東條英機
東條英機 花押:
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在任期間 | 1941年10月18日 - 1944年7月18日 |
生没年月日 | 1884年7月30日 (戸籍上は12月30日) |
出生地 | 東京市(本籍地:岩手県) |
出身校 | 陸軍大学校 |
学位・資格 | 陸軍大将 |
前職 | 陸軍大臣 |
世襲の有無 | 無し |
選挙区 | 非議員 |
当選回数 | |
党派 | 挙国一致内閣 |
花押 | |
東條 英機(とうじょう ひでき、新字体で東条 英機、明治17年(1884年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任した(在任期間は昭和16年(1941年)10月18日 - 同19年(1944年)7月18日)。身長163cm
階級位階勲等功級は陸軍大将・従二位・勲一等・功二級。永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導する。日本の対米英開戦時の内閣総理大臣。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任した。敗戦後に連合国によって行われた東京裁判にて「A級戦犯」として起訴され、1948年11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65歳。
目次
生い立ちと経歴
東條英機は明治17年(1884年)7月30日、東京市麹町区(現在の千代田区)に東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と千歳の間の三男として生まれる。本籍地は岩手県。長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた[1]。
東條家は江戸時代、宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は,陸軍教導団の出身で,下士官から将校に累進したほどの逸材で,陸軍中将であったが、長州閥が幅を利かせていた当時の陸軍での立場は弱く、陸大の一期生を首席で卒業した俊才であったが、陸軍中将で予備役となった[2] [3] [4]。
英機は番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、東京府城北尋常中学校(現・都立戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校卒業(17期生)。
陸軍入隊
明治38年(1905年)3月に陸軍士官学校を卒業(クラス50人中42位)、同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。明治40年(1907年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。
明治42年(1909年)、伊藤かつ子と結婚。明治44年(1911年)に長男の英隆が誕生。大正元年(1912年)に受験3度目にしてようやく陸軍大学校に合格し、入学(27期生)した。大正3年(1914年)には二男の輝雄が誕生。大正4年(1915年)に陸軍大学校を卒業し、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。大正7年(1918年)には長女が誕生、翌・大正8年(1919年)8月、駐在武官としてスイスに赴任。大正9年(1920年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、大正10年(1921年)7月にはドイツに駐在。
大正11年(1922年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。大正12年(1923年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。大正13年(1924年)に陸軍歩兵中佐に昇任。大正14年(1925年)に三男・敏夫が誕生。大正15年(1926年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。昭和3年(1928年)3月8日には整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。昭和4年(1929年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。昭和6年(1931年)8月1日には参謀本部編制課長に就任し、翌年四女が誕生している。
昭和8年(1933年)3月18日に陸軍少将に昇任、同年8月1日に陸軍兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。昭和9年(1934年)8月1日には歩兵第24旅団長に就任。昭和10年(1935年)9月21日には、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。昭和11年(1936年)12月1日に陸軍中将に昇進。翌・昭和12年(1937年)3月1日、関東軍参謀長に就任する。昭和13年(1938年)には板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍航空本部長に就く。昭和15年(1940年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた(対満州事務局総裁も兼任)。
関東軍参謀長であった東條は、北支事変(日中戦争)の勃発後、内蒙古の徳王を指導し、綏遠省(内蒙古自治区中南部)侵入を支援した(綏遠事件)。結果、中華民国側は綏遠省主席の傅作義の指揮で徳王は一週間で撃退された。これ以降中華民国側は、東條を日本の満州権益拡大を主導する人物として警戒するようになった。
首相就任
木戸幸一内大臣らは、日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向を踏まえ、天皇を敬愛していた東條を敢えて首相に据えることによって、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により対米交渉を続けざるを得ないようにしようと考えた。
天皇は木戸の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている[5]。 ただし木戸は勝田龍夫『重臣たちの昭和史』において、「どうせ戦争になる(そしてやれば負ける)から皇族内閣にすると皇室に累が及ぶ。それで東條にした」と語っている。
日本政府が最後の望みをかけておこなっていた日米交渉の間、陸軍の強硬派を抑えることができる唯一の人物であると目されたため、昭和16年(1941年)10月18日に、第40代内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで陸軍大将に昇進する[6]。第2次近衛内閣、第3次近衛内閣と日米開戦に近づく政策を実行した政権指導者であった近衛文麿[7]を引継いだが、日米開戦を回避させるため、いったん帝国国策遂行要領を白紙に戻した。 この年『戦陣訓』を作成し布達している。
対英米開戦
昭和16年(1941年)12月8日、日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。その後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内のみならず、インド洋やアメリカ本土、オーストラリアまでその作戦区域を拡大し、影響圏を拡大させた。
東條は昭和17年(1942年)に外務大臣(~9月17日)、同18年(1943年)には文部大臣(~4月23日)・商工大臣・軍需大臣(以上内閣総辞職まで)を兼任。同年には大東亜会議を主催するなど、戦争の遂行とともに日本の影響下のアジア諸国の団結を図った。
