桓武天皇
桓武天皇 | ||
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第50代天皇 | ||
桓武天皇 | ||
在位期間 | 781年4月30日 - 806年3月30日 | |
在位中の時代 | 平安時代 | |
在位中の年号 | 天応 延暦 | |
在位中の首都 | 京都 | |
在位中の皇居 | 長岡宮・平安宮 | |
諱 | 山部 | |
幼称 | ||
別名 | 日本根子皇統弥照尊 柏原帝 天國押撥御宇柏原天皇 | |
印 | ||
出生 | 737年 | |
死没 | 806年3月30日 | |
陵墓 | 柏原陵 | |
皇子女 | 安殿親王(平城天皇) 朝原内親王 良岑安世 神野親王(嵯峨天皇) 大伴親王(淳和天皇) 高志内親王 葛原親王 伊予親王 他多数 | |
皇后 | 藤原乙牟漏 | |
中宮 | ||
女御 | ||
更衣 | ||
夫人 | 藤原旅子 藤原吉子 多冶比真宗 藤原小屎 | |
夫 | ||
父親 | 光仁天皇 | |
母親 | 高野新笠 | |
特記事項:(特になし) |
桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月7日(806年3月30日))は、日本の第50代の天皇である。名は山部(やまべ)。
目次
略歴[編集]
桓武天皇は白壁王(のちの光仁天皇)の第一皇子として天平9年(737年)に産まれた。母の高野新笠は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔と続日本紀に記されている。皇后藤原乙牟漏により安殿(のちの平城天皇)、神野(のちの嵯峨天皇)をなし、妃藤原旅子により大伴(のちの淳和天皇)をなす。初名は山部王。父の白壁王の即位後も母の高野新笠が身分の低い帰化氏族和氏出身であったため、立太子は望まれておらず、当初は官僚としての出世を目指しており、侍従・大学頭・中務卿などを歴任していた。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争によって異母弟である前皇太子他戸親王とその母であった皇后井上内親王が突如廃されて宝亀4年(773年)1月2日に立太子。天応元年(781年)4月15日、即位。平城京における奈良仏教各寺の影響力の肥大化を厭い、山城国への遷都を行った。
はじめに784年に長岡京を造営するが、794年に改めて平安京を造営した。また東北地方を侵略し蝦夷を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送った。しかし晩年にはこのような軍事と造作が百姓を苦しめているとして式家の藤原緒嗣に批判された。文化面では続日本紀の編纂を発案したとされる。最澄と空海が唐から帰国し日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武治下である。
井上内親王と他戸親王の不自然な死、治世のはじめに、皇太子とした弟早良親王を藤原種継暗殺の廉で785年流罪とし配所で死なしめたという暗い面も持ち合わせた。怨霊を恐れ、延暦19年(800年)7月19日、早良親王を崇道天皇と追号し、井上内親王の墓を山陵と追称し、皇后の位を復した。
最澄や空海の保護者として知られる一方で、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎた事から、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、後の『薬子の変』へとつながる温床となった。延暦25年(806年)3月17日に崩御。
后妃・皇子女[編集]
- 大伴親王(淳和天皇)(786-840)
- 伊予親王(783-807)
- 明日香親王(?-834)
- 滋野内親王(809-857)
- 池上内親王(?-868)
- 宮人:河上好(?-?) - 錦部春人女
- 坂本親王(793-818)
- 宮人:百済教仁(?-?) - 百済王武鏡女
- 太田親王(?-808)
- 駿河内親王(801-820)
- 布勢内親王(?-812) - 伊勢斎宮
- 女嬬:多治比豊継(?-?)
