岡田有希子
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岡田 有希子(おかだ ゆきこ、本名は佐藤 佳代(さとう かよ)、1967年8月22日 - 1986年4月8日)は日本の80年代のアイドル歌手の一人。愛知県一宮市生まれ、名古屋市熱田区育ち。名古屋市立向陽高等学校→堀越高校卒業。所属事務所はサンミュージック。当時キャッチフレーズは「ステキの国からやってきたリトル・プリンセス」。その後「いつまでも、一緒にいてね」と変わった。
| 岡田有希子 おかだ ゆきこ | |
| 本名 | 佐藤佳代 |
|---|---|
| 生年月日 | 1967年8月22日 |
| 没年月日 | Template:死亡年月日と没年齢 |
| 出生地 | |
| 血液型 | O型 |
| ジャンル | 歌手 |
| 活動期間 | 1984年 - 1986年 |
| 主な作品 | |
| 『禁じられたマリコ』 | |
| 受賞 | |
| レコード大賞最優秀新人賞 | |
目次 |
[編集] 略歴
中学3年生の時にオーディション番組『スター誕生!』の第85代チャンピオンになり、芸能界入りする。1984年4月21日に『ファースト・デイト』でアイドル歌手としてデビュー。同年、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。ポスト松田聖子と評された典型的な「清純派アイドル」の一人であり、その「ユッコスマイル」と呼ばれる愛らしい笑顔と控えめなキャラクター、笑顔とアンバランスなグラビア映えするスタイルで人気を博し、テレビ、ラジオ、CMと引っ張り凧になる。1986年1月、カネボウのキャンペーン・ソング『くちびるNetwork』が大ヒット。しかし、人気絶頂の中、所属事務所ビルから投身自殺。人気アイドルの突然の死は18歳という若さとともに、ファンや芸能界のほか、社会にも大きな衝撃を与えた。
没後10年以上経過してもなお、収録曲をファン投票で選んだベストアルバムが2002年に発売されたり、同年リリースのアルバムBOXが3万枚以上を売り上げるなど人気は根強く、活動期間がわずか3年であったにも関わらず、“永遠のアイドル”として今なお多くの人々に慕われ、その夭折を惜しまれている。
[編集] 生涯
[編集] デビューする以前の出来事
[編集] 1967年(8月22日~12月)
[編集] 1969年
- 2歳で、名古屋市熱田区に引越す。
[編集] 1972年
[編集] 1974年
- 4月に名古屋市立高蔵小学校に入学する。
[編集] 1975年
[編集] 1977年
- 4年生になり、絵画教室に通う。
[編集] 1979年
[編集] 1980年
- 3月に同小学校を卒業をする。
- 4月 名古屋市立沢上中学校に入学する。一年から油絵を習い始める。[2]河合奈保子のファンになる。[3]
[編集] 1982年
- 中学2年生の頃、『ホリプロタレントスカウトキャラバン』など様々なオーディションに応募するようになる。ニコンの「フレッシュギャルコンテスト」で準グランプリに選ばれる。
- 中学2年生の終わり頃、芸能界入りを両親に大反対される。
- 中学3年生の時に両親より芸能界入りをあきらめさせるために、クリアできないと思われる条件(学校のテストで成績が学年で1番になること、中部統一テストで5位以内に入ること、第一志望の高校の試験に合格すること)を提示されるが、寸暇を惜しんで猛勉強し、その3つの条件を見事クリアし、『スター誕生!』のオーディションを受けることを許される。(当時、アイドル雑誌『Dunk』に昔の成績表を公開する企画があったが、岡田の成績は5段階評価でほとんどが5であった。)
