塚田十一郎
日本の政治家 塚田十一郎 つかだ といちろう [[画像:|0200px|塚田十一郎]]
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生年月日 | 1904年2月9日 |
出生地 | 新潟県 |
没年月日 | 1997年5月23日 |
死没地 | |
出身校 | 旧制東京商科大学(一橋大学の前身) |
前職 | 旧制東京外国語学校助教授 鹿島組監査役 |
現職 | |
所属政党 | |
所属委員会 | |
議員会館 | |
選挙区 | |
当選回数 | |
元首 | |
称号・勲章 | 勲一等旭日大綬章 |
世襲の有無 | |
親族 | 塚田一郎(子、参議院議員) |
配偶者 | |
サイン | [[画像:|128px|サイン]] |
公式サイト | [ ] |
{{|textstyle=display:none}} 新潟県の旗 第45・46代新潟県知事 | |
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内閣 | |
就任期間 | 1961年 - 1966年
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郵政大臣 | |
内閣 | 第5次吉田内閣 |
就任期間 | 1953年 - 1954年
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自治庁長官 | |
内閣 | 第5次吉田内閣 |
就任期間 | 1953年 - 1954年
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行政管理庁長官 | |
内閣 | 第5次吉田内閣 |
就任期間 | 1953年 - 1954年
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内閣 | |
就任期間 | -
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その他の職歴 | |
塚田 十一郎(つかだ といちろう、男性、1904年2月9日 – 1997年5月23日)は、昭和期の政治家。元新潟県知事。
来歴・人物[編集]
現在の新潟県上越市に、農業塚田亀之助の六男として生まれる。苦学の末、新潟県立高田中学校を経て1928年東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業するも、昭和金融恐慌後の不況により就職活動は難航、やがて伝をたどって小橋一太(元文部大臣)の居候兼書生となる。1931年小橋の紹介により東京外国語学校の事務局に入る。生徒課の窓口業務を担当していた頃、社用による外国語原書の翻訳依頼に訪れていた鹿島組の鹿島守之助と知り合い、人物を認められる。その後助教授となり、民法などを講義していた。
長崎高商事務官に転じていた1938年、鹿島守之助のスカウトにより鹿島組に入社。監査役まで昇進する。戦後間もない頃、ある人物の紹介で田中角栄に会って意気投合し、政界進出を促す。やがて成り行きで自分も立候補することになり、1946年第22回衆議院議員総選挙に日本自由党公認で旧新潟2区より出馬し、鹿島組の資金援助もあって当選を果たす。以後連続8回当選。
大蔵政務次官、衆院予算委員長などを務め、1953年5月、第5次吉田内閣にて郵政大臣兼自治庁長官兼行政管理庁長官として入閣を果たす。この時、吉田茂が塚田と灘尾弘吉の何れを入閣させるべきかと大野伴睦に相談した際、官僚嫌いの大野が灘尾入閣に強く反対して塚田を推したという一幕があり、これを機に大野派入りする。しかし大野側近の神田博と感情的な対立が生じ、大野とも距離が生じる。すると今度は旧緒方竹虎派の番頭格であった石井光次郎に接近し、石井を次期総理総裁候補として売り出すのに一役買った。(「石井派」という言葉を初めて使ったのは塚田だといわれている)。その甲斐があってか、石井と石橋湛山との2位・3位連合が成功して石橋政権が発足すると、塚田は政務調査会長として党三役入りするが、あえなく2ヶ月で政権は瓦解。次第に国政への意欲が薄れていく。石田博英らと並んで、「石橋短命政権」によって大きく運命を変えられた政治家の代表格といえるだろう。
1961年、新潟県知事に当選すると、1963年に高度成長産業誘致を主眼とした「新潟県総合開発計画」を策定、新潟東港建設や、江戸時代からの悲願であった信濃川の関屋分水事業を推進した。1965年再選されるが、自民党所属県会議員らへの贈賄が発覚し、翌1966年3月に辞任する。その後1968年より参議院議員に計3回当選した。1974年勲一等旭日大綬章受章。子に元衆議院議員の塚田徹と、参議院議員の塚田一郎がいる。
1964年の新潟地震の時、塚田は東京に出張していた。それだけにやっとの思いで新潟入りした塚田は作業着のまま被災者の避難所へ向かい「こんなことになってしまって…ほんとうに…」とだけ言うと絶句し、やがてすすり泣いた。その姿にもらい泣きをした被災者も多かったという。
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