松本秀夫

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まつもと ひでお
松本 秀夫
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プロフィール
本名
愛称松本ひでお
出身地日本の旗 日本 東京都
国籍
生年月日1961年7月22日(2024-1961)+((12-7)*100+(22-22)>=0)-1歳)
没年月日
血液型
最終学歴早稲田大学政治経済学部卒業
勤務局ニッポン放送
所属事務所
部署スポーツ部アナウンサールーム
職歴
活動期間1985年 -
ジャンルスポーツ実況
配偶者
家族
公式サイト
出演/担当番組・活動
現在ニッポン放送ショウアップナイター』など
過去#過去の出演番組を参照
その他
備考
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松本 秀夫(まつもと ひでお、1961年7月22日 - )は、ニッポン放送アナウンサー。スポーツ実況専門の部署であるスポーツ部に所属している。東京都出身。スポーツ中継では漢字の「松本秀夫」だが、ワイド番組のパーソナリティとしては「松本ひでお」の表記を使用している。

来歴[編集]

芝中学校・高等学校(生物部魚班所属)、早稲田大学政治経済学部卒業(1年留年)。1985年にニッポン放送入社。元々スポーツアナウンサー志望で、入社時にロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の番アナウンサーとしてチームの取材を担当していたのが縁で、松本自身もロッテファンとなった。入社5年目に幼馴染の保育士と結婚。

実況アナウンサーとして[編集]

プロ野球実況[編集]

  • 実況デビュー
  • 野球実況の看板アナへ
    • 独特の絶叫型実況と取材内容の綿密さで人気を博し、某試合で当時読売ジャイアンツ松井秀喜(現タンパベイ・レイズ)が、打った瞬間にそれと分かる特大の本塁打を放った際に発した「行った〜!! 何処まで行く〜!!」、ある剛速球の投手が空振り三振を奪った際に発した「バットがボールに当たらない!!」など、多くの名台詞を生んでいる。一方、日本プロ野球のみならず、アメリカメジャーリーグベースボールの実況中継も担当、シーズンによってはアメリカで3ヶ月間過ごし、現地から衛星生中継で実況を担当することもあった。現在ではニッポン放送のスポーツ実況のエース格となっている。そのため担当試合のほとんどは同局のメインカードで、裏送り中継に登場することは皆無に等しい。2008年6月29日東海ラジオ向けの横浜ベイスターズ中日ドラゴンズ戦を担当する予定があったが、雨天中止になってしまった。その2年後の2010年4月6日広島RCC向けに東京ヤクルト×広島を担当している。また、長年ナイター中継の前番組であるショウアップナイタープレイボールの進行役(火~金曜)を担当していた一方で[3]、1998年のシーズンオフから、ナイター時間帯の帯番組のパーソナリティも担当するようになった(2010年シーズンを除く)。これにより、2000年代におけるニッポン放送の平日夕方は年間を通じて彼が出演するという活躍ぶりで、彼がスポーツ中継の枠を超えたニッポン放送の看板アナウンサーであることを証明している。
  • 伝説の号泣実況
    • 前述の通り、入社時にロッテ番を担当したのが縁でロッテファンとなった松本だが、その最たるハイライトは2005年のパ・リーグプレーオフ・第2ステージ(福岡ソフトバンクホークス対千葉ロッテマリーンズ)の第5戦(ヤフードーム)だった。2勝2敗で迎えたこの試合、ロッテは3-2でソフトバンクを下し、1974年以来実に31年ぶりとなるリーグ優勝を決めた。最後の打者川崎宗則が左飛に倒れた瞬間、松本は「ロッテ優勝~!!」と感極まって号泣しながら声を張り上げた。松本は、若手時代から長らく低迷期に沈むロッテを見つめ続け、また当時から親交を深めている選手・スタッフが多かったこともあって、優勝決定の瞬間には様々な思いが去来し「ダッチロールのように感情がこみ上げてきて」(本人の後日談)思わず涙してしまったのだという[4]。この「号泣実況」はロッテファンはじめ多くのリスナーに感動を与え、多大な反響を呼んだ。しかし、ロッテが日本一にまで駆け上がった同年の日本シリーズは実況を担当しなかった[5]。ところで、この一件について本人は「プロとして恥ずかしいことをしてしまった」と後悔しているようで、ことあるごとに当時の録音が流されると「いや、ホンット勘弁して下さい」と滅入ってしまうこともしばしば。また実況アナウンサーの先輩でもある元ニッポン放送の深澤弘は「こんなの実況じゃねえな」と苦笑交じりに一蹴した。この「号泣実況」、今となっては共演者やスタッフ・リスナーにとっては笑いのネタとなってしまっており、ニッポン放送の携帯サイトで着うたとして配信された。また、この試合の解説は田尾安志板東英二のW解説で、後に板東はニッポン放送の別の番組でこの時のことを振り返り、「初めて球団とアナウンサーが癒着している事を知った」と冗談交じりに話している。

