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合同会社西友(せいゆう、英称:Seiyu GK.)は、世界最大の小売チェーン、ウォルマートの日本における子会社。 ウォルマートグループ入りした後は24時間営業をする店が多くなった(一部フロアのみ24時間営業の場合もある)。 東京都を拠点としてスーパーマーケットチェーン、ゼネラルマーチャンダイズストア (GMS) などを運営している。
2009年(平成21年)に2008年(平成20年)12月期を官報に掲載したが[1]、以降は売上高などを開示していない[2]。
目次
来歴[編集]
セゾングループ時代[編集]
西武ストアーの展開[編集]
旧西武グループ・西武百貨店が1956年(昭和31年)2月に資本金500万円で西武ストアーを設立して支店よりも小型の店舗を分店を出店したのが始まりである[3]。
同年6月に出店した静岡駅西口の真向いに開設された静岡ホテルの一角に静岡店を開設したほか、1957年(昭和32年)2月には平市字田町(現・いわき市平字田町)に平店を西武ストアーとして開設するなど10店舗を展開したが、セルフサービス方式の導入やチェーンストアオペレーションは確立されておらず、実質的には対面販売の百貨店方式の小型店舗が多店舗展開されていただけであった[3]。
西友ストアーの発足[編集]
1963年(昭和38年)4月1日にいったん西興ストアーと改称した後、同年4月19日に再び改称して資本金2000万円で株式会社西友ストアーが発足し、西武百貨店から土浦店やひばりヶ丘店などの10店の分店を継承してスーパーマーケットチェーン事業を行うことになった[3]。
この西友ストアーの発足に当たっては、本部を中野区江古田の「西武百貨店配送センター」の2階に本部を開設すると共に、西友ストアーに従事する社員は全員西武百貨店から転籍して西友ストアーの業務に専念する体制を採り、本格的な事業展開を図ることになった[4]。
また、本部内に商品部を置いて集中仕入れを行うなどチェーンストアとしての組織整備を進めると共に、食品と非食品をほぼ50%ずつという商品構成とするなど経営方針の明確化も図った[3]。
西友ストアー設立と並行して1963年(昭和38年)5月には伊藤忠商事と合弁で西武百貨店が60%を出資して「株式会社マイマート」を設立し、出店エリアについて協定を結んでマイマートが東急グループの地盤である中央線沿線に出店して西友ストアーと住み分けながら、共にスーパーマーケットのチェーン展開をして行くことになった[3]。
このマイマートは食品スーパーを目指して展開されたため、各店舗の規模は売り場面積約400坪から500坪程度で展開されていた[3]。
西友ストアーが設立されたころにはちょうど西武鉄道が駅舎改築を進めていた時期に重なったうえ、堤康次郎の指示により同社の全面的な支援が受けて西友ストアーは設立から1966年(昭和41年)までの間は西武線沿線への出店を進める形となった[3]。
西友ストアーは衣料品なども扱う大型の総合スーパー形態の店舗も運営して1968年(昭和43年)12月に累積欠損を一掃して黒字転換を果たすと共に、対前年比で約54%増とマイマートの約27%の約2倍の伸び率を示すなど業績面で優位に立ったことから、マイマート側でも総合スーパーへの路線転換が意識されるようになり、1969年(昭和44年)3月にマイマートを吸収合併して西友ストアーに一本化されることになった[3]。
1969年(昭和44年)に東京都府中市に[5]西友流通センターを開設して全商品を単品管理して店舗などにおける在庫削減を目指すなど早くから在庫や物流を含めた組織化・合理化を進めて行った[3]。
地方への進出と提携[編集]
西武百貨店が北陸地方の地場百貨店大和と提携していたため[3]、同社の紹介で金沢の呉服太物商から始まった地場資本の衣料スーパー[3]いとはん(後の北陸ジャスコ)と1970年(昭和45年)11月に提携し[6][7]、1970年(昭和45年)12月に小松駅前に竣工した尚成ビルに小松店を開店して北陸へ進出することになった[8]。
1971年(昭和46年)3月には西友ストアー関西がコマストアーを吸収合併し[9]、同年10月には西友ストアーが60%で魚力40%を出資して資本金1000万円で株式会社西友ストアー長野(後のエス・エス・ブイ)を設立する[3]など、関西や長野へも地場資本のスーパーと提携・合併する形で進出を図った。
しかし、西友ストアーが富山店を大和富山店のすぐ近くに出店したことがきっかけとなって1976年(昭和51年)8月に提携が解消となるなど北陸地区での展開は順調にはいかなかった[3]。
また、1973年(昭和48年)12月に清水店、1974年(昭和49年)6月に大分西友、1975年(昭和50年)4月に中込西友甲府店、同年6月に前橋店、同年9月に郡山店と相次いで地方百貨店型の店舗を出店して地方進出を図り、全国展開を目指した[10]。
なかでも、1977年(昭和52年)6月に開店した「西武春日井ショッピングセンター」は開業後の数年間連続して対前年比で二桁の売上増を記録するなど大きな成功を収めた[3]。
オリジナル商品の開発と質販店[編集]
1971年(昭和46年)に西友ラインとして独自商品の開発を開始し、1980年(昭和55年)12月5日から「無印良品」の第一弾として37品目を発売するなど独自商品の開発を進めた[10]。
1981年(昭和56年)に「故郷銘品」、1983年(昭和58年)に「主婦の目商品」、1984年(昭和59年)に「食の幸」など幅広い分野で独自商品の開発を進めた[10]。
1970年代末頃からは成熟した消費者を前提とした考え方に則って品質の高い商品の提供を行うことを目指した「質販店」を提唱し、百貨店感覚の洒落た商品を含めて提供することで単なる大量販売を行う量販店とは異なる店舗を目指した[10]。
関連事業の育成[編集]
1973年(昭和48年)9月にコンビニエンスストアのファミリーマート実験第1号店入曽店を埼玉県狭山市に開店し、1978年(昭和53年)3月にファミリーマート事業部を発足させ、1981年(昭和56年)9月にファミリーマートへ同事業を譲渡して独立させ、コンビニエンスストア大手の一つに成長させた[11]。
1975年(昭和50年)に惣菜事業に参入し[12]、1986年(昭和61年)に資本金2億円で惣菜製造の若菜を設立して独立させた[10]。
1980年(昭和55年)12月5日に発売したプライベートブランドの無印良品も[10]1989年(平成元年)に100%出資子会社の「良品計画」を設立して1990年(平成2年)には無印良品の営業権を同社へ譲渡して小売事業として独立させる[13]など関連事業の育成・展開も進められた。
セゾングループの中核企業[編集]
1960年代に創業者である堤康次郎の死去により西武鉄道グループから分裂し、堤清二率いるセゾングループの中核企業として規模拡大を押し進めた。
バブル期の1988年(昭和63年)9月30日にはインターコンチネンタルホテルズを買収して子会社化する[14]などグループの規模拡大の中核を担った。
バブル崩壊後の不良債権処理と事業売却[編集]
しかし、バブル崩壊後に傘下のノンバンク「東京シティファイナンス」が多額の不良債権を抱えたことにより、ピーク時には約1兆2000億円の連結有利子負債を抱えるなど危機的状況に陥ることになった[15]。
そのため、当時90社あった関連企業を不採算企業の整理などで25社まで減らすこととなり、1998年(平成10年)上期にまず錦糸町西武やウェルセーブなど関係会社9社を清算することになった[16]。
この「東京シティファイナンス」の不良債権処理の際には同社自身が約1300億円、金融機関による債権放棄約2000億円のほか、西友が約2800億円を負担することになった[17]。
そのため、1998年(平成10年)に西友からスピンオフしていたファミリーマート・良品計画や[18]、インターコンチネンタルホテルグループ[19]などの保有株式の大半を売却することになった。
この際のインターコンチネンタルホテル売却では1億2200万ドルの売却益を計上しており、他の売却案件と同じくその収益は関係会社の整理損失のカバーに当てられている[20]。
この「東京シティファイナンス」の不良債権処理は、西洋環境開発と併せてセゾングループ解体の引き金となった。
住友商事と業務・資本提携と食品スーパーの大量出店[編集]
本業の総合小売事業でも赤字店舗の大量閉鎖や百貨店業態店舗を総合スーパーのリヴィンへ業態転換して外商部門の廃止を行うなど規模の縮小も含めた事業再編を進め[21]、2000年(平成12年)2月期に東京シティファイナンスを含む約1200億円の特別損失を計上して3期連続の赤字となる[22]など業績・財務の悪化が続くことになった。
こうした業績と財務の悪化に対応するため1999年(平成11年)度から資金回収が早い食品スーパーの出店に乗り出し[23]、1999年(平成11年)度に7店[23]、2000年(平成12年)度上期に10店[23]、下期に25店と出店を加速させた[24]。
こうしたスーパーマーケット事業への注力と資本強化の両面から、2000年(平成12年)4月に住友商事と業務・資本提携し[25]、同社が持株比率11.83%の筆頭株主となった[26]。