- 10月 『スター誕生!』の名古屋地区予選で北原佐和子の『マイボーイフレンド』を唄い「合格」。
[編集] 1983年(1月~9月)
- 3月30日 学校を早退してオーディションに出るなら内申書は書けないと担任から釘を刺されていたが、当日、学校を無断欠席して、名古屋から姉の付き添いで東京へ向かい、後楽園ホールで開催されていた『スター誕生!』の決勝大会に出場。中森明菜の『スローモーション』を歌い優勝。第46代チャンピオンとなる。[2]
- 4月 進学校の名古屋市立向陽高等学校に入学する。同級生には東進ハイスクールの講師である河本敏浩がいたが面識があったかは不明。
- 向陽高等学校でサッカー部のマネージャーを務める。
- 4月某日 「プロダクション二社とレコード会社二社からの指名があった」との連絡が入る。(サンミュージック、キャニオン、研音、VAP)の四社から指名された)
- 福田専務のスカウトで、プロダクションのサンミュージックに入りを決め(同じ『スター誕生!』出身の桜田淳子が長く所属しているなどの理由で、家族はサンミュージックを選ぶことにしたという)、レコード会社はキャニオンに決めた。
- 5月15日 サンミュージックとの正式契約のため、母と上京。相澤秀禎社長(現在は会長)のリクエストに答え、薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』と松田聖子の『秘密の花園』を歌う。[2]
- 7月 一学期の終業式の日に、クラス全員で送別会をしてもらう。お別れに『セーラー服と機関銃』を唄う。[2]
- 8月25日 両親と姉と高校の仲間たちに見送られ、新幹線で東京へ旅立つ。
- 8月、芸能界にデビューするために実家がある名古屋から東京の成城にあるプロダクションの 相澤社長宅に引越する。二階の寮の同室には同年3月にデビューした桑田靖子とデビュー前の滝里美がいた。[2]
- 9月、堀越高等学校に転校。芸能コースD組で学ぶ。クラスメイトには「本田美奈子」、「南野陽子」、「長山洋子」、「倉沢淳美」、「高部知子」、「桑田靖子」、「石野陽子」、「宮崎ますみ」、「永瀬正敏」などがいた。
[編集] 芸能活動開始 1983年10月~1984年2月
[編集] 歌手デビュー以降 1984年3月~1986年3月
[編集] 1984年(3月~12月)
- ○月○日 同行取材ツアーという事務所の企画で、スポーツ新聞の芸能担当記者たちとサイパンへ行く。[2]
- 3月25日 『NHKヒットステージ』で初めてのテレビ出演。
- 4月、東海ラジオの『奈美子・有希子・小緒里のドキドキラジオ』でレギュラーDJを務める。
- 4月21日 キャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)から『ファースト・デイト』で歌手デビュー。(レコーディングには作曲者の竹内まりやが激励に現れた)10万6千枚を売り上げ、まずまずのヒットとなる。
- その後竹内まりやと尾崎亜美がシングル曲をプロデュースした。
- 7月18日 デビュー曲から3か月で第2弾シングル『リトルプリンセス』をリリース。9万4千枚を記録。
- 9月21日 第三弾の『恋はじめまして』をリリース。12万9千枚を記録。
- 9月30日 ファーストコンサートを行う。
- 12月31日 「日本レコード大賞」で「新人賞」を授賞。
