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福田 赳夫
(ふくだ たけお)
Takeo Fukuda 1977.jpg


67
日本の旗 日本日本国 内閣総理大臣
在任期間 1976年12月24日
 - 1978年12月7日

生没年月日 1905年1月14日

 - 1995年7月5日(1995-1905)+((7-1)*100+(5-14)>=0)-1歳没)

出生地 群馬県群馬郡金古町
出身校 東京帝国大学法学部
学位・資格 正二位
大勲位菊花大綬章
群馬県名誉県民
囲碁八段
将棋七段
前職 大蔵省主計局
世襲の有無
選挙区 群馬県第3区
当選回数 衆14回
党派 自由民主党
花押
テンプレート

福田 赳夫(ふくだ  たけお、1905年明治38年)1月14日 - 1995年平成7年)7月5日)は、日本大蔵官僚政治家。第67代内閣総理大臣位階勲等正二位大勲位群馬県名誉県民

政治家で第91代内閣総理大臣となった福田康夫は長男、元参議院議員福田宏一は実弟である。

来歴・人物[編集]

生い立ち[編集]

群馬県群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町)に父・福田善治(元金古町長)の二男として生まれた[1]日露戦争において日本軍が旅順入城をした翌日に生まれたため、『赳夫』と命名された。
福田家は江戸時代には名主(庄屋)を務めた地元の名門であった。小学校の頃から神童の誉れ高く、旧制高崎中学(現在の群馬県立高崎高等学校)を首席で卒業し、第一高等学校から東京帝国大学法学部へ進学。高等文官試験に一番の成績で合格し、大蔵省に入省した[2]。大蔵省入省から1年を経ずに、財務官付の役職でロンドンの在英日本大使館に派遣された。当時の上司にあたる財務官は津島寿一である。3年半のイギリスでの勤務の後、帰国。その後は大蔵省の主計局で順調に出世して局長にまで登り詰めた。しかし、1948年の政府関係者に対する贈収賄が問題になった昭電疑獄の際に、大蔵省主計局長だった福田は収賄罪容疑で逮捕される。結果として無罪にはなったものの、これを機に大蔵省を退官した。

国会議員へ[編集]

1952年昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙群馬三区から無所属で立候補し当選、岸信介に仕えた。野田卯一池田勇人と共に「大蔵省の3田」と呼ばれる。当時は大蔵省出身の国会議員が衆参あわせて24人いた。無所属の福田を除く23人は全て吉田・池田の自由党所属だったが、福田は自らこれを「栄えある一議席」と呼んだ。1958年(昭和33年)にはわずか当選4回で自由民主党政調会長就任。

1959年(昭和34年)1月から自民党幹事長を、6月からは農林大臣を務める。

1960年(昭和35年) 12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男田中龍夫一万田尚登倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する。続く佐藤栄作政権下では大蔵大臣、党幹事長、外務大臣と厚遇され、佐藤の後継者として大いにアピールしたが、この時から“ポスト佐藤”をめぐる田中角栄との熾烈な闘争(角福戦争)が始まる。

日本列島改造論を掲げ、積極財政による高度経済成長路線の拡大を訴える田中に対して、福田は均衡財政志向の安定経済成長論を唱える。また中華人民共和国との日中国交回復を急ぐ田中に対して台湾との関係を重視した慎重路線を打ち出す。これらの「外交タカ派」のスタンスは岸派以来の伝統で、福田派の後継派閥である町村派森喜朗小泉純一郎安倍晋三らに引き継がれている。

1972年(昭和47年)7月、「われ日本の柱とならん」を掛け声に佐藤後継の本命として保利茂松野頼三園田直藤尾正行ら他派の親福田議員を結集して総裁選に出馬するも、決選投票(田中282票、福田190票)で角栄に敗れる。しかし、「やがては日本が福田赳夫を必要とする時が来る」と強気の発言を残した。当然、発足した田中内閣においては下野する形になったが、同年12月の総選挙で自民党が改選前議席を割り込むと田中が挙党一致を求める形で第2次田中角栄内閣行政管理庁長官として入閣。翌1973年(昭和48年)11月の内閣改造では、田中の列島改造論オイルショックによる経済の混乱の収束を求められ、急逝した愛知揆一の後任として大蔵大臣に就任し、総需要抑制などのインフレ抑制策を発動した(1974年7月の参議院選挙後に辞職)。1974年(昭和49年)12月に発足した三木内閣でも副総理経済企画庁長官として入閣し、引き続き経済政策の陣頭に立った。しかし、ロッキード事件への対応を巡って党内で三木おろしが決定的になった1976年11月に閣僚を辞職している。