昭和19年(1944年)2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱え、陸海統帥部総長の更迭を断行し、自らは参謀総長に就任するが、戦況の悪化に伴い連合国軍により日本本土が空襲を受ける可能性が出てきた。
そこで絶対国防圏を定め大部隊をもってマリアナ諸島を死守する事を発令し、サイパン島周辺の守備を増強したが、マリアナ沖海戦の敗北により戦力差は更に拡大し、サイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕した。グアム、テニアンも次々に陥落し、岸信介に造反される。東條の内意を受けた四方諒二憲兵隊長は軍刀をかざして岸に辞任を迫ったが岸は脅しに屈しなかった。追い詰められた東條に木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となる。東條は、この政変を重臣の陰謀であるとの声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。
東條の腹心の赤松貞雄らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた[8]。 東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあった為、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、梅津美治郎参謀総長の反対でこれは実現せず、結局杉山を出す事となった[9][10]。
広橋眞光による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の無念さがうかがわれる。
現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは東條である。昭和16年(1941年)12月23日に封切られた日本ニュース第81号『鉄石一丸の戦時議会』がそれで、東條は同盟国であるドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事(東京)裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことがわかる。
辞任後の東條は重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲した。たまさかに意見を聞かれても無味乾燥な精神論を吐くばかりで周囲から敬遠された。鈴木貫太郎内閣成立時に「陸軍がそっぽを向く」と失言して顰蹙を買ったのはその一例である。
敗戦と自殺未遂
昭和20年(1945年)9月11日、終戦とその後の連合国軍による歴史上初となる日本占領、そして自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗している。
なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのかとして、自殺未遂を茶番と噂する説もあるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説もある。
さらに東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったというも説がある。
銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については当時の朝日、読売、毎日の新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され批判の対象となった。
使用された拳銃については諸説があり、結論は出ていない。東條が自殺に使用したものとしてアメリカ合衆国のバージニア州ノーフォークにあるマッカーサー記念館(MacArthur Memorial Museum)に展示されている拳銃はコルト社製の32口径であるが、当時は占領の混乱の最中であったため、それが本物であるという確実な証拠も存在しないというのが実際のところである。
- ブローニング(22口径)説
- 東條の秘書官だった赤松貞雄の手記には東條がブローニング社製の小型拳銃を所持していたことが語られており、胸を撃ったにもかかわらず救命されたという結果と、東條が普段護身用に携帯していたのがこの銃であったことから推測された説と考えられる。当時の読売新聞や朝日新聞には「大将が自殺に使用した拳銃は口径3.2ミリの玩具同然」との批判記事が並び、マスコミを通じて広く一般の国民に流布された。自決に用いるには確実性の低い銃であることから狂言自殺説の根拠ともなっており、現在も根強く信じられている。初代内閣安全保障室長の佐々淳行は「22口径を使って胸を撃つなんて銃について知っている人間にとっては笑い話」と述べており、東京都知事の石原慎太郎も同様の発言を行っている。
- コルト(32口径)説
- 東條の娘婿で近衛第一師団の古賀少佐が、8月15日の自決に際して使用した銃であり、アメリカ軍の調査担当者もこの説を採用している。しかし古賀少佐の遺品の拳銃を使用したことは秘書官であった赤松貞雄や花山信勝など多くの関係者の記録に東條自身の発言として伝えられているが、不思議なことに銃の種類については「制式大型」「陸軍の制式拳銃」などアメリカ製のコルトであることを否定するような主張を繰り返しており、またアメリカ軍による取り調べの供述においては「陸軍省から貰った」と明らかに上記とは矛盾する証言を残している。
- 南部 (8mm) 説
- 古賀少佐の遺品である陸軍制式(拳銃)大型を使用したという説。この拳銃は発射時に独特のショックがあるため、手元が狂ってしまったとされる。しかしながら憲兵出身で拳銃の扱いには慣れていたはずの東條が軍の制式銃の特徴を知らぬはずがなく、この説明はいささか説得力に乏しい。この説は東條が語った古賀少佐の遺品であるという話と、陸軍の制式大型という内容の整合性を取るために導き出された推論であるが、東條を主人公とした映画『プライド・運命の瞬間』では彼の発言を尊重して日本製の南部十四年式が使用されている。
銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧の大鳥国民学校(現・横浜市立大鳥小学校)に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。
治療中も出血が酷く、自殺を図ってから最初の12~14時間で、東條自身の血の半分までが出血したとの報道がされている。その間、6~7度に渡る輸血が行われ、アメリカ軍人からの血の提供もあった。東條へ輸血したあるアメリカ軍曹、「彼を生かして、裁判で正当な報いを受けさせたい。このまま安らかに死なせては手温過ぎる。私が、ニューギニアで過ごしたあの17ヶ月間のお返しを、少しはしてやりたい」と心境を述べている。
戦争責任者である東條英機逮捕による世論の動向を調査した京都府警察部特高課の報告(『東条元首相ノ自決並戦争犯罪人氏名発表ニ対スル反響』)よると、
「……東条元首相ノ自殺ヲ図リタルコトニ付テハ、『死ニ遅レタ現在ニ於テハ戦争ノ最高責任者トシテ男ラシク裁判ニカヽリ大東亜戦争ヲ開始セザルヲ得ナカツタ理由ヲ堂々ト闡明シタル上、其責任ヲ負フベキデアツタ』トナシ、又、米兵ニ連行ヲ求メラレテ初メテ自殺ヲ図リタルハ生ヲ盗ミオリタルモノト見ルノ外ナク、然モ死ニ切レナカツタ事等詢ニ醜態ナリトシ同情的言動認メラレズ……」
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と多くの世論が東條に冷たい視線を送るだけであった。
