稲尾和久
稲尾 和久(いなお かずひさ、1937年6月10日 - 2007年11月13日)は大分県別府市出身のプロ野球選手(投手)、監督、野球解説者、評論家である。現役時代の背番号は24。通称「鉄腕」。愛称はサイちゃん。
目次
来歴・人物[編集]
西鉄ライオンズ入団~新人王[編集]
大分県別府市北浜出身。7人兄弟の末っ子に生まれる。漁師を継がせたいと考えていた父親の意向で、幼い頃から艪を仕込まれ海に出されていた。「薄い板一枚隔てて、下は海。いつ命を落とすかわからない小舟に乗る毎日だったが、おかげでマウンドでも動じない度胸がついた」と後年語っている。また、和久の強靭な下半身はこの漁の手伝いによって培われたものと言われているが、和久本人は「バランス感覚は養われたかもしれないけど、下半身のトレーニングにはあまりなっていないよ」と否定している。
都市対抗野球で全国制覇した別府星野組にあこがれて野球を初めたという。中部中学時代のポジションはキャッチャーで生徒会長も務めた。1956年、大分県立別府緑丘高等学校(現・大分県立芸術緑丘高等学校)から西鉄ライオンズに入団した(高校時代の先輩に河村英文、同期入団に畑隆幸がいる)。
高校時代は全く無名の選手で、南海ホークスが獲得に動いていると知って初めて西鉄も獲得に乗り出した。このとき南海とは契約寸前まで行ったが父・久作の「大阪に行くよりも、何かあればすぐに戻って来られる九州の方がいい」という言葉、また西鉄に高校の先輩・河村がいたこともあり(河村は当時稲尾獲得を西鉄経営陣に進言したとも言われている)西鉄入団を決意した。
入団当初は注目の選手ではなく、三原脩監督も「稲尾はバッティング投手(打撃投手)として獲得した」と公言して憚らなかった。実際島原キャンプでは中西太・豊田泰光・高倉照幸ら主力打者相手の打撃投手を務めており、口の悪い豊田は「手動式練習機」とも呼んでいた。このとき和久は、各バッターの打撃練習中に4球に1球ボール球を投げるように指示された(ストライクを投げ続けているとバッターが打ち疲れてしまうため)。この4球のうちの1球をストライクゾーンのコーナーギリギリを狙って投げる練習をし、コントロールを磨いた。こうして投手として成長した稲尾の前にキャンプ後半になると逆に打者が打ち取られる場面が増えたため、中西と豊田が三原に「稲尾を使ってみてほしい」と進言したという。
ただし、後に豊田は週刊ベースボールの連載コラム(稲尾追悼回)にて「稲尾が打撃投手としてとられたというのは嘘。三原監督は早くから稲尾に注目しており、また投手はまず打撃投手をさせるのが監督のやり方だった」と述べてもいる。この時代の日本プロ野球は専業の打撃投手を置く球団がまだ存在せず、選手の中から事実上の打撃投手をやりくりしていたという事情もあった。
そしてオープン戦に登板したものの、スコアボードに「稲生」と間違って表示されるなど未だ無名であった。しかしここで結果を残して開幕を一軍で迎え、開幕戦(対大映ユニオンズ)で11-0と西鉄が大量リードで迎えた6回表から河村の後を継いで2番手として登板、4回を無失点に抑えた。その後もしばらくは敗戦処理などで登板していた。同年5月20日にプロ初勝利をし、それを機に8連勝した。投手陣の故障などから登板機会が増え、最終的には1年目から21勝6敗、防御率1.06(2007年現在パリーグ記録)の好成績を残し最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得した(ちなみにこの年、新人にして154試合全試合にフルイニング出場し180安打を記録したにもかかわらず和久との直接対戦成績(18打数1安打)が決め手となり新人王になれなかったのが、後にフジテレビ系『プロ野球ニュース』のキャスターとして人気を博した佐々木信也)。
獅子奮迅の大活躍[編集]
2年目の1957年からは3年連続30勝を記録し、1961年にはヴィクトル・スタルヒンに並ぶシーズン42勝をマーク。中西や豊田、大下弘、仰木彬らと共に「野武士軍団」西鉄の黄金時代を築き上げる原動力となった。
