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2020年1月12日 (日) 22:18時点における最新版

日本語(にほんご、にっぽんご)は、主として、日本列島大和民族によって使用されてきた言語である。日本国の事実上の公用語として、学校教育の「国語」で教えられる。使用者は、日本国内を主として約1億3千万人。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。

目次

特徴[編集]

日本語の音韻は、「っ」「ん」を除いて母音で終わる開音節言語の性格が強く、また共通語を含め多くの方言がモーラを持つ。アクセントは高低アクセントである。古来の大和言葉では、原則として

  1. ら行」音が語頭に立たない(しりとり遊びで「ら行」で始まる言葉が見つけにくいのはこのため。「らく(楽)」「らっぱ」「りんご」などは大和言葉でない)
  2. 濁音が語頭に立たない(「抱(だ)く」「どれ」「ば(場)」「ばら(薔薇)」などは後世の変化)
  3. 同一語根内に母音が連続しない(「あお(青)」「かい(貝)」は古くは awo1

awo [awo] , kapi, kaɸi1 kapi, kaɸi [kapi, kaɸi] ) などの特徴があった(「系統」および「音韻」の節参照)。

文は、「主語修飾語述語」の語順で構成される。修飾語は被修飾語の前に位置する。また、名詞の格を示すためには、語順や語尾を変化させるのでなく、文法的な機能を示す機能語(助詞)を後ろにつけ加える(膠着させる)。これらのことから、言語類型論上は、語順の点ではSOV型の言語に、形態の点では膠着語に分類される(「文法」の節参照)。

語彙は、古来の大和言葉のほか、中国から渡来した漢語がおびただしく、さらに近代以降には西洋語を中心とする外来語が増大している(「語種」の節参照)。

待遇表現の面では、文法的・語彙的に発達した敬語体系があり、叙述される人物同士の微妙な関係を表現する(「待遇表現」の節参照)。

方言は、日本の東西および琉球地方で大きく異なる。さらに詳細に見れば、地方ごとに多様な方言的特色がある(「方言」の節参照)。

他の多くの言語と異なる点としては、まず、表記体系の複雑さが挙げられる。漢字(音読みおよび訓読みで用いられる)や平仮名、片仮名のほか、アルファベットなど、常に3種類以上の文字を組み合わせて表記する言語は無類と言ってよい(「字種」の節参照)。また、人称表現が「わたくし・わたし・ぼく・おれ」「あなた・あんた・きみ・おまえ」などと多様であるのも特徴である(「人称語彙」の節参照)。

分布[編集]

日本語は、主に日本国内で使用される。話者人口についての調査は国内・国外を問わずいまだないが、日本の人口に基づいて考えられることが一般的である。

日本国外では、主として、中南米(ブラジルペルーボリビアドミニカ共和国パラグアイなど)やハワイなどの日本人移民のあいだで使用されるが[1] [2] [3]、3世・4世と世代が下るにしたがって日本語を話さない人が多くなっているのが実情である[4]。また、第二次世界大戦の終結以前に日本領ないし日本の勢力下にあった朝鮮半島台湾中国の一部・サハリン・旧南洋諸島(現在の北マリアナ諸島パラオマーシャル諸島ミクロネシア連邦)などの地域では、日本語教育を受けた人々の中に、現在でも日本語を記憶して話す人がいる[5]

台湾では先住民の異なる部族同士の会話に日本語が用いられることがあり[6]、また、パラオのアンガウル州(2000年の時点で人口188人)が公用語のひとつに採用しているという[7]

日本国外の日本語学習者は、韓国の約90万人、中国の約40万人、オーストラリアの約40万人をはじめ、アジア・大洋州地域を中心に約235万人となっている。日本語教育が行われている地域は、120か国と7地域に及んでいる[8]。また、日本国内の日本語学習者は、アジア地域の約10万人を中心として約13万人となっている[9]

系統[編集]

詳細は 日本語の起源 を参照

日本語の系統は明らかでなく、解明される目途も立っていない。いくつかの理論仮説があるが、いまだ総意を得るに至っていない[10] [11]

アルタイ諸語に属するとする説は、明治時代末から特に注目されてきた[12]。その根拠として、古代の日本語(大和言葉)において語頭にr音(流音)が立たないこと、一種の母音調和[13]がみられることなどが挙げられる。ただし、アルタイ諸語に属するとされるそれぞれの言語自体、互いの親族関係が証明されているわけではなく[14]、したがって、古代日本語に上記の特徴がみられることは、日本語がタイプとして「アルタイ型」の言語である[15]という以上の意味をもたない。

南方系のオーストロネシア語族とは、音韻体系や語彙に関する類似も指摘されているが[16]、語例は十分ではなく、推定・不確定の例を多く含む。関連性は不明であるといわざるをえない。

ドラヴィダ語族との関係を主張する説もあるが、これを認める研究者は少ない。大野晋は日本語が語彙・文法などの点でタミル語と共通点をもつとの説を唱えるが[17]、比較言語学の方法上の問題から批判が多い[18](「タミル語」も参照)。

個別の言語との関係についていえば、中国語は、古来、漢字漢語を通じて日本語の表記・語彙などに強い影響を与えてきた。日本は、中国を中心とする漢字文化圏に属する。ただし、基礎語彙は対応せず、また文法的・音韻的特徴は中国語と全く異なるため、系統的関連性は認められない。

アイヌ語は、語順(SOV語順)において日本語と似るものの、文法・形態は類型論的に異なる抱合語に属し、音韻構造も有声・無声の区別がなく閉音節が多いなどの相違がある。基礎語彙の類似に関する指摘[19]もあるが、例は不十分である。一般に似ているとされる語の中には、日本語からアイヌ語への借用語が多く含まれるとみられる[20]。目下のところは系統的関連性を示す材料は乏しい。

朝鮮語は、文法構造に類似点が多いものの、基礎語彙が大きく相違する。音韻の面では、固有語において語頭に流音が立たないこと、一種の母音調和がみられることなど、上述のアルタイ諸語と共通の類似点がある一方で、閉音節や二重子音(中期朝鮮語の場合)が存在するなど大きな相違もある。朝鮮半島死語である高句麗語とは、数詞など似る語彙もあるといわれるが[21]、高句麗語の実態はほとんど分かっておらず、現時点では系統論上の判断材料にはなりがたい。

また、レプチャ語ヘブライ語などとの同系論も過去に存在したが、ほとんど偽言語比較論のカテゴリーに収まる。

日本語と系統を同じくする言語と明らかに認められるものは、琉球列島(旧琉球王国領域)の言語である琉球語のみである。琉球語は日本語と非常に近いため、日本語の一方言(琉球方言)とする場合もある。別言語とする場合、日本語と琉球語をまとめて日本語族とも称する。

音韻[編集]

詳細は 日本語の音韻 を参照

音韻体系[編集]

日本語話者は、「いっぽん(一本)」という語を、「い・っ・ぽ・ん」の4単位と捉えている。音節ごとにまとめるならば ip.poɴ1 ip.poɴ [ip.poɴ] のように2単位となるところであるが、音韻的な捉え方はこれと異なる。音声学上の単位である音節とは区別して、音韻論では「い・っ・ぽ・ん」のような単位のことをモーラ[22](拍[23])と称している。

日本語のモーラは、大体は仮名に即して体系化することができる。「いっぽん」と「まったく」は、音声学上は ippoɴ1 ippoɴ [ippoɴ] mattakɯ1 mattakɯ [mattakɯ] であって共通する単音がないが、日本語話者は「っ」という共通のモーラを見出す。また、「ん」は、音声学上は後続の音によって ɴ1 ɴ [ɴ] m1 m [m] n1 n [n] ŋ1 ŋ [ŋ] などと変化するが、日本語の話者自らは同一音と認識しているので、音韻論上は1種類のモーラとなる。

日本語では、ほとんどのモーラが母音で終わっている。それゆえに日本語は開音節言語の性格が強いということができる。もっとも、特殊モーラの「っ」「ん」には母音が含まれない。

モーラの種類は、以下に示すように111程度存在する。ただし、研究者により数え方が少しずつ異なっている。「が行」の音は、語中語尾では鼻音(いわゆる鼻濁音)の「か゜行」音となるが、若年層ではこの区別が失われてきている。そこで、「か゜行」を除外して数える場合、モーラの数は103程度となる。「ファ・フィ・フェ・フォ」「ティ・トゥ」「ディ・ドゥ」などの外来音を含める場合は、さらにまた数が変わってくる[24]

直音(母音)  
 
直音(子音+母音) 拗音  
きゃ きゅ きょ 清音
しゃ しゅ しょ (清音)
ちゃ ちゅ ちょ (清音)
にゃ にゅ にょ  
ひゃ ひゅ ひょ (清音)
みゃ みゅ みょ  
りゃ りゅ りょ  
が ぎ ぐ げ ご ぎゃ ぎゅ ぎょ 濁音
(か゜ き゜ く゜ け゜ こ゜) (き゜ゃ き゜ゅ き゜ょ) (鼻濁音)
ざ じ ず ぜ ぞ じゃ じゅ じょ (濁音)
だ で ど   (濁音)
ば び ぶ べ ぼ びゃ びゅ びょ (濁音)
ぱ ぴ ぷ ぺ ぽ ぴゃ ぴゅ ぴょ 半濁音
直音(半子音+母音)    
   
   
特殊モーラ    
撥音    
っ(促音    
ー(長音    

なお、五十音図は、音韻体系の説明に使われることがしばしばあるが、上記の日本語モーラ表と比べてみると、少なからず異なる部分がある。五十音図の成立は平安時代にさかのぼるものであり、現代語の音韻体系を反映するものではないことに注意が必要である(「日本語研究史」の節の「江戸時代以前」を参照)。

母音体系[編集]

ファイル:Japanese (standard) vowels.png
基本5母音の調音位置
左側を向いた人の口の中を模式的に示したもの。左へ行くほど舌が前に出、上へ行くほど口がせばまることを表す。なお、o1 o [o] のときは唇の丸めを伴う。

母音は、「」の文字で表される。音韻論上は、日本語の母音はこの文字で表される5個であり、音素記号では以下のように記される。

  • /a/, /i/, /u/, /e/, /o/

一方、音声学上は、基本の5母音は、それぞれ

  • a1

a [a] i1 i [i] ɯ1 ɯ [ɯ] e1 e [e] o1 o [o] に近い発音と捉えられる。「う」は英語などの u1 u [u] のようには唇を丸めず、非円唇母音であるが、唇音の後では円唇母音に近づく(発音の詳細はそれぞれの文字の項目を参照)。

