宮沢喜一
宮澤 喜一 (みやざわ きいち)
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在任期間 | 1991年11月5日 - 1993年8月9日 |
生没年月日 | 1919年10月8日
- 2007年6月28日 |
出生地 | 東京市 |
出身校 | 東京帝国大学 |
学位・資格 | 法学士 広島県名誉県民 福山市名誉市民 |
前職 | 衆議院議員 宏池会会長 自由民主党総裁 |
世襲の有無 | 2世 宮澤裕 |
選挙区 | 参議院広島地方区 衆議院広島7区 |
当選回数 | 参2回 衆12回 |
党派 | 自由民主党 |
花押 | |
宮澤 喜一(みやざわ きいち、1919年(大正8年)10月8日 - 2007年(平成19年)6月28日)は、日本の大蔵官僚、政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(12期)。第78代内閣総理大臣(在任1991年11月5日 - 1993年8月9日)。広島県名誉県民、福山市名誉市民。報道では新字体で「宮沢喜一」と表記されることも多い。
目次
経歴
生い立ち
山下汽船に勤めていた宮澤裕・こと夫妻の長男として東京に生まれる。本籍地は広島県福山市。母・ことは司法大臣、鉄道大臣等を歴任した小川平吉の二女。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、旧制武蔵高校を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業。在学中の1939年(昭和14年)、日米学生会議に参加のため渡米した。
官僚として
1942年(昭和17年)1月、大蔵省に入省。沼津税務署長などを経て、終戦時には本省で戦争保険を担当していた。1945年(昭和20年)8月、東久邇宮内閣が発足すると、大平正芳とともに津島壽一蔵相秘書官となる。1949年(昭和24年)には池田勇人蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わる。1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議では全権随員として参加。
政界入り
1952年(昭和27年)に池田通産大臣がいわゆる「中小企業発言」で不信任されたのに殉じるように、宮澤も大蔵省を退官。本人はすぐに政界にというつもりではなかったと語るが、池田の強い勧めで翌1953年(昭和28年)、第3回参議院議員通常選挙に広島県選挙区から出馬し当選。参院議院運営委員長などを経て、1962年(昭和37年)の第2次池田改造内閣では経済企画庁長官として初入閣、池田首相のブレーンの一人として所得倍増政策の一翼を担う。テレビの政治討論会などに積極的に出演し、自民党のニュー・ライト(新保守)を代表する若手政治家として注目される。1967年衆議院に鞍替え出馬して第31回衆議院議員総選挙に当選。以後通産相、外相、総務会長などの要職を歴任していった。
「ニューリーダー」
党内では池田派(宏池会)に所属し、早くから総裁候補と目された。ポスト田中角栄で総裁に推す声が一部で上がった他、大平後継では本命との声もあったが同じ宏池会の鈴木善幸が総裁に就任。鈴木内閣(及び同改造内閣)では内閣官房長官を務め、次代の中曾根内閣期まで、安倍晋太郎・竹下登らとともに「ニュー・リーダー」と称されたグループの一人となり、この3人は安竹宮と呼ばれた。
派内では、宮澤に対抗意識を燃やす田中六助と「一六戦争」と呼ばれる後継争いを繰り広げるが、田中が持病の糖尿病を悪化させ病没後の1986年(昭和61年)、宏池会会長となり派閥を継承。プラザ合意とその後の急激な円高を巡り、中曾根の経済運営を強く批判していた宮澤は、中曾根により大蔵大臣就任を要請され自ら円高是正に奔走することになる。大幅な介入やベーカー財務長官との頻繁な協議にもかかわらず有効な手を打てぬまま、猛烈な勢いで円高は進んだ。
1987年秋には中曾根の後継者の座を安倍・竹下と争ったが、中曾根の裁定により竹下が総裁に就任。宮澤は竹下内閣に副総理兼蔵相として入閣し、消費税導入に尽力するが、1988年(昭和63年)、リクルート事件が発覚すると、未公開株の譲渡について倫理的責任を問われ大臣を辞任した。
総理大臣就任