投手としての稲尾を語る上で欠かせないエピソードは、読売ジャイアンツと対戦した1958年の日本シリーズであろう。第1戦を和久で落とし第2戦も敗戦、平和台球場に移動しての第3戦、和久を先発に立てるも破れて3連敗と追い込まれた。しかし翌日は降雨で試合中止となると第4戦、三原監督は第1戦、第3戦に先発した和久をスタメンでマウンドに上げた。そしてその試合で勝利をもぎ取ると、第5戦は4回表からリリーフ登板し勝利投手に。そして後楽園球場での第6戦第7戦は2日連続先発完投勝利し、奇跡の大逆転日本一を成し遂げた。実に7試合中6試合に登板(うち5試合に先発、4試合完投)し第3戦以降は5連投、更に第5戦ではシリーズ史上初となるサヨナラホームランを自らのバットで放つという文字通り「獅子奮迅」の活躍を見せ、優勝時の地元新聞の見出し「神様、仏様、稲尾様」は今なお和久の枕詞となっている。以降も日本シリーズには4回出場し、通算11勝をあげている。これは、堀内恒夫と並ぶ日本シリーズ最多勝記録である(堀内は8回出場で記録)。なお、三原はこのシリーズで和久を使い続けたことについて「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった」と告白していた。後年、病床に伏していた三原は見舞いに訪れた和久に対し「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳ないものだ」と詫びたが、和久は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている。
デビューから8年連続20勝以上・史上唯一の3年連続30勝以上、同一シーズン内20連勝のプロ野球記録(1957年)を達成し「鉄腕」の名をほしいままにした。
1962年8月25日、通算200勝を達成。25歳86日での達成は金田正一に次ぐ年少記録。プロ入り7年目での達成は史上最速である。
晩年そして引退[編集]
しかし、1964年にはそれまでの酷使がたたって(稲尾がプロ入りした1956年から1963年までの1シーズンあたりの平均登板数は66試合、平均の投球回数は345イニング)肩を故障しプロ入り後初めて1勝もあげられないシーズンとなった。これを機に1966年リリーフに転向し、同年最優秀防御率のタイトルを獲得した。1969年限りで現役を引退。和久の早期引退が先発ローテーション制度が広まるきっかけになったと言われるほど当時の衝撃は強いものがあった。
当時、「エース」と呼ばれる投手は先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前で(1961年の稲尾を例にとれば登板78試合(パ・リーグ記録)のうち先発で30試合、リリーフで48試合登板した)週2~3回の登板や連投も珍しくなかった(中3日で「休養十分」とみなされていたが、1961年の和久は中3日以上あけて登板した試合がわずか18試合。逆に3連投4回を含め連投が26試合ある)。それに加え、三原が実力を認めるや和久を重点的に起用する方針を採ったため頭角を現した後の和久は登板数が急激に増加した。米田哲也や梶本隆夫(阪急ブレーブス)、土橋正幸(東映フライヤーズ)といった同世代のエースと比較しても登板試合数が極端に多い(米田と土橋は共に63試合が最高で、60試合以上登板したのも共に2シーズンだけ。梶本は68試合が最高だが60試合以上登板したのはその1シーズンだけ。これに対し稲尾は60試合以上登板したシーズンが6シーズン(そのうち70試合以上登板したシーズンが4シーズン)ある)。また、和久の重点起用で西鉄が3年連続日本一という結果を出したことからこれ以降セ・パ両リーグでエースピッチャーを重点起用する戦術が流行することとなった。その結果、和久や杉浦忠(南海ホークス)、権藤博(中日ドラゴンズ)など酷使が原因で選手寿命を縮める投手が多数出て(杉浦はリリーフ専門投手、権藤は打者への転向を余儀なくされた)これがきっかけで先発ローテーション制を整備する動きが出るようになったのである。
指導者として[編集]
引退翌年の1970年から、ライオンズの監督に就任した。32歳での監督就任は専任監督として最年少である。「黒い霧事件」のため次々と主力を失い、球団が西日本鉄道から福岡野球株式会社に売却される(太平洋クラブは、ネーミングライツによる冠スポンサー)という苦境の中で指揮をとり3年連続最下位になるなど散々な成績に終わり1974年限りで退任。ただし後に大投手となる東尾修や加藤初を酷使と批判されながらも若手時代に積極的に起用し後の活躍の礎を構築した。
1978年から1980年まで中利夫監督の下で中日投手コーチを務め、藤沢公也投手を新人王に輝かせる。1984年よりロッテオリオンズ監督を務める。埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡に移転させる条件で監督要請を受諾したが移転は行われることなく1986年限りで退任。この間に肘の手術明けだったエース・村田兆治を毎週日曜日に中6日で登板させる起用法をとった。それに応えて開幕から11連勝した村田は以降「サンデー兆治」と呼ばれるようになった。
