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*その後、[[1961年]]にはリーグ優勝を果たすが、[[1961年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では巨人に敗れる。しかし、[[1964年]]には阪神との[[1964年の日本シリーズ|日本シリーズ]]を[[ジョー・スタンカ]]の2試合連続完封で制し、2度目の日本一に輝く。 | *その後、[[1961年]]にはリーグ優勝を果たすが、[[1961年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では巨人に敗れる。しかし、[[1964年]]には阪神との[[1964年の日本シリーズ|日本シリーズ]]を[[ジョー・スタンカ]]の2試合連続完封で制し、2度目の日本一に輝く。 | ||
*鶴岡は[[1965年]]に一旦辞任するが、後任[[監督]]となった[[蔭山和夫]]が就任4日後に急死したため復帰し、[[1968年]]まで指揮を執った。詳細は[[南海蔭山新監督急死騒動]]を参照。 | *鶴岡は[[1965年]]に一旦辞任するが、後任[[監督]]となった[[蔭山和夫]]が就任4日後に急死したため復帰し、[[1968年]]まで指揮を執った。詳細は[[南海蔭山新監督急死騒動]]を参照。 | ||
− | *[[テレビ]][[プロ野球中継|野球中継]]については、南海電鉄が主要株主でもあった[[毎日放送]]が1959年に[[毎日放送テレビ|MBSテレビ]] | + | *[[テレビ]][[プロ野球中継|野球中継]]については、南海電鉄が主要株主でもあった[[毎日放送]]が1959年に[[毎日放送テレビ|MBSテレビ]]を開局するに際し、大阪球場の全試合の独占中継契約を結んでいる。この年、南海が日本一になり、1961年刊行の毎日放送の社史はこの契約を「一大ヒット」と記すほどだった。この成功で南海側はテレビ中継の旨味を知ることになり、翌1960年の契約に当たっては人気を背景に[[放映権 (日本プロ野球)|放映権]]料要求を大幅にはね上げた<ref>『南海ホークスがあったころ』P151。南海側は前年の3倍の契約料を要求したという。</ref>。そこで、毎日放送側はホームゲーム35試合の優先放送契約で妥結した。だが、放映権料の高騰を危惧した毎日放送は1961年に南海との交渉を断念して、テレビの野球中継自体を大幅に縮小することとなった<ref>『南海ホークスがあったころ』P152</ref>(ただ、毎日放送との関係は、規模を大幅に縮小しながらも[[ダイエー]]への球団売却まで続いた)。その後、東京キー局の発言力が強くなり、関西地区においても[[日本テレビ放送網]]やその他の大手キー局系列による巨人戦の全国[[ネットワーク (放送)|ネット中継]]で巨人と同一のセ・リーグのために巨人と何度も対戦する阪神タイガース戦が頻繁に放送されるようになった。それによって従来パ・リーグ人気が高かった関西でも野球人気がセ・リーグ偏重となり、パ・リーグの南海の人気は低落していった。その結果として、南海戦のTV中継はさらに減少する悪循環であった。阪神への一極集中が進むにつれ、いかに阪神戦を確保するかに放送局の関心も移っていった<ref>[[井上章一]]『阪神タイガースの正体』(太田出版、2001年)には、1991年に刊行された毎日放送の社史において、1971年に甲子園の阪神・巨人戦の放送枠を得たことを強調したり、1970年代のナイター中継方針について「阪神、巨人を中心にしたセ・リーグに主眼を置き、パ・リーグ在阪球団のカードを混じえ…選ぶのが基本」と記されていることが紹介されている(同書P90~91)。</ref>。 |
*快進撃を続けたチームだが、当時から経営的には低迷した。毎年の[[赤字]]を電鉄本社が補填し続ける現状に、電鉄[[労働組合]]からは賃上げ闘争のつどやり玉に挙げられ、「野球に回す金があったら給料を上げろ」「早く球団を売れ」と[[黒字]]化の見通しの立たない球団への風当たりは強いものがあった(同じく鉄道会社が親会社の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]・[[オリックス・バファローズ|阪急]]も苦戦続きであった)。また、本拠地球場が難波という南海以外の鉄道でも来場可能な立地にあったために、鉄道業へのプラス効果が自社以外の鉄道では来場困難な阪神([[甲子園球場|甲子園]])や近鉄([[藤井寺球場|藤井寺]])などに比べて大幅に低いことも南海内でのホークスの立場を弱くしていた。 | *快進撃を続けたチームだが、当時から経営的には低迷した。毎年の[[赤字]]を電鉄本社が補填し続ける現状に、電鉄[[労働組合]]からは賃上げ闘争のつどやり玉に挙げられ、「野球に回す金があったら給料を上げろ」「早く球団を売れ」と[[黒字]]化の見通しの立たない球団への風当たりは強いものがあった(同じく鉄道会社が親会社の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]・[[オリックス・バファローズ|阪急]]も苦戦続きであった)。また、本拠地球場が難波という南海以外の鉄道でも来場可能な立地にあったために、鉄道業へのプラス効果が自社以外の鉄道では来場困難な阪神([[甲子園球場|甲子園]])や近鉄([[藤井寺球場|藤井寺]])などに比べて大幅に低いことも南海内でのホークスの立場を弱くしていた。 | ||
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*[[1959年]] - [[1968年]]:鶴岡監督のアイデアで肩から袖、パンツに太いラインを入れたデザインが登場。[[1960年]]から腰番号が付けられる。南海黄金時代を象徴するユニフォームであり、オールドファンは南海と言えばこのユニフォームを連想する。帽子のNHマークがNの右側とHの左側の縦線を共有するものから、電車の車輪をモチーフとしたHをNと組み合わせたものに変更された。 | *[[1959年]] - [[1968年]]:鶴岡監督のアイデアで肩から袖、パンツに太いラインを入れたデザインが登場。[[1960年]]から腰番号が付けられる。南海黄金時代を象徴するユニフォームであり、オールドファンは南海と言えばこのユニフォームを連想する。帽子のNHマークがNの右側とHの左側の縦線を共有するものから、電車の車輪をモチーフとしたHをNと組み合わせたものに変更された。 | ||
*[[1969年]]:[[飯田徳治]]監督就任で心機一転の意味もあり、深緑をオレンジが挟むデザイン、胸番号が登場(胸番号はオレンジ色)。背番号、胸番号の書体が[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]と同様のものになる。しかし最下位ということもあり1年で廃止。 | *[[1969年]]:[[飯田徳治]]監督就任で心機一転の意味もあり、深緑をオレンジが挟むデザイン、胸番号が登場(胸番号はオレンジ色)。背番号、胸番号の書体が[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]と同様のものになる。しかし最下位ということもあり1年で廃止。 | ||
− | *[[1970年]] - [[1971年]]:[[野村克也]]監督就任時より、鶴岡監督時代のデザインに戻る。但し、袖には太ラインが入っているが、肩ラインは無く。胸番号がつく。 | + | *[[1970年]] - [[1971年]]:[[野村克也]]監督就任時より、鶴岡監督時代のデザインに戻る。但し、袖には太ラインが入っているが、肩ラインは無く。胸番号がつく。 |
* [[1972年]] - [[1977年]]:カラーテレビの普及により、大幅にモデルチェンジ。伸縮性ニット製ユニフォームを採用する。ゲンを担ぐ[[野村克也]]兼任監督らしく毎年のように目まぐるしく細部のマイナーチェンジがあった。[[1974年]]~[[1976年]]にかけてはホーム用2種類、ビジター用2種類の計4種類のユニフォームを使い分けた。 | * [[1972年]] - [[1977年]]:カラーテレビの普及により、大幅にモデルチェンジ。伸縮性ニット製ユニフォームを採用する。ゲンを担ぐ[[野村克也]]兼任監督らしく毎年のように目まぐるしく細部のマイナーチェンジがあった。[[1974年]]~[[1976年]]にかけてはホーム用2種類、ビジター用2種類の計4種類のユニフォームを使い分けた。 | ||
**【パイレーツ型([[1972年]] - [[1976年]])】 | **【パイレーツ型([[1972年]] - [[1976年]])】 | ||
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*パンツ - [[日本オラクル]](2006年)→日本[[グッドイヤー]] (2007年)→[[外為どっとコム]](2008年 - ) | *パンツ - [[日本オラクル]](2006年)→日本[[グッドイヤー]] (2007年)→[[外為どっとコム]](2008年 - ) | ||
*選手移動用スーツ- [[セオリー (ファッションブランド)|セオリー]](2005年 - ) | *選手移動用スーツ- [[セオリー (ファッションブランド)|セオリー]](2005年 - ) | ||
