楯の会

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楯の会(たてのかい)とは、作家三島由紀夫による「民兵」(ミリシア)を模した組織

概要[編集]

「楯の会」会員は10人を1単位として10班で構成される。定員は100名。左翼革命勢力による日本への間接侵略に対抗することを標榜し、民族派学生を中心として、1968年(昭和43年)10月5日に正式結成され、1971年(昭和46年)2月28日に解散した。

「楯の会」の名称は、万葉集防人歌の、「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は」(詠み人:今奉部與曾布―いままつりべのよそふ)と、江戸末期の歌人・橘曙覧の、「大皇の 醜の御楯と いふ物は 如此る物ぞと 進め真前に」に2首に由来する。当初は一期会員・金子弘道の提案による「御楯会(みたてかい)」も候補に上がったが、討議の結果、「楯の会」と決定された。

経過[編集]

1966年(昭和41年)12月19日、小沢開策から民族派雑誌「論争ジャーナル」の創刊準備をしている青年の話を聞いた林房雄の紹介で、同誌編集部の万代潔平泉澄門人明治学院大学卒)が三島宅を来訪。万代を気に入った三島由紀夫は、同誌を中心とする民族派学生たちと親交を結び、翌年の1967年1月5日の「論争ジャーナル」(編集長・中辻和彦(明治学院大学)、副編集長・万代潔)創刊以降、同誌に無償で寄稿する。一方、同年1月27日には、日本学生同盟(略:日学同)の持丸博早稲田大学在学)も、日学同の機関紙「日本学生新聞」寄稿依頼に三島宅を来訪。

1966年(昭和41年)10月に防衛庁関係者や元陸将藤原岩市などと接触し、自衛隊体験入隊許可のための仲介や口利きを求めていた三島由紀夫は、翌年の1967年(昭和42年)4月12日 - 5月27日、単身で45日間自衛隊体験入隊する。「論争ジャーナル」グループと日学同の学生らも自衛隊体験入隊を希望する中、三島は民兵組織・「祖国防衛隊」構想を固め、持丸博を通じて、早稲田大学国防部の協力を要請する。この時期、三島と日学同と「論争ジャーナル」の三者関係が徐々にできあがる。しかしその後、三島の「祖国防衛隊」構想を巡って、これに賛成する「論争ジャーナル」グループと、反対の立場を取る日学同との間に亀裂が生じ始めることとなる(のち、祖国防衛隊・学生長となった持丸博は日学同を除籍される)。

1967年(昭和42年)6月19日、銀座の喫茶店「ビクトリア」で三島由紀夫と早稲田大学国防部代表らの面談が行われ、三島は森田必勝早大教育学部在学、日学同)と初めて会う。同年7月2日から1週間、森田ら早大国防部13名と三島による、自衛隊北海道北恵庭駐屯地での体験入隊が行なわれた。同年11月、三島と「論争ジャーナル」グループとの間で、民兵組織「祖国防衛隊」の試案パンフレット(Japan National Guard)が作成される。同年12月、パンフレットを読んだ陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝と三島は面談し、祖国防衛隊構想に弾みがついていく。持丸博によると、三島は山本と会ってひどく興奮し、「あの人は都市ゲリラの専門家だ。俺たちの組織にうってつけの人物じゃないか。おまえも一緒に会おう」と言ったという[1]

1968年(昭和43年)2月25日、「論争ジャーナル」事務所で、三島由紀夫、中辻和彦、万代潔、持丸博ら11名が血盟状を作成。「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」と記す。三島は“平岡公威”(本名)で署名。

1968年(昭和43年)3月1日 - 30日、持丸博を新たに副委員長とした「論争ジャーナル」グループと早大生を中心にした20数名の学生らと三島由紀夫による、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地での体験入隊が行なわれた。これが第1回目の「祖国防衛隊」中核要員候補(一期生)の引率となる。この回には再び森田必勝も参加した。同月、三島は持丸博を通じ、桜田武日経連代表常任理事)らへの接触を始めて、初面談を持つ。しかし、なかなか承諾を得られず、自衛隊関係者から三輪良雄を通じて説得をすることをアドバイスされ、3月18日、三輪良雄にその旨の書簡を送る。

