村山富市
提供: Yourpedia
2020年1月13日 (月) 02:02時点における揖保川の水兵さん (トーク | 投稿記録)による版 (ケンケン (トーク) による編集を 221.113.224.212 による直前の版へ差し戻しました)
修正依頼 | この項目は、文章の表現が冗長(過剰)・執筆者の個人の主観での記述や批評・スタイルマニュアル通りでないレイアウト・エッセイ(随筆)的・コラム(評論)的である・不適当な翻訳、その他百科事典に適切でない内容の記述など、改善の余地があるため、修正・推敲を広く求めています。 |
村山 富市 (むらやま とみいち)
| |
在任期間 | 1994年(平成6年)6月30日 - 1996年(平成8年)1月11日 |
生没年月日 | 1924年3月3日
- |
出生地 | 大分県大分市 |
出身校 | 明治大学専門部 政治経済科卒業 |
学位・資格 | 桐花大綬章 名誉博士(明治大学) |
前職 | 衆議院議員 日本社会党委員長 |
世襲の有無 | 無 |
選挙区 | 大分1区 |
当選回数 | 衆8回 |
党派 | 日本社会党 (退任後:社会民主党) |
花押 | |
村山 富市(むらやま とみいち、1924年3月3日 - )は、日本の政治家。
第81代内閣総理大臣(在1994年6月30日-1996年1月11日)。
大分県大分市議会議員、大分県議会議員、衆議院議員、衆議院物価問題等に関する特別委員長、日本社会党国会対策委員会委員長、日本社会党委員長、社会民主党党首を歴任。財団法人女性のためのアジア平和国民基金理事長、学校法人明治大学顧問。桐花大綬章受章。称号は名誉博士(明治大学)、社会民主党名誉党首、明治大学校友会名誉会長。
目次
略歴[編集]
首相就任まで[編集]
- 1924年 大分県大分市の漁師の家に生まれる
- 1938年 東京に出て、働きながら東京市立商業学校に学んだ
- 1946年 明治大学専門部政治経済科卒業
- 1955年 大分市議会議員選挙に日本社会党から出馬し当選(当選3回)
- 1963年 大分県議会議員選挙に支持者の後押しで出馬し当選(連続3回)
- 1972年 12月の衆議院議員総選挙に出馬し初当選(当選8回)
- 1991年 4月、土井たか子に代わって日本社会党委員長に就任した田邊誠の下で日本社会党国会対策委員長に就任。
- 1992年 PKO国会で国会対策委員長として陣頭指揮を執って粘り強く抵抗したものの、6月自公民3党の多数で成立。自民党の梶山静六、公明党の神崎武法ら、各党国会対策委員長とのパイプを持つ。
- 1993年 1月、日本社会党委員長に就任した山花貞夫の下で国会対策委員長に留任。8月、細川連立内閣が発足。10月、日本社会党委員長選挙に立候補し当選、日本社会党委員長に就任。
- 1994年
首相在任中[編集]
- 1995年
- 1月の兵庫県南部地震に伴う阪神・淡路大震災発生時、政府の対応が遅いと批判され、内閣支持率の急落につながった(後述)。
- 3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こる(後述)。
- 6月9日、衆議院本会議にて歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議(通称:不戦決議。自由民主党・自由連合、日本社会党・護憲民主連合、新党さきがけ3会派共同提出)可決。6月21日、全日空857便ハイジャック事件が発生。特殊武装警察に強行突入を指示し鎮圧(後述)。
- 5月の地方選、7月の参議院議員通常選挙で日本社会党が大敗北。村山は辞意を漏らしたが与党側が慰留し、内閣を改造した。
- 5月10日、自由民主党幹事長森喜朗が「村山総理は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、内閣総理大臣公邸での村山富市との会話を漏洩した。この発言を受け読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。その結果、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受け、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。
