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2007年5月5日 (土) 06:37時点における版

阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい、Great Hanshin-Awaji Earthquake)は、1995年(平成7年)1月17日(火)午前5時46分に発生した兵庫県南部地震による大規模災害である。

概要

この震災の直接の原因となった地震を、気象庁は「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」と命名した。英語では「1995 South Hyogo Prefecture Earthquake」と呼ばれる。発生時刻は日本時間1月17日午前5時46分52秒。震源・規模は淡路島北部深さ16km、マグ二チュード7.3である。

淡路島、列びに阪神間(神戸芦屋西宮宝塚尼崎伊丹豊中川西池田など)を中心に大きな被害をもたらし、特に神戸市街地は壊滅状態に陷った。

地震による揺れは、阪神間及び淡路島の一部で震度7の揺れを観測した他、東は小名浜、西は佐世保、北は新潟、南は鹿児島までの広い範囲で観測され、第二次世界大戦後の日本国内で最大の震災となった。被害の特徴としては、都市型の直下地震による災害ということがあげられた。

被害

ファイル:Earthquake kobe 0001.jpg
(瞬時にして倒壊した家屋 神戸市灘区 1995年1月)
  • 死者 : 6,435名 行方不明者 : 3名 負傷者 : 43,792名

死者のうち兵庫県は6,402名(99.5%)・兵庫県外32名(0.5%)、負傷者のうち重傷者は兵庫県10,494名(98.2%)・兵庫県外189名 (1.8%)、軽傷者 : 兵庫県29,598名(89.4%)・兵庫県外3,511名(10.6%)(死者の県内県外の比率から見て兵庫県内の負傷者数は混乱の中で正確にはカウントできなかったと推定される)

  • 避難人数 : 30万名以上
  • 住家被害 : 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計約25万棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟
  • 火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯
  • その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所
  • 被害総額 : 10兆円規模

大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインは寸断され広範囲で全く機能しなくなった。これ以降都市型災害及び地震対策を語る上で「ライフライン」の早期の復旧、「活断層」などへの配慮、建築工法上の留意点、「仮設住宅」「罹災認定」等の行政の対策、などが注目されるようになった。

もともと、日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震にも堪えうる構造であるとされていたが、1986年以前に建てられたビルマンション病院鉄道駅舎などで広範囲にわたり倒壊・全半壊が多くみられた。

特に、神戸市長田区においては火災の被害が甚大で地震直後に発生した火災に伴う火災旋風が確認されている。これにより近隣の建物に次々と延焼して須磨区東部から兵庫区にかけての広い範囲にわたり6,000棟を越す建物が焼失した。

消火活動においても上水道の断水が発生する。わずかな防火貯水槽を探しているうちに炎が延焼して被害が大きくなる結果となった。消防局の消防士が断水により炎の近くで消防水がでないホースをもって立ちつくす姿が報道映像として残されている。当時の消防局には、進出路の瓦礫を除去して消防車を現場へ啓開する車両、消防ヘリコプターが充分に配備されていなく、現場への到着が遅れて重要な初期消火に失敗している。 また、瓦礫の下の被災者を救出する車両が不充分であったほか、ドクターヘリ(救急ヘリ)での搬送も少なかった(62人/1週間(内、17人/3日間))[1]ので死傷者の救出・搬送が遅れることとなった。また、走行する自動車によって道路上の消火ホースが踏まれるという問題がみられた。震災後、兵庫県、神戸市においては防火貯水槽が整備されて消防へのヘリコプターの活用が検討された。

西宮市においては住宅街に面した山腹の斜面において大規模な地滑りが起こり、多くの人々が犠牲になった。

これほどの被害であったのにもかかわらず、多くの研究者・専門家の間においては、「犠牲者については、地震が冬季の未明の発生であったために最低限である6,000人に抑えられている」との意見がある。もし、地震が1時間遅く発生していたとすると死者は20,000人を超えていたとみられている。

建造物・交通

阪神高速道路神戸線の倒壊は、震災の甚大な被害を象徴するものとして世界中の新聞の一面に大きくあつかわれた。ロマ・プリエタ地震(サンフランシスコ)、ノースリッジ地震(ロサンゼルス)などで倒壊した高速道路をみても日本においては安全であるといわれていたが、海外での高速道路の倒壊も縦揺れに弱い構造であったためにそれらを教訓として生かされていなかったことが大きな被害へといたったことになる。「倒壊した高速道路が、倒壊する寸前に波打っていた」という目撃談話が報道番組で報じられている。前述の神戸市東灘区深江地区においての高速道路の倒壊は手抜き工事が原因しているとみられている例でもある。山陽新幹線においても橋脚の倒壊と倒壊箇所の調査から手抜き工事の痕跡が見つかっている。

一方、地下神戸高速鉄道東西線大開駅が崩壊したために、その上の国道28号において陥没が発生した。直後の交通規制などが迅速に行われずに国道43号国道2号阪神間山手幹線などの神戸方面に至る主要幹線道路では大渋滞が発生した。(規制しなかった理由としてはこの時の警察の方針が倒壊家屋などからの人命救助を優先していた為ではある) 震災以前は、「地下鉄道は地震に強い」ともいわれていたが、大開駅周辺は軟弱地盤かつ開削工法であったために、震動に揺さぶられて崩壊したと考えられている。