音韻論上、「コーヒー」「ひいひい」など、「ー」や「あ行」の仮名で表す長音という単位が存在する(音素記号では /R/)。これは、「直前の母音を1モーラ分引く」という方法で発音される独立した特殊モーラである[25]。「鳥」(トリ)と「通り」(トーリ)のように、長音の有無により意味を弁別することも多い。ただし、音声としては「長音」という特定の音があるわけではなく、長母音 aː1 [aː] iː1 [iː] ɯː1 ɯː [ɯː] eː1 [eː] oː1 [oː] の後半部分に相当するものである。

「えい」「おう」と書かれる文字は、発音上は「ええ」「おお」と同じく長母音 eː1 [eː] oː1 [oː] として発音されることが一般的である(「けい」「こう」など、頭子音が付いた場合も同様)。すなわち、「衛星」「応答」は「エーセー」「オートー」のように発音される。ただし、九州や四国西部、紀伊半島南部などでは「えい」を ei1 ei [ei] と発音する[26]

文末の「です」「ます」などの末尾母音は、無声化して、des1 des [des] mas1 mas [mas] のように聞こえる場合がある(方言差および個人差がある)。また、母音「い」「う」が無声子音に挟まれた場合も無声化し、声帯が振動しない。たとえば、「菊池寛(きくちかん)」の「きくち」や、「口利き行為(くちききこうい)」の「くちきき」の部分の母音は無声母音となる。

」の前の母音は鼻音化する傾向がある。また、母音の前の「ん」は鼻母音になる。

子音体系[編集]

子音は、音韻論上区別されているものとしては、「か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ行」の子音、濁音「が・ざ・だ・ば行」の子音、半濁音「ぱ行」の子音である(このほか、特殊モーラについては本節末尾で言及)。音素記号では以下のように記される。

  • /k/, /s/, /t/, /h/(清音)
  • /g/, /z/, /d/, /b/(濁音)
  • /p/(半濁音)
  • /n/, /m/, /r/
  • /j/, /w/(半母音とも呼ばれる)

一方、音声学上は、子音体系はいっそう複雑な様相を呈する。主に用いられる子音を以下に示す(後述する口蓋化音は省略)。

  両唇音 歯茎音 そり
舌音
歯茎硬
口蓋音
硬口
蓋音
軟口
蓋音
口蓋
垂音
声門音
破裂音 p  b t  d       k  ɡ    
鼻音 m n       ŋ ɴ  
はじき音   ɾ ɽ          
摩擦音 ɸ s  z   ɕ  ʑ ç     h
接近音         j ɰ    
破擦音   ʦ  ʣ   ʨ  ʥ        
側面接近音    l            

基本的に「か行」は k1 k [k] 、「さ行」は s1 s [s] θ1 θ [θ] を用いる地方・話者もある[26])、「た行」は t1 t [t] 、「な行」は n1 n [n] 、「は行」は h1 h [h] 、「ま行」は m1 m [m] 、「や行」は j1 j [j] 、「だ行」は d1 d [d] 、「ば行」は b1 b [b] 、「ぱ行」は p1 p [p] を用いる。

「ら行」の子音は、語頭では d1 d [d] に似て、それよりも閉鎖のゆるい破裂音である[27]。英語の l1 l [l] に近い音を用いる話者もある。適当な音声記号はないが、有声そり舌破裂音ɖ1 ɖ [ɖ] で代用することもある[28]。一方、「あらっ?」というときのように、語中語尾に現れる場合は、舌をはじく ɾ1 ɾ [ɾ] もしくは ɽ1 ɽ [ɽ] となる。

「わ行」の子音は、話者によっては唇を丸める w1 w [w] を用いることがあるが、多くは唇の丸めのない ɰ1 ɰ [ɰ] が用いられる(「日本語」の項目では、特別の必要のない場合は w1 w [w] で表現する)。外来音「ウィ」「ウェ」「ウォ」にも同じ音が用いられるが、「ウイ」「ウエ」「ウオ」と発音する話者も多い。

「が行」の子音は、語頭では g1 g [g] を用いるが、語中では ŋ1 ŋ [ŋ] (「が行」鼻音、いわゆる鼻濁音)を用いることが一般的だった。今日、この ŋ1 ŋ [ŋ] の音は次第に失われつつある。

「ざ行」の子音は、語頭や「ん」の後では破擦音(破裂音と摩擦音を合わせた ʣ1 ʣ [ʣ] などの音)を用いるが、語中では摩擦音z1 z [z] など)を用いる場合が多い。いつでも破擦音を用いる話者もあるが、「手術(しゅじゅつ)」などの語では発音が難しいため摩擦音にするケースが多い。なお、「だ行」の「ぢ」「づ」は、一部方言を除いて「ざ行」の「じ」「ず」と同音に帰しており、発音方法は同じである。

母音「い」が後続する子音は、独特の音色を呈する。いくつかの子音では、前舌面を硬口蓋に近づける口蓋化が起こる。たとえば、「か行」の子音は一般に k1 k [k] を用いるが、「」だけは kʲ1 [kʲ] を用いるといった具合である。口蓋化した子音の後ろに母音「あ」「う」「お」が来るときは、表記上は「い段」の仮名の後ろに「ゃ」「ゅ」「ょ」の仮名を用いて「きゃ」「きゅ」「きょ」、「みゃ」「みゅ」「みょ」のように記す。後ろに母音「え」が来るときは「ぇ」の仮名を用いて「きぇ」のように記すが、外来語などにしか使われない。

「さ行」「ざ行」「た行」「は行」の「い段」音の子音も独特の音色であるが、これは単なる口蓋化でなく、調音点が硬口蓋に移動した音である。「し」「ち」の子音は ɕ1 ɕ [ɕ] ʨ1 ʨ [ʨ] を用いる。これらの音は、それぞれの行の子音が古くそのように発音された名残りと考えられている。外来音「スィ」「ティ」の子音は口蓋化した sʲ1 [sʲ] tʲ1 [tʲ] を用いる。「じ」「ぢ」の子音は、語頭および「ん」の後ろでは ʥ1 ʥ [ʥ] 、語中では ʑ1 ʑ [ʑ] を用いる。外来音「ディ」「ズィ」の子音は口蓋化した dʲ1 [dʲ] ʣʲ1 ʣʲ [ʣʲ] および zʲ1 [zʲ] を用いる。「ひ」の子音は h1 h [h] ではなく硬口蓋音 ç1 ç [ç] である。

また、「」の子音は多くは口蓋化した nʲ1 [nʲ] で発音されるが、硬口蓋鼻音 ɲ1 ɲ [ɲ] を用いる話者もある。同様に、「」に硬口蓋はじき音を用いる話者や、「ち」に無声硬口蓋破裂音 c1 c [c] を用いる話者もある。

そのほか、「は行」では「」の子音のみ無声両唇摩擦音 ɸ1 ɸ [ɸ] を用いるが、これは「は行」子音が p1 p [p] ɸ1 ɸ [ɸ] h1 h [h] と変化してきた名残りである。外来語には f1 f [f] を用いる話者もある。また、「た行」では「」の子音のみ ʦ1 ʦ [ʦ] を用いる。これらの子音に母音「あ」「い」「え」「お」が続くのは主として外来語の場合であり、仮名では「ァ」「ィ」「ェ」「ォ」を添えて「ファ」「ツァ」のように記す(「ツァ」は「おとっつぁん」「ごっつぁん」などでも用いる)。「フィ」「ツィ」は子音に口蓋化が起こる。また「ツィ」は多く「チ」などに言い換えられる。「トゥ」「ドゥ」(tɯ1 [tɯ] dɯ1 [dɯ] )は、外国語の t1 t [t] tu1 tu [tu] du1 du [du] などの音に近く発音しようとするときに用いることがある。

促音「っ」(音素記号では /Q/)および撥音「ん」(/N/)と呼ばれる音は、音韻論上の概念であって、前節で述べた長音とあわせて特殊モーラと扱う。実際の音声としては、「っ」は -kk-1 -kk- [-kk-] -ss-1 -ss- [-ss-] -ɕɕ-1 -ɕɕ- [-ɕɕ-] -tt-1 -tt- [-tt-] -tʦ-1 -tʦ- [-tʦ-] -tʨ-1 -tʨ- [-tʨ-] -pp-1 -pp- [-pp-] などの子音連続となる。また、「ん」は、後続の音によって ɴ1 ɴ [ɴ] m1 m [m] n1 n [n] ŋ1 ŋ [ŋ] などの子音となる(ただし、母音の前では鼻母音となる)。文末などでは ɴ1 ɴ [ɴ] を用いる話者が多い。

アクセント[編集]

日本語のアクセントは、高低アクセントが主流である。アクセントは語ごとに定まっている。同音語をアクセントの違いによって弁別できる場合も少なくない。たとえば、東京方言の場合、「雨」「飴」はそれぞれ「ア\メ」(頭高型)「ア/メ」(平板型)のように、異なったアクセントで発音される(今、ピッチの上がり目を/で、下がり目を\で示す)。「端を」「箸を」「橋を」はそれぞれ「ハ/シオ」「ハ\シオ」「ハ/シ\オ」となる。

アクセントの高低は、歌でいえば音階の高低に相当する。かつての作曲家の中には、詞に曲をつけるとき、言葉のアクセントを踏まえる人が多かった[29]。たとえば、山田耕筰は「からたちの花が咲いたよ」(北原白秋作詞「からたちの花」)を「カ/ラタチノ ハ/ナ\ガ サ/イタヨ」というアクセントを生かして作曲している。その結果、「花が」の部分が「鼻が」(ハ/ナガ)に聞こえるようなことが避けられる。

もっとも、このことは、アクセントが違えばただちに別語になることを意味しない。「教育」「財政」は東京アクセントでは「キョ/ーイク」「ザ/イセー(ザ/イセイ)」であるが、専門家によってしばしば「キョ\ーイク」「ザ\イセー」と発音されることがある。また、年代が若くなるに従ってアクセントの平板化が進み、「電車」「映画」が「デ\ンシャ」「エ\ーガ(エ\イガ)」から「デ/ンシャ」「エ/ーガ」になるというように変化してきている。それでも意味が変化しているわけではない。

「花が」を東京で「ハ/ナ\ガ」、京都で「ハ\ナガ」というように、単語のアクセントは地方によって異なる。ただし、それぞれの地方のアクセント体系は互いにまったく無関係に成り立っているのではない。多くの場合において規則的な対応がみられる。たとえば、「花が」「山が」「池が」を東京では「ハ/ナ\ガ」「ヤ/マ\ガ」「イ/ケ\ガ」のようにいずれも中高型で発音するが、京都では「ハ\ナガ」「ヤ\マガ」「イ\ケガ」といずれも頭高型で発音する。このように、ある地方で同じアクセント類に属する語は、他の地方でも同じアクセント類に属することが一般的に観察される。