宮沢内閣 も参照
1991年(平成3年)、海部俊樹首相の退陣にともなう総裁選挙で勝利、72歳にして内閣総理大臣に就任した。保守本流のエース、国際派の総理大臣として大きな期待がかかったが、竹下派の支配下にあって思い通りの政権運営はままならなかった。在任中の施策としてはPKO協力法の成立と、それに伴う自衛隊カンボジア派遣がある。その過程で派遣された文民警察官と、国連ボランティアが殺害されたことは、政権に大きな衝撃を与えた。その際に「PKO要員の殺害はやむ終えない。」と失言をしてしまい強い批判を浴びた。またバブル景気崩壊後の金融不安を巡って、1992年(平成4年)8月の自民党の軽井沢セミナーで金融機関への公的援助発言をする。地価や株価等の資産価格の大幅な下落から、今までの景気後退とは質が違うとし、公的資金を投入しても不良債権を早期に処理する必要性があると発言したものであった。しかし官庁、経済団体、そして当の金融機関自身からの強い反対にあい実行に至らなかった。
折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが断念、1993年(平成5年)6月に内閣不信任案が提出され、自民党分裂により成立、解散して総選挙を行うも新生党、新党さきがけなど自民党から離れた議席を回復することが出来ず日本新党を中心とした野党勢力に敗れ、細川護熙に政権を明け渡す。宮澤は自民党長期支配38年の最後の首相となった。宮澤は第15代自民党総裁だったために、同じく15代目で政権を明け渡した徳川慶喜になぞらえ「自民党の徳川慶喜」といわれた。なお奇遇な事に室町幕府も15代で終焉している。
再び大蔵大臣に
その後は村山内閣で外相在任中の河野洋平から駐米大使を打診されたが固辞、1996年初めて小選挙区比例代表並立制で実施された第41回衆議院議員総選挙では重複立候補していない新進党公認柳田稔との現職対決に圧勝で再選、1998年(平成10年)に小渕内閣が発足すると、未曾有の経済危機に対処するため小渕恵三首相は宮澤に大蔵大臣就任を要請。当初は難色をしめしていたが、小渕の強い熱意のもと就任を受諾。戦前に活躍した高橋是清と同様、異例の総理大臣経験者の蔵相就任となったため、「平成の高橋是清」などといわれた。折からの金融危機に対処するため金融再生関連法・金融健全化法を成立させ、またアジア通貨危機にあたっては「新宮澤構想」に基づき300億ドルに及ぶ経済支援を行った。続く森内閣でも蔵相に留任し、初代財務大臣となる。
小渕・森内閣両期を通じて経済危機への対応として、巨額の恒久的減税の一方で財源として一貫して大量の赤字国債を発行し続け、財政赤字は膨大なものとなった。こうした極端な積極財政を主導したことも、高橋是清になぞらえて呼ばれるようになった理由の1つである。その後ようやく金融危機を脱し、景気回復も軌道にのりかけたが、財政再建に乗り出す時間的余裕は与えられないまま再び景気は下降、森内閣の退陣とともに宮澤も退任した。
政界引退後
2003年総選挙の際、小泉純一郎自民党総裁は、衆院比例候補・定年73歳の徹底と「世代交代、若返り」という選挙運動方針を定め、それに則って中曾根・宮澤両元首相に対して、総選挙への立候補断念及び代議士引退を要請した。宮澤はこれを受け、代議士を引退を決断。(2000年第42回衆議院議員総選挙の時点で自らの福山の地盤を甥の宮澤洋一に譲って比例単独候補に転身していた)
宮澤自身は政界引退後も元首相、戦後政治の証言者として経済や安全保障のご意見番となり、様々な形で活躍していた。
2005年(平成17年)夏に体調を崩し、入院をした。退院後は容貌が一変するほどに痩せ、周囲を心配させたが、その後も活発にテレビ出演などを続けてきた。2006年(平成18年)7月に自宅で転倒して足を骨折して以降、表立った活動を控えていたが、翌2007年(平成19年)2月の政界関係者の会合には車椅子姿で参加。スピーチも行うなど元気な姿を見せたが、これが公の場に姿を見せた最後となった。
死去
2007年6月28日午後1時16分、老衰のため東京都渋谷区神宮前の私邸で死去。87歳だった。 参院在職12年3ヶ月、衆院在職36年9ヶ月で国会議員在職合計49年0ヶ月。あと12ヶ月国会議員務めた場合は史上初の衆参両院合算による国会議員在職50年到達し名誉議員有資格者だった。