住友商事は既にSMを展開するサミット[27]も運営しており、西友も含めて首都圏のスーパーマーケット戦略を進める構想であった[25]。
その構想の一環として、同年8月31日にはエス・エス・ブイの株式を5%取得して子会社化し、翌日9月1日に九州8店を分社化して九州西友を設立するなど事業の再編を進めた[28]。
2000年(平成12年)5月1日には「ネットスーパー」を開業して順調に立ち上げ[29]、大手スーパーの中では同事業で先行することになった[30]。
また、既存の店舗網を維持しながら出店速度を上げるため、2000年(平成12年)9月26日に9店舗の証券化によって320億円の資金を調達することを決める[31]など、店舗の証券化による資金調達でも大手スーパーとしては先行する形となった。
2001年(平成13年)3月1日には[32]道内11店舗を分社化して北海道西友を設立し[33]、地域毎の分社化・分権化による地域特性に対応した営業体制の構築を目指した[32]。
自社物流にこだわってきた方針を転換してメーカーや卸による物流を導入し[34]、2000年(平成12年)10月20日に「伊藤忠食品座間加工食品センター」を稼働させて委託を開始したのを皮切りに[35]2001年(平成13年)1月29日に菱食へ委託したほか[36]、国分へも委託を進め[37]、同年12月に府中物流センターを子会社に譲渡して閉鎖する[38]など物流体制の再編も並行して行われた。
2001年(平成13年)8月28日には福岡の百貨店岩田屋が保有する地場スーパーサニーの株式を買収して傘下に入れることを発表する[39]、九州西友と合わせて九州地区の売り上げ拡大を図るなど食品スーパーを中心とした店舗網の拡大を図った。
しかし、2001年(平成13年)度下期に約30店舗の大量出店に踏み切った新店が伸び悩んだことで2002年(平成14年)2月期中間決算は現収で2桁減益となるなどこの食品スーパーの大量出店策は裏目に出る結果となった[40]。
また、大型店の出店は総合スーパーではなく、新生活百貨店の「リヴィン」と大型ショッピングセンターの「ザ・モール」を柱としていたが業績が伸び悩んだため、2002年(平成14年)3月に出店した「ザ・モールみずほ16」を最後に大型店の出店凍結を打ち出すことになった[41]。
ウォルマート系列入り後[編集]
ウォルマートのとの提携[編集]
2002年(平成14年)3月14日に住友商事が仲介して世界最大のスーパーマーケットチェーンであるアメリカ合衆国の「ウォルマート・ストアーズ」と包括的業務・資本提携をすると発表し、その傘下に入ることになった[42]。
この提携は2002年(平成14年)5月に実施する第3者割当増資で株式の約6.1%を取得することから始まり、2007年(平成19年)末までに66.7%までの株式取得権を取り決めていた[42]。
これを受けて2002年(平成14年)4月10日から本社内に共同作業チームを発足させてウォルマートとの提携による新たな経営計画の策定に入り[43]、2003年(平成15年)3月にウォルマート・ストアーズから非常勤取締役5人を受け入れることになった[44]。
2002年(平成14年)12月から[45]ウォルマート流のEDLP(エブリディ・ロープライス)と呼ばれる「恒常的な低価格化」の販促企画「ロールバック」を導入したものの[46]、競合他社への影響を含めて販売価格が低下することへの警戒から多くのメーカーや卸などの取引先が参加に及び腰となり、当初はこの「ロールバック」に協力した取引先からも協力を撤回するところが現れるなど開始早々からこの販促企画は迷走する形となった[45]。
また、ウォルマートとの提携後の初の決算となった2003年(平成15年)2月期には西武百貨店株の評価損約355億円を特別損失として計上したほか[47]東京シティファイナンス関連の損失引当などもあったため[48]、1200億円以上の最終損失という大幅な赤字決算となった[48]。
ウォルマートのノウハウやシステムの導入[編集]
ウォルマートのノウハウを導入するための組織改革として経営監督と業務執行の機能を分ける米国型の企業統治体制である「委員会等設置会社」への移行も2003年(平成15年)5月29日に行われることになった[49]。
作業を省力化する什器や大量単品陳列などのウォルマートのノウハウを導入による低コスト運営を目指した店舗の改装なども行った[50]。
ところが、EDLP(毎日低価格)の方針に則ってチラシ特売など販促を削減したことで相対的に価格競争力が低下したことなどが影響して2003年(平成15年)12月期中間期が経常赤字に転落するなど業績の悪化がした[51]ため、デフレ対応の一環として「均一セール」の実施に踏み切るなどEDLP(毎日低価格)に逆行する営業戦略も実施された[52]。
しかし、こうした業績の悪化要因はウォルマート方式に切り換えたのは組織と一部店舗の什器など一部に過ぎないことの見方もあり[53]、2003年(平成15年)10月14日には販売管理費率を20%未満に抑える低コスト構造をウォルマートのノウハウを導入により実現することでEDLP(毎日低価格)の実現を目指す新たな経営再建策「5カ年アクションプラン」を発表してウォルマート流による再建を目指すことになった[54]。
2003年(平成15年)12月期決算は経費節減で予想よりも赤字幅は縮小したものの最終赤字に転落し[55]、2004年(平成16年)1月16日にはグループ3社正社員約6,200人のうち約1,600人の早期退職制度(非正規雇用で継続または退職)による人員削減を行うことを発表し[56]、予定通り約1,600人の応募があり[57]、経費節減による再建を目指すことになった。
また、2004年(平成16年)度に店頭商品を単品管理する店舗情報管理システム「スマートシステム」を直営全店に配備すると共に取引先も参加する商品情報管理システム「リテールリンク」を導入するなどウォルマートの商品管理システムの導入が進められることになった[58]。
こうしたシステム化の一環として惣菜や刺身など店内加工商品の生産計画システムを構築して各店舗に導入することも行われたが、ウォルマートが生鮮食料品の管理ノウハウを持たないため、西友の生鮮食料品に関するノウハウを活用してシステム化を図る形となった[59]。
こうしたウォルマート流の中間流通機能を内部化する動きに対しては自社の方針と相いれないとして2004年(平成16年)5月に大手食品卸会社の菱食が取引を終了する[60] など卸売業者が活躍する日本の流通市場との軋轢を生むことにもなった。
2004年(平成16年)4月7日にウォルマートの主力業態であるスーパーセンター第1号店として沼津店を開店するなど業態面でもウォルマート方式の導入を図った[61] 。
ところが、ウォルマートの情報システム導入と希望退職による人員削減を並行して行ったことが裏目に出て店舗の運営に支障が出るなどして2004年(平成16年)12月期中間決算で売上が目標を下回るなど経営の混乱が続くことになった[62] 。
それでも予定通り2004年(平成16年)下期までに店舗情報管理システム「スマートシステム」と基幹商品情報管理システム「リテールリンク」というウォルマートのシステムを全店に導入すると共に、2005年(平成17年)度から加工食品・日用雑貨部門で商品の自動発注を開始するなどウォルマート流のシステム化による業務改革が進められることになった[63] 。
そして、2005年(平成17年)12月期にウォルマートの自動補充システムを首都圏を中心に百数十店に導入することになった[64]。
ただし、長期販促企画の名称をウォルマート流「ロールバック」に一本化するものの、特売が主流の日本市場の実情に合わせて原則3ヵ月間以上の長期特売に性格付けを変えて日本流中間的な低価格戦略とすることで徐々にEDLP(毎日低価格)へ移行する戦略に軌道修正を図った[65]。
また、加工食品や飲料などのプライベートブランドであるグレートバリューやファミリーカジュアル衣料品のシンプリーベーシック等のウォルマートのプライベートブランドも2004年(平成16年)より導入されたが、容量・味などが日本の市場に合わないケースもあり、必ずしも順調な導入とはならなかった[66]。
システムだけでなく、ウォルマート流の低コスト運営には自社物流が欠かせないとして再度自社物流へ転換するため、食料品から衣料品や住居用品をフルラインで扱う[67]常温・冷蔵・冷凍の全温度帯全品目に対応した自社用の広域流通センターである「西友三郷物流センター」を[68]埼玉県三郷市に開設することで[67]首都圏9ヵ所の物流拠点を2ヵ所に集約することを目指した[68]。
グループの再編[編集]
ウォルマート流のEDLP(エブリディ・ロープライス=毎日低価格)の確立を早期に行うためにも一体的な運営が必要だとして2003年(平成15年)7月1日付でエス・エス・ブイを株式交換により完全子会社化し[69]、2004年(平成16年)4月1日から系列のスーパーを含めた地域毎の一体的な店舗運営の共同運営を始めるなどグループの再編も進められた[70]。
その一方では、再建策の一環として2003年(平成15年)9月30日にリウボウインダストリーやリウボウストアーの株式を全て売却して資本提携を解消して沖縄から撤退するなど関連事業の整理も一段と進められることになった[71]。
