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星 新一(ほし しんいち、本名・星 親一1926年大正15年〉9月6日 - 1997年平成9年〉12月30日)は、日本小説家SF作家

父は星薬科大学の創立者で星製薬の創業者・星一森鴎外は母方の大伯父にあたる。本名の親一は一のモットー「親切第一」の略で、弟の名前の協一は「協力第一」の略。イラストレーターのほししんいちとは特に関係がない。父の死後、短期間星製薬の社長を務めたことがあり、日本の有名作家としては辻井喬こと堤清二西友社長)と並んで稀有な東証一部上場企業(当時)の社長経験者である(ただし、堤の場合は西友の経営参加や上場よりも創作活動が遙かに先行しており、星の場合は完全に経営を離れたのちに創作活動が始まっている)。

多作さと作品の質の高さを兼ね備えていたところから「ショートショート(掌編小説)の神様」と呼ばれているが、『明治・父・アメリカ』、父親や父の恩人花井卓蔵らを書いた伝記小説『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクション作品もある。

略歴

1926年(大正15年)、東京府東京市本郷区曙町(現・東京都文京区本駒込)に生まれる。母方の祖父小金井良精の家がある本郷で1945年昭和20年)まで育つ。母方の祖父母は帝国大学医科大学長で解剖学者の小金井良精森鴎外の妹・小金井喜美子である。また小説家・鈴木俊平は父の妹の孫にあたる。

東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)を経て、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進む。附属中学の同期には、槌田満文武蔵野大学名誉教授)、今村昌平映画監督)、大野公男(元北海道情報大学学長)、児玉進(映画監督)、黒澤洋(元日本興業銀行会長)、星野英一東京大学名誉教授)などがいた。

附属中在学中の1941年12月に対米開戦となり、これにより英語が敵性語となること、敵性語として入試科目から除外されることを見越して英語を全く勉強せず、他の教科に力を入れて要領よく四修(飛び級旧制中学は5年制)で旧制の官立東京高等学校(現・東京大学教養学部及び東京大学教育学部附属中等教育学校に継承)に入学した。このため秀才と呼ばれたが、戦後になってから英語力の不足を補うため今日泊亜蘭の個人授業を受け、さんざん苦しんだという。

高等学校在学中、満16歳の時に1年間の寮生活を経験した。当時の寮生活について、親友の北杜夫や小松左京がしばしば旧制高校の寮生活を懐かしんでいるのとは対照的に「不愉快きわまることばかりで、いまでも眠る前に思い出し、頭がかっとなったりする」、「入ってみてわかったことだが、この学校はとてつもなく軍事色が強く、教師だけならまだしも、生徒たちの多くもそのムードに迎合していたので、うんざりした。着るものはもちろん、食うものもだんだん不足してくるし、学校は全部が狂っているし、まったく、どうしようもない日常だった」と回想している。これには戦後と戦中の違い、四修の星が若年だったことも大きい。星は高校も2年で終えているため、新制大学卒業者よりも1年早い満21歳で大学を卒業している(通常なら帝国大学の場合は満23歳)。

1948年(昭和23年)、東京大学農学部農芸化学科を卒業した。農芸化学科での同級生には後の酒類評論家の穂積忠彦(俳優・穂積隆信の兄)がいた。卒業論文は固形ペニシリンの培養についてであった。高級官吏採用試験である高等文官試験(現在の国家公務員I種試験)に合格したが、内定を取ることに失敗した。なおかつ役人嫌いの父に受験が発覚し、厳しく叱責された。東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究する。液体内での澱粉分解酵素ジアスターゼの生産などをした。1950年(昭和25年)に大学院の前期を修了する。卒業論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」であった。

1949年(昭和24年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。おそらく、星の初めての作品である。

1951年(昭和26年)、父が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐ。当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻、会社を大谷米太郎に譲るまでその処理に追われたという。星製薬倒産の経緯は『人民は弱し 官吏は強し』にも少なからず触れられているほか、『星新一 一〇〇一話をつくった人』においてその詳細が記されている。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた星自身は後に「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。

会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記(火星人記録)』を読んで感銘を受ける。この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な「空飛ぶ円盤」に興味を持つようになる。たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加した。この研究会は三島由紀夫石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。

星製薬退社後は作家デビューまで浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に、星薬科大学の非常勤理事として当時の金額で毎月10万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかった。