山田風太郎も「卑怯といわれようが、奸臣といわれようが国を誤まったといわれようが、文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。それならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。『生きて虜囚の辱しめを受けることなかれ』と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ」、「なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。逮捕状が出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない」と手厳しく批判している。
当時の日本人の多くが同じ感想を持った。新聞に連日掲載された他の政府高官の自決の記事の最後には「東條大将順調な経過」、「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が付記されるようになりさらに国民の不興を買っていった。
ただ、東條が終戦直後に自決を図らなかった背景には、下で記すような天皇への深い忠誠心があったため、と、例えば五百旗頭真は論じている。つまり、開戦決定を行った本人が裁判前に死ねば、天皇に開戦責任が及んだ際に天皇を護ることができないという思いから、自決をためらってきたという可能性である。MPが逮捕にきた当日も、自己の名誉の為にも自決したいという本人の意思と、天皇を護る元首相・陸軍大将としての責任感との相克の中で、最終的にこのような中途半端な状態を招いたと考えることもできる。
なお、これには東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長額田担は「十一日午後、何の連絡もなくMP若干名が東條邸に来たのを、応接間の窓から見た東條大将は衣服を着替えるため奥の部屋へ行こうとした。すると、逃げたと勘違いしたらしいMPは窓から飛び込み、いきなり拳銃を発射して大将は倒れた。MPの指揮官は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運びこんだ」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言している。
後の巣鴨プリズン内における重光葵との会話の中では、「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を計ったのである」と語っていた。
東京裁判判決と処刑
判決と仏教への帰依
東條は昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、満64歳没(享年65〈数え年〉)。
辞世の句は、
- 「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
- 「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
- 「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」
- 「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」
晩年は浄土真宗の信仰の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の教誨師、花山信勝の影響で浄土真宗に帰依した。花山によると、彼は法話を終えた後、数冊の宗教雑誌を被告達に手渡していたのだが、その際、東條から吉川英治の『親鸞』を差し入れて貰える様に頼まれた。後日、その本を差し入れたのだが、東條が読んでから更に15人の間で回覧され、本の扉には『御用済最後ニ東條ニ御送付願ヒタシ』と書かれ、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅等15名全員の署名があり、現在でも記念の書として東條家に保管されているという。
浄土真宗に帰依してからは、驚くほど心境が変化し、「自分は神道は宗教とは思わない。私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、今の政治家の如きはこれを読んで、政治の更正を計らねばならぬ。人生の根本問題が書いてあるのですからね」と、それまで信じていた国家神道をも否定、政治家は仏教を学ぶべきだとまで主張したという。
また、戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。
さらには、自分をA級戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在のアメリカに対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、1948年12月23日午前零時1分、絞首台に勇んで立っていったと言われる。
処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。
- 「さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき」
- 「明日よりは たれにはばかるところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む」
- 「日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の光かがやく」
遺骨と神道での祭祀
絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬された。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。
小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺住職の市川伊雄は遺骨の奪還を計画した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市の興亜観音に運ばれ隠された。昭和33年(1958年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、同35年(1960年)8月には愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。
東條英機は陸軍に対して、靖国神社合祀のための上申を、戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡したものに限るという通達を出している[11]。 刑死するなどした東京裁判のA級戦犯14名の合祀は、昭和41年(1966年)、旧厚生省(現厚生労働省)が「祭神名票」を靖国神社側に送り、同45年(1970年)の靖国神社崇敬者総代会で決定された。靖国神社は昭和53年(1978年)にこれらを合祀している。
なお靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では天皇家の護りのため戦争・事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。よって、物理的に存在するのは「霊璽簿」(れいじぼ)と称される神霊を合祀する際に用いる和紙で作られた合祀者名簿の名前(霊魂はご神体へと名簿よりうつされ合祀される)と、東條等を顕彰する施設のみである。
評価
太平洋戦争開戦時の総理大臣でもあり、内閣として開戦を決断し、戦時中の強権的な警察行政を推進し、また敗戦をもたらしたという昭和初期の歴史を考える上でそれなりの批判の声は避けて通ることのできない人物と云える。
第二次世界大戦期における最重要人物の一人という事もあり、立場や思想などから様々な評価が未だ乱立しており、評価が難しい人物である。国内外を問わず、東條を無能と非難する声もあれば、一方で有能とする声もある。
現在一般的な東條に対しての評価として以下の点が挙げられる。