その一方では、伊藤忠商事が保有していた全株を2004年(平成16年)3月26日に取得して出資比率を約88.8%に引き上げ[72]、同年6月1日には株式交換方式によりヤマエ久野などグループ以外が保有する株式を取得して完全子会社化した[73]。
こうしてグループのスーパー全社を完全子会社として経営統合を一段と進め[73]、2005年(平成17年)9月1日付で系列スーパー5社の社長を営業統括部長が兼務して経営を事実上一本化した[74]。
その他にも、2004年(平成16年)4月1日からグループ5社も含めた全国約400店舗を6地域に再編して共同運営するのを皮切りに運営の一体化を進め、商品調達や販促活動なども段階的に一体化を進めてスケールメリットを活かした経営効率化を図ることになった[70]。
ウォルマートの子会社へ[編集]
2005年(平成17年)12月21日に行われた増資引き受けでウォルマートの出資比率は過半数を超え、同社の子会社となった[75]。
こうしたウォルマートの支援にもかかわらず、2005年(平成17年)12月期連結決算は減収となり赤字幅も拡大と低迷が続くことになった[76]。
このため、2006年(平成18年)12月期に食品スーパー業態を中心に既存店の改装を大幅に増やして客数増による売上げ拡大を目指し[77]、73店で実施した改装の効果で既存店の売上げが15年ぶりに前年を上回って営業増益となった[78]。
しかし、その後も業績回復が進まなかったことから2007年(平成19年)10月8日からグループ会社を含め450人規模の早期退職者を募集する2度目の大規模な人員削減に踏み切る[79]と共に、同月23日から12月4日までTOBを行って[80]2008年(平成20年)4月19日に完全子会社化されることになった[81]。 (直接の株式保有は、ウォルマート・ストアーズの孫会社で資産管理会社であるオランダの「ワイオミング ホールディング ジーエムビーエイチ(Wyoming Holding GmbH)」)
2008年(平成20年)7月1日に完全子会社となっていたサニー、エス・エス・ブイ、九州西友、北海道西友、東北西友の5社を吸収合併して、グループのスーパー事業は完全に一体化し[82]。同年9月29日には3度目となる約350人の正社員の早期退職者募集と約20店の閉鎖という新たなリストラ策を発表する[83]など経営合理化を相次いで打ち出された。
ウォルマートの完全子会社となった後の最初の決算となった2008年(平成20年)12月期は売上高8009億7500万円で営業利益1億5600万円を上げたものの、経常損失47億6400万円で純損失257億9300万円という大幅な赤字が継続し、純資産が101億円まで減少する結果となった[1]。
2009年(平成21年)3月1日には日本事業を統括する中間持株会社「ウォルマート・ジャパン・ホールディングス合同会社」の完全子会社へ移行し[84]、同年9月1日付で合同会社に改組することになった[85]。
低価格戦略の徹底[編集]
2008年(平成20年)12月から生鮮食品を除く全食品をEDLP(毎日低価格)戦略とすると共に[86]、より安い価格の他店のチラシ広告を持参した顧客にその価格で販売する「地域でいちばん安いお店をめざします」という戦略をのチラシで銘打つなど低価格戦略の強化を図った[87]。
さらに2009年(平成21年)1月23日から住居用品1400品目を値下げしたほか[88]。同年2月から米国産豚肉全品を値下げするなど生鮮食料品を含めてウォルマートの国際調達網を活用して低価格戦略を一段と推し進めることになった[89]。
こうした低価格戦略で来店客数と既存店売上高が前年比でプラスに転じたことから、2009年(平成21年)4月中旬までに非生鮮食料品をEDLP(毎日低価格)に移行するなどよりウォルマート色の強い戦略が展開されることになった[90]。
また、惣菜についても2008年(平成20年)12月から68円のおにぎり[91]、2009年(平成21年)4月6日から298円の弁当[92]、同年5月18日から49円のコロッケを発売するなどEDLP(毎日低価格)化が進められていった[93]。
こうしたEDLP(毎日低価格)戦略に伴い、2010年(平成22年)には冷凍食品の割引表示による安値訴求を廃止し、実売価格による表示のみへ移行させた[94]。
また、生鮮食料品についてもウォルマートの国際調達網を活用した米国産を中心にEDLP(毎日低価格)戦略を展開している[95]。
こうしたウォルマートの国際調達網活用を一段と進めるため、2013年(平成25年)1月から欧州の加工食品の直輸入を開始することになった[96]。
そして、2010年(平成22年)7月以降、東京都北区赤羽に所在する本社に「ウォルマート」のロゴを掲げ始め、「ウォルマート」のカード発行、「Walmart」と書かれたエコバッグの販売、「○○(「野菜」「果物」など)が安い!その理由は『Walmart』」のポスター表示など、徐々に「ウォルマート」の表示を出し始めている。時期は未定だが、近い将来、「西友」(「サニー」)ブランド自体も変え、「新しい屋号=ウォルマート」を使用するつもりでいるとされている[97]。
さらに、山手線周辺の高級住宅街での市場獲得を目指して展開していた高級スーパー「フードマガジン」も残っていた六本木ヒルズ店を2011年(平成23年)8月に閉店し、低価格戦略への特化を進めることになった[98]。
セゾン/西武グループとの関係[編集]
1956年に設立された西武百貨店の一部門である西武ストアーを前身とするが、ウォルマートの完全子会社化により西武鉄道グループ・西武百貨店(旧セゾングループ)との資本関係はなくなっている。しかし実質的なハウスカードはクレディセゾンのセゾンカードであり、また東京都・埼玉県西部を中心に西武鉄道からの建物賃貸を受けて運営する店舗が多数存在するなど、緩やかな提携関係は続いている。また、埼玉西武ライオンズのゲームスポンサーとして活動を継続しているが、優勝セールは2004年(平成16年)を最後に行われなくなり、2008年(平成20年)に優勝した際はそごう・西武(旧・ミレニアムリテイリング)・ロフトの親会社であるセブン&アイ・ホールディングス傘下のイトーヨーカ堂で行われるようになった。2009年(平成21年)には僅かに所有していたシェルガーデン株を全てそごう・西武へ売却した。
なお、全てのセゾンカード(セゾンUCカードは除く)を対象に、月間2 - 4日程度「セゾンカード感謝デー」と称した優待日を設定しており、金券や書籍類、酒類、タバコなどを除いた全ての商品がレジ精算金額(セール価格含む)よりさらに明細書上で5%割引で請求される。一部の店舗にはセゾンカウンターが設置されている。
2010年(平成22年)10月1日から西友での決済で常時1%割引(永久不滅ポイントは付かない。なお、セゾンカード感謝デーはそちらの優待のみとなる)になるセゾンとの提携クレジットカード「ウォルマートカード」を導入した[99]。
沿革[編集]
- 1956年(昭和31年)2月 - 西武百貨店が資本金500万円で西武ストアーを設立。
- 1958年(昭和33年)10月1日 - 西武ストアー1号店土浦店開店[100]
- 1963年(昭和38年)4月19日 - 資本金2000万円で株式会社西友ストアーとして発足[4]。「西武の友」が由来。
- 1970年(昭和45年)11月 - 「いとはん」(後の北陸ジャスコ)と提携[6][7]。
- 1971年(昭和46年)
- 1972年(昭和47年) - 西友ス卜ア北陸を設立[7]。
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年)4月 - 中込百貨店(甲府)と提携[9]。
- 1975年(昭和50年) - 惣菜事業に参入[12]。
- 1978年(昭和53年)3月 - ファミリーマート事業部を発足[11]。
- 1980年(昭和55年) - オリジナルブランドの「無印良品」を開発。後、「西武」の名を被せた新生活百貨店「LIVIN」や、モダンリビングのトレンドを先取りした「DAIK(ダイク)」なども展開することになる。
- 1981年(昭和56年)9月1日 - ファミリーマート事業を株式会社ファミリーマートへ譲渡[10]。
- 1983年(昭和58年)6月 - 社名を株式会社西友に変更。「無印良品青山」を開店。同時期にロゴマークも、現在のものに変更(デザイン:松永真)。
- 1986年(昭和61年) - 資本金2億円で惣菜製造の若菜を設立[10]。
- 1988年(昭和63年)
- 1990年(平成2年) - 無印良品の営業権を良品計画へ譲渡[13]。
- 1991年(平成3年) - 仙台市の「エンドーチェーン」(後の東北西友)と業務提携。
- 1992年(平成4年)8月 - 「川越食品流通センター」が完成[5]。
- 1995年(平成7年)
- 1998年(平成10年)
- 2000年(平成12年)
- 2001年(平成13年)
- 3月1日[32] - 北海道内11店舗を分社化し、北海道西友を設立[33]。
- 3月1日 - 西友フーズの事業を本体に統合[108]。
- 3月31日 - ムジ・ホンコン(株)を設立[109]。
- 6月1日 - エンドーチェーンを東北西友に社名変更[110]。
- 7月23日 - マーサ・スチュワート・リビング・オムニメディアと商品開発・出版事業について提携[111]。
