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2009年11月21日 (土) 18:26時点における最新版
日本の政治家 金丸信 かねまる しん [[画像:|0200px|金丸信]]
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生年月日 | 1914年9月17日 |
出生地 | 山梨県中巨摩郡今諏訪村 (現:南アルプス市) |
没年月日 | 1996年3月28日((1996-1914)+((3-9)*100+(28-17)>=0)-1歳没) |
死没地 | 山梨県中巨摩郡白根町 (現:南アルプス市) |
出身校 | 東京農業大学農学部 |
前職 | |
現職 | |
所属政党 | 自由民主党 |
所属委員会 | |
議員会館 | |
選挙区 | |
当選回数 | 12回
|
元首 | |
称号・勲章 | |
世襲の有無 | |
親族 | |
配偶者 | 金丸悦子 |
サイン | [[画像:|128px|サイン]] |
公式サイト | [ ] |
国務大臣(副総理) | |
---|---|
内閣 | 第3次中曽根康弘内閣 |
就任期間 | 1986年7月22日 |
第35代防衛庁長官 | |
内閣 | 福田赳夫改造内閣 |
就任期間 | 1977年11月28日 |
第3代国土庁長官 | |
内閣 | 三木武夫内閣 |
就任期間 | 1974年12月9日 |
第34代建設大臣 | |
内閣 | 第2次田中角栄内閣 |
就任期間 | 1972年12月22日 |
衆議院議員 | |
内閣 | |
就任期間 | 1958年5月 |
その他の職歴 | |
金丸 信(かねまる しん、1914年9月17日 - 1996年3月28日)は、昭和時代の日本の保守政治家。
衆議院議員(12期)、国務大臣・副総理、防衛庁長官(第35代)、国土庁長官(第3代)、建設大臣(第34代)を歴任。
目次
生涯[編集]
生い立ちから政治家への道[編集]
1914年9月17日、山梨県中巨摩郡今諏訪村(旧白根町、現南アルプス市)に、父・金丸康三と母・とくの長男として生まれる。金丸家は、『南総里見八犬伝』から、子どもの名前をつけており、3番目に生まれた長男は、「信」と名づけられた(なお、兄弟は、上から、禮(礼)・悌・信・仁・忠・智義と付けられている)。金丸家は、造り酒屋であり、多くの使用人を抱えている裕福な家であった。
西野小学校を卒業の後、旧制甲府中学校に入学するも素行不良により退学となり、父の友人が校長をしていた、旧制身延中学校(現・山梨県立身延高等学校)に入学した。旧制身延中では、父の友人が剣道の師範をしていたことから剣道をはじめるが、試合で頭を叩かれたことから剣道嫌いとなり、柔道に精進するようになったという。
1933年、東京農業大学農学部に入学。中学からはじめた柔道で金丸は有名となり、「農大に金丸信あり」として知られていたという。(実際、日本代表の「柔道使節団」として2度、満州に渡っている。)
農大での卒業論文「桜桃栽培の進化」は、故郷・山梨県の名産である桜桃に関する論文であった。この卒業論文は、太平洋戦争による空襲で農大が被災した際に焼失している。
農大卒業後、旧制身延中学の恩師が校長をつとめていた旧制韮崎中学校(現・山梨県立韮崎高等学校)で博物(今でいう生物)の教諭となる。また、柔道を教えたり野球部の監督もした。
1938年、徴兵により入営する。柔道をしていたことから、体格がよく、自分のサイズに合う軍服がなかったという。 軍隊では関東軍電信三連隊第二中隊に配属されて満州に渡った。しかし、間もなく風邪をこじらせて新京(現・長春)の病院に入院、内地送還となり兵役免除となった。 茨城県久慈郡(現・茨城県常陸太田市)の姉夫婦のもとでしばらく静養をした後に実家に戻り、家業の造酒屋を継ぎ、山梨県酒造組合常務理事に就任している。
戦中、造酒屋の企業整理命令(70軒ある造酒屋を半分に減らせとする内容)が下された際には、造酒屋を廃業し、同業者にも命令に従うよう促した。その後、溶接に使う酸素をつくる「日東工業」を設立したが、敗戦とともに事業をたたんでいる。
戦後、焼酎を造る「中央発酵化学工業」を設立して成功をおさめる。また、「山梨中央銀行」頭取名取忠彦に地場産業振興のためにと勧められ、撤退予定だった会社のワイン工場を買収、このワイン事業でも大きな成功をおさめ、昭和天皇・香淳皇后の工場視察を迎えている(このワイン工場は、現在のサントネージュワインの工場となっている)。