- 当時は、1980年デビュー組の松田聖子・田原俊彦・河合奈保子・岩崎良美・柏原芳恵、翌1981年デビューの近藤真彦、さらに「花の82年組」と呼ばれた中森明菜・小泉今日子・シブがき隊・堀ちえみ・早見優・松本伊代・石川秀美等の人気アイドル達が第一線で活躍していて、また同期には菊池桃子・吉川晃司・荻野目洋子・長山洋子などが登場していたため、有希子がデビューしたこの当時はアイドルの激戦期であった。活発なイメージのある女性アイドルが多かった中で、有希子は控えめで優等生のイメージがあった。この年にいくつかの音楽最優秀新人賞をとったが、1985年の終わりまでは大きなヒットには恵まれなかった。理由もまた前者達(松田聖子・堀ちえみ・早見優・石川秀美など)を意識してしまったせいか、有希子の個性キャラが生み出せなず地味な歌であった。しかし、新人賞レースにおいては、最有力候補であった菊池桃子がすべての賞を辞退し、同じく最有力候補であった吉川晃司も選ばれず、結果として有希子がFNS歌謡祭の最優秀新人賞に選ばれた。有希子は会場内にいた納得の行かない女性の吉川晃司ファン達からバッシングを受けた。
[編集] 1985年
- 1月16日 第四弾シングル『二人だけのセレモニー』をリリース。これまで最高の14万5千枚を記録。
- 4月17日 第五弾シングル『SUMMER BEACH』をリリース。12万1千枚を記録。
- 4月 『スプリング・コンサート』を開催。
- 7月 フジテレビ)「月曜ドラマランド」単発ドラマかぐや姫・とんで初体験!?に主演。好評を得る。
- 8月 東京・池袋のメトロポリタンホテルで誕生パーティーが催される。500人を超えるマスコミ、音楽関係者が集まる。
- NHKの『真田太平記』に出演。
- 11月29日 12月2日まで過労で入院。
[編集] 1986年(1月~3月)
- 1月29日 カネボウ化粧品の春のカネボウのキャンペーンソング『くちびるNetwork』をリリース。作詞が松田聖子、作曲・編曲が坂本龍一ということでも話題となり、23万枚(オリコン調べ)を記録する初の大ヒットとなり、チャート誌で初の1位も記録する。
- 3月 堀越高等学校を卒業する。
- 3月25日 サンミュージックで高校卒業を祝うパーテイ―が開かれる。桑田靖子、酒井法子らが参加。
[編集] 自殺する1週間前以内での出来事 1986年(4月1日~4月7日)
[編集] 4月2日
- 「HEART JACK」コンサートに向けてのレッスン中でのインタビューを受ける。「春ですし、みんなで楽しい気分になれたらいいなと思います」と意気込みを語る。
[編集] 4月4日
- 「自分の城が欲しい」という本人の希望で、デビュー当時から住んでいた成城の相沢社長宅から南青山のマンションの一室(2DK)に引越し、一人暮らしを始める。
- プロダクション社内で、歌と振り付けのレッスンをする(この模様が自殺後にテレビ放映される)。
- 結果的に最後の番組収録となったテレビ朝日の『歌謡ドッキリ大放送』(司会者は関口宏)の収録で『くちびるNetwork』を歌う。(この番組は自殺後の4月13日に放送され、歌の後に訃報を伝えるテロップが出た)。
[編集] 4月5日
- 友人であり当時アイドル歌手であった南野陽子と都内某所で映画『女優フランシス』を鑑賞する。[4]
- この日に渋谷公会堂での昼夜二回の『スプリング・コンサート』を行う。超満員の中、20曲を熱唱する。この内の17曲は自分の歌を歌い、後の3曲はビートルズの『Tell Me Why』、杏里の『悲しみがとまらない』、早見優の『PASSION』をカバーした。
- コンサート終了後、相沢社長の宅に引っ越しのあいさつに行く。
[編集] 4月6日
- 14時30分開始の名古屋市民会館でのコンサートのために新幹線で東京から名古屋へ向かう。同じ車両に、当時は無名であり落語家修行時代の伊集院光が乗っており、有希子を目撃していたと言う(伊集院は「有希子さんの歌はたやすく聞くことが出来ない」と語った。)[4]コンサート終了後、『国際ホテル』のロビーで高校時代の友人やクラブの先輩たち五人と会食。東京へ帰る前に名古屋にある実家に立ち寄る。これが家族との人生最後の対面となる。父親にマイカーで名古屋駅まで送ってもらい、20時53分の名古屋発新幹線で東京へ戻る。