競馬実況[編集]

スポーツアナウンサーになってから10年ほど、競馬の実況も担当していた。競馬実況デビューは大井競馬場ナイター競馬トゥインクルレースがスタートした当時、大井競馬場では場内ミニFM放送を行っており、ニッポン放送の関連会社がその制作を請け負っていた関係で、ニッポン放送のアナウンサーがレース実況を担当していた。その後、中央競馬の実況も担当したが、先輩の胡口和雄からは「お前の実況は馬が千鳥足みたいだなぁ」と苦言されたり、リスナーから何枚もの便箋に毛筆書きで実況に対するクレームが来るなど実況の方は安定していなかった。本人もそのことは承知しており、「僕が実況に呼んでもらえるわけないじゃないですか。僕が実況すると馬がみんなこけちゃうんですから」と言っている。その後、ナイターのシーズンオフの番組を担当するようになってからは年間を通じて平日出勤のため、日曜日に放送がある競馬中継には参加できなくなってしまったが、2011年より15年ぶり[6]に競馬実況の仕事を再開することが決定した。[2]復帰後最初の実況は1月9日中山競馬場12レース(ただしニッポン放送での放送ではなく裏送りでの放送)。その後は特別競走や準メインレース、重賞でないメインレースを担当するようになり、重賞競走では9月25日に産経賞オールカマー(GII)の実況を担当している。

サッカー実況[編集]

サッカーにはあまり詳しくないものの、2008年の北京オリンピックでは女子サッカー実況を担当することになり、必死でルールを覚えた。その後は不定期ではあるが、Jリーグ RADIOでリポーターを務めることがある。

ハンドボール実況[編集]

2008年1月30日に国立代々木競技場で行われる男子ハンドボールアジア予選をラジオ初となる中継の実況アナを担当することが、22日に発表された。ラジオでハンドボールの試合実況放送という前例がないため、29日の女子の試合を担当する洗川雄司アナとともに、資料ビデオなどをかき集めて猛特訓をしていた。また、その特訓している模様が2008年1月25日フジテレビスーパーニュースで報道された。実況特訓では、27日に毎年ハンドボールの試合実況を担当している、tvk吉井祥博アナ(訓練までの様子をつづった日記にはYアナと記載されていた)や熊本放送本田史郎アナウンサーが来て(本田はRKK内HP自身のページ内の写真に松本のサポート役のような形で写真に写っている)洗川アナとともに講義を受けるなど、ハンドボールの実況や実際にハンドボールをしたことがある人物を呼ぶなどの特訓も行っていたようだ。

エピソード[編集]

番組関連[編集]

