日本書紀
日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人(とねり)親王らの撰で、720年(養老4年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻、系図1巻。系図は失われた。
目次
成立過程[編集]
日本書紀成立の経緯[編集]
『古事記』と異なり『日本書紀』には、その成立の経緯が書かれていない。しかし後に成立した『続日本紀』の記述により、成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老四年五月癸酉条には、
「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」
とある。その意味は
「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」
ということである(ここに『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。
記述の信頼性[編集]
中国の史書、『晋書』安帝には、266年に倭国の関係記事があり、その後は5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが記されている。この間は中国の史書に記述がなく、日本にも文字の記録は無いことから、「謎の4世紀」と呼ばれている。倭王武の上表文や隅田八幡神社鏡銘、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘文などから、5世紀代には文字が日本で使用されていると考えられている。しかし、当時朝廷内で常時文字による記録がとられていたかどうかは不明である。
稲荷山古墳出土鉄剣の発見により、雄略天皇の実在は確実であるとして、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承にある程度の証拠能力を認めてもよいとする意見も存在する。一方、実証主義的観点から、記紀や『上宮記』を全面的に信用することは出来ないとして、継体天皇以前の大王の名や系図等は不明であるとする慎重な意見もある。稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の銘によれば5世紀中葉の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成したのは事実である[1]。ただし、それが正確な史実であるかどうかはわからない。同様に、現在伝わる雄略天皇の頃の皇室系図が正確である保証は無く、4世紀後半以前の天皇家[2]の祖先については、事実を正確に記録していたと推定する根拠は乏しいとする。
『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國には
「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」
文字なし。ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬う。百済において仏経を求得し、初めて文字あり。
との記述がある。この記述を根拠として、朝廷内での文字の常用はおそらく西暦600年前後、聖徳太子の頃であり、継体天皇即位の頃については文字としての記録は無く、口頭での言い伝えとして大和朝廷周辺に記憶があったのみであるとする説もある。
現代の研究では、『古事記』や『日本書紀』の記述は、外国資料を参照したと思われる部分を除いて、継体天皇以前の記述は正確さを保証できないと考えられている。特に継体天皇以前の編年は不正確であるとされている。そのことは継体天皇の没年が『古事記』と『日本書紀』で三説があげられ、『書紀』の編者は外国資料である『百済本記』[3]に基づき531年説を本文に採用したことからも推察することができる。一般に、継体天皇以前の歴史を探るには、考古学的資料が優先される。記紀の記述と神話伝説(時代的変遷の可能性もある)の解釈は考古学的資料の裏付けが存在しない限り、学問的な評価は得られない。
皇室の歴代や系図の成立過程については、継体の系図を記録した『上宮記』や、現在は伝わらない聖徳太子による国史の成立以前にも各種の系図は存在したが、様々な系図に祖先として伝説上の人物を書いたもので正確な内容ではなく、これらを参考にして『上宮記』や『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。仮に推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が亡くなった531年は、当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀頃の成立と考えられている。
『日本書紀』には推古天皇二八年(620年)に、聖徳太子、蘇我馬子らが共同で「天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部・公民等本記」を編纂したという記録[4]がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が仮に事実であったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。なお、『日本書紀』によれば、この時聖徳太子らが作った歴史書『国記』、『天皇記』は蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされた時に大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという。