内閣・自由民主党合同葬儀は東京・千代田区の日本武道館で行われた。秋篠宮同妃両殿下をはじめ皇族方、衆参両院議長、最高裁判所長官、146カ国の外国弔問特使など約2700人が参列。葬儀委員長の安倍晋三総理は、半世紀以上にわたって政治・外交の表舞台で活躍した宮澤氏の足跡をたどりながら、「政界屈指といわれる知性と、類まれなる先見性を持って、世界の平和と繁栄に貢献され、21世紀にわが国が進むべき道をお示しになられた」と追悼の辞を述べた。また、友人代表の塩川正十郎元衆院議員も、総理に就任した宮澤氏が党役員と閣僚の懇親会で小唄を披露したエピソードにふれて「先生の隠れた人間味と趣味の深さを知り、党の結束に多大の効果があった」として故人を偲んだ。
遺族は本人の意向により勲章等は辞退した。8月28日に、安倍晋三首相を葬儀委員長として、内閣・自由民主党合同葬が日本武道館で行われた。
人物像
池田勇人との関わり
宮澤の前半生は池田勇人抜きに語ることは出来ない。広島県出身の父・裕は同郷で政友会の重要な政治家望月圭介の秘書官を務めたことがあり、また裕の義父(つまり喜一の祖父)小川平吉も望月と親交があった。他方池田家は広島における望月の有力な支援者であり、望月を介する形で池田家と宮澤家は縁を深め、裕が池田勇人の最初の結婚の世話をするなど、彼らは単に郷里の友人以上の関係となっていった。もともと外務省か内務省を志望していた裕の長男・喜一は、父を通じた池田の強い勧めで大蔵省に入省。以来二十余年に及ぶ池田との縁の始まりであり、とくに戦後池田の秘書官となって以後はその死まで常に側近として仕えた。
政界入りにも池田の意向が大きく働いた。池田通産大臣の不信任に殉じるように大蔵省を退職した宮澤に対して、池田は勧めて参議院選挙に出馬させた。この時池田が「2区の俺の地盤と3区の君のお父さんの地盤をあわせれば参議院広島選挙区で当選できるよ」と言ったという逸話が残っている。
官僚であった占領時代に通訳や渉外担当としてGHQなど米国各機関との折衝に関わった。基地提供を提案したことで知られる池田蔵相の訪米(1950年)やサンフランシスコ講和会議(1951年)、また参議院議員となった後も、再軍備問題を巡る池田・ロバートソン会談(1953年)や、池田の総理大臣就任後の池田-ケネディ会談(1961年)など、戦後日本の針路を決定付ける重要な局面にいずれも池田側近として立ち会った為に、「戦後政治の生き字引」などと言われる[1]。
政治スタンス
自民党の代表的な「ハト派」政治家。一貫して親米派・日米同盟論者であり、晩年は集団的自衛権の限定的行使を提言していたが[2]自衛隊の海外での武力行使は自衛の場合に限るべきという基本線を最後まで維持していた。
穏和そうな外見もあり大人しめの印象を与えるが、それとは裏腹に負けず嫌いで毒舌家な一面も知られている(「人柄、特技」も参照のこと)。1970年代の外務大臣在任時、旧ソ連の古強者グロムイコ外相との北方領土交渉では、のらりくらりと話をはぐらかそうとするグロムイコを恫喝して席につかせたという伝説がある(北海道新聞でグロムイコが「なんと頑固か」と述べた)。普段はハト派を標榜しながらも、国益のためには強硬な姿勢も示す国益主義者だった一面がうかがえる。また1984年3月、当時64歳だった宮澤は立正佼成会の会長秘書を騙る自称「ジャーナリスト」の男(当時54歳)とホテルで面会、ナイフを突きつけられた上、30分にもわたる取っ組み合いをし、灰皿で殴られるなど全治3週間の負傷しながらも一人でその男を取り押さえたという事件がある。
保守本流の有力者として期待され続け、42歳での経企庁長官就任を皮切りに早くから閣僚を歴任していったが、政府経験の豊富さとは裏腹に党務にかかわることは少なく、保守合同以前の吉田派以来の党人派や、池田・大平と同世代の政治家に専ら党務は委ねていた。中曾根内閣において、派としてしばしば宮澤の幹事長就任を要求したにもかかわらず、中曾根が一本釣りで田中六助を三役入りさせたことの背景には、宮澤の党務経験の少なさもある。また派内掌握については、大平正芳・前尾繁三郎に加え鈴木善幸といった有力な政治家がしのぎを削る中、積極的に行動を起こすことは少なく、同世代で早くから派閥を継承した田中角栄や中曾根康弘には大きく遅れをとることになった。宏池会内では、前尾繁三郎と比較的親しく、大平正芳とは微妙な関係であった。佐々木義武、伊東正義など大平側近とは、世代間対立もあり総じて関係は悪く、また、田中六助とは一六戦争と呼ばれる抗争を巻き起こしている。伊東らとは後年和解しているが、これは田中角栄や中曾根に対する大平側近の反抗意識の結果、宮澤が担がれたという消極的理由に発する所が大きい。