− | :2005年度より移動用スーツおよびネクタイなどを提供。オフィシャルサプライヤーである。2007年は黒地にグレーのピンストライプスーツ、白いドレスシャツにグレーのドット柄ネクタイを合わせたデザインが提供された。またヤフードーム3塁側スーパーボックス壁面部分には2005年よりtheoryの看板広告の掲示がある。2007年5月22日の阪神タイガース戦は「セオリースペシャル」として開催され、ゲームデースポンサーとなる。始球式では社長が投球。女優の[[萬田久子]]も応援に駆けつけた。商品券5万円相当のプレゼントも実施された。 | + | :2005年度より移動用スーツおよびネクタイなどを提供。オフィシャルサプライヤーである。2007年は黒地にグレーのピンストライプスーツ、白いドレスシャツにグレーのドット柄ネクタイを合わせたデザインが提供された。またヤフードーム3塁側スーパーボックス壁面部分には2005年よりtheoryの看板広告の掲示がある。2007年5月22日の阪神タイガース戦は「セオリースペシャル」として開催され、ゲームデースポンサーとなる。始球式では社長が投球。女優の[[萬田久子]]も応援に駆けつけた。商品券5万円相当のプレゼントも実施された。 |
==チーム成績・記録== | ==チーム成績・記録== | ||
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:(1946年、1948年、1951年 - 1953年、1955年、1959年、1961年、1964年 - 1966年、1973年、1999年 - 2000年、2003年)※1 | :(1946年、1948年、1951年 - 1953年、1955年、1959年、1961年、1964年 - 1966年、1973年、1999年 - 2000年、2003年)※1 | ||
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2014年6月21日 (土) 00:30時点における版
福岡ソフトバンクホークス(ふくおかソフトバンクホークス、Fukuoka SoftBank Hawks)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。
福岡県を保護地域とし、同県福岡市中央区にある福岡Yahoo! JAPANドームを専用球場(本拠地)としている。また、ウエスタン・リーグに所属する二軍の本拠地は同市東区にある福岡市雁の巣レクリエーションセンター野球場である。
1989年に本拠地を大阪府から福岡県に移転して以来、九州地方で唯一のNPB球団である。
目次
球団の歴史
南海→近畿日本(グレートリング)→南海時代
戦前
- 1938年に南海鉄道を親会社とする南海軍(なんかいぐん)が結成される。同年3月29日に日本職業野球連盟に加盟し、秋季リーグ戦から参加(詳細は後述)。本拠地は大阪府堺市の堺大浜球場。
- 1939年に本拠地球場として中百舌鳥球場が完成したが、公式戦は主に阪急西宮球場と阪神甲子園球場で行われた。戦前のチーム成績は今ひとつではあったが、鶴岡一人、のち二宮勇次の主軸・岩本義行、悲劇のエース・神田武夫と実力のある選手がチームを支えた。
- 1944年の戦時企業統合政策(陸上交通事業調整法)により南海鉄道は関西急行鉄道と合併し同年6月1日より近畿日本鉄道となり、合わせてチーム名は近畿日本(きんきにっぽん)へ改称された(かつて存在した大阪近鉄バファローズとは球団としての関係はない)。
鶴岡監督政権
- 終戦後の1946年にプロ野球が再開されリーグに復帰。あわせてチーム名をグレートリングに改名した。愛称は「近畿」で、「近畿グレートリング」と呼ばれることもあった(参照)。監督は鶴岡一人(当時は山本姓)が選手兼任で務めた。戦後の混乱で物資・食料が不足する中、鶴岡は公私を問わず選手らの面倒をみるなど奔走。機動力を重視した戦術で、プロ野球再開シーズンを球団初優勝で飾った。
- 翌1947年6月1日、旧南海鉄道の事業一切が近畿日本鉄道から南海電気鉄道へ譲渡され、球団の親会社も南海電気鉄道へ移行。これにあわせてチーム名を南海ホークスに改称した。
- 1948年オフにはエース・別所昭が読売ジャイアンツ(以下、巨人と省略)に引き抜かれる事件が発生した。詳細は別所引き抜き事件を参照。
- 1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。1950年に新本拠地として大阪市内中心部にあたる難波の地に大阪球場が完成し、ようやく自前の球場を確保する。
- 1951年からリーグ3連覇。戦後より続けてきた機動力野球は、鉄壁の守備力を誇る「100万ドルの内野陣」(一塁・飯田徳治、二塁・鶴岡のち岡本伊三美、三塁・蔭山和夫、遊撃・木塚忠助)を生み出した。この頃の南海は「洗練されたプレーで観客を魅了する都会的なチーム」と評された。1955年にもリーグ優勝を果たしたものの日本シリーズではいずれも巨人に敗れ、「ナンカイ(何回)戦っても巨人に勝てないナンカイ(南海)」と揶揄された。
- 機動力野球では巨人に対抗できないと考えた鶴岡は、チーム構想を長打力重視の「400フィート打線」へと転換した。しかしなかなか軌道に乗らず、1956年から3年連続で西鉄ライオンズに苦杯を喫する。
- 1959年に立教大学から立教三羽烏「長嶋・杉浦・本屋敷」の一人杉浦忠が入団。長嶋茂雄は大学時代から南海に「栄養費」の支給を受けており、入団は確実と言われたが、土壇場のどんでん返しで巨人に奪われる。
- 1959年に4年ぶり7度目のリーグ優勝を果たす。この年は打線以上に杉浦忠を中心とする投手陣が強固であり、日本シリーズでは杉浦が第1戦から4連投して4連勝、4勝0敗のストレートで巨人を下し、球団初の日本一に輝いた。大阪市内を巡航したパレードは「涙の御堂筋パレード」と言われた。当時は強豪チームというだけでなく人気も阪神タイガースを凌ぎ関西一であった。また選手同士のビールかけが初めて行われた。
- その後、1961年にはリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは巨人に敗れる。しかし、1964年には阪神との日本シリーズをジョー・スタンカの2試合連続完封で制し、2度目の日本一に輝く。
- 鶴岡は1965年に一旦辞任するが、後任監督となった蔭山和夫が就任4日後に急死したため復帰し、1968年まで指揮を執った。詳細は南海蔭山新監督急死騒動を参照。
- テレビ野球中継については、南海電鉄が主要株主でもあった毎日放送が1959年にMBSテレビを開局するに際し、大阪球場の全試合の独占中継契約を結んでいる。この年、南海が日本一になり、1961年刊行の毎日放送の社史はこの契約を「一大ヒット」と記すほどだった。この成功で南海側はテレビ中継の旨味を知ることになり、翌1960年の契約に当たっては人気を背景に放映権料要求を大幅にはね上げた[1]。そこで、毎日放送側はホームゲーム35試合の優先放送契約で妥結した。だが、放映権料の高騰を危惧した毎日放送は1961年に南海との交渉を断念して、テレビの野球中継自体を大幅に縮小することとなった[2](ただ、毎日放送との関係は、規模を大幅に縮小しながらもダイエーへの球団売却まで続いた)。その後、東京キー局の発言力が強くなり、関西地区においても日本テレビ放送網やその他の大手キー局系列による巨人戦の全国ネット中継で巨人と同一のセ・リーグのために巨人と何度も対戦する阪神タイガース戦が頻繁に放送されるようになった。それによって従来パ・リーグ人気が高かった関西でも野球人気がセ・リーグ偏重となり、パ・リーグの南海の人気は低落していった。その結果として、南海戦のTV中継はさらに減少する悪循環であった。阪神への一極集中が進むにつれ、いかに阪神戦を確保するかに放送局の関心も移っていった[3]。
- 快進撃を続けたチームだが、当時から経営的には低迷した。毎年の赤字を電鉄本社が補填し続ける現状に、電鉄労働組合からは賃上げ闘争のつどやり玉に挙げられ、「野球に回す金があったら給料を上げろ」「早く球団を売れ」と黒字化の見通しの立たない球団への風当たりは強いものがあった(同じく鉄道会社が親会社の近鉄・阪急も苦戦続きであった)。また、本拠地球場が難波という南海以外の鉄道でも来場可能な立地にあったために、鉄道業へのプラス効果が自社以外の鉄道では来場困難な阪神(甲子園)や近鉄(藤井寺)などに比べて大幅に低いことも南海内でのホークスの立場を弱くしていた。
野村監督時代
- 1969年は飯田徳治が監督に就任したが、投手陣に怪我人が続出したこともあって戦後初の最下位に転落した。飯田は1年で辞任し、後任には選手兼任で野村克也が就任した。野村はヘッドコーチにドン・ブレイザーを招聘し、現在のID野球の原点となる「シンキング・ベースボール」をスローガンとした。野村時代はリーグ優勝は1973年のみだったが、6度のAクラス入りと安定した成績を残した。しかし1977年シーズン終盤に野村が解任されると後を追うように江夏豊・柏原純一もチームを去り、チーム力が大きく低下する。
広瀬監督時代から南海身売りまで
- 1978年、広瀬叔功が監督に就任すると、野村カラーの一掃を目指し、「泥まみれの野球」を標榜するも門田博光のアキレス腱断裂などもあり、6位、5位と低迷。ホークスの成績低迷と同時期に同じ関西の阪神タイガースでは掛布雅之や岡田彰布などの若きスター選手が台頭したこともあってますます両球団の人気格差は開き続けた。