「太平洋戦争の張本人」
太平洋戦争開戦時の日本の最も中心的な指導者であり、さらには戦時日本体制の構築者として、最も悪い印象を持たれていることが多いとされる。自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、松前重義大政翼賛会青年部部長が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)[12]。政治上層部では東條英機の政治的立場は盤石とは程遠く、上下に批判者も多く、結局戦時中にも関わらず内閣を潰されてしまうのだが、東條のこの方針は警察行政などでは戦後まで続き、特に庶民間ではナチスの様なヒトラーを頂点とした組織立った言論統制と政治犯の強制収容の社会と同じイメージを持たれ、徴兵制と軍の損耗率の高さ(いわゆる赤紙につきまとうイメージ)と相まって、現代における戦前日本社会に対する暗く断絶的なイメージに連なっているようである。
カミソリ東條の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされる一方、東條と犬猿の仲で後に予備役に編入させられた石原莞爾中将は、関東軍在勤当時上官であった彼を「東條一等兵」と呼んで憚らず、嘲笑することしばしばであったという。また戦後東京裁判の検事団から取調べを受けた際「関東軍時代、あなたと東條には意見の対立があったようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見がある。しかし、東條には意見が無い。意見の無い者と対立のしようがないではないか」と答えた。しかし、東條・石原共に、プライドが高く、衝突はかなりあったという[12]。
「器が小さい」
東條に対する悪評価に拍車をかけた一面としてはその官僚的な硬直した発想、視野の狭さ、内容よりも手続きや形式、見栄えを重んじるやり口、みずからの地位を利用した敵対者への弾圧、嫉妬深さ、憲兵を多用した警察国家的な政治手法などに起因するものが多く、「器の小さな男」の狡猾な手段に対する嫌悪感という面が強いと言える。
東京帝国大学の卒業式で「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったといわれる[13]。
ゴミ箱あさり
区役所で直接住民から意見を聞こうとしたり、夜な夜な民家のゴミ箱を漁っては贅沢品を食べてはいないかと自らチェックしたりした。後日に本人は「国民の食生活が困窮していないか、配給がきちんと行き届いているかどうかを確認するために残飯を見に回った」と語った[14]。これに関連して昭和18年(1943年)に西尾寿造大将は関西方面を視察していた時に記者から何か質問され「わしはそんな事は知らん。毎朝塵箱をあさっとる奴がおるだろう。そいつに聞け」と答えた。塵箱あさりとはもちろん東條首相のことである。東條はこの談話を聞いて、自己の悪癖を暴露したことを逆恨みするあまり、その私怨のみを理由として西尾を予備役とした[15]。
三職の兼任
行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(及び嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、軍がそれまでつよく主張してきた統帥権の(政治からの)独立と矛盾し、天皇の統帥権に抵触するおそれがあると当時から批判が強かった。首相であった東條の元に軍令面の情報が集まらず、総合的な戦争指導ができないことに苛立った非常手段であるといわれ、東條は「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。
これに関連して、過度の権力集中にヒトラーを引き合いに出して苦言を呈した側近に対し「ヒトラーは一兵卒、私は大将です。同じにしないでもらいたい」と答えたという話[16]がある。ただし、特に独ソ不可侵条約締結の頃には東條に限らず「あの伍長上がりに振り回され…」等と、自らの無能を棚に上げ、ヒトラーを侮蔑する陸軍将官が多かったとも言われている。
敵対者への対応
また、敵対者を召集して激戦地に赴任させるというやりかたも東條特有の方法で、竹槍事件[17]では昭和19年(1944年)2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と自分に批判的な記事を書いた新名丈夫記者を37歳という高齢で二等兵として召集し、硫黄島へ送ろうとした。
新名は大正年間に徴兵検査をうけたのであるが、当時はまだ、大正に徴兵検査を受けた老兵は1人も召集されてはおらず、これに対して新名が黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であった経過から海軍が「大正の兵隊をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍に抗議し、陸軍は大正の老兵250人を丸亀連隊(第11師団歩兵第12連隊)に召集してつじつまをあわせた。新名自身はかつて陸軍の従軍記者であった経歴と海軍の庇護により連隊内でも特別の待遇を受け三箇月で召集解除になったが、上の老兵250人は硫黄島で戦死することになる。陸軍は新名を再召集しようとしたが、海軍が先に徴用令を出し新名の命を救った。
陸相時代に支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だった。また戦争を早くから志向していたという説もあり、根拠として、陸軍次官時代の昭和13年(1938年)に軍人会館(現在の九段会館)での在郷軍人会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、当時「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と報道されたことが挙げられている。
逓信省工務局長松前重義は東條反対派の東久邇宮稔彦王に接近したために、勅任官待遇だったにもかかわらず42歳にして召集され、南方で電柱かつぎに使役された。高松宮宣仁親王は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と述べている。さらに松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省は取り消しを要請したが富永恭次陸軍次官は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった。松前は無事に仏領インドシナのサイゴンについたが、本来召集対象外の松前が召集された事を目立たせぬように同時に召集された老兵数百人がバシー海峡に沈んだ[9]。東條の誤算はサイゴンに東條も畏怖する先輩の寺内寿一がいたことであった。寺内は松前に「平服着用許可」「勅任官待遇の復活」などを実施して窮地を救っている(以後の松前の経歴は当該項を参照のこと)。
陸軍内の東條嫌いで有名だった前田利為は、東條によって南方の激戦地に転任させられ、搭乗機を撃墜されて死亡したが、東條はわざわざこれを戦死ではなく戦傷病死扱いにして遺族の年金を減額したといわれている。この問題は帝国議会で「(戦死の場合は相続税が免除になるため)旧加賀藩主である前田侯爵家の莫大な相続税を目当てにした政治工作か」等と追求され後に戦死認定に改められた[18]。ただ実際には転任地ボルネオは激戦地ではなく、任務は単なる占領地司令官であり、その死は不運な飛行機事故によるものである。
尾崎行雄を天皇への不敬罪として逮捕させている(尾崎不敬事件)。これは昭和17年(1942年)の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、評論家の山本七平は著書『昭和天皇の研究』で、これを同年4月に尾崎が発表した『東條首相に与えた質問状』に対しての報復だろうとしている。