1968年(昭和43年)4月上旬、堤清二の厚意により、五十嵐九十九ドコールの制服もデザインしたという)がデザインした制服(徽章は三島自身のデザインに基づく)の完成を祝して、三島由紀夫は「祖国防衛隊」幹部12名と共に、青梅市の愛宕神社に参拝に赴く。同月中旬、三島は桜田武、三輪良雄、藤原岩市と四者面談する。桜田は前回より理解を示し、「体験入隊同好会」という無難な名称にするように指示し、中核要員のみを無名称で置き「祖国防衛隊」の任務とすることで合意した。

1968年(昭和43年)5月より、山本舜勝一佐の指導による中核要員への訓練開始。集中講義、街頭訓練などを積む。同年7月25日 - 8月23日、二期生を迎え、富士学校滝ヶ原駐屯地で第2回目の自衛隊体験入隊が行なわれた。この二期生には小賀正義神奈川大学工学部在学)、古賀浩靖(神奈川大学法学部既卒)がいた。その一方、結局は桜田武(経団連)からの支援協力が中途半端な形で、バカにされたことから(最終的に桜田は、「君、私兵など作ってはいかんよ」と、300万円の投げ銭をしたという。三島のプライドはひどく傷つく)[2]、三島由紀夫は「祖国防衛隊」の名称を変え、少数先鋭の部隊にすることを決定する。

1968年(昭和43年)10月5日虎ノ門国立教育会館にて、「楯の会」の正式結成を記者発表。三島由紀夫は持丸博を初代・学生長に任命する。会員は主に大学生の中から三島の面接試験で選ばれ、無給ではあったが、夏・冬、各一着の制服、制帽戦闘服軍靴特殊警棒を支給された。会員資格は、陸上自衛隊で1ヶ月の軍事訓練を受け、その1ヶ月を落伍せずに勤め上げること、会員はその1年後、再び自衛隊でRefresher Course(リフレッシャー・コース)を受けること、毎年11月3日には国立劇場屋上にてパレードをおこなうことになっていた。月1回の例会も活動内容の一つであった。会の運営はあくまで三島個人のポケットマネーで行なった。のち1970年(昭和45年)2月に自民党佐藤栄作から資金援助を申し出られたこともあったが、三島はこれを断固拒絶した。

1968年(昭和43年)10月21日、三島由紀夫と楯の会会員らと、山本舜勝と陸上自衛隊調査学校の学生らは、国際反戦デーの左翼デモ新宿騒乱)の状況を把握するため、デモ隊の中に潜入し組織リーダーが誰かなどを調査。また、これからの左翼デモにおける自衛隊治安出動の可能性と、その援護、魁となる斬り込み隊要員・楯の会の今後の行動計画、憲法改正・自衛隊国軍化計画を練る。この頃、森田必勝は山本に、「誰を殺せば日本のためにもっともいいのでしょうか」と訊ねる。同年12月、三島邸に楯の会の中核会員と山本らが集まり、楯の会と綜合警備保障株式会社や猟友会との連携計画も模索する。三島が山本に、「いつ起つのか」という質問に、山本が、「暴徒が皇居に乱入して天皇が侮辱されたときと、治安出動の際だ」と答えると三島は、「そのときは、あなたのもとで中隊長をやらせていただきます」と言ったという[2]

1969年(昭和44年)2月1日、「論争ジャーナル」側と「日本学生同盟」側との架け橋役であった森田必勝はしだいに「論争ジャーナル」側(楯の会)に完全に傾き、小川正洋明治学院大学法学部在学)、野田隆史、田中健一、鶴見友昭、西尾俊一の5名と共に日本学生同盟を正式に脱退。この日学同脱退メンバーは十二社にあるアパートで共同生活をしていたため「十二社グループ」と呼ばれた。テロルも辞さない集団である。同年2月19日 - 23日、山本舜勝の指導の下、板橋区松月院で合宿し、楯の会の特別訓練が行われた。同年3月1日 - 29日、楯の会会員を引率した第3回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で行われた。この三期生には小川正洋も加わった。この時、楯の会はヘンリー・スコット=ストークスの取材を受ける。「なぜ楯の会に入ったのか」と問われた森田必勝は、「三島に随いていこうと思った。三島は天皇とつながっているから」と答えたという[3]。同年4月13日、ヘンリー・スコット=ストークスの記事を見たロンドンのテムズ・テレビが楯の会の市ヶ谷会館での例会取材のため来日。訓練の様子を撮影する。同年6月、三島由紀夫と楯の会は、ソ連共産党機関紙「ソヴィエツカヤ・ロシア」から名指しで批判される。