- 1980年には「ドカベン」こと香川伸行が入団し、序盤は首位争いを演じるも結局は最下位に低迷し、広瀬は退陣。1981年と1982年は野村監督時代のヘッドコーチであるブレイザーが監督を務め、1983年にはかつてのスター穴吹義雄が二軍監督から昇格した。1984年には阪急や近鉄と首位争いを演じるも終盤に10連敗を喫し、優勝戦線から脱落してしまう。さらにシーズンオフ(1985年早々)にはスター候補として期待を集めていた久保寺雄二が帰省先で急死するアクシデントもあった。
- 1985年オフに黄金時代のエース・杉浦が監督に就任するも長期低迷には歯止めがかからなかった。杉浦監督就任直後に地元大阪出身で生え抜きのスター新井宏昌を近鉄に放出。新井は大活躍したが、その交換トレードで獲得した山口哲治は戦力にならなかった。1986年オフには巨人を自由契約となった加藤英司を獲得。
- 1987年11月、南海ホークスとして最後のプロ野球ドラフト会議で地元大阪のPL学園高校野球部主将で高校野球史上最高の遊撃手立浪和義を1位指名。しかし杉浦が抽選のクジを外し獲得に失敗、星野仙一率いる中日ドラゴンズに奪われた(再指名で本田技研熊本の左腕投手吉田豊彦獲得)
- 川勝傳オーナーが亡くなった1988年にダイエーへの球団売却が決定した。同年門田が40歳という年齢で44本塁打・125打点を挙げ40歳の選手としての最高記録をマークして南海最後の花道を飾った。南海としてのホームゲーム最終戦後のセレモニーで杉浦監督は「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、(福岡に)行ってまいります!」とのスピーチを残した。ちなみに、同じ年には阪急電鉄がブレーブスをオリエント・リース(現・オリックス)へ譲渡することを発表。関西を代表する2つの球団の歴史が大きく動いた年でもあった。
福岡移転以降
平和台
- 1988年11月1日、南海電鉄は「ホークス」の名を残すことと杉浦監督の留任を条件に、球団をダイエーに売却した。関西国際空港開業に伴う難波再開発事業を推し進め、不採算の球団を売却しようとする南海側と、福岡再開発事業の目玉に球団を保有し、九州を核としアジアをも視野に入れた商圏拡大を目論むダイエー側の思惑が一致したためであった。直後のドラフトでホークス入団を希望していた地元の福岡第一高校のエースで夏の甲子園準優勝投手前田幸長を2位指名する予定だったがロッテオリオンズが1位指名で獲得。
- 大阪市では売却に対し「難波のホークスはどこへもやらん!!」として反対・署名運動も行われたが(関西地区においても、今でもホークスファンが少なくない。その点に関しては後述)、身売り・移転は強行された。チームの本拠地は福岡市の平和台球場に移され、球団名も福岡ダイエーホークスと改められた。新天地となる福岡は、かつて南海と覇権を激しく争った西鉄ライオンズ(1970年代から長期低迷続けたオーナー中村長芳の福岡野球を母体とした時期経て1978年10月12日堤義明率いる西武グループが買収し埼玉・所沢市に移転して西武ライオンズ)の本拠地だっただけに福岡のファンに受け入れられるか心配されていたが、10年ぶりのプロ球団設置に地元では歓迎ムードの方が大きかった。もっとも移転後ダイエーがしばらく下位低迷を続けたこともあり、今のような圧倒的人気という訳には行かずスタンドには空席が目立つことも多かった。また、当時の西武との対戦では西武ファンの割合が多かった(福岡に移転した最初の年の平和台開幕戦は西武戦で、山内孝徳が西武・工藤公康との投手戦を2-1で制したが、この時にダイエーの法被を着て応援していたファンの中には事前に西武の法被も用意しており、西武が勝った時には西武の法被を着て球場を出ようとしていた人もいたという。また、移転直後の『週刊ベースボール』誌には、ダイエーと西武が裏表になった法被が売られていたという記事があった)。
- 移転初年の1989年はリーグチャンピオン近鉄バファローズに13勝11敗2分け、オリックス・ブレーブスに12勝13敗1分け、西武ライオンズに11勝13敗2分けと上位球団と互角に戦い、最終的に1位と3位の勝率が2厘差というパ・リーグ史上最大の混戦を演出する立役者となった。さらに準本拠地の北九州市民球場では7戦して全勝(特に最初の主催ゲームとなった4月20日は吉田豊彦の完投で、オリックスの開幕連勝を8で止めている)しており、ファンの間では「北九州不敗神話」と言われた。
- 1989年オフ田淵幸一が監督に就任し直後のドラフトでソウルオリンピック野球日本代表として準優勝した際の立役者で新日鉄堺・野茂英雄を1位指名し8球団競合の末近鉄に奪われた(再指名で南海時代の下部組織たる少年野球チームジュニアホークス出身の上宮高校元木大介の交渉権獲得も入団拒否)。1990年オフには福岡移転時に関西残留を希望しオリックスに移籍していた門田の復帰をはじめ積極的に交換トレードを敢行。生え抜きでも佐々木誠、吉永幸一郎、村田勝喜といった若手の成長はあったものの、1990年チーム成績6位、1991年5位、1992年4位とBクラスの壁を破ることができず田淵は辞任した。この時期のトレードで獲得した選手は今井雄太郎や島田誠、そして門田と引退間近な高年齢の選手の獲得が目立ち、池田親興、大野久、本原正治といった成功例はあったものの1 - 2年のみ活躍した後は長続きしなかった。この年を最後に平和台球場から撤退。
- 1991年入団テストで社会人野球・北陸銀行のエースだったが肘を壊して引退し家業の大工を継ぎながら軟式野球楽しんでいた田畑一也が200名近い全受験者中たった一人合格。パンチョ伊東が最後に司会進行した91年ドラフトで最下位指名。
福岡ドーム
- 1992年オフ、根本陸夫が監督に就任し直後のドラフトで90年アマチュア野球・ワールドオールスターゲーム初代最優秀選手で(3位決定戦制した)バルセロナオリンピック野球日本代表の主砲であり(投手としても登板したほどの)強肩外野手のたくぎん・佐藤真一を4位の下位指名ながら契約金1億円で迎えた。翌春、日本初の開閉式屋根を有するドーム球場として福岡ドームが完成するも、新本拠地での初年度は、ホームゲーム60試合でわずか18本塁打しか打てず(この年福岡ドームで4月18日公式戦第一号ホームランや個人年間最多ホームランを記録したのはホークスの選手ではなく近鉄のラルフ・ブライアントという有様、4月17日初の公式戦でも野茂英雄に完封負け喫した)、また投手陣も平和台時代の惨状が改善されないまま最下位に転落。これで南海時代の1978年からこの年まで16年連続シーズン負け越しで、これは国鉄スワローズの15年連続(1962年 - 1976年)を更新した日本プロ野球ワースト記録である。現状打破に向け、同年11月に佐々木誠・村田勝喜・橋本武広とのトレードで、西武ライオンズから秋山幸二・渡辺智男・内山智之を獲得。当人同士は勿論の事、両チームのオーナーにも正式発表まで知らされなかった、水面下での大型トレードを成立させ、日本中を驚かせた。
- 1994年、福岡に移転後初めて優勝争いに加わり、阪神よりFA移籍の松永浩美、カズ山本、ケビン・ライマー、秋山幸二という重量打線で快進撃を見せるも、わずかの差でAクラス入りを逃し4位となった。しかし、南海時代の1977年以来17年ぶりに勝ち越した(最終的に貯金が9あった)。同年オフのドラフト会議では、駒澤大学への進学を内定していた城島健司を1位指名した。また、FAで西武から石毛宏典・工藤公康も移籍。西鉄ライオンズ時代の本拠地だった関係で当時の福岡にはライオンズファンも多かったが、ライオンズから多くの主力選手を移籍させることにより、これらのファンをホークスファンとすることに成功した。
- 1995年、王貞治が監督に就任。大物助っ人・ケビン・ミッチェルも加入するなど実績のある選手が揃い、一気に優勝への期待が高まったが、故障者続出などにより5位に終わる。
- 1996年5月9日に日本生命球場で開催された近鉄バファローズ戦で敗北した後、日頃の采配を疑問視されていた王の乗ったバスに、ファンから生卵がぶつけられるという事件が発生した(詳細は後述)。この年は大不振で、この日で9勝22敗と大きく負け越しており、結局最下位に終わった。なお、本試合は同球場最後のプロ野球公式戦であった。また、この年で南海時代から19年連続Bクラスとなり、それまで広島カープが保持していた連続Bクラス日本記録(1950年から1967年までの18年)を更新した。この年、村松有人が盗塁王のタイトルを獲得。
- 1997年、日本ハムファイターズと同率の4位に終わり、20年連続Bクラスでかつ4位以下。連続4位以下の記録は近鉄バファローズの1950年から1968年までの19年連続を更新する日本プロ野球ワースト記録となった。
- 1998年、オリックス・ブルーウェーブと同率の3位に入り、南海時代から続いていた連続Bクラスの記録は20年で止まる。ただし前年度(1997年)の順位がオリックスの2位に対しダイエーは同率4位だったため、翌1999年の本拠地開幕権を獲得できなかった。表向きはAクラスだが、実質Bクラスである。