このように「政争、政局に関わらず、閥務に汗をかかない」という宮澤の姿勢は、その性格もあいまって共感よりも反感を買っていた。度々、後継内閣に擬せられ、また財界から多大な期待が寄せられながらも総理就任が遅れたのは、宮澤に敵が多かったためとも言える。ただし一方で、宮澤を応援する派閥横断的な政策集団平河会の存在や、田中角栄辞職後に、河野洋平ら政治工学研究所の面々に最初に押された事実が示すとおり、人望が無かったとまでは言い切れない。繊維交渉で苦言を呈されたとは言え、佐藤栄作や福田赳夫など官僚出のベテランからも多大な信頼を勝ち得ていたことも周知の事実である。
なお、加藤紘一は、大平側近として知られ、個人としての宮澤は加藤よりも河野を後継に望んだとされる。加藤の乱では、田中六助直系の古賀誠と結ぶ形で、加藤を失脚させている。加藤の乱では、大平女婿の森田一は加藤についており、宏池会内抗争の系譜が現代まで影響を及ぼした側面もある。
総理退陣直前、田中秀征の仲介で次期総理となる細川護煕と軽井沢で会談して、政権政党の交代に伴う国政の混乱回避を図った。
早坂茂三の『宰相の器』によると、田中角栄は「彼(=宮澤)は秘書官だ。秘書官としては一流だった。しかし、それだけだ。政治家ではない」と評したという。
2005年に出版された『ハト派の伝言 ― 宮澤喜一元首相が語る政治的認識』(中国新聞社刊)では、当時の小泉純一郎首相に対して、靖国神社参拝について国民に対する説明責任を果たしていないと批判したり、憲法改正問題について国民の間で議論が尽くされていないと指摘し、国際協力についても,日本は自衛隊による武力協力よりも経済的協力が得意分野だと指摘するなど、当時の自由民主党で主流になっていた政治的指向を批判していた。そのため現実主義者としての政治家の顔をのぞかせていたといえる。
日韓W杯招致に尽力
見かけによらないが旧制中学時代にサッカー経験があり、サッカー好きで国内である大きな試合にはよく顔を出していた。このため1994年(平成6年)12月に発足した超党派のワールドカップ招致国会議員連盟の議員会長に就任した(副会長、森喜朗、久保亘、小沢一郎)。超党派というのは、これ以前、1992年3月に小沢らを中心に国会議員招致委員会が、これに先んじて発足したものの、新進党主導で運動が始まったことで自民党が反発、運動は盛り上がらなかったため。1994年の超党派招致連盟の発足で政界も一致団結し大きな運動となっていった[3]。
世界中を駈けずり回ったのは長沼健日本サッカー協会会長(当時)らだが、国際的にも顔が広い宮澤も多くの国を訪問し、実現に向けて協力を行った。また共催に向けての重要な局面に於いてもアドバイスを送り、最終的に日韓共催を決断した鳩首会談に長沼、岡野俊一郎、川淵三郎、小倉純二、衛藤征士郎、釜本邦茂と参加し、共催を後押したことでも知られている[4][5]。
英語屋の面目
宮澤の英語力は「政界随一」と謳われた。しかし宮澤に海外留学や英語の専門教育を受けた経験などはなく、その英語はひとえに宮澤本人の努力の賜物だった。宮澤の英語に掛ける情熱に関しては、学生時代に辞書を丸暗記したとか、単語を覚えたページは破って食べたなど、さまざまな伝説がある。宮澤本人によると、東大時代に日米学生会議の日本代表の一人に選ばれて渡米したところ、それまで勉強してきた英語がほとんど使い物にならないことが分かり、そこで一念発起して本格的に英語の勉強を独学で始めることにしたのだという。日中戦争から第二次世界大戦中にかけて、英語が「敵性語」として一般には排斥されていた時代にも、手に入る洋書や英字誌は片っ端から読むようにした。戦後の占領が始まると、GHQとの交渉ができる大蔵官僚として引っ張りだこになり、それこそ毎日のように英語を使う日々が続いたという。
議員になってからも、議員会館の食堂やロビーでは英字新聞や英字誌を読んでいるのが常だった。あるとき背後から、いきなり強い口調で「日本の国会議員なら、日本語の新聞を読みなさい!」叱咤されたことがある。宮澤が振り向くと、そこには当時まだ新人議員だった浜田幸一が眉を吊り上げていた。しかしいちゃもんを付けた相手が宮澤と気づいて今度は浜田の方が大いに慌てた。そんな浜田に向かって宮澤は、「国会議員なんだから、浜田さんも英字新聞ぐらいはお読みなさい」とやり返している。浜田はこれに感化されて、しかし自分は英語はまるでダメなので、代わりに息子の浜田靖一をアメリカの大学に留学させることにしたという[6]。