政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した3人の衆議院議員、福家俊一、有馬英治、浜田尚友を懲罰召集した[19]。この改正案そのものには東條自身乗り気ではなく、提出を強行して議会を混乱させたと責任を取らせるために湯澤三千男内務大臣を更迭している。
木戸幸一内大臣の甥の都留重人海軍省調査員に圧力をかけ、海軍省を解雇させた上で召集し、木戸への圧力に利用した。木戸は、東條秘書官の赤松に最前線送りだけはしないように懇願した[19]。
ガダルカナル島の戦いで輸送船の増船を求める参謀本部の要求を拒否し、直談判にきた田中新一作戦部長が「馬鹿野郎」と暴言を吐くと、翌日田中は南方へ転勤になった。東條の不興をかって前線送りになった将校は東條に戦局に関する直言を試み、即日サイパン送りとなった陸軍省整備課の塚本清彦少佐ら多々おり、塚本は「サイパンの防衛には、この東條が太鼓判を押す」と言って守備参謀として送り出し戦死させている。
陸士1期後輩の独立混成第1旅団長酒井鎬次は戦車用兵でしばしば東條と対立し、諸兵科との連携を軽視する東條を馬鹿呼ばわりした。東條が力をつけると酒井は閑職に左遷され、昭和15年(1940年)には予備役に編入された。
腹心の部下とされる人物
腹心の部下としては「三奸四愚」と呼ばれた、
のほか、インパール作戦を直訴した牟田口廉也、陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で一度は左遷されたが、半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任した富永恭次などが挙げられている。富永はフィリピンで特攻指令を下し、自らも特攻すると訓示しながらも、自身は胃潰瘍を理由に台湾島へ移動しており、木村や牟田口もビルマで同様の敵前逃亡を行ったと言われ、いずれも戦後における評価は低い。
特高、憲兵の利用
特高警察と東京憲兵隊を重用し、一般人に圧力を加えるために用いた点において、法理上の問題がある。東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員中野正剛を東方同志会(東方会が改称)ほか三団体の幹部百数十名とともに検挙した(この検挙の理由をめぐっては、中野が昭和18年元旦の朝日新聞に執筆した『戦時宰相論』が原因との説もある)。中野は5日後に釈放された後、憲兵隊の監視下で自決に追い込まれる。全国憲友会編『日本憲兵正史』では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに自決を迫られたものと推定している。また中野の取り調べを担当、嫌疑不十分で釈放した43歳の中村登音検事には、その報復として召集令状が届いたとも言われる。
東條英機暗殺計画
戦局が困難を極める1944年には複数の東條英機暗殺が計画された。1944年9月2日には陸軍の津野田少佐が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、その実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった。
その他、国内での批判、評価など
東條は「東條英機宣誓供述書」のなかで、こう述べている。「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」。しかし、昭和17年(1942年)9月、東條首相は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁している。
歴史学者の秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。このような当時の指導者を裁判にかけるという話は東久邇宮を中心にあったそうだが、昭和天皇や木戸幸一は「人民裁判になる」として反対していた。
司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」(『小説新潮』第26巻第4号、1972年4月)中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。
昭和天皇からの信任
日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名で、『昭和天皇独白録』にも記載されている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られた[20]。 そして東京裁判時に昭和天皇は、親しい関係者に「戦犯の指定を受けたとは言え、国に忠義を尽くした国民の一人である。被告人として立たせるのは忍びない」と言い悲しんでいた。
東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と回想し、内閣の末期には田中隆吉などの部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察している。
終戦工作への妨害
だが、一方で終戦工作に関しては一貫して快く思っていなかったようである。鈴木貫太郎内閣が誕生した昭和20年(1945年)4月の重臣会議で東條は、鈴木貫太郎首相に不満で選出後も畑俊六元帥陸軍大将を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向く」と放言し岡田啓介から「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめられている。さらに終戦工作に対しても妨害工作を行い「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた[21]。
首相就任の経緯
東條が首相に就任したときに陸相や内相を兼任したのは、近衛内閣の時点で日米交渉がまとまらなかった場合には開戦することが決定されるなど開戦は避けられない状況であったこともあり、日米交渉成立時に開戦派によるクーデターを阻止することや、開戦した場合に陸海軍の統帥を一本化するためだったといわれているが、結局終戦まで陸海軍の統帥が一本化することはなかった。それどころか後任の小磯國昭が東條と同じく陸相兼任を主張した際には反対意見を述べ兼任を阻止している。
また東條自身、政治を人気取りと妥協で行うものだとして、「水商売」と言い、半ば政治家を軽蔑していたとして、自身の意思と反して無理やり首相に据えられたことに同情する意見もあるが、田中隆吉の手記によれば第3次近衛内閣が総辞職する3日前に加藤泊治郎憲兵司令部総務部長が木戸幸一内大臣を尋ね「東條を首相とせねば陸軍を統制することを得ない」と脅して木戸に東條を推薦させたとしている。
昭和16年(1941年)10月14日の閣議において近衛文麿首相が日米衝突を回避しようと「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と強硬な主戦論を唱えた。これにより外交解決を見出せなくなった近衛は翌々日に辞表を提出した。辞表の中で近衛は「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とした。近衛は「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。
「細川日記」によれば近衛は「昭和19年4月ごろまで、東條に政権を担当させ、最後まで全責任を負わせればよい」と東久邇宮に漏らした。東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった[22]。 それでも東條は、太平洋戦争時に置かれた日本の立場を必死に訴えたのである[23]。
軍官僚としての実力