1957年(昭和32年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌宇宙塵」を創刊する。第2号に発表した『セキストラ』が当時江戸川乱歩の担当編集だった大下宇陀児に注目され、「宝石」に転載されてデビューした。

1958年(昭和33年)には、多岐川恭が創設した若手推理小説家の親睦団体「他殺クラブ」に、河野典生樹下太郎佐野洋竹村直伸水上勉結城昌治と参加した。

1960年(昭和35年)には「ヒッチコック・マガジン」に作品が載り、また「文春漫画読本」から注文がくる。また「弱点」「雨」などショートショート6編で直木賞候補となる。

1961年(昭和36年)、医者の娘で小牧バレエ団のバレリーナだった村尾香代子と見合い結婚した。髪が長いのが結婚を決意する決め手になったと後年語った。

1963年(昭和38年)、福島正実の主導による日本SF作家クラブの創設に参加した。同年、同クラブの一員として、ウルトラシリーズ第1作『ウルトラQ』の企画会議に加わる。会議に同席した『変身』、『悪魔ッ子』の脚本担当者・北澤杏子の証言によると、この場においては後に伝説となるような飛躍した発想の発言は聞かれなかったとのことである。また、この年に福島正実と2人で、特撮映画『マタンゴ』の原案にクレジットされているが、実際はほとんどタッチしていない。

以降、40代から50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)まで「日本SF作家クラブ」の初代会長を務めた。

1979年(昭和54年)、「星新一ショートショート・コンテスト」の選考を開始する。(詳しくは#星新一ショートショート・コンテストを参照)

1980年(昭和55年)、日本推理作家協会賞の選考委員を務める(昭和56年(1981年)まで)。

1983年(昭和58年)秋に「ショート・ショート1001編」を達成した。ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため、「1001編目」の作品はどれか特定できないようにされている。

それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版される都度、「ダイヤルを回す(=ダイヤル式の電話をかける)」等の「現代にそぐわない記述」を延々と改訂し続けていた。

かねてより「住んでみたい街」に東京都港区高輪を挙げており[1]、母の死去による戸越の自宅の売却に伴い、1993年(平成5年)、高輪のマンションに転居した。

1994年(平成6年)に口腔癌と診断され、手術を受ける。入退院を繰り返した後、1996年(平成8年)4月4日に自宅で倒れて東京慈恵会医科大学附属病院に入院。肺炎を併発して人工呼吸器の必要な状態であったが、4月20日には人工呼吸器を外すことができた。しかし4月22日の夜中、酸素マスクが外れ、呼吸停止に陥っているところを看護師に発見された。自発呼吸は再開したものの、それ以後意識を取り戻すことはなく、1997年(平成9年)12月30日18時23分、高輪の東京船員保険病院(現・せんぽ東京高輪病院)で間質性肺炎のために死去した。

2007年(平成19年)、死後10年目にして、星が残していた大量のメモ類と130名余の関係者へのインタビューを基にした最相葉月の大部の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)が刊行され、「ひょうひょうとした性格」と思われていた星の人間的な苦悩や「子供向け作家」と扱われていることへの不満、家族との確執、筒井など後輩作家への嫉妬などが赤裸々に描かれ、従来の「星新一」像を覆す内容で衝撃を与えた。また、この書では初期には直木賞落選が名誉と受け止められるほどハイブロウな存在として遇され、安部公房純文学とSFの両分野で評価されていた)のライバル心をかきたてるほどであった星が、後に大衆に広く受け入れられるに従って文学的評価が伴わなくなってきた変遷も描き出されている。もっとも文庫解説には、SF作家仲間を除いても北杜夫井上ひさし大庭みな子鶴見俊輔尾崎秀樹奥野健男ら大物の名が並ぶ。晩年の谷崎潤一郎も星作品を愛読していたことは石川喬司が紹介しており、また星が「歴史もの」を執筆するにあたり取材を受けた池波正太郎もその新境地開拓を称賛するなど、後述するSFファンの冷淡さに比べると文壇内部での評価は決して低くはなかった。

