欽ちゃんのどこまでやるの!?

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欽ちゃんのどこまでやるの!?』(きんちゃんのどこまでやるの!?)は、1976年10月6日から1986年9月24日までNETテレビ⇒テレビ朝日系列で水曜日夜9時枠に放送された萩本欽一主演のバラエティ番組である。最高視聴率は40%を超した。通称欽どこ。現在、CS放送のテレ朝チャンネルで再放送されている。

番組概要[編集]

素晴らしい番組!今はこーゆー番組もうないなー・・・。番組は、ステージにセットを組み、観客を入れた公開録画放送で、ホームドラマのような形式で、前期は地方都市のアパートの一室や海辺の町の一軒家、中期はとある農村の一軒家、後期は東京のアパートという設定。[1]毎回ゲストが1人来客する。

またこの間の「お茶の間ドラマ」といわれた公開コメディーの設定としては以下のとおりだった

  • 1977年12月 長男(後に見栄晴と命名)誕生
  • 1978年1月 最初の引越し(目黒区のアパート)
  • 同5月 スタートから3年後、見栄晴3歳になり、人形から子役(西澤祐一郎)に。見栄晴ちゃん、最高に可愛かった!!
  • 1979年2月 三つ子の女の子(後に長女・のぞみ、次女・かなえ、三女・たまえと命名)誕生。その次の週に千葉県の団地に引越し
  • 1980年4月 福島県に引っ越す
  • 1981年 東京都一の橋に引っ越す。この頃から三つ子も人形から子役(氏名全員不明)となる
  • 1982年9月 東北地方のとある田舎の村に引越し、かつ8年後という設定で、大人になった息子達が登場(見栄晴=藤本正則(醜い見栄晴!しかも性格も最悪!消えろバカ!)、のぞみ=高部知子(マンピ)、かなえ=倉沢淳美、たまえ=高橋真美(豚っ子)。三つ子の女の子達はのちにわらべとして歌手デビュー)
  • 1985年7月 同年4月からの3ヶ月間の充電を経て東京のアパートに戻ってくる。見栄晴、のぞみ、たまえはしばらく出ず、かなえを鳥居かほりが勤める
  • 1986年4月 見栄晴(長浜芳弘)、のぞみ(倉橋ルイ子)、たまえ(別所光代)が再登場。かなえも野咲たみこに交代。この3人を「2代目わらべ」と称したファンもいたといわれる

(出典・欽ちゃんのどこまでやるの!に関する年表

メインのフロアとなる茶の間にカラーテレビ(番組スポンサーであったNEC製。当時NECは家電品も扱っていた)があり、常に電源が入っている。画面にブルーバック(時期によって赤一色であった)で、番組のタイトル(後に略タイトル『欽どこ』)が映っているのが特徴。

このテレビから突然番組が始まり、アナウンサーが萩本家(と観客)に向けてニュースを放送する設定であった。なお、アナウンサーは「いつものアナウンサー」、「不慣れなアナウンサー」(のちに「少し慣れたアナウンサー」に)」を経て、斉藤清六演じる「たよりないアナウンサー」が登場。斉藤が担当していた「村の時間、の時間」では「あぜ道カット」「バイナララナイバ」などの名言が生まれ、その後は「ほんとのアナウンサー」であるテレビ朝日アナウンサー藤井暁に交代。(斉藤時代を除き、そのアナウンサーが協賛社読み上げを行った)

前期では、当時萩本が出演していた小西六写真工業(番組初期の筆頭スポンサー。現在はコニカミノルタホールディングス)の写真フィルム「サクラカラー」のCMがこのテレビから毎週そのまま流された。またこのテレビから時々、ご近所のニュースが流れる(殆どがこの一家に絡む物であった)。

また、あらかじめ食事の内容(献立メニューは5種類)を見せて、ゲストがどの順番で食べていくかを萩本欽一と谷啓対一般出場者が対戦形式で推理する「推理ドラマ」というコーナーもあった(のちに一般出場者同士、さらに一般出場者ペア同士の対戦となる)。正解した数の多い方が勝利となるが、5つ全問正解だと海外旅行がプレゼントされた。正解のBGMは「○○ペア 大当たり」や「みなさんみなさん 大当たり」というコーラスが流れる。

前期では、エンディングの前に「名作劇場」というシリアスな内容のミニドラマのコーナーが存在した。このミニドラマの演出は萩本が担当していた。

この他にも前期には「世界で一番短いドラマ」(一枚の写真に視聴者がタイトルを付けて投稿、そのタイトルの面白さを競う視聴者参加型コーナー)、「ホームドラマ」(ホームはホームでも、日本のどこかの駅のプラットホームの風景を毎回紹介するもの)といったミニコーナーが存在した。

これらの企画や、暖かい雰囲気の笑いが視聴者に受け、最盛期には平均視聴率30%台を記録。それまでドラマや映画を中心とした大人向けの番組が主流であった夜9時台に、ファミリー向けバラエティ番組が進出する先駆けとなった番組のひとつである。

1982年に、番組は大幅なリニューアルを敢行。「推理ドラマ」「世界一短いドラマ」等を取りやめ、これまで子役タレントが担当した見栄晴と、「萩本家3人娘」が中高生となって成長していくようになったので、番組ではそれを決めるオーディションを実施。「萩本家3人娘」(のぞみ・かなえ・たまえ)からなるユニット「わらべ」が1983年めだかの兄妹」でデビューし大ヒット。その後も1984年に「もしも明日が…。」「時計を止めて」をそれぞれヒットさせている。その萩本家3人娘の名称は、「希望(望み)叶えたまえ」を一つずつ切り離したことに由来している。