渡部昇一によれば、政治家としての評価は低い東條も軍事官僚としては抜群であったという。強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけたという。ただしゲリラ兵が多く混ざっていると思える集団について、戦闘に参加しているか否かを取り調べもせずに処刑することに対しては、場合によっては暴虐ともとれる判断であっても、厳しく処罰していない。例えば陽高に突入した兵団は強硬な抵抗に遭い、かなりの死傷者が出たが、日本軍が占領すると降伏兵は全くおらず、そこで場内の住民の男をすべて狩り出して、全く調査せず全員縛り上げて処刑してしまった。その数350人ともいわれる[24]が東條は誰も処分していない。この事件が東京裁判で東條の戦犯容疑として取り上げられなかったのは連合国側の証人として出廷し東條らを追い詰めた田中隆吉が参謀長として参戦していたからだろうと秦郁彦は推察している。
戦場の司令官としてもチャハル及び綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功はめざましいもので彼が政治に引き込まれなかったら、名将として名を残しただろうと渡部昇一は評しているが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという指摘も渡辺はしている。開戦半年後、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した藤田尚徳侍従長は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。
昭和19年(1944年)に退陣する際には秘書の赤松貞雄が続投の可能性を模索したのに対し東條は即刻、そのような姑息な行動をやめるように命じたと赤松は自ら手記に書き留めている。 だが、東條に否定的な秦郁彦によれば、岸信介に対し憲兵を使って辞表を書くように脅迫したにもかかわらず岸が辞表提出を拒否したために東條内閣は瓦解したのであって、東條は天皇からも見放されていたのを知りつつなおもしがみつこうとしたが、赤松が進言したクーデター構想にはさすがに乗らなかっただけであるとしている。
諸外国などからの評価
ラビ・マーヴィン・トケイヤー著『ユダヤ製国家日本』という本の中に東條について以下のような記述があり樋口季一郎と同様にトケイヤーから「英雄」と称えられている。トケイヤーが東條英機を「英雄」と称える理由については、昭和12年(1937年)にハルビンで開催されたドイツの暴挙を世界に訴えるための極東ユダヤ人大会にハルビン特務機関長だった樋口らが出席したことに対し、当時同盟国であったドイツが抗議したがその抗議を東條が握りつぶし、処分ではなく栄転させた。ただし樋口の回想録によると東條は樋口の意見を陸軍省に伝えたことになっている。
ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ初代首相は自身の著書『ビルマの夜明け』の中で「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」と語っている。
東京裁判の判事の1人ベルト・レーリンク判事は著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」と証言している。
重光葵は「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」と述べている。
パーソナリティ、エピソード
- 陸大を首席で卒業した秀才として知られた父・英教とは対照的に、幼年学校・士官学校と成績は振るわなかった。特に、幼年学校時代は喧嘩に明け暮れており、成績がビリに近いことから渾名が「ズベ」であった。しかし上級生20名を相手の喧嘩で負けた悔しさから、発心し勉強に専心するようになった[25]。陸大を受験するにあたり、合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たった。
- 平等主義を徹底し、食事も兵士と同じ内容のものしか取らなかった[26]。一品でも兵士の献立と違うと思われるものが食膳に出されると、兵士にも行き渡っているか確認し、そうでないと知ると決して箸を付けなかった。身内びいきを嫌悪し、息子に対してはむしろ冷遇を画策するほどであった。自らも収賄や利益供与などのうわさは、戦後も含めてとうとう無かった。但し人事や権限の行使に関しては上記の通り敵対者や批判者に対して強硬に当たる側面があった。
- 非常な部下思いであり、師団長時代は兵士の健康や家族の経済状態に渡るまで細かい気配りをした。また、メモに記録し、兵士の名前を覚えた。総理在任中は官邸のスタッフを自宅に招いて食事をしたり運動会や宝探しなどを行った。
- 家庭人としての東條は、息子達にはきびしい面を見せていたが、娘たちには甘すぎるほど優しかった。娘達とうれしそうに会話しながら晩酌を楽しんだり、コーヒーやシュークリームをほおばるなど、ごく普通の父親だった。戦後、開戦時の参謀総長だった杉山元が夫婦そろって自決したこと、娘婿の古賀秀正少佐が終戦直前に近衛師団長を暗殺し、宮城事件を起こしたが失敗して自決したこと、本人の自決も未遂に終わり、東條家は白眼視されることになる[9]。それは現在でも未だ続いているようである。
- 国民に倹約を強要したが、一方で昭和18年(1943年)当時極めて入手困難であった、飴をつくるための大きな砂糖の固まりを所持していたところを目撃された(一般人なら逮捕、没収された)などとも報道されている。これらの東條批判は戦時中は検閲等が酷くメディアも翼賛体制を取っており、一切報道されなかったが、戦後GHQの占領政策が始まると一斉にマスメディアによって報道された[27]。
- タバコは吸うものの、酒は殆ど嗜まず、たまに疲れたとき晩酌するほどであり、決して深酒するようなことはなかった。飲み方も一合瓶で予め飲む量を目算して、それ以上は決して飲まないという強い自制心があった。
- 女性に対し禁欲的であり、それを親族に対しても徹底した。甥(陸軍中佐)が妹の嫁ぎ先で戯れに女中の手を握ったことを聞き、わざわざ彼を自宅に呼びつけ鉄拳を食らわしたこともあった[28]。海軍の山本五十六が愛妾を囲ったり博打に興じたりしたのとは対照的であるが、世間からはそれが長所として評されなかった。
- 軍人の常として天皇を崇拝していたが、東條のは抜きんでていた。「軍人は二十四時間お上(昭和天皇)に奉公している。食事をとるのも奉公なんだ」「東京に来たら真っ先に宮中に参上して、記帳せよ。それが義務なんだ」、「お上は人格ではない。神格なんだ」といったような東條の発言に、その極端な忠誠ぶりが伺われる。木戸幸一が東條を首相に推薦したのも、その点にあった。
遺言
東條の遺書といわれるものは三通存在する。ひとつは昭和20年(1945年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである。
以下は長男英隆に宛てたものである。これは昭和20年9月3日。すなわち日本側代表団が連合国に対する降伏文書に調印した翌日に書かれたものである。東條の直筆の遺言はこれのみである。
昭和二十年九月三日予め認む
- 一、父は茲に大義のため自決す、
- 二、既に申聞けあるを以て特に申し残すことなきも、
- 1、祖先に祭祀を絶やせざること、墓地の管理を怠る可らず
- 2、母に遠隔しつるを以て間接ながら孝養を尽せ
- 3、何なりとも働を立派に御奉公を全うすべし
- 4、子供等を立派に育て御国の為になる様なものにせよ
- 三、万事伊東に在る三浦氏に相談し援助を求むべし
–
以下は処刑前に花山教誨師に対して口頭で伝えたものである。書かれた時期は判決を受けた昭和23年(1948年)11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。
開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。今回の処刑は個人的には慰められるところがあるが、国内的の自分の責任は、死を持って償えるものではない。しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ、同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。天皇陛下および国民に対して深くお詫びする。