- 7月、「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」(通称:アジア女性基金)を発足させた(後述)。
- 8月15日 戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話(通称:村山談話)を閣議決定(後述)。
首相辞任後の足取り[編集]
- 1996年 1月19日、日本社会党を党名変更し、社会民主党を結成。初代社会民主党党首に就任。
- 1996年 9月、新党さきがけ代表幹事鳩山由紀夫が提唱する新党構想で社会民主党から30人が造反。衆議院解散を前に衆議院議長土井たか子を社会民主党党首に迎え、村山は社会民主党特別代表に就任。土井執行部で閣外協力に転じる。
- 1997年 沖縄特別措置法案採決に与党ながら反対に回った。
- 1998年 6月、社会民主党が自由民主党との政権協議を破棄し、自社さ連立政権が崩壊。
- 1999年 野中広務と共に朝鮮民主主義人民共和国訪問(通称:村山訪朝団)。団長を務める。
- 2000年 5月14日、在任中に病に倒れた前内閣総理大臣小渕恵三が病没。村山が衆議院本会議で小渕への弔辞を朗読。
- 衆議院での内閣総理大臣経験者への弔辞は、野党第一党党首が行うのが通例。
- 本来なら民主党代表の鳩山由紀夫が弔辞を読むはずだが、小渕の遺族側が拒否したため、例外的に、内閣総理大臣経験者でかつ野党所属衆議院議員である村山が弔辞を読んだ。
- 2000年 6月、衆議院解散と共に政界引退。
- 10月に財団法人女性のためのアジア平和国民基金理事長に就任。
- 2006年4月29日、「内閣総理大臣として国政を担当しその重責を果たすとともに、多年にわたり国会議員として議案審議の重責を果たした」[1]功労により桐花大綬章受章。
村山内閣の施政[編集]
村山内閣は、政権発足時から、戦後の政治的懸案事項に取り組んだ。55年体制下で続いてきた保革対立に終止符を打った自社さ連立政権だからこそ実現できた業績もある。反面、日本社会党は衆議院議員総選挙で大敗した政党であり、有権者にNOを突きつけられたはずの政党が、数の力で政権を取ってしまったという面も否定できない。その限界や課題も残した。
- 村山は「『当時としては』全てにおいて最良の選択だった」と振り返っている。
- 渡邉恒雄は「よい意味で進歩的内閣で、社会党の反安保・反米、国歌・国旗反対を潰して、国論統一の幅をぐんと広げてくれたことが最大の功績」と保守・右派・タカ派的立場から評価した。
- 田中康夫は「自民党と社会党のいいとこ取りしたハイブリッド内閣」と評した。
施政方針[編集]
政策綱領[編集]
- 日本社会党と新党さきがけが結んだ政策合意に対し自由民主党が参画し、1994年6月に「自社さ共同政権構想」として合意され、村山内閣、第1次橋本内閣の政策綱領となった。
- 日本国憲法の尊重
- 小選挙区比例代表並立制の実施
- 税制改革の前提として行政改革の断行
- 条件つきながら消費税の引き上げの方向を認める
- 自衛隊と日米安全保障条約を維持
- 国際連合平和維持活動に積極的に参加
- 国際連合安全保障理事会常任理事国参加問題には慎重に対処
戦後の総括[編集]
戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話[編集]
- 1995年8月15日の戦後50周年記念式典において、村山は閣議決定に基づき、日本が戦前、戦中に行ったとされる「侵略」や「植民地支配」について公式に謝罪した。この「戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話(通称「村山談話」)は、以後の歴代政権に引き継がれて日本国政府の公式歴史見解として扱われている。
- しかし、これ以後も保守系議員などにより村山談話とは見解を異にする内容のコメントが発せられ、その度に中国、韓国の政府から反発が起きた。
- 保守的な立場からは、「日本は戦後、戦時中におこなったとされる侵略行為については当事国に公式に謝罪し補償も済ませているのでこれ以上の謝罪論は不要である」との批判がある。