外国首脳や大臣との会談の席では、外交プロトコル上かならず通訳を同席させることが決まりごとになっている。宮澤はそれでも米・英・豪・加などの首脳とはいちいち通訳の言うことを待たずに一対一で会話を主導した。あるとき大臣として外遊した際、同行した別の閣僚に付いていた通訳に不安を感じた宮澤は、その一言一句をしっかりと横耳で聞いていて、誤訳があると間髪入れずに訂正を入れたという逸話もある。そうした完璧主義が災いしてか、宮澤の英語力を煙たがる官僚や代議士が永田町には少なくなく、特に宮澤嫌いだった田中角栄からは「英語屋」と呼ばれて通訳並みに見下されていた。
宮澤が総理在任時の1992年1月、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領が来日した。ところが二日目の総理官邸での晩餐会の席上、ブッシュは突然隣に座っていた宮澤の膝の上に嘔吐したうえ、椅子から崩れるように倒れるという椿事が出来、しかもその映像が全世界に配信されたため各方面に衝撃が走った。翌朝、官邸に詰めかけた内外のプレスを相手に、一人で記者会見に臨んだのは宮澤だった。しかも30分近い状況発表と質疑応答のほとんどを英語で行ったのである。宮澤の説明は、現在の大統領の容体から、来日前からインフルエンザで体調不良だったこと、日中に皇居内で天皇と皇太子を相手にテニスをしたことで体力を消耗していたこと、そして晩餐会席上の様子や食事の内容にいたるまで、極めて詳細かつ専門的なものだったが、その語り口は沈着冷静で、いかにも堂に入った様子だった。前代未聞の大統領の醜態に蜂の巣を突いたような状態になったアメリカのメディアも、膝に吐かれた当の総理本人がこうこうしかじかと淡々と説明しているの見て、これなら心配はないだろうとすぐに落ち着きを取り戻している。次のクリントン大統領は宮澤と一度だけ会談しているが、その際にもこのときの宮澤の対応ぶりを賞賛している。
こうした英語に関する逸話は、宮澤についてを語るにあたっては欠かせないものだが、国際会議や交渉の場を重ねるうちに、宮澤はフランス語の重要性をも痛感して、中年を過ぎてからその勉強を始めている。本人は「志半ばで終わった」としているが、官僚、国会議員、閣僚、そして総理と、長年にわたって多忙な日々を送っていたにもかかわらず、常日頃から仕事の合間には勉強を怠らなかったことは、多くが認める宮澤の徳目のひとつである。
逸話
酒乱
宏池会の政治家の例に漏れず酒豪で知られ、酒にまつわるエピソードには事欠かない。酒癖は悪く、酔った席上で記者など同席者に絡むことを常とした。しかもその多くが学歴をネタにしたものだっただけに、新聞記者や政治家で彼を深く恨んだものは枚挙に暇が無い。例えばある席で「金丸さんという人には、簀巻きにして川に沈んでもらったほうがいい。山梨には、釜無川というちょうどいい川があるそうですな」と、金丸信を痛烈に批判した。しかし、後に「識見と豪腕は日本一」と金丸に接近し、金丸のバックアップを得て首相に就任した。その金丸が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれた際、幼稚園を訪問していた宮澤は、その知らせを聞くなり、あまりの嬉しさに幼稚園児に交じって踊りだした。日頃、滅多にパフォーマンスをしないだけに、周囲の者は「首相はご乱心か」と心配したという。別の席では竹下登を前にして「あなたの頃は、早稲田の商学部は無試験で入れたそうですな」と言い放ち、過去のトラウマから他人を絶対に怒らない事で有名だった竹下登を激怒させている[7]。 これにより、早稲田大学出身の竹下登と竹下派経世会を敵に回すこととなった。母校東大への拘りが強く、後輩議員や新聞記者たちに学歴を事細かに聞き、東大卒でないと露骨に馬鹿にする、と非常に嫌われていた。とはいえ、私生活では、1939年にともに日米学生会議に参加して以来の知り合いである奈良靖彦(元駐カナダ大使、東京商大(現・一橋大)卒)や苫米地俊博(元三菱商事副社長、苫米地英人の伯父、東京商大(現・一橋大)卒)といった、非東大出身者とも親しく、頻繁にゴルフに行く仲であった[8]。この日米学生会議による宮澤、奈良、苫米地らの交友については、のちに城山三郎が講談社から『友情 力あり』として出版している[9]。