[編集] 4月7日
- スケジュールが「OFF」のこの日の19時に渋谷の東急文化会館内にある「渋谷パンテオン」での『ロッキー4』の試写会に以前にドラマで共演した女性と共に出席。この試写会がマスコミ前での人生最後の姿となる(翌日命を絶った時の服装はこの時のままであった)。22時ごろ自宅マンションへ帰宅。溝口チーフマネージャーから電話で、翌日から収録開始予定だった主演ドラマ『家出令嬢の課外授業』(テレビ朝日)の収録が局側の都合で中止になったと知らされる。これにより翌8日も急遽OFFとなった。
[編集] 自殺直前の出来事 1986年4月8日 (~12時15分)
- 4月8日 午前5時20分頃、成城でタクシーを拾い、東京駅を目前にした東京都庁わきの工事現場前で降りる。[4]
- 早朝、南青山にある自宅マンションの室内でガス自殺に加えリストカットによる自殺を図る。マンションの住人がガス臭に気づき、管理人が有希子の部屋を訪ね、声をかけるが、反応がないため、警視庁指令センターに110番通報し、同センターより東京消防庁災害救急情報センターに連絡、これを受けて赤坂消防署の消防隊と救急隊が急行した。有希子は押し入れの下段でうずくまり、シクシク泣いていた。このガス自殺は未遂に終わったものの、救急車で港区の北青山病院に搬送され左手首を4針縫う等治療を受けた。所属事務所の福田時雄専務と、女性付き人の山崎結美が病院へ駆けつけたが、有希子は一言も話さず、激しく泣き続けていた。チーフマネージャー溝口伸郎は子供が入学式だったため休暇で、相澤社長は事務所近所の歯科にて歯の治療を受けていたため、病院に駆けつける事が出来なかった。担当医師が、ガス中毒反応も、後遺症もないため、入院の必要なしとしたため、所属事務所へ向かう。タクシー車内では運転手も居た事などから3人とも終始無言、有希子はすすり泣きを続けていた。12時頃にサンミュージック本社がある東京四谷の「大木戸ビル」に到着、3人は6階の社長室へ。「自殺」のことについては何も触れずにいた。福田専務の「まあ、いろいろ人生あるから、皆がついているんだから頑張ってやれよ」との励ましにうなづく。[2]そこに事務所へ急行途中の溝口チーフマネ(相澤社長からだった説も[2])から電話が入ったため福田専務が隣室に移り、有希子と山崎の二人きりとなった。有希子は山崎に「ちょっとティッシュを・・・」と言ったので、山崎がティッシュを探すために有希子から目を離したわずかの隙に部屋を飛び出し、ビル内の階段で7階の上の屋上へ上がり、12時15分頃に飛び降り自殺を図る。享年18。
[編集] 死後の出来事
[編集] 自殺直後の出来事 1986年4月8日 (12時15分~)
- 遺体は警察の手で12時40分、四谷警察署に運ばれた。事件を報じた週刊平凡は警察の回答として「検視の結果、自殺と確認された為、司法解剖は行わない」。
- 午後1時30分、「大木戸ビル」六階の会議室で相沢秀禎社長、福田時雄専務、溝口伸郎マネージャーの三人が記者会見。
- 夜、四谷斎場でファン達のための密葬お通夜が行われた。
[編集] 自殺の原因
岡田有希子の自殺原因については複数存在するが、いずれも噂であり、正確な原因は現在も不明である。
- この件について自殺当日夜、仕事先のTBS別館にて峰岸が記者に囲まれ急遽会見。「正直ものすごいショックです」「僕はアニキのつもりだったが、彼女にはそれ以上のプラスアルファがあったのかも知れない」とコメント。