- 1999年、福岡移転後初のリーグ優勝。このとき、シーズン終了直前まで総得点が総失点を下回り、史上初の珍事かと話題になったが、最終的には総得点が上回った。さらに日本シリーズでは星野仙一率いる中日ドラゴンズを4勝1敗で下し、日本一となった。また、キャプテン秋山幸二が2本の本塁打とファインプレーでシリーズMVPを獲得した。秋山は西武時代の1991年にも日本シリーズMVPを獲得しており、史上初の2球団での日本シリーズMVP獲得者となった。球団の地元である北部九州地区でRKB毎日放送で中継された1999年10月28日の第5戦は、ビデオリサーチ調べで平均視聴率47.1%(RKB毎日放送史上1977年・1978年の日本レコード大賞に次ぐ歴代3位)、瞬間最高視聴率71.6%という驚異的な数字を記録した。
- 2000年、リーグ2連覇。日本シリーズは長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツとの対戦で「ON対決」と騒がれたが、2勝したのち4連敗で敗れた。尚、同年のチーム最多勝は若田部健一、永井智浩、吉田修司、篠原貴行の9勝であり、二桁勝利投手0人でのリーグ優勝は史上初。
- 2001年シーズンは終盤まで大阪近鉄バファローズ・西武ライオンズと優勝争いするも、最後は近鉄に破れ三連覇を逃した。この年、優勝した近鉄には19勝9敗と大幅に勝ち越したものの、西武ドーム・千葉マリンスタジアムで3勝11敗とビジターで弱かったのが敗因となった。
- 2002年5月14日と5月15日、台湾の台北市立天母棒球場で行われた対オリックス・ブルーウェーブ戦で、日本のプロ野球の公式戦としては戦後初となる台湾での試合が興行された(試合は1勝1敗、詳細は後述)。しかしその後失速し、優勝した西武に16.5ゲーム差をつけられる惨敗を喫する(台湾での蒸し暑い気候から一転、次のカード〈長野〉の気温1ケタ間近という寒さの中での試合が、多くの選手に同時に不調をもたらした原因ではないかと見られている)。同年、秋山が現役引退。チームは首位西武の独走を許しながらも近鉄と同率2位。
- 2003年、前年まで21年連続で負け越していた西武にも勝ち越し、リーグ「完全優勝」(全球団への勝ち越し)を達成。その後、阪神タイガースとの日本シリーズを4勝3敗で制し、福岡ダイエーホークスとして2度目(南海時代から数えて4度目)の日本一を達成した。また、史上初の100打点の選手が4人(井口資仁、松中信彦、城島健司、ペドロ・バルデス)の「100打点カルテット」が活躍した。詳細は後述。優勝パレード直後の11月3日小久保の無償トレードが発表され多くのファンから抗議が殺到する。(小久保無償トレード問題。)
- 2004年はシーズンを1位で通過しながら、同年から導入されたプレーオフ第二ステージで西武に2勝3敗で敗れ、優勝を奪われた。レギュラーシーズンの活躍と打撃三冠王を評価されてチームの主砲松中信彦がリーグMVP、抑え投手として活躍した三瀬幸司が新人王に輝き、ベストナインにも4名が入った。
- 2004年10月、秋山が2軍監督として球団復帰。
守備位置 | 選手 | ||
---|---|---|---|
ソフトバンク | 投手 | 小椋真介 高橋秀聡 馬原孝浩 新垣渚 和田毅 佐藤誠 神内靖 杉内俊哉 斉藤和巳 | |
内野手 | 仲澤忠厚 小久保裕紀 森本学 明石健志 本多雄一 川崎宗則 | ||
捕手・外野手 | 山崎勝己 柴原洋 松中信彦 城所龍磨 村松有人 |
二度目の球団売却 ソフトバンク時代
- 2004年10月13日、経営再建していたダイエーが自主再建を断念し産業再生機構への支援を要請し、機構側が「国営ホークスになることは無い」と語ったことから球団の売却が濃厚になる。一方では、オリックスと近鉄の合併問題に端を発したプロ野球再編問題なども絡み、ロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」を発足させる案が取り沙汰されたこともあった。観客動員数の伸び悩みや千葉市の財政難などに苦しむマリーンズ側と、親会社の経営難に苦しむ一方で、地理的に近い韓国への足がかりを狙っており、韓国にもプロ野球球団を持つロッテに大きな魅力を感じていたホークス側の思惑もあり、ロッテとの合併説も強く噂されることとなった。しかし、最終的には11月30日に、ソフトバンクが球団を総額200億円で買収することなどを正式発表し、同日付でNPB(日本プロフェッショナル野球組織)への加盟申請を行い、12月24日に、加盟申請(球団譲渡)がプロ野球オーナー会議で承認され、翌年1月28日にダイエーの保有する球団株式(所有割合98%、残りの2%は中内正オーナー〈当時〉が継続保有)をソフトバンクが50億円で譲り受けることで、問題は決着した。これと同時にソフトバンクとホークスタウンは、営業譲渡と合わせ20年間の福岡ドーム使用契約を結んだ。1年間の球場使用料は48億円となる。また同日付けでコロニー・キャピタル傘下のホークスタウンが所有する興行権を150億円で取得する営業譲渡契約を締結することで合意した。同日、ソフトバンクは新チーム名「福岡ソフトバンクホークス」と球団ロゴマークを発表。なお、次項に掲載しているマスコットや球団の応援歌などについてはダイエー時代のものを必要最小限の変更に留め、そのまま継承することを合わせて発表した。
- 2005年1月28日、ソフトバンクがダイエーの保有していた球団株式と興行権を取得し、福岡ドームの使用契約を締結することで名実ともに「福岡ソフトバンクホークス」のスタートを切った。また監督の王貞治が球団の取締役副社長兼GM(ゼネラルマネージャー)に就任することも発表された。
- 新チームマークは英語の「S(SoftBank)」と「h(Hawks)」を組み合わせたもの。チームロゴに挿入されている黄色の2本線は親会社であるソフトバンクのCIロゴをアレンジした。
- 戦力面では井口がシカゴ・ホワイトソックスへ移籍したが、オリックスへ吸収合併された大阪近鉄からFA宣言した大村直之を獲得。また、大リーグ通算214本塁打を誇り、独特のオープンスタンスで日本でも有名なスラッガーであるトニー・バティスタを2年総額1500万ドル(約15億8000万円)で獲得したほか、イチローのチームメイトでレギュラーとして活躍していたことで日本のファンにも知名度が高かったホルベルト・カブレラを年俸2億8000万円で獲得。二人の現役メジャーリーガーは新球団の目玉として期待された。
- 2005年1月30日、新チームお披露目・ファン交流イベント「The First Reception 2005」が福岡Yahoo!JAPANドームで行われた。このイベントで初めて新ユニフォーム・新応援歌・2005年のスローガンなどが発表された。「中高年が少年のような顔をして歌っているのを見て、これを変えたら暴動が起きるなと思った」と孫正義オーナーが語ったとおり、応援歌は歌詞などの一部最小限を改定した(「ダイエー」の部分を「ソフトバンク」に変えた)のみでそのまま引き継がれた。このイベントは有料だったが、入場料は全額がスマトラ島沖地震・新潟県中越地震の被災者を支援するための義援金に充てられ、孫オーナー自らもこれと同額の義援金を送ることを発表した。
- 2005年3月9日、6月28日と6月29日に予定されていた千葉ロッテマリーンズ戦の韓国開催が、ソウルで試合ができなくなったことと韓国プロ野球の人気低迷から採算が合わないと判断されたため、中止されることとなった。この2試合はロッテ側の主催試合であったため、千葉マリンスタジアムで代替開催された。千葉ロッテマリーンズ#360度全席自由席も参照。
- 2005年シーズンの開幕直後はロッテに先行を許したものの、セ・パ交流戦終盤からの15連勝や本拠地ヤフードームでの12連勝で首位に立つとその後は1度も転落することなく、レギュラーシーズンを89勝(勝率.664)という好成績で2位ロッテに4.5ゲーム差を付けて1位で通過した。しかし、プレーオフで1勝のアドバンテージを得るための条件「5.0ゲーム差以上」にはわずか0.5ゲーム届かなかった。また、城島の負傷離脱、松中の不振が最後まで響いた形となり、プレーオフでは2勝3敗で敗れ、またしても優勝を逃した。シーズンオフ、バティスタが退団、城島がシアトル・マリナーズへFA移籍。
- 2006年7月5日、ヤフードームでの西武戦後に王監督が記者会見を開き、胃の手術のため休養することを発表し、翌日からシーズンオフまでチームを離脱した。監督代行は森脇浩司チーフコーチが務めた。
- 2006年のプレーオフではレギュラーシーズン3位から第1ステージを制し勝ち上がるが、第2ステージでレギュラーシーズン1位の北海道日本ハムファイターズに2連敗を喫し、3年連続のプレーオフ第2ステージ敗退となった(この年は1位チームに無条件で1勝のアドバンテージが与えられていた)。
- 2006年シーズンオフ、カブレラが退団。フリオ・ズレータが千葉ロッテへ移籍。ヤクルトを自由契約になったリック・ガトームソンを獲得。小久保裕紀がFA移籍で巨人から復帰。寺原隼人とのトレードで横浜ベイスターズから多村仁を獲得。3番多村、4番松中、5番小久保の日本人クリーンナップは「和製大砲:TMK砲」と呼ばれる。
- 2007年は前年オフの大型補強により優勝の最有力候補に挙げられていたが、川﨑宗則、斉藤和巳をはじめ大村、新垣渚、小久保など主力選手に故障者が続出、ガトームソンのドーピング違反による出場停止、東北楽天に対する予想以上の苦戦(10勝14敗、特に田中将大に5敗、フルキャストスタジアム宮城で2勝10敗等)と予想外の事態が続いた。チーム打率・チーム防御率が共にリーグ1位であったものの、期待された「TMK砲」も3人合計で53本塁打にとどまるなど、シーズンを通じて波に乗れず3位に終わる。クライマックスシリーズ第1ステージでも千葉ロッテに1勝2敗で敗れ、4年連続のプレーオフ敗退となった。