総理大臣[編集]

第3回先進国首脳会議参加首脳とともに(右から1番目)
第4回先進国首脳会議参加首脳とともに(左から2番目)

福田赳夫内閣 も参照

1976年(昭和51年)、総裁戦で他の立候補者がなかったため、両院議員総会での話し合いにより総裁に選出され、過半数をわずかに一票上回る得票で首班指名され、三木武夫の後任として念願の政権(福田内閣)を樹立。71歳という高齢を心配する周囲からの声に対し、自らの生年に因み「明治三十八歳」と言って若さをアピールした。また、外交問題の解決をはじめ、実務型の内閣であったことから、内閣を「働こう内閣」と表現。また、前内閣で政治改革は進む一方で外交や経済の案件が遅れており、総理大臣をもじって「掃除大臣」と自称した。

就任当初は党内抗争(「三木おろし」)において、大平正芳との間に「2年で政権を譲る」と大福密約によって、総理の座を得たということや、新鮮味に欠けるなどの理由、また自民党内でも右派の立場であったため左派層に支持を広げにくいなどの理由から支持率は低かった。福田は大平正芳を幹事長に据えて大平派との連携により政局の安定を図る。

1977年(昭和52年)、第11回参議院議員通常選挙で自民党は改選議席を上回る議席を確保。同年夏、新たに党友組織自由国民会議創設に当たり党国民運動本部長中川一郎通じて保守派の論客として知られる作曲家黛敏郎に初代代表就任要請し受諾得る。同年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では「人命は地球より重い」として犯人側の人質解放の条件を飲み、身代金の支払いおよび、超法規的措置として囚人の引き渡しを行ったことで、テロリストの脅迫に屈したと国際的な批判を浴びることとなった。この後北朝鮮による拉致が急増した。しかし在任中を通じて福田内閣の支持率は徐々に持ち直し、日中平和友好条約の締結や積極的な東南アジア外交の展開を行う。その姿勢はフィリピンマニラで発表された福田ドクトリンへと結実することとなった。

1978年(昭和53年)10月23日鄧小平副総理を日本に迎え、「日中平和友好条約」に調印。

派閥解消を目指して党員・党友投票による自民党総裁予備選挙を導入したが、現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな集票作戦を展開する一方で、福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢の結果に油断し、動きが鈍く、当初の下馬評が覆され、福田は大平に大差で敗北した。福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」とかねて発言していたため、本選挙出馬断念に追い込まれることになる。自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ1人である。記者会見で「民の声は天の声というが、天の声にも変な声もたまにはあるな、と、こう思いますねまあいいでしょう!きょうは敗軍の将、兵を『語る』でいきますから。へい、へい、へい」(1993年12月31日放送TBSテレビ「自民党戦国史」の映像より)の言を残して総理総裁を退く。 角福戦争#第二次角福戦争 (第一次大福戦争) も参照

総理退任後[編集]

1979年(昭和54年)、大平政権下では反主流と化して40日抗争ハプニング解散で再び田中・大平主流派と対立した。その後も度々総裁候補として浮上し、自民党の実力者であり続けた。また、世界の大統領・首相経験者らが世界の諸問題の解決へ向けた提言を行う場として「OBサミット」設立(1982年)するなど、「世直し改革」を訴え「昭和の黄門」を自認した。また造語・警句の名手として知られ、「狂乱物価」「昭和元禄」「視界ゼロ」「日々是反省」「福田内閣はさあ働こう内閣だ」など福田語録を残している。後に総理大臣になる森喜朗小泉純一郎は彼の教えを受けた[3]1984年(昭和59年)に二階堂擁立構想をきっかけに発言力が低下し、福田の教え子であった森や小泉らからも世代交代を主張する声が出たため1986年(昭和61年)に派閥を安倍晋太郎に譲った。この件が元で中選挙区で安倍のライバルであった田中龍夫が引退を決意したとされている。

リクルート事件によって竹下内閣が崩壊した際には福田を後継の総理・総裁に推す動きが、また安倍が死去した際には森らが福田を再度派閥の長にしようとする動きを起こしたが、何れも福田は「私は高齢だから相応しくない」として辞退している。