東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には尊敬の念を禁じえない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。
現在の日本を事実上統治する米国人に一言する。どうか日本人の米国に対する心持を離れざるように願いたい。また、日本人が赤化しないように頼む。米国の指導者は大きな失敗を犯した。日本という赤化の防壁を破壊した。いまや満州は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。米英はこれを救済する責任を負っている。
戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。
- 我ゆくも またこの土に 帰りこん 国に報ゆる事の足らねば
– 東条英機大将 遺言(部分)昭和23年12月22日夜 東京巣鴨(23日零時刑執行)
以下は昭和20年9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされるものである。この遺書は昭和27年(1952年)の中央公論5月号にUP通信のA・ホープライト記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されたものである。この遺書は、東京裁判で弁護人を勤めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。保阪正康は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐について本人にも直接取材し、この遺書は偽書であると結論付けている。
- 《英米諸国人に告げる》
- 今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。
- もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
- 諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。
- 《日本同胞国民諸君》
- 今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。
- ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。
- 力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。
- 諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。
- 《日本青年諸君に告げる。》
- 《日本青年諸君各位》
- 我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。
- 現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
- また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。
- 真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。
–
子孫
長男の東條英隆は、弱視の為兵役免除を受け、鴨緑江発電職員であった。
次男の東條輝雄は、ゼロ戦や戦後初の国産旅客機である日本航空機製造YS-11、航空自衛隊のC-1の設計に携わった技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。
三男東條敏夫は、息子たちの中で唯一軍人の道を進み、陸軍予科士官学校(59期)に進学、士官学校在校中に終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊し、空将補にまで昇進した。
他には長女東條光枝(やはり陸軍軍人で実業家の杉山茂と結婚)、次女東條満喜枝、三女東條幸枝(映画監督の鷹森立一と結婚)、四女東條君枝(外国人と結婚しキミエ・ギルバートソン)等の子がいた。
A級戦犯合祀が問題になった際、白菊遺族会[31]会長・木村可縫(木村兵太郎の妻)らが分祀を提案したが、東條家の強硬な反対で実現しなかったといわれるが、この話の根拠は不明。現在もA級戦犯分祀反対を唱える東條由布子は孫(本名:岩浪淑枝、英隆の子)だが東條家の人ではない。
栄典
東條英機を描いた作品
東条は独特の風貌(剥げ頭とちょび髭)とロイド眼鏡、甲高い声音を持ち、それらの特徴を強調したメーキャップや演出を施せばたとえ容姿がそれほど似通っていなくても演じることが出来た。
小説
- 有馬頼義 『左利きの独裁者―東条英機の悲劇』(『(時代小説大全集6)人物日本史 昭和』 ISBN 4101208158 に収録)
- 松田十刻 『東条英機―大日本帝国に殉じた男』 ISBN 4569577881
映画
- 『大東亜戦争と国際裁判』 (1959)(東條役は嵐寛寿郎)
- 『激動の昭和史 軍閥』 (1970)(小林桂樹)
- 『戦争と人間 第三部 完結編』(1973)(井上正彦)
- 『大日本帝国』(1982)(丹波哲郎)
- 『プライド・運命の瞬間』(1998)(津川雅彦)
- 『スパイ・ゾルゲ』(2003)(竹中直人)
- 『南京の真実』第一部「七人の死刑囚」(2008)(藤巻潤)
ドキュメンタリードラマ
- 『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機』(2008)(TBSテレビ)(ビートたけし)
関連項目
- Portal:大東亜共栄圏
- 東條内閣
- 戦陣訓
- 『ウィキニュース』東条英機元首相が合祀基準を通達
- フランクリン・ルーズベルト
- ベニート・ムッソリーニ
- アドルフ・ヒトラー
- 西城秀樹
- 観阿弥
- 樋口季一郎
- 弐キ参スケ
- キ44 二式単座戦闘機「鍾馗」本機のアメリカ軍のコードネームは「Tojo」
- プレスコード
- 加州清光(東條英機元首相の軍刀)
- 第二次世界大戦(大東亜戦争・太平洋戦争)
参考文献
一次資料及び当事者の証言、回想録
- 小田俊与 『戦ふ東條首相』、博文館新社、1943年4月 ISBNコード無し
- 花山信勝 『平和の発見―巣鴨の生と死の記録』朝日新聞社 1949年 ISBNコード無し
- 田中新一 『田中作戦部長の証言』芙蓉書房 1956年
- 寺崎英成 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』 ISBN 4163450505 (寺崎英成の娘、マリコ・テラサキ・ミラーが編集に協力)
- 木戸幸一・木戸日記研究会『木戸幸一日記』東京大学出版会 1966年 ISBN 9784130300117
- 参謀本部 『杉山メモ』原書房 1967年2月 ISBN 9784562001040
- バー・モウ『ビルマの夜明け』太陽出版 1973年6月 (1995年再版)ISBN 9784884691141
- 東條英機刊行会 上法快男編 『東條英機』芙蓉書房 1974年
- 全国憲友会連合会 『日本憲兵正史』 全国憲友会連合会本部 1976年10月
- 細川護貞 『細川日記』中央公論新社 1978年8月
- 赤松貞雄 『東條秘書官機密日誌』文藝春秋 1985年
- 加瀬俊一 『加瀬俊一回想録』山手書房 1986年5月
- 保阪正康『東条英機と天皇の時代(上)-軍内抗争から開戦前夜まで』、伝統と現代社、1979年12月。ISBN 4167494019
- 同上 『東条英機と天皇の時代(下)-日米開戦から東京裁判まで』、伝統と現代社、1980年1月。ISBN 4167494027
- 佐藤早苗『東条英機「わが無念」-獄中手記・日米開戦の真実』、光文社、1991年11月。ISBN 4334970664