エンディングのエンドカードは放送終了まで一貫して表示されなかった(現在で言うとABC制作の『新婚さんいらっしゃい!』と同じ)。

萩本の休養宣言、そして番組の終焉[編集]

1985年3月で萩本の充電期間のために萩本と真屋が一旦降板、藤本、わらべの三人は降板し、その間には生放送で小堺と関根と男闘呼組、が担当した。

1985年7月のリニューアルで、萩本と真屋の二人は復帰、3人の子供達を新キャストで再スタート。小堺一機鳥居かほり藤井暁によるサンドイッチが結成され、レコードが発売された。しかし、萩本復帰後は裏番組の『夜のヒットスタジオDELUXE』(フジテレビ系)などに人気を奪われ視聴率は低下。1986年9月24日の放送をもって10年の歴史にピリオドを打った。最終回ではエンディングでゲストの堀内孝雄が萩本のために作った「欽ちゃんの唄」を熱唱した後、萩本ら出演者が最後の挨拶をして番組を締めくくった。

出演者[編集]

藤本正則が現在使用している芸名「見栄晴」はこの番組に由来する。「見栄晴」の名前は視聴者からの一般公募により決定した。なお、初代は人形でこれは三つ子の妹も同様である。
のぞみ、かなえ、たまえが赤ちゃんだった頃の人形の製作費用は30万円だった。
当初はかなえ(倉沢淳美)の同級生役だったが、高校生にしては老けた年齢だということに萩本が気づき、登場数回でクロ子に回された。この番組出演でラビット関根から改名。ちなみに小堺一機は関根がクロ子に回る前(番組リニューアル時)にグレ子に「昇格」していた。また、かなえの同級生役で出演していた時はかなえと絡む事は一切なく、萩本としか絡まなかった。
訪問販売員の時は小柳みゆきと一緒に登場。小柳の降板によりクロ子にされ、一人でフリートークを行なった。グレ子に「昇格」後しばらくして関根がクロ子に回り、自然発生的に「クロ子とグレ子のどこまでやるの」というコーナーができあがった。その後、かなえの夫役になったが、その初回に関根が小堺の前に現われて妬むという楽屋落ちネタが挿入された。
テレビ朝日のアナウンサーと思われがちだが、フリーアナウンサーである。
  • 斉藤清六(初代クロ子、たよりないアナウンサー)
「たよりないアナウンサー」時代は「村の時間」というローカル番組を担当しているという設定で、「村の時間の時間です。」というセリフとともにお茶の間にあるテレビに登場。後にテレビではなくお茶の間の片隅に回り舞台の要領で登場するようになった。また当初は髪型を「あぜ道カット」と称して真ん中あたりで分けていたが、後にいろいろな髪型をするようになった。
前述のとおり、小堺がかなえの夫を演じた。鳥居はこの番組で藤井暁と出会った。なお、この時期は見栄晴やのぞみとたまえは別居しているという設定で登場しなかった。
小堺一機と組んで訪問販売員を演じていたが、小堺がクロ子になってからは登場しなくなった。小堺によると、小柳の降板は「欽ドン! 良い子悪い子普通の子」へ回ることになったためで、不評だったためではなかったらしい。
勝手に来てひとしきり蘊蓄を語った後、歌を歌って帰る役。
初めは題名のなかったその歌が、1982年(昭和57年)に第24回日本レコード大賞を受賞した『北酒場』である。
ラーメン屋くるくる軒の出前持ち。「はっぽーさい」をくぐもってしゃべるのが特徴的。

因みに、見栄晴・のぞみ・かなえ・たまえの"初代"は人形。特に三つ子の”オチ”に当たる「たまえ」の作りは、他の人形が萩本・真屋に似せて作ってあるのに比べ、非常に手抜きかつ雑であった。のぞみ・かなえ・たまえの2代目は子役の少女達(名字は「星野」だが、名前は不明)

備考[編集]

復活版[編集]

スタッフ[編集]

ネット局[編集]

DVD[編集]

  • 欽どこ! クロ子とグレ子のどこまでやるの!?(2005年、ポニーキャニオン) - 欽どこから主に「クロ子とグレ子」のミニコントの大半を抜粋。現在の関根、小堺がコントを交えて裏話を披露している。
  • 欽ちゃんのどこまでやるの!? DVDボックス(2006年、ポニーキャニオン) - 番組の名場面シーンや、「推理ドラマ」などの映像を収録。山口百恵夏目雅子他、豪華なゲストが出演した時の貴重な映像も収録されている。3枚組セット。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 萩本家の住所はテレビ朝日のある港区六本木近辺であったが、その後目黒区「五本木」→千葉県柏市の「豊四季」→静岡県三島市」→福島県二本松市→港区の「一の橋」と数珠繋ぎのように引越していった。


外部リンク[編集]

テレ朝チャンネル|欽ちゃんのどこまでやるの!

番組の変遷[編集]

テレビ朝日(旧:NETテレビ)系 水曜21時台
前番組欽ちゃんのどこまでやるの!?
(1976.10 - 1986.09)
次番組
人魚亭異聞 無法街の素浪人
(1976.04 - 1976.09)
※ここまで時代劇枠
遊びにおいで〜Come on-a my House
(1986.10 - 1986.12)
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