- 8月21日 - エス・エス・コミュニケーションズの株式の80%を角川書店(現角川グループホールディングス)に譲渡[112]。
- 8月28日 - 福岡の百貨店岩田屋が保有する地場スーパーサニーの株式を買収して傘下に入れることを発表[39]。
- 9月12日 - 金融子会社トーキョー・シティ・ファイナンス・アジアを解散[113]。
- 2002年(平成14年)
- 2003年(平成15年)
- 2004年(平成16年)
- 2005年(平成17年)
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)10月1日 - ウォルマートを冠したクレジットカードの発行を開始[99]。
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)
- 7月1日 - 全店で一斉にレジ袋を有料化し、それとともにマイバッグ持参による値引きを廃止[123]。
- 12月7日 - 新プライベートブランド「みなさまのお墨付き」および「きほんのき」発売開始[124]。
- 2013年(平成25年)
運営形態[編集]
過去に展開していた店舗[編集]
- DAIK - 都市型ホームセンター・生活雑貨店[130]。リヴィンや一部の西友店舗にも存在した。2014年現在は、リヴィン店舗は「住まいと暮らし館」などといった直営売り場、深沢店は西友名義のホームセンター店舗として存在。
- 西武店 - 西武百貨店の名称・意匠を借りた百貨店型店舗(百貨店事業部→SEIBU事業部運営)。西武百貨店との間で一部店舗の持ち替えを経た後、当該店舗はリヴィンに転換。
- SEIYO - 仙台店のみ。「西武店」と同じ事業部運営店舗だった。
- 無印良品 - 1980年にプライベートブランド (PB) 商品として誕生。無印良品事業部運営のあと、本社から「良品計画」として分離・独立。
- ファミリーマート
- フードプラス - 現在の新座店などに存在した。
- フードマガジン - 2001年(平成13年)11月28日に六本木店を皮切りに出店していた都市型スーパーマーケット[131]。2002年(平成14年)10月に既存店を業態転換した浜田山店[132]も存在したが、後に浜田山は西友に再転換、六本木ヒルズ店は2011年(平成23年)8月に閉店して当事業から撤退した[98]。
- デイリーフーズICHI
システム[編集]
POSレジは、IBM製を使用。ウォルマート傘下になる以前は「BCPOS」シリーズを採用していたが、2003年後半頃よりウォルマート仕様の機種に変わった。食品レジは同じ端末でL字型固定スキャナを備えた機種を採用している。
この機種は日本のコンビニエンスストアをはじめとする各種小売店で導入されている大型ディスプレイを備えた機種とは逆行し、操作画面は漢字対応ポケットベルのような2行の電光表示のみで、セール品などの値引き操作を行うにも煩雑なコマンドをキーボードに打ち込まなければならないことや、食品レジではPOSレジとチェッカーユニットが一体のため、混雑時に使う2人制に対応しておらず、レジ待ちの原因の一つとされている。2011年頃より、一部店舗ではタッチパネル対応の端末を導入している。
- 店舗・商品に関わるシステムもウォルマートより導入している。
これらにより店長の裁量で近隣の競合店と同等の価格へ引き下げることが不可能となり、その問い合わせを店舗の責任者へ行っても「本社で管理している」旨しか回答できなくなっていた。上場廃止以前の株主総会で幾度も質疑応答されていたが、2008年秋に後述の「KY」施策により、チラシ掲載価格への値引き(都度の価格変更)が行われるようになった。ただし、チラシ掲載品以外の他店で安く売られている商品に対しての値引きは行われていない。
プライベートブランド[編集]
プライベートブランドは、ウォルマート傘下になってから、「西友ファインセレクト」からウォルマートと同じ「Great Value」(グレートバリュー)へ切り替えられた。さらに、ウォルマートの既発製品の導入(本場の「Great Value」「George」商品や、低価格な中国製トイレットペーパー・腕時計・ポータブルCDプレーヤー)の販売など、ユニークな試みも見られる。しかし、2012年(平成24年)には、新しいプライベートブランドとして「みなさまのお墨付き」と「きほんのき」を開発し、「グレートバリュー」については、直輸入品などの一部を除き、順次取り扱いを終了することとなった。この切り替えの背景には、プライベートブランドを取り巻く市場環境の変化と、その市場の中での「グレートバリュー」のブランド力が弱いことがあった[133]。
- みなさまのお墨付き - 2012年(平成24年)12月7日から発売した品質を重視した西友独自のプライベートブランド[134]。ウォルマート傘下のスーパーマーケット、アズダの手法を参考に、第三者機関が実施した調査において70%以上の評価を得たもののみを商品化。
- きほんのき - 調味料など価格が最重視される商品カテゴリーに限定して展開されているブランド。みなさまのお墨付きに比べて、さらに価格対応力を強化している。
- グレートバリュー - 2004年(平成16年)より導入された加工食品や飲料などのウォルマートのプライベートブランド[66]。ウォルマート基準によるものだが、食品を中心にファインセレクトからの移行による西友オリジナル品(チーズ類など)も存在。
- シンプリーベーシック - 2004年(平成16年)より導入されたファミリーカジュアル衣料品のウォルマートのプライベートブランド[66]。
- G - 2004年(平成16年)より導入されたヨーロピアンカジュアル衣料品のウォルマートプのライベートブランド[66]。
- メアリー&ケイト - 2004年(平成16年)より導入されたティーンズ向けアメリカンカジュアル衣料品のウォルマートのプライベートブランド[66]。
- キッドコレクション - 2004年(平成16年)より導入された玩具のウォルマートのプライベートブランド[66]。
- エクストラスペシャルワイン - 2008年(平成20年)末より導入されたウォルマートグループの英国アズダのプライベートブランドワイン[135]。
George[編集]
George (ジョージ)は、ウォルマートがグローバルに手がける衣料品ブランドであり、西友ではプライベートブランドして2005年頃より投入した。
元々はイギリスの大手スーパーのASDA(アズダ)のプライベートブランド (PB) 商品として1990年に生まれ、イギリス国内では価格も安い上にデザイン性に優れたブランドとして一定の地位を持っていた。ASDAは1999年にウォルマートに買収され子会社となったが、既にブランド力を持っていたGeorgeについては買収後イギリス以外のウォルマートグループでも販売を始め、世界的に展開する衣料ブランドとして確立するに至った。
H&M、ユニクロのようなファストファッション(製造型小売業)専門店がさまざまな工夫で消費者の支持を確立させていったのに比較すると、あくまでGeorgeはウォルマート系列店のみで扱うブランドという極めて内向きの戦略であり、内に篭った情報発信しかしないことから日本での知名度は今ひとつとなっている。
当初、イトーヨーカ堂などの他スーパーでの衣料品と比較して、イギリス好みの地味なデザインでかつ同程度の売価であったこと、情報発信もほとんどないため日本国外ですでに確立されたブランド力すらまったく発揮できず、「安かろう悪かろう」のイメージが定着し、衣料品の売上げが2007年度決算まで年々逓減する事態に陥っていた。
2008年には7,900円のスーツを発売。一定の品質に対するコストパフォーマンスが受け容れられ、『日経トレンディ』等にも低価格スーツの一つとして取り上げられる。カジュアル衣料にも力を入れはじめ、翌2009年から展開された「西友ファッションプロジェクト」への布石を作り出す形となった。
細身のシルエットが特徴であり、当初はなかったが現在は「SLIM FIT」というタグが付けられている。
過去に展開していたプライベートブランド[編集]
- 西友ライン - 1971年(昭和46年)に発売された初のプライベートブランド[10]。
- 無印良品 - 「わけあって、安い。」をキャッチフレーズに[136]1980年(昭和55年)12月5日に発売されたプライベートブランド[10]。
- 故郷銘品1 - 1981年(昭和56年)に発売されたプライベートブランド[10]。
- 主婦の目商品 - 1983年(昭和58年)に発売されたプライベートブランド[10]。
- 食の幸 - 1984年(昭和59年)に発売された[10]生鮮食品のプライベートブランドで生産から販売までの一貫管理体制構築や明確な栽培・飼育管理による安心で美味しく手ごろな価格のを目指していた[137] 。
- エスリボン - 食料品・日用雑貨のプライベートブランドで2000年(平成12年)3月に廃止され、西友ファインセレクトへ置き換えられた[106]。
- 西友ファインセレクト - 2000年(平成12年)3月に発売された米アソシエイツ社と共同開発した[106]食料品・日用雑貨のプライベートブランド[107]。2004年(平成16年)11月現在で約500品目あった[138]。
KY戦略[編集]