- 革新的な立場からは、「この談話は結局のところ『アジア太平洋戦争に日本政府は巻き込まれた。悪いとは思うが仕方がなかった』という立場を表すに過ぎない」との批判もある。
- 「村山」と個人名を冠して呼称されることが多いが、閣議決定を経た談話であり、村山個人の私的な見解ではなく、当時の政府公式見解である。
- 内閣総理大臣小泉純一郎が村山談話を踏襲すると発表していたのに続き、2006年10月5日に内閣総理大臣安倍晋三も村山談話を「アジアの国々に対して大変な被害を与え、傷を与えたことは厳然たる事実」「国として示した通りであると、私は考えている」と、政府として、個人として受け継いで行く姿勢を見せている。
- なお、村山談話の中では、日本は「国策を誤り、戦争への道を歩ん」だとされている。この表現に対し、村山は「戦争が終わった時点で国内的にも国際的にも(昭和)天皇の責任は問われていない。談話の『国策を誤った』ということをもって(先帝)陛下の責任を云々するつもりはない」と述べており、村山談話は昭和天皇の戦争責任を追及するものではないと明確に示している。さらに、具体的にどの内閣の誰が「国策を誤」ったのかについては、「どの時期かについて断言的に言うのは適当ではない」と述べており、どの内閣に責任があるのかについても明示はされていない。
被爆者援護法の制定[編集]
女性のためのアジア平和国民基金設立[編集]
- 1994年8月、「従軍慰安婦問題」に関して民間基金による見舞金支給の構想を発表し、1995年7月、総理府と外務省の管轄下で「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」を発足させた。この基金により、1997年1月、韓国人元慰安婦への見舞金支給が開始された。
- 村山内閣成立以前、国費による損害賠償と政府の謝罪を求めた元慰安婦による訴訟が各地で起こされていた。しかし、日本政府は、他国との条約締結時にこれら諸問題は解決済みとの立場であり、国費投入による元慰安婦への損害賠償はありえないとされていた。村山が示した構想では、政府が基金を設立し資金は民間からの寄附とすることで、直接の国費投入を避けるとともに募金に応じた国民の真摯な思いが伝わるとアピールすることで、両者の主張を織り込みつつ問題解決を図る狙いがある。村山自身は、発足の経緯について「『あくまで政府補償をすべきだ』という意見があれば、他方では『戦時賠償は法的にはすべて解決済みだ。いまさら蒸し返す必要はない』、果ては『慰安所ではちゃんとカネを払っていた』といった声まで、国内外の意見の隔たりは大き」[2]く、「与党3党の間でも厳しい意見の対立があった」[2] が、「それを乗り越え一致点を見いだし、基金の発足にこぎつけた。」[2]「元慰安婦の方々の高齢化が進むなか、何とか存命中に日本国民からのおわびの気持ちを伝え、悲痛な体験をされた方々の名誉回復を図る」[2]には「いろいろ批判はあろうが、当時の差し迫った状況では、これしか方法はなかった」[2]と記している。
- 女性のためのアジア平和国民基金の初代理事長には原文兵衛、2代目理事長に内閣総理大臣退任後の村山が就き、約6億円の募金を集め、元慰安婦の生活支援のみならず女性の名誉尊厳一般に関する事業を展開してきた。フィリピン、韓国、台湾で支援事業を展開し、インドネシア事業終了を予定する2007年3月に解散することが、理事長村山により発表された。
- 2000年9月1日、第2次森内閣政権下にて内閣官房長官中川秀直が、女性のためのアジア平和国民基金に関する記者会見を開き、同基金に対する日本政府の認識を改めて表明した。
- 2007年3月6日、村山は記者会見を開き、従軍慰安婦問題で日本の謝罪を求める決議案がアメリカ合衆国下院にて審議されていることについて、「(女性のためのアジア平和国民基金を通じ)歴代総理が慰安婦の方へお詫びの手紙を出したことが理解されていないのが極めて残念」と発言している。
危機管理[編集]
阪神・淡路大震災への対応[編集]
- 1995年1月17日、兵庫県南部地震により阪神・淡路大震災が発生した。この際、政府の対応が遅いと批判され、内閣支持率の急落につながった。
- 村山はなぜ自衛隊派遣が遅れたのかを問われ、「なにぶんにも初めてのことですので」と答弁し、内閣支持率の急落に繋がった。この村山内閣の対応の遅れは、広く国民から強い批判を浴びた。特に被災者・遺族からは絶対に許せないとの講義が噴出した。