造酒屋時代、税務署の「造酒屋は、酒を密造し、税をごまかしている」という態度に怒りを覚え、政治の道を志したという(皮肉にも功成り名遂げた金丸は税をごまかしたことから失脚する)。
田中角栄、竹下登との出会い[編集]
1953年の参議院議員通常選挙で、広瀬久忠の選挙活動に従事する。
それがきっかけで、広瀬と天野久山梨県知事らが、金丸信を衆議院議員選挙に担ぎ出すことになる。その際、広瀬の勧めで、自由民主党のなかでも保守本流とされる佐藤派に入るようにすすめられ、佐藤栄作のもとを訪ねる。1回目は「君には資格がない」と追い返されるが、2回目で無事、佐藤派に入る。
1958年5月の衆議院議員選挙に、自由民主党公認で、山梨県全県区から出馬。トラックの荷台を舞台とする選挙カーで選挙運動をする。(これ以後も、金丸は、選挙の際、トラックの荷台を舞台とする選挙カーを利用した)。なお、この選挙活動中、佐藤栄作は、1回だけ、応援に来て、北巨摩・韮崎・長坂・白根・櫛形・鰍沢・市川大門・身延にて、応援の選挙運動をした。また、学校での友人や教師時代の教え子、自分の会社の者などによる選挙運動も行われた。そして、5月22日、69,354票を得て、トップ当選を果たす。だが、選挙後、妻・玲子を狭心症で亡くす。
同期当選には、竹下登(後に内閣総理大臣)・安倍晋太郎(後に外務大臣・早世)がおり、彼らと親交を深めた(特に、竹下とは、自分の長男・康信と竹下の長女・一子を結婚させ親戚関係を結ぶまでになった)。
1960年の日米安保条約改定に関する一連の騒動の際、混乱する国会の中、清瀬一郎衆議院議長(当時)を担いで、議長席まで運び、会期延長と新安保条約可決へと繋げる。なお、この際、撮影された写真が、米国のライフ誌に掲載され、後の米国との交渉の際、役に立ったと、金丸は後に自伝で記している。
佐藤派幹部の保利茂を「政治の師匠」とした(なおしばしば「金丸は、髪型まで保利にならっている」といわれたが、本人は「そんなことはない」と言っている)。外交でも保利にならい親台湾派として知られていた。
1972年1月は、保利の推薦から、自民党国会対策委員長の職に就く(当時国対委員長は閣僚経験者がなる職であり、入閣のしたことのない金丸の就任は保利の大抜擢であった)。
だが、その後に行われた自由民主党総裁選挙の際、官僚出身の福田赳夫を支持していた保利の意向に反し、同じ党人派の田中角栄を支持し、田中派結成に奔走した。これは、金丸が田中角栄を大変評価していたことに由来する。なお、保利にはその旨を伝えており、師弟関係が崩れることはなかった。
田中角栄は、金丸の総裁選での活躍を評価しており、「建設大臣をやる」と言っていたが、第1次田中角榮内閣では、木村武雄に持っていかれてしまったものの、第2次田中角榮内閣で初入閣を果たす。その際、迎賓館の改修や中央自動車道の工事着手を行った。しかし立花隆の明らかにした田中金脈問題で田中は首相を辞任に追い込まれる。
続く三木武夫内閣では国土庁長官に就任。またいわゆる三木おろしの気風が高まった際、金丸は三木に衆議院解散を勧めたというが、三木は解散を決断せず、金丸は三木への不信感を募らせたという。
その後、福田内閣改造内閣では、防衛庁長官に就任。長官時代、「自衛隊が外国に脅威を与えてはいけないという人がいるが、敵に脅威を与えずして何の防衛か」と発言する。また、当時の栗栖弘臣統幕議長の問題提起発言が、文民統制に反する発言であるとして金丸が激怒し、結果、栗栖は自ら辞職せざるをえなくなった。後に、栗栖の更迭について「私の原点は出征する私を両親の目の前で殴った憲兵の横暴である。シビリアン・コントロールがいかに大事かということは、習わずとも身にしみている」と回想している[1]。外交・防衛政策では「日、韓、台湾は運命共同体だ。」と発言し中華人民共和国の猛反発を浴びたこともある。長官在任中の1978年、在日米軍に対するいわゆる「思いやり予算」を考案し実施する。
1980年5月、憲政史上初の衆参同日選挙が行われた際、「世代交代論」を唱える。これは、四十日抗争を見て、「政治を若返らせねばならない。七十歳・八十歳の派閥の長が指導する時代ではない」と思ったことに由来する。しかし、これがきっかけで、田中と金丸の仲は悪化していき、一方、竹下との仲は近づいていった。
政界のドン[編集]
中曽根康弘が総裁になるまでは日本一の中曽根嫌いを自認し、田中が擁立するつもりであることを知って尚「おんぼろ神輿」とまで批判していた金丸だったが、中曽根内閣では自民党総務会長―幹事長―副総理と重用された。鈴木内閣の末期に開かれた中曽根派と田中派の料亭会合の際に、表向きは和解したとされており(内心は中曽根を生涯嫌っていた)、その際に中曽根は「腹も太いし、三木武吉以来の大物だ」と金丸を評している。