1969年(昭和44年)5月23日 - 26日、楯の会特別訓練を行う。三島由紀夫はこの頃から、楯の会の7,8名に居合を習わせ始め、9名(持丸博、森田必勝、倉持清、福田俊作、福田俊夫、勝又武校、原昭弘、小川正洋、小賀正義)に日本刀を渡す。同年6月下旬、山本舜勝と5名の自衛官と、三島らが山の上ホテルで会食。皇居死守の具体的なクーデター計画などについて話し合う。三島は山本に、「すでに決死隊を作っている」と決断を迫るが、山本は、「まず白兵戦の訓練をして、その日に備えるべきだ。それも自ら突入するのではなく、暴徒乱入を阻止するために」と反対する。自衛官らは三島に賛同していたが、山本の賛同が得られずに終わる[2]。同年7月26日 - 8月23日、楯の会会員を引率した第4回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で行われた。

この頃から、楯の会主要古参メンバーの中辻和彦、万代潔らと三島由紀夫との間に、「論争ジャーナル」の資金源(中辻らが田中清玄に資金を求めていたこと)をめぐって齟齬が生じ始め、1969年(昭和44年)10月3日に中辻、万代ら数名が楯の会を正式退会。持丸博(初代・学生長)も、同年10月12日に楯の会を退会する。村松剛によると、持丸は、三島の「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」という提案を断ったという[4]。持丸は、会の事務を手伝っていた松浦芳子と婚約していた。三島は山本舜勝に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという[2]。持丸の代わりに森田必勝が学生長となり、「論争ジャーナル」編集部内にあった楯の会事務所も森田宅に移転した。

この中辻和彦らの退会問題について、林房雄は、「彼ら(NとM)は小沢開策氏や私を感動させたのと同じ物語で、青年ぎらいの三島君を感動させた。少なくとも当初は彼らは見かけどおりに純粋で誠実であったかもしれぬ。だが、彼らは結局『天人五衰』の主人公のような悪質の贋物だった。(中略)ある“大先輩”の一人は、『ひどい目にあったな。結局彼らは戦後派青年の最悪のタイプ、いわば光クラブの連中みたいな奴らばかりだった』とまで極言した。(中略)『楯の会』はいち早く彼らを除名した。三島君は村松剛君を立会人としてNとMに破門と絶縁を申しわたした。その激怒ぶりは尋常ではなかった、と村松君は証言している。(中略)『楯の会』の会員は何度もフルイにかけられて精選された。(中略)前記NやMの光クラブ派は厳しく排除された」のだと述べている。そして、楯の会結成1周年記念パレードの前々日あたりに、三島は林房雄に、「あなたのお嫌いな連中はもういませんから、安心して見に来てください」と電話してきたという[5]

1969年(昭和44年)10月21日、三島と楯の会会員は、再び国際反戦デーの左翼デモ・10.21国際反戦デー闘争の状況を確認するが、新左翼は警察に簡単に鎮圧され、もはや自衛隊治安出動に乗じた憲法改正、自衛隊国軍化への道がないことを認識する。同年10月31日、三島宅で行われた楯の会班長会議で、森田必勝は、「楯の会と自衛隊で国会を包囲し憲法改正を発議させたらどうか」と提案。これに対し三島は、武器の問題などで実行困難と返答する。

1969年(昭和44年)11月3日、午後3時から、国立劇場屋上で、楯の会結成一周年パレードを行う。演奏は陸上自衛隊富士学校音楽隊。藤原岩市陸将三輪良雄防衛庁事務次官が祝辞を述べる。三島由紀夫は川端康成も招待し、祝辞挨拶を依頼していたが、川端に断られた。同年11月16日、新左翼による佐藤首相訪米阻止闘争が行われるが、再び警察に簡単に鎮圧され自衛隊治安出動は絶望的となる。同年11月28日、三島宅で、最終的計画案の討議を再び山本舜勝と行うが、山本から具体策が得られず終わる。同年12月22日、三島と楯の会会員88名は、陸上自衛隊習志野駐屯地で、落下傘降下の予備訓練を行う。訓練後、三島は憲法改正の緊急性を説く。これに基づき、後に、阿部勉を班長とする憲法改正草案研究会(13名)が楯の会内に組織され、以降、毎週水曜に討議が行われた。

1970年(昭和45年)1月末、三島宅での会食後、「(クーデターを)やりますか!」という三島由紀夫の問いに対し、山本舜勝は、「やるなら私を斬ってからにして下さい」と返答する[2]。同年3月1日 - 28日、楯の会会員を引率した第5回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で行われる。この頃から、森田必勝と三島は決起計画を話し合うようになるが、まだ具体策はなかった。同年4月10日、三島は小川正洋に「最終行動」に加わる意志があるかどうか打診し、小川は承諾。