- 最も早く救援体制を敷いた米海軍第7艦隊(神奈川県横須賀市)が、「艦艇を神戸港に入港させて、ヘリコプターによる負傷者の救援」を政府に申し入れたところ、神戸港を管理する神戸市役所が「非核神戸方式」採用していたため、それを理由に拒んだことも批判の対象になっている。
- 自衛隊出動命令の遅れは、法制度上、地元・兵庫県知事貝原俊民の要請がなければ出動できなかった点が挙げられる。当日午前8時10分には、陸上自衛隊姫路駐屯地(防衛庁側)から兵庫県庁に対し出動要請を出すよう督促されている。また、午前10時前には自衛隊のヘリコプターを飛ばし被災地の情報収集を行っている。しかし、貝原が登庁したのはその後で、さらに現況の把握に時間が費やされた。最終的に、貝原の命令を待たず兵庫県参事(防災担当)が出動要請を午前10時10分に行い、その4分後の午前10時14分には自衛隊が出動している。別項も参照。
- 一方で、災害対策基本法105条に基づく各種の強制的規制の適用により、内閣総理大臣に権限を広く集め、効力のある「緊急災害対策本部」を早急に作ること等が可能であった。しかし、村山内閣成立に伴い、「自衛隊は違憲状態」との日本社会党の基本政策を、村山が半ば強制的に急転換した経緯もあり、日本社会党左派への配慮のため、長年、政権与党で日本の防衛・防災体制を担ってきた自由民主党出身閣僚の防衛庁長官玉澤徳一郎、国土庁長官小澤潔といった震災関連省庁主務大臣の判断に委ねようとしたが、権限を持たない各国務大臣からは当然そのような意見は出なかったため、設置を見送った。
- 震災直後、村山は国土庁長官小澤潔に代えて小里貞利を国務大臣【震災対策担当大臣】に任命し復興対策の総指揮に当たらせる。また、下河辺淳を委員長とする震災復興委員会を組織し、復興案の策定を進めた。
- 被災者への支援として、16本の法律を改正、および、制定し、被災者に対する税負担の軽減等を図った。
- 歴代在任日数最長(当時)の内閣官房副長官石原信雄(後に安倍内閣にて内閣官房「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」座長)は、「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山以外のだれが内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった。」[5]と述懐、証言している。
- 震災発生は午前5時46分ごろであったが、当時の官邸には、危機管理用の当直は存在しなかった。また、災害対策所管の国土庁にも担当の当直が存在しなかった。
- 自社さ連立政権という連立内閣に対する内閣官房、官僚のロイヤリティ(忠誠心)の低さも問題点として指摘されている。震災後、後藤田正晴に指示された佐々淳行が、村山を含む内閣総理大臣官邸メンバーの前で危機管理のレクチャーを行った。ところが、村山以外の政務、事務スタッフは皆我関せずの態度を取ったため、佐々が厳しく戒めたという。また、村山が震災直後に国民に向けて記者会見を開こうとしていたが、内閣官房スタッフから止められていた、との逸話も佐々の著書[6]で紹介されている。
- 震災など危機管理対応への各制度が未整備な当時の状況は、内閣総理大臣の職務の困難さを示している。犠牲者が多数発生した事態に対し「神戸市民六千余名をイデオロギーで殺した大量虐殺犯」との批判もあるが、「危機管理面で反省はあるが、要請が遅れたから死者が増えたのではない。犠牲者の8割以上が、発生直後に圧死していた」[4]とする貝原俊民の指摘もある。
- 村山自身は、震災への対応を振り返り「初動対応については、今のような危機管理体制があれば、もっと迅速にできていたと思う。あれだけの死者を出してしまったことは、慚愧に堪えない。1月17日の朝は毎年、自宅で黙とうする。亡くなられた方のめい福を祈り、残された家族の幸せを願っている。」[7]と語っている。田中秀征は「震災のショックが大きすぎて,二人きりになると必ず辞めたいと漏らしたいう。『首相の資格がない,限界だ』というのを,なだめすかして,何とか続けさせた1年(1995年)だった」[8]と語っている。
オウム真理教に対する破壊活動防止法適用申請[編集]