  • 『松本ひでおのショウアップナイターストライク!』内のコーナー「ひでおのフォークソング図鑑」では、早稲田大学在学時に組んでいたバンドを新保友映アナウンサーを加えて再結成して、「マイウエイスター〜もう一度輝こう」をレコーディングした。レコーディングを行った曲は、mf247でダウンロードすることができた。
  • 『松本ひでおのショウアップナイターネクスト』内のコーナー「ひでおのフォークソング図鑑」で石川みゆきと「ひでお&みゆき」を結成し、mf247「ウタヲウタウ」プロジェクトに参加、「ウタヲウタウ」昭和歌謡バージョンをレコーディングした。ちなみに、「ウタヲウタウ」プロジェクトには、吉田拓郎のバックバンドだったことでも知られるフォークグループのも参加している。また、松本、石川と神田のフォーク酒場・昭和の常連客で昭和バンド結成し、リスナーの作曲した曲に、リスナーからのさまざまなフレーズのアイデアをまとめてつくった「ネクスト」を松本、石川がボーカル、昭和の常連客をバックバンドをしてレコーディングした。ちなみに、「ネクスト」の編曲は昭和の常連客の1人が担当した。
  • テリーとうえちゃんのってけラジオ』の番組内では、野球界の裏情報に詳しい謎の人物情報屋ゲンさんというキャラクターが居て、同番組内で松本によるナイター直前情報のコーナーの後に、松本が音声を加工して出演していた。ゲンさんの正体は公表されていなかったが、リスナーには松本であることがバレており、しだいに裏情報よりもテリー伊藤や、うえやなぎまさひこによるゲンさんを弄るトークのほうが盛り上がっていった。ゲンさん目撃情報が募集され、それにテリー伊藤の妄想が合わさり様々な後付けの設定が造られた。ついにはリスナーらの手によってゲンさんのイメージソング『愛しき人よ』(作詞:ふくしまとまる・藤井青銅  補作詞:三浦康照 作曲:ふくしまとまる 編曲:南郷達也)がつくられ、さらに同番組にゲストとして出演していた冠二郎がこの歌を気に入り、シングルCDとして1999年1月に発売されるに至った[7]。この曲はオリコンのシングルチャート63位に入った。2005年からの『松本ひでおのショウアップナイターストライク!』は、ゲンさんに似たコンセプトの「情報屋のヤマさん」なる人物が登場しているが、こちらの正体は松本ではなく誰であるかは不明。一説にはスポーツ新聞の記者であるといわれている。2008年3月25日には『テリー伊藤のってけラジオ』で「のってけラジオ」シリーズの10周年記念の一環として復活をしている。
  • 鶴光と共演するとき(後番組の告知のための出演も含む)は必ずと言っていいほど、謎かけをやれと言われる。例として、2005年2月聴取率調査週間時に『松本ひでおと森永卓郎のショウアップナイターストライク!』を担当した際、森永と鶴光に「なんのひねりもない」と突っ込まれていた。
  • 2007年2月18日に行われた東京マラソンに挑戦し、完走。ゴール直後のインタビューで「母から小さいことをコツコツ積み重ねると、大きなことが出来るといわれて…」と涙ながらに語った。もとは、2006年11月に行われた笑福亭鶴光との特番での鶴光の罰ゲームだったが、松村邦洋の松本のものまねにより代わりに走ることになった。松本アナはこれ以降マラソンに目覚め、2008年2月17日の東京マラソン2008にも参加し、5時間31分15秒で完走。前年より成績が下がってしまい、松本アナは「練習不足です」と恐縮していた。2010年2月28日の第4回にも参加し、5時間24分26秒の好成績を残している。

実況関連[編集]