球界引退、野球解説者として[編集]
1974年シーズンオフに太平洋クラブライオンズ監督を退任した後、1975年からRKB毎日放送解説者となり主に太平洋クラブ~クラウンライターライオンズ戦の解説を勤めた。ちなみに西鉄時代の先輩である中西も、1976年から競合局のKBC九州朝日放送で解説者を務めていた。
中日コーチを辞任した1981年から大阪に移り、1983年までABC朝日放送で野球解説者を務めた。
そしてロッテオリオンズ監督を退任し、完全にユニフォーム生活から引退した後には日刊スポーツ野球評論家、ABC朝日放送解説者を務め2000年からはRKB毎日放送の専属解説者を務めた。RKBでは夕方ワイド番組『今日感テレビ』にもコメンテーターとして出演した。
プロ野球マスターズリーグが発足すると福岡ドンタクズの監督としても活躍した。この時に後輩であり、愛弟子でもある池永正明を表舞台に久々に登場させ彼の復権に大きな力を発揮した。
1993年、野球殿堂入り。長らく沢村賞選考委員を務めていたが2006年に委員長の藤田元司が亡くなったことを受け、同年からは委員長を務めた。
2007年10月2日、故郷の別府市に完成した別府市民球場内に「稲尾記念館」が開館した。記念館には稲尾が現役時代に使用したスパイクやトロフィー、写真などの資料が展示されているほか、現役時代の稲尾の姿をかたどった銅像も建立されている。
2007年10月14日のクライマックスシリーズ第2戦が最後の解説だった。
晩年は体調面の問題もあり現場第一線から離れつつ『今日感テレビ』にはぎりぎりまで出演を続けていたが体調不良を理由に10月29日に行われた沢村賞の選考会議に欠席し(意見書は書面で提出していた)、30日手足の痺れを訴え福岡市内の病院に入院。当初は検査をしても原因が判らなかったという。
2007年11月13日1時21分、悪性腫瘍のため死去。(2007-1937)+((11-6)*100+(13-10)>=0)-1歳没。死去当日の『今日感テレビ』では急遽追悼特番が組まれた。
2007年12月11日、日本政府は多年に亘る和久の日本野球界への貢献、そして野球ファンに感動と勇気を与えたその功績を称え逝去した11月13日付で彼に旭日小綬章を授与することを閣議決定した。
2007年12月29日、福岡ドームで西鉄ライオンズOBによる追悼試合が行われた。
年度別投手成績[編集]
年度 | チーム | 登 板 |
完 投 |
完 封 |
勝 利 |
敗 戦 |
勝 率 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1956年 | 西鉄 | 61 | 6 | 3 | 21 | 6 | .778 | 262.1 | 153 | 2 | 73 | 8 | 182 | 2 | 47 | 31 | 1.06 |
1957年 | 68 | 20 | 5 | 35 | 6 | .854 | 373.2 | 243 | 14 | 76 | 7 | 288 | 1 | 72 | 57 | 1.37 | |
1958年 | 72 | 19 | 6 | 33 | 10 | .767 | 373.0 | 269 | 8 | 76 | 4 | 334 | 2 | 74 | 59 | 1.42 | |
1959年 | 75 | 23 | 5 | 30 | 15 | .667 | 402.1 | 300 | 14 | 82 | 9 | 321 | 1 | 86 | 74 | 1.65 | |
1960年 | 39 | 19 | 3 | 20 | 7 | .741 | 243.0 | 211 | 15 | 51 | 4 | 179 | 0 | 80 | 70 | 2.59 | |
1961年 | 78 | 25 | 7 | 42 | 14 | .750 | 404.0 | 308 | 22 | 72 | 6 | 353 | 3 | 93 | 76 | 1.69 | |
1962年 | 57 | 23 | 6 | 25 | 18 | .581 | 320.2 | 281 | 27 | 56 | 4 | 228 | 1 | 98 | 82 | 2.30 | |
1963年 | 74 | 24 | 2 | 28 | 16 | .636 | 386.0 | 358 | 26 | 70 | 10 | 226 | 1 | 121 | 109 | 2.54 | |
1964年 | 6 | 0 | 0 | 0 | 2 | .000 | 11.1 | 18 | 2 | 9 | 0 | 2 | 0 | 13 | 13 | 10.64 | |