この事実は、日本の方言アクセントが過去に同一のアクセントをもった言語体系から分かれたものであることを意味する。服部四郎はこれを原始日本語のアクセントと称したが[30]、それが具体的にどのようなものであったかについては諸説がある。たとえば金田一春彦[31]や奥村三雄[32]は、院政期京阪式アクセント名義抄式アクセント)を日本語アクセントの祖体系として想定し、現在の諸方言アクセントのほとんどは南北朝時代以降に順次アクセント変化を起こした結果生じたと推定している。

アクセント体系は、関東と関西で異なると一般に考えられているが、細かく見れば、分布はもう少し複雑である。すなわち、およそ愛知・岐阜・長野・新潟以東は東京式アクセントで、近畿・四国などの地方は京阪式アクセントであるが、西へ進み中国地方・九州地方まで行くと、東京式アクセントが現れる。すなわち、近畿地方を中心とした京阪式アクセントを東京式アクセントが挟む形になっている。また、九州地方の一部や北関東から南東北地方にかけての一帯などでは、すべての語が同じアクセントで発音される一型式アクセントや、特にどこを高く発音するという決まりのない無アクセントが見られる。さらに、それぞれの体系の中間型や別派などが多数存在する。

詳細は、以下を参照。

文法[編集]

詳細は 現代日本語文法 を参照

文の構造[編集]

ファイル:Nihongo bunkozo.png
日本語の文の例
上の文は、橋本進吉の説に基づき主述構造の文として説明したもの。下の文は、主述構造をなすとは説明しがたいもの。三上章はこれを題述構造の文と捉えている。

日本語では「私は本を読む。」という語順で文を作る。英語で「I read a book.」という語順をSVO型(主語・動詞・目的語)と称する説明にならっていえば、日本語の文はSOV型ということになる。もっとも、厳密にいえば、英語の文に動詞が必須であるのに対して、日本語文は動詞で終わることもあれば、形容詞や名詞+助動詞で終わることもある。そこで、日本語文の基本的な構造は、「S(主語 subject)‐V(動詞 verb)」というよりは、「S(主語)‐P(述語 predicate)」という「主述構造」と考えるほうが、より適当である。

  1. 私は(が) 社長だ。
  2. 私は(が) 行く。
  3. 私は(が) うれしい。

上記の文は、いずれも「S‐P」構造、すなわち主述構造をなす同一の文型である。英語などでは、それぞれ「SVC」「SV」「SVC」の文型になるところであるから、それにならって、1を名詞文、2を動詞文、3を形容詞文と分けることもある。しかし、日本語ではこれらの文型に本質的な違いはない。そのため、英語を学び始めたばかりの中学生などは、"I am happy." と同じ調子で "I am go." と誤った作文をすることがある。

また、日本語文では、主述構造とは別に、「題目‐述部」からなる「題述構造」をとることがきわめて多い。題目とは、話のテーマ(主題)を明示するものである(三上章は "what we are talking about" と説明する[33])。よく主語と混同されるが、別概念である。主語は「が」(「は」)によって表され、動作や作用の主体を表すものであるが、題目は「は」によって表され、その文が「これから何について述べるのか」を明らかにするものである。たとえば、

  1. 象は 大きい。
  2. 象は おりに入れた。
  3. 象は えさをやった。
  4. 象は 鼻が長い。

などの文では、「象は」はいずれも題目を示している。4の「象は」は「象が」に言い換えられるもので、事実上は文の主語を兼ねる。しかし、5以下は「象が」には言い換えられない。5は「象を」のことであり、6は「象に」のことである。さらに、7の「象は」は何とも言い換えられないものである(「象の」に言い換えられるともいう[34])。これらの「象は」という題目は、「が」「に」「を」などの特定の格を表すものではなく、「私は象について述べる」ということだけをまず明示する役目を持つものである。これらの文では、題目「象は」に続く部分全体が「述部」ということになる。

日本語と同様に題述構造の文をもつ言語(主題優勢言語en:Topic-prominent language)は、東アジアなどに分布する。たとえば、中国語朝鮮語ベトナム語マレー語タガログ語にもこの構造の文が見られる。

主語廃止論[編集]

ファイル:Japanese english basic sentence.gif
日本語・英語の構文の違い
三上説によれば、日本語の文は、「紹介シ」の部分に「ガ」「ニ」「ヲ」が同等に係る。英語式の文は、「甲(ガ)」という主語だけが述語「紹介シタ」と対立する。

上述の「象は鼻が長い。」のように、「主語‐述語」の代わりに「題目‐述部」と捉えるべき文が非常に多いことを考えると、日本語の文にはそもそも主語は必須でないという見方が成り立つ。三上章は、ここから「主語廃止論」(主語という文法用語をやめる提案)を唱えた。三上によれば、

  • 甲ガ乙ニ丙ヲ紹介シタ。

という文において、「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はいずれも「紹介シ」という行為を説明するために必要な要素であり、優劣はない。重要なのは、それらをまとめる述語「紹介シタ」の部分である。「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はすべて述語を補足する語(補語)となる。一方、英語などでの文で主語は、述語と人称などの点で呼応しており、特別の存在である[33]

この考え方に従えば、英語式の観点からは「主語が省略されている」としかいいようがない文をうまく説明することができる。たとえば、

  • ハマチの成長したものをブリという。
  • ここでニュースをお伝えします。
  • 日一日と暖かくなってきました。

などは、いわゆる主語のない文である。しかし、日本語の文では述語に中心があり、補語を必要に応じて付け足すと考えれば、上記のいずれも、省略のない完全な文とみなして差し支えない。

今日の文法学説では、主語という用語・概念は、作業仮説として有用な面もあるため、なお一般に用いられている。ただし、三上の説に対する形で日本語の文に主語が必須であると主張する学説は少数派である。森重敏は、日本語の文においても主述関係が骨子であるとの立場をとるが、この場合の主語・述語も、一般に言われるものとはかなり様相を異にしている[35]。学校教育の日本語文法(学校文法)は、主語・述語を基本とした伝統的な文法用語を用いるが、教科書によっては主語を特別扱いしないものもある[36]

文の成分[編集]

文を主語・述語から成り立つと捉える立場でも、この2要素だけでは文の構造を十分に説明できない。主語・述語には、さらに修飾語などの要素が付け加わって、より複雑な文が形成される。文を成り立たせるこれらの要素を「文の成分」と称する。

学校文法では、文の成分として「主語」「述語」「修飾語」(連用修飾語・連体修飾語)「接続語」「独立語」、および、教科書によっては「並立語」を立てる。以下、学校文法の区分に従いつつ、それぞれの文の成分の種類と役割とについて述べる。

  • 主語・述語 文を成り立たせる基本的な成分である。ことに述語は、文をまとめる重要な役割を果たす。「雨が降る。」「本が多い。」「私は学生だ。」などは、いずれも主語・述語から成り立っている。教科書によっては、述語を文のまとめ役として最も重視する一方、主語については修飾語と合わせて説明するものもある(前節「主語廃止論」参照)。
  • 連用修飾語 用言にかかる修飾語である(用言については「自立語」の節を参照)。「兄が弟に算数を教える。」という文で「弟に」「算数を」など格を表す部分は、述語の動詞「教える」にかかる連用修飾語ということになる。また、「算数をみっちり教える。」「算数を熱心に教える。」という文の「みっちり」「熱心に」なども、「教える」にかかる連用修飾語である。ただし、「弟に」「算数を」などの成分を欠くと、基本的な事実関係が伝わらないのに対し、「みっちり」「熱心に」などの成分は、欠いてもそれほど事実の伝達に支障がない。ここから、前者は文の根幹をなすとして補充成分と称し、後者に限って修飾成分と称する説もある[37]。国語教科書でもこの2者を区別して説明するものがある。
  • 連体修飾語 体言にかかる修飾語である(体言については「自立語」の節を参照)。「私の本」「動く歩道」「赤い髪飾り」「大きな瞳」の「私の」「動く」「赤い」「大きな」は連体修飾語である。
  • 接続語 「満腹になったので、動けない。」「買いたいが、金がない。」の「満腹になったので」「買いたいが」のように、あとの部分との論理関係を示すものである。また、「今日は晴れた。だから、ピクニックに行こう。」「君は若い。なのに、なぜ絶望するのか。」における「だから」「なのに」のように、前の文とその文とをつなぐ成分も接続語である。品詞分類では、常に接続語となる品詞を接続詞とする。
  • 独立語 「はい、分かりました。」「姉さん、どこへ行くの。」「新鮮、それが命です。」の「はい」「姉さん」「新鮮」のように、他の部分にかかったり、他の部分を受けたりすることがないものである。かかり受けの観点から定義すると、結果的に、独立語には感動・呼びかけ・応答・提示などを表す語が該当することになる。品詞分類では、独立語としてのみ用いられる品詞を感動詞とする。名詞や形容動詞語幹なども独立語として用いられる。
  • 並立語 「ミカンとリンゴを買う。」「琵琶湖の冬は冷たく厳しい。」の「ミカンとリンゴを」や、「冷たく厳しい。」のように並立関係でまとまっている成分である。全体としての働きは、「ミカンとリンゴを」の場合は連用修飾部に相当し、「冷たく厳しい。」は述部に相当する。

学校文法では、英語にあるような「目的語」「補語」などの成分はない。英語文法では "I read a book." の "a book" はSVO文型の一部をなす目的語であり、また、"I go to the library." の "the library" は前置詞とともに付け加えられた修飾語と考えられる。一方、日本語では、

  • 私は本を読む。
  • 私は図書館へ行く。

のように、「本を」「図書館へ」はどちらも「名詞+格助詞」で表現されるのであって、その限りでは区別がない。これらは、文の成分としてはいずれも「連用修飾語」とされる。ここから、学校文法に従えば、「私は本を読む。」は、「主語‐目的語‐動詞」(SOV)文型というよりは、「主語‐修飾語‐述語」文型であると解釈される。

修飾語の特徴[編集]

日本語では、修飾語はつねに被修飾語の前に位置する。「ぐんぐん進む」「白い雲」の「ぐんぐん」「白い」はそれぞれ「進む」「雲」の修飾語である。修飾語が長大になっても位置関係は同じで、たとえば、

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲(佐佐木信綱)

という短歌は、冒頭から「ひとひらの」までが「雲」にかかる長い修飾語であり、詩的効果を生んでいる。

書き手によっては、修飾語を長々とつらねて、肝心の被修飾語がなかなか表れない文章を書くことがある。また、法律文や翻訳文などでも、長い修飾語を主語・述語の間に挟み、文意を取りにくくしていることがしばしばある。たとえば、憲法前文の一節に、

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

とあるが、主語(題目)の「われら」、述語の「信ずる」の間に「いづれの国家も……であると」という長い修飾語が介在している。この種の文を読み慣れた人でなければわかりにくい。英訳で "We hold…"(われらは信ずる)と主語・述語が隣り合うのとは対照的である。