1984年、側近の小沢辰男を推す田中の意向に反して中曽根総理は金丸を幹事長に指名した。翌1985年、田中派内に勉強会「創政会」を結成する。結成前、田中は派内の勉強会と考えて容認していた。しかし、結成の狙いが金丸の親戚である竹下を後継領袖とするクーデターであったことを知り激怒。切り崩しに遭うも立ち上げに成功した。田中は直後に脳梗塞で倒れた。1987年7月、「創政会」は「経世会」(竹下派)として正式に独立。竹下の総理就任後は経世会会長に就任した。
同年に初当選してから文字どおり二人三脚で歩んできた“金竹関係”だったが頂点を極めた頃から隙間風が吹くようになった。総理についた頃から竹下は独自の行動をとるようになり竹下が連絡を取らないことをなじった金丸に配慮してその後は度々極秘裏に金丸邸を訪れることになる。
1989年、消費税導入による不人気とリクルート事件が発覚し、竹下内閣は総辞職、竹下は謹慎し後継総裁には宇野宗佑が就いたが、話を聞かされていなかった金丸は福田赳夫後継に動いていたため面目を失った。最初に宇野ありきの状態だったことを自虐して自らを「雇われマダム」と評した。とはいえ宇野総裁は2ヶ月あまりで倒れると最大派閥の会長である金丸は「キングメーカー」として大きな力を持つようになる。宇野の退陣後ニューリーダーがリクルート事件の影響で出馬出来なくなったため野党とのパイプを持つ金丸自身も候補に上がるが竹下らの反発で潰され出馬に意欲的であった河本敏夫に電話し出馬を辞退させた。社会党のマドンナブームに関し「バーのマダム(長谷百合子議員の事。)が当選したようだが政治がわかるのか。国家国民のためにならない政治家が生まれるのは問題だ。」と発言した。1991年10月の自民党総裁選では派内の異論を押し切って宮澤喜一を支持した。
なお、金丸本人は渡辺美智雄支持に最後まで拘った。本来、金丸は大の宮澤嫌いであった。しかし、宮澤が当時の世論、財界の圧倒的な支持があったこと、経世会と宏池会との長年の蜜月から、今回がラストチャンスと宏池会が必死で推す宮澤を今度ばかりは支持せざるを得ないなどの理由から、渋々宮澤支持に転じた。派内の渡辺支持派は金丸が渡辺支持を断念したことにより、一気に派として宮澤支持に移行した。宮澤政権誕生の行賞で1992年1月、自由民主党副総裁に就任し、宮澤政権の支柱となった。
また、竹下派七奉行の中でも特に小沢一郎に目をかけ、1989年8月、竹下の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢重用は派内のベテラン議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金となった。
長く国会対策委員長をつとめて日本社会党議員と交流し、社会党との連携で党内対立を制する手法を身に付けた。1980年代末から、自民党と社会党を解体・再編成して政権交代する二大政党を作るという政界再編構想を抱くようになった。特に「足して二で割る。」という絶妙の妥協案は 金丸国対とまで評されるほど絶妙なものであった。
1990年、日本社会党の伝手を頼り田辺誠らと訪朝団を編成。団長として朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問する。(金丸訪朝団)
金丸と金日成主席が、日本語を用いて差しで対談を行う。しかしやり取りが文書として残っていないため、一体何を話したのかが謎となっている。この空白の数時間の間に取り決められたといわれる約束が、日朝の交渉においてしばしば「金丸さんが金日成主席と約束した」という形で北朝鮮側から持ち出されることがある。
このとき自民党の代表として国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党、社会党、朝鮮労働党の3党で交した。この約束は帰国後「土下座外交」と批判を浴びた。このとき1983年に北朝鮮兵士閔洪九の亡命事件に関連して北朝鮮にスパイとして拿捕され7年間服役していた「第十八富士山丸」の日本人紅粉勇船長と栗浦好雄機関長の2名の釈放・帰国についても合意し、こちらは実行された。