1965年 | 38 | 13 | 2 | 13 | 6 | .684 | 216.0 | 191 | 16 | 50 | 4 | 101 | 0 | 71 | 57 | 2.38 | |
1966年 | 54 | 2 | 2 | 11 | 10 | .524 | 185.2 | 134 | 11 | 23 | 5 | 134 | 0 | 45 | 37 | 1.79 | |
1967年 | 46 | 3 | 1 | 8 | 9 | .471 | 129.0 | 114 | 11 | 22 | 5 | 87 | 1 | 40 | 38 | 2.65 | |
1968年 | 56 | 2 | 1 | 9 | 11 | .450 | 195.0 | 168 | 22 | 32 | 5 | 93 | 0 | 68 | 60 | 2.77 | |
1969年 | 32 | 0 | 0 | 1 | 7 | .125 | 97.0 | 92 | 9 | 27 | 2 | 46 | 0 | 36 | 30 | 2.78 | |
通算成績 | 756 | 179 | 43 | 276 | 137 | .668 | 3599.0 | 2840 | 199 | 719 | 73 | 2574 | 12 | 944 | 793 | 1.98 | |
(7位) | (8位) | (10位) | (8位) | (3位) |
- 表中太字はシーズンのリーグ最高記録
2000イニング以上投げて通算防御率が1点台の投手は4人しかいないが、和久以外の3人(藤本英雄 1.90、野口二郎 1.96、若林忠志 1.99)は現在ほどボールが飛ばず投手有利と言われた戦前・戦中の時代を経験している投手でしかも4人の中で投球回数が1番多い点を考慮すると、稲尾の通算防御率1.98は特筆すべき記録といえる。
タイトル・表彰[編集]
- 最優秀新人(1956年)
- 最多勝:4回(1957年、1958年、1961年、1963年)
- 最高勝率:2回(1957年、1961年)
- 最優秀防御率:5回(1956年 - 1958年、1961年、1966年) ※最多記録。3年連続受賞も最長記録。1956年は新人で受賞。新人受賞は宅和本司と稲尾のみ。
- 最多奪三振:3回(1958年、1961年、1963年)
- MVP:2回(1957年、1958年)
- ベストナイン:5回(1957年、1958年、1961年 - 1963年) ※投手として最多タイ記録。投手として3年連続の選出は稲尾と松坂大輔(西武ライオンズ)のみ。
- 野球殿堂入り(1993年)
- 旭日小綬章(逝去日の2007年11月13日付)
記録[編集]
レギュラーシーズン[編集]
- 同一シーズン最多連勝(1957年、20連勝)
- 最多連勝(1957年、20連勝、松田清(元巨人)とタイ)
- 月間最多勝(1962年8月、11勝)
- シーズン最多勝(1961年、42勝、ヴィクトル・スタルヒン(元巨人他)とタイ。後述)
- シーズン最多奪三振(1961年、353個、パ・リーグ記録)
- シーズン最多登板(1961年、78試合、パ・リーグ記録)
- シーズン防御率(1956年、1.06、パ・リーグ記録、新人記録)
- シーズン最多投球回(1961年、404回、パ・リーグ記録)
- シーズン最多被安打(1963年、358、パ・リーグ記録)
日本シリーズ[編集]
- 通算完投:9(シリーズ記録)
- 通算勝利:11(シリーズタイ記録。他に堀内恒夫)
- シリーズ登板試合:6(1956年、1958年、シリーズタイ記録。他に中村大成、藤田元司、土橋正幸、村山実、小林繁。2度記録したのは稲尾のみ。1956年はシリーズの全ての試合に登板)
- シリーズ完投:4(1958年、シリーズタイ記録。他に杉下茂)
- シリーズ勝利:4(1958年、シリーズタイ記録。他に杉浦忠)
- シリーズ投球回数:47(1958年、シリーズ記録)
- シリーズ被安打:30(1958年、シリーズ記録)
- シリーズ奪三振:32(1958年、シリーズ記録)
- シリーズ自責点:12(1963年、シリーズタイ記録。他に山田久志が2度)
オールスターゲーム[編集]
- シリーズ奪三振:10(1958年、2試合シリーズ記録)
監督としてのチーム成績[編集]
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970年 | 西鉄 | 6位 | 130 | 43 | 78 | 9 | .355 | 34 | 137 | .225 | 4.12 | 33歳 |