  • 過去に大阪ドームの巨人主催の試合にて、他局の中継リポーターが松本が実況するニッポン放送の中継のマイクへ、誤って呼びかけられるという珍事を経験した。
  • ある試合で実況をしていた際、他球場で西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)が勝利した旨の速報が入り、先発の松坂大輔(現ボストン・レッドソックス)がヒーローインタビューで語った内容も併せて伝えられた。ところが、本社からの松坂のコメント原稿は本来「(投球内容が)要所要所で良かった」とすべきところを、どういうわけか「よいしょよいしょで良かった」と誤植した状態で送信されてしまった。これに眼を通した松本は「『よいしょよいしょ』ってこれ、おかしくないですか?」と言ったまま笑いが止まらなくなってしまった。すぐさま解説の田尾安志にフォローを仰ぐも、田尾も笑いのツボにハマってしまい2人で数秒間笑ったままの放送になってしまった。当然、松本は後にスポーツ部長からお叱りを受ける。
  • 日本シリーズの実況の際には、普段の公式戦が巨人戦の実況ばかりということもあり、会社の命令かセ・リーグびいきを続けている(ただし、2005年の千葉ロッテマリーンズ優勝の際には会社が松本を配慮していたのか、絶叫していた)。
  • 2010年8月28日のマツダスタジアムで行われた広島vs巨人戦で、熱中症となった胡口和雄に代わり5回から実況を担当した。[8]

その他[編集]

人物[編集]

  • ヨイショ癖がある。ニッポン放送ショウアップナイターではシーズン中に、当時の読売ジャイアンツオーナー滝鼻卓雄を何度か特別ゲストとして迎えたことがあったが、某日、滝鼻を前に「背番号『1242』、『TAKUO』のネーム刺繍が入ったジャイアンツのユニフォーム(24000円)を買いました」と発言したことがある。ただしヨイショであるらしく、真偽の程は不明である。
  • ニックネームは「ヤギ」。入社当時、ニッポン放送でプロ野球関連のコメンテーターを務めていた当時のパシフィック・リーグ広報部長・伊東一雄(のちのパンチョ伊東)に「君はリチャード・ギアに似ている」と言われ、パンチョからは「リチャード」と呼ばれていた。ところが『鶴光の噂のゴールデンアワー』に出演し、番組内で『ニッポン放送ショウアップナイター』の告知をした際、笑福亭鶴光に「自分では誰に似ていると思っている?」と聞かれたのに対し、松本が「リチャード・ギアに似ているといわれます」と答えた途端に鶴光らに爆笑され、「リチャード・ギアに失礼や!お前はヤギや!!」と命名され、さらにアシスタントの田中美和子からも「メエメエ」と呼ばれ、この影響から挙げ句にはリスナーからも「ヤギ」と呼ばれるようになってしまった。だが松本自身は「ヤギ」と呼ばれることに対してはまんざらでもないようで、『ショウアップナイターニュース』(→『ショウアップナイターストライク!』→『ショウアップナイターネクスト』)の番組用メールアドレスを「yagi@1242.com」(アドレスなのでこのようにされたの方が正しい)としたり、ニッポン放送のWebサイトで著している自身のコラムのタイトルを「やぎメール」と銘打ったり、挙げ句にはTwitterのハンドルネームを「ヤギ松」とするなど、様々な場面で「ヤギ」を名乗っている。