受賞(受賞候補)歴

  • 1961年(昭和36年)2月、ショートショート6編(『弱点』、『生活維持省』、『雨』、『誘拐』(『その子を殺すな!』)、『信用ある製品』、『食事前の授業』)で直木賞の候補作に選ばれる。
  • 1962年(昭和37年)、ショートショート集『人造美人』、ショートショート集『ようこそ地球さん』(旧バージョン)、ショートショート集『悪魔のいる天国』で第15回日本推理作家協会賞候補。
  • 1965年(昭和40年)、長編小説『夢魔の標的』で第18回日本推理作家協会賞候補。
  • 1968年(昭和43年)、ショートショート集『妄想銀行』で第21回日本推理作家協会賞を受賞。
  • 1981年(昭和56年)、「マンボウ・マブゼ共和国」(北杜夫の小説に登場する架空の国)から文華勲章が授与される。「日本の勲章ならみっともなくて下げておられぬが、外国の勲章なら…」と語った。
  • 1998年(平成10年) - 第19回日本SF大賞特別賞を受賞。

なお、SFファンが選ぶ年間ベスト賞である星雲賞を星は一度も受賞していない。通常の小説部門が「長編部門」と「短編部門」しかないとはいえあまりの低評価である。1960年代の事情については、筒井康隆が『'60年代日本SFベスト集成』への星の収録作「解放の時代」の解説で述べたところでは、筒井自身が星の真価がわかるようになったのは30歳に近くなってからだったと述べた後、星雲賞の母体であるSFファン・グループは10代から20代が多数を占めている(当時の話)ため、そういった若い世代からショート・ショートというものがたいへん軽いものと見られているのでは、と想像している。しかし後年、手塚治虫矢野徹米澤嘉博野田昌宏柴野拓美小松左京は死去した際に星雲賞特別賞を受賞したが、星にはそれもなかった。しかし、第39回(2008年)において、最相葉月の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』がノンフィクション部門を受賞したということはある。

作品の特徴

星の作品、特にショートショートは通俗性が出来る限り排除されていて、具体的な地名・人名といった固有名詞が出てこない。例えば「100万円」とは書かずに「大金」・「豪勢な食事を2回すれば消えてしまう額」などと表現するなど、地域・社会環境・時代に関係なく読めるよう工夫されている。さらに機会あるごとに時代にそぐわなくなった部分を手直し(「電子頭脳」を「コンピュータ」に、「ダイヤルを回す」を「電話をかける」に直すなど)がされていて、星は晩年までこの作業を続けていた。激しい暴力や殺人シーン、性行為の描写は非常に少ないが、このことについて星は「希少価値を狙っているだけで、別に道徳的な主張からではない」「単に書くのが苦手」という説明をしている。加えて、時事風俗は扱わない、当用漢字表にない漢字は用いない、前衛的な手法を使わない等の制約を自らに課していた。

ショートショートの主人公としてよく登場する「エヌ氏」「エフ氏」の名は、星の作品を特徴づけるキーワードとなっている。「エヌ氏」を「N氏」としないのは、アルファベットは、日本語の文章の中で目立ってしまうからだと本人が書いている。

しばしば未来を予見しているかのような作品が見受けられるが、いずれも発表された時点では、何をどう予見しているのかは誰にも(あるいは本人ですら)分からなかった。以下にその例を挙げる。

声の網1970年
電話線を経由する情報(血圧や体温なども感知する)をコンピュータに管理させている。コンピュータはいたるところに設置され、すべてネットワークでつながっている。人間たちは好きな時に好きな場所で必要な情報を取り出している(インターネットの普及、ユビキタス社会の実現)。
おーい でてこーい(1958年)
ある日突然出来た深い底なしの穴に、生産することだけ考えていて、その後始末は誰も考えていなかった人間たちは、これ幸いとばかりに都会のゴミや工場の排水や放射性廃棄物など、物を生産することで発生した不用なものをどんどん捨てていく(公害、生態系の破壊、大量消費社会)[2]
白い服の男(1977年)
戦争に関する事物、事象などあらゆるものを封印してねじ曲げて管理された世界を描く(表現の自由言論の自由などに踏み込んだ監視社会。有害情報規制児ポ法改正などに含まれる単純所持規制問題など)。

作品は20言語以上に翻訳され[3]、世界中で読まれている。

寓話的な内容の作品が多く、星も自らを「現代のイソップ」と称していた。その柔軟な発想と的確に事物の本質をつかんだ視点の冷静さから多くの読者を獲得したほか、学校教科書(光村図書出版『国語 小学5年』に掲載された「おみやげ」、東京書籍『NEW HORIZON』に掲載された「おーいでてこーい(英語の教科書であるため、英訳され『Can Anyone Hear Me?』のタイトルで収録)」など)やテレビ番組『週刊ストーリーランド』(「殺し屋ですのよ」など)・『世にも奇妙な物語』(「おーい でてこーい」「ネチラタ事件」など)の題材に採用されている。