被災地区を運行する鉄道路線のうち、最も南を走行する阪神電鉄本線は、主に東灘区から灘区における高架構造である区間に大きな被害を受けている。御影駅西方の留置線の車輌が横転して大きく損壊した。石屋川車庫も崩壊して地震の発生が早朝であったために前夜から留置されていた多数の車輌が崩壊に巻き込まれて損傷した。これは、この高架構造の区間が高度経済成長期の1967年に竣工した物件であって耐震構造が十分ではなかったことが原因の一つとして指摘されている。また、この区間においては、数箇所におよんで道路をまたぐ鉄橋が落下して南北にいたる道路が遮断された。その後、日本各地の橋梁において落下を防止するための補強工事が行われる契機ともなった。三宮付近の地下区間で運行中に被災した車輌と合わせて41輌もの車輌が廃棄され、一度、車庫自体を全て解体撤去した後に、工事を翌年までかけて再建せざるを得なかった。

同じ高架構造の駅舎であるホームに電車を留置した状態であった阪急伊丹線伊丹駅東海道本線JR神戸線六甲道駅の崩壊した映像は、阪神高速道路が倒壊した映像と共にこの震災を象徴することとなった。

港町である神戸は、神戸港も被害を受けて多くの埠頭の使用が不可能となった。また、神戸市中央区ポートアイランド芦屋市の芦屋浜、尼崎市の築地地区など埋め立て地を中心に地面が軟弱化する液状化現象が見られた。このために、海からの支援なども難しい状態となってしまった。

当時、建設中であった明石海峡大橋は、地震による直接的な被害は無かったものの全長が1m伸びるという事態が発生した。大橋の淡路側の山上にフランス革命200周年記念として、日仏友好モニュメントが建設予定であったが休止されている。

都心にあった神戸市役所は第2庁舎の6階部分が潰れている。当時、須磨区にあったラジオ関西の本社も被災して1996年6月に現在の場所(ハーバーランド)へと移転した。また、神戸新聞本社が置かれていた三宮の神戸新聞会館も同じく被害に遭って1996年7月に東川崎町(ハーバーランド)に移転した。(移転までの期間は、ダイヤニッセイビルを仮本社としていた。)

ビル ・マンション・病院

中央区の高層ビルにおいては被害も少なかった。老朽化したビル、マンションの物件では被害も多かったものの幸いにも死者は少なかった。一部のマンションでは、火災が発生していたが隣戸に延焼することはなかった。三宮駅北側の三宮日本生命ビルの5階も崩壊し、また、傾いた状態でいた柏井ビルが、翌朝の余震で完全にフラワロードに横倒しになった。

長田区にある神戸市立西市民病院も中層階が圧壊して入院中の患者が閉じ込められる状態になった。また、多くの病院に多大な数の負傷者が搬送されて病院は軽度の入院患者については当日中に早期退院、または、地方に転院させるなどして病床をできるだけ確保しているが全く充足できずにロビーや待合室にソファーや布団を敷き詰めて病室とするなどの緊急処置をとっている。それでも、十分に対応しきれなかった。また、医師の数も不足して治療を待っている間に息絶えた人も多くいた。

瓦屋根、木造日本家屋の危険性

日本瓦を使い、基礎と連結していない老朽化した木造住宅でも多くの死者がでたため、以降、神戸においては新築の屋根はほとんどみられなくなった。日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法の住宅に被害が集中して老朽化した住宅の他に新しい住宅においても筋交いなどが不十分であった物件は大きな被害を受けた。坂本功著の『木造建築を見直す』という書において「死亡者のうち5000人近くは、軸組構法の住宅の下敷きによって圧死した」と述べている。古い木造住宅は年月の経過によって乾燥している点や、耐火材を使っていないなどの理由で火災の被害も多かった。

これは、神戸地区の木造住宅は、地震よりも台風に対応した木造住宅であり、振動に弱く瓦部分が重かったことにも起因している。なお、筋交いを多く入れてある木造住宅においては耐震性も十分にある。

また、同じ木造住宅でも、プレハブやツーバイフォー(木造枠組壁構法)と呼ばれる構法の住宅が耐震性を示している。3階建て住宅の被害も殆どなかった。

建築基準法

耐震性を考慮に入れて建築基準法が改正された1981年以降に建てられた物件の被害が少なかったことが報告されている。結果的に、改正された建築基準法の有効性が証明されることになった。倒壊して死者のでた住宅は、1986年以前の建築物件で、当時の建築基準法で設計されていて耐震性が弱かったともいえる。震災後も、1996年、2000年、2006年と、建築基準法は改正されている。

復興

全国からさまざまな形の「救援・支援」が寄せられた。救援物資・義捐金・ボランティア活動のほか、インフラストラクチャーの復興には他府県の電力会社・ガス会社などの多くの職員が復興応援のために現地入りした。

