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2020年1月17日 (金) 22:05時点における最新版
中国地方のデータ | ||
5県の合計 | ||
面積 | 31,917.37km² | |
総人口 | 7,679,939人 (2006年3月31日) | |
人口密度 | 240.62人/km² (2006年3月31日) | |
位置 | ||
中国地方(ちゅうごくちほう)は、本州の西部に位置する、日本の地域の一つ。
行政区分としては、鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県の5県より構成される。
目次
概要[編集]
便宜的に、兵庫県の西部(旧播磨国)と北部(旧但馬国)を含める場合がある。山口県、特に西部の旧長門国は、古くから九州との繋がりが深い点から、九州・山口地方として広域九州圏に入れる場合もある。又、山口県東部(旧周防国)・広島県西部(旧安芸国)・島根県西部(旧石見国)を広域九州圏に入れる場合もある。
延喜式による「近国」「中国」「遠国」の三区分のうち、「中国」に属していたのが名の由来。 文献上の早い例は、1394年に足利直冬が備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗する「中国探題」としてみえる(「師守記」「太平記」)こと、翌50年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、54年に将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた(「永青文庫文書」)こと等。南北朝時代中頃には中央の支配者層に、現在の中国地域がほぼ「中国」として認識されていた。また中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった。(岸田裕之執筆「中国」の項、『日本史大事典4』平凡社、1993)
旅行業などを中心に「China」(中華人民共和国)と区別するために、日本海側の称である山陰と、瀬戸内海側の称である山陽を合わせて山陰山陽地方(さんいんさんようちほう)の呼称を用いることもある。(まれに「陰陽(いんよう)」とも)
東国に対して西国(さいごく)と呼ぶこともあるが、例外的である。
より広域的に四国地方と合わせて、中国・四国地方(中四国)と呼ぶこともある。
地理[編集]
脊梁山脈である中国山地が、山口県東部から島根県南部/広島県北部を抜けて鳥取県南部/岡山県北部まで延びる。最高峰は鳥取県の大山で1729m。
気候は、山陰と山陽で大きく異なる。山陰は日本海側気候で、冬には雪が比較的多い。一方、山陽は瀬戸内海式気候で、年間を通して雨が少ない。
- 山:大山、三瓶山、蒜山
- 川:江の川、日野川、千代川(日本海へ流れる川)、太田川、旭川、高梁川、吉井川、芦田川、沼田川(瀬戸内海へ流れる川)
- 平野:出雲平野、岡山平野
- 盆地:津山盆地、三次盆地
- 砂丘:鳥取砂丘
地域[編集]
主な地域圏[編集]
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歴史[編集]
(本節では、「中華人民共和国」と区別するために、「中国地方」を「山陰山陽」と表記する。)
古代[編集]
6世紀に近畿でヤマト王権が成立すると、近畿に近い山陰山陽の政治勢力は、早々とヤマト王権に参加した。当時の二大勢力圏であった、山陽の吉備国や山陰の出雲国は、独立性を保つ一方でヤマト王権とのパワーバランスも保ち、奈良時代には吉備真備などの高官を輩出した。しかし、吉備国の繁栄に危機感を覚えたヤマト王権によって、吉備国は分割され、勢力を削がれた。
平安時代[編集]
10世紀の940年頃に、関東で平将門が畿内政権に対して反乱を起こすと、山陽では藤原純友が畿内政権に対して反乱を起こした(承平天慶の乱)。
鎌倉時代~室町時代[編集]
鎌倉時代から室町時代にかけては、村上水軍が瀬戸内海を本拠地とした。室町時代に勘合貿易が執られるまでは、瀬戸内海の海賊たちは、倭寇となって朝鮮半島近辺で略奪を行った。
戦国時代~江戸時代[編集]
戦国時代には、大内氏や尼子氏や毛利氏や小早川氏といった戦国大名が、山陰山陽を領するようになった。16世紀前半には、大内義隆が山陰山陽から北部九州に跨がって勢力圏を伸ばし、その本拠地たる山口は、「西京」(西の京都)と呼ばれるまでに繁盛した。大内義隆が謀反で自害すると、安芸国人衆の中で勢力を伸ばした毛利元就が、陶氏や尼子氏を滅ぼし山陰山陽を統一した。毛利氏は山陽中南部の広島に拠点を定め、それ以来広島は、山陰山陽に及ぶ広大な毛利氏支配域で随一無二の都市となる。