評論家の浅羽通明は自身の評論の中で星のショートショートをしばしば引用し、どんな時代においても通用する星作品の「普遍的な人間性への批評」を強調している。

また、筒井康隆は星の作品について、ストイシズムによる自己規制と、人間に対する深い理解、底知れぬ愛情や多元的な姿勢が、彼の作品に一種の透明感を与えていると評した。その一方で日本人が小説において喜ぶような、怨念や覗き趣味、現代への密着感やなま臭さや攻撃性が奪われ、結果として日本の評論家にとっては星の作品が評価しづらくなり、時として的はずれな批評をされることになったと指摘している。星は後期の作品においてその形式を大きく変化させたが、筒井はそのことにも触れ、星は数十、数百に及ぶ膨大な対立概念・視点・プロット・ギャグ・ナンセンスのアイデアを持っており、後期の作品に見られる「価値の相対化」「ラスト一行の価値転換によるテーマ集約の排除」といった変化は、彼の視点のアイデアのうちのほんの一例に過ぎないと評価している[4]

挿絵の多くは真鍋博和田誠が担当している。真鍋とは特に初期からの名コンビで、真鍋の挿絵を星がセレクトした『真鍋博のプラネタリウム 星新一の挿絵たち』という本も出している。

アメリカの一コマ漫画の収集家でもあり、それらをテーマ別に紹介した『進化した猿たち』(全2巻、文庫は3巻)という本も刊行している。さらに官僚の壁に立ち向かい、そして敗れた父・一を描いた『人民は弱し 官吏は強し』、明治時代の新聞の珍記事を紹介した『夜明けあと』のようなSF以外の近代史ノンフィクションや『きまぐれ - 』で始まるタイトルのエッセイ集なども多数残している。

人物・エピソード

容貌や作風とは裏腹に、実生活でもギャグを連発するなど「奇行の主」と呼べる側面があった。SF仲間の集まりなど、気を許せる場では奇人変人ぶりを遺憾なく発揮していた。同行している作家仲間を驚かせることもしばしばだったという。特に筒井の初期短編は、星の座談でのギャグに大きく影響を受けているといわれる。SF作家仲間たちと西新宿の台湾料理店(山珍居)に集まり、SF的な雑談に興じたが、中でも星の「異常な発想の毒舌発言」はその中でも群を抜いていて、他のSF作家たちの回想文等で神話的に語られている。その一部は『SF作家オモロ大放談』(いんなあとりっぷ社、1977年。のちに『おもろ放談』(1981年)と改題され角川文庫に収録)で読むことができる。平井和正は星の異常な発言をテーマにした短編小説「星新一の内的宇宙(インナースペース)」を発表しており、作家仲間が集まると自然と星を中心に話題が広がっていた様子が描写されている。しかし、文庫解説等では(育ちがいいこともあり)しばしば紳士的な人物と書かれた。世代・生育環境が近いこともあり、北杜夫とも親交が深かった。また、礼節を欠いて接してくる人間には距離を置いて接していた。

星製薬が人手に渡った後も永らく、星薬科大学評議員という肩書きがあった。なお、手塚治虫の漫画『ワンダースリー』の主人公・「星真一」の名前は彼に由来する。星新一自身は、手塚の息子の手塚眞にちなんでいる可能性も考えていた。

三田文学』1970年10月号で、福島正実と「SFの純文学との出会い」という対談をした際、星が「ネパールに、ヒューマニズムに燃えた外国の医師団が乗り込んで病気を治し、死亡率をさげた結果、人口が増えて貧民が多数発生した。一種のヒューマニズム公害と言える」と発言したところ、同席していた編集者は「公害が文学になるのですか?」「問題があるのはわかりますが、どうして文学がそんなものに、こだわらないといけないのですか?」と、的外れな応答をした。星はあきれて、「文学が想像力を拒否するものだとは思わなかった。ぼくが純文学にあきたらなくなった理由がわかった」と発言した。SF的発想に対する「純文学側の無理解」として、有名なエピソードである。