- また、同年の大学・社会人ドラフトにおいて注目を集めていた東洋大学の大場翔太を巨人、オリックス、横浜、阪神、日本ハムとの抽選の末獲得。同年12月19日、契約金1億円+出来高5000万円、年俸1500万円の最高条件で仮契約を結んだ。
- 2008年のセ・パ交流戦で1試合を残して巨人、日本ハム、阪神と14勝9敗で首位に並ぶ四つ巴のデットヒートの末、最終戦でソフトバンクが巨人、阪神が日本ハムにそれぞれ勝利。15勝9敗で阪神と勝率、勝ち数で並んだが、交流戦の前年順位(9位=ソフトバンク、10位=阪神)で順位を決定する規定により、ソフトバンクの初優勝が決まった。シーズン後半になると中継ぎ投手陣や川崎など故障者が出た影響で打線の不振が目立つようになり、9月1日時点では2位だったが9月は5勝18敗と大ブレーキ。10月7日のレギュラーシーズン最終戦で同率最下位で並んでいた楽天との直接対決にサヨナラ負けを喫し、ソフトバンクとしては初、ダイエー時代の1996年以来12年ぶりとなるレギュラーシーズン単独最下位でシーズンを終えた。しかしこの不振などで主力選手(特に外国人投手陣など)が2軍に多くいたこともあって、ウェスタン・リーグでは24年ぶりの優勝を決め、ファーム日本選手権でもヤクルトを破り初の日本一となった。
- 球団側は王を終身監督とする意向があったが、同年9月23日、王監督が体調不良を原因に2008年シーズンを最後に辞任することを発表した。後任としてチーフコーチの秋山幸二が10月8日、監督に昇格した。そして王は、監督退任後ホークスの球団会長という役職に就任。
- 2009年は、交流戦序盤の6連勝などで波に乗り、6月16日には2年連続での交流戦優勝を決め、6月20日の横浜に勝利したことで初の交流戦完全優勝(全球団勝ち越し)を達成し、ホーム主催試合でも12戦中11勝した。この勢いに乗り、7月には一時首位に立つものの、シーズン後半になると6カード連続負け越しを喫するなど調子を落とす。10月2日には対パ・リーグ戦での負け越しが確定し、シーズン3位となった。クライマックスシリーズは第1ステージで楽天に連敗し敗退した。オフには、メジャーで活躍していた城島の獲得を目指していたが、年俸の高騰に対する懸念と田上秀則の成長を見越していたため後手に回り、城島は強い獲得の意思を示した阪神に入団したため、古巣復帰はならなかった。
- 2010年、6月13日の巨人戦に勝利しセ・パ交流戦12球団一番乗りとなる通算100勝を達成した。ホークスとしては3年ぶりとなる7連勝達成。
- 2010年、7月28日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦に4-2で勝利し9連勝を達成。またこの日セーブをあげた馬原孝浩が267試合目で通算150セーブを達成した。267試合目での達成は小林雅英(現巨人)の記録を抜いて日本人選手最速記録である(日本プロ野球最速記録は巨人・マーク・クルーンの250試合目)。
チームの特徴
監督
- 南海時代はチームの生え抜き選手が監督に就任したが、1981年から2年間指揮を取ったドン・ブレイザーは大リーグでプレーした後1967年に南海に移籍し3年間活躍した。その後、ダイエーになってからは田淵幸一、根本陸夫、王貞治と外様監督を招聘している。
- 優勝すれば監督の任期は長くなり、逆に優勝できなければ短くなるという傾向はどの球団にも見られるが、ホークスの場合はそれが顕著である。優勝11回の鶴岡一人が23年、優勝1回の野村克也が8年、優勝3回の王貞治は14年務め、2008年まで70年の球団の歴史でその3人が60パーセント以上の45年を占めている。
大阪時代
福岡時代
- ダイエー時代は強力打線を前面に押し出した豪快な野球を展開。ただし平和台時代は投手力の弱さから終盤での逆転負けが多かったため、親会社に掛けて「閉店間際の大バーゲン(または大売出し)」とも呼ばれた。1994年には「おっしょい打線」、2001年には「ダイハード打線」という愛称が付いた。特に2001年以降は、小久保裕紀・松中信彦・城島健司・井口資仁といった中軸を担う日本人選手のレベルが高く、来日以来3年連続で打率3割をマークしたペドロ・バルデスや、ホークス外国人のシーズン最多本塁打をマークしたフリオ・ズレータでさえ、彼らが極度のスランプに陥るか怪我で戦線を離脱しない限りはクリーンナップを打てないほどであった。2003年以降は、それまで打線の中核を担ってきた選手の長期離脱や退団(2003年に小久保(2006年オフにFAで復帰)、2004年に井口、2005年に城島など)が相次ぎ、助っ人外国人やトレードによる多村の獲得で凌いでいる。
- 福岡移転後の首脳陣の背番号は基本的に1軍が80番台、2軍が70番台、トレーニングコーチが91番以降の90番台("90番"は後述の準永久欠番)を使用している。南海最後の監督であり、引き続き福岡ダイエーの初代監督となった杉浦忠もこれに基づき、南海時代の71番を福岡ダイエーとなってからは81番に変更している。しかし、田上秀則は「中日を戦力外となり、その後ホークスに拾われた恩を忘れないため」と、選手でありながら70番をつけている。
- ダイエー時代のチームカラーはオレンジとエメラルド・グリーン。オレンジはユニフォームのラインや球団ロゴなどに使われ、エメラルド・グリーンは球団旗の地色などに使われた。
- チーム名が福岡ダイエーホークスだった1989年から2004年までの16年間、単独の優勝・2位・4位・5位・最下位はすべて経験しているが、単独3位になったことが1回もなかった。単独3位になりかけたことは1994年・1998年・2002年にあった。だが、チーム名が福岡ソフトバンクホークスになってから2年目の2006年にはホークスが福岡に移転して以来、初の単独3位を経験した。それまでは大阪近鉄バファローズや東北楽天ゴールデンイーグルスを除く11球団ではもっとも単独3位から遠ざかっていたチームであり、現在では千葉ロッテマリーンズがそうである。
- 本拠地である福岡Yahoo!JAPANドームでは、一塁側・ライト側はもちろんのこと、三塁側・レフト側もホークスファンが占めることがほとんどである。本拠地が日本で一番西に位置し、かつ他球団の本拠地からも遠く離れている(近接するチームはセ・リーグの広島東洋カープで約200km離れている)ため、他チームのファンが行きづらく、地元ファンが多数であることによる。ただ交流戦に限ると対阪神戦ではレフトスタンド-3塁側スタンドは阪神ファンが占める。(時にはバックネット裏まで) 福岡Yahoo!JAPANドームの1試合平均の観客数は31,194人で、パ・リーグではトップ、プロ野球12球団の中では阪神(41,765人)、巨人(40,755人)、中日(31,922人)に次ぎ第4位(2009年)。
- 1993年以降観客動員が200万人を超えている。
- 当然ながら地元九州では圧倒的な支持を集めているが、関東や関西にもホークスファンが多い。これは、関西では南海時代からのファンを引き継いだこと、関東では九州人の若者の上京志向の強さから、比較的出身者が多いことが理由として挙げられる。
- ホークスには、ダイエー時代より『月刊ホークス』と言う機関雑誌が存在し、地元九州はもちろん、全国の書店で販売されている(むしろ九州では発売日が2日遅れる)。
- 松中信彦や川崎宗則を中心にホークスの全選手がファンサービスを大事にしており、そのことが人気の理由のひとつになっている。これは現役時代どんなに不調のときもファンへのサインを断らずに応じ続け、監督就任後も快くファンサービスを行う王監督の姿勢がホークスナインに伝わったものといわれる。
- 福岡移転の元年である平成元年(1989年)は、福岡ダイエー(当時)の試合を平日のホームゲーム(勿論ナイター)の限定で、福岡放送制作で中継していたものを、系列局である東京の日本テレビで深夜0時30分から1時間程のダイジェストに編集し割と頻繁に録画放送していた(これは同年のみの中継で、解説は現在と同じ長池徳士を中心に、ごく稀に当時系列局・広島テレビの解説者だった小林聖始[現・中日コーチ]も担当した)。このほか、当時ダイエーと資本関連があったサンテレビジョンでも随時自社制作、あるいは九州朝日放送協力でホームゲームの中継を行っていた。(-1994年ごろと、2001年)
- 現監督の秋山や、かつての城島、松中、杉内俊哉、馬原孝浩、川﨑、本多雄一など主力選手に九州出身者が比較的多くいる。
球団愛称
- 戦後チームの球団愛称となった「グレートリング」は鉄道の車輪をイメージし、併せて近鉄の社章や沿線の「大和」(大→おおきな 和→わ に掛けて、大きな輪→グレートリング)地区、並びに合併会社である近鉄の一致団結をイメージしたものだった。しかしこれが性に関するスラングであったため、このチーム名を面白がって観戦に来た米軍兵士が「グレートリング」という言葉を聞くたびに大笑いしていたという(資料によって「女性器」「男性器」「性行為」と複数の説がある[4]。あくまで俗語であるため真説は不明)。そのため翌年の親会社の変更に合わせて南海「ホークス」と改称している。