もっとも、修飾語が後置される英語でも、修飾関係の分かりにくい文が現れることがある。次のような文は「袋小路文」(en:garden path sentence)と呼ばれる。

The horse raced past the barn fell.(納屋を抜けて走らされた馬が倒れた。)

この場合、日本語の文では「馬」にかかる連体修飾語「納屋を抜けて走らされた」が前に来ているために誤解がないが、英語では "The horse" を修飾する "raced past the barn" があとに来ているために、誤解の元になっている。

品詞体系[編集]

ファイル:JapanesePartsOfSpeech.png
学校文法の品詞体系
元の図は、 橋本進吉「国語法要説」[38]に掲載。上図および現在の国語教科書では微修正を加えている。

名詞や動詞、形容詞といった「品詞」の概念は、上述した「文の成分」の概念とは分けて考える必要がある。名詞「犬」は、文の成分としては主語にもなれば修飾語にもなり、「犬だ」のように助動詞「だ」をつけて述語にもなる。動詞・形容詞・形容動詞も、修飾語にもなれば述語にもなる。もっとも、副詞は多く連用修飾語として用いられ、また、連体詞は連体修飾語に、接続詞は接続語に、感動詞は独立語にもっぱら用いられるが、必ずしも、特定の品詞が特定の文の成分に1対1で対応しているわけではない。

では、それぞれの品詞の特徴を形作るものは何かということが問題になるが、これについては、さまざまな説明があり、一定しない。俗に、事物を表す単語が名詞、動きを表す単語が動詞、様子を表す単語が形容詞などと言われることがあるが、例外がいくらでも挙がり、定義としては成立しない。

橋本進吉は、品詞を分類するにあたり、単語の表す意味(動きを表すか様子を表すかなど)には踏み込まず、主として形式的特徴によって品詞分類を行っている[38]。橋本の考え方は初学者にも分かりやすいため、学校文法もその考え方に基づいている。

学校文法では、のうち、「太陽」「輝く」「赤い」「ぎらぎら」など、それだけで文節を作り得るものを自立語(詞)とし、「ようだ」「です」「が」「を」など、単独で文節を作り得ず、自立語に付属して用いられるものを付属語(辞)とする。なお、日本語では、自立語の後に接辞や付属語を次々につけ足して文法的な役割などを示すため、言語類型論上は膠着語に分類される。

自立語[編集]

自立語は、活用のないものと、活用のあるものとに分けられる。

自立語で活用のないもののうち、主語になるものを名詞とする。名詞のうち、代名詞数詞を独立させる考え方もある。一方、主語にならず、単独で連用修飾語になるものを副詞、連体修飾語になるものを連体詞(副体詞)、接続語になるものを接続詞、独立語としてのみ用いられるものを感動詞とする。副詞・連体詞については、それぞれ一品詞とすべきかどうかについて議論があり、さらに細分化する考え方[39]や、他の品詞に吸収させる考え方[40]などがある。

自立語で活用のあるもののうち、命令形のあるものを動詞、命令形がなく終止・連体形が「い」で終わるものを形容詞(日本語教育では「イ形容詞」)、連体形が「な」で終わるものを形容動詞(日本語教育では「ナ形容詞」)とする。形容動詞を一品詞として認めることについては、時枝誠記[41]など否定的な見方をする研究者もいる。

なお、「名詞」および「体言」という用語は、しばしば混同される。古来、ことばを分類するにあたり、活用のない語を「体言」(体)、活用のある語を「用言」(用)、そのほか、助詞・助動詞の類を「てにをは」と大ざっぱに称することが多かった。現在の学校文法では、「用言」は活用のある自立語の意味で用いられ(動詞・形容詞・形容動詞を指す)、「体言」は活用のない自立語の中でも名詞(および代名詞・数詞)を指すようになった。つまり、現在では「体言」と「名詞」とは同一物とみても差し支えはないが、活用しない語という点に着目していう場合は「体言」、文の成分のうち主語になりうるという点に着目していう場合は「名詞」と称する。

付属語[編集]

付属語も、活用のないものと、活用のあるものとに分けられる。

付属語で活用のないものを助詞と称する。「春来た」「買っくる」「やるしかない」「分かった」などの太字部分はすべて助詞である。助詞は、名詞について述語との関係(格関係)を表す格助詞(「名詞の格」の節参照)、活用する語について後続部分との接続関係を表す接続助詞、種々の語について、程度や限定などの意味を添えつつ後続の用言などを修飾する副助詞、文の終わりに来て疑問や詠嘆・感動・禁止といった気分や意図を表す終助詞に分けられる。

付属語で活用のあるものを助動詞と称する。「気を引かれる」「私は泣かない」「花が笑っ」「さあ、出かけよう」「今日は来ないそうだ」「もうすぐ春です」などの太字部分はすべて助動詞である。助動詞の最も主要な役割は、動詞(および助動詞)に付属して以下のような情報を加えることである。すなわち、動詞の(特に受け身・使役・可能など。ヴォイス)・極性(肯定・否定の決定。ポラリティ)・時制(テンス)・(アスペクト)・(推量・断定・意志など。ムード)などを示す役割を持つ。山田孝雄(よしお)は、助動詞を認めず、動詞から分出される語尾(複語尾)と見なしている[42]。また時枝誠記は、「れる(られる)」「せる(させる)」を助動詞とせず、動詞の接尾語としている[41]

名詞の格[編集]

名詞および動詞・形容詞・形容動詞は、それが文中でどのような成分を担っているかを特別の形式によって表示する。

名詞の場合、「が」「を」「に」などの格助詞を後置することで動詞との関係(格)を示す。語順によって格を示す言語ではないため、日本語は語順が比較的自由である。すなわち、

  • 桃太郎 きびだんご やりました。
  • 桃太郎 きびだんご やりました。
  • きびだんご 桃太郎 やりました。

などは、強調される語は異なるが、いずれも同一の内容を表す文で、しかも正しい文である。

主な格助詞とその典型的な機能は次の通りである。

「が」…… 動作・作用の主体を表す。例、「空が青い」「犬がいる」
「の」…… 連体修飾を表す。例、「私の本」「理想の家庭」
「を」…… 動作・作用の対象を表す。例、「本を読む」「人を教える」
「に」…… 動作・作用の到達点を表す。例、「駅に着く」「人に教える」
「へ」…… 動作・作用の及ぶ方向を表す。例、「駅へ向かう」「学校へ出かける」
「と」…… 動作・作用をともに行う相手を表す。例、「友人と帰る」「車とぶつかる」
「から」…… 動作・作用の起点を表す。例、「旅先から戻る」「6時から始める」
「より」…… 動作・作用の起点や、比較の対象を表す。例、「旅先より戻る」「花より美しい」
「で」…… 動作・作用の行われる場所を表す。例、「川で洗濯する」「風呂で寝る」

このように、格助詞は、述語を連用修飾する名詞が述語とどのような関係にあるかを示す(ただし、「の」だけは連体修飾に使われ、名詞同士の関係を示す)。なお、上記はあくまでも典型的な機能であり、主体を表さない「が」(例、「水が飲みたい」)、対象を表さない「を」(例、「日本を発った」)、到達点を表さない「に」(例、「先生にほめられた」)など、上記に収まらない機能を担う場合も多い。

格助詞のうち、「が」「を」「に」は、話し言葉においては脱落することが多い。その場合、文脈の助けがなければ、最初に来る部分は「が」格に相当するとみなされる。「くじらをお父さんが食べてしまった。」を「くじら、お父さん食べちゃった。」と助詞を抜かして言った場合は、「くじら」が「が」格相当ととらえられるため、誤解の元になる。「チョコレートを私が食べてしまった。」を「チョコレート、私食べちゃった。」と言った場合は、文脈の助けによって誤解は避けられる。なお、「へ」「と」「から」「より」「で」などの格助詞は、話し言葉においても脱落しない。

題述構造の文(「文の構造」の節参照)では、特定の格助詞が「は」に置き換わる。たとえば、「空が 青い。」という文は、「空」を題目化すると「空は 青い。」となる。題目化の際の「は」の付き方は、以下のようにそれぞれの格助詞によって異なる。

無題の文   題述構造の文
青い。 青い。
読む。 読む。
学校行く。 学校行く。(学校には行く。)
向かう。 へは向かう。
友人帰る。 友人とは帰る。
旅先から戻る。 旅先からは戻る。
洗濯する。   では洗濯する。

格助詞は、下に来る動詞が何であるかに応じて、必要とされる種類と数が変わってくる。たとえば、「走る」という動詞で終わる文に必要なのは「が」格であり、「馬が走る。」とすれば完全な文になる。ところが、「教える」の場合は、「が」格を加えて「兄が教えています。」としただけでは不完全な文である。さらに「で」格を加え、「兄が小学校で教えています(=教壇に立っています)。」とすれば完全になる。つまり、「教える」は、「が・で」格が必要である。

ところが、「兄が部屋で教えています。」という文の場合、「が・で」格があるにもかかわらず、なお完全な文という感じがしない。「兄が部屋で弟に算数を教えています。」のように「が・に・を」格が必要である。むしろ、「で」格はなくとも文は不完全な印象はない。

すなわち、同じ「教える」でも、「教壇に立つ」という意味の「教える」は「が・で」格が必要であり、「説明して分かるようにさせる」という意味の「教える」では「が・に・を」格が必要である。このように、それぞれの文を成り立たせるのに必要な格を「必須格」という。

活用形と種類[編集]

詳細は 活用 を参照

名詞が格助詞を伴ってさまざまな格を示すのに対し、用言(動詞・形容詞・形容動詞)および助動詞は、語尾を変化させることによって、文中のどの成分を担っているかを示したり、時制などの情報や文の切れ続きの別などを示したりする。この語尾変化を「活用」といい、活用する語を総称して「活用語」という。

学校文法では、口語の活用語について、6つの活用形を認めている。以下、動詞・形容詞・形容動詞の活用形を例に挙げる(太字部分)。

活用形 動詞 形容詞 形容動詞
未然形 打たない
打と
強かろ 勇敢だろ
連用形 打ちます
打っ
強かっ
強くなる
強うございます
勇敢だっ
勇敢である
勇敢になる
終止形 打つ 強い 勇敢だ
連体形 打つこと 強いこと 勇敢なこと
仮定形 打て 強けれ 勇敢なら
命令形 打て

一般に、終止形は述語に用いられる。「(選手が球を)打つ。」「(この子は)強い。」「(消防士は)勇敢だ。」など。

連用形は、文字通り連用修飾語にも用いられる。「強く(生きる。)」「勇敢に(突入する。)」など。ただし、「選手が球を打ちました。」の「打ち」は連用形であるが、連用修飾語ではなく、この場合は述語の一部である。このように、活用形と文中での役割は、1対1で対応しているわけではない。