作品のアイデア同様、他の作家とは着眼点が異なり、第1回奇想天外SF新人賞の選考委員として、小松や筒井がほとんど問題にしなかった新井素子の『あたしの中の……』を強力にプッシュし(結果は佳作入選)、作家として活躍していくきっかけを作った。ただ一人、選考委員を任じたショートショート・コンクール(のちにショートショート・コンテストと名称変更)からも数千にも及ぶ作品の中から、後にプロとして確固たる活躍をしていく作家を多数発掘しており、その慧眼ぶりを発揮しつつ後進に道を拓いている。

とはいえ、星新一ショートショート・コンテストとほぼ同時期に募集・発表があったショートショート・コンテスト「ビックリハウス」のエンピツ賞受賞作については「感性を非常に重視した作品」が選ばれており理解が及ばず、お手上げの状態だったという。

生前は自己の作品の映像化・戯曲化をほとんど許さず、アニメ化を持ちかけた製作会社ガイナックス武田康廣に「自分の作品がいじくられるのは真っ平ごめんだ。やるなら俺が死んでからにしてくれ。それなら文句は言わない」と断っている。小松はこの件を聞き、「星さんならそう言うだろう」と武田に語り、自作のテレビアニメ化『小松左京アニメ劇場』を快諾したという。例外的に短編のいくつかが、アニメーション作家の岡本忠成によって人形アニメーションとして在命中に製作されている(#星新一作品の映像化参照)。

なお、作品にほとんど反映されていないため看過されがちであるが、星は化学の修士号を持ち、その方面の著書もある、れっきとした科学者出身SF作家である。

また、「リスクもなく大きなもうけが出る」と称して大量の人から金銭を集める詐欺行為の被害者について、「だまされた者は、欲に目がくらんだ者であり、救ってやる必要などない」などと辛辣な内容をエッセイに書いていた[5]。別のエッセイ集『できそこない博物館』では、「不渡り手形をつかまされれば、誰だって人間不信になる」といった一文を目にすることができる。

ドイツ文学系の作家たちやドイツ留学経験者ほど明確なものではないが、ドイツびいきの感覚があり、エッセイ「クマのオモチャ」では「ドイツを全面的に信用している」「いい意味での恐るべき民族である」と手放しに近い賛辞を呈していた。同じくエッセイ「名前」では長女の名前を誕生月のドイツ語(ユーリ)から発想した経緯を綴っている(ともに『気まぐれ星のメモ』所収)。また、星作品には国籍は明確な外国人がほとんど登場しないが、『ほら男爵現代の冒険』の主人公や『気まぐれ指数』にも重要な脇役で在日ドイツ人が登場している。青年期と、かなりのブランクを経て中年期以降にもクラシック音楽を愛聴していた。クラシックの中で最も好きな曲に、ベートーヴェン大公三重奏曲』を挙げ、コルトーティボーカザルスの演奏盤を愛聴していた。

小松左京によると、星には少年愛の傾向があり、ひところはピーター(池畑慎之介☆)に入れ上げて「ピーターに会わせてくれるんだったら、とにかく大長編書くとかね、つまらんこといってた」という。その後、郷ひろみに入れ上げていた時期もあり、「彼はね、一人で支那まんじゅう食いながら、郷ひろみのテレビ見てんだそうですけど、鬼気迫るな」とも小松は発言している。

ウイスキーが好きで特にサントリーの角瓶を愛飲していた。エジプト旅行に行く際、免税店で買い求めたが取り扱っておらず、仕方なくオールドを買った。角が置かれていなかったことをひじょうに残念がり、「角なんて飲めなかったな、昔は」「飲めなかった。高級品だったんだ。手が出なかった。それが、いまじゃ、ああいう所に置いてないんだから。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか」と発言している。

未来における鶴の進化型、ホシヅルを生み出し、サイン代わりに描いていたことでも知られる。星新一の逝去後、彼の誕生日9月6日は「ホシヅルの日」とされ、友人のSF作家たちが集って彼を偲ぶ会が催される。

公立はこだて未来大学が2012年9月6日に「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」の開始を発表した。松原仁(はこだて未来大学)、中島秀之(はこだて未来大学学長)、角薫(はこだて未来大学)、迎山和司(はこだて未来大学)、佐藤理史名古屋大学)、赤石美奈法政大学)の6人でプロジェクトチームを結成した。星新一のショートショート作品の解析を行い、プログラム的に体系化、生成アルゴリズムの検討と共にトライアンドエラーを繰り返し、2017年までに星新一作品と同等かそれ以上のショートショートを人工知能によって自動生成することを目指している。瀬名秀明が小説の評価方法の検討を行うなど顧問を務める。