ところが、1600年の関ヶ原の戦いで、西軍の石田三成が徳川家康率いる東軍に敗れ毛利輝元も大坂城を退去すると、本拠地を広島から萩に移され(長州藩)、領地も東軍に内応した吉川広家に宛がわれる予定だった周防・長門の2国に削減された。
江戸時代になると、大小様々な大名が領するようになった。鳥取藩は徳川将軍家との関係が強く(鳥取藩初代藩主、池田光仲は父が徳川家康の外孫にあたり、12代藩主慶徳は徳川慶喜の兄)、全国有数の石高を誇った。又、池田光政・綱政といった名君を出した岡山藩、松平治郷の下で発展を遂げた松江藩を初めとして、徳川幕府が中国・九州地方の幕府拠点として幕命で備後福山藩を興し、その初代藩主には徳川家康の母方の従兄弟である猛将水野勝成を配した。また浅野氏が治める広島藩は、頼山陽といった歴史家を出した。殊に岡山と広島は、藩内経済の進展も手伝って、江戸時代後期には日本で十指に入る城下町へと成長した。
幕末から第二次大戦まで[編集]
幕末から明治維新にかけての動乱期には、江戸幕府への敵対心を燃やしていた長州藩が、時代をリードする事となった。時代を同じくして、津和野藩は、4万石でありながら、石高の二倍三倍もの経済力を持ち、明治初期には西周や森鴎外などの知識人を輩出した。
欧米列強による植民地化が世界中で進む中、明治政府は富国強兵政策を執って植民地化を免れた。当時、朝鮮半島や中国にも近い山陽や北九州は、経済や軍事における要衝ともなった。1894年に日清戦争が起こると、帝国議会と大本営が臨時に広島へ移転し、これ以来、広島は兵站も置かれて軍需都市ともなった。又、広島近郊に位置する呉や江田島も、帝国海軍の本拠地ともなった。この影響か、第二次世界大戦の終結直前には、軍都たる広島にはアメリカ軍によって原子爆弾が投下され、岡山、呉、徳山、下関、福山などの当時の主要都市は軒並み激しい空襲を受けた。
第二次大戦後[編集]
高度経済成長期には、概して東日本で中央たる東京への人口流入が起こったために、山陰山陽では大きな地殻変動を招くには至らなかった。
1970年代に、田中角栄政権が「地方への再分配」を掲げると、山陰山陽でも交通網が整備されるようになる。山陽新幹線は、1972年に岡山駅まで開通し、1975年に全通した。
又、高度経済成長期以後は、「過疎と過密」が顕在化するようになり、山陰山陽を横断する幹線高速道路の一つである中国自動車道は、津山や三次などの山間部を経由するルートとして建設された。山陽自動車道の全通は、1997年末であった。これと前後して、1988年には瀬戸大橋が、1999年にはしまなみ海道が開通したものの、山陰と山陽の格差が大きくなる結果となった。
更に、バブル経済が破綻すると、1996年以後のデフレーションの進行や不良債権の処理、郊外型ショッピングセンターの隆盛などとも相まって地方全体が不況に悩まされた。
近年は、山陽側の各都市において再び好景気となる反面、山陰側の都市や中山間地域では引き続いて厳しい状況が続いており、早急な格差是正対策が求められている。
主な高等教育機関[編集]
- 国公立大学
- 私立大学
- 大学校
- 短期大学
交通[編集]
概要[編集]
中国地方は、平野や盆地が狭く少ないため、交通網の整備が遅れを取っている。
高速道路は、南北間の連絡線(山陰と山陽)は、ジャンクション一回毎に東西の幹線(中国地方対近畿・九州)に入ってから再び連絡線に入る構造の路線が多い。更に、山陰・山陽間の連絡線となる高速道路は、幹線国道(国道53号、国道54号)から大きく外れたルートで建設されたため、利便性と地域間の連帯に乏しい。
現在は中国横断自動車道の広島と島根を結ぶ尾道松江線、兵庫と鳥取を結ぶ姫路鳥取線の2路線が、新直轄方式で建設中で、開通後は通行料が無料となることから、沿線の市町村では、地域の活力向上に期待を寄せている。また山陰自動車道についても、一部区間が地域高規格道路としての整備が決まるなど、全線開通に向けた取り組みが積極的に行われている。
高速道路と同じく、鉄道も南北間の移動には不便な場合が多い。主な路線としては、伯備線や智頭急行智頭線などが主に使われるが、地方内の移動よりも、東京・大阪方面に向かうルート設定であるため、場所によっては遠回りになる事もある。実際、松江方面から広島方面に抜ける場合には、木次線・芸備線経由の方が明らかに近回りであるが、列車の便数が少ないため、利用者は高速バスに流れている。