仮定形は、文語では已然形と称する。口語の「打てば」は仮定を表すが、文語の「打てば」は「已(すで)に打ったので」の意味を表すからである。また、形容詞・形容動詞は、口語では命令形がないが、文語では「稽古は強かれ。」(風姿花伝)のごとく命令形が存在する。

動詞の活用は種類が分かれている。口語の場合は、五段活用上一段活用下一段活用カ行変格活用(カ変)・サ行変格活用(サ変)の5種類である。

  • 五段動詞は、未然形活用語尾が「あ段音」で終わるもの。例、「買う」。
  • 上一段動詞は、未然形活用語尾が「い段音」で終わるもの。例、「見る」。
  • 下一段動詞は、未然形活用語尾が「え段音」で終わるもの。例、「受ける」。
  • カ変動詞は「来る」および「来る」を語末要素とするもの。
  • サ変動詞は「する」および「する」を語末要素とするもの。

語彙[編集]

詳細は 日本語の語彙 を参照

分野ごとの語彙量[編集]

ある言語の語彙体系を見渡して、特定の分野の語彙が豊富であるとか、別の分野の語彙が貧弱であるとかを決めつけることは、一概にはできない。日本語でも、たとえば「自然を表わす語彙が多いというのが定評」[43]といわれるが、これは人々の直感から来る評判という意味以上のものではない。

実際に、旧版『分類語彙表』[44]によって分野ごとの語彙量の多寡を比べた結果によれば、名詞(体の類)のうち「人間活動―精神および行為」に属するものが27.0%、「抽象的関係」が18.3%、「自然物および自然現象」が10.0%などとなっていて、このかぎりでは「自然」よりも「精神」や「行為」などを表す語彙のほうが多いことになる[45]。ただし、これも、他の言語と比較して多いということではなく、この結果がただちに日本語の語彙の特徴を示すことにはならない。

人称語彙[編集]

こうした中で、日本語に人称を表す語彙が多いことは注意を引く。たとえば、『類語大辞典』[46]の「わたし」の項には「わたし・わたくし・あたし・あたくし・あたい・わし・わい・わて・我が輩・僕・おれ・おれ様・おいら・わっし・こちとら・自分・てまえ・小生・それがし・拙者・おら」などが並び、「あなた」の項には「あなた・あんた・きみ・おまえ・おめえ・おまえさん・てめえ・貴様・おのれ・われ・お宅・なんじ・おぬし・その方・貴君・貴兄・貴下・足下・貴公・貴女・貴殿・貴方(きほう)」などが並ぶ。

上の事実は、現代英語の一人称・二人称代名詞がほぼ "I" と "you" のみであり、フランス語の一人称代名詞が "je"、二人称代名詞が "tu" "vous" のみであることと比較すれば、特徴的ということができる。もっとも、日本語においても、本来の人称代名詞は、一人称に「ワ(レ)」「ア(レ)」、二人称に「ナ(レ)」があるのみである。今日、一・二人称同様に用いられる語は、その大部分が一般名詞からの転用である[47]。一人称を示す「ぼく」「手前」や三人称を示す「彼女」などを、「ぼく、何歳?」「てめえ、何しやがる」「彼女、どこ行くの?」のように二人称に転用することが可能であるのも、日本語の人称語彙が一般名詞的であることの表れである。

なお、敬意表現の観点から、目上に対しては二人称代名詞の使用が避けられる傾向がある。たとえば、「あなたは何時に出かけますか」とは言わず、「何時にいらっしゃいますか」のように言うことが普通である。

親族語彙の体系」の節をあわせて参照のこと。

音象徴語彙[編集]

また、音象徴語、いわゆるオノマトペ(onomatopee)の語彙量も日本語には豊富である(オノマトペの定義は一定しないが、ここでは、擬声語・擬音語のように耳に聞こえるものを写した語と、擬態語のように耳に聞こえない状態・様子などを写した語の総称として用いる)。

擬声語は、人や動物が立てる声を写したものである(例、おぎゃあ・がおう・げらげら・にゃあにゃあ)。擬音語は、物音を写したものである(例、がたがた・がんがん・ちんちん・どんどん)。擬態語は、ものごとの様子や心理の動きなどを表したものである(例、きょろきょろ・すいすい・いらいら・わくわく)。擬態語の中で、心理を表す語を特に擬情語と称することもある。

オノマトペ自体は多くの言語に存在する。たとえば猫の鳴き声は、英語で "mew"、ドイツ語で "miau"、フランス語で "miau miau"、ロシア語で "мяу"(myau)、中国語で「喵喵」(miao miao)、朝鮮語で「야옹야옹」(yaongyaong)のごとくである[48]。しかしながら、その語彙量は言語によって異なる。日本語のオノマトペは欧米語や中国語の3倍から5倍存在するといわれ[49]、とりわけ擬態語が多く使われるとされる[50]

新たなオノマトペが作られることもある。「(心臓が)ばくばく」「がっつり(食べる)」などは、近年に作られた(広まった)オノマトペの例である。漫画などの媒体では、とりわけ自由にオノマトペが作られる。漫画家の手塚治虫は、漫画を英訳してもらったところ、「ドギューン」「シーン」などの語に翻訳者が「お手あげになってしまった」と記している[51]。また、漫画出版社社長の堀淵清治も、アメリカで日本漫画を売るに当たり、独特の擬音を訳すのにスタッフが悩んだことを述べている[52]

品詞ごとの語彙量[編集]

日本語の語彙を品詞ごとにみると、圧倒的に多いものは名詞である。その残りのうちで比較的多いものは動詞である。『新選国語辞典』の収録語の場合、名詞が82.37%、動詞が9.09%、副詞が2.46%、形容動詞が2.02%、形容詞が1.24%となっている[53]

このうち、とりわけ目を引くのは形容詞の少なさである。かつて柳田国男はこの点を指摘して「形容詞饑饉」と称した[54]。英語の場合、『オックスフォード英語辞典』第2版では、半分以上が名詞、約4分の1が形容詞、約7分の1が動詞ということであり[55]、英語との比較の上からは、日本語の形容詞が僅少であることは特徴的といえる。

ただし、これは日本語で物事を形容することが難しいことを意味するものではない。品詞分類上の形容詞、すなわち「赤い」「楽しい」など「~い」の形式をとる語が少ないということであって、他の形式による形容表現が多く存在する。「真っ赤だ」「きれいだ」など「~だ」の形式をとる形容動詞(「~的だ」を含む)、「初歩(の)」「酸性(の)」など「名詞(+の)」の形式、「目立つ(色)」「とがった(針)」「はやっている(店)」など動詞を基にした形式、「つまらない」「にえきらない」など否定助動詞「ない」をともなう形式などが形容表現に用いられる。

もともと少ない形容詞を補う主要な形式は形容動詞である。漢語・外来語の輸入によって、「正確だ」「スマートだ」のような、漢語・外来語+「だ」の形式の形容動詞が増大した。上掲の『新選国語辞典』で名詞扱いになっている漢語・外来語のうちにも、形容動詞の用法を含むものが多数存在する。現代の二字漢語(「世界」「研究」「豊富」など)約2万1千語を調査した結果によれば、全体の63.7%が事物類(名詞に相当)、29.9%が動態類(動詞に相当)、7.3%が様態類(形容動詞に相当)、1.1%が副用類(副詞に相当)であり[56]、二字漢語の7%程度が形容動詞として用いられていることが分かる。

語彙の増加と品詞」の節をあわせて参照のこと。

語彙体系[編集]

それぞれのは、ばらばらに存在しているのではなく、意味・用法などの点で互いに関連をもったグループを形成している。これを語彙体系と称する[57]。日本語の語彙自体、ひとつの大きな語彙体系といえるが、その中にはさらに無数の語彙体系が含まれている。

以下、体系をなす語彙の典型的な例として、指示語・色彩語彙・親族語彙を取り上げて論じる。

指示語の体系[編集]

日本語では、ものを指示するために用いる語彙は、一般に「こそあど」と呼ばれる4系列をなしている。これらの指示語(指示詞)は、主として名詞(「これ・ここ・こなた・こっち」など)であるため、概説書の類では名詞(代名詞)の説明のなかで扱われている場合も多い。しかし、実際には副詞(「こう」など)・連体詞(「この」など)・形容動詞(「こんなだ」など)にまたがるため、ここでは語彙体系の問題として論じる。

「こそあど」の体系は、伝統的には「近称・中称・遠称・不定(ふじょう)称」の名で呼ばれた。明治時代に、大槻文彦は以下のような表を示している[58]

  近称 中称 遠称 不定称
事物 これ こ それ そ あれ あ
かれ か
いづれ(どれ) なに
地位 ここ そこ あしこ あそこ
かしこ
いづこ(どこ) いづく
方向 こなた そなた あなた
かなた
いづかた(どなた)
こち そち あち いづち(どち)

ここで、「近称」は最も近いもの、「中称」はやや離れたもの、「遠称」は遠いものを指すとされた。ところが、「そこ」などを「やや離れたもの」を指すと考えると、遠くにいる人に向かって「そこで待っていてくれ」と言うような場合を説明しがたい。また、自分の腕のように近くにあるものを指して、人に「そこをさすってください」と言うことも説明しがたいなどの欠点がある。佐久間鼎(かなえ)は、この点を改め、「こ」は「わ(=自分)のなわばり」に属するもの、「そ」は「な(=あなた)のなわばり」に属するもの、「あ」はそれ以外の範囲に属するものを指すとした[59]。すなわち、体系は下記のようにまとめられた。

  指示されるもの
対話者の層 所属事物の層
話し手 (話し手自身)
ワタクシ ワタシ
(話し手所属のもの)
コ系
相手 (話しかけの目標)
アナタ オマエ
(相手所属のもの)
ソ系
はたの
人 もの
(第三者)(アノヒト) (はたのもの)
ア系
不定 ドナタ ダレ ド系

このように整理すれば、上述の「そこで待っていてくれ」「そこをさすってください」のような言い方はうまく説明される。相手側に属するものは、遠近を問わず「そ」で表されることになる。この説明方法は、現在の学校教育の国語でも取り入れられている。

とはいえ、すべての場合を佐久間説で割り切れるわけでもない。たとえば、道で「どちらに行かれます?」と問われて、「ちょっとそこまで」と答えたとき、これは「それほど遠くないところまで行く」という意味であるから、大槻文彦のいう「中称」の説明のほうがふさわしい。ものをなくしたとき、「ちょっとそのへんを探してみるよ」と言うときも同様である。