書名[編集]
もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。
『日本紀』とする説は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に、「書」の文字がなく日本紀と書かれていることを重視する。中国では紀伝体の史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。この用法に倣ったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるものなので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持していると言われる。この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。
『日本書紀』とする説は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述が見られる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は738年(天平10年)の成立とされている。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』『後漢書』のように全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこでこの説の論者は、現存する『書紀』は、中国の史書にあてはめると『日本書』の「紀」にあたるものとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。
なお、一部には、『日本紀』と『日本書紀』とは別の書であると考える研究者もいる。『万葉集』には双方の書名が併用されている。
原資料[編集]
6世紀の中頃以降に言い伝えを元にして日本の歴史をまとめた『帝紀』・『旧辞』[5]、諸氏の伝承、寺院の縁起、漢籍(三国志、漢書、後漢書、淮南子等)などを取り入れていると言われている。なお、『日本書紀』によれば、620年(推古28)に聖徳太子や蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより旧い史書であるが、645年(皇極4)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すと言われている[6]。
なお、『日本書紀』本文中に書名をあげて引用されている文献として次のようなものがあるが、いずれも現存しない。
編纂方針[編集]
『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、天皇家や各氏族の歴史上での位置づけを行うという、極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は、政治的に有力者が主導したものと推測されている。
文体・用語[編集]
『日本書紀』の文体・用語など文章上の様々な特徴を分類して研究・調査がされており、その結果によると、全三十巻のうち巻一・二の神代紀と巻二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の二十五巻は、大別して二つに分けられるといわれている。その一は、巻三の神武紀から巻十三の允恭・安康紀までであり、その二は、巻十四の雄略紀から巻二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻二十四の皇極紀から巻二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻十三と巻十四の間、つまり雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。
ところで『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、最近の研究から語彙や語法に倭習[7]が多くみられることが分かってきている[8]。とくに大化の改新について書かれた巻二十四、巻二十五に倭習が多数あり、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向を受けて「加筆」されたのではないかと考える学者もいる[9]。
『日本書紀』は、552年(欽明13年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずる、としている。しかし「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺縁起」は、538年(宣化3年)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように『日本書紀』には、改変したと推測される箇所があることが、いまや研究者の間では常識となっている。
紀年・暦年の構成[編集]
暦日に関する研究は戦前に既に完成していたが、当時の状況はその研究の公表を許さず、戦後ようやく発表されたのであった。『日本書紀』は、完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、年・月・日(干支)の様式で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいてその記事が月の何日に当たるかを計算できるようになっている。たとえば憲法十七条の制定は「推古十二年夏四月丙寅朔戊辰(へいいんさくぼしん)」であるが、これは四月一日の干支が丙寅であって、戊辰は三日であることを示している。また研究は、中国の元嘉(げんか)暦と儀鳳(ぎほう)暦の二つが用いられていることを明らかにした。武即位前紀の甲寅(こういん)年十一月丙戌(へいじゅつ)朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい暦を古い時代に、古い暦を新しい時代に採用している。既述のように二組で撰述したと推測されている。