街の復興

復興事業はまずライフラインの復旧を最優先に行われた。電気は早期の復旧が可能であったが地下に埋まっている水道・ガスの復旧に時間が掛かり、4月末まで続いた。

復興支援物資の輸送も全国各地で受付けられた。また、交通網も、至る所で寸断されていたが、復旧よりも大量の復興支援物資を早急に送るために残された道路を優先して整備して被災地と大阪を結んでいた。神戸港も、ウォーターフロントにおいて壊滅的な損害をだしていたが、残された海岸を利用して医療物資などの搬入を優先的に行っていた。神戸近郊の道路においては、「神戸市に行く」と言えば交通整理などで最優先で通行させてもらえるなど復興活動を支援する場面も見受けられた。

建造物の本格的な復興事業が開始されたのは翌月に入ってからであった。この頃には多くの機材・人材が全国から駆けつけて瓦礫の撤去や再建をサポートした。

神戸港に入港するほとんどの船は大阪南港などの近隣の港に迂回させられたが、神戸市が、地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設けて大阪と神戸を結び、疎開する人・復興支援者の負担を少しでも軽減する努力を行った。また、神戸の収益源である港にも支援活動が取り組まれて多くの手助けのもと神戸港は2年後の1997年3月31日全ての埠頭コンテナバースが復旧した。そして、同年5月19日に神戸港復興宣言が発表された。

復興支援活動

3月7日には、東京日本武道館にて有志のミュージシャンによるチャリティーコンサート「MARCH OF THE MUSIC」が開催されて収益が全額寄付された。公演に参加しなかった多くのミュージシャンも、みずからのコンサートやラジオ番組で募金などの取り組みがなされた。復興と重なり合って日本のジャズ教育が活発化する拠点ともなっている。(神戸はジャズが日本での第一歩を記した地として知られる)

中央競馬では6月3日、4日の京都競馬(1月21日、22日中止分の代替開催。4日にはGI宝塚記念が行われた)、翌年1996年7月7日の中山阪神(前年同様宝塚記念が組み入れられた)、札幌競馬が復興支援開催として催されて馬券の売り上げの一部が寄付された。

関西テレビオークション番組『ハンマープライス』は、番組開始後すぐに震災が発生したことから収益を「震災復興支援資金」として日本赤十字社等を通じて寄贈することとなった。これは、チャリティーオークションの盛んな欧米の著名人から出品の協力を得られることにもつながり、日本にチャリティーオークションが広く知られる機会となった。

ボランティア活動

地震直後に現地で被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は一日平均2万人超、3ヶ月間で延べ117万人とも言われる。被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。現地には行かずに被災負傷者の為の献血義捐金拠出・物資提供などの後方支援に携わった人々も含めると参加人数はさらに増えるものと見られる。

このために、この年は日本における「ボランティア元年」とも言われる。後に、内閣は1月17日を「防災とボランティアの日」と定めた。

命名

1月17日の災害発生当時、気象庁は命名規定[2]に基づき、地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震(The South Hyogo prefecture Earthquake in 1995)」と命名。しかし、気象庁による正式命名に先立って毎日新聞が「阪神大震災」と呼び始めていた。他の報道機関のなかにもこれに追随する動きがではじめた。

一方、朝日新聞日刊スポーツでは「関西大震災」と呼称していたこともある。

その後、政府が、今回の災害の規模が大きい事に加えて今後の復旧に統一的な名称が必要であるという観点や、淡路島地区の被害も大きかったことにより災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称する事が2月14日に閣議で口頭了解され、2月24日に5年間の時限立法として「阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律(平成7年法律第12号)」が制定(即日施行)された。この時に「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになる。

防災

ファイル:Kobe port earthquake memorial park.jpg
震災当時の状態が保存されている神戸港震災メモリアルパーク。浜手バイパスの奥に見える阪神高速神戸線も倒壊した。2004年2月撮影

この大震災が大惨事となった大きな理由の一つに、近畿地方では外の地方に比べて地震の発生が少なかった事が挙げられる。地震の専門家の一部は、規模の小さい地震すら起こらないことでエネルギー(歪み)の蓄積が起こっていて、万が一にも地震が発生した場合には規模の大きなものになる危険性をはらんでいる事を指摘していた。

しかし、「近畿地方は地震が少ない。仮に起こったとしてもそんなに大きな地震ではないだろう」といった“実体験”による認識(ただし、歴史文献を紐解けば、実際には近畿地方は度々巨大地震に襲われている。「地震の年表」も参照されたい)から、「近畿地方では大きな地震は起こらない」とする誤まった認識の広まり、または、地震自体を意識することが少なく専門家の指摘を信用する人間も少なかった。

また、これまでの大地震の発生する構造については、太平洋プレートフィリピン海プレート日本海溝南海トラフにおいてユーラシアプレートの下に滑り込み、そのプレートの跳ね返りにより発生するもの(海溝型地震)ばかりが注目されて活断層のずれによる大地震の発生はさほど注目されていなかった。実際に、これらのプレートの境界の近くに位置する東海地方においては、大地震(東海地震東南海地震など)の発生する可能性が最も高い地域として防災訓練や建造物の補強など徹底した対策が取られてきた。その一方で、近畿地方では無警戒に近い状態であった。