漢詩
英語通とされるが宮澤自身は東洋的な思想を好むと述べ、しばしば好んで漢詩を引用する。「わたしは英語通となっていますが、実は小さいころ漢学を習いましてね、どちらかといえば東洋的な思想が好きなんです。その漢学に王道と覇道というのがあるんです。つまり総理大臣という一国の宰相になるには自分でなろうとしてなるものでなく人から押し上げられて就く天命みたいなものだと思ってます。人を押しのけてまでというのはわたしの性にあいませんね」と述べている[10]。
揮毫
中央省庁再編で大蔵省が財務省と名称変更されることになると、当時蔵相だった宮澤は大蔵官僚から「ぜひ銘板に揮毫を」と頼まれる。それまで門前にかかっていた「大蔵省」の銘板が、新憲法下で初の蔵相を務め宮澤の師でもあった池田勇人の筆によるものだったからだ。しかし宮澤はそれを断り、コンピュータの楷書体の文字の中からいろいろと注文をつけながら書体を選定[11]、頼まれれば嬉々として誰にでも揮毫する他の大臣とは一線を画した格好となった。曰く、「王羲之という人で書はもう完結しちゃったと思うんですよ。これ以上は書けない …… だから、役所の長く残る看板の字を書くなんてことは、とても素人の手に合う話でない」。
激怒
一部の部落民が部落外に転出して出世するや否や自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思っていた部落解放運動家小森龍邦による「宮澤喜一の父親(宮澤裕)は被差別階級の出だ」との発言に対し、宮澤は激怒したことが知られている[12]。
小説
宮澤は城山三郎の二つの小説のモデルになっている。学生時代の宮澤をモデルにしたのが『友情力あり』、大臣時代をモデルとしたのが『官僚たちの夏』に登場する「矢沢経済企画庁長官」である。
やる
総理時代、テレビ朝日『サンデープロジェクト』に出演し、田原総一朗から政治改革法案問題に関して「今の国会(1993年通常国会)でやるのか」と訊かれ、「私はやるんです。この法案(政治改革関連法案のこと)を何としても成立させたいんです」と冷静な宮澤にしては珍しく気色ばんで答えた。これがきっかけとなって自民党内が混乱し、1993年の政界再編の引金となったといわれる(参照:嘘つき解散)[13]。
感想
森喜朗内閣で国土庁長官の扇千景が作業服の地味さに苦言を呈し、もっと見栄えの良いものにするよう部下に指示した。その後、新しい作業服を扇自らが着用してマスコミに披露したが、その件について感想を求められた宮澤は「あの方は何を着ても似合うから」と答え、その場を沸かせた。一方2000年5月の「神の国発言」のときは、やはり記者会見で首相の発言に対するコメントを求められた際に、「神様は大蔵省の管轄外だから」と返答して記者団の笑いを誘った。
略歴
- 1919年(大正8年)10月:東京市に生まれる 本籍地は広島県福山市金江町金見
- 1928年(昭和3年):東京高等師範学校附属小学校入学
- 1932年(昭和7年):旧制武蔵高等学校尋常科入学(入試の成績は81人中27番)
- 1936年(昭和11年):旧制武蔵高等学校高等科文科甲類(文系英語クラス)入学
- 1939年(昭和14年):旧制武蔵高等学校高等科文科首席卒業、東京帝国大学法学部政治学科入学
- 1941年(昭和16年)12月:東京帝国大学法学部政治学科卒業
- 1942年(昭和17年)1月:大蔵省入省
- 1943年(昭和18年)11月:伊地知庸子(父・純正は早稲田大学教授)と結婚
- 1945年(昭和20年)8月:津島壽一蔵相秘書官事務取扱(同時に大平正芳が秘書官をつとめている)
- 1949年(昭和24年)1月:池田勇人蔵相秘書官
- 1951年(昭和26年)8月:サンフランシスコ講和会議に全権随員として出席
- 1953年(昭和28年)4月:退官し広島地方区より参議院議員選挙に出馬、当選(〜1965年7月)
- 1962年(昭和37年)7月:第2次池田内閣第2次改造内閣で経済企画庁長官(〜1964年7月)
- 1966年(昭和41年)12月:第1次佐藤内閣第3次改造内閣で経済企画庁長官(〜1967年11月)
- 1967年(昭和42年)2月:衆議院議員選挙で初当選(〜2003年10月)