- 同上『東條英機 封印された真実』、講談社、1995年8月(絶版)。 ISBN 4-06-207113-4
- 伊藤隆・広橋眞光・片島紀男 編『東條内閣総理大臣機密記録・東条英機大将言行録』東京大学出版社 1990年 ISBN4-13-030071-7 c3031
- 重光葵 『巣鴨日記』(文藝春秋昭和27年8月号掲載)
その他
- 平泉澄『日本の悲劇と理想』 原書房 1977年3月
- 平泉澄『悲劇縦走』 皇学館大学出版部 1980年9月
- 東條由布子『祖父東條英機「一切語るなかれ」』増補改定版(『文春文庫』)、2000年3月 ISBN 4-16-736902-8
- 東條由布子編『大東亜戦争の真実』、ワック、2005年8月、 ISBN 4898310834 (1948年発行「東條英機宣誓供述書」を改題、ワック版ではGHQ発禁第一号と宣伝されているが、GHQの検閲は1945年の占領直後から始まっているため、花田紀凱が宣伝用に話を作ったと思われる)
- 小林よしのり『いわゆるA級戦犯 ゴー宣 special 』、幻冬舎 2006年6月 ISBN 4344011910
- 伊藤俊一郎 『至誠・鉄の人 東条英機伝』(天佑書房、1942年)
- 山中峯太郎編 『一億の陣頭に立ちて 東条首相声明録』(誠文堂新光社、1942年)
- 『大東亜戦争に直面して 東条英機首相演説集』(改造社、1942年)
- 『必勝の大道 東条総理大臣議会演説答弁集』(同盟通信社、1943年)
脚注
- ↑ 誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている
- ↑ 八幡和郎『歴代総理の通信簿』(PHP研究所)によれば、予備役になった原因は日露戦争の作戦失敗の責任を負わされたとされている。また同期には秋山好古がいた。
- ↑ 山田風太郎が明治時代小説の題材にしたこともある(当時の陸軍は明治維新の元老たる山縣有朋を中心とする薩長軍閥が幅を利かせ、戊辰戦争では賊軍扱いとなった東北地方諸藩の出身者は様々な差別をうけたという)。
- ↑ ただし、陸軍大将を複数輩出した陸大31期までの主席31名のうち、大将にまで昇進した者は15名に過ぎないことから、主席が大将になれないことは珍しいことではない。ほぼ同世代の一戸兵衛(弘前藩)松川敏胤(仙台藩)柴五郎(会津藩)は大将となっており、この世代(1855-60年生まれ)の大将計12名のうち、東北地方出身者3名を除くと、皇族、長野県、静岡県、福井県、兵庫県、愛媛県、高知県、福岡県、宮崎県それぞれの出身者が1名ずつだから、出身地によって大将への昇進に差別があった事実は認められない。
- ↑ 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』、『木戸幸一日記』、『細川日記』など。
- ↑ 当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。海軍大臣の嶋田繁太郎が海軍大将であったため「首相の自分が中将では…」とそれを気にしたともいわれる。
- ↑ 近衛文麿自身は後日近衛上奏文において操られて満州事変から戦争拡大の道を進んだという見方を持ったことを書き残している。
- ↑ 赤松貞雄『東条秘書官機密日誌』
- ↑ 9.0 9.1 9.2 『額田担回想録』
- ↑ 『巣鴨日記』
- ↑ 「陸密第二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」1944年7月15日付、「陸密第三○○四号 靖国神社合祀者の調査詮衡及上申名簿等の調製進達上の注意」1944年7月19日付 いずれも「陸軍大臣東条英機」名で出されたもの
- ↑ 12.0 12.1 『秘録・石原莞爾』
- ↑ 阿川弘之『軍艦長門の生涯』
- ↑ 深田祐介『黎明の世紀』文藝春秋
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍編』
- ↑ 『佐藤賢了回想録』
- ↑ 毎日新聞社編『決定版・昭和史--破局への道』『毎日新聞百年史』に詳しい
- ↑ 酒井美意子『華族の肖像』
- ↑ 19.0 19.1 吉松安弘『東條英機 暗殺の夏』
- ↑ もっともこれは、東條という個人に対して賜ったものではなく、参謀総長という職務を遂行したことに対してのものという説もある。
- ↑ 『加瀬俊一回想録』
- ↑ 秦郁彦『東京裁判 裁かれなかった人たち』『昭和史の謎を追う・下』
- ↑ 佐藤早苗『東條英機 封印された真実』講談社、1995年
- ↑ 『野砲四連隊史』
- ↑ 陸相になって幼年学校を訪ねた時の述懐から。
- ↑ もっとも、昼食に士官のみがフルコースの洋食を楽しんだ海軍とは対照的に、陸軍では原則的に食事に准士官以下の兵と将校でメニューで大きな差はなかった。
- ↑ 『文藝春秋』昭和20年10月号より。余談だが、この号は戦況の悪化に伴い、一時休刊していた同誌の復刊号でもあった。
- ↑ 児島襄「素顔のリーダー」
- ↑ 平岩米吉『猫の歴史と奇話』
- ↑ 秘書官赤松貞雄の回想より
- ↑ 処刑されたA級戦犯遺族の会。
外部リンク
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歴代内閣総理大臣 | |||||
第38・39代 近衛文麿 |
第40代 1941年 - 1944年 |
第41代 小磯國昭 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |
歴代の外務大臣 |
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外務大臣(太政官達第69号) |
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西德二郎 |
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号)) |
大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 - 松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -
田中義一 - 幣原喜重郎 - 犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衞文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豐田貞次郎 - 東郷茂德 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂德 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和24年法律第135号)) |
吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号)) |
吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平 |
外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号)) |
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦 |
歴代の内務大臣 |
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極東国際軍事裁判A級戦犯 |
荒木貞夫 - 板垣征四郎 - 梅津美治郎 - 大川周明 - 大島浩 - 岡敬純 - 賀屋興宣 - 木戸幸一 - 木村兵太郎 - 小磯國昭 - 佐藤賢了 - 重光葵 - 嶋田繁太郎 - 白鳥敏夫 - 鈴木貞一 - 東郷茂徳 - 東條英機 - 土肥原賢二 - 永野修身 - 橋本欣五郎 - 畑俊六 - 平沼騏一郎 - 廣田弘毅 - 星野直樹 - 松井石根 - 松岡洋右 - 南次郎 - 武藤章 |