北海道東北地方北陸地方などの雪国であれば、地震の多発地帯以外でも、「」という重量物が屋根の上に積み重なる前提で家屋が建てられるために、結果的に「地震」など揺れにも強い構造となることがいわれている。ただし、新潟県中越地震において豪雪地帯の建物が少なからず倒壊・損壊した事で、耐雪構造と耐震構造を分けて考える必要性が指摘されるようになっている。

すべてではないが、その後のビルディングも含めた物件を建築や補修する際には、阪神・淡路大震災における被害を教訓とした上で最低限度の耐震性を考慮した構造に変わっていっている。また、前述の「高架構造になっている高速道路や一般道路、鉄道などの橋脚」の構造上の脆弱さが指摘され、順次、行政主導のもとで補強工事が施工されていった。

この地震の原因である活断層は全国に広く分布してはいるが、現在においても、大地震を正確かつ厳密に予知することは不可能であり、「活断層上の建造物の耐震性」「地盤の強弱」を前提とした補修、建築であっても、地震発生の際の被害予測は非常に難しい。また、「地震に起因する火災(特にもらい火)」などは、多くの火災保険では填補除外条項とされているケースが多く、採算性の問題も含めて改善が進んでいない。そのため、この震災を機会に地震保険への注目が集まるようになった。

そういった諸問題も含めてこの「大震災」は日本の災害対策上重要な位置を占めている。地震の少ない地方であったとはいえ、「地震国日本」において、こういった人命や建造物を問わずに甚大な被害を受けたこと自体が、世界中に衝撃を与えた。

以上の教訓を踏まえて、兵庫県は、神戸市中央区に人と防災未来センターを建設した。なお、新潟県中越地震による新潟県への別館建設も検討中である。また、震災の記録を残すため、津名郡北淡町(現在の淡路市北部)には兵庫県南部地震の震源となった野島断層を保存する北淡震災記念公園が、神戸市中央区のメリケンパークには崩壊したメリケン波止場を保存する神戸港震災メモリアルパークが整備された。

救助活動

地震発生後、消防・警察・自衛隊などの各組織は救助活動に入っている。消防庁が調整を行って全国から消防部隊が現地に送られていたが、交通渋滞に巻き込まれずに到着したものはほとんどなかった。現地消防、警察においては、自身が被害を受けていることもあり、初期における救助活動は円滑とはいえなかった。このほか、淡路島においては、消防団および近隣住民が中心となった救助活動が行われた。

自衛隊については、伊丹駅近傍派遣を行った第36普通科連隊を除き、神戸市中心部への災害派遣は直ちにはなされなかった。第36普通科連隊は「近傍派遣」(自衛隊法第八十三条三項)で出動したが、他の部隊は知事の要請(自衛隊法第八十三条一項)を待って待機していた。貝原俊民・兵庫県知事(当時)からの災害派遣要請はすぐに行われなかったが、これは自衛隊へ提供できるだけの情報収集も侭ならなかったこと、自衛隊への連絡手段が欠しかったことが理由と言われている。(なお知事から自衛隊への情報提供は災害派遣要請時に自衛隊法第百六条により規定されている)派遣要請は野口一行・兵庫県消防交通安全課課長補佐(当時)が地震発生から4時間後に、知事へは事後承諾という形で行った。(なお阪神・淡路大震災以後は、緊急を要する場合に都道府県知事以外に市町村長または警察署長などから自衛隊の災害派遣要請が行えるようになった)また、神戸市担当の部隊が姫路市第3特科連隊であり、神戸市まで距離があったことが、自衛隊の現地到着が遅れたことの原因の一つとされている。

一方、官邸をはじめとする政府、国の機関も被害地域の惨状を把握するのにテレビ・ラジオが最大の情報源であったため、村山富市総理大臣日本社会党)、玉沢徳一郎防衛庁長官(自由民主党)、小沢潔国土庁長官(自由民主党)らの大規模派遣がなかなか示されなかった事から対応が後手に回った。「官邸をはじめとする政府、国の機関はもとより、地元の行政機関、防災関連機関にとってもテレビ・ラジオが最大の情報源であった。国土庁が独自に情報収集手段を持たず、また関係省庁からの情報の集約を十分に行えなかったことから 、情報が官邸に十分伝わらなかったという制度上の問題点が指摘された。」(阪神・淡路大震災教訓情報資料集『内閣府・(財)ひょうご震災記念21世紀研究機構』)

村山首相はなぜ自衛隊派遣が遅れたのかを衆議院本会議で問われて「なにぶんにも初めてのことですので」と答弁。この村山内閣の対応の遅れは国民から強い批判を浴びて内閣の支持率低下につながった。