- 1995年(平成7年)3月20日、地下鉄サリン事件が発生した。村山は内閣官房長官五十嵐広三、法務大臣前田勲男、国家公安委員会委員長野中広務、警察庁長官國松孝次ら関係幹部に徹底捜査を指示、陣頭指揮を執るパフォーマンスを見せ、事件捜査について「別件逮捕等あらゆる手段を用いて」と発言、テロリズムに対する内閣の断固とした決意を示した。
- 1952年に公布された破壊活動防止法は、暴力主義的破壊活動を行った団体に対し、規制措置を定めた法律である。当初は日本共産党や日本赤軍など社会主義勢力の拡大を防止する目的があったことから、日本社会党(ただし社会民主主義政党であり共産主義政党ではない)はじめ55年体制下の野党各党は、従来、法の適用に極めて慎重な立場をとっていた。
ハイジャックへの特殊武装警察投入[編集]
- 1995年6月に全日空857便ハイジャック事件が発生した。
- 東京国際空港発函館空港行の全日本空輸機857便(乗員・乗客365人)がハイジャックされ、「サリン」を所持した犯人がオウム真理教教祖麻原彰晃の釈放を政府に要求した。
- 村山は国家公安委員会委員長野中広務、運輸大臣亀井静香と協議し、ハイジャック犯との交渉には一切応じない方針を固め、SAP(Special Armed Police;特殊武装警察)の実戦投入を指示した。
- SAPに対し突入を指示した後、村山は「もしも死者が出たら(行政の最高責任者として)白装束で遺族の下にお詫びに行く覚悟だ」と発言し、野中は「その際は私も同行する」と約束した。
- 村山からの指令を受け、警視庁警備部第六機動隊特科中隊(いわゆるSAPの一)は北海道警察本部機動隊対銃器部隊、および、函館中央警察署とともに強行突入し、犯人を逮捕した。その結果、乗員・乗客の死傷者は0名、軽傷者1名のみとなった。逮捕後の取り調べにより、サリンとされた物質は単なる水であり、ハイジャック犯はオウム真理教とは全く無関係の元信託銀行職員だった。
- 当時の警察庁は特殊部隊であるSAPの存在自体を極秘としており、実戦投入後もその存在が公にされることはなかった。1996年、警察庁は北海道警察本部、千葉県警察本部、神奈川県警察本部、愛知県警察本部、福岡県警察本部に部隊を増設し、警視庁、大阪府警察本部のSAPとともに、正式に「特殊急襲部隊」(Special Assault Team、通称SAT)の呼称を与え、正規部隊として公表された。
外務[編集]
日米首脳の信頼構築[編集]
- 村山内閣成立時、海外では「日本に共産主義者[9]内閣が誕生した」[10]と報じられたため、懐疑論が根強くあった。アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは、当初、日本社会党出身内閣総理大臣に警戒心を持っていた。しかし、1994年の第20回先進国首脳会議(ナポリサミット)前の二国間首脳会談にて、村山が自らの生い立ちから今の政治信条に至る過程を話し、アメリカ合衆国の占領統治下で戦後民主主義に触れ政治家を志した、と語ったため、感銘を受けたクリントンはそれ以後は警戒心を解いたとされる。
日米安全保障条約の維持[編集]
- 1994年7月20日、第130回臨時国会での所信表明演説にて「自衛隊合憲」、「日米安保堅持」と明言し、日米安全保障条約体制の継続を明確化した。
- この際、演説用原稿では「日米安保維持」だったが、所信表明演説では村山が「日米安保堅持」と発言した。
- 村山の出身政党である日本社会党にとっては政策の大きな転換にあたる。トップダウンでの政策転換に対し、独断専行との批判もあるが現実政党への脱皮を図ったともされる。また、村山はもともと日本社会党右派に属しており、政策転換への抵抗感も比較的薄かった。
厚生[編集]
リサイクル法の制定[編集]
水俣病患者救済[編集]
運輸[編集]
成田空港問題への対応[編集]
- 1991年11月から15回にわたって開催された「成田空港問題シンポジウム」、引き続き1993年9月から12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」の結論を受け、村山は1995年、これまでの経緯について地元に謝罪した。これにより、第2期工事への用地買収に応じる地主が現れた。その後、1996年に未買収地を避ける形で暫定滑走路を建設する案が計画された。村山ら政府首脳の謝罪に加え、中立委員らの度重なる働きかけにより、新東京国際空港反対派住民の強硬姿勢も次第に和らぎつつあり、反対運動は小康状態へと推移しつつある(詳細は成田国際空港#歴史参照)。