1970年(昭和45年)5月6日、憲法改正草案研究会の資料として、三島由紀夫の『問題提起』第一・「新憲法における『日本』の欠落」が配布される(同年7月8日には第二・「戦争の放棄」、9月30日には第三・「非常事態法について」が配布)。これに基づき、研究会メンバーが毎週1回のペースで起草作業を進める。

1970年(昭和45年)5月中旬、三島宅に森田必勝、小賀正義、小川正洋が集合。楯の会と自衛隊がともに武装蜂起して国会に入り、憲法改正を訴える方法を討議する。同年6月2日 - 4日、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、リフレッシャーコースの体験入隊が行なわれる。同年6月13日、三島、森田、小賀、小川はホテルオークラ821号室に集合。具体的な決起の計画(自衛隊の弾薬庫を爆破すると脅すか、あるいは三十二連隊長を拘束するか、あるいは東部方面総監を拘束するかして自衛隊員を集結させ、国会占拠・憲法改正を議決させる計画など)を討議。同年8月下旬、三島ら4名は、古賀浩靖を仲間に加えることを決定。同年9月2日、森田と小賀に、「生命を貸してくれ」と頼まれた古賀浩靖は、同志に加えてくれたことを感謝し、同意する(以降の経緯については、三島事件を参照のこと)。

1970年(昭和45年)9月10日 - 12日、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、リフレッシャーコースの体験入隊が行なわれる。同年10月17日、三島は持丸博を自宅に呼び、1968年(昭和43年)2月25日に作成した血盟状は(著名した者の多くは去ったので)焼却したいから持って来てほしいと頼む。同年10月27日、三島は血盟状を、持丸とともに劇団浪漫劇場の庭で焼却する。しかし、このとき持丸は血盟状のコピーを内密にとっておく。

1970年(昭和45年)11月24日、三島、小賀、小川、古賀と決起の最終予行演習と、新橋の料亭・末げんでの別れの会食を終え、西新宿の下宿に帰宅した森田必勝は、同居していた楯の会会員の田中健一に、翌日の楯の会例会が行なわれる市ヶ谷会館で記者・徳岡孝夫伊達宗克に渡すべき封書を託す。

1970年(昭和45年)11月25日の午前10時13分頃、森田必勝、小川正洋、古賀浩靖が同乗し、小賀正義の運転する41年型白塗りコロナが三島宅に到着。日本刀・関孫六を携えた三島由紀夫を乗せて自衛隊市ヶ谷駐屯地へ向かった。アタッシュケースには、短刀2本、特殊警棒3本、檄文コピー多数、要求書原本およびコピー2通、辞世の句が書かれた短冊6枚などを収められていた。

1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫は、楯の会学生長・森田必勝、同班長・小賀正義、同班長・小川正洋、同副班長・古賀浩靖)の4名と共に、市ヶ谷駐屯地・陸上自衛隊東部方面総監部二階の総監室を訪問。名目は「優秀な隊員の表彰紹介」であった。総監室に通され、応接セットにいざなわれた三島は益田兼利東部方面総監(陸将)に、森田ら4名を、一人一人名前を呼んで紹介する。

総監と談話中、突如として三島らは総監を拘束。要求書を幕僚らに提示する。幕僚らは乱闘の末、三島の要求の呑み自衛官を本館前に集合させた。要求書には他にも、「楯の会残余会員(本事件とは無関係)を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること」とも書かれてあったが、市ヶ谷会館にいた楯の会会員30名は警察の監視下に置かれ、三島の要求通り現場には召集されなかった。森田ら4名以外の会員たちに決起計画は一切知らされていなかった。午前11時55分頃、鉢巻姿の森田、小川らが、要求項目を書いた垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らし、檄文多数を撒布。正午きっかりに、“七生報国”(七たび生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に報いるの意)と書かれた日の丸の鉢巻をし、日本刀・“関孫六”の抜身を持った三島由紀夫がバルコニーに立ち、憲法改正のための自衛隊の決起(クーデター)を促す演説を行なった。演説は野次と報道ヘリコプターの騒音に、しばしばかき消され、10分ほどで切り上げられた。