- 「ホークス」は南海電鉄の社章が車輪の両側から鳥の羽根が伸びる意匠だったことから、鳥の名前から選択して決定した(この社章はもともと南海電鉄の前身の1つである阪堺鉄道〈現在の阪堺電気軌道とは別〉のもので、さらに元をたどれば当時阪堺鉄道がイギリスから輸入した客車に付いていたカーテンのデザインに由来するという)もので、ダイエー、ソフトバンクがそれぞれ買収した後も現在に至るまで引き継がれている。南海ホークスの球団史である『南海ホークス四十年史』(1978年)には、当初コンドルも愛称の有力候補に挙がったが、当時の松浦竹松球団代表が禿頭であったことから、オオハゲタカであるコンドルを名乗るのは遠慮されたとある[5]。また、南海電鉄社内報『親和』に1960年に掲載された文章には、最終候補として「ホークス」のほかに「カージナルス」があったという伝聞がみられる[6]。のちに、ソフトバンクに譲渡される際にもチーム名を「コンドルス」にするプランがあったと孫正義オーナーが語っていたが、これは自らの頭髪が薄いことにかけた冗談である。また、一説にはホークスの名前の起源は高島屋難波店にある鷹の彫刻によって命名された、という説もある。
- 「ホークス」は1947年途中から使用しており、これは日本球界では「タイガース」(1936年から、ただし戦時中は使用していない)、「ジャイアンツ」(1947年から、ただし「巨人軍」は1936年から)、「ドラゴンズ」(1947年から)に次いで歴史が長い。
- 福岡移転直後のダイエーホークス低迷期には「ホークスの愛称を変更か?」との報道が何度かマスコミを賑あわせたことがあったが当時フロント入りしていた杉浦忠らの反対もあり存続され今日に至り、今や地域に根付いている。当時のオーナー代行の中内潤は「伝統のあるホークスの名前をダイエーという一企業の判断で代えることは出来なかった」とある雑誌のインタビューで語っている。
マスコット
福岡ソフトバンクホークスのマスコットは鷹を擬人化したもので、「ハリー・ホーク」など8体。
ユニフォームの変遷
大阪時代
- 1938年 - 1940年:「NANKAI」のロゴで前立てにラインが入る。左袖には当時の南海社章をアレンジした「ボールに羽が生えたマーク」。
- 1940年 - 1943年 戦況の悪化によりロゴが漢字(四角の囲みに入る)となるが、ワッペンはそのまま残された。1944年に親会社・南海電鉄が近畿日本鉄道と合併し近畿日本となったがユニフォームは不明。
- 1946年 - 1947年:前立てラインに新しいチームカラーのグリーンを使用。1947年からユニフォームの左胸に南海のマークを使用。ビジターは「GREATRING」のロゴで後に「N」一文字に。
- 1947年 - 1949年:球団名が南海ホークスとなり、ダークブルーのユニフォームが登場。帽子が白でツバが緑。
- 1948年:戦後の黎明期に縦縞を使用。優勝するものの1年で廃止。
- 1949年 - 1950年:1988年の球団身売りまで使用していたロゴが登場。縁取りは黄色。ビジター用にあたるグレーのユニフォームは鷹のマークだったが、1950年からシールズ型のユニフォームが登場。
- ロゴや鷹のマークなど、この年に登場したホークスの意匠は今竹七郎が制作した。
- 1951年 - 1958年:ボタンが比翼仕立てのユニフォームが登場。ラインも廃止され、シンプルな印象となった。この間、帽子マークが1956年から変更される。
- 1959年 - 1968年:鶴岡監督のアイデアで肩から袖、パンツに太いラインを入れたデザインが登場。1960年から腰番号が付けられる。南海黄金時代を象徴するユニフォームであり、オールドファンは南海と言えばこのユニフォームを連想する。帽子のNHマークがNの右側とHの左側の縦線を共有するものから、電車の車輪をモチーフとしたHをNと組み合わせたものに変更された。
- 1969年:飯田徳治監督就任で心機一転の意味もあり、深緑をオレンジが挟むデザイン、胸番号が登場(胸番号はオレンジ色)。背番号、胸番号の書体が近鉄バファローズと同様のものになる。しかし最下位ということもあり1年で廃止。
- 1970年 - 1971年:野村克也監督就任時より、鶴岡監督時代のデザインに戻る。但し、袖には太ラインが入っているが、肩ラインは無く。胸番号がつく。
- 1972年 - 1977年:カラーテレビの普及により、大幅にモデルチェンジ。伸縮性ニット製ユニフォームを採用する。ゲンを担ぐ野村克也兼任監督らしく毎年のように目まぐるしく細部のマイナーチェンジがあった。1974年~1976年にかけてはホーム用2種類、ビジター用2種類の計4種類のユニフォームを使い分けた。
- 【パイレーツ型(1972年 - 1976年)】
- 1972年より、当時のピッツバーグ・パイレーツを参考にしたベルトレスプルオーバータイプが登場。胸ロゴ、背番号、胸番号、帽子、アンダーシャツ、ストッキングは黒に近い深緑。NHマークと通気穴は黄土色、首、パンツのラインは深緑と黄土色の2本、袖、腰は深緑、白、黄土色の3本。
- ホーム用は上下白。Hawksのロゴ、背番号、胸番号は黄土色の縁取り。
- ビジター用は上下ブルーグレーで、NANKAIのロゴ、胸番号、背番号には白の縁取りがつく。
- 1974年より、パンツのラインが、深緑と黄土色の2本ラインから、黄土色のラインの両サイドを深緑の細ラインで挟んだ3本ラインに変わる。
- 1975年より、ホーム、ビジター共左袖にペットマークがつけられる。
- 1972年より、当時のピッツバーグ・パイレーツを参考にしたベルトレスプルオーバータイプが登場。胸ロゴ、背番号、胸番号、帽子、アンダーシャツ、ストッキングは黒に近い深緑。NHマークと通気穴は黄土色、首、パンツのラインは深緑と黄土色の2本、袖、腰は深緑、白、黄土色の3本。
- 【アスレチックス型(1974年 - 1976年)】
- 1974年よりパイレーツ型ユニフォームにプラスする形で、当時のオークランド・アスレチックスを参考にしたユニフォームを新たに採用する。帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黄緑色、NHマークは白。パンツのサイドラインは黄緑・黄・黄緑の3本ライン。またソックスが黄色になる。(1974年の初期のみアンダーシャツが黄色)。
- ホーム用は、Hawksロゴ、胸番号、背番号は黄緑色で、縁取りは深緑、首は黄色、黄緑の2本ライン、袖、腰は黄緑、黄、黄緑の3本ライン。
- ビジター用の上着は黄緑色、パンツは白で、NANKAIロゴ、胸番号、背番号は白で、縁取りは深緑、首は黄色、白の2本ライン、袖、腰は黄、白、黄緑の3本ライン。
- 1975年には、Vネックになり3本ラインに変わる。さらに左袖にパイレーツ型同様、ペットマークが付けられる。
- ホーム用は黄緑、黄、黄緑の3本ライン。
- ビジター用は黄、白、黄の3本ライン。
- 1976年には、ビジター用のパンツのサイドラインが消える。
- 1974年よりパイレーツ型ユニフォームにプラスする形で、当時のオークランド・アスレチックスを参考にしたユニフォームを新たに採用する。帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黄緑色、NHマークは白。パンツのサイドラインは黄緑・黄・黄緑の3本ライン。またソックスが黄色になる。(1974年の初期のみアンダーシャツが黄色)。
- 【プロトタイプ(1976年・1977年)】
- 【パイレーツ型(1972年 - 1976年)】
- 1977年のみ、パイレーツ型ユニフォームが廃止になり、アスレチックス型ユニフォームがマイナーチェンジ。袖、腰のラインに新たに赤が取り入れ、首周りがVネックから丸首に戻る。この年より背番号の上にローマ字で選手名が入り、スパイクの色が白地に黄緑のラインとなる。
- ホーム用は、袖、腰が黄緑、黄、赤の3本ライン、首が深緑、黄緑、深緑の3本ライン。
- ビジター用は、袖、腰が赤、白、黄の3本ライン、首が黄、白、黄の3本ライン。
- 1978年 - 1983年:野村克也監督解任、広瀬叔功監督就任に伴い、ユニフォームを一新。左肩のペットマークが取り外され、ホーム、ビジター共色使いはそのままで、鶴岡監督時代の象徴であった肩、袖の太ラインが復活。(太ライン、ロゴ、背番号、胸番号:ホーム用は黄緑、ビジター用は白で、それぞれ黒の縁取り)、
- 1984年 - 1988年:前年の穴吹義雄監督就任に伴い、南海黄金時代の象徴であった深緑色が復活。肩、袖のラインが肩、袖に深緑の2本ラインとなる。
- ビジター用は上半身深緑で肩にラインがない。
福岡時代
- 1989年 - 1992年:球団名が「福岡ダイエーホークス」となり、三宅一生デザインにより一新。ダイエーのイメージカラーであるオレンジと、こげ茶色を基調とした縦縞(ホーム、ビジター共)となる。胸ロゴはホーム用が「Hawks」、「Hawks」の左上に小さく「Daiei」がつき、ビジター用が「Daiei」、「Daiei」の左上に小さく「FUKUOKA」がつく。背番号、胸番号の書体が変更になり、西武ライオンズと同じ書体になる。
- 1993年 - 2004年:根本陸夫監督就任により、モデルチェンジ。シンプルなデザインとなる。上着はホーム用は白地、ビジター用は黒地で、ホーム用は黒・ビジター用は白のラケットライン。パンツは白地。また帽子のFDHマークを縦並びにしたロゴが左胸につき、右みごろの中心には胸番号がつく。帽子は黒地。FDHマークは帽子・ユニフォームともにホーム用はオレンジ、ビジター用は白。