出動した自衛隊も、交通渋滞や被災者がひしめく中で部隊の移動・集結・宿営地の造営に手間取り、大規模な災害派遣部隊が現地に展開されて救助活動を開始するまでに3日間を要した(政治判断に3日を要したわけではない)。最も早く救援体制を敷いた米海軍第七艦隊(横須賀)が、「艦艇を神戸港に入港させてのヘリコプターによる負傷者の救援」を政府に申し入れたところ、神戸市の受け入れ体制の未整備、政治的理由、接岸施設の被災による危険性などの要因で拒否する事態を発生することとなった。しかし、この対応が特別であったわけではなく、当初から、各国からの支援の申し出にも政府として対応できていなかった。 それは、やはり日本が地震多発地帯であるにもかかわらず、前述の被害地域の惨状を把握する手段が十分に講じられていなかったことをはじめとする危機管理体制の欠如。平時のタテ割り行政の弊害がすべてにおいて噴き出した結果であるともいえよう。

兵庫県からの自衛隊への災害派遣要請が発生後4時間以上も後であったことは前述のとおりであるが、県知事からの派遣要請がなされていない事を知った高見裕一新党さきがけ議員)が、携帯電話で東京の議員会館にいる秘書を通じて、防衛庁に緊急要請を行なった際も、東京では“大げさだ”、非公式、未確認情報との認識しかされていなかった(『官邸応答せよ』)。

他方、ダイエーセブンイレブンなどの企業は、地震発生3時間以内に救援物資(食料)のヘリ空輸を開始するなど、非常に早い対応を見せた。

震災の影響

被災地域の住民やその出身者の間では、震災から12年を経ても、単に、「地震」「震災」と言えば阪神・淡路大震災のことを指す。

救助組織

この災害によって消防・レスキューの得た経験は、緊急消防援助隊広域緊急援助隊の制度発足と整備につながる。後の、新潟県中越地震(2004年10月23日)やJR福知山線脱線事故(2005年4月)においても大きく貢献することとなった。また、1995年3月の地下鉄サリン事件と合わせ、自衛隊の災害援助の意味での機能が注目され、国民の自衛隊に対する好感が、震災以前と比べて格段に大きくなり、自衛隊が必要であるという世論も大きくなった。 一方で、災害援助では装備や組織の問題で充分に機能し得ないので「必要な組織は、装備のほとんどが武器・兵器の自衛隊ではなく災害救助隊だ」という意見や、「蓋然性の低い大災害に対応する官僚組織を戦争・災害の別建てで設立するのは予算の無駄であるので自衛隊の災害救助装備機能をもっと充実させるべきだ」という意見も出されている。

兵庫県、神戸市が大地震時の危機管理対処規定を定めていれば命令権者の知事不在でも被害状況の確認と自衛隊への出動要請が「規定に従い、地震発生後4時間もかからず」なされたはずだし、規定策定の段階で「地震で消火水道が寸断されて消火不能に陥る」と言う致命的問題点も消防が指摘したはずであるが、兵庫県、神戸市とも大地震対処危機管理規定を定めていなかった。さらに、報道陣に怠慢を責められて「まさか関西で大地震が起こるとは思わなかった」という(「まさかの大災害」への平時からの準備が重要という危機管理の初歩を理解していない)釈明をしたために新聞等で批判された。(しかし、これは当時の自治省の指導にも不備があったうえ、現在においても自治体の防災規定に対する総務省の指導は不徹底で同様の事態が別の自治体で起こりうるとの指摘もある。さらに、多くの死者が出たにも関わらず地方・国官僚制内部での追跡調査と不作為責任の追及はうやむやにされて報道陣の前で頭を下げただけで終わっているとの指摘もある。)

竹下内閣からこの村山内閣まで、7人の総理大臣に仕えた元内閣官房副長官・石原信雄(現 官邸機能強化会議座長)は「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山以外のだれが内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった。」(『官かくあるべし―7人の首相に仕えて』)

等々、を踏まえた丸12年を迎えた2007年の政府・官房長官の記者会見においても「多くの犠牲になられた方々に改めてご冥福をお祈りしたい。防災体制はあれ以来、強化を図っているが、改善に改善を重ねていかなければならない」と述べた。当時、大きな問題点として指摘された政府の危機管理体制については一定の改善が行われたとの認識を示したうえで「十分ということはないのでいつも反省をしながら改善していく」と語った。

政府による支援が遅れた一方で、神戸に総本部を置く日本最大の暴力団組織山口組、阪神地域で強い影響力を有する創価学会PL教団といった宗教団体等の組織が、食料や飲用水の供給・トイレ・風呂・避難場所の提供などの積極的な支援を行った。このため、フランスの有力紙は、「日本の支援体制は、政府よりもマフィアカルト宗教(フランスの世論は創価学会に否定的である)の方が充実している」と、痛烈な記事を載せたりもした要出典

自治体には、震災での建物の崩壊による圧死などの直接の死亡原因だけではなく、被災者が避難したあとの持病の悪化や停電による医療機器の停止による死亡などといった間接的な原因での死亡も関連死(認定死)として認定をするか審査する委員会が置かれた。