元嘉暦とは、中国・南朝の宋の何承天(かしょうてん)がつくった暦で、元嘉二十二年(445年)から施行され、百済にも日本にもかなり早く伝来したといわれている。儀鳳暦とは、唐の李淳風(りじゅんほう)がつくって高宗の麟徳(りんとく)二年(665年=天智4)から用いられはじめた麟徳暦のことを指すと考えられている。
讖緯(しんい)の説[編集]
神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てている理由は、中国から伝えられた讖緯説を採用したためという学説が、明治に那珂通世(なかみちよ)によりうちたてられ、学界で広く受け入れられている。三善清行による「革命勘文」(『群書類従』 第貮拾六輯 雜部 所収)で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想[10]によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇九年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたのである。異説では、那珂通世の計算には誤認があり、一蔀は「革命勘文」の引用のとおり1320年が正しく従って逆算起点は斉明天皇七年(661年)の辛酉の年になるともいう。
紀年論[編集]
古い時代の天皇の寿命が異常に長い事から、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。今日の学説では、初代神武天皇の即位年を辛酉(紀元前660年)とすることによって、年代を古くに引き上げたとされる。そこでこの紀年がどのように構成されているか、明らかにしようとする試みが紀年論である[11]。また応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2順、120年繰り下げると、『三国史記』と年次が一致する。したがってこのあたりで、年次は120年古くに設定されているとされる。しかしこれも、あくまで『三国史記』の原型となった朝鮮史書を参考にした記事だけに該当するものであって、前後の日本伝承による記事には当然適用されるわけではないし、その前の神功紀で引用される『魏志』の年次との整合性もない[12]。
一方、『古事記』は年次を持たないが、文注の形で一部の天皇について没年干支が記される。『日本書紀』の天皇没年干支と、古い時代は一致しないが、
は一致する。このあたりの年次は実年代を反映しているとも考えられる。また『古事記』の天皇没年干支を基に、『日本書紀』の年次を探ろうとする考えもあるが、前述の理由により多くの学者の支持を得られていない。
本文と一書[編集]
本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。中国では、清の時代になるまで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時の常識では、世界にも類をみない画期的な歴史書だったといえる。
諱と諡[編集]
天皇の名には、天皇在世中の名である諱(いみな)と、没後に奉られる諡(おくりな)とがある。現在普通に使用されるのは『続日本紀』に記述される奈良時代、天平宝字6年(762)~同8年(764)、淡海三船による神武から持統天皇までの四十一代、及び元明・元正天皇へ一括撰進された漢風諡号であるが、『日本書紀』の本来の原文には当然漢風諡号はなく、天皇の名は諱または和風諡号によってあらわされている。十五代応神天皇から二十六代継体天皇までの名は、おおむね諱、つまり在世中の名であると考えられている。その特徴は、ホムタ・ハツセなどの地名、ササギなどの動物名、シラカ・ミツハなどの人体に関する語、ワカ・タケなどの素朴な称、ワケ・スクネなどの古い尊称などを要素として単純な組み合わせから成っている。確実性が増してからの『書紀』の記述による限り、和風諡号の制度ができたのは6世紀半ばごろであり、それ以前で和風諡号風の名前を持つ天皇は、後世架上された天皇であると考える説がある。
構成[編集]
- 卷第一
- 神代上(かみのよのかみのまき)
- 第一段、天地のはじめ及び神々の化成した話(天地開闢)
- 第二段、世界起源神話の続き
- 第三段、男女の神が八柱、神世七世(かみのよななよ)
- 第四段、国産みの話
- 第五段、国産みに次いで山川草木・月日などを産む話(神産み)
- 第六段、イザナギが死に、スサノオは根の国に行く前にアマテラスに会いに行く。アマテラスはスサノオと誓約し、互いに相手の持ち物から子を産む。(アマテラスとスサノオの誓約)
- 第七段、スサノオは乱暴をはたらき、アマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。神々がいろいろな工夫の末アマテラスを引き出す。スサノオは罪を償った上で放たれる。(岩戸隠れ)
- 第八段、スサノオが出雲に降り、アシナヅチ・テナヅチに会う。スサノオがクシイナダヒメを救うためヤマタノオロチを殺し、出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)をアマテラスに献上する。姫と結婚し、オオナムチを産み、スサノオは根の国に行った。
- 神代上(かみのよのかみのまき)
- 卷第二
- 卷第三