1990年(平成2年)、第39回衆議院議員総選挙を機に政界引退。長男康夫が後継者となるが、次男の征夫が病気に倒れるまでは「康夫は面の皮が薄すぎて政治家に向かない」と周囲に語っていた。引退するまで連続14回当選。同じ選挙区である旧群馬3区では「上州戦争」と呼ばれるほど中曽根康弘と激しいトップ当選争いを繰り広げたが、毎回福田が圧勝。中曽根が首相在任時でも、福田の得票数の方が勝っていた(通算成績・福田の11勝3敗)。1995年(平成7年)7月5日、肺気腫で死去。(1995-1905)+((7-1)*100+(5-14)>=0)-1歳没。

1978年10月23日夜、福田赳夫首相と三枝夫人は首相官邸で晩餐会を開き、鄧小平副総理一行を歓迎。この席で、鄧小平副総理は「中日平和友好条約では、中日両国は覇権を求めず、同時に、いかなるその他の国家または国家集団がこのような覇権を確立しようとする努力にも反対する、と規定されている。これは国際条約ではひとつの創意に富んだ偉大な試みである」と述べた


年譜[編集]

政見・政策[編集]

政治理念[編集]

  • 「協調と連帯」
  • 「政治は最高の道徳」

岸信介の流れを汲み、「タカ派」と評されることが多い。

経済[編集]

  • 均衡財政志向の安定経済成長論を主張。
  • 国際的に、黒字過剰問題の解決のために、内需主導型の経済運営による輸入を拡大など、市場の開放に努めるべきとした[6]
  • 1965年、大蔵大臣として、不況による税収不足への解決策として、日本において初めて国債赤字国債、当時で2千億円)を発行する。

外交[編集]

  • 外交理念として「全方位平和外交」を提唱。
  • アジア諸国との連帯を目指し「福田ドクトリン」を提唱。
  • 中華人民共和国との関係について、「お互いに内政に干渉しないことが一番大事であり、それが守られなければ、『日中平和友好条約』が名ばかりのもの(名存実亡)になってしまう」という旨の見解を述べた[7][8]
  • 日韓両国に隣接する大陸棚の北部の境界の画定や大陸棚の南部の共同開発を定めた「日韓大陸棚協定」を批准。

歴史認識[編集]

  • 1978年の終戦記念日靖国神社を参拝。「内閣総理大臣」と記帳し、「私的参拝」であるとした[9]。以降1978年まで4回参拝。

関係する人物や団体[編集]

大蔵大臣在任中だった1974年5月7日に、東京の帝国ホテルで開かれた、統一教会(統一協会)(世界基督教統一神霊協会)の教祖、文鮮明の講演会「『希望の日』晩餐会」(名誉実行委員長は岸信介元総理)に同僚議員の誘いで参加し、「アジアの偉大な指導者」と文鮮明を賛美し(統一協会のサイト[1]、韓国式の抱擁を交わした(当時の写真)。様々な社会問題で批判のあった統一教会に賛同を示すことに問題はないのかなど、国会でも度々追及を受けたが、福田は「文鮮明の思想はよく知らないが、自分の日頃主張する“協調と連帯”という考えを述べていたのでよかったと感想を言っただけ」、「パーティーや宴会ではちょっと輪をかけて話すんです。そのような環境のもとにおいて話したことで、そんなものを一々取り上げてそれを御質問されても、お答えすることはできない。」という旨の弁明をした[10]そして、福田は発言の内容について、「当時の記録がございますからよくごらんください」と述べていたが、衆議院の法務委員会で日本社会党の西宮弘が資料を要求したら、上村委員長からあいさつだから、原稿なしでやったのだから、記録があるはずがないという趣旨の報告がなされた[11]
勝共連合については国会で「勝共連合が反共を旗印にしておる、そういう点に着目いたしまして自由民主党と勝共連合が協力的側面を持っておったということは、これは御理解願えると思う」、「余り勝共連合の中身につきましては承知しませんけれども、共産主義反対というたてまえについて共感を覚えている」と述べ、勝共連合の外国為替法違反や詐欺に該当するような資金獲得活動などの反社会的な問題を指摘された際は「そう悪いことを一般的にしておるというような認識でございませんので、一般的に調査するということは考えません。」と答弁。関係を断ったらどうかとの問いには「勝共連合についていままで持っておる認識に立つと、手を切るというような問題は起こり得ざることである。」旨の見解を述べた[12]
  • 児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された大谷貴義との親交が深く、「福田の影に大谷あり」と言われた。政財界とアンダーグラウンドの世界に隠然たる力をもち、裏千家とも姻戚関係にあった大谷は、福田を首相にすべく、毎年代々木上原の千坪の豪邸に政財界の要人を招き、茶会を催していた。大谷の長女享子が、裏千家14世千宗室の子息・巳津彦と結婚した際には、作家の吉川英治夫妻と共に、福田夫妻が媒酌人を務めた。また、1991年5月に大谷が逝去した際には、葬儀委員長も務めている。