復興組織

関東大震災が起こった際の帝都復興院に相当する組織として、2000年までの5年間、総理府阪神・淡路復興対策本部が置かれた。戦災復興都市計画による土地区画整理事業が完了しようとしていた時期に震災が起こり、また戦災を免れたことで戦前からの老朽木造住宅が密集して残っていたエリアに特に甚大な被害が見られたため、神戸市は戦災復興の延長線として震災復興を捉えた[3]。復興に当たっては、1976年10月29日に発生した酒田大火の復興事例が短期間での都市復興の事例として参考にされた。具体的には、(1) 単なる災害前の街への復旧ではなく、道路幅の拡幅など大掛かりに区画変更を行い、緑地を多く取って緩衝地帯を設定する事;(2) その実施に当たっては、単なる上意下達ではなくアウトラインのみを地元に提示して細部については地域住民の声を聞いて合意を形成をしながら、街全体を短期間のうちに、一気に防災型の都市に変える事といった内容であった。もっとも、震災直後間もない被害住民に対し区画整理等の話を持ち出すのはまだ癒えぬ傷に塩を塗る行為だと言うような感情的な反発も当時は見られた。

避難生活

家が全・半壊した住民は、学校や公共機関の建物に避難した。

被災地の学校の多くは休校。被災者は、体育館・教室などで寝起きした。また、公園にテントを張ったり、自家用車で寝起きする人もいた。震災後、当初は、公的な避難所として学校等の公共施設を避難所として認めて食料・飲料水の配布がされていたが、その後、公園への避難者により形成されたテント村についても食料等の配布が行われるようになった。震災後、1ヶ月を経て仮設住宅が建設されて入居が始まった。しかし、その多くが被災地を離れた郊外や周辺の自治体に建設されたために避難所から仮設住宅への移行が進まなかった。学校等の避難所は、4月以降の授業開始にあわせて解消するために、都心部での仮設住宅の建設や学校等避難所から待機所への移行を促す措置がとられた他、復興支援住宅と呼ばれる恒久住宅の建設が兵庫県により行われた。また、民間の住宅を借り上げて被災した住人への提供などが行われた。これらの被災者向けの住宅の供給については、各市町村によって発行された罹災証明書が入居の根拠とされた。その証明を行うための調査が短期間のうちに少人数で行われたこともあってその精度の荒さが指摘されている。

交通網

鉄道

かつて、輸送シェアの大半を獲得していた阪急電鉄・阪神電気鉄道・山陽電気鉄道などが震災による甚大な被害を受けた。

JR西日本も同様の被害を受けているが、資本力の違いと、旧国鉄線であったため線路脇に余裕があり作業が行いやすく、強固なJRグループの結束力で全国から応援を呼んだことから急速な復旧を遂げて最初に運行を再開した。複々線であった山陽本線(JR神戸線)は地震発生から74日後の1995年4月1日複線での運転を行う方法で不通区間を解消、山陽新幹線も震災が起こった直後に橋脚が倒壊して新大阪駅姫路駅の間が不通となっていたが、81日後の同年4月8日に不通区間を解消した。

私鉄では、阪急電鉄が地震発生から約5ヶ月後(146日後)の同年6月12日、山陽電気鉄道が阪急電鉄の不通区間解消から6日後(地震発生から152日後)の同年6月18日、阪神電気鉄道が阪急電鉄の不通区間解消から2週間後(地震発生から160日後)の同年6月26日、そして阪急・阪神・山陽の各社が相互乗り入れする神戸高速鉄道は地震発生から約7ヶ月後(208日後)の同年8月13日に不通区間を解消した。

JR・私鉄など各社間で連携して行われたバスや他社鉄道線による代替輸送は不通区間の解消とともに順次終了された。4月の段階で最初に不通区間を全て解消したJRは、新年度の定期券発行でも優位な状況となり、結果利用者のシェアはJRへとシフトする形となった。

復旧に至るまでの間、東海道本線と山陽本線を経由して九州へ向かう貨物列車は、福知山線山陰本線伯備線山陰道)のルートを経由して大回りで貨物列車を運転した。

東海道本線、山陽本線が分断されたために、電車車両をディーゼル機関車を使って当時は電化されていなかった加古川線を通過、もしくは、播但線・山陰本線を経由して福知山駅まで回送した。新幹線は、JR東海、JR西日本ともに車両が他社区間に閉じ込められたために復旧するまでお互いの車両を使用することとした。

道路

道路でも、中国自動車道や国道43号・国道2号は、復旧のための車線規制による渋滞が起こり、特に、高架が崩落した阪神高速道路神戸線(第二神明姫路バイパスなども通じて、大阪姫路間の連絡道路となっている。)は、ながらくの間不通となった。このため、復旧までの期間には、国道372号国道27号に長距離トラックや長距離バスが殺到した。

中国自動車道では、吹田JCT西宮北ICの間が不通となった。このことから、近畿地方内で京阪神を経由せずに、亀山東海道沿線)や米原中山道沿線)から姫路(山陽道沿線)まで行くには、北近畿敦賀から和田山までを通らなければ迂回できないということが指摘されている。また、近年、論議がかまびすしい道州制においても、この北近畿迂回路の存在から「地域的・交通的問題を解決するには、交通的一体性を重視した枠組みにすべきだ」という意見がだされている。

報道・ネット

この震災は報道に大きく取り上げられて地震発生後約3日間、テレビ・ラジオはほぼ全てのチャンネルが、24時間震災関連の特別番組となり、コマーシャルも殆ど放送されなかった。