- 神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)神武天皇
- 卷第四
- 卷第五
- 御間城入彦五十塑殖天皇(みまきいりびこいにゑのすめらみこと)崇神天皇
- 卷第六
- 活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)垂仁天皇
- 卷第七
- 卷第八
- 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)仲哀天皇
- 卷第九
- 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)神功皇后
- 卷第十
- 誉田天皇(ほむだのすめらみこと)応神天皇
- 卷第十一
- 大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)仁徳天皇
- 卷第十二
- 卷第十三
- 卷第十四
- 大泊瀬幼武天皇(おほはつせのわかたけるのすめらみこと)雄略天皇
- 第第十五
- 卷第十六
- 小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)武烈天皇
- 卷第十七
- 男大述天皇(おほどのすめらみこと)継体天皇
- 卷第十八
- 卷第十九
- 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)欽明天皇
- 卷第二十
- 淳中倉太珠敷天皇(ぬなかくらのふとたましきのすめらのみこと)敏達天皇
- 卷第二十一
- 卷第二十二
- 豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)推古天皇
- 卷第二十三
- 長足日広額天皇(おきながたらしひひぬかのすめらみこと)舒明天皇
- 卷第二十四
- 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらのみこと)皇極天皇
- 卷第二十五
- 天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)孝徳天皇
- 卷第二十六
- 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)斉明天皇
- 卷第二十七
- 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)天智天皇
- 卷第二十八
- 天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのかみのまき)天武天皇 上
- 卷第二十九
- 天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのしものまき)天武天皇 下
- 卷第三十
- 高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)持統天皇
現存本[編集]
現存する最古のものは平安極初期のもの(田中本第10巻ならびにその僚巻に相当する巻1断簡)。
写本は古本系統と卜部家系統の本に分類される。
神代巻(巻第一・第二)の一書が小書双行になっているものが古本系統であり、大書一段下げになっているものが卜部家系統である。原本では古本系統諸本と同じく小書双行であったと考えられている[13]。
以下に国宝や重要文化財に指定されているものをいくつかあげる。
- 古本系統
- 佐佐木本 9世紀写 第1巻断簡 - 四天王寺本・猪熊本・田中本の僚巻。紙背には空海の漢詩を集めた『遍照発揮性霊集(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)』(真済編)が記されている。訓点なし。個人蔵。
- 四天王寺本 9世紀写 第1巻断簡 - 佐佐木本・猪熊本・田中本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。四天王寺蔵。
- 猪熊本 9世紀写 第1巻断簡 - 佐佐木本・四天王寺本・田中本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。個人蔵。
- 田中本 9世紀写 第10巻 - 佐佐木本・四天王寺本・猪熊本の僚巻。紙背文書については佐佐木本と同じ。訓点なし。奈良国立博物館蔵。
- 岩崎本 10~11世紀写 第22,24巻 - 訓点付きのものとしては最古。本文の声点は六声体系。図書寮本と比較すると、本文・訓点ともに相違は大きい。京都国立博物館蔵。
- 前田本 11世紀写 第11,14,17,20巻 - 訓点は図書寮本と同系統であるが、多少古態を存する。声点は四声体系。前田育徳会蔵。
- 図書寮本(書陵部本) 12世紀写 第10,12-17,21-24巻 - 訓点あり(第10巻を除く)。第14巻と第17巻は前田本と、第22~24巻は北野本と、それぞれ同系統。声点は四声体系。宮内庁書陵部蔵。
- 北野本 第1類…第22-27巻(平安末期写) - 訓点あり。鎌倉末~南北朝期に神祇伯であった白川伯王家・資継王の所蔵本が、室町中期に吉田家系の卜部兼永の所有となったもの。北野天満宮蔵。
- 鴨脚本(嘉禎本) 1236年写 第2巻 - 訓点あり。京都・賀茂御祖神社の社家・鴨脚(いちょう)氏旧蔵本。本文・訓点とも大江家系か。國學院大學蔵。
- 卜部家本系統
- 卜部兼方本(弘安本) 1286年写 第1,2巻 - 訓点あり。平野家系の卜部兼方の書写。大江家点との比較を丹念に記す。声点は四声体系。京都国立博物館蔵。
- 卜部兼夏本(乾元本) 1303年写 第1,2巻 - 訓点あり。吉田家系の卜部兼夏の書写。『弘仁私記』(書紀古訓と書紀講筵にて後述)その他の私記を多数引用。声点は四声体系。天理大学附属天理図書館蔵。