- 良岑安世(785-830) - 臣籍降下、朝臣姓
ほか
諡号・追号・異名[編集]
日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやでりのみこと)と和風諡号をおくられた。それとともに漢風諡号として、桓武天皇がおくられた。また柏原帝(かしわばら)、天國押撥御宇柏原天皇とも呼ばれた。
在位中の元号[編集]
在位年と西暦との対照表[編集]
桓武天皇 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 | 21年 | 22年 |
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西暦 | 781年 | 782年 | 783年 | 784年 | 785年 | 786年 | 787年 | 788年 | 789年 | 790年 | 791年 | 792年 | 793年 | 794年 | 795年 | 796年 | 797年 | 798年 | 799年 | 800年 | 801年 | 802年 |
元号 | 天応元年 | 延暦元年 | 延暦2年 | 延暦3年 | 延暦4年 | 延暦5年 | 延暦6年 | 延暦7年 | 延暦8年 | 延暦9年 | 延暦10年 | 延暦11年 | 延暦12年 | 延暦13年 | 延暦14年 | 延暦15年 | 延暦16年 | 延暦17年 | 延暦18年 | 延暦19年 | 延暦20年 | 延暦21年 |
干支 | 辛酉 | 壬戌 | 癸亥 | 甲子 | 乙丑 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 |
陵墓・霊廟[編集]
陵墓は京都市伏見区桃山町の柏原陵(かしわばらのみささぎ)とされる。生前、宇多野(うたの)に葬って欲しいと固執していたが、占等の理由で、伏見の柏原陵になった。 明治になり、平安神宮に平安京最初の天皇として祀られた。また全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
今上天皇の発言[編集]
平成13年(2001年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において今上天皇は、翌年に予定されていたサッカーワールドカップ共催に関するコメントの中で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」との発言を行った[1]。この発言は、日本ではさほど大きく取り上げられなかった[2]ものの韓国のマスコミでは大きく報道され、話題となった。
そのうち韓国の一部マスコミにおいて、「天皇家は韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」などの報道[3][4]もあった。しかしながら、以下理由により「天皇家が韓国人の血筋を引いている」という表現は誤謬で、これらの報道内容は適切でないとの意見もある。
- 高野新笠の先祖である渡来系の和氏(やまとうじ)は、渡来の時期が古い家で、桓武天皇の時代には日本に土着して相当の世代(武寧王から4代、和氏となって6代)を経ており、既に日本人への同化が非常に進んでいたことから、「韓国人」とは言えない。また、和氏が武寧王の子孫であるかどうかは、学術的に少なからず疑義を持たれている[5]。
- 征服王朝である百済において、扶余族たる百済王族と韓族たる民衆とでは言葉すら通じないほどの民族的差異があったこと、加えて、百済の民衆と現在の朝鮮半島に暮らす韓国人との間にすら血統的連続性はない。
- 「韓国人」の名称が使われ始めたのは李氏朝鮮が国号を大韓帝国と変えた頃からである。
いずれにしても1000年以上前の「続日本紀に記されていることにゆかりを感じる」という程度の発言であるにも関わらず、この発言が韓国では大きく話題にされ、当時の大統領であった金大中が大統領談話で言及までしたことは、天皇の発言が韓国において大きな影響力を持つことを物語る実例の一つとなった。
参考文献[編集]
- 村尾次郎『桓武天皇』(吉川弘文館人物叢書、1996年新装版) ISBN 464205085X
- 緒形隆司『暁の平安京 桓武天皇史話』(光風社出版、1993年) ISBN 4875196113
- 林 睦朗『桓武朝論』(雄山閣出版、1994年) ISBN 4639012225
- 井上満郎『桓武天皇 当年の費えといえども後世の頼り』(ミネルヴァ書房日本評伝選、2006年) ISBN 4623046931
桓武天皇を題材とした作品[編集]
- 三田誠広『桓武天皇 平安の覇王』(作品社、2004年) ISBN 4878936495
関連項目[編集]
リファレンス[編集]
- ↑ 天皇陛下のお誕生日に際しての記者会見の内容(宮内庁)
- ↑ 主要全国紙で本文において「ゆかり発言」を積極的に取り上げたのは朝日新聞のみであり、毎日新聞と読売新聞ではコメントを全文掲載したものの、この「ゆかり発言」へのコメント・解説はなかった。
- ↑ 「日王は百済の末裔」韓国人学者の主張(朝鮮日報)
- ↑ 日王、朝鮮半島との血縁関係を初めて言及(朝鮮日報)
- ↑ 水野俊平著・韓vs日「偽史ワールド」
外部リンク[編集]
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日本帝國皇帝 | ||||||||||
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1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿德 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 | |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 應神 | 16 仁德 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 | |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 | |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝德 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 大友 | 40 天武 | |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 稱德 | 49 光仁 | 50 桓武 | |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文德 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 | |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 圓融 | 65 花山 | 66 一條 | 67 三條 | 68 後一條 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 | |
71 後三條 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇德 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二條 | 79 六條 | 80 高倉 | |
81 安德 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順德 | 85 九條 | 86 後堀河 | 87 四條 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 | |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二條 | 95 花園 | 96 光嚴 | 97 光明 | 98 崇光 | 99 後光嚴 | 100 後圓融 | |
101 後小松 | 102 稱光 | 103 後花園 | 104 後土御門 | 105 後柏原 | 106 後奈良 | 107 正親町 | 108 後陽成 | 109 後水尾 | 110 明正 | |
111 後光明 | 112 後西院 | 113 霊元 | 114 東山 | 115 中御門 | 116 櫻町 | 117 桃園 | 118 後櫻町 | 119 後桃園 | 120 光格 | |
121 仁孝 | 122 孝明 | 123 明治 | 124 大正 | 125 昭和 | 126 平成 | ※赤字は女帝、斜字は重祚 |