作品

  • 人造美人1961年(昭和36年))
    初の短編集。30篇収録であり、現在の自選集『ボッコちゃん』とは異なる。
  • ようこそ地球さん1961年(昭和36年))
    31篇収録。星によると「ガガーリン少佐を乗せた初の人工衛星発射のおかげもある」とのこと。
  • 花とひみつ(1964年(昭和39年))
    和田誠挿絵による限定版であり、私家版。1979年(昭和54年)にフレーベル館から『はなとひみつ』の題名で出版された。『はなとひみつ』は長らく絶版だったが、2009年(平成21年)にフレーベル館より復刊された。ISBN 978-4-577-03595-5
  • おせっかいな神々(1965年(昭和40年))
  • ノックの音が(1965年(昭和40年))
    いずれも「ノックの音が」の文ではじまる連作もの。
  • エヌ氏の遊園地(1966年(昭和41年))
  • 黒い光(1966年(昭和41年))
    少年向けSF8篇収録。現在絶版だが、『ちぐはぐな部品』に数編が改稿の上収録されている。
  • 気まぐれロボット(1966年(昭和41年))のちに『きまぐれロボット』に改題。
    子ども向けショートショートに童話を加えたもの。
  • おみそれ社会(1970年(昭和45年))
  • 声の網(1970年(昭和45年))
    12章よりなるSF短編連作。長編と見なすこともできる。
  • ほら男爵・現代の冒険(1970年(昭和45年))
    「ほら男爵」ことミュンヒハウゼン男爵の子孫の冒険を描く、連作短編集。星はドイツびいきで、「気まぐれ指数」にも重要な役割で在日ドイツ人を登場させている。ただし、こちらの内容は完全な無国籍風である。
  • だれかさんの悪夢(1970年(昭和45年))
  • 未来いそっぷ(1971年(昭和46年))
  • ボッコちゃん1971年(昭和46年))
    『人造美人』『ようこそ地球さん』の中から19編を選び、それにほかの短編集に収録の作品を加えて50編にまとめた自選短編集。
  • なりそこない王子(1971年(昭和46年))
  • 誰も知らない国で(1971年(昭和46年))
    書き下ろし長編の少年もの。後に『ブランコの向こうで』に改題された。
  • さまざまな迷路(1972年(昭和47年))
  • にぎやかな部屋(1972年(昭和47年))
    戯曲。レーゼドラマとして書かれたが、その後、上演された。
  • ようこそ地球さん(1972年(昭和47年))
    自選集である『ボッコちゃん』に収録しなかった、『人造美人』と『ようこそ地球さん』(1961年(昭和36年))の残りの42篇を集めた短編集。
  • ちぐはぐな部品(1972年(昭和47年))
  • おかしな先祖(1972年(昭和47年))
    ユーモアSF短編10編。
  • かぼちゃの馬車(1973年(昭和48年))
  • ごたごた気流(1974年(昭和49年))
  • 夜のかくれんぼ(1974年(昭和49年))
  • おのぞみの結末(1975年(昭和50年))
  • たくさんのタブー(1976年(昭和51年))
  • 白い服の男(1977年(昭和52年))
  • どこかの事件(1977年(昭和52年))
  • 安全のカード(1978年(昭和53年))
  • ご依頼の件(1980年(昭和55年))
  • 地球から来た男(1981年(昭和56年))
  • ありふれた手法(1981年(昭和56年))
  • 凶夢など30(1982年(昭和57年))
  • どんぐり民話館(1983年(昭和58年))
  • これからの出来事(1985年(昭和60年))
  • 竹取物語(1987年(昭和62年))
    日本最古の物語とされる『竹取物語』を現代語訳したもの。
  • つねならぬ話(1988年(昭和63年))
    神話的な物語を描いた短編集。
  • 天国からの道(2005年(平成17年))
  • つぎはぎプラネット(2013年(平成25年))