側らにいた森田必勝と共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、総監室に戻った三島由紀夫は、割腹自決。続いて森田も割腹自決した(詳細は、三島事件を参照のこと)。後日、楯の会残余会員(本事件とは無関係)に渡された三島の遺書により、楯の会は三島の自決をもって解散となる。

1971年(昭和46年)2月、憲法改正草案研究会により、原稿用紙200枚に及ぶ「維新法案序」が完成。

1971年(昭和46年)2月28日西日暮里神道禊大教会で、楯の会解散式に行われた。三島由紀夫の妻・瑤子夫人の立会いの下、楯の会は正式に解散を宣言する。杉山家(瑤子夫人の実家)は、神道と関係が深く、神道禊大教会は杉山家と縁があり、解散式の場所となったという。元楯の会メンバー・伊藤好雄によると、瑤子夫人は神道に関する造詣が深かったという[6]。楯の会の制服は集められ、瑤子夫人の元に託されたという。

その後、1977年(昭和52年)3月3日に楯の会の残党・伊藤好雄ら2名を含む4人の右翼活動家が経団連襲撃事件を起こしている。瑤子夫人が犯人説得にあたったという。

備考[編集]

楯の会の会員は5期生が最後だが、思想的理由で入会した民族派学生が多かったのは3期生あたりまでで、4期や5期ともなると『平凡パンチ』のグラビアを見て制服や銃に憧れて入会した者も多かったという。思想的基盤を持たないこれらの会員の中には、三島事件後、楯の会での活動歴が就職に悪影響を及ぼすことを恐れてただちに退会した者もいたという[7]

楯の会会員には、「楯の会隊員手帳」と記された黒のビニール表紙の手帳が配布された。縦・11.5×横・6.9センチ。7頁まで印刷(1頁目は「身分証明書」。2頁目は「三島由紀夫の角印」。3頁目は「三原則」。4頁目は「特殊警棒所持規定」。5頁目は「楯の会被服貸与規定」。6 頁目は「楯の会規約草案」。7頁目は「隊歌・起て! 若き紅の獅子たち」)、以下白紙のメモ帳が別丁で付いている。

隊歌はレコード発売されている。タイトルは手帳記載とやや異なる。

『起て! 紅の若き獅子たち―楯の会の歌』(EPレコード[8]
1970年(昭和45年)4月29日にクラウンレコードより発売。
作詞:三島由紀夫。作曲・編曲:越部信義。歌唱:三島由紀夫と楯の会。
ジャケット写真:三角に整列した楯の会。
B面は『英霊の声―三島由紀夫作「英霊の聲」より』(作曲・編曲:越部信義。朗読:三島由紀夫。竜笛:関河真克。演奏:クラウン弦楽四重奏団。題字「英霊の声」(ジャケット):三島由紀夫)[8]

有名な会員一覧[編集]

東京府東京市四谷区出身。
茨城県水戸市出身。
三重県四日市市出身。
北海道滝川市出身。
和歌山県有田市出身。
千葉県山武郡出身。
東京都中央区日本橋出身。
秋田県仙北郡出身。
東京都杉並区出身。

参考文献[編集]

  • 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
  • 中村彰彦『烈士と呼ばれる男 森田必勝の物語』(文藝春秋、 2000年)(文春文庫、2003年)
  • 安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998年)ISBN 4931391397
  • 三島由紀夫 『「楯の会」のこと』(楯の会結成一周年記念パンフレット、1969年11月)『決定版 三島由紀夫全集第35巻・評論10』pp.720-727(新潮社、2003年)所収
  • 井上豊夫 『果し得ていない約束―三島由紀夫が遺せしもの』(コスモの本、2006年)
  • 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)
  • 山本舜勝『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)
  • 鈴木亜繪美(監修・田村司)『火群のゆくへ 元楯の会会員たちの心の軌跡』(柏艪舎、2005年)
  • 伊達宗克編『裁判記録 「三島由紀夫事件」』(講談社、1972年)

関連項目[編集]

関連人物[編集]

脚注[編集]

  1. 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)、『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)
  3. ヘンリー・スコット=ストークス『三島由紀夫 生と死』徳岡孝夫訳(清流出版、1998年)
  4. 村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)
  5. 林房雄『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』(文藝春秋、1972年)
  6. 伊藤好雄『召命 隊長三島の決起に取り残されて』
  7. 山平重樹『最後の浪人 阿部勉』pp.85 - 86
  8. 8.0 8.1 『決定版 三島由紀夫全集第41巻・音声(CD)』(新潮社、2004年)に収む。
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