黒川紀章
黒川紀章(くろかわ きしょう、1934年4月8日 - )は、愛知県海部郡蟹江町生まれの建築家。日本芸術院会員。黒川紀章建築都市設計事務所所長。妻は、女優の若尾文子。弟は建築家の黒川雅之で、その妻は加藤タキ。
来歴
1953年(昭和28年)、東海高校卒業。1957年(昭和32年)、京都大学工学部建築学科卒業。1964年(昭和39年)、東京大学大学院建築学科専攻博士課程(丹下健三研究室)修了。
槇文彦、磯崎新、谷口吉生らと共に、丹下研出身の世界的建築家である。1960年代、メタボリズムなどの建築理論を構築し、これに基づいて増築・取替えの可能な建築として中銀カプセルタワービルなどを設計した。
日本会議代表委員。他にアメリカ建築家協会名誉会員、英国王立建築家協会名誉会員、日本景観学会会長、ブルガリア建築家協会名誉会員、フランス建築家協会正会員、カザフスタン建築家協会名誉会員、ロシア建築アカデミー外国人会員など。
かつては現東京都知事の石原慎太郎と蜜月関係にあったが、東京オリンピックの招致や首都機能移転などをめぐり対立。2007年2月21日に「2016年の東京オリンピック招致活動の白紙撤回」を公約に掲げて、同年4月の東京都知事選挙に出馬することを表明した。同日の記者会見では自らの政治思想について反金儲け主義・共生主義と表現し、社会主義に近いとも発言した[1]。政治団体共生新党を設立して代表に就任し、共生新党公認候補として立候補した。マスコミには有力候補として取り扱われ、多くの露出機会を得たが、落選した(確定得票数159,126票)。
同年7月29日の第21回参議院議員通常選挙において、東京選挙区から出馬したが、20人の候補者が5議席を争う大混戦のなか、10位のドクター・中松に2万票差をつけられる11位で大敗。共生新党は議席を得られなかった。
2007年10月12日、心不全のため死去。
マニフェスト
- 任期中の給与は1円
- 東京都庁舎や、江戸東京博物館、東京国際フォーラムの民間売却
- オリンピック招致中止
- 日の丸・君が代の強制を改める
- 築地市場の豊洲移転には反対
- 東京23区の市昇格を行ない、行財政権力を強化する
- 首都機能の一部を移転し、霞が関に緑地を増やす
とした。
主な受賞歴
- 1965年 - 高村光太郎賞
- 1978年 - 毎日芸術賞
- 1986年 - フランス建築アカデミーゴールドメダル
- 1988年 - リチャード・ノイトラ賞(米国)
- 1989年 - 世界建築ビエンナーレ・グランプリ・ゴールドメダル、フランス芸術文化勲章
- 1990年 - 日本建築学会賞
- 1992年 - 日本芸術院賞
- 2002年 - 国際都市賞(スペイン:メトロポリス協会)
- 2006年 - 文化功労者
主な作品(年代順)
- 寒河江市役所庁舎(山形県寒河江市)1967年(完成年、以下同じ)
- 大阪万博のパビリオン数点(東芝IHI館、タカラビューティリオン、空中テーマ館)1970年
- 佐倉市役所庁舎(千葉県佐倉市)1971年
- 中銀カプセルタワービル(東京都中央区銀座)1972年
- 福岡銀行本店(福岡市中央区天神)1975年
- ソニータワー(大阪市中央区心斎橋筋/現存せず)1976年
- 国立民族学博物館(大阪府吹田市千里万博公園)1977年
- 日本赤十字社本社(東京都港区芝大門)1977年
- 長崎新聞本社ビル(長崎県長崎市)1980年
- 埼玉県立近代美術館(埼玉県さいたま市浦和区)1982年
- 国立文楽劇場(大阪市中央区日本橋)1983年
- ベルリン日独センター(ドイツ・ベルリン)1988年
- 広島市現代美術館(広島県広島市)1989年
- 沖縄県庁舎(沖縄県那覇市泉崎)1990年
- 三起商行本社(大阪府八尾市)1991年
- 奈良市写真美術館(奈良県奈良市)1991年
- パシフィック・タワー(フランス・ラ・デファンス)1992年
- 和歌山県立近代美術館(和歌山県和歌山市)1994年
- 和歌山県立博物館(和歌山県和歌山市)1994年
- 愛媛県総合科学博物館(愛媛県新居浜市大生院)1994年
- 福井市美術館(アートラボふくい)(福井県福井市)1996年
- ソフトピアジャパンセンタービル(岐阜県大垣市)1996年
- クアラルンプール国際空港(マレーシア クアラルンプール)1998年
- 大阪府立国際会議場(大阪市北区中之島)2000年
- 福井県立恐竜博物館(福井県勝山市)2000年
- 豊田スタジアム(愛知県豊田市)2001年
- 九州石油ドーム(大分県大分市)2001年
- 世知原温泉くにみの湯 山暖簾(長崎県佐世保市)2004年
- 長崎歴史文化博物館(長崎県長崎市)2005年
- 国立新美術館(東京都港区)2006年
以下年代不明
備考
1979年に開業した日本初のカプセルホテルを設計したのも、黒川である。
設計思想・評価
- 他の丹下研出身建築家と同様、「都市」について意識的な建築家である。実際、カザフスタン新首都計画なども手がけている。
- ポンピドゥ・センターコンペではドミノ1971を提案し、大阪府立国際会議場ではスーパードミノ2000を提案した。(GA JAPAN44)
主な著作
- 「日本まさに荒れなんとす」(C.W.ニコルと共著:2001年、致知出版社)
- 「Each One A Hero」(1997年、講談社インターナショナル)
- 「黒川紀章 - 都市デザインの思想と手法」(1996年、彰国社)
- 「新・共生の思想」(1996年、徳間書店)
- 「黒川紀章ノート」(1994年、同文書院)
- 「都市デザイン」(1994年、紀伊國屋書店)
- 「建築の詩」(1993年、毎日新聞社)
- 「黒川紀章作品集」(1992年、美術出版社)
- 「共生の思想 増補改訂」(1991年、徳間書店)
- 「花数寄」(1991年、彰国社)
- 「黒川紀章2 1978 - 1989」(1991年、鹿島出版会)
- 「建築論2」(1990年、鹿島出版会)
- 「新遊牧騎馬民族ノマドの時代 情報化社会のライフスタイル」(1989年、徳間書店)
- 「TOKYO大改造」(グループ2025と共著:1988年、徳間書店)
- 「共生の思想」(1987年、徳間書店)