また、目の前にあるものを直接指示する場合(現場指示)と、文章の中で前に出た語句を指示する場合(文脈指示)とでも、事情が変わってくる。「生か死か、それが問題だ」の「それ」は、「中称」(やや離れたもの)とも、「相手所属のもの」とも解釈しがたい。直前の内容を「それ」で示すものである。このように、指示語の意味体系は、詳細に見れば、なお研究の余地が多く残されている。

なお、指示の体系は言語によって異なる。不定称を除いた場合、3系列をなす言語は日本語(こ・そ・あ)や朝鮮語(이・그・저)などがある。一方、英語(this・that)や中国語(这・那)などは2系列をなす。日本人の英語学習者が「これ・それ・あれ」に「this・it・that」を当てはめて考えることがあるが、「it」は文脈指示の代名詞で系列が異なるため、混用することはできない。

色彩語彙の体系[編集]

日本語で色彩を表す語彙(色彩語彙)は、古来、「アカ」「シロ」「アヲ」「クロ」の4語が基礎となっている[60]。「アカ」は明るい色、「シロ」は顕(あき)らかな色、「アヲ」は漠然とした色、「クロ」は暗い色を総称した。今日でもこの体系は基本的に変わっていない。葉の色・空の色・顔色などをいずれも「アオ」と表現するのはここに理由がある[61]

文化人類学者のバーリンとケイの研究によれば、種々の言語で最も広範に用いられている基礎的な色彩語彙は「白」と「黒」であり、以下、「赤」「緑」が順次加わるという[62]。日本語の色彩語彙もほぼこの法則に合っているといってよい。

このことは、日本語を話す人々が4色しか識別しないということではない。特別の色を表す場合には、「黄色(語源は「木」かという[63])」「紫色」「茶色」「蘇芳色」「浅葱色」など、植物その他の一般名称を必要に応じて転用する。ただし、これらは基礎的な色彩語彙ではない。

親族語彙の体系[編集]

日本語の親族語彙[64] [65]は、比較的単純な体系をなしている。英語の基礎語彙で、同じ親から生まれた者を "brother", "sister" の2語のみで区別するのに比べれば、日本語では、男女・長幼によって「アニ」「アネ」「オトウト」「イモウト」の4語を区別し、より詳しい体系であるといえる(古代には、年上のみ「アニ」「アネ」と区別し、年下は「オト」と一括した[64])。しかしながら、たとえば中国語の親族語彙と比較すれば、はるかに単純である。中国語では、父親の父母を「祖父」「祖母」、母親の父母を「外祖父」「外祖母」と呼び分けるが、日本語では「ジジ」「ババ」の区別しかない。中国語では父の兄弟を「」「」、父の姉妹を「」、母の兄弟を「」、母の姉妹を「」などというが、日本語では「オジ」「オバ」のみである。「オジ」「オバ」の子はいずれも「イトコ」の名で呼ばれる。日本語でも、「伯父(はくふ)」「叔父(しゅくふ)」「従兄(じゅうけい)」「従姉(じゅうし)」などの語を文章語として用いることもあるが、これらは中国語からの借用語である。

親族語彙を他人に転用する虚構的用法 (fictive use)[66]として、日本語では赤の他人を「お父さん」「お母さん」と呼ぶことがある。たとえば、店員が中年の男性客に「お父さん、さあ買ってください」のように言う。これと似た表現は朝鮮語(아버님 お父様)・モンゴル語(aab 父)などにもあり、尊敬する年配男性に用いる。一方、フランス語・イタリア語・デンマーク語・チェコ語などのヨーロッパの言語では他人である男性をこのように呼ぶことは普通ではなく、失礼にさえなるという。ただし、虚構的用法そのものは多くの言語に存在する。英語では年少者が年配者に "uncle"(おじ)、年配者が年少者に "son"(息子)と呼びかけることがある。中国語では見知らぬ若い男性・女性に「哥哥(お兄さん)」「姐姐(お姉さん)」と呼びかける。

父親が自分自身を指して「お父さん」と言う用法(「お父さんがやってあげよう」)は、中国語・朝鮮語・モンゴル語・英語・フランス語・イタリア語・デンマーク語・チェコ語などを含め諸言語にある。

語種[編集]

詳細は 語種 を参照

日本語の語彙を出自から分類すれば、大きく、和語漢語外来語、およびそれらが混ざった混種語に分けられる。このように、出自によって分けた言葉の種類を「語種」という。和語は日本古来の大和言葉、漢語は中国渡来の漢字の音を用いた言葉、外来語は中国以外の他言語から取り入れた言葉である。もっとも、和語とされる「ウメ(梅)」が元来中国語からの借用語であった可能性があるなど、語種の境界はときに曖昧である(「語彙史」の節参照)。

和語は日本語の語彙の中核部分を占める。「これ」「それ」「きょう」「あす」「わたし」「あなた」「行く」「来る」「良い」「悪い」などのいわゆる基礎語彙はほとんど和語である。また、「て」「に」「を」「は」などの助詞や、助動詞の大部分など、文を組み立てるために必要な付属語も和語である。

一方、抽象的な概念や、社会の発展に伴って新たに発生した概念を表すためには、漢語や外来語が多く用いられる。和語の名称がすでにある事物を漢語や外来語で言い換えることもある。「めし」を「御飯」「ライス」、「やどや」を「旅館」「ホテル」などと称するのはその例である[67]。このような語種の異なる同義語には、微妙な意味・ニュアンスの差異が生まれ、とりわけ和語にはやさしい、または卑俗な印象、漢語には公的で重々しい印象、外来語には新しい印象が含まれることが多い。

一般に、和語の意味は広く、漢語の意味は狭いといわれる。たとえば、「しづむ(しずめる)」という1語の和語に、「沈」「鎮」「静」など複数の漢語の造語成分が相当する。「しづむ」の含む多様な意味は、「沈む」「鎮む」「静む」などと漢字を用いて書き分けるようになり、その結果、これらの「しづむ」が別々の語と意識されるまでになった。2字以上の漢字が組み合わさった漢語の表す意味はとりわけ分析的である。たとえば、「弱」という造語成分は、「脆」「貧」「軟」「薄」などの成分と結合することにより、「脆弱」「貧弱」「軟弱」「薄弱」のように分析的・説明的な単語を作る[68](「語彙史」の「漢語の勢力拡大」および「語彙の増加と品詞」を参照)。

漢語は、「学問」「世界」「博士」などのように、古く中国から入ってきた語彙が大部分を占めるのは無論であるが、日本人が作った漢語(和製漢語)も古来多い。現代語としても、「国立」「改札」「着席」「挙式」「即答」「熱演」など多くの和製漢語が用いられている[69]

外来語は、もとの言語の意味のままで用いられるもの以外に、日本語に入ってから独自の意味変化を遂げるものが少なくない。英語の "claim" は「当然の権利として要求する」の意であるが、日本語の「クレーム」は「文句」の意である。英語の "lunch" は昼食の意であるが、日本の食堂で「ランチ」といえば料理の種類を指す[70]

外来語を組み合わせて、「アイスキャンデー」「サイドミラー」「テーブルスピーチ」のように日本語独自の語が作られることがある。また、当該の語形が外国語にない「ナイター」「パネラー」(パネリストの意)「プレゼンテーター」(プレゼンテーションをする人。プレゼンター)などの語形が作られることもある。これらを総称して「和製洋語」、英語系の語を特に「和製英語」と言う。

単純語と複合語[編集]

日本語の語彙は、語構成の面からは単純語と複合語に分けることができる。単純語は、「あたま」「かお」「うえ」「した」「いぬ」「ねこ」のように、それ以上分けられない語である。複合語は、「あたまかず」「かおなじみ」「うわくちびる」「いぬずき」のように、いくつかの単純語が合わさってできていると意識される語である。「語種」の節で触れた混種語、すなわち、「プロ野球」「草野球」「日本シリーズ」のように複数の語種が合わさった語は、語構成の面からはすべて複合語ということになる。

日本語では、限りなく長い複合語を作ることが可能である。「平成十六年新潟県中越地震非常災害対策本部」といった類も、ひとつの長い複合語である。国際協定のGATTは、英語名は "General Agreement on Tariffs and Trade"(関税と貿易に関する一般協定)であり、ひとつの句であるが、日本の新聞では「関税貿易一般協定」と複合語で表現することがある。これは漢字の結合力によるところが大きく、中国語朝鮮語などでも同様の長い複合語を作る。

接辞は、複合語を作るために威力を発揮する。たとえば、「感」は、「音感」「語感」「距離感」「不安感」など漢字2字・3字からなる複合語のみならず、「透け感」「懐かし感」「しゃきっと感」「きちんと感」など動詞・形容詞・副詞との複合語を作り、さらには「『昔の名前で出ています』感」(=昔の名前で出ているという感じ)のように文であったものに下接して長い複合語を作ることもある。

日本語の複合語は、難しい語でも、表記を見れば意味が分かる場合が多い。たとえば、英語の "apivorous" は生物学者にしか分からないのに対し、日本語の「蜂食性」は「蜂を食べる性質」であると推測できる[71]。これは表記に漢字を用いる言語の特徴である。

語の言い換え[編集]

語の中には、いったん使われ始めた後に、意識的に言い換えられるものがある。学術の分野では、語の言い換えは特に自覚的に行われる。江戸時代にオランダ語から訳された「窮理学」「舎密(せいみ)」は、幕末にそれぞれ「科学」「化学」と言い換えられた[72]。現代でも、不適切な用語を言い換える場合(例、「蒙古症」→「ダウン症」)、定義と矛盾する用語を言い換える場合(例、「大和朝廷」→「ヤマト王権」)などがある。その一方で、「広汎性発達障害」という学術的に適切な語があるにもかかわらず、「自閉症」という誤解を招く表現が使われ続けているという例も存在する。また、「南朝鮮」のように、政治的に現在では意図的に使われなくなった語も存在する。

言語の自立性を保とうとする目的で、使用する外来語を制限したり、一度入った外来語を言い換える動きもしばしばみられる。江戸時代の国学者は、漢語を極力排除し、古来の大和言葉を主とした擬古文を記した。たとえば、本居宣長は、「漢籍」を「からぶみ」、「写本」を「写し本(マキ)」、「国学」を「皇国(みくに)のまなび」などと言い換えている(例はいずれも『玉勝間』による)。現代でも、国立国語研究所2003年から2006年にかけて、一般になじみの薄い外来語を日本語に置き換える目的で「外来語」言い換え提案を行った。

近年では、ポリティカルコレクトネスが盛んに提議され、「看護婦」→「看護師」など、より中立的な語に言い換えたり、放送上不適切と考えられる用語を禁止用語として自粛したりする例が増えてきている。このような議論の前提に「ことばが我々の思想に影響を及ぼす」という考え方があるとも指摘される[73]。言い換えや使用自粛が行き過ぎた場合には、言葉狩りとして問題視されることもある。