1992年1月、自民党副総裁に就任。 3月に足利市で演説中に銃撃を受けるが、弾丸は全て外れる。 3月25日 世界基督教統一神霊協会教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国。アメリカで脱税により1年以上の実刑判決を受けているため、これまで出入国管理及び難民認定法の規定で入国できなかったが、「北東アジアの平和を考える会」という国会議員の会合に出席する名目で法務大臣から上陸特別許可が下りた。法務省入国管理局が金丸から打診があったことを認めたため、金丸が法務省に対する政治的圧力をかけたのではとの疑惑を生んだ。同月31日金丸は都内のホテルで文鮮明と会談を持った。 Sunday世界日報 1992.4.51992年の埼玉県知事選挙では畑和の後継を巡り 公示直前で土屋義彦の支持を徹回し山口敏夫を担ぎ出そうとしたため反発を浴びた。また金丸は首都機能移転の推進論者であったといい 反対派の石原慎太郎は強く批判している。
失脚[編集]
1992年、東京佐川急便から5億円のヤミ献金が発覚(東京佐川急便事件)し、同年8月27日に党副総裁を辞任、事態の収拾を図った。しかし世論の反発が強く10月に衆議院議員を辞職。竹下派会長も辞任した。裁判で徹底的に戦う事を主張した小沢一郎に対し、梶山静六は略式起訴での決着を主張した。小沢戦略なら論理は一貫しているが長期的な体力が必要で党のイメージダウンも長く続くことになり、梶山戦略は短期で決着がつくように見えた。しかし、結果的に両者とも世論の動きを読みきれていなかった。信じられないことだが金丸本人は上申書を提出するまで弁護士を立てていなかった。後に担当することになる弁護士は金丸辞任会見をテレビで他人事のように見ていたと語っている。当初の対応を小沢、生原秘書、佐藤守良に任せた結果時効がかかっていた時期を見誤った。浜田幸一の著書によると、梶山が短期決着で入れ知恵をしたかのごとく記述されているが客観的ではない。結局、対応に小沢、梶山の二股をかけたことにより両者の対立は決定的なものになり、派閥は分裂へと進んでゆく。
東京地検特捜部は金丸に出頭要請をしたが、金丸はこの要請に応じずに政治資金規正法違反を認める上申書を提出するにとどまった[2]。結局、東京地検は金丸に事情聴取せずに1992年9月に政治資金規正法違反で略式起訴し、金丸は東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。逮捕もなく事情聴取すらしないというこの決着に、地検は国民から凄まじい批判を受け、検察庁の看板にペンキがかけられた。当時、札幌高等検察庁検事長だった佐藤道夫が『朝日新聞』に検察の対応を批判する読者投稿をし[3]、異例ともいえる身内の検察からも批判的な意見が公にでた。刑罰の軽さに批判が大きかったものの前科一犯が確定したため、叙勲を受ける資格を失った。
一方、東京国税局は、金丸信の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、当時の日本債券信用銀行(日債銀)のワリシン(割引金融債)の一部が申告されていない(日債銀内では、金丸を“蟷螂紳士”とコードネームで呼び、申告漏れに協力していた)という事実を突き止めた。1993年3月6日、東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。捜索の中、時価1千万円相当の金塊が発見された。”金丸が訪朝の際、金日成から受領した無刻印のもの”と風評されたが、実際には刻印のあるフォーナイン(金の純度が99.99%と言う意味)であったとされる(村山治『特捜検察VS金融権力』)このフォーナインは「麻原彰晃が上九一色村の本部に隠し持っていた金塊と、刻印番号が接近している」との噂もあった。 これが止めとなって同情論は消え、権威は地に堕ちた。金丸は、来るべき政界再編の軍資金であると述べたというが、真相は不明である。
逮捕後の自民党の会報などによると、党員の中では、金丸の蓄財動機は来たるべき新党結成の資金であるという概ねの共通了解が出来ていた。少なくとも、小沢一郎及び党大会などでは、金丸の行動が個人の私欲ではない事は共通の認識であった。
逮捕されて2年後あたりから金丸の体調は持病の糖尿病により悪化し、左目は白内障によりほぼ失明しながらも、本人は最後まで裁判を続けるつもりで月に1度から2度、裁判のために甲府市から東京地方裁判所へ通っていた。しかし、金丸のあまりの体調の悪化に心配する家族の申し出により1996年3月に裁判は停止し、その1週間後の28日に金丸は脳梗塞で死去した[4]。
死後[編集]
没後10年にあたる、2006年3月28日、「金丸信先生を偲ぶ会」が、金丸の後援会である「久親会」の元会員などを中心に設立された。