- 報道陣から、"愛されているという事に対して男として責任はお持ちでしたか?"との問いに「もしそういうこと(有希子が峰岸に対して愛情があった)だったとしたら責任は有ると思います」と神妙な面持ちでコメントしたが、それ以上の詳しいことは現在に至るまで明確には答えていない。1984年に離婚し、当時は独身であったが、この年四月に結婚予定の婚約者がいたとされる。[2]
- 2005年に相澤秀禎元社長(現在は会長)が、1986年4月7日深夜から4月8日夜明け頃、成城付近でタクシーを拾った有希子の行動の一部を『日刊ゲンダイ』にてコメント。成城にある"その男性"の自宅を見つめて夜明けまで過ごしたとしている。
- また、週刊誌やパソコン通信上などで、俳優の神田正輝との恋の噂も出ていたため、当時中堅俳優に過ぎなかった峰岸が神田の身代わりになったとも言われた。
- 恋仲であると一部で噂された神田正輝の子を妊娠していた説
- 前日の4月7日にサーキットで事故死したレーシングドライバー・萩原光の後を追った説。二人の間に面識が有ったかは不明。
- 有希子の自殺の10日前に、『スケバン刑事』で女優としても活動し、1986年5月にアイドル歌手としてデビューする予定だった遠藤康子(当時17歳)がビルから投身自殺したことに影響された説。(遠藤が所属プロダクションから、付き合っていた男性との交際を止めるように言われたとの説がある(当時の『週刊平凡』に男性のインタビュー記事あり)。訃報を聞いた有希子は胸を痛めていたという。自殺後のプロダクションの記者会見で、遠藤の事件の影響があったかとの記者の質問に、福田専務は「立場が違うと思いますね」と関連性を否定した。[2]
[編集] 有希子の表情の変化・兆候
事務所スタッフら、身近にいた人間の多くは「特に変わった様子は無かった」と発言。前日夜に電話で会話した溝口マネージャーも「声は明るかった」。2日前に会った家族らは「後から考えてみると…」と思う程度の変化しか表面上には出ていなかった。
しかし出演していたテレビの録画を後日よく観察して見た人々からは、1985年最後のシングルだった『LoveFair』を歌っているテレビ出演時までと違い、1986年1月以降『くちびるNetwork』を歌っているテレビ出演時になると、表情はにこやかにしているものの、振り付けを殆んどしないで耳に手を当てたまま歌っている事があったり、有希子本人がデビュー時から出たいと発言していた『ザ・ベストテン』への出演時ですら、歌っている時の目のまばたきが異様に少なく、表情が動かないなど、それまでの自然な明るい表情から比較すると異変が現れていたのではないかとする向きもある。
[編集] 自殺後の世間の騒動
- 当日の民間放送テレビや翌日朝の報道で、有るスポーツ紙が岡田有希子本人が、歩道に落下し頭部から出血した写真を最終面で掲載したため、報道側の倫理概念を批判する意見を提起する専門家・報道関係者が相次いだ。(当時は写真のデジタル加工などを行う習慣や、技術もなかったため、非常に露骨な報道として叱責の対象となった。)
- 青少年の連鎖的な後追い自殺が直後に発生した為、国内年間の自殺者数が前年度よりも急上昇、「有希子シンドローム」[5]と称され[6]、当時の国会[7][8]でも取り上げられる程の社会問題にまで発展した。また当時の総理府の「青少年の自殺問題に関する懇話会」が報道機関に対し「人命を尊重した理念で(報道は)行われるべきである」との声明を発表し、日本自殺予防学会では新聞、テレビ、雑誌各社に報道の自制を求める緊急の要望書が出される事態にまでなった。こうした事態を重く見た報道機関の中で自殺報道を自粛する動きが出た。当時テレビ朝日系で放送されていた「ニュースステーション」ではキャスターの久米宏が番組の終わりに、「連鎖反応を起こす心配があるので、今日は自殺の報道を控えました」と発言、また女優で冒険家の和泉雅子が「あなた自身の“北極点”を持って!」と、更には有希子の事務所先輩で“兄貴分”の森田健作が『おはようナイスデイ』で組まれた自殺防止特集「緊急特集 後追い自殺はやめて」で、早まらないようファンに呼びかけた事がこれを物語っている。