2008年(平成20年)11月より、「KY(カカクヤスク)で行こう!」と称したキャンペーンの展開を開始した。従来からのEDLPに加えて、生鮮食品・冷凍食品を中心に従来より値段を格段に引き下げたり、他店のチラシに掲載された商品が西友の売価より安い場合は、チラシの掲載価格で販売する(値引く)チラシマッチといった、従来の西友のイメージを覆させるかのような戦略を打ち出している。
また「SEIYU FASHION PROJECT」として、ユニクロ・しまむら等で支持されている低価格衣料品をGeorgeブランドで積極的に投入し、売上の底上げを図ろうとしている。2008年度の売上は2007年度比で6割増であったことがプレスリリースで触れられている。
これらの施策実施に伴い、築年数が相当経過した店舗を順次リニューアルさせたり、2008年11月からはテレビCMをかつてない程大量にスポット放映してアピールしている(後述)。2009年2月からはクレイジーケンバンドとタイアップした作品も大量に放映された。
なお、「KY」は、「カカクヤスク」のローマ字頭文字を西友サイドでより抜いた用語とされている。ちなみにギャル語発祥の「KY語」であるKY=『空気読めない』が2007年に流行している。
この「KY」は「カカクヤスク」以外にも「クラシヤスク」、「カッコイイ(を)ヤスク」や「カデンもヤスク」にもCMによって引っ掛けている。
2011年(平成23年)1月27日から「バスプラ(バスケット・プライス)」の訴求に切り替えたため、このキャンペーンは終了した[139]。
商品券・ギフトカード[編集]
かっては旧セゾングループの流れから、西友の商品券は西武百貨店・ロフト・パルコ各店で使用可能で、逆に西武百貨店の商品券も西友で使用可能であったが、資本構成の変化に伴い2006年5月末でこの取扱を終了した。
ただし、表面に「SEIBU」と表記された商品券であっても、裏面記載の発行元が「株式会社西友」である(かつての西友運営の西武店で発行された)場合は、西友の商品券同様、西友で利用できるが、西武百貨店・ロフト・パルコ各店では利用できない(パルコでの利用は可。http://www.seiyu.co.jp/pdf/faq/faq_4.pdf)。
なお、2005年(平成17年)よりクレジットカード型の磁気プリペイドカード「SEIYUショッピングカード」のサービスを開始した。西友店内の直営売場レジのみが利用対象となるが、あとからリチャージ(追加入金)が可能であるため、電子マネー的な使い勝手を兼ね備えている。持参人式のため紛失盗難時の残高補償はない。
2007年(平成19年)以降に展開されている同種のプリペイドカードである「イオンギフトカード」や「百貨店ギフトカード」(どちらもリチャージは不可)よりも先駆けて導入したことになるが、以前にそごうが「スマイルカード」(発売終了)を発行していた。
不祥事[編集]
- 狭山駅前店と札幌市元町店で輸入豚肉を国産と偽装して一年間販売[140]。
- 一般用医薬品販売のための「登録販売者」受験用「実務経験証明書」不正発行事件
2012年11月3日、厚生労働省は西友が登録販売者試験を受験する自社従業員に対し実務経験時間を不正に水増しした虚偽の証明書を大量に発行していたと公表した[141]。11月6日 西友は不正の事実を認め謝罪した。西友は19都道府県で282人分の実務経験の時間を長く偽るなどしたうその証明書を発行し、そのうち200名が合格、2012年8月末時点で70店舗、101人が販売業務に従事し、不正発覚後は2店で販売休止、45店で営業時間を短縮していた。西友の金山亮執行役員は不正が会社による組織ぐるみである可能性は否定した。厚生労働省がそれまでに不正で認可を取り消したのはそれまでで計168人で、西友による不正は過去最大規模になると見られる[142][143][144]。 - 客による不適切行為
2013年(平成25年)8月23日未明、河辺店(東京都青梅市)において女子高生とみられる客2名が店内の冷蔵庫・食品陳列棚等に侵入し[145]、その映像がブログ等を経由してインターネット上に公開されていた事が翌24日深夜発覚したため、西友は(青梅警察署に通報の上)同26日深夜河辺店を臨時休業として商品入替および該当設備の清掃を実施した[146]。
2007年(平成19年)10月に平塚店のエスカレーターで男児が首を挟まれ重体となる事故が発生し、緊急点検を行ったところ、横須賀店やLIVINよこすか店などの他の店舗の一部でも同様に基準と合致しない保護板が見つかり、交換修理を行うまでエスカレーターの運行を休止する事態となった[147]。
店舗[編集]
2014年(平成26年)10月末時点で、373店舗で展開をしている[148]。
現在の店舗[編集]
現行店舗については、西友店舗情報を参照
過去に存在した西友の店舗[編集]
- ×は現在建物が解体された店舗。
北海道・東北地方[編集]
北海道[編集]
- 岩見沢ポルタの核店舗として[151]地上5階・地下1階建てのビルのうち地上4階から地下1階に出店していた[154]。店舗面積8,600m²[151]。
- 2004年(平成16年)11月3日に開店したポスフール岩見沢店[156]の影響を受けて売上が減少し[157]、閉店となった。
- 店舗跡は2012年(平成24年)4月1日に「であえーる岩見沢」として新装開業し[158]、1階にいわみざわ農協のAコープが入居し[159]、3階に岩見沢市教育委員会の教育や子育て関連部署が入居などが入居した[160]。
- 西武百貨店40%、西武化学工業20%、西友ストアー15%、江原産業15% 、北海道西武10%という出資比率で設立した資本金10億円の「函館西武」が運営する形で開業した[10]。
- 1991年(平成3年)度に「西友」から譲渡することが公正取引委員会から許可を得られた[163]ため、「西武北海道函館西武店」となった[164]。
- 1997年(平成9年)3月1日に西武百貨店に吸収合併されたため西武百貨店に移管され[165]、2003年(平成15年)8月10日に閉店した[162]。
- 西武百貨店函館店。延べ床面積約25,000m²の建物で[166]、店舗面積約12,300m²であった[161]。
- 坂倉建築設計事務所の設計による大沼の白鳥を摸した建物で、1982年(昭和5年)6月には建築業協会賞を受賞している[10]。
- 最盛期の1991年(平成3年)に売上高約128億円を上げたが、郊外型大型店との競合などの影響で2002年(平成14年)には売上高約82億円へ減少したため、西武百貨店の再建策の一環として閉店となった[161]。
- 当店閉店後、本町から当店のあった梁川町への人の流れが減少し、隣接するテーオーデパートの売上が減少するなど店舗周辺の商店街の集客力や売上が減少するなどの影響が出た[166]。
- 店舗跡は2005年(平成17年)12月22日に西友系不動産管理会社のエスシーシーが運営する複合娯楽施設「パボッツ函館」として開業した[167]。
宮城県[編集]
- SEIYO仙台店(1997年(平成9年)7月31日閉店) → EBeanS(エンドーチェーンが運営するファッションビル)
- 長命ヶ丘店×(閉店日不明 - エンドーチェーン時代からの店舗)→セカンドストリートが入居していたが閉店し、建物は解体され現在はセブンイレブンになっている。)
- 仙台駅東口店×(旧エンドーチェーン、再開発計画により2011年5月8日閉店) → 西友が入居していた駅東口スカイビル自体が解体され、跡地はヨドバシ仙台第2ビルとその立体第1駐車場となった。
- 多賀城桜木店(2012年(平成24年)1月付け閉店、東日本大震災により津波被害を受け、復旧作業がおこなわれたものの営業再開せず閉店)
- 勝山公園店(2012年(平成24年)6月10日閉店[168]、周辺の再開発計画に伴うもの。かつては、勝山ボウリング場の1階に立地していた。)
- 台原店(東日本大震災のため建替え[169])
- 中新田店(?開店 - 2006年(平成18年)5月31日閉店[170])
- 店舗面積1,838m²[170]。
福島県[編集]
- 郡山西武店については、2000年(平成12年)11月22日開店のザ・モール郡山内の「LIVIN郡山店」[172]に移転・業態転換をした扱い。
- 店舗跡は2001年(平成13年)5月25日にATi郡山が開業[173]。
- ATi郡山地下1階に出店していた店舗面積1,452m²の店舗であった[173]。
関東地方[編集]
群馬県[編集]
- 新桐生店(1974年(昭和49年)開店[100] - ?閉店)
- Walk前橋店(?開店 - 2006年(平成18年)1月29日閉店[170])
- 店舗面積1,177m²[170]。
茨城県[編集]
- 牛久店(1983年(昭和58年)開店[100] - 1995年(平成7年)2月閉店)
- 旧西武ストアー(西友の前身)第1号店である[100]。1982年(昭和57年)に増改築したWALK館をパチンコリゾートKINBASHAなどに譲渡。
- 石岡店×(1973年(昭和48年)開店[100] - 1988年頃閉店)
- 取手駅西口にあった[185]。(宇田川ビル)新日本証券 → 新光証券 → パチンコリゾートKINBASHAなど。
- 2012年(平成24年)12月6日に同じく取手駅西口の「リボンとりで」(旧:取手とうきゅう)の1階にキーテナントとして開業した取手駅前店[186]とは別店舗[185]。