郵政[編集]
インターネットでの情報公開[編集]
- インターネットへの接続が一般家庭にも普及し始めたのを受け、政府機関のウェブサイト開設を積極化し、ウェブサイトを利用した情報公開を進めた。1994年8月には総理大臣官邸の公式ウェブサイト『首相官邸ホームページ』を開設した。
防衛[編集]
沖縄県の米軍基地問題[編集]
政治思想[編集]
- 村山は、日本社会党党内では自治労右派、政権構想研究会、水曜会に所属しており、一貫して社会党右派として活動してきた。村山内閣成立後、小沢一郎らと連携を目指し自社さ連立政権に批判的な勢力を「社会党右派」、自社さ連立政権を支持する勢力を「社会党左派」とマスコミが便宜的に呼称したため、村山が社会党左派であるかのような誤解が生じた。なお、村山内閣で入閣した労働大臣浜本万三、郵政大臣大出俊、総務庁長官山口鶴男らはいずれも社会党右派に属している。
エピソード[編集]
不慣れ[編集]
- 総理大臣官邸が迷路のような構造になっていたため、村山は官邸内で何度も道に迷った。橋本通産相からは「いい加減覚えろよ」と呆れられたという。
- 総理在任中、夫人が長年の腰痛のために公務に同伴できない状態だったため、秘書をしていた娘がファーストレディの代役を務めた。
- イタリアのナポリで開かれた先進国首脳会議でのレセプションで腹痛と下痢を起こして中座、翌日も一部の会議を欠席するなどし、関係者を心配させた。海外訪問の経験が少ない村山は、滞在中は現地の飲食物に非常に注意しており、滞在先の総領事公邸で出された食事にしか手をつけなかった。しかし会談前に首脳が屋外で歓談した際、ウェイターが差し出した桃ジュースにうっかり手を出してしまい、それにあたってしまったと後に述懐している。同日夕刻のレセプションの頃にはすでに体調が悪く一切料理に手をつけていない[11]。
人となり[編集]
- 現在の閣僚資産公開制度が始まった1987年以降、村山の資産は歴代総理中の最下位で、自宅の時価が「数10万円台」と発表されため、清貧というイメージを持たれた[12]。
- 好々爺のような風貌とトレードマークの長い眉毛で、トンちゃんと呼ばれて親しまれた。
- 日本テレビ『進め!電波少年』の企画で松村邦洋が自慢の眉毛を切るという無茶な企画にも、笑顔で参加した。
- 村山の人気にあやかり、村山をモデルとしたマスコット「とんちゃん人形」を日本社会党が発売した。
- 退任後は映画にも出演している。1995年公開の『男はつらいよ 寅次郎紅の花』と、2003年公開の『八月のかりゆし』。
- 2005年7月16日、大分県大分市王子中町の市道交差点で、自らが運転する乗用車と自転車に乗った小学4年生男児とが接触する交通事故を起こし、男児の両腕に怪我を負わせた。業務上過失傷害容疑で書類送検されたが、事故は示談で解決。男児の怪我が軽かったこともあり、同年7月24日、大分地検は村山を起訴猶予処分とする決定を下した。村山は以後、自動車の運転をしていない。
他の者の評価[編集]
- 大分県議会議員時代の村山は、他の大分県議や市町村長らとともに、時の大蔵大臣・一萬田尚登に大分県への新産業都市指定を陳情した。ところが一萬田からは「国家全体を考慮して可否を判断すべき問題であり陳情には左右されない」とたしなめられてしまった。村山はそんな一萬田に失望するどころか、逆に感銘を受けたという。[13]。
- 細川内閣当時、総理の記者会見が深夜に行われることが度々あった。特に重大な発表[14]ほど深夜に行われることが多く、そうした折には一夜明けるとマスコミや野党ばかりか、与野にも大きな驚きを与えることがあった。当時連立与党の社会党委員長だった村山は、細川のことを「深夜に騒ぐ男じゃのう」と評していた。
スポーツ[編集]
- 趣味を聞かれ、「漁師の息子だから泳ぎは得意だ」。
- 明治大学の出身で、早稲田大学出身の河野外相と森自民党幹事長に、東京大学の武村蔵相を加えて、ラグビーの早明戦を観戦したこともある。