1990年代以降、都市型近郊輸送を行う広島シティネットワークと、特急列車本数の多い瀬戸大橋線を除き、中国地方の全JR在来線が、基準輸送密度を下回る不採算路線となる状況が続いている。
この地方が抱える交通基盤整備の遅れは経済界からも問題視されており、5県の県庁所在地相互間を可能な限り短時間で結ぶことを目的として、在来線と新幹線を直通できるフリーゲージトレインや、広島西飛行場を中心としたコミューター航空網による、新しい交通体系整備の要望が挙がっている。
鉄道[編集]
- 一般私鉄
道路[編集]
(→中国地方の道路一覧)
空港[編集]
国内旅客数は、中国地方全体でここ数年若干の減少傾向があり、2005年には700万の大台を割り込んで697.9万人/年度となった。国際線旅客数は53.8万人/年度に及び、増加傾向を示している。
空港 | 旅客合計 | 国内線 | 国際線 | ||
旅客数 | 定期便 | 旅客数 | 定期便 | ||
広島 | 329万1063人 | 297万7868人 | 新千歳・仙台・ 東京・成田・ 那覇 |
31万4035人 | 北京・上海・大連 ・ソウル・台北・ バンコク・グアム |
岡山 | 157万4589人 | 139万2156人 | 新千歳・東京・ 鹿児島・那覇 |
18万2433人 | ソウル・上海 ・グアム |
山口宇部 | 92万8159人 | 92万3314人 | 東京 | 4845人 | - |
出雲 | 71万6419人 | 71万4733人 | (新千歳)・東京・ 大阪・隠岐・福岡 |
1646人 | - |
米子 | 47万8252人 | 44万1745人 | 東京・中部 | 3万6507人 | ソウル |
鳥取 | 33万4366人 | 33万2119人 | 東京・中部 | 2247人 | - |
石見 | 8万1282人 | 8万1282人 | 東京・大阪 | 0人 | - |
広島西 | 6万7059人 | 6万7059人 | 宮崎・鹿児島 | 0人 | - |
隠岐 | 4万5243人 | 4万5243人 | 大阪・出雲 | 0人 | - |
岡南 | 0人 | 0人 | - | 0人 | - |
- ※出典は国土交通省航空局・空港管理状況調書(2005年度)
- ※チャーター便の旅客数含む
- ※三大都市圏への便は太字
- ※全国の空港の乗降客数は日本の空港#乗降客数参照
経済[編集]
鳥取砂丘では梨の栽培が、岡山平野ではマスカットや桃の栽培が、広島湾などでは牡蛎の養殖が、それぞれ盛んに行われている。
瀬戸内海沿岸には軽重様々の工場が立地し、瀬戸内工業地域を形成している。この内、重工業地帯としては、水島、福山、徳山などに見られる。
- 「中国」を冠する企業名
方言[編集]
一般的に、中国方言が話される地方である。主な方言としては、出雲辯や広島辯などが代表的である。
スポーツ[編集]
野球[編集]
サッカー[編集]
- ガイナーレ鳥取
- 三菱自動車水島FC
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ラグビー[編集]
バレーボール[編集]
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ハンドボール[編集]
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ソフトボール[編集]
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アメフト[編集]
ホッケー[編集]
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陸上競技[編集]
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人口[編集]
ISO 3166-2 | 都道府県名 | 順位 | 人口 | 割合 |
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JP-31 | 鳥取県 | 47 | 611,073 | 0.50% |
JP-32 | 島根県 | 46 | 753,135 | 0.60% |
JP-33 | 岡山県 | 21 | 1,950,952 | 1.50% |
JP-34 | 広島県 | 12 | 2,878,677 | 2.30% |
JP-35 | 山口県 | 25 | 1,511,112 | 1.20% |
7,704,949 | 6.10% |
※順位・人口・割合は2003年10月1日のデータによる。
年齢構成[編集]
関連項目[編集]
北日本
東日本
西日本
中国地方