- 2005年 - :球団名が「福岡ソフトバンクホークス」に変更。ダイエー時代のデザインを継承しつつ、基本的は色づかいは変わらないものの、ダイエーのイメージカラーのオレンジから、ソフトバンクのイメージカラーであるレボリューション・イエローにチームカラーが変わり、上着は地色がホーム用が白、ビジター用は黒と、ダイエー時代の色を踏襲。グレーのラケットラインが入り、胸に「SoftBank HAWKS」(ホーム)・「SoftBank」(ビジター)のロゴが入る。両袖にはソフトバンクのイメージシンボルである2本の太ラインが入っている。ラインの色は、ホーム用がイエロー、ビジター用が白。ビジター用のみ左袖に「HAWKS」の白い文字があるが、スポンサー広告の入るユニフォームの場合は、右袖に移される。パンツは白で、ホーム用はイエロー、ビジター用はグレーでそれぞれ2本の細ラインが入っている。帽子・ヘルメットのつばは再び黒となった。帽子マークはイエローで「h」に「S」を絡めたモノグラム。福岡の「F」はこのときに削除されている。
- 2006年7月 - :帽子が、後述の鷹の祭典ユニフォームで登場したつばがイエローのものになる。つばの色が違う帽子は、ダイエー時代後期と同じである。なおヘルメットは以前と同じくつばは同色のまま。
- 2008年:右肩のペットマークが「ホークス70周年&福岡移転20周年」のロゴマークになる。同年から、スパイクが黒地に白ラインのものに変更される。
特別ユニフォーム
- 2006年7月15日から17日まで「鷹の祭典2006 in ヤフードーム」と題したイベントが開催され、3日間限定のユニフォームを使用。イベントのキャッチフレーズである「BIG YELLOW DREAM」にちなみ、チームカラーであるレボリューション・イエローをベースにしている。また、同時に登場したつばの色がレボリューション・イエローの帽子は後半戦以降も継続して使用されることになった。この帽子は2007シーズン以降も使用されている。2007年の鷹の祭典でも、違うデザインの限定ユニフォームが着用されている(鷹の祭典参照)。
- 2008年の交流戦の阪神タイガース戦では、ホークス誕生70周年及び福岡移転20周年記念事業の一環としてホーム(5月24日、ヤフードーム)ではダイエー時代の復刻版ユニフォーム、ビジター(6月6日、甲子園)では南海時代の復刻版ユニフォームをそれぞれ使用した。なお、ダイエーモデルを着用していた2003年、南海モデルだった1964年はともに、阪神を下して日本一になっている。また同じく交流戦の中日ドラゴンズ戦においても6月12日のヤフードームでの試合にダイエー時代のユニフォームを着用することが追加決定された。福岡移転後のホークスが初めて日本一になったのが1999年で相手は中日だった。
- また、南海時代のユニホームの復刻版は8月3・4日のオリックス戦(京セラドーム大阪 現状大阪における唯一のプロ野球球団)でも着用された。南海の復刻モデル着用の試合では、応援団が南海時代の応援歌を演奏したり、「(相手球団)倒せーオ!」の掛け声がかかるなどされた(オリックス戦では「近鉄倒せーオ!」とコールされた)。
運営会社
- 福岡ソフトバンクホークス株式会社
- 球団保有
- 福岡ソフトバンクホークスマーケティング株式会社
- 野球及びその他スポーツ施設の経営・管理
- 映像や音声等コンテンツの配信サービス
ユニフォーム等のスポンサー
- ヘルメット - サニックス(白蟻駆除会社)(2002年 - 2006年途中)→ベスト電器(2007年 - )
- ユニフォームの袖 - エムシーコーポレーション(2001年 - 2005年)→アパマンショップ(2006年 - 2008年)→ソフトバンクモバイル[7](2009年)→皇潤(エバーライフ)[8](2010年-)
- パンツ - 日本オラクル(2006年)→日本グッドイヤー (2007年)→外為どっとコム(2008年 - )
- 選手移動用スーツ- セオリー(2005年 - )
- 2005年度より移動用スーツおよびネクタイなどを提供。オフィシャルサプライヤーである。2007年は黒地にグレーのピンストライプスーツ、白いドレスシャツにグレーのドット柄ネクタイを合わせたデザインが提供された。またヤフードーム3塁側スーパーボックス壁面部分には2005年よりtheoryの看板広告の掲示がある。2007年5月22日の阪神タイガース戦は「セオリースペシャル」として開催され、ゲームデースポンサーとなる。始球式では社長が投球。女優の萬田久子も応援に駆けつけた。商品券5万円相当のプレゼントも実施された。
チーム成績・記録
- 優勝 15回
- (1946年、1948年、1951年 - 1953年、1955年、1959年、1961年、1964年 - 1966年、1973年、1999年 - 2000年、2003年)※1
- セ・パ交流戦優勝 2回 (2008年 - 2009年)
- 日本一 4回
- (1959年、1964年、1999年、2003年)
- Aクラス 39回
- (1941年、1946年 - 1966年、1968年、1970年、1972年 - 1974年、1976年 - 1977年、1998年 - 2007年、2009年)※2
- Bクラス 31回
- (1938年秋 - 1940年、1942年 - 1944年、1967年、1969年、1971年、1975年、1978年 - 1997年、2008年)
- 連続Aクラス入り最長記録 21年(1946年 - 1966年)
- 連続Bクラス最長記録 20年[日本プロ野球記録](1978年 - 1997年)
- 前期優勝 1回(1973年前期)
- レギュラーシーズン1位(リーグ優勝年を除く) 2回(2004年、2005年)
- 最多勝 99勝(1955年)
- 最多敗 85敗(1990年)
- 最多引分 16分(1974年)
- 最高勝率 .750(1951年)
- 最低勝率 .283(1940年)
- 最多連勝 18(1954年)
- 最多連敗 15(1969年)※1引き分けを挟む
※1 1973年は前期1位(年間勝率では3位)でプレーオフに進出し、阪急に3勝2敗と競り勝って優勝。
※2 1998年はオリックスと同率の3位であり、1997年はオリックスは2位・ダイエーは同率4位のため、1999年の開幕権を得られず。
2004年・2005年のプレーオフはレギュラーシーズン1位で第2ステージに進出(5ゲーム差以上で1勝のアドバンテージを得られることになっていたが、両年とも4.5ゲーム差で、アドバンテージ無しでの戦いとなった。)。2004年は西武、2005年はロッテに、共に2勝3敗で敗退。当時のプレーオフの規定により、両年とも最終成績は2位となった。
2006年のプレーオフは、レギュラーシーズン3位により第1ステージから登場。シーズン2位の西武を2勝1敗で破って第2ステージに進むものの、この年は、2004年・2005年と2年続けてレギュラーシーズン1位のチーム(ホークス)が敗れたため制度が変更され、ゲーム差に関係なく無条件で1位チームに1勝のアドバンテージが与えられたこともあり、シーズン1位の日本ハムに2連敗で敗退。
2007年は、レギュラーシーズン3位で、この年からセ・リーグもプレーオフ制を導入し、名称変更されたヨドバシカメラ・クライマックスシリーズ・パに第1ステージから登場。千葉ロッテに1勝2敗で敗退した。(この年から、レギュラーシーズン1位がリーグ優勝となり、クライマックスシリーズ自体は、日本シリーズへの出場権をかけた戦いとして位置づけられるようになった。)
その他の記録
- 最小ゲーム差 0.5ゲーム(1954年、1956年)
- 最大ゲーム差 45.5ゲーム(1940年)
- 最高得点 822(2003年)
- 最多安打 1461本(2003年)
- 最多本塁打 203本(2001年)
- 最小本塁打 3本(1944年)
- 最高打率 .297(2003年)※プロ野球記録
- 最低打率 .184(1943年)
- 最高防御率 1.82(1941年)
- 最低防御率 5.63(1980年)
歴代の本拠地
- 1938年 堺大浜球場
- 1939年 - 1947年 中百舌鳥球場(実際にはあまり使用せず)
- 1948年 - 1949年 甲子園球場
- 1950年 - 1988年 大阪球場(※1950年のシーズンは9月に大阪球場が完成するまで藤井寺球場などを使用)
- 1989年 - 1992年 平和台野球場
- 1993年 - 現在 福岡ドーム(2005年、"福岡Yahoo! JAPANドーム"に改称)
その他、福岡移転後は準本拠地として北九州市民球場や藤崎台県営野球場でも公式戦を行っている。
歴代の監督
- 1938年 - 1940年 : 高須一雄
- 1941年 - 1942年 : 三谷八郎
- 1942年 : 加藤喜作 (第1次)
- 1943年 : 高田勝生
- 1943年 - 1945年 : 加藤喜作 (第2次)
- 1946年 - 1965年 : 山本一人→鶴岡一人 (第1次) ※1
- 1965年 : 蔭山和夫 ※2
- 1966年 - 1968年 : 鶴岡一人 (第2次)
- 1969年 : 飯田徳治
- 1970年 - 1977年 : 野村克也 ※3
- 1978年 - 1980年 : 広瀬叔功
- 1981年 - 1982年 : ドン・ブレイザー
- 1983年 - 1985年 : 穴吹義雄
- 1986年 - 1989年 : 杉浦忠
- 1990年 - 1992年 : 田淵幸一
- 1993年 - 1994年 : 根本陸夫
- 1995年 - 2008年 : 王貞治 ※4
- 2009年 - : 秋山幸二
※太字は優勝達成監督
- ※1 1962年シーズンは成績不振を理由に数ヶ月間休養。この間に蔭山和夫が代行