表記[編集]

詳細は 日本語の表記体系 を参照

現代の日本語は、漢字平仮名片仮名を用いて、常用漢字現代仮名遣いに基づいて表記されることが一般的である。アラビア数字ローマ字(ラテン文字)なども必要に応じて併用される。漢字の読み方には中国式の読み方である音読みと、大和言葉の読み方をあてた訓読みが存在し、習慣によって使い分けている。厳密な正書法はなく、正書法の必要性を説く主張[74]や、その反論[75]がしばしば交わされた。

仮名の体系は文化的中心地の言葉を書き表すために発達してきた。したがって、他の方言の音韻体系を記すためには、仮名は必ずしも適していない。

字種[編集]

平仮名・片仮名は、現在以下の46字ずつが使われる。

平仮名   あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよ らりるれろ わを ん
片仮名   アイウエオ カキクケコ サシスセソ タチツテト ナニヌネノ ハヒフヘホ マミムメモ ヤユヨ ラリルレロ ワヲ ン

このうち、「゛」(濁音符)および「゜」(半濁音符)をつけて濁音・半濁音を表す仮名もある(「音韻」の節参照)。拗音は小書きの「ゃ」「ゅ」「ょ」を添えて表し、促音は小書きの「っ」で表す。「つぁ」「ファ」のように、小書きの「ぁ」「ぃ」「ぅ」「ぇ」「ぉ」を添えて表す音もある。歴史的仮名遣いでは、上記のほか、平仮名「」「」および片仮名「ヰ」「ヱ」の字が存在した。補助符号として長音を表す「ー」がある。

漢字は、常用漢字として1945字、うち教育漢字として1006字が定められているが、一般社会では、人名用漢字など、これ以外の漢字を含めて2000~3000字ほどが使われている。中国現代漢語常用字表では、「常用字」として2500字、「次常用字」として1000字が定められており、日中で日常使われる漢字の字数にそれほど大きな隔たりはないといえる。

一般的な文章では、上記の漢字・平仮名・片仮名を交えて記すほか、アラビア数字・ローマ字なども必要に応じて併用する。基本的には、漢語には漢字を、和語のうち概念を表す部分(名詞や用言語幹など)には漢字を、形式的要素(助詞・助動詞など)や副詞・接続詞の一部には平仮名を、外来語(漢語以外)には片仮名を用いる場合が多い。公的な文書では特に表記法を規定している場合もあり[76]、民間でもこれにならうことがある。ただし、厳密な正書法はなく、表記のゆれは広く許容されている。花の名を

  • さくら/サクラ/桜

のいずれで書くこともあり、文章の種類や目的によって、

  • きょうはりんごがたべたい/きょうはリンゴが食べたい/今日は林檎が食べたい

などの表記がありうる。

多様な文字体系を交えて記す利点として、単語のまとまりが把握しやすく、速読性に優れるなどの点が指摘される。日本語の単純な音節構造に由来する同音異義語が漢字によって区別され、かつ字数も節約されるという利点もある。歴史上、漢字を廃止して、仮名またはローマ字を国字化しようという主張もあったが、ひろく実行されることはなかった[77](「国語国字問題」参照)。今日では漢字・平仮名・片仮名の交ぜ書きが標準的表記の地位をえている。

方言と表記[編集]

日本語の表記体系は中央語を書き表すために発達したものであり、方言の音韻を表記するためには必ずしも適していない。たとえば、東北地方では「柿」を kagɨ1 kagɨ [kagɨ] 、「鍵」を kãŋɨ1 kãŋɨ [kãŋɨ] のように発音するが[78]、この両語を通常の仮名では書き分けられない(アクセント辞典などで用いる表記によって近似的に記せば、「カギ」と「カキ゜」のようになる)。もっとも、方言は書き言葉として用いられることが少ないため、実際上に不便を来すことは少ない。

岩手県気仙方言(ケセン語)について、山浦玄嗣により、文法形式を踏まえた正書法が試みられているというような例もある[79]。ただし、これは実用のためのものというよりは、学術的な試みのひとつである。

琉球語(「系統」参照)の表記体系も日本語のそれを準用している。たとえば、琉歌「てんさごの花」(てぃんさぐぬ花)は、伝統的な表記法では次のように記す。

てんさごの花や 爪先に染めて 親の寄せごとや 肝に染めれ[80]

この表記法では、たとえば、琉球語の2種の母音(u1 u [u] ʔu1 ʔu [ʔu] など)は書き分けられない。表音的に記せば、tiɴʃagunu hanaja ʦimiʣaʧiɲi sumiti, ʔujanu juʃigutuja ʧmuɲi sumiri1 tiɴʃagunu hanaja ʦimiʣaʧiɲi sumiti, ʔujanu juʃigutuja ʧmuɲi sumiri [tiɴʃagunu hanaja ʦimiʣaʧiɲi sumiti, ʔujanu juʃigutuja ʧmuɲi sumiri] のようになるところである[81]

漢字表記の面では、地域文字というべきものが各地に存在する。たとえば、名古屋市の地名「杁中(いりなか)」などに使われる「杁」は、名古屋と関係ある地域の「地域文字」である。また、「垰」は「たお」「たわ」などと読まれる国字で、中国地方ほかで定着しているという[82]

文体[編集]

文は、目的や場面などに応じて、さまざまな異なった様式をとる。この様式のことを、書き言葉(文章)では「文体」と称し、話し言葉(談話)では「話体」[83]と称する。

日本語では、とりわけ文末の助動詞・助詞などに文体差が顕著に表れる。このことは、「ですます体」「でございます体」「だ体」「である体」「ありんす言葉」(江戸・新吉原の遊女の言葉)「てよだわ言葉」(明治中期から流行した若い女性の言葉)などの名称に典型的に表れている。それぞれの文体・話体の差は大きいが、日本語話者は、複数の文体・話体を常に切り替えながら使用している。

なお、「文体」の用語は、書かれた文章だけではなく談話についても適用されるため[84]、以下では「文体」に「話体」も含めて述べる。また、文語文・口語文などについては「文体史」の節に譲る。

普通体・丁寧体[編集]

日本語の文体は、大きく普通体(常体)および丁寧体(敬体)の2種類に分かれる。日本語話者は日常生活で両文体を適宜使い分ける。日本語学習者は、初めに丁寧体を、次に普通体を順次学習することが一般的である。普通体は相手を意識しないかのような文体であるため独語体と称し、丁寧体は相手を意識する文体であるため対話体と称することもある[85]

普通体と丁寧体の違いは次のように現れる。

普通体   丁寧体
もうすぐ春(春である)。   もうすぐ春です。   (名詞文)
ここは静か(静かである)。   ここは静かです。   (形容動詞文)
野山の花が美しい。   (野山の花が美しいです。)   (形容詞文)
鳥が空を飛ぶ。   鳥が空を飛びます。   (動詞文)

普通体では、文末に名詞・形容動詞・副詞などが来る場合には、「だ」または「である」をつけた形で結ぶ。前者を特に「だ体」、後者を特に「である体」と呼ぶこともある。

丁寧体では、文末に名詞・形容動詞・副詞などが来る場合には、助動詞「です」をつけた形で結ぶ。また、形容詞が来る場合にも「です」をつけることができるが、そのような文型は避けられる傾向がある(「花が美しいです」を避けて「花が美しく咲いています」と動詞で結ぶなど)。一方、動詞が来る場合には「ます」をつけた形で結ぶ。ここから、丁寧体を「ですます体」と呼ぶこともある。丁寧の度合いをより強め、「です」の代わりに「でございます」を用いた文体を、特に「でございます体」と呼ぶこともある。丁寧体は、敬語の面から言えば丁寧語を用いた文体ということになる。

文体の位相差[編集]

談話の文体(話体)は、話し手の性別・年齢・職業など、位相の違いによって左右される部分が大きい。「私は食事をしてきました」という丁寧体は、話し手の属性によって、たとえば、次のような変容がある。

  • ぼく、ごはん食べてきたよ。(男性のくだけた文体)
  • おれ、めし食ってきたぜ。(男性のやや乱暴な文体)
  • あたし、ごはん食べてきたの。(女性のくだけた文体)
  • わたくし、食事をしてまいりました。(成人の改まった文体)

このように異なる言葉遣いのそれぞれを位相語と言い、それぞれの差を位相差という。

物語の書き手などが、仮想的(バーチャル)な位相を意図的に作り出す場合もある。このような言葉遣いを「役割語」と称することがある[86]。たとえば、以下の「博士ふう」「お嬢様ふう」「田舎者ふう」は、必ずしも、実際の科学者や令嬢、地方出身者などが用いている文体ではないが、仮想的にそれらしい感じを与える文体である。

  • わしは、食事をしてきたのじゃ。(博士ふう)
  • あたくし、お食事をいただいてまいりましてよ。(お嬢様ふう)
  • おら、めし食ってきただよ。(田舎者ふう)

このような役割語は、小説・漫画・アニメ・テレビドラマなどに広く観察される。近代の文献にも、仮想的な文体と考えられる例が観察される(仮名垣魯文『西洋道中膝栗毛』に現れる外国人らしい言葉遣いなど)。

待遇表現[編集]

詳細は 待遇表現 を参照

日本語では、待遇表現が文法的・語彙的な体系を形作っている。とりわけ、相手に敬意を示す言葉(敬語)において顕著である。

「敬語は日本にしかない」と言われることがあるが、日本と同様に敬語が文法的・語彙的体系を形作っている言語としては朝鮮語・ジャワ語ベトナム語チベット語などがあり、尊敬・謙譲・丁寧の区別もある[87]。朝鮮語ではたとえば動詞「내다」(出す)は、敬語形「내시다」(出される)・「냅니다」(出します)の形を持つ。日本語の「お出しする」に相当する形はない。

敬語体系はなくとも、敬意を示す表現自体は、さまざまな言語に広く観察される。たとえば、英語では "Please help me." の "Please" や、"Would you marry me?" の "Would" などの語によって敬意を表している。相手を敬い、物を丁寧に言うことは、発達した社会ならばどこでも必要とされる。そうした言い方を習得することは、どの言語でも容易でない。

以下、日本語の敬語体系および敬意表現について述べる。

敬語体系[編集]

日本語の敬語体系は、一般に、大きく尊敬語謙譲語丁寧語に分類される。文化審議会国語分科会は、2007年2月に「敬語の指針」を答申し、これに丁重語および美化語を含めた5分類を示している[88]

尊敬語[編集]

尊敬語は、動作をする人物を高めることで、その人物への敬意を表す言い方である。動詞に「お(ご)~になる」をつけた形、また、助動詞「(ら)れる」をつけた形などが用いられる。たとえば、動詞「取る」の尊敬形として、「(先生が)お取りになる」「(先生が)取られる」などが用いられる。