  • フジテレビの入社試験を受けている途中に、露木茂から自宅に電話があり「君は顔がラジオ向きだからニッポン放送に行ってもらうから」とはっきり言われている。大学時代、放送研究会にいたが、麻雀ばかりしていた。清水大輔は放送研究会の1年後輩。2単位だけ計算間違いで留年。[10]
  • 祖父が魚河岸で仕事をしていたことも影響して、少年期から釣りを趣味としている。小学校の時に同居していた祖父と行った上野毛駅近くの環八沿いのドライブインの室内釣堀で25cmぐらいの鯉を釣ったのが、釣りとの出会いである。中学・高校生時代は生物部の「魚班」に所属していた[11]。アナウンサーになってからも、少しでも空き時間ができると朝から釣りに出かけてしまう程で、自ら常々「三度の飯より釣りが好き」と話している。近年は文字通り趣味と実益を兼ねる域にまで達しており、担当番組内に釣り情報のコーナーを設けている他、釣り雑誌『つり丸』では連載コラム「松本アナの釣りバカ日記」を執筆している。また、釣りをきっかけにして釣り好きのプロ野球選手を中心に顔を憶えてもらい、親交を深めてプロ野球の取材に役立てている。釣り仲間は田尾安志、黒木知宏堀幸一(いずれも現ニッポン放送解説者)など球界に多数おり、長年にわたり家族ぐるみの交流を続けている人物も多い。そのほか、魚がらみのエピソードでは『高嶋ひでたけのお早よう!中年探偵団』のレポーターを務めていた当時、ブラジルアマゾンの大ナマズが放し飼いになったプールで泳いだことがあった[11]
  • ショウアップナイターニュースで共演した森永卓郎と松本の二人だけが知っている意味での「ちびっこバッター」という言葉があるらしく、松本曰く、「おお、同志って感じですよね」と森永に語っていた。
  • 松村邦洋ものまねされており、高田文夫のラジオビバリー昼ズで公表されている。佐々木主浩に「世界の大魔神!」とヨイショしながらバイトのスタッフに「おい!バイト、FAX取って来い!」と怒鳴りつける「裏表のある松本秀夫」という内容。
  • 普段はものすごく腰が低いが酒癖が悪く、酔うと上司・部下を問わず説教をする。佐々木主浩ら野球選手や共演者を相手に管を巻いたこともある。時には大喧嘩にまで発展することもあり、酔いが冷めた後で平謝りすることが多々ある。
  • しいたけが大嫌いであり、毎年ナイターオフ番組中の半年に一度は各時期の共演者の石川みゆき森永卓郎田尾安志新保友映アナウンサー、飯田浩司アナウンサーに必ずネタにされる。
  • 田尾安志と親交が深い為か、東北楽天ゴールデンイーグルスで後任監督となった野村克也を嫌っており、公平な立場であるはずのアナウンサーでありながら、放送でもたびたび野村や楽天に批判的な意見を述べていた。

