としては、中国・朝鮮に対する日本の独自性を主張していたことであった。この「天皇の正統性」「日本の独自性」の主張は、『日本書紀』を含むその後の正史(いわゆる六国史。『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)の主要なテーマであり、以後、幕末期までその影響が及んだ。
正史である六国史の編纂は国家事業として行われたが、『日本三代実録』を最後に正史の編纂は行われなくなり、平安中期以降は官人らが政務処理に先例を参照するための歴史資料として『類聚国史』『日本紀略』『百錬抄』やその他各種の年代記が編纂された。以上の歴史叙述はすべて漢文体によるものだったが、平安後期になると、人間をあるがままに日本風に描くという国風文化の影響のもと、表現形式がより柔軟かつ豊富な和文体による歴史物語・軍記物語・説話集が多数記されるようになり、これらは、従前の正史的歴史観への新たな歴史的意味付けの所産であると解されている。代表的なものとしては、歴史物語では『栄花物語』『大鏡』『増鏡』などが、軍記物語では『平家物語』『太平記』などが、説話集では『今昔物語集』などがある。こうした作品により、武士や庶民へも歴史認識が広く流布することとなった。
中世
鎌倉時代以降の武家台頭に対し、危機感を募らせていた公家層を代表して、新たな歴史認識を示したのは慈円の『愚管抄』である。慈円は末法思想と「道理」をテーマとして国初以来の歴史を説き起こし、武家が大きな政治権力を握ったことを「道理」観念で合理的に理解しようとしており、同書をもって初めて歴史認識が明確に示されたとする見解もある。中世には仏教的な歴史意識が広まったが、それに対抗して神官の間では『日本書紀』神話の講読が盛行し、神道の立場を中心として神話と歴史を結合させる思想が起こった。これを背景として、中世中期には、北畠親房により神道的な神国思想をテーマとする『神皇正統記』が著された。また、中世のもう一つの歴史認識は、年中行事や有職故実などの儀礼を通じて歴史を考えるというもので、そのため、故実を伝えるための日記や各種記録文書が多数作成された。その影響で、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』も日記体をとっている。
近世
近世(江戸時代)に入ると、将軍家や大名家は権力を正当化するため、儒教思想を積極的に採用し、歴史の編纂を通じて自らの正当性を主張した。代表的なものに『武徳大成記』『本朝通鑑』『大日本史』などがある。儒教は本来合理的な思考を有しており、儒教思想の興隆は合理主義的な歴史叙述、例えば新井白石の『読史余論』『古史通』などとして結実した。これらの動きは実証的な歴史研究、すなわち18世紀の荻生徂徠や伊藤東涯らによる政治制度史研究へとつながっていき、あわせて国学へも大きな影響を与えた。近世期の合理的・実証的歴史認識の一つの到達点が富永仲基である。仲基は、仏教・儒教・神道といった宗教・思想も歴史的に変化してきたのであり、これらを絶対視するのでなく客観的に捉えるべきことを唱えている。こうした状況は、日本の歴史研究が近代的な歴史学を受容するための十分な素地を既に生んでいたと評価されている。一方、江戸後期には幕藩体制の矛盾と対外緊張の高まりの中、庶民の間でも歴史への関心が広がり、『日本外史』『皇朝史略』など通俗的な歴史書が多く出版された。
近代
幕末から明治維新にかけて、文明史など西欧の近代歴史学が一気に流入したが、特に進歩史観・進化史観が日本で急速に広まった。これは従来の日本にない新しい歴史観であり、歴史の中に普遍的な法則性を見出そうとする歴史観であった。この影響のもと、在野において書かれたのが田口卯吉『日本開化小史』や福沢諭吉『文明論之概略』などである。これは日本史と西欧史の共通点を強調する方向へ進み、脱亜論と結びついていった。
一方、明治政府の立場からは、天皇を中心とする国民国家を建設するため、国家主義的な歴史叙述が構築されていった。それは大政奉還・王政復古を正当化する歴史観であり、そのため大化の改新・建武の中興・明治維新が最も重要な改革に位置づけられ、こうした国家主義的な歴史観はとりわけ歴史教育の現場へ積極的に導入されていった。これは前代の国学や尊王思想を背景とするもので、根底には『日本書紀』以来続いてきた日本の歴史の独自性を強調する考えが流れていた。このように、明治以降の歴史認識・歴史叙述には、2つの潮流 - 歴史に普遍性を見出す方向と日本の歴史の独自性を強調する方向 - を見出しうるのである。
明治20年に実証主義史学の祖ランケの弟子に当たるルードビヒ・リースが帝国大学に招聘された。リースは厳密な実証史学を指導し、いわゆる官学アカデミズムが形成されたが、史料考証を重んじすぎるという憾みがあった。明治末期には、ドイツ歴史学派の影響による発展段階説が唱えられ、またマルクス主義による唯物史観が紹介された。大正期に入ると、マルクス唯物史観が重んじる歴史法則性を強く否定視する歴史理論(カントやディルタイ)が紹介され、歴史哲学への関心を高める契機となった。この時期は社会経済史・文化史・思想史など幅広い分野に関心が拡がっていた。こうした歴史学の発展の一方で、歴史学と国家主義的な歴史観との衝突も発生していた(「神道は祭天の古俗」事件、南北朝正閏論争、天皇機関説事件など)。歴史学が実証主義を重視しすぎ、歴史認識や史学方法論を軽んじたことも国家主義的な歴史観の台頭を許す一因となり、昭和期に入ると国粋主義的な天皇を中心とする歴史観(皇国史観)や勧善懲悪史観が隆盛するに至った。
現代
第二次世界大戦後は、日本の歴史の独自性を主張する立場は大きく後退し、歴史に普遍性を見出そうとする社会科学的な立場が主流となった。その中でも実証主義史学と特に唯物史観史学の2つが主潮流をなした。国家主義的な歴史観のくびきから解かれた戦後史学は多くの重要な実績を残したが、実証主義には歴史哲学を軽視するという弱点が、唯物史観には教条的になりがちという弱点があり、1960年代後半頃からその限界が見え始めていた。1970年代からは、戦後歴史学に対する反省と見直しが始まり、1980年代からは特に精力的な取り組みが加速していった。この時期からは、従来あまり顧みられていなかった民俗学や文化人類学などの成果を歴史学へ学際的に反映させる試みが積極的に行われている。これらの歴史研究の結果、人口に膾炙した歴史像を大きく覆すような成果が多数発表されており、網野善彦などがその代表として挙げられようが、反面、一般の間の歴史像と近年の研究成果との乖離が広がっていることも近年指摘され始めている。
他方で、戦後は歴史の大衆化が進み、海音寺潮五郎や司馬遼太郎など歴史小説の流行、または邪馬台国論争の隆盛のように歴史ブームというべき現象も起きており、学術的信頼性のない説(九州王朝説など)も一定の広がりを見せている。さらに、戦後大きく後退していた日本の歴史の独自性を強調する立場が、平成初年頃から自由主義史観と称してその主張を展開している。これらはいずれも歴史学・歴史研究の主潮流をなすものではないが、一般の歴史に対する関心の反映として認識することができる。
- (参考→日本の歴史書)