- 有希子の自殺から2日後の1986年4月10日、TBSテレビ系『ザ・ベストテン』(生放送)のエンディングでは、司会の黒柳徹子が落胆したファンや家族達を慰めながらコメント、そして「有希子さんのあの明るい笑顔と美しいお顔が、永久に皆さんの心に残る事を祈ってます。本当に有難う御座いました」と、涙声で締めくくっている。岡田と仲良しだった中森明菜と南野陽子、西村知美など同日出演の歌手仲間も、岡田の突然の訃報に沈痛な表情で俯いていた(中森はしきりに目頭を押さえていた)。この日の『ザ・ベストテン』はいつものエンディングの曲ではなく、『くちびるNetwork』をバックに、過去に出演した時の岡田有希子のコメント映像を放送しながら(岡田と同期デビューだった荻野目洋子が、岡田に対して「ひとつ年上とは思えない位しっかりしていて明るいです」とコメントに、思わず岡田がはにかんだシーンなど放映)、番組のエンドロールを流し、この日の『ザ・ベストテン』の放送は終了。
- それから6日後の4月13日に放送されたテレビ東京系『ヤンヤン歌うスタジオ』でも、司会のあのねのねがオープニングで有希子の夭折を惜しむコメントを述べ(通常の形式ではなく調整室で撮影)、デスクに立てられた遺影に献花した。
- 有希子が自殺した直後の写真映像が週刊誌『Emma』(1986年5月10日号)に公開され、その週刊誌の表紙にはドラマ『禁じられたマリコ』内での峰岸徹との2ショットが掲載され、中には有希子の人生を描いた写真や当時卒業したがばかりの堀越高等学校の卒業アルバム内の記念写真、そして有希子が描いた絵画などが掲載された。別のコーナーでは無名時代の山口智子・麻木久仁子・鈴木保奈美のグラビアが掲載されていた。
[編集] 葬儀での出来事
告別式は、通夜の翌日4月10日に堀越高校近くにある中野区の宝仙寺で社葬として行われた。告別式が終わった後、遺体は新宿区の落合斎場で荼毘に付された。その翌日4月11日、遺骨は故郷の名古屋に戻り、名古屋市中区の東本願寺名古屋別院でも告別式が行われた。東京での告別式は、所属プロダクション社長、相澤秀禎が、「お金はいくらかかってもいい」と言った程の盛大なものであった。葬儀には、遺族をはじめ、所属プロダクション相澤秀禎社長、プロダクションの大先輩である森田健作、桜田淳子、その他芸能関係者や『ザ・ベストテン』で共演した黒柳徹子、中森明菜、竹内まりやに加え、プライベートでも親しかった南野陽子に荻野目洋子、さらに吉川晃司と舘ひろしらが参列した。このとき、吉川と舘はサングラスを掛けたまま参列したため、ダン池田は著書『これでいいのか芸能界』の中で、2人がサングラスを掛けていた事を批判した。
[編集] 遺書
現在もサンミュージック本社内の金庫の中に保管されている。 内容はごく近い血縁関係の遺族しか見ていないと言われ、所属していたサンミュージックプロダクションの相澤秀禎社長ですら、見ていたか否かは定かではない。遺書の中には自殺のきっかけとなったといわれるMの名前が書かれていると言う説がある。
[編集] 有希子の自殺で中止となった企画
有希子の自殺で幻となった公演・シングル発売・ドラマ出演は以下のとおり。
- 1986年4月○○日 愛知県豊橋市でのコンサート。サンミュージックは早見優を代わりに手配した。[2]
- 1986年4月13日:鶴岡市民文化会館での「Heart Jack」中止。
- 1986年5月2日:大阪厚生年金会館での「Heart Jack」中止。