栄典[編集]

家族・親族[編集]

親子二代の首相就任は、史上初めての例となった。

系譜[編集]

 太田清蔵━━━太田清之助
          ┣━━━太田誠一
      ┏━━俊子
      ┃
      ┣櫻内乾雄
┏櫻内幸雄━┫
┃     ┣櫻内義雄
┗櫻内辰郎 ┃        斎藤明
      ┗━━淑子     ┃
          ┃   ┏富佐子
          ┃   ┃
        嶺駒夫━━━┻貴代子
                ┃
             ┏福田康夫
             ┃
      ┏福田平四郎 ┣和子
      ┃      ┃ ┃
 福田善治━╋福田赳夫━━┫越智通雄
      ┃      ┃
      ┗福田宏一  ┣横手征夫━横手信一
             ┃      ┃
             ┗玲子   千野志麻
              ┃
             松谷明彦

参考文献[編集]

  • 福田赳夫 『回顧九十年』 岩波書店 1995年
  • 神一行 『閨閥 改定新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 108-123頁

関連項目[編集]

脚註[編集]

  1. 祖父、兄もまた、金古町長をつとめている
  2. 同期に前尾繁三郎長沼弘毅西原直廉財務官参事官など)らがいる
  3. 小泉や佐藤静雄の政治人生は、福田の秘書となり、かばん持ちをすることから始まった
  4. 『回顧九十年』 65頁 - 官房長兼秘書課長兼大臣秘書官、それにGHQと折衝する終戦連絡部長をも兼ねた
  5. 『回顧九十年』 84-85頁に福田は「贈賄側で逮捕された昭和電工の当時の社長日野原節三氏が私の一高、東大の先輩で懇意だったことから、昭和電工への融資に特別の便宜を図ったという理由で私もこの事件に巻き込まれた。ただしこれは検察の全くのデッチ上げであり、判決では“検事の所論はまさにかのカラスと言いくるめる論法に似たものと評すべきであろうか”として私自身の潔白は明快に証明された。」と記している
  6. 第084回国会 本会議 第3号 昭和53年(1978年)1月21日
  7. 第085回国会 外務委員会 第3号 昭和53年(1978年)10月16日
  8. 第085回国会 外務委員会 第5号 昭和53年(1978年)10月18日
  9. 朝日新聞』(1977年4月21日付)
  10. 第084回国会 衆議院 決算委員会11号 昭和53(1977年)5月12日
  11. 第80回 衆議院 法務委員会-8号 昭和52(1977年)年4月6日
  12. 第084回国会 予算委員会 第23号 昭和53年(1978年)4月3日
  13. 『回顧九十年』 31-32頁によると、妻三枝は群馬県原町(現東吾妻町)出身の新井文夫(足尾銅山の技師)の三女で、三枝の兄が福田と高崎中学の同窓で仲がよく、福田が東京の学校へ通うようになった頃から、三枝との付き合いが始まったという
  14. ようこそ伊香保温泉横手館へ
  15. 1980年代のブームの際、福田が飼育していることを知ったマスコミが度々取材に訪れた
  16. かつて福田が所属した新自由主義者の集まり

外部リンク[編集]