- ※2 就任4日後に実質指揮を執ることなく急逝。南海蔭山新監督急死騒動を参照
- ※3 1977年はシーズン終了まで2試合を残して解任。残り2試合は穴吹義雄が代行
- ※4 2006年7月6日から2006年シーズンオフまで手術のため休養。森脇浩司が代行
永久欠番
- なし
準永久欠番扱い
- 15:藤井将雄
- 「炎の中継ぎ」として活躍し、1999年、当時のパ・リーグ最多ホールド記録を樹立。福岡移転後のリーグ初優勝および日本一の原動力となる。日本シリーズ中に胸部の痛みを訴え、入退院を繰り返しつつも復活を期して2軍で調整していたが、2000年10月13日、チームのV2を見届けたのち、肺癌のために逝去。享年31。
- 2001年以降、15番は欠番となっており、近い将来正式に永久欠番となることも検討されている。
- 89:王貞治
- 1995年から2008年までの14年間、ホークスの監督として指揮を執り3度のリーグ優勝と2度の日本一を成し遂げ(巨人監督時代を含むと4度のリーグ優勝)、ゼネラルマネージャーとしても球団に多大な功績を残した。球団は背番号89番を空けて将来の監督に与える方針を示していたが、王の後を継いだ秋山幸二が「恐れ多くも自分が背負うには重すぎる」と辞退。これにより、球団は89番を欠番扱いとする事を表明した。
- 90:景浦安武(あぶさん)
- 水島新司の漫画『あぶさん』の主人公で、外野手兼指名打者。無論架空の選手である。連載開始の1973年から「現役引退」となった2009年まで90番をつけ続けていた。
- 藤原満がコーチ就任時に背番号90を希望するものの、水島から「これはあぶさんの背番号だから」と断られたという逸話があるほどで、暗黙の了解でこの背番号の使用は禁制となっている。そのため、南海時代から90番をつけた人物はなく、現在に至るまで球団の配慮で欠番扱いになっている。
かつての準永久欠番
- 9:小久保裕紀
- 2003年シーズン終了後に読売ジャイアンツへ無償トレードされて以降、チーム不在の3年間、ダイエー時代につけていた「9」は永久欠番扱いであった。ホークスに復帰した2007年以降、引き続き「9」を付けてプレーしている。
主な歴代球団歌
- 灰田勝彦は「歌手よりも野球選手になりたかった」と公言するほどの野球ファンで、野球関連ではこの曲以外にも『野球小僧』『輝けロビンス』(大陽ロビンス球団歌)を歌っている。福岡ソフトバンクホークスになった現在においても関西でのゲームでは試合の合間に応援団によりトランペットで演奏される。ホークス応援席では南海時代からのファンを中心に異様な盛り上がりを見せるのが常である。
- 福岡移転以来、「WE ARE THE CHAMPION……」の節で始まる長年公式球団歌としてその役を担っていた。球場(試合開始1時間前に流されていた)の他、ダイエー系列店舗や系列コンビニエンスストアのローソンでもこの曲が流され、優勝の際やシーズン終了のセレモニーで流された。また、平成元年から平和台時代を中心に、時折中継していたサンテレビのホークス戦中継の合間のCMに入る直前の音楽としても(得点スコアをバックに)この歌の終りの演奏部分が起用されていた。しかし、後述の『いざゆけ若鷹軍団』(当時:公式応援歌)に対して知名度が低く、ソフトバンクに球団が移行すると共にその幕を下ろすことになった(後年、阿久悠は、この曲が利用されなくなってしまったことを大変遺憾に思うというコメントを発表している)。
- 球団公式サポートソング。九州朝日放送全面協力のもと、KBCラジオ内で応援歌タイトルを募集、それをもとにエスカーゴが楽曲制作、KBC野球放送でのオンエアーの他、STOPやオールザッツホークス等のイベントで歌われた。
- なお、エスカーゴは2003年に解散している。
- 勝利の空へ(作詞・作曲・歌:藤井フミヤ)
- 球団公式セレモニーソング。福岡ソフトバンクホークスの誕生に合わせて制作され、2005年の開幕戦で藤井本人によって初披露された。ヤフードームでの試合に勝った時は「勝利の花火」を上げて『いざゆけ若鷹軍団』とこの曲が流れるのが定番となっている。開幕後初勝利の試合後や、藤井本人がライブなどで来福している際、生歌を披露することがある。
キャンプ
ホークスの春季キャンプでは、毎朝数人ずつの選手がその年の目標や意気込みをほかの選手・首脳陣の前で大声で発表する。これは「朝の声出し」などと呼ばれているがA組は2008年で廃止となった。
キャンプ地
- 以前は高知県の高知市営球場で行われていたが、他球団がこぞって九州にキャンプ地の拠点をするのに対し、九州の球団なのに九州をキャンプ地にしないのは矛盾しているという声と、キャンプ地誘致に積極的な宮崎県(その当時は東国原英夫知事の就任前ではあったが)の思惑が一致した為移転する。
- 南海時代は、1960年頃には海外(ハワイ)キャンプを張ったこともあったが、晩年は呉でキャンプを張っていた。
- ダイエー時代は、初年度はハワイで実施。その後は沖縄県でキャンプを張った時期もあったが、多雨に悩まされたこともあり、高知にキャンプ地を移した。
- 2009年キャンプの観客人数が減り、同じ宮崎県でキャンプをする読売ジャイアンツより従来は人数が多かったが、この年は巨人に抜かれた。
福岡移転後のチームスローガン
福岡ダイエーホークス
- 1989年:Just Now For The Fan
- 1990年:Action Baseball
- 1991年:Action Baseball Ⅱ〜嵐を起こせ鷹軍団
- 1992年:BIG CHALLENGE '92
- 1993年:GO WILD! GO!〜野生派宣言
- 1994年:ING 1994年、何かが起こる
- 1995年:AIMING 狙います。
- 1996年:一二三いかせます。
- 1997年:Wild but Balanced
- 1998年:AIMING2
- 1999年:Get the top
- 2000年:めざせ! V2
- 2001年:Super Hawks 2001〜鷹の時代
- 2002年:2002 Super Hawks AGAIN〜All Together
- 2003年:Victory Again〜羽ばたけHAWKS
- 2004年:GOLDEN HAWKS〜果てしなき勝利への挑戦
福岡ソフトバンクホークス
- 2005年:めざせ世界一!
- 2006年:めざせ世界一!
- ほかに「WE = HAWKS」、ロッテ戦限定スローガンとして「倍返し。」
- 2007年:めざせ世界一!
- ほかに「WE = HAWKS」、「ストロングホークス」、終盤戦・クライマックスシリーズスローガンとして「優勝へ、全開!」
- 2008年:めざせ世界一!
- ほかに「WE = HAWKS」、開幕戦スローガンとして「熱気ブン!ブン!全員開幕」、シーズン終盤に「誇りを胸に、頂点へ」
- 2009年:「フリキレ!! 全員、全開、前進ホークス。」
- ほかに「WE = HAWKS」、終盤戦スローガンとして「フリキレ!! いざ、頂点へ。」
- 2010年:「今年はやらんといかんばい!」
脚注
- ↑ 『南海ホークスがあったころ』P151。南海側は前年の3倍の契約料を要求したという。
- ↑ 『南海ホークスがあったころ』P152
- ↑ 井上章一『阪神タイガースの正体』(太田出版、2001年)には、1991年に刊行された毎日放送の社史において、1971年に甲子園の阪神・巨人戦の放送枠を得たことを強調したり、1970年代のナイター中継方針について「阪神、巨人を中心にしたセ・リーグに主眼を置き、パ・リーグ在阪球団のカードを混じえ…選ぶのが基本」と記されていることが紹介されている(同書P90~91)。
- ↑ 『南海ホークスがあったころ』P40 - 43。「女性器」とするのは『南海ホークス四十年史』(1978年)、「男性器」とするのは鶴岡一人の著書『南海ホークスとともに』(1962年)、「性行為」とするのは五百崎三郎の『南海ホークス物語』(1956年に「日刊オールスポーツ」という新聞に掲載)である。また鈴木龍二も回顧録の中で、キャピー原田に教えられた話として女性器説を記している。
- ↑ 『南海ホークスがあったころ』P43
- ↑ 『南海ホークスがあったころ』P43。メジャーリーグのセントルイス・カージナルスと同じで、ショウジョウコウカンチョウという鳥の名前である。
- ↑ CMに登場しているお父さんことカイ君である
- ↑ エバーライフは同じ福岡にあるアビスパ福岡の胸スポンサーにもなっている
関連項目
- 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧
- Template:福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団ドラフト指名選手
- 福岡ソフトバンクホークス主催試合の地方球場一覧
- 福岡ソフトバンクホークスの年度別成績一覧
- あぶさん
- 景浦安武
- 南海
- ダイエー(福岡ソフトバンクホークスの前身の親会社)
- ソフトバンク
- 孫正義
- 博多祇園山笠(7月上旬のホームゲームは山笠シリーズと呼ばれる;2008年は無し)
- 大道典嘉(2009年現在、現役選手では最後の南海ホークス在籍歴がある)
- 任天堂(ゲームボーイカラーとNINTENDO64の「優勝限定カラー」をダイエー系列会社に販売した)
- 西鉄ライオンズ
外部リンク
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