- 1986年5月5日:よみうりランドでのコンサート中止。
- 「花のイマージュ」:有希子の幻のシングル曲(1986年5月14日発売予定であった。ラジオ番組「夜遊びしナイト!」で発売前紹介が行なわれたのみでお蔵入り状態だったが、約12年10ヵ月後の1999年3月17日に発売された『有希子』のアルバム『メモリアルBOX』内に収録された。)
- テレビ朝日系列『ママ母vsママ子! 家出令嬢の課外授業』:1986年8月4日放送。渡辺典子主演単発ドラマ。有希子の自殺で典子が代役になった作品である。
- 『素敵な休日』:堀ちえみのシングル曲(1986年10月21日発売)。有希子が歌う予定であったが、有希子の自殺でちえみが代わりに歌ったとされている。
[編集] 幽霊騒動
岡田有希子の幽霊騒動の項目を参上
[編集] 岡田有希子に捧げられた曲
- インディーズ時代のスピッツが1989年に『アイドル』と言う曲をアマチュアライブで披露(ボーカルの草野マサムネが「同じ年に生まれたけれど、もう歳を取らない岡田有希子さんにこの曲を捧げます」と当時のライブで語った)。
- 竹内まりやのアルバム『Quiet Life』(1992年発売)の歌詞カードでも、『ロンサム・シーズン』の部分に“Dedicade for memory of Yukiko Okada(岡田有希子さんの思い出に捧ぐ) ”の言葉が入れられている。
- パール兄弟のアルバム『パールトロン』(1997年発売)発表当時のインタビューで収録曲の『風にさようなら』についてヴォーカル兼作詞者のサエキけんぞうが複数回にわたり「岡田有希子の自殺について歌っている」と発言している。
- Rhymesterのアルバム『HEAT ISLAND』(2006年発売)の『LIFE GOES ON feat. Full Of Harmony』の中にある宇多丸のパートでは、全て岡田有希子について唄われており、そのパートの殆どが有希子を失った悲しみと怒りを具体的に表現した歌詞となっている。また命日の4月8日には大木戸ビル前広場に黙祷を捧げに行く。[1]
[編集] 有希子の墓
- 成満寺の納骨堂には、数々の岡田有希子に関する品々が納められている。
- 納骨堂の他にも有希子の墓前にはファンたちによる有希子へのメッセージのメモ帳やファンからの品々が置いてあり有希子とは無関係の物は他のファンに取られたり寺関係の方たちに捨てられるケースがある。
- 有希子は星のイヤリングが好きであったためにファンの多くは星のイヤリングをお供えする。
- 有希子に関係する貴重な物(例えば遺品)は成満寺の倉庫に保管されている。
- 法名は「有楽院釈尼佳朋(ゆうぎょういんしゃくにかほう)」であるが、これは、有希子・音楽・佳代から一文字ずつ取り、“みんなに愛されたアイドル”を意味する朋の字を入れたものである。(「院釈尼」が浄土真宗における法名)
[編集] 自殺後のその他の出来事
- 有希子の自殺後、プロダクションは今後、岡田有希子をテレビや雑誌に登場させることを禁止し、一部のワイドショーを除いて有希子のことをテレビでは伝えなくなった。有希子の自殺から約10年10ヶ月後の1997年2月9日放送のテレビ朝日系列の特別番組、ザ・スーパーサンデー「完全保存版・臨終の瞬間!栄光の最後のメッセージ」の中で岡田有希子を取り上げた。当日の各新聞のテレビ欄には往年の石原裕次郎・松田優作・夏目雅子・逸見政孝等といった大物たちを凌いで、トップで掲載された。さらに放送の数日前にワイドショーやスポーツ紙でも特集されるほど有希子についてテレビで放送することは珍しいことであった。この放送以降、有希子についていくつかのテレビ番組や雑誌でも特集された。