埼玉県[編集]
- 上尾店× (1969年(昭和44年)開店[187]、閉店後チルコポルトとなる。その後建物が解体され、跡地は高層マンションとなる)
- 越谷店(1969年(昭和44年)開店[100] - 2011年(平成23年)9月閉店)
- → つるかめ越谷店
- 大袋店×(1977年(昭和52年)開店[100] - ?閉店)
- セキ薬品(現・ドラッグストア セキ)弥十郎店
- 浦和店× (1969年(昭和44年)開店[187] - 1992年閉店[188])→ 跡地に浦和ワシントンホテル
- 戸田店×(1977年(昭和52年)開店[100] - 2006年(平成18年)3月31日閉店[170])
- 店舗面積1,443m²[170]。
- 志木店(1969年(昭和44年)開店[187] → 1995年(平成7年)9月5日にウェルセーブ開店[189] → たいらや
- 所沢フラワーヒル店(1972年(昭和47年)開店[100] - ?閉店)
- 川越店 (1970年(昭和45年)開店[190]) → 藤沢プラザ(建物現存)
- 狭山台店(1975年(昭和50年)開店[100] - ?閉店)
- 朝霞店(1974年(昭和49年)開店[100] - 2009年(平成21年)3月31日閉店[176][177])
- 大井町店(1994年(平成6年)6月18日開店[191] - 2006年(平成18年)1月29日閉店[170])
千葉県[編集]
- 幕張店×(1978年(昭和53年)開店[100] - 2003年(平成15年)秋閉店)
- 津田沼店(西武津田沼ショッピングセンター、1977年(昭和52年)[100]7月開店 - 1985年(昭和60年)頃閉店) → 津田沼パルコ Let's館(1985年(昭和60年)11月開店、地下食品売り場のみに縮小し、西友津田沼パルコ店として現在も存在) → 津田沼パルコB館
- 市川店×(西武百貨店市川店 → 西友 → 1996年(平成8年)5月18日にウェルセーブ開店[193] → たいらや → エコス → 建物解体後マンションに)
- 高根台店×(1978年(昭和53年)開店[100] - 1998年(平成10年)秋閉店)
- 現在はマンションに
- 五香店(→ DAIKに業態転換 → 1階はパチンコ店、2階にはGEO → インターネットカフェがあった)
- 柏店×(1966年(昭和41年)12月3日開店[187]、1980年代閉鎖) → ハヤミズ → 土屋家具 → 建物解体 その後、京葉銀行やディスクユニオンが入居する新しいビル「柏セントラルプラザ」となった。現在営業している柏東店とは別店舗。
- 木更津店×(1972年(昭和47年)開店[100] - 1999年(平成11年)閉店)
- EPOに業態転換後、閉店。建物解体後は駐車場。
- 八千代台店(1971年(昭和46年)開店[100] - ?閉店)
- DISCA → ラオックス → WAKOガーデン
東京都[編集]
- 西小山店→ 建物解体後、マンションとなる。
- 下北沢エンドー → ファーストキッチン
- 赤羽店(1号館と2号館が存在した。1号館が2000年頃閉鎖 → その後本部移転後、旧2号館が新赤羽店に店名変更 → 赤羽店に店名変更。旧1号館はツタヤ、ブックストア談など複数テナントが入る。赤羽店は店舗部分は地上1階と地下1階に縮小。屋上駐車場は廃止)
- 浜田山リビング館→ DAIK× (1976年(昭和51年)開店[100] - ?閉店)
- 建物解体後、更地となる。
- 志村店(1965年(昭和40年)開店[100] - ?閉店)
- コンサートホール志村店
- 志村第二店(1973年(昭和48年)開店[100] - ?閉店)× → 建物解体後、高層マンションとなる。
- 千早店
- 練馬北町店(1963年(昭和38年)開店[100] - ?閉店)
- (初代)中村橋店×(1968年(昭和43年)開店[100] - 2003年(平成15年)12月閉店[194] )
- 道路建設のため閉店[194]。中村橋駅改札口と直結する西武線高架下に(2代目)中村橋店が2004年(平成16年)3月9日に開店した[194]。
- 郵便局舎隣りの場所で営業し、移転前まで合鍵売り場と、キャッシュポイントを併設していたが、男子トイレだけが、2階の従業員兼用のものに留まっていたことや、築年数を問題視するむきもあったためか、道路新設計画に合わせるように、一時閉店。2004年(平成16年)3月9日に中村橋駅改札近くの高架下に移転している[195]。
- 店舗面積1,560m²[170]。
- 店舗解体済 → シティタワー大泉学園
- 店舗面積1,979m²[170]。
- 保谷駅南口地区再開発事業により閉店し、店舗解体後、[西東京市立保谷駅前図書館・公民館]、ツタヤを併設した複合ビル「ステア」 (SUTEA) に改築し、そのビル内に(2代目)保谷店が2008年(平成20年)9月3日に開店した[196]
- (初代)田無店×(1963年(昭和38年)4月5日開店[100] - ?閉店)
- (2代目)田無店×(1971年(昭和46年)開店[100] - 1995年(平成7年)閉店)
- 閉鎖、店舗解体済み。LIVIN田無店が代替店だが、LIVINが『田無西武』店として開店した当初は併存していた。
- (初代)ひばりが丘店 → (初代)ひばりが丘団地店×(1959年(昭和34年)4月24日開店[100] - ?閉店)
- 1978年(昭和53年)に(2代目)ひばりが丘店が西東京市ひばりが丘3-6-26に開店した[197]。(バス停1つ分北側の新店舗に移転)「団地西友前」停留所は「ひばりが丘団地」に改称
- ひばりヶ丘駅前店×(1967年(昭和42年)4月25日開店[100] - 1980年(昭和55年)2月閉店)
- 東久留米店(1962年(昭和37年)開店[100] - ?閉店)
- (初代)小金井店(小金井市本町、1965年(昭和40年)開店[100] - ?閉店)
- 住宅公団の要睛により出店していた[3]。
- (初代)清瀬店(1967年(昭和42年)開店[100] - ?閉店)
- 武蔵境店×(1967年(昭和42年)開店[100] - 1980年代閉店、店舗解体済み)
- 祖師谷店 (祖師ヶ谷大蔵駅の南側300mほど、祖師谷南商店街の中ほどに存在していた。建物は現存、現在はハックドラッグと100円ショップダイソーが入居している)
- 狛江店×(1970年(昭和45年)開店[100] - ?閉店)
- 再開発 → 駐車場
- (初代)国領店(1967年(昭和42年)開店[100] - 2002年(平成14年)閉店)
- 売場面積約1,200m²の店舗だったが、駅前再開発のため閉店となった[198]。
- 34階建ての国領駅前再開発ビル「コクティー」内に2004年(平成16年)10月6日に(2代目)国領店(売場面積約1,400m²)が開店[198]。
- (初代)府中店×(1970年(昭和45年)開店[100] - 1995年(平成7年)閉店)
- その後建物の1階にドラッグストアとダイソーが営業していた ⇒ 現在再開発により「くるる」となる。
- 2005年ごろより市内の別地域・物流拠点跡地にスーパーセンター店舗を置く計画があり、当初2008年(平成20年)春の開業予定だったが数度の延期を経て2011年(平成23年)末にようやく着工、2012年(平成24年)末開業に向けて工事が進められている。
- 聖蹟桜ヶ丘店×(1970年(昭和45年)開店[100] - ?閉店)
- 跡地は聖蹟桜ヶ丘OPA。)
- 西八王子店(1975年(昭和50年)開店[100] - ?閉店)
- 旧店舗は解体済みだが、旧店舗閉店中は同店の駐車場【福生駅沿いに食品など一部に絞った】に臨時店舗【プレハブ】で営業していた。
同時期頃にザ・モールみずほ16がオープンし同店から無料バス≪現在は運行休止≫が出ており取扱がない商品はそちらへ行ってもらう形態だった。 - 建て替えを行い[200]、2004年(平成16年)4月21日に2.5倍に拡張した総合スーパーとして(2代目)福生店が開店した[199]。(part1と2階以上駐車場棟のpart2がある)
- シネ・ヴィヴァン・六本木×(映画館六本木WAVEのB1F、東京テアトルに移管後、再開発に伴い1999年閉館)
- キネカ錦糸町×(映画館、1994年閉館)
- フードマガジン六本木店(東京都港区六本木6丁目11-1[201]、2001年(平成13年)11月28日開店[131] - 2011年(平成23年)8月閉店[98])
神奈川県[編集]
- 希望ヶ丘店 → ユータカラヤ(横浜市旭区、1968年(昭和43年)開店[187])
- 瀬谷店(横浜市瀬谷区、1968年(昭和43年)開店[187] - 2006年(平成18年)1月30日閉店[202]) → 空き地 → 創価学会瀬谷文化会館
- 店舗面積1,959m²[170]。
- 相模大野店×(1968年(昭和43年)開店[187] - 1996年(平成8年)10月閉店。しばらくは空き店舗状態だったが、数年後に店舗解体済。現在、跡地を含めた周辺地区で相模大野駅西側地区第一種市街地再開発事業が着手中)
- 戸塚店×(JR戸塚駅前[203]、1968年(昭和43年)開店[187] - 2008年3月9日閉店)