- 1970年(昭和45年)1月:第3次佐藤内閣で通商産業大臣(〜1971年7月)
- 1974年(昭和49年)12月:三木内閣で外務大臣(〜1976年9月)
- 1977年(昭和52年)11月:福田赳夫内閣改造内閣で経済企画庁長官
- 1980年(昭和55年)7月:鈴木内閣で内閣官房長官
- 1984年(昭和59年)10月:自民党総務会長
- 1986年(昭和61年)
- 1987年(昭和62年)11月:竹下内閣で副総理兼大蔵大臣
- 1988年(昭和63年)12月:副総理・大蔵大臣を辞任
- 1991年(平成3年)11月:自民党総裁、内閣総理大臣
- 1993年(平成5年)
- 1998年(平成10年)
- 2000年(平成12年)4月:森内閣で大蔵大臣(留任)
- 2001年(平成13年)1月:省庁再編により最後の大蔵大臣から初代財務大臣に就任(〜4月)
- 2003年(平成15年)11月:政界引退。
- 2007年(平成19年)
- 6月:私邸で死去。
- 8月:内閣・自民党合同葬。
家族・親族
- 実家
- 自家
- 妻 庸子(宮崎県、学者・早稲田大学名誉教授 伊地知純正の二女)
- 長女 啓子(夫はアメリカ合衆国のクリストファー・ラフルア元駐日代理大使)
- 長男 裕夫(建築家)
- 他家
- 甥 宮澤洋一(官僚、政治家)
- 叔父 小川平二(政治家)、小川平四郎(外交官)など
- その他の親戚児島喜久雄(美術史家)、岸田文武(政治家)、石橋正二郎(実業家・元ブリヂストンタイヤ会長)、柳田誠二郎(実業家・元日本航空社長)、吉国二郎(官僚・元大蔵事務次官)、斎藤正彦(学者・東大名誉教授)など
系譜
- 宮澤家
父・宮澤裕は広島県沼隈郡金江村(現・福山市金江町)の小農家に生まれ、苦学して東京帝国大学政治学科を卒業、長野県庁勤めを経て、実業界に入り海運王山下亀三郎の山下汽船(現・商船三井)に入社。亀三郎から親友の小川平吉を紹介されその女婿になった。昭和3年(1928年)郷里の広島3区から衆議院議員に当選して政界入り。以来連続6回当選し、鉄道政務次官、商工省参与などを歴任した[14]。裕の息子3人もまた東大を出た。いまや宮澤家は"超名門エリート"と思われているが、もとから宮澤家が名門であったわけではない。[15]
石橋正二郎━━啓子 ┣━━━━━━━悦子 郷裕弘 ┃ ┃ 伊地知純正━━庸子 ┃ ┃ ┏宮澤裕夫 ┣━━━━━┫ ┃ ┗啓子 ┏宮澤喜一 ┃ 宮澤鹿吉━━━━━宮澤裕 ┃ クリストファー・ラフルア ┃ ┃ ┣━━━━╋宮澤弘━━━━━宮澤洋一 ┃ ┃ 小川平吉━━━━━こと ┗宮澤泰 ┃ ┏その ┣━━━━━┫ ┃ ┗ゆり 児島喜久雄━━汪子
井上政信 ┃ ┣━━━━井上信一 ┃ ┏せい ┃ (元首相) ┃宮澤裕 ┏宮澤喜一 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━╋宮澤弘 ┃ ┃ ┃ ┣こと ┗宮澤泰 ┃ ┃(元首相) ┃林銑十郎━━禌子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃斎藤樹 ┏斎藤吉彦 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━╋恭子 ┃ ┃ ┃ ┣てい ┣斎藤正彦 ┃ ┃ ┃ ┗斎藤邦彦 小川金蔵━━━━━小川平吉━━━┫ ┣小川一平 ┏小川元 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━╋幸子 ┃ ┃ ┃ ┃俊子 ┗小川丈夫 ┃ ┃ ┃芳江 ┏峯子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━┫ ┃ ┃ ┃ ┣小川平二 ┗通子 ┃ ┃ ┣小川三平 ┃ ┃ ┣小川平四郎 ┃ ┃(小川) ┗堤平五
主な著書
単著
- 『東京 ― ワシントンの密談』(実業之日本社、1956年/中央公論社[中公文庫]、1999年)
- Secret Talks between Tokyo and Washington: the Memoirs of Miyazawa Kiichi, 1949-1954, translated and annotated by Robert D. Eldridge. (Lexington Books, 2007).