失敗談[編集]

自他共に認める「おっちょこちょい」「酒癖の悪さ」が災いして、失敗談には事欠かない。

実況編[編集]

  • プロ野球公式戦の実況デビューとなった1987年8月9日の広島市民球場・広島対大洋戦で、前の打席まで右打席に入っていた大洋の村岡耕一が左打席に入ったのに驚き、思わず解説の森中千香良に「どうしたんですかね?」と尋ねたところ、森中は松本の後頭部を引っ叩き、即座に「ええ、彼はスイッチヒッターですからね」と冷静にフォロー。松本はこの森中の一言でようやく勘付いたものの、初歩的なケアレスミスを犯したことで完全に冷静さを失ってしまい、試合終了まで実況はボロボロに。試合後、森中に誘われた夕食の席で、松本は浴びるように自棄酒に暮れた。
  • 大井競馬場のミニFMで競馬実況をしていた頃、レース実況でゴールした直後、2着馬の名前をど忘れしてしまい、「2着は…2着は…」と思い出そうとして数秒間経った後、思わず「2着は…アレだ!」と言ってしまい、「“あれ”って馬がいるのかよ!!」とスタッフから大目玉をくらった。
  • 2007年の大リーグオールスターゲーム実況のためサンフランシスコへ向かっていた飛行機の中で爆睡したところ、空気の乾燥した機内でマスクを着けずに眠ってしまったため声が出なくなってしった。アメリカでは薬を購入するのに処方箋が必要なため医者に行くも、英語がうまく伝わらず、なぜかレントゲンを撮られて250ドルの診察料を支払わされた。しかもドラッグストアで買ったスプレーがせき止めではなくいびき止めだったりとトラブル続きで、結局、現地到着から3日間、喉の回復率50%の状態で実況しなくてはならなかった。皮肉なことに、この日はイチローがオールスター史上初のランニングホームランを達成するという世紀の試合で、この歴史的な瞬間にガラガラ声で実況しなくてはならなかったことを非常に悔やんでいた。
  • 2008年春にも、風邪をひいて広島市民球場での実況担当ができなくなり、胡口和雄が2試合連続で実況した(野球の実況はのどに負担がかかるため、ベテランアナウンサーの2試合連続実況は極めて異例)。このことはニッポン放送ショウアップナイタープロ野球珍プレー大賞でクイズになったが、江本孟紀が答えを言ってしまったため、新たな説を募集し、「手こぎ船で沖へ釣りに出たが、波が高くなり戻れず、その日広島へ向かう予定が間に合わなかった」「広島のブラウン監督の抗議によって差し替えられた」「マラソンで広島に向かったため間に合わなかった」が採用された。ちなみに、松本は過去にも喉の不調で実況に穴をあけており、この時は福永一茂が代理実況を務めた(逆に、上記にもあるが2010年8月28日のマツダスタジアムで行われた広島vs巨人戦で、ベンチリポーターとして待機していた松本は、熱中症となった胡口和雄に代わり5回から実況を担当している)。
  • 2008年の北京オリンピックに、ジャパンコンソーシアムラジオアナウンススタッフの1人として参加。女子サッカー、女子バドミントン、ソフトボール、野球などの種目を実況。野球では日本戦のほか、決勝のキューバ韓国戦の実況を担当。また、競技実況の他にディレクター業務も行ったが、女子サッカーでは2ゴール挙げた選手にハットトリックと間違って実況者に伝えてしまったり、野球の決勝では球審の判定に憤慨してしまい感情を込めた実況をし、聴取者から放送していたNHKにクレームが入っていたことや隣の放送ブースから注意を受けたことを告白している。
  • 2010年のマツダオールスターゲームでは、第2戦(7月24日ハードオフ新潟)の実況を担当した。松本は実況中に新潟県の地理について「北から順に上越地方中越地方下越地方の順に並んでいます」と説明したが、放送終了後、ベンチリポートを担当していた新潟県上越市出身の金山泉毎日放送)から「松本さん、新潟県は京都に近い上越の方が南で、京都から遠い下越の方が北なんです」と誤報を指摘され愕然。翌日夕方『ショウアップナイタープレイボール』のオープニングトークで「大変とんでもない間違いを犯してしまいました」と陳謝する羽目になった。
  • 2010年9月4日の横浜スタジアムで行われた横浜vsヤクルト戦では、実況途中で腹痛を訴えたため、あるイニング間のCM枠の延長措置が採られ、その間にトイレに急行した[12]。制作局のニッポン放送がサッカー中継を優先し、途中から毎日放送MBSタイガースナイター』向けのみとなったこと、また当日の同番組がオールスポット扱い(同日に阪神のデーゲームが開催されたため)であったことからこの緊急措置が可能だったようである。

大魔神編[編集]

ハマの大魔神こと佐々木主浩とは取材を通じて公私共に仲良くなり、佐々木は松本の出演する番組へのお祝いのメッセージをよせたり、電話出演をすることも多い。

その後、2001年4月より3ヶ月強の間、当時シアトル・マリナーズに所属していた佐々木を追いかけるためアメリカに出張。ここでも様々なエピソードが繰り広げられた。

  • 防御率に触れられることを嫌う佐々木(これは防御率などの数字に関する話をした直後の佐々木は必ず打たれるというジンクスがあるため)に対し、思い切り防御率の話題を振ってしまった。その話をした次の試合で佐々木は大乱調であり、佐々木より「その話はしないでって言ったでしょ!!」と怒られた。
  • 佐々木が大好物であり、佐々木の大切な人がわざわざシアトルに持ってきてくれた日本酒久保田の碧寿」を、佐々木に「これだけは飲まないでくれ」と言われたのを忘れて勝手に全部飲んでしまい、翌日こっ酷く叱られた。
  • 局の生ワイド番組でアメリカから電話レポートをするはずが、出番の前にを飲み過ぎ泥酔[13]、放送に出られない状態となり、佐々木が代わりにレポートに出る羽目になった。しかも1回限りではなく、滞在中この出来事が数回繰り返された。

パーソナル編[編集]