- 店舗解体済。跡地にサクラス戸塚[204]。
- ジャンボ藤沢店(1970年(昭和45年)[100]6月25日開店 - 1976年8月31日閉店)
- 志澤藤沢店(1974年(昭和49年)3月[6]29日開店、1975年8月西武流通グループと提携) → 藤沢西武店(1978年9月15日西友が買収し改称。1997年閉店。1999年解体。現在はマンションのクリオ藤沢駅前)
- 茅ヶ崎店(1970年(昭和45年)開店[100] - ?閉店)
- 丸岡屋テナント
- 西鎌倉店×(1966年(昭和41年)開店[100] - ?閉店)
- 閉店と同時に店舗解体。跡地にローソン西鎌倉二丁目店
- 京急線横須賀中央駅の近くの商店街の一角に出店していた[206]。
- 当店と近隣にあったさいか屋横須賀店大通り館の閉鎖が影響して、横須賀中央駅周辺の商店街の来街者数は大きく減少したとされている[207]。
- 跡地では、商業施設などとマンションが入る地上38階建てで高さ143mの超高層ビルが建設されることになり、2013年(平成25年)4月24日に着工した[205]。
- 2000年(平成12年)9月13日開店のLIVIN横須賀店[208]とは別店舗。
- 店舗面積10,605m²[151]。
- 店舗面積約4,600m²[210]。
- 追浜駅前のサンビーチ追浜(売り場面積約12,200m²)の核店舗として[209]2階から4階に出店していた[210]。
- 衣料品・日用品のみで[210]、地下1階に食品スーパーのヨコサンが入居していたため[209]、同社が主力事業として展開している食品スーパーを展開できなかったことも影響してて閉店となった[209]。
中部地方[編集]
山梨県[編集]
長野県[編集]
以前は百貨店事業の上田西武店とGMS店舗の川中島店のみ本社直営で、長野県内の他の小型店舗はエス・エス・ブイの運営であった。
- ハウディ西武長野店
- 長野市の中央通り沿いにあった敷地約1,300m²に4階建て売場面積約1,400m²の店舗だった[213]。
- 若穂店×(長野市[214]若穂綿内、2003年(平成15年)2月期に開店[215]-2008年(平成20年)11月[214]30日閉店)
- 更埴店(更埴市[216]、1972年(昭和47年)10月開店[216] - 1996年(平成8年)閉店[216])
- 店舗の老朽化と駐車場不足や商業集積の移動などに対応するため約1㎞離れた場所に粟佐店を1996年(平成8年)7月19日に開設することに伴って閉店となった[216]。
- 中野店(中野市、-2002年(平成14年)2月期に閉店[217])
- 埴生店(千曲市、2003年(平成15年)2月期に開店[215]-2009年(平成21年)3月閉店[214])
- 上田店(上田市天神1丁目[218]、1974年(昭和49年)10月開店[218] - 2009年(平成21年)3月末閉店[219]) → 1976年(昭和51年)に上田西武に業態転換[220] → 2000年(平成12年)9月にLIVIN上田店に業態転換[220]
- 丸子店(上田市[214]、2008年(平成20年)11月閉店[214])
- 東部店(東御市[214]、-2009年(平成21年)3月閉店[214])
- 坂城店(埴科郡坂城町[214]、-2008年(平成20年)11月閉店[214])
- (初代)松川店(北安曇郡松川村)
- 1995年(平成7年)3月24日に向かい側に新店舗を開設して増床移転したため閉店となった[221]。
- 諏訪店(諏訪市)
- 1995年(平成7年)7月28日に諏訪城南店を開設して増床移転したため閉店となった[222]。
- 開店から34年営業したが手狭になっていたため、200mほど離れた土地に(2代目)下諏訪店を新築して移転する形で閉店となった[223]。
- 松電ストア(現アップルランド)と共同出店で5階まで売り場のある店舗だった[224]。西友撤退後は3階までに売り場を縮小して松電ストア(現アップルランド)が営業を引き継いだが、2005年(平成17年)6月末で閉店することになった[224]。
- 穂高西店(?開店 - 2006年(平成18年)7月31日閉店[170])
- 店舗面積2,208m²[170]。
- 松岡店(?開店 - 2006年(平成18年)8月31日閉店[170])
- 店舗面積2,241m²[170]。
静岡県[編集]
- 店舗跡はスーパーもちづき焼津店が1996年(平成8年)4月26日に開店したが[226]、2013年(平成25年)1月18日に閉店となった[227]。
- 2014年(平成26年)9月29日にドラッグストア「サンドラッグ」が開店し、スーパーマーケットなどの出店する複合商業ビル「焼津ビル」として全館の再開を目指すことになった[228]。
愛知県[編集]
- ブイ・マートと合併後エス・エス・ブイが初めて愛知県内に出店した延べ床面積約2,126m²に売場面積約1,876m²で190台の駐車場を併設していた[230]。
- 春日井店(西友楽市春日井(現・ザ・モール春日井Part2)の核テナントとして)
富山県[編集]
- 西友初の百貨店業態の店舗で、西武百貨店と当時提携していた大和の富山店のすぐ近くへの出店で競合関係となったため、当店開店翌月の1976年(昭和51年)8月に提携が解消となった[3]。
- 西武北陸の店舗になり、1994年(平成6年)4月1日に西武百貨店に吸収合併された[233]。
- 店舗跡の土地約3,100m²は大和小田急建設が取得し[231]、周辺を含む約3,800m²に商業施設とマンションに駐車場を併設した複合ビルを建設するため、2013年(平成25年)2月14日に総曲輪3丁目地区市街地再開発準備組合が発足した[234]。
石川県[編集]
- 1983年(昭和58年)に小松西武[8] → 1992年(平成4年)10月に西武百貨店小松店[8]。
- 店舗跡は1998年(平成10年)3月21日にダイワ小松店が開店したが[8]、2010年(平成22年)6月25日に閉店した[235]。
福井県[編集]
- 鯖街道の起点として知られるいづみ町商店街の近くにあった[237]6階建ての商業ビル「つばき回廊」の核店舗として出店していた[236]。
- 2010年(平成22年)7月から更地になって空き地状態となっていることから[237]、商業利用も含めて2013年(平成25年)4月から原則無料で開放されることになったものの[236]、ほとんど利用されていない[237]。
近畿地方[編集]
滋賀県[編集]
- 石山店(1976年(昭和51年)開店[100] - ?閉店)
- 石山商店街に出店していた地域密着型の店舗であった[175]。
- グリーンヒル店(1984年(昭和59年)開店[100] - ?閉店)
- パナ西友桜ヶ丘店(1983年(昭和58年)開店[100] - ?閉店)
- フードプラザ店(西武百貨店大津店内、食品のみHTTPS) → ザ・ガーデン自由が丘に転換したが、2009年に閉店。現在はパントリー
- 旧長浜店(1966年(昭和41年)開店[100] - ?閉店)
- 店舗跡地には14階建てマンションが建設され、その1階に(2代目)守山店が2002年(平成14年)4月10日に出店した[239]。
京都府[編集]
- 伏見店(1968年(昭和43年)開店[100] - ?閉店)
- 旧コマストアー[100]。プラザ大手筋(内部には食品スーパーや100円ショップが入居している)
- 宇治店(1976年(昭和51年)開店[100] - ?閉店)
- 千本店(1985年(昭和60年)開店[100] - ?閉店)
- 無印良品千本
- 銀閣寺店(1967年(昭和42年)開店[100] - ?閉店)
- 旧コマストアー[100]。
- 桂坂店(1987年(昭和62年)開店[100] - ?閉店)
- 京産大PAO店
大阪府[編集]
- 都島店 → ベルファ(大阪市都島区)
- 粉浜店(大阪市住之江区・南海本線粉浜駅高架下、旧南海西友ストアー[241]、1984年(昭和59年)10月開店[241] - 2002年(平成14年)10月21日閉店)
- 千里丘店(吹田市[243]、2000年(平成12年)7月13日開店[243] -?閉店)
- 高槻店(西武百貨店高槻店内、インナーウェアのみHTTPS) → 退店
- 八尾西武店(西武百貨店八尾店内HTTPS) → 退店
- 八尾店(八尾西武店とは別、?開店 - 1981年(昭和56年)閉店[6])
- 富田林店(1972年(昭和47年)開店[100] - ?閉店)
- 狭山ニュータウン店(旧南海西友ストアー)
- 河内長野店(1989年(平成元年)4月開店[245] - 2009年(平成21年)3月8日閉店)
- ノパティながの北館(店舗面積12,737m²)の核店舗として出店していた[151]。
- 北館のうち半分以上を自社で所有していたが、2009年(平成21年)4月中旬に賃貸部分の契約が満了することに伴う交渉を打ち切り、契約を延長せずに閉店することになった[246]。
- 新河内長野店(1994年(平成6年)9月開店[241] - 2010年(平成22年)5月31日閉店)
- ジャンボスクェア河内長野(店舗面積10,909m²)の核店舗として出店していた[151]
- 店舗面積2,160m²[170]。