エッセイ集

  • きまぐれ星のメモ(1968年(昭和43年)
  • 進化した猿たち(1968年(昭和43年))
    アメリカの一コマ漫画の紹介とエッセイ。
  • 新・進化した猿たち(1968年(昭和43年))
    進化した猿たちの続編。のちに再編集し、『進化した猿たち 1・2・3』の3冊で文庫化される。ただし現在はいずれも絶版。
  • きまぐれ博物誌(1971年(昭和46年)
  • きまぐれ暦(1975年(昭和50年))
  • きまぐれ体験紀行(1978年(昭和53年))
    ソ連、東南アジア、香港、韓国等の旅行体験を描いたエッセイ集。
  • きまぐれフレンドシップ(1980年(昭和55年))
  • きまぐれ読書メモ(1981年(昭和56年))
  • きまぐれエトセトラ(1983年(昭和58年))
  • できそこない博物館(1985年(昭和60年))
    小説の発想についてのエッセイ集。
  • あれこれ好奇心(1986年(昭和61年))
  • きまぐれ学問所(1989年(平成元年))
  • きまぐれ遊歩道(1990年(平成2年))

ノンフィクション

  • 人民は弱し官吏は強し(1967年(昭和42年))
    実父である星製薬の創立者・星一の栄光と悲劇を描いたノンフィクション。
  • 祖父・小金井良精の記(1974年(昭和49年))
  • 明治・父・アメリカ(1975年(昭和50年))
    星の父の少年・青年期を描いたもの。
  • 夜明けあと(1996年 (平成8年))
    文明開化」の明治時代の世相や風俗を扱った新聞記事を1年ごとに整理して紹介したもの。

作品集

  • 『星新一の作品集』全18巻 新潮社、1974年(昭和49年) - 1975年(昭和50年)
  • 『星新一ショートショート1001』全3巻 新潮社、1998年(平成10年) ISBN 4-10-319426-X

翻訳

  • なお星作品の主な外国語訳は以下のとおり。
    1963年(昭和38年)に『ボッコちゃん』が英訳され、『Magazine of Fantasy and Science Fiction 6月号』に掲載。
    1966年(昭和41年)に短編『景品』がロシア語に訳され、コムソモリスカヤ・プラウダ紙に掲載。同年『冬きたりなば』がソ連・ミル出版社刊の『世界SF選集』の国際短編アンソロジーに収録される。
    1967年(昭和42年)、短編『タバコ』『願望』『危機』『冬きたりなば』『宇宙の男たち』『景品』がソ連・ミル出版社刊の日本SF短編アンソロジーに収録される。

ドラマ原作

星新一に関する作品

特集雑誌

  • 別冊新評『星新一の世界』 新評社、1976年(昭和51年)12月(「76 AUTUMN」号。ただし表紙には‘WIN’と表記)。
    • 内容は、本人のエッセイ、ショートショート、インタビュー、対談、他作家等の寄稿、座談会、グラビア(スナップ写真、収集物等)、資料(大辞典、年譜、作品目録、書評目録等)等

星新一作品の漫画化

星新一作品の映像化

星新一ショートショート・コンテスト

1979年(昭和54年)より始まった星の選考によるショートショート作品のコンテスト。発案者は講談社の編集者宇山秀雄。毎年の優秀作品は単行本として出版されている。星の死後も選者を阿刀田高に変え、マイナー・チェンジを繰り返しながら継続中である。受賞者の中でも江坂遊の才能は非常に評価しており、星自身は「唯一の弟子」と考えていて江坂の子供の名づけ親にもなった。もっとも、いわゆる第二世代のSF作家たちには私的交遊を通じて星の弟子を自認している者が多く、作風にまったく共通点のない平井和正が文庫解説でこれを宣言している。

主な受賞者

脚注

  1. 星新一『きまぐれ遊歩道』p.90-92(新潮文庫、1996年)。星は「高級住宅地なのだろうが、高級さをひけらかさないところがいい」「戦前の本郷の屋敷町にも、そういうムードのとこがあった」と述べている。
  2. 星新一は『きまぐれエトセトラ』「いわんとすること」で、執筆、発表当時は公害という言葉も概念もなく、公害問題と結びつけられたことでショートショートとしての面白さが損なわれると嘆いている。
  3. 1985年時点で英語ドイツ語フランス語イタリア語中国語ロシア語朝鮮語ルーマニア語ポーランド語チェコ語インドネシア語ウクライナ語ノルウェー語ラトビア語リトアニア語ベンガル語セルビア・クロアチア語マジャール語アゼルバイジャン語エスペラントの20言語(深見弾「星新一―億の読者をもつ作家」(新潮文庫「たくさんのタブー」巻末)より)。
  4. 『ボッコちゃん』解説(新潮社
  5. 『きまぐれ遊歩道』(新潮文庫)P.111-112他

関連項目

外部リンク