  • 『松本ひでおと石川みゆきのヨッ!お疲れさん』の番組開始間もない頃、週末に行われたスタッフとの飲み会の席での酒癖が原因で、翌週月曜日にスタッフから総スカンをくらい、放送中しきりにスタッフに謝っていたことがあった[14]
  • 忘れ癖が激しく、財布を何度も落としている。北京オリンピックの実況要員として派遣された際も、現地北京で財布を落としたという。また最近では、老眼が始まったためにかけはじめたメガネや携帯電話をどこかに置き忘れたりと、財布の他にもいろいろと忘れ物が絶えない。
  • 趣味の釣りに行った時に急に便意を催し、海に飛び込んで処理しようとしたが、携帯電話を持ったまま飛び込んでしまったために携帯が水没したということがあった[15]
  • ショウアップナイターの解説者だった森中千香良には新人時代から非常に世話になっており、松本がまだマイカーを持っていないころ、森中が所有していた外国車「ジャガー」(実際には森中名義の車ではなく森中も借りている車だった)を『モリチュウレンタカー』と称して乗り回していた。この車は基本的に森中本人が使わなければいつ使ってもOKで、ガソリンを満タンにして返すことがルールだった。松本はレギュラーガソリンを満タンにして返したのだが、後にこの車はハイオク仕様車だったことを知り、青ざめる。
  • このほか、同じく森中からジャガーを借りている最中に、駐車場で車上荒らしに遭ってフロントガラスを割られてしまい、これを松本ではなく別の発見者が警察に通報し、警察がジャガーの所有者である森中に連絡し、森中が松本に「松! ガラス割られとるでぇ!!」と最後に知らされた。
  • 土橋正幸と会う約束を忘れて取材に行ってしまった。土橋は気にせず別の日を設定するが、それをまた忘れて土橋と会う約束を二度に渡ってすっぽかし、とうとう土橋を大激怒させてしまった。電話をしても出てくれない土橋に、松本は毎朝散歩をする土橋を待ち受けて連日謝りに行ったが取り合ってもらえず、4日目にして土橋の妻からの「もう許してあげたら…」という説得があってようやく許してもらえた。
  • 会社で購読しているスポーツ紙を無断で切り抜いてしまい、後日スポーツ部の会議で宮田統樹に指摘され、怒られた。
  • 中日の投手山本昌らその他数人の選手と酒を飲みに行った際に泥酔し、自分の話を聴いていないと思い込んだ山本に絡み、その挙句山本の尻を蹴り上げてしまった。周りの選手が松本のこの暴挙に怒号を飛ばすものの、当の山本昌は松本の酒癖の悪さにはすっかり慣れているらしく、「俺を蹴るとはたいしたもんだねぇ」と笑っていた。もちろん、松本本人はこの時のことを憶えておらず、後に人から聴かされて青ざめていた。
  • 2013年1月12日、ニッポン放送で初めてのリスナー合同新年会がGINZA ROOTS TOKYOにて催され、この新年会にはニッポン放送の平日生ワイドを担当するアナウンサーやパーソナリティ陣(高嶋秀武紅晴美など)が出演した。この模様は同日15:30から放送の『カッキーケムケム 突然ですが、お邪魔いたします』で一部生放送された。会場にいたのは『垣花正那須恵理子 あなたとハッピー!』をかけ持つ垣花。当然、松本もその場にいたのだが、その場にいた松本はすでに悪酔いしており、垣花曰く「リスナーに低姿勢でキチンと頭を下げていた」らしいのだが、垣花を見つけるや否や「呑めよぉ」と生中継中にも関わらず低い声で絡みだし管を巻きだす。その一部始終をスタジオで聴いていた煙山光紀は「ダメだろ~、そこまで呑ませたら~」といいつつ爆笑していた。

出演作品[編集]

ゲーム[編集]

玩具[編集]

楽曲[編集]

  • 『領収証'99』(歌:Le・シート、作詞:高田文夫、作曲・編曲:茅蔵人) - シングルCD「領収証'99」(日本コロムビア、規格品番CODA-1807、1999年11月20日発売。)収録。高田文夫プロデュース。某プロダクションのマネージャーと一緒に、Le・シート名義で歌唱。