近畿広域圏では、地震発生から数日は完全にCM枠を抜いてその時間にライフライン情報を放送した。特に、独立UHF放送局であるサンテレビジョンは、1月17日から1月22日まで106時間28分も、独立ラジオ局であるAM KOBE(現在のラジオ関西)は、1月17日から1月20日まで69時間も、独立FM局のKiss-FM KOBEは、1月17日から3月ごろまでCMを抜いて震災放送を行った。

大阪では、緊急警報信号を発信した模様だが、津波は発生していないので、当時の大阪府知事からの要請で発信した模様だと思われる。

また、NHK教育テレビジョンNHK-FM放送では、数日間に渡って(特に、近畿向けには136時間の連続放送を含む。)被災地域の視聴者に向けた安否確認情報放送が初めて適用された。

近畿広域圏では、約7日後から一部通常番組を流し始めたが、お笑いなどの娯楽番組は差し控えられた。例外として、発生3日後の1月20日の夜に、「探偵!ナイトスクープ」が放送された(→その他)。また、「鶴瓶上岡パペポTV」では、震災の翌週の放送で、通常の客席を入れたトークではなく、笑福亭鶴瓶上岡龍太郎による、震災をテーマにした雑談を行った。

一方で、全国区を取り仕切る関東広域圏の対応は、上記の時間が過ぎてから通常の放送体制に戻っていたが当面多くの生放送バラエティ番組では被災者へのエールや義援金の呼びかけなどを行っていた。また、地震関連情報は全国放送から近畿広域圏のみに次第に絞られていきこれが物議を醸した。特に、約2ヶ月後の地下鉄サリン事件が発生してからはこの傾向は顕著となった。

震災当時、日本のインターネットにおいて商用利用、個人利用はまだ始まったばかりであったが、パソコン通信ネットワーク(「NIFTY-Serve」(現@nifty)など)の掲示板や電子会議室が、被災者情報や大学の休講状況などの情報交換に役立つ。以後、コンピュータ・ネットワークの商用利用、個人利用に、マニア以外からも目が向けられるようになっていくこととなる。

人口

神戸市全体としての人口は、2004年11月には震災前の人口に戻っているが、中央区より西側の兵庫区・長田区・須磨区・垂水区では、社会の高齢化少子化(少子高齢化)の影響もあって人口が震災前の水準に戻らずに減少に転じる区もでている。特に、長田区おいては深刻な状況となっている。一方で、同市中央区・灘区・東灘区では、利便性の高さから工場跡地などでの再開発により分譲マンションの建設ラッシュが起こっていて西宮市にかけての地域で小学校の供給が追いつかなくなってきている。実際に、一部の学校ではプレハブ構造の仮設校舎で対処しているところもでてきている。

文化・スポーツ

宝塚歌劇団の本拠地・宝塚大劇場も大きな被害を受けた。およそ、2ヶ月半の間公演不能の状態になり、安寿ミラの退団公演を上演していたが公演中止を余儀なくされた。 3月に「国境のない地図」で公演を再開。神戸国際会館も全壊して予定されていた公演が中止や会場を移しての公演になった。

この大震災は関西のスポーツ界にも多大な影響をだしている。阪神競馬場阪神甲子園球場の一部が損壊。そして、この年の「大阪国際女子マラソン」も中止を余儀なくされた。また、4月に岡山国際サーキットで開催予定であったF1パシフィックグランプリも10月に延期された。鈴鹿サーキットでの日本グランプリとの連続開催が緊急に実現した事によってF1グランプリの「日本シリーズ」が実現した。さらにこの年に予定されていたゆうあいピック兵庫・神戸大会も中止になった。

甲子園球場で行われる第67回選抜高等学校野球大会は「中止すべき」という意見もあったが、予定通りに実施された。

デパート

そごう神戸店も本館が半壊して部分の解体撤去(この撤去した部分が現在のサンファーレ広場となっている)を含めた復旧工事の末1996年4月28日に全館オープンした(新館と本館地階はそれ以前から再開していた)。また、大丸神戸店は、本館の3階部分が倒壊したために取り壊しを行い、建替えての再建。西館についても全面改装を施して1997年3月に復興グランドオープンした。一方で、三宮阪急は、入居していた神戸阪急ビル東館がほぼ全壊して震災5日後に閉店に追い込まれたのち、ついに再開されることはなかった。ただし、震災前の1992年に神戸ハーバーランドに神戸阪急が開店している。

その他

同震災で被災者らが避難生活中にどこでも使えるカセット式のガスコンロを調理などに利用していたが、当時のカセットコンロは燃料用ボンベが各社独自方式であったために被災者間で燃料ボンベの貸し借りができずにメーカー側に疑問が呈された。このために、各社ごと規格からメーカーが違っていても同じ規格のガスボンベが利用できる様に改められている。今日では燃料用ボンベを専門に扱うメーカーも登場していてカートリッジ式のボンベは普通サイズと小型サイズの二種類のみ(キャンプ用フィールドクッカーを除く)となってどこのメーカーのボンベでも問題無く利用できるようになっている。