また、同年4月2日には、出身地の南アルプス市に、高さ約7メートル、幅約2メートルの「金丸信先生顕彰碑」が設置され、同日には、自由民主党国会議員を始め、県知事、県議、県内の市町村長など、360人が出席し、式典が行われた。
人物[編集]
- 地元山梨県の支持者からは「かねまるの信ちゃん」や「信ちゃん」と呼ばれていた。
- 番記者だった三反園訓によると、リニアモーターカーを「リビア」、パラボラアンテナを「バラバラ」と呼ぶなど、非常に独特な言い回しをする事があり、その言葉の意味を訊ねると「君も学がないね」と返したという。三反園はそれらの言い回しを「金丸語」としている[5]。
- 長年、自由民主党道路調査会の会長(建設族のドン)として、全国の道路整備に精通し、地元の「中部横断自動車道」の建設など、地元への利益誘導し自身も闇で財を成すという、古い型の政治家だった。とりわけ「中部横断道路」は、「山梨県には海がない。山梨県民は太平洋の海を見たい。」ということで力をいれており、中部横断道路の双葉ジャンクション~白根インターチェンジ間は「金丸道路」と旧「日本道路公団」内では言われていた。なお、白根インターチェンジは、金丸のお膝元である。[6]
- 金丸信の山梨県の自宅の前には、「信ちゃん道路」と言われる、片道2車線の道路があり、「地元への利益誘導と自身も財をなす」という例で、報道番組等でも放映されたことがある。[7]
- 運輸大臣時代の石原慎太郎の元を尋ね、金丸が「中央リニア新幹線の着工と甲府付近への駅設置」を求めた際、石原から「東京からそんな近く(甲府のことを指す)に作っても仕方がない」といわれた。
- 長男の康信は竹下登の長女を妻に迎え、テレビ山梨の代表取締役社長、エフエム富士の取締役を務めている。
- 大下英治は、日本で総理大臣になる事を断った人物として、金丸を挙げている(首相を断ったのは別に金丸に限ったことではなく、明治で西郷従道、大正で徳川家達、金丸の同時代でも坂田道太、伊東正義、後藤田正晴らがいる)。
- 金丸氏は武田氏の庶流(本家から分かれた家系)で、全盛期にはマスコミから武田信玄に譬えられ、「今信玄」と称えられた。
- 上記のトラックの荷台で演説するエピソードに加え、地縁血縁や無尽を巧みに取り込み、揺るぎなき組織戦術を行なうなど常に有利な選挙戦を行なっていた。のちにこの戦術は甲州選挙と言われるようになり、山梨県選出の国会議員や県知事などもこの戦術を行なうようになった。
- 1981年7月、義姉が山梨県職員の男に身代金目的で誘拐され、殺害された。
- 同郷出身で宗教学者の中沢新一が叔父で歴史学者の網野善彦との思い出を記した『僕の叔父さん 網野善彦』のなかに金丸信と彼が経営する醸造業に関する記述がある。
- 外交評論家の岡崎久彦は「捕まった時に秘書や側近に罪を着せようとしなかった」という理由で金丸を評価しているという。
- 新党大地代表の鈴木宗男は、代議士となった当初金丸を師と仰いだ(金丸の失脚後宗男は金丸側近だった野中広務を師と仰ぐようになる)。
- 漫画「美味しんぼ」には、金丸をモデルにしたとおぼしい「学生時代柔道三昧だった」角丸豊介が度々登場する。
略歴[編集]
経歴[編集]
- 1936年
- その後、山梨県立中学校教員となりつつ、実家の醸造業を継ぐ
- 1969年
- 株式会社テレビ山梨初代代表取締役会長に就任。
- 1978年
- 1990年
- 1992年
- 1993年
- 3月6日 脱税容疑で逮捕。
- 1996年
政歴[編集]
- 1958年
- 5月22日 第28回衆議院議員総選挙(山梨全県区・自由民主党公認)当選。
- 1971年
- 9月 党山梨県支部連合会会長就任。
- 1972年
- 1974年
- 1976年
- 12月 衆議院議院運営委員長就任。
- 1977年
- 1978年
- 12月 党国会対策委員長就任。
- 1983年
- 12月 党総務会長就任。
- 1984年
- 10月 党幹事長就任。
- 1985年
- 2月7日 勉強会「創政会」結成
- 1986年
- 1987年
- 1992年
政治語録[編集]
- 「保革連合勢力には主義も主張もない。水と油が一緒になっている。水と油で天ぷらが揚がるか。」(昭和42年1月30日)
- 「列島改造もさることながら、何よりも人づくりを先にやらなければならない。ぐうたら人間を育てていては列島改造も砂上の楼閣になる。」(昭和47年12月10日)