現在の担当番組[編集]

野球シーズンオフ時[編集]

野球シーズン時[編集]

1998年 - 2009年度までは平日を中心に番組を担当していたが、2010年4月以降は土・日曜日を中心に番組を担当している。特にナイターオフの番組にいたっては12年間平日担当だったが、社長交代と世代交代の時期を迎えたことや2010年夏以降の番組大改編から、2010年オフ以降は週末(土曜日)を担当する。

過去の担当番組[編集]

著書[編集]

  • 『プロ野球 実況できなかったスゴイ話』(ぜんにち出版)

参考文献[編集]

  • 松本秀夫 (2009) 松本秀夫 [ プロ野球 実況できなかったスゴイ話 ] ぜんにち出版 2009 978-4-86136-122-7

脚注[編集]

  1. ちなみに、この日実況を担当した彼以外の若手アナウンサーは、ABCからは松原宏樹アナ、東海ラジオからは北山靖アナ、RCCからは橋本裕之アナの3人だった。
  2. この日の松本は第2予備カードの中継班としてスタンバイしていたため、本来の実況担当ではなかった。しかし、この日の「ショウアップナイター」のメインカードだったナゴヤ球場での中日対巨人戦で、プロ初先発だったルーキーの近藤真一ノーヒットノーランを達成して試合が2時間足らずで終了。余った時間は予備カードを中継することになったのだが、下関で行われていた第1予備カードのヤクルト対阪神戦が雨のためノーゲームとなってしまい、急遽、第2予備カードである広島市民球場での広島対大洋戦を中継することになり、試合途中からの実況デビューとなった。
  3. 2007年シーズンと2010年シーズンからは、当日の実況担当者がショウアップナイタープレイボールの進行役を兼ねるようになった(ニッポン放送制作日のみ)。なお、2010年シーズンの土曜・日曜は松本が担当。
  4. この日、後輩アナウンサーの飯田浩司は業務を終え、電車で帰宅する道中でこの中継を聴いていたが、向かい側の座席の乗客がイヤホンで実況を聴きながら、松本が号泣するのと全く同じタイミングで涙しているのを目の当たりにし、松本に共感している人が目の前にいることに感銘を受けたという。
  5. この号泣が「冷静さを欠いた」と査定されたために、ロッテが日本一を決める可能性がある第4戦以降の実況担当から外されてしまったとも言われるが、松本は後日「リーグ優勝決定後福岡の街で騒ぎすぎて喉を潰し、第1戦の実況を胡口和雄アナに交代してもらった」と釈明している。同様にロッテが出場した2010年のシリーズは実況を担当している。
  6. 2011年1月6日付のやぎメール内ではこの様に表記しているが、2002年頃までは不定期で実況をしていた。
  7. 同年発売の冠のアルバム「男のさすらい〜愛しき人よ」(日本コロムビア COCP-30321)には、表題曲として収録された
  8. 松本はこの日はベンチリポーターとして待機していた。リンクも参照されたい。[1]
  9. 『グラゼニ』 - 松本秀夫のやぎメール・2011年12月8日
  10. 2012年10月31日「松本ひでお 情報発見 ココだけ」で本人が発言
  11. 11.0 11.1 別冊ラジオパラダイス「DJ名鑑」(1987年刊)より
  12. アナLOG:ショウアップナイター実況アナのつぶやきの2010年9月10日分を参照。
  13. 時差の関係でアメリカは夜中であり、佐々木らと一緒に深酒することも多かった。
  14. 番組が始まっても、松本は総スカンの原因が分からず、CMに入ってから理由を教えられ、以後恐縮しながら放送中にもかかわらずしきりにスタッフに謝っていた。この事件は、ニッポン放送の各ワイド番組の中でも、しばらくの間笑い話として話題にのぼっていた。
  15. オールナイトニッポン40周年記念! 笑福亭鶴光と松本ひでおの深夜放送ヒット電話リクエストより

外部リンク[編集]

テンプレート:ニッポン放送アナウンサー

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