- 光明池店(堺市南区・泉北高速鉄道光明池駅前[247]、2001年(平成13年)1月16日開店[248] - 2009年3月31日閉店) → サンプラザ光明池店が出店[249]
- 羽衣店(高石市・南海本線羽衣駅構内、旧南海西友ストアー)
- 高石店(高石市加茂[250]・南海本線高石駅前、1979年(昭和54年)6月開店[241] - 2006年(平成18年)1月閉店)
兵庫県[編集]
- 白木屋・わらわら・パチンコ店
- 宝塚市の事業として建設された逆瀬川駅南口の再開発ビル「アピア1(現;アピアさかせがわ)」核店舗として入居した[251]。
- 店舗面積8,760m²[170]。
- 1999年(平成11年)11月6日にLIVINに業態転換した[252]後に、2006年(平成18年)6月30日閉店[170]。
- 競合する「マイカル明石」(現:イオン明石ショッピングセンター)の出店と建物の老朽化により閉店した。
和歌山県[編集]
- 城山店
- 三石店
九州・沖縄地方[編集]
福岡県[編集]
上記店舗は西友から系列のサニーに運営が委譲され店舗名が変わったものの、後に西友直営店に戻っている。
- 平島店(?開店 - 2006年(平成18年)7月31日閉店[170])
- 店舗面積558m²[170]。
佐賀県[編集]
- 「ウォルマート」提携後の初の出店となった店舗でウォルマートの持つノウハウを取り入れた売場づくりが行われた[255]。
- ミスターマックスと共に「モラージュ佐賀」の核店舗の一つとして出店していた[256]。1階の食料品売り場と2階の衣料品売り場を展開していた[253]。
- 2010年(平成22年)11月26日に食料品売り場の後継店舗として「ハイマート」が運営する食品スーパーの「フードウェイ」や輸入食品の「ジュピター」など出店したほか、格安衣料品店の「サンキ」やベビー用品や子ども服の「西松屋」が後継店舗として出店した[257]。
大分県[編集]
- 大分店(大分市府内町[258]、1974年(昭和49年)6月開店[10] - 1976年(昭和51年)閉店[259]) → 大分パルコ(1977年(昭和52年)4月開店[259] - 2011年(平成23年)1月31日閉店[258])
関連会社[編集]
- 西友リテールサポート(旧・二光) - 西友を主なクライアントとする人材派遣事業を手がける。通信販売事業からは撤退。
- 西友プロキュアメント - プライベートブランドの企画・開発および商品調達など
- 若菜 - 西友店内での惣菜販売・売り場の運営。独自の路面店事業(弁当・惣菜販売)。
- ニジコム - 主に西友グループ店内における携帯電話の販売
「西友」を冠する企業は多数存在するが、社会問題を起こした西友商事(商品先物取引業、東京都中央区)、西友開発(不動産業、香川県高松市。2000年に破産)を始め無関係なものが多いため注意を要する。
コマーシャル[編集]
テレビ・ラジオでCMが主にスポット放送で流れ、1994年 - 1997年頃まで歌手・タレントの西城秀樹を『西城店長』としてイメージキャラクターに起用していた。その当時のキャッチコピーは『くらべれば西友』であった。経営状態の悪化のためか、1999年以降しばらくは関東ローカルでは一切出稿されなかった。
ウォルマート傘下となった2005年前後に、食品売り場の女性店員が自身の仕事の思い入れを語る企業CMがスポット放送(ご存じですかの時間帯など)されるようになったが、イオンやイトーヨーカ堂が打ち出していたセール品やバーゲン告知の類のCMは一切制作されなかった。しかし、前述のKY戦略を打ち出した2008年からは安売りを伝えるユニークなCMが増えるようになった。主な例としては次の通り。
- バッタリ篇
- コジマさん、ヤマダさん、ビックさん、タカタさん等と言った男性が店内で偶然逢う、という内容。西友で販売している家電商品の価格が、家電量販店及び通信販売業にも負けない、という事を消費者に訴求した。
- 新生活のうた篇
- 家具のCMで、「 セイユーニトリーアエーズイケア (西友にとりあえず行けや)」という空耳ソングを延々と流していた。家具大手のニトリとイケアの名前を敢えて出した、インパクトのあるもの。これは総合ショッピングセンターの位置づけである西友でも家具を扱っている、というメッセージである。
- 会見篇
- CM冒頭から突然謝罪会見をし西友の安さをアピール。これは同時期にあった老舗料亭の謝罪会見をパロディ化したもの。他の店舗より西友のほうが高い場合はそのチラシを見せれば安くする、という定価販売の常識を覆す販売戦略を強くPRした。
- AKYな42日間篇
- 『AKY42』(アットーテキ カカク ヤスク (な) 42日間の略)と題し、女性アイドルグループ・AKB48を意識したネーミングだけあり、CM中にクレイジーケンバンドの「1107」の歌とともに主婦風の女性が1人ずつ切り替わりで大勢出演するというもの。
- おおむね15篇
- 2010夏ギフトのPRで、中学生風の女性3人が歌いながら海でじゃれ合うバージョン。お中元とはかけ離れたイメージの「女子学生トリオ」の起用に加え、企業名どころか何を訴求したいのかさえもぼかしたことで却って話題を集め、日頃西友を利用しているメーン層以外からの問い合わせや感想が多く寄せられ、売り上げが上がった[262]。なお、このシーズンよりギフトカタログのタイトルが「 ギフトの友 」(『女学生の友』のパロディ)となっている。
- まだまだ15篇
- 「おおむね15篇」と歌と背景が一緒だが、メインがセーラー服の制服を着た中年女性に変わっていたセルフパロディバージョン(同時期に放映)。
- いきなり50篇
- 2010冬ギフトのCMでは、夏ギフトのCMにさらに手を加え『おおむね15篇』のうち、一人が覆面を取ると50歳だったというダブルセルフパロディになった。
- ぞくぞく15篇
- 2010冬ギフトのCMで「おおむね15篇」のメンバーに加え「まだまだ15篇」(配役は変更)の後に、男子中学生をはじめ、大勢が行進するというトリプルパロディバージョン。
- 政見放送篇
- 2011夏ギフトのCMで、タイトルの通り政見放送仕立てにしたもの。夏ギフ党党首の五十嵐 五十郎(いがらしごじゅうろう)が「皆様の夏ギフト費を、最大50%カットします。」とマニフェストを表明する内容。CMの2 - 6秒の間に「※これはCMです」のテロップが小さく表示され、10秒付近から夏ギフトをPRするテロップが入り、「夏ギフトは、西友」のナレーションが入る。公式サイトでは「西友はギフト文化を啓蒙する(架空の)夏ギフ党を結成いたしました」と説明[263]がある。撮影セットとシチュエーション・演出が現実の政見放送と酷似しているのが特徴。
- バスプラ篇
- キャッチコピーの「バスプラ」を連呼する音楽に乗せて、女性の集団がパラパラを模したダンスを踊る。(振り付けはパパイヤ鈴木)[264]
- なお「バスプラ」とはバスケットプライスの略で、単品だけでなく店全体の商品での安売りをアピールするもの。
- バスプラくん篇
- 「バスプラ」シリーズの一環で、母の寒気に娘が心配(パブロンのパロディ)するとバスプラくん(Mr.コンタックのパロディ)が現れてバスプラの効能を説明するという、風邪薬のCMをパロディ化したもの。なお、CMの最後には『※バスプラという商品は存在しませんのでご注意ください』という注意書きが右下に表示されている。要出典
CM出演者[編集]
- 荒川恵理子(チラシにも出演。当時西友でレジ打ちのアルバイトをしながらサッカー選手をしていた)
- 伊丹十三
- ライオネル・リッチー(彼の代表曲「セイ・ユー・セイ・ミー」が流れていた)
- 西城秀樹
- 北陽
- 壇蜜(2013年、冬ギフトのCMに登場)
おおむね15篇・ぞくぞく15篇
- ななみ (Girl's Next R1ユニット)
- 長尾寧音
- 田中ひかり (ホリプロ・インプルーブメント・アカデミージュニアクラス)
まだまだ15篇
いきなり50篇
- ななみ
- 長尾寧音 → 竹内晶子 ※長尾が覆面を取ると50歳(竹内は実際に当時50歳)だった、というパロディ。
- 田中ひかり要出典
CMソング担当[編集]
- 蓮実重臣(「火曜得の市」「オットセイユー」を作曲)
- クレイジーケンバンド(CKB表記、使用曲「1107」等)要出典
脚注[編集]
関連項目[編集]
企業など[編集]
- 西武百貨店
- セゾングループ
- 西武鉄道グループ
- クレディセゾン
- リウボウ
- 日テレ・ベレーザ(1993 - 1997年に「読売西友ベレーザ」と名乗る)
- おしゃべりレタス(1987 - 1990年放送のテレビ提供番組)
- 荻窪タウンセブン
- 橋のない川(1992年公開の映画、西友が出資した作品)
人物[編集]
- 沖正一郎(元常務、ファミリーマート 初代社長、良品計画 元会長)
- 木内政雄(前社長、無印良品事業部の独立黒字化に尽力)
- 坂本春生(元副社長、セゾン総研 元理事長)
- サム・ウォルトン(ウォルマート創業者)
- 高丘季昭(元会長、セゾングループ 元代表幹事。経団連 元副会長)
- 堤清二(セゾングループ元会長であり、西友の創業者でもある)
- 堤康次郎(西武ストアー創業者、現在も社内主要施設には銅像が存在)
- 三好基之(元社長、産経新聞社 元専務)
- 渡辺紀征(前会長、ファミリーマート事業の成功に尽力、現在はスギ薬局社外取締役)
- 山根卓二