官職
先代:
日本の旗 日本 内閣総理大臣
第67代:1976年 - 1978年
次代:
先代:
日本の旗 日本 国務大臣副総理
1974年 - 1976年
次代:
先代:
日本の旗 日本 経済企画庁長官
第26代:1974年 - 1976年
次代:
先代:
日本の旗 日本 行政管理庁長官
第36代:1972年 - 1973年
次代:
先代:
日本の旗 日本 外務大臣
第99代:1971年 - 1972年
次代:
先代:
日本の旗 日本 大蔵大臣
第68代:1965年 - 1966年
第70代:1968年 - 1971年
第75代:1973年 - 1974年
次代:
先代:
日本の旗 日本 農林大臣
第27代:1959年 - 1960年
次代:
党職
先代:
自由民主党総裁
第8代 : 1976年 - 1978年
次代:
先代:
自由民主党幹事長
第4代 : 1959年
第10代 : 1966年 - 1968年
次代:
先代:
自由民主党政務調査会長
第4代 : 1958年 - 1959年
第8代 : 1960年 - 1961年
次代:
先代:
結成
清和会会長
初代 : 1979年 - 1986年
次代:
Flag of Japan.svg          歴代内閣総理大臣          Go-shichi no kiri crest 2.svg
第66代
三木武夫
67
1976年 - 1978年
第68・69代
大平正芳
第代
[[]]
第代
第代
[[]]
第代
[[]]
第代
第代
[[]]
第代
[[]]
第代
第代
[[]]
第代
[[]]
第代
第代
[[]]
伊藤博文
黑田清隆
山縣有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望
山本權兵衞
寺内正毅
原敬
高橋是清
加藤友三郎
清浦奎吾
加藤高明
若槻禮次郎
田中義一
濱口雄幸
犬養毅
齋藤實
岡田啓介
廣田弘毅
林銑十郎
近衞文麿
平沼騏一郎
阿部信行
米内光政
東條英機
小磯國昭
鈴木貫太郎
東久邇宮稔彦王
幣原喜重郎
吉田茂
片山哲
芦田均
鳩山一郎
石橋湛山
岸信介
池田勇人
佐藤榮作
田中角榮
三木武夫
福田赳夫
大平正芳
鈴木善幸
中曾根康弘
竹下登
宇野宗佑
海部俊樹
宮澤喜一
細川護熙
羽田孜
村山富市
橋本龍太郎
小渕恵三
森喜朗
小泉純一郎
安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
菅直人
野田佳彦
歴代の外務大臣
外務大臣(太政官達第69号)
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西德二郎
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号))
大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 - 松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -

田中義一 - 幣原喜重郎 - 犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衞文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豐田貞次郎 - 東郷茂德 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂德 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂

外務大臣(外務省設置法(昭和24年法律第135号))
吉田茂
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号))
吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平
外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号))
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦
歴代の財務大臣(大蔵大臣)
大蔵大臣(大日本帝国憲法下)
松方正義 - 渡辺国武 - 松方正義 - 渡辺国武 - 松方正義 - 井上馨 -松田正久 - 松方正義 - 渡辺国武 - 西園寺公望 - 曾禰荒助 - 阪谷芳郎 - 松田正久 - 桂太郎 - 山本達雄 - 若槻礼次郎 - 高橋是清 - 若槻禮次郎 - 武富時敏 - 寺内正毅 - 勝田主計 - 高橋是清 - 市来乙彦 - 井上準之助 - 勝田主計 - 濱口雄幸 - 早速整爾 - 片岡直温 - 高橋是清 - 三土忠造 - 井上準之助 - 高橋是清 - 藤井真信 - 高橋是清 - 町田忠治 - 馬場鍈一 - 結城豊太郎 - 賀屋興宣 - 池田成彬 - 石渡荘太郎 - 青木一男 - 櫻内幸雄 - 河田烈 - 小倉正恒 - 賀屋興宣 - 石渡荘太郎 - 津島壽一 - 広瀬豊作 - 津島壽一 - 渋沢敬三 - 石橋湛山
大蔵大臣(日本国憲法下)
片山哲 - 矢野庄太郎 - 栗栖赳夫 - 北村徳太郎 - 吉田茂 - 泉山三六 - 大屋晋三 - 池田勇人 - 向井忠晴 - 小笠原三九郎 - 一万田尚登 - 池田勇人 - 一万田尚登 - 佐藤栄作 - 水田三喜男 - 田中角栄 - 福田赳夫 - 水田三喜男 - 福田赳夫 - 水田三喜男 - 植木庚子郎 - 愛知揆一 - 田中角栄 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 坊秀男 - 村山達雄 - 金子一平 - 竹下登 - 渡辺美智雄 - 竹下登 - 宮澤喜一 - 竹下登 - 村山達雄 - 橋本龍太郎 - 海部俊樹 - 羽田孜 - 林義郎 - 藤井裕久 - 武村正義 - 久保亘 - 三塚博 - 橋本龍太郎 - 松永光 - 宮澤喜一
財務大臣
宮澤喜一 - 塩川正十郎 - 谷垣禎一 - 尾身幸次 - 額賀福志郎

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