- 1998年に有希子の13回忌にちなみ、新宿文化センターで「岡田有希子展」が4月6日から4月8日までの3日間開催された。
- 2000年7月19日に有希子の元マネージャーで、取締役制作部長の溝口伸郎[9](当時54歳)がプロダクションがある大木戸ビルの5階のトイレ内で首吊り自殺をした。翌日のスポーツ紙・新聞の報道・テレビ欄では「酒井法子のマネージャーが自殺」と報じられた。仕事も家庭も順調だったこともあり、数年前から患っていた糖尿病を苦にしたのではないかと見られた。
- 2002年
- 2008年10月11日に交際が噂していた俳優の峰岸徹が死去。峰岸氏が亡くなった際にスポーツ紙で生涯について語った文章の一文に「1986年に自殺した岡田有希子と交際が噂となった」と述べていた。
[編集] 評価
[編集] 一般に対する評価
- 世間の有希子に対する一般的な第一印象は、「飛び降り自殺したアイドル」というものである。その為、世間ではあまり良い印象を与えない側面もある。
- 有希子の自殺直後、ファンによる後追い自殺が相次ぎ、社会問題にまで発展した。その為、マスコミが岡田有希子の存在自体をほとんど取り上げなくなった(事務所等の意向もあったと思われる)ため、1970年代半ば以前生まれの人達にはそれなりの知名度があるが、1970年代末以降生まれの人達の間での知名度は低い。
- 有希子をリアルタイムで観ていた人達(ファンもファン以外も含めて)は「全盛期にたどり着く前に死んでしまい、完成型ではない」と評する人と「生きていても限界で下り坂だろう」と批判する人とがいる。
- 有希子の活躍をリアルタイムで観ていない「没後ファン」の人達からは、なにかと過大評価・神格化される傾向がある。
[編集] 著名人からの評価
- 消しゴム版画家でテレビ批評家のナンシー関が自書で同じく夭折した山田かまち・尾崎豊・hide・リバー・フェニックスよりも印象が強い人物と評した。
- 評論家の大塚英志は有希子の自殺についてこう述べている
- 「アイドルとは(シミュラークル)が生身の実体を持った不幸な存在」あると言う
[編集] 岡田有希子のファン
[編集] ファンの主な活動
- 21世紀となった今でも、有希子のお墓参りで知り合ったファン同士で、全国各地の小会場で慰霊コンサート興行を行なったり、有希子をテーマにしたビデオを製作したりしている。
- 岡田有希子の死後、ファン達によって「岡田有希子記念館」を故郷の名古屋市中区内か有希子の墓(成満寺)がある愛知県愛西市内に建立をしようとしたが、「自殺した」という当時の報道があまりにも衝撃的であり、世間では有希子が「自殺したアイドル」という認識で定着してしまった為、地元の住民達に反対された。現在計画は全くというほど無い。
[編集] ファンが起こした出来事
[編集] 岡田有希子ファンの著名人
- お笑い芸人:坂本ちゃん‐有希子の坂本ちゃんへのメッセージ入りのサインを持っていて生涯一番好きなアイドルだと言われている。[4]
- お笑い芸人:松村邦洋‐歌手の中森明菜の大ファンであり、その次にアイドルであった斉藤由貴や有希子のファンであったと有希子のファンから伝えられている。有希子の主演ドラマであった『禁じられたマリコ』を視聴していたとプライベート上で松村本人が言っていた。また日本テレビ系列の『速報!歌の大辞テン』(1999年11月24日放送)にゲストで出演し有希子の映像が流れる前に「有希子さんはねっ、僕と同い年なんですよっ、今生きていたら32歳(当時)なんですよっ。」と発言した。
- 漫画家・タレント:山咲トオル‐松田聖子の次に2番目に好きなアイドルだと言われている。命日に大木戸前広場へお参りに行ったともいわれている。
- ミュージシャン:村上てつや(ゴスペラーズ)‐ラジオ番組で有希子のお墓参りに行ったことを告白した。