1971年 | 6位 | 130 | 38 | 84 | 8 | .311 | 43.5 | 114 | .231 | 4.31 | 34歳 | |
1972年 | 6位 | 130 | 47 | 80 | 3 | .370 | 32.5 | 110 | .242 | 4.12 | 35歳 | |
1973年 | 太平洋 | 4位 | 130 | 59 | 64 | 7 | .480 | 3位・4位 | 116 | .239 | 3.58 | 36歳 |
1974年 | 4位 | 130 | 59 | 64 | 7 | .480 | 3位・4位 | 90 | .235 | 3.46 | 37歳 | |
1984年 | ロッテ | 2位 | 130 | 64 | 51 | 15 | .557 | 8.5 | 149 | .275 | 4.22 | 47歳 |
1985年 | 2位 | 130 | 64 | 60 | 6 | .516 | 15 | 168 | .287 | 4.80 | 48歳 | |
1986年 | 4位 | 130 | 57 | 64 | 9 | .471 | 13 | 171 | .281 | 4.34 | 49歳 | |
通算成績 | 1040 | 431 | 545 | 64 | .442 | - | 1055 | - | - | - |
エピソード[編集]
記録に関するエピソード[編集]
- 1961年にシーズン日本記録の42勝をマークした当時、もう1人のホルダー・スタルヒンの記録(1939年)は40勝とされていた。スタルヒンの記録は当初42勝であったが当時は勝利投手の基準が曖昧で記録員の主観で判定していた部分があり、戦後スコアブックを見直した際に明らかにスタルヒンに勝利を記録することが適当でないと思われる2試合があったため修正を行っていたのである。しかし和久が「新記録」を樹立したことで改めてこの記録の扱いが議論に上り、最終的には「あとから見ておかしなものでも当時の記録員の判断に従うべき」という理由で再び42勝に変更された。それに伴い和久の記録もまた新記録からタイ記録へと変更された。稲尾は41勝を達成してからはシーズン奪三振記録の更新に目標を切り替えており、更新した時点でその年の投げ納めとした。そのため42勝でシーズンを終えたのだが、「それまでの記録が42勝と知っていれば、何が何でも43勝目を狙いに行っていただろう」と和久は述懐している。
フォーム・投球術[編集]
- 足の裏を全て地面につけず爪先で立つように投げるフォームは、漁師であった父の仕事の手伝いで小船で櫓を漕ぎ続けていたことによって得たものだといわれている。権藤博が「稲尾さんのコピーを目指した」というほど和久のフォームを手本にしたのは有名だが肩を痛めて以降は腕を強く引くことができず、かかとを上げるだけのゆとりが持てなくなってこのフォームは出来なくなったと和久自身が自分の投球フォームの分析時に語っている。
- 同じ投球フォームから直球・変化球を投げ分けることができ、パ・リーグの強打者を大いに苦しめた。得意の球種はシュート、スライダー。当初和久はマスコミに「自分の決め球はスライダーである」と吹聴していたが、実際はスライダーは見せ球で本当の決め球はシュートであった。これを見抜いていたのは野村克也(南海)だけだったという[1]。またリリースポイントの直前に握りを変え、シュートとスライダーを投げ分けることもできたという。しかしスライダーも屈指のもので、青田昇も「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは藤本英雄、稲尾和久、伊藤智仁の3人だけ」と評価している。
- この他に、フォークボールもマスターしていた。これは榎本喜八を打ち取るためだけに習得したもので、榎本との対戦以外では1球も投げなかった。なお和久は榎本について「今まで自分が対戦してきた中で最強の打者」と評している。
- 現在では一般的な投球術となっている、相手打者を打ち取る球から遡って配球を組み立てるいわゆる「逆算のピッチング」を編み出したのも和久とされている。これを会得したのは、1958年の日本シリーズ第6戦における長嶋茂雄との対決だったという。ボール半個分を自由自在に出し入れすると言われた正確なコントロールに裏打ちされた投球術であった。
- 外角のコントロールに優れていたのは有名だが、特に主審が浜崎忠治の時はボール2、3個外れてもストライクとなった。これを他チームは稲尾-浜崎ラインと呼んで恐れた(大沢啓二談。『サンデーモーニング』週刊 御意見番(TBS系) 2007年11月18日)。