メディア等における問題

一方、マスメディア他で略称として「阪神大震災」と報じていたことに疑問を持つ被災者もいる。大都市・大工業地帯・観光都市の一つである神戸・阪神地区だけが壊滅的な被害を受けた様に表現されて同様に甚大な被害をうけた淡路島北部や明石市などが考慮されていないからである。そのために、「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになってはいるが、明石市についてもこの表現では含まれていないために同市の広報資料などでは「兵庫県南部地震」を震災の呼称としている。

また、大阪にはそれほど大きな被害が生じていないにもかかわらず、「阪」の文字が入っているのは、兵庫県内における地域区分である「阪神」間(灘区・東灘区・芦屋市・尼崎市・西宮市近辺)における被害が甚大であったためである。

また、報道倫理に関わる問題として過剰な取材活動が挙げられる。今回においても、地震発生直後のマスメディア各社が航空取材活動を開始しているが、この取材活動におけるヘリコプターによる騒音により家屋の下敷きとなった被災者の声を聞き取れずに救助隊の初期活動の大きな妨げとなっている。1995年2月7日に衆議院地方行政委員会でこの問題が取り上げられている。

また、一部の報道陣が被災者のための炊き出しを取材のためと称して食したり、夜明け前の避難所内の模様を撮影用の照明で明るくしたりしていた。

当時の日本銀行神戸支店長であった遠藤勝裕氏がフジテレビ日本のよふけ(2001年10月7日放送)において語ったところによると、定例記者会見で神戸が壊滅してしまったかのようなマスメディアの報道ぶりを批判し、「神戸には生き残った市民が沢山いる。市民が生きている限り、神戸は悲惨ではあるが壊滅はしていない」と発言していたが無視され、一切報道される事はなかった。遠藤氏は「日銀の支店長がこういう事を言ったと報道してくれれば、少しでも被災者を勇気づけられたのに残念だ」と語っていた。購買力のない焼け出された被災者を相手にせず、周辺の無事な人に向けて新聞・雑誌を売ろうとするマスコミの一面が伺える。過剰な取材活動の問題と併せて購買者である一般市民が留意すべき点であろう。

ファイル:1・17希望の灯り.jpg
1.17希望の灯り(東遊園地)

追悼行事

毎年1月17日は、東遊園地などの広場・協会などにおいて式典が行われている。発生時刻の午前5時46分と12時間後の午後5時46分に黙祷を行う。三宮にある東遊園地では広場に6000本の灯篭で模った「1.17」を北側の市役所庁舎を正面に掲示される。また、この灯篭が消えた場合は、式典開催者は手をつけずに訪れた人々にろうそくを渡して点火してもらっている。灯篭は毎年若干の違いがあるものの5時から21時まで点火されている。

また1995年より毎年12月に、鎮魂と追悼・街の復興を祈願して神戸ルミナリエが開催されている。

被災地が即急に復興できたのは多くの支援者・ボランティアのおかげであったために、被災者は今も支援者に感謝の気持ちを声明や催し物で示している。また、神戸市はこの支援活動の教訓や当時の恩返しの意味をこめて新潟県中越地震やスマトラ島沖地震の時はどこよりも人材、資材などの援助を行ってきている。また、防災事業では、現在においてもこの震災を例に挙げられることが多く防災事業の原点となりつつある。

震災の反省

耐震性のないほとんどの建造物で被害が発生したのを受けて消防庁では公共施設の耐震改修を指導している。

しかし、「阪神・淡路大震災」の起こった兵庫県でさえ公共施設の耐震化率は48.3%にとどまっている。東京78.1%(消防庁 2003、各都道府県耐震改修状況)に比べて耐震化は遅れている。さらに、民間の会社施設・マンションにおいての耐震化率はきわめて低いのが現状である。

もっとも深刻なのは、大震災で死者のほとんどを出した、地震に弱い老朽木造住宅が日本に1000万戸あるといわれていることである。耐震化率は現状では低い。

宏観異常現象

地震の数日前から、直前に至るまでの間に、関西地方を中心として様々な異常現象が見られたという一部の人からの報告がある。いわゆる、「地震雲」をはじめとして、謎の夜間発光現象の目撃情報、ミミズや昆虫の異常大量発生、動物の異常な行動、携帯電話などの電波を用いる機器の異常、太陽・月の光などの異常などである。

これらは、宏観異常現象として将来の地震予知に役立つのではないかと考えられている。それらの証言・情報を収集し研究する研究者もいるものの、ほとんどの地震研究者からは検証不足などを指摘されて未だに、疑似科学程度に過ぎないとみなされている。

しかしながら、地震の1ヶ月ほど前から地下水のラドン濃度の異常については記録が残っている。これらから、地震予知が出来るのではないかとして研究が続けられている。

関連項目

事象

救助

放送・キャンペーン

追悼・モニュメント

その他

参考

  1. HEM-Net
  2. 地震による顕著な被害があった場合には、気象庁長官はその地震について命名すると定めている。基準は100kmより浅い直下型でM7.0以上、同じく海洋型で7.5以上、全壊100棟程度以上など。
  3. 一卵性双生児/「戦後」と重なる神戸復興(神戸新聞)

外部リンク

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