- 『社会党との対話 ― ニュー・ライトの考え方』(講談社、1965年)
- 『戦後政治の証言』(読売新聞社, 1991年)
- 『聞き書宮澤喜一回顧録』(御厨貴・中村隆英編、岩波書店、2005年)
共著
- (中山伊知郎)『将来経済の構想』(筑摩書房、1969年)
- (高坂正堯)『美しい日本への挑戦』(文藝春秋、1984年/文春文庫, 1991年)
- (中曾根康弘)『対論改憲・護憲』(朝日新聞社, 1997年/朝日文庫、2000年「憲法大論争 改憲vs.護憲」に改題)
参考文献
- 浜田幸一 『日本をダメにした九人の政治家』講談社 1993年 ISBN 406206779X
- 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社 2000年 157、173、340頁
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年 446-448、463頁
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年 197-211頁
関連項目
脚注
- ↑ これらの体験の多くは、著書『東京-ワシントンの密談-シリーズ戦後史の証言・占領と講和〈1〉』(中公文庫)に収められている。
- ↑ 2001年に行われたサンフランシスコ講和会議50周年の式典では、会議出席者唯一の生存者としてスピーチを行い、「個別的自衛権の論理的延長として、集団的自衛権を位置づけることを提案する」と述べ、部分的な集団的自衛権の行使を容認すべきだと主張、それを日米関係の21世紀への遺言であるとした。
- ↑ この時、誘致の「顔」を宮澤に譲るよう小沢に頭を下げに行ったのが、当時文教族の中堅だった麻生太郎(讀賣新聞、2009年2月22日、4頁)。
- ↑ 『新時代へのキックオフ』仮野忠男著、角川書店、2001年9月。
- ↑ 『サッカー批評』長沼健回顧録、32号、33号、34号、双葉社、2006〜07年。
- ↑ 浜田がテレビや雑誌のインタビュー、著作などで度々紹介しているエピソード。
- ↑ 福本邦雄『表舞台・裏舞台』
- ↑ 朝日新聞1991年10月28日、AERA1991年10月29日、朝日新聞1992年04月25日
- ↑ 城山三郎『友情 力あり』(講談社文庫,1993年)
- ↑ 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 204頁
- ↑ 平成12年12月21日武藤事務次官記者会見の概要
- ↑ 宮澤裕が被差別部落出身かどうかは不明。『芸備人権新報』(1999年9月10日号)には、「(小森)……ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだという べきでしょうね……宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだったでしょうね……」とある。
- ↑ 田原総一朗はこの件について「結果として宮澤さんに迷惑を掛ける事になってしまった」と宮澤の死後、雑誌『リベラルタイム』で語っていた。
- ↑ 福山誠之館・宮沢裕
- ↑ 神一行の著書『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』』 205頁に「いまや宮沢家は超名門エリートと思われているが、もとから宮澤家が名門であったわけではない。竹下、安倍が大地主で酒造業、醤油製造業を営んでいたのに対して、宮沢の場合はぐっと落ちて小農の出である。宮沢は東京生まれであるが、父裕は広島県沼隈郡金江村(現在の福山市)に生まれた。取材当時その実家を訪れてみたが、福山市とは名ばかりの山の中にそれはあった。」とある
外部リンク
官職 | ||
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先代: | 内閣総理大臣 第78代 : 1991年 - 1993年
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次代: |
先代: | 国務大臣(副総理) 1987年 - 1988年
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次代: |
先代: 創設
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財務大臣 初代:2001年
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次代: |
先代: | 大蔵大臣 第83代 : 1986年 - 1988年
第96代:1998年 - 2001年 |
次代: |
先代: | 内閣官房長官 第44代:1980年 - 1982年
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次代: |
先代: | 経済企画庁長官 第12・13代:1962年 - 1964年
第17・18代 : 1966年 - 1968年 第29代 : 1977年 - 1978年 |
次代: |
先代: | 外務大臣 第103代:1974年 - 1976年
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次代: |
先代: | 通商産業大臣 第32代:1970年 - 1971年
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次代: |
先代: | 農林水産大臣 第18代:1993年(兼任)
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次代: |
先代: | 郵政大臣 第56代 : 1993年(兼任)
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次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党総裁 第15代 : 1991年 - 1993年
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次代: |
先代: | 自由民主党総務会長 第28代:1984年 - 1986年
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次代: |
先代: | 宏池会会長 第5代:1986年 - 1998年
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次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第76・77代 海部俊樹 |
第78代 1991年 - 1993年 |
第79代 細川護煕 | |||
第代 [[]] |
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