その他現役時代のエピソード[編集]
- 体はごついが優しい目をしているサイに似ていたほか、私生活がサイのようにゆったりとしていたことから親しみを込めて「サイちゃん」と呼ばれていた。
- マウンド上のマナーが非常に優れていたことで有名。イニングが終わり相手投手にマウンドを譲るときは必ずロージンバッグを一定の場所に置き、自分の投球で掘れた部分を丁寧にならしていた。対戦した杉浦はこれに感銘し、以後真似するように努力したという。
- ある大学が「プロの投手の集中力と精神力」を調査するため、和久を含む西鉄投手陣に捕手の構えるところに正確に続けてボールを投げ込むことができるかどうかという実験を依頼した。和久は外角低め、外角高め、内角低め…と何十球も連続して捕手の構えるところに少しもミットを動かすことなくボールを投げ込み続けた。この制球力を見て他の投手は「やっていられるか」と呆れ、実験の参加を辞退したという。
- 杉浦とのエース対決となった、平和台球場での南海戦。8回裏に先制の2ラン本塁打を放った和久は、ベンチに帰るなり「『鉄腕稲尾のひとり舞台、投げて完封・打って2ラン』。明日の新聞の見出しはこれで決まり!」と口走る。これに中西が「野球は1人じゃ出来ない」と反発すると、豊田もこれに同調。直後の9回表、先頭打者がサードに転がすと中西が取り損ね、続く打者をショート併殺に打ち取ったと思ったら今度は豊田がトンネル。和久は「わざとエラーをしたんじゃないか」と中西と豊田に疑いの目を向けるが、2人とも「わざとじゃない」と言うばかり。その後は送りバントを自ら取って2塁ランナーを3塁で封殺、続けて仰木彬へのセカンドゴロでダブルプレーに打ち取って試合を決め完封勝利を収めた。後年和久はこれについて「『野球は一人でやるものじゃない』の意味が分かった。これが西鉄の愛の鞭だと思った」と話していたがこの時は中西と豊田のエラーについて疑いが消えなかったため、三原に事の経緯を報告。中西と豊田は試合後に「誰かからわざとエラーするように指示されたのか?」と三原に怒られたという。
- 1959年には西鉄の全面協力により、和久の半生を描いた映画『鉄腕投手 稲尾物語』(東宝、本多猪四郎監督)が制作・公開され本人役で主演した。三原監督以下、中西、豊田、関口清治、大下弘ら当時の西鉄選手が全員出演し大毎の荒巻淳、NHKアナウンサーの志村正順、野球解説者の小西得郎らがゲスト出演した大作野球映画であった。共演は志村喬、浪花千栄子、白川由美ら。
- 現役晩年、広島東洋カープへの移籍が実現寸前の所までこぎつけていたが一部ファンから「稲尾は西鉄の宝です、それだけは思いとどまってください」と反対され、結局は実現しなかった。
監督・コーチ・評論家時代[編集]
- 和久が現役時代に着けていた背番号24は、1972年に西鉄の永久欠番となった。そのため監督時もそのまま背番号24を着用していたが翌1973年、親会社の身売りにより失効。和久もこの年から背番号を81に変更している。
- 評論家時代の1982~1983年、テレビ朝日系列・日曜朝8:30~9:00の時間帯に『稲尾Q談』というトーク番組を持っていた。
- 1979年、知人の日本航空パイロットからの誘いで「日本航空棒球隊」総監督になり何度も中国に赴き中国チームとの親善試合、技術指導をしていた。その縁で亡くなる直前の2007年9月29日、日本航空羽田―上海虹橋線就航セレモニーの特別ゲストとして祝辞を述べていた。
- ロッテ監督時代の教え子だった落合博満から、良き理解者として慕われている(詳しくは落合の項参照)。
- 1994年にはキリンビール「キリンシャウト」のCMに、架空の球団「シャウト」の監督で出演。エースピッチャー役の原田芳雄に「そろそろ変化球も覚えろよ原田」というセリフを投げかけていた。
- 仰木が亡くなり、プロ生活の大半を過ごした関西でお別れ会の話が出た時に「福岡は仰木さんの故郷で親類や知人も多い。神戸まで足を運べない人の為にも」と福岡・神戸でのお別れ会同時開催を提案。この心遣いに遺族や親類、知人からは惜しみない賛辞が贈られていた。
- 長嶋茂雄について彼は何も考えずに打っているから打てる、だから自分も何も考えずに投げたら彼を攻略できたと語った。
過去の主な出演番組[編集]
脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
|
|
|
|
|
|
|
|
このページはウィキペディア日本語版のコンテンツ・稲尾和久を利用して作成されています。変更履歴はこちらです。 |