- 「一般消費税は悪税だと言わざるを得ない。富士山の五合目以下の人から徴税するのではなく、中間ベルト地帯を太くすることが今日の政治だ。」(昭和54年2月3日)
- 「このシャバは君たちの思うようなシャバではない。親分が右と言えば右、左と言えば左なのだ。親分が右と言うのにいやだというなら、この派閥を出て行くほかない。」(昭和57年10月22日)
- 「中曽根嫌いは日本一の金丸信だ。みんなの言っていることも分からんじゃあないが、いまさらどうするわけにもいかん。オヤジ(田中角栄)の声は天の声だ。オヤジも義理人情があるから中曽根といっているんだ。二度も中曽根を持ち出す気持ちもわからんわけじゃない。好き嫌いじゃない。義理人情も政治のうちだ。私はオヤジが中曽根でいく以上、中曽根でいく。嫌な人は田中派を出ていくしかない。」(昭和59年10月26日)
- 「民主主義の基本は妥協である」(『立ち技寝技 : 私の履歴書』より)
家族[編集]
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
- 妻:悦子
- 長男:康信(テレビ山梨社長、エフエム富士取締役、山梨県教育委員長)
- 次男:信吾(境川カントリー倶楽部社長)
- 信吾の妻は西松建設の元社長令嬢である。
脚注[編集]
- ↑ 『風成の人―宇都宮徳馬の歳月』 坂本龍彦、岩波書店、p168
- ↑ ジェラルド・カーティス著、野口やよい訳『永田町政治の興亡』新潮社、2001年、p.85。
- ↑ 『朝日新聞』2009年8月29日号。
- ↑ 金丸信吾「金丸信 政界のドン晩年の日々」『文藝春秋』2008年2月号、文藝春秋社。
- ↑ 三反園訓『ニュースステーション政治記者奮闘記』ダイヤモンド社、2003年、pp.76-82。
- ↑ 読売新聞、2002年11月12日
- ↑ 2004年11月23日、テレビ朝日ニュースステーション
参考文献[編集]
著書[編集]
- 『わが体験的防衛論 : 思いやりの日米安保新時代』エール出版社、1979年7月、
- 『人は城・人は石垣・人は堀 : ありのままの政界25年』エール出版社、1983年4月
- 『行き過ぎれば刺し違える : 金丸信語録 27年間の足あと』(末木幸一郎編)、ユニバース出版社、1985年3月
- 『立ち技寝技 : 私の履歴書』日本経済新聞社、1988年8月、ISBN 4532094666
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
官職 | ||
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先代: | 国務大臣(副総理) 1986年 - 1987年
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次代: |
先代: | 防衛庁長官 第35代:1977年 - 1978年
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次代: |
先代: | 国土庁長官 第3代:1974年 - 1976年
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次代: |
先代: | 建設大臣 第34代:1972年 - 1973年
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次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党副総裁 1992年
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次代: |
先代: | 自由民主党幹事長 第22代 : 1984年 - 1986年
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次代: |
先代: | 自由民主党総務会長 第27代 : 1983年 - 1984年
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次代: |
先代: | 自由民主党国会対策委員長 第16代 : 1971年 - 1972年
第28代 : 1978年 - 1980年 |
次代: |
先代: | 経世会会長 第2代 : 1987年 - 1992年
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次代: |