- 熱田本 1375~7年写 第1~10,12~15巻 - 訓点あり。熱田神宮蔵。
- 図書寮本(書陵部本) 1346年写 第2巻 - 訓点あり。北畠親房旧蔵本。宮内庁書陵部蔵。
- 北野本 第2類…第28-30巻(平安末~鎌倉初期写)、第3類…第1,4,5,7-10,12,13,15,17-21巻(南北朝写)、第4類…第3,6,11巻(室町後期写)、第5類…第16巻(幕末写) - 訓点あり(第1巻を除く)。第2・3類は第1類同様白川伯王家・資継王の旧蔵本。資継王が加点しているため、本文とは異なり訓点は伯家点系である。北野天満宮蔵。
- 卜部兼右本 1540年写 第3~30巻 - 1525年に吉田家前当主の卜部兼満が家に火を放って出奔した際に卜部家伝来の本も焼失したため、若くしてその後を継いだ兼右が、以前に卜部家本を書写していた三条西実隆の本を書写させてもらい、更に一条家の本(一条兼良写、卜部兼煕証)で校合して証本としたもの。当初は全巻揃っていたが、神代巻2巻は再度失われた。人代巻28巻を完備したものとしては最古に位置する。
刊行本[編集]
- 小学館新編日本古典文学全集2・3・4巻「日本書紀」
- 講談社学術文庫「全現代語訳 日本書紀」上下巻
- 訳者:宇治谷孟
- 1988年初版、元版は創芸出版 1986年
- 現代語訳のみ、最も重版している。
- 岩波書店日本古典文学大系(新装版)上下巻
- 岩波文庫「日本書紀」全5冊、上記の新訂文庫化、2003年に同ワイド版
- 原文、書き下し文、注釈を収める、5巻に索引。
- 中央公論新社中公クラシックス 全3冊
書紀講筵と書紀古訓[編集]
『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。そこで、完成の翌年である養老五年(721年)には早くも、『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中において時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。これを書紀講筵(こうえん)という。開講から終講までに数年を要するほどの長期講座であり、承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に7年を要している。代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられるとともに、『日本書紀』の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられた。
以下に過去の書紀講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。
- 養老五年(721年)
- 博士は太安万侶。私記は現存しないが、現存『弘仁私記』および一部の書紀古写本に「養老説」として引用の形で見える。
- 弘仁四年(813年)
- 博士は多人長。唯一、成書の形で私記が現存する(いわゆる私記甲本)が、書紀古写本(乾元本神代紀)に「弘仁説」として引用されている『弘仁私記』(和訓が万葉仮名で表記され上代特殊仮名遣も正確)と比べると、現在の伝本(和訓の大半が片仮名表記)は書写の過程ではなはだしく劣化したものであり、原型をとどめていないと見られる。
- 承和六年(839年)
- 博士は菅野高平(滋野貞主とも)。私記は現存しない。
- 元慶二年(878年)
- 博士は善淵愛成。私記は現存しないが、卜部兼方の『釈日本紀』に「私記」として引用されているのはこれではないかと言われている。私記作者は矢田部名実か。
- 延喜四年(904年)
- 博士は藤原春海。私記作者は矢田部公望。私記は現存しないが、『和名類聚抄』に「日本紀私記」として、また卜部兼方の『釈日本紀』に「公望私記」として、それぞれ引用されている。
- 承平六年(936年)
- 博士は矢田部公望。現在断片として伝わっている私記丁本がその私記であると推測されている。
- 康保二年(965年)
- 博士は橘仲遠。私記は現存しない。
なお、書紀古写本には単に「私記説」という形で引用されているものも多い。これらは上記年次私記のいずれかに由来するものと思われるが、残念ながら特定はできない。その他にも、書紀古写本に見られる声点[14]付きの傍訓は何らかの由緒ある説に基づくものと見られるから、上記私記の末裔である可能性がある。
ちなみに、現在成書の形で存在する『日本紀私記』には、上述した甲本・丁本の他に、僚巻と見られる乙本(神代紀に相当)と丙本(人代紀に相当)の二種類が存するが、こちらはある未知の書紀古写本から傍訓のみを抜き出し、適宜片仮名を万葉仮名に書き換えてそれらしく装ったもの(時期は院政~鎌倉期か)と推定されており、いわゆる年次私記の直接の末裔ではない。
竟宴和歌[編集]
元慶の講筵以降、終講の際にはそれを記念する宴会(竟宴)が行なわれるようになり、参加者によって『日本書紀』にちなむ和歌が詠まれた。それらを集めたものが『日本紀竟宴和歌(にほんぎきょうえんわか)』(943年成立)である。現存本は元慶・延喜・承平の各講筵の竟宴和歌より成る。歌題として選ばれるのが神々や古代の聖王、伝説的な英雄たちということもあって、和歌の内容がどうしても類型的なものになりがちなため、文学的には特に見るべきものはないが、藤原時平や藤原忠平といった当代の最上級の貴族の歌を集めているという点ですこぶるユニークな歌集となっている。
外部リンク[編集]
- 国立国会図書館ホームページ
- http://www.ndl.go.jp/
- 電子図書館の蔵書>近代デジタルライブラリーで日本書紀(原文)が閲覧できる。
- 新編 日本書紀