- 1994年、オリックスのイチロー選手が日本で初めてシーズン200本安打を達成した際、総理コメントを発表した。試合が行われていたグリーンスタジアム神戸では、コメントを読み上げる村山の姿が大スクリーンに映し出された。
- 同シーズン終了後、イチローはオリックスの仰監督らとともに答礼として官邸を訪問、村山にサイン入りバットなどを贈っている[15]。
- 同郷の大分県出身の力士・大関 千代大海とも親交がある[16]。
著書[編集]
- 村山富市が語る「天命」の五六一日(村山富市著、ベストセラーズ、1996年)ISBN 4584182485
- 村山内閣総理大臣演説集(村山富市述、内閣総理大臣官房監修、日本広報協会、1998年)
- そうじゃのう…―村山富市「首相体験」のすべてを語る(村山富市談、辻元清美インタビュー、第三書館、1998年)ISBN 480749810X
- 若者と語る(後藤田正晴、村山富市、岡野加穂留述、明治大学政治経済学部編、明治大学政治経済学部、2002年)
- 我的奮闘歴程(村山富市著、王雅丹訳、2005年)
論文[編集]
関連文献[編集]
- 村山富市-その軌跡と使命(清原芳治著、大分合同新聞文化センター、2006年)
出演作[編集]
映画[編集]
- 男はつらいよ 寅次郎紅の花(山田洋次原作・監督、山田洋次・朝間義隆脚色、松竹、1995年) - 内閣総理大臣役
- 八月のかりゆし(高木弓芽脚本、高橋巖監督、ギャガ・コミュニケーションズ、2002年) - リウボウ役
漫画[編集]
栄典[編集]
- 2006年4月29日:桐花大綬章
関連項目[編集]
脚注[編集]
[ヘルプ]
- ↑ 「日本の勲章・褒章(賞勲局)」内閣府、2006年。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 村山富市「慰安婦問題『河野談話を継承』こそ重要」『朝日新聞』朝日新聞社東京本社、2007年4月5日、15面。
- ↑ 「『震災で判断遅く犠牲者』発言兵庫県知事『失礼だ』」『朝日新聞』43460号、朝日新聞社東京本社、2007年4月10日、38面。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 「石原氏『神戸の震災は首長の判断遅く2千人余計に死亡』」『朝日新聞』朝日新聞社東京本社、2007年4月9日。
- ↑ 石原信雄『官かくあるべし―7人の首相に仕えて』小学館、1997年。ISBN 9784094020311
- ↑ 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』文藝春秋、2006年。ISBN 4163681205
- ↑ 磯辺康子「神戸新聞Web News 震災10年を語る」神戸新聞社、2004年7月14日。
- ↑ 田勢康弘『総理の座』文藝春秋社、1995年。
- ↑ 当時の日本社会党は社会民主主義政党を標榜しており、共産主義政党や社会主義政党ではない。英文党名も「Social Democratic Party of Japan」(直訳すれば「日本社会民主党」)である。現在の社会民主党の英文党名と全く同一である。
- ↑ 村山が国会で内閣総理大臣に指名された際、日本国外のマスメディアは村山の詳細な情報を持ち合せておらず、各社で情報が錯綜したとされている。
- ↑ にもかかわらずマスコミでは「側にいた大食漢の武村蔵相につられて食べ過ぎたため」「食べ慣れないオリーブ油を多量に使ったイタリアンを食べたため」など諸説が飛びかって一時騒然となった
- ↑ ただし大分県には時価総額で9300万円の山林を所有していた。
- ↑ 「私の履歴書」『日本経済新聞社』日本経済新聞社。
- ↑ コメ市場の部分開放、河野外相・自民党総裁との政治改革関連法案の修正合意、国民福祉税構想など。
- ↑ このとき、バットを握った村山はイチローの振り子打法の素振りを披露してみせたが、そのの軸足が左右逆だったため、イチローから「軸足をしっかりと」と指導を受けた。マスコミによってはこのイチローのコメントに引っ掛け「日本社会党の大胆な政策転換により村山の軸足が定まらない」と揶揄した。
- ↑ 『スーパーテレビ情報最前線』日本テレビ放送網。
歴代内閣総理大臣 | |||||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|