- 日本書紀
- 日本古代史参考史料古籍
- 宮内庁書陵部本影印集成 第1期 日本書紀(全4冊、八木書店、2005-2006年)
注釈[編集]
- ↑ 稲荷山古墳鉄剣銘文は「意富比垝(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図を記録している。銘文にある「意富比垝(オホヒコ)」を『古事記』、『日本書紀』が記録する第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」であるとする説がある。「意富比垝(オホヒコ)」と「大彦命」が同一人物を指すなら、『古事記』、『日本書紀』(四道将軍の一人)の大彦命の記事と稲荷山古墳鉄剣銘文の記録が結びつくことになる。川口勝康(首都大学東京教授)は次のように解説する。「稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中の乎視居臣 (おわけのおみ) なる人物の系譜にみえる上祖の意富比魁は、オホヒコとよまれ、記紀の大彦命にあたる可能性が高い(平凡社『世界大百科事典』)」。また、岸俊男(京都大学名誉教授)は次のように解説する。「ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣 (かしわでのおみ) の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし、あるいは杖刀人は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ) であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている(平凡社『世界大百科事典』)」。安本美典は、『本朝皇胤紹運録』によると「大彦命」の孫は「豐韓別命」であり、鉄剣銘文の「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方が似ているとする(倭王武と雄略天皇 稲荷山古墳出土鉄剣銘文)。また、豐韓別命は武渟川別の子とされるが、鉄剣銘文では弖已加利獲居は多加利足尼の子である。
- ↑ 天皇家の成立過程についてはヤマト王権の項を参照。
- ↑ 百済三書(『百済本記』、『百済記』、『百済新撰』)の一つ、『日本書紀』に書名が確認される逸失書。『三国史記』の『百済本紀』とは異なる。
- ↑ 『先代旧事本紀』はこの記録に基づいて作られた偽書である。ただし、部分的に史料価値を認める意見も有力である。
- ↑ かつて津田左右吉は、これらは欽明天皇の頃にまとめられたと推定したが、必ずしも根拠があるわけではなく、現在ではむしろ文字が常用されたと確実に推定できる聖徳太子の頃まで下げる意見もある。
- ↑ 『日本書紀』における「天地開闢」には本文と6つの異伝が挙げられている。
- ↑ 倭習とは、日本語的発想に基づく誤用や奇用である。「和臭」とも書かれる。
- ↑ 森博達『日本書紀の謎を解く』による。森は、『日本書紀』は使用されている音韻の違いによりα群とβ群に分かれるとし、倭習の見られないα群を中国人が、倭習の見られるβ群を日本人が書いたものと推定している。
- ↑ もし「加筆」が認められれば、「蘇我氏逆臣説」は修正される可能性があることになる
- ↑ 参考:三革令=甲子革政/戊午革運/辛酉革命
- ↑ 『三國志』魏書 東夷伝 倭人にある裴松之注に引用される『魏略』逸文に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す)との倭の風俗記事があることから、1年を2倍にして年次を設定したとする2倍暦説がある。しかし2倍暦で『書紀』紀年の該当期間が矛盾なく説明できる訳ではないことから、学界では支持されていない。
- ↑ 紀年解釈の試みとして、たとえば倉西裕子は「日本書紀における紀年の編成をめぐる一考察」(2002年)と『日本書紀の真実』(2003年)で、日本書紀の紀年法は、神功元年(201年)から雄略5年(461年)までの間において、プラス・マイナス120年構想、多列・並列構造にあると発表した。すなわち、神功紀(神功元年~神功69年)においては、69(神功紀の紀年数)-189(実際に経過した年数)=-120という式が成り立ち、応神元年(390年)から雄略5年(461年)までの間には、192(応神元年~雄略5年までの紀年数の合計)-72(実際に経過した年数)=+120年という式が成り立っているとする。しかし、前者は神功紀の実際に経過した年数が189年であるとする理由が不明であり、後者は、応神元年を2運繰り下げれば容易に出てくる説で、何ら新味はない。いずれにせよ、倉西説で、在位年数はじめ朝鮮史書を参照した記事以外の編年が確定できるわけではない
- ↑ 参考:『古事記日本書紀必携』学燈社
- ↑ 本来は漢字の声調を示す記号であるが、ここでは日本語のアクセントを示すのに用いられている
参考文献[編集]
- 水谷千秋『謎の大王 継体天皇』(文春新書、2001年) ISBN 4-16-660192-X
- 武光誠『大和朝廷と天皇家』(平凡社新書、2003年) ISBN 4-58-285180-0
- 倉西裕子『日本書紀の真実』(講談社選書メチエ、2003年)ISBN 4-06-258270-8
- 森 博達 『日本書紀の謎を解く-述作者は誰か』(中公新書、1999年)ISBN 4-12-101502-9
- 遠山美都男 『日本書紀はなにを隠してきたか』(洋泉社新書y、2001年)
- 遠山美都男編 『日本書紀の読み方』(講談社現代新書 2004年)同じ著者で類書多数
関連項目[編集]
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