語によっては、特定の尊敬語が対応するものもある。たとえば、「言う」の尊敬語は「おっしゃる」、「食べる」の尊敬語は「召し上がる」、「行く・来る・いる」の尊敬語は「いらっしゃる」である。

謙譲語[編集]

謙譲語は、動作をする人物を低めることで、結果的に動作を受ける人物への敬意を表す言い方である。動詞に「お~する」をつけた形などが用いられる。たとえば、「取る」の謙譲形として、「お取りする」などが用いられる。

語によっては、特定の謙譲語が対応するものもある。たとえば、「言う」の謙譲語は「申し上げる」、「食べる」の謙譲語は「いただく」、「(相手の所に)行く」の謙譲語は「伺う」「参上する」「まいる」である。

なお、「夜も更けてまいりました」の「まいり」など、謙譲表現のようでありながら、誰かを低めているわけではない表現がある。これは、「夜も更けてきた」という話題を丁重に表現することによって、聞き手への敬意を表すものである。宮地裕は、この表現に使われる語を、特に「丁重語」と称している[89] [90]。丁重語にはほかに「いたし(マス)」「申し(マス)」「存じ(マス)」「小生」「小社」「弊社」などがある。文化審議会の「敬語の指針」でも、「明日から海外へまいります」の「まいり」のように、相手とは関りのない自分側の動作を表現する言い方を丁重語としている。

丁寧語[編集]

丁寧語は、文末を丁寧にすることで、聞き手への敬意を表すものである。名詞・形容動詞語幹などに「です」をつけた形(「学生です」「きれいです」)や、動詞に「ます」をつけた形(「行きます」「分かりました」)が用いられる。丁寧語を用いた文体を、丁寧体(敬体)という。

一般に、目上の人には丁寧語を用い、同等・目下の人には丁寧語を用いないといわれる。しかし、実際の言語生活に照らして考えれば、これは事実ではない。母が子を叱るとき、「お母さんはもう知りませんよ」と丁寧語を用いることもある。丁寧語が現れるのは、敬意や謝意、または、逆に嫌悪感などを示すため、相手との間に心理的な距離をとろうとする場合であると考えるのが妥当である。

「お弁当」「ご飯」などの「お」「ご」も、広い意味では丁寧語に含まれるが、宮地裕は特に「美化語」と称して区別する[89] [90]。相手への丁寧の意を示すというよりは、話し手が自分の言葉遣いの品位に配慮する表現である。したがって、「お弁当食べようよ。」のように、丁寧体でない文でも美化語を用いることがある。文化審議会の「敬語の指針」でも「美化語」を設けている。

敬意表現[編集]

日本語で敬意を表現するためには、文法・語彙の敬語要素を知っているだけではなお不十分であり、時や場合など種々の要素に配慮した適切な表現が必要である。これを敬意表現(敬語表現)ということがある[91]

たとえば、「課長もコーヒーをお飲みになりたいですか」は、尊敬表現「お飲みになる」を用いているが、敬意表現としては適切でない。日本語では相手の意向を直接的に聞くことは失礼に当たるからである。「コーヒーはいかがですか」のように言うのが適切である。第22期国語審議会2000年)は、このような敬意表現の重要性を踏まえて、「現代社会における敬意表現」を答申した。

婉曲表現の一部は、敬意表現としても用いられる。たとえば、相手に窓を開けてほしい場合は、命令表現によらずに、「窓を開けてくれる?」などと問いかけ表現を用いる。あるいは、「今日は暑いねえ」とだけ言って、窓を開けてほしい気持ちを含意することもある。

日本人が商取引で「考えさせてもらいます」という場合は拒絶の意味であると言われる。また、京都では帰りがけの客にその気がないのに「ぶぶづけ(お茶漬け)でもあがっておいきやす」と愛想を言うとされる(出典は落語「京のぶぶづけ」「京の茶漬け」よるという[92])。これらは、相手の気分を害さないように工夫した表現という意味では、広義の敬意表現と呼ぶべきものであるが、その呼吸が分からない人との間に誤解を招くおそれもある。

方言[編集]

詳細は 日本語の方言 を参照

日本語には多様な方言がみられ、それらはいくつかの方言圏にまとめることができる。どのような方言圏を想定するかは、区画するために用いる指標によって少なからず異なる。

東西の方言差[編集]

一般に、方言差が話題になるときには、東西の差異が取り上げられることが多い。東部方言と西部方言との間には、およそ次のような違いがある。

まず、文法の面では、否定辞に東で「ナイ」、西で「ン」を用いる。完了形には、東で「テイル」を、西で「トル」を用いる。断定には、東で「ダ」を、西で「ジャ」または「ヤ」を用いる。アワ行五段活用動詞連用形は、東では「カッタ(買)」と促音便に、西では「コータ」とウ音便になる。形容詞連用形は、東では「ハヤク(ナル)」のように非音便形を用いるが、西では「ハヨー(ナル)」のようにウ音便形を用いるなどである。

音韻の面では、母音の「」を、東では非円唇母音(唇を丸めない)で、西では円唇母音で発音する。また、母音は、東で無声化しやすく、西では無声化しにくい。このほか、アクセントにおいても東西で顕著な対立がみられる(「アクセント」の節参照)。

方言の東西対立の境界は、画然と引けるものではなく、どの特徴を取り上げるかによって少なからず変わってくる。しかし、おおむね、日本海側は新潟県西端の糸魚川市、太平洋側は静岡県浜名湖が境界線(糸魚川・浜名湖線)とされることが多い。糸魚川西方には難所親不知があり、その南には日本アルプスが連なって東西の交通を妨げていたことが、東西方言を形成した一因とみられる。

方言区画[編集]

細かくみれば、方言はさらに下位分類される。東条操は、全国で話されている言葉を大きく東部方言・西部方言・九州方言および琉球方言に分けている[93]。また、それらは以下のように細分される。すなわち、北海道東北関東八丈島東海東山北陸近畿中国雲伯(出雲・伯耆)・四国豊日(豊前・豊後・日向)・肥筑(筑紫・肥前・肥後)・薩隅(薩摩・大隅)・奄美大島・沖縄・先島の諸区画である。これらの分類は、今日でもなお一般的に用いられる。このうち、奄美大島・沖縄・先島の言葉は、独立言語として琉球語とする立場と、日本語の一方言(琉球方言)とする立場とがある。

また、金田一春彦は、近畿・四国を主とする内輪方言、関東・北陸・中国・九州北部の一部を主とする中輪方言、北海道・東北・九州の大部分を主とする外輪方言、沖縄地方を主とする南東方言に分類した[94]。この分類は、アクセント型の特徴が畿内を中心に輪を描くことに着目したものである。このほか、幾人かの研究者により方言区画案が示されている。

ひとつの方言区画の内部も変化に富んでいる。たとえば、奈良県は近畿方言の地域に属するが、吉野郡天川村洞川(どろがわ)ではその地域だけ東京式アクセントが使われる。香川県観音寺市伊吹町(伊吹島)では、平安時代のアクセント体系が残存しているといわれる[95](異説もある[96])。これらは特に顕著な特徴を示す例であるが、どのような狭い地域にも、その土地としての言葉の体系がある。したがって、「どの地点のことばも、等しく記録に価する[97]」ものである。

歴史[編集]

音韻史[編集]

母音・子音[編集]

母音は、奈良時代以前には8母音であったとする説が有力である。このことは、橋本進吉が再発見した上代特殊仮名遣いの実態から推測される[98]記紀や『万葉集』などの万葉仮名の表記を調べると、「き・ひ・み・け・へ・め・こ・そ・と・の・も・よ・ろ」の表記に2種類の仮名(甲類・乙類)が存在する(「も」は『古事記』のみで区別される)。橋本は、これが音韻の区別を表すものであることを指摘した。8母音の区別は平安時代にはなくなり、現在のように5母音になったとみられる。なお、上代日本語の語彙では、母音の出現のしかたがウラル語族アルタイ語族母音調和の法則に類似しているとされる[13]

は行」の子音は、奈良時代以前には p1 p [p] であったとみられる[99]。すなわち、「はな(花)」は pana1 pana [pana] (パナ)のように発音された可能性がある。p1 p [p] は遅くとも平安時代初期には無声両唇摩擦音 ɸ1 ɸ [ɸ] に変化していた[100]。すなわち、「はな」は ɸana1 ɸana [ɸana] (ファナ)となっていた。中世末期に、ローマ字で当時の日本語を記述したキリシタン資料が多く残されているが、そこでは「は行」の文字が「fa, fi, fu, fe, fo」で転写されており、当時の「は行」は「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」に近い発音であったことが分かる。中世末期から江戸時代にかけて、「は行」の子音は「」を除いて ɸ1 ɸ [ɸ] から h1 h [h] へと代わった(厳密には「」は çi1 çi [çi] [101]。現代でも引き続きこのように発音されている。

このように、「は行」子音はおおむね p1 p [p] ɸ1 ɸ [ɸ] h1 h [h] 唇音が衰退する方向で推移した。唇音の衰退する例は、ハ行転呼の現象(「は行」→「わ行」すなわち ɸ1 ɸ [ɸ] w1 w [w] の変化)にもみられる。また、関西で「う」を唇を丸めて発音する(円唇母音)のに対し、関東では唇を丸めずに発音するが、これも唇音の衰退の例ととらえることができる。

や行」の「え」(je1 je [je] )の音が古代に存在したことは、「あ行」の「え」の仮名と別の文字で書き分けられていたことから明らかである。古い手習い歌の「あめつちの歌」にも「あ行」「や行」の区別がある。この区別は10世紀頃にはなくなったとみられ、970年の『口遊』に残る「たゐにの歌」では両者の区別はない。この頃には「あ行」「や行」の「え」の発音はともに je1 je [je] になっていた(次節参照)。

「が行」の子音は、語中・語尾ではいわゆる鼻濁音(ガ行鼻音)の ŋ1 ŋ [ŋ] であった。鼻濁音は、近代に入って急速に勢力を失い、語頭と同じ破裂音ɡ1 ɡ [ɡ] または摩擦音ɣ1 ɣ [ɣ] に取って代わられつつある。今日、鼻濁音を表記する時は、「か行」の文字に半濁点を付して「カカ゜ミ(鏡)」のように書くこともある。

」「」の四つ仮名は、キリシタン資料ではそれぞれ「ji・gi」「zu・zzu」など異なるローマ字で表されており、古くは別々の音価をもっていたことが分かる。「・ぜ」は「xe・je」で表記されており、現在の「シェ・ジェ」であったことも分かっている。江戸時代には四つ仮名の区別がほとんど失われ(今も区別している方言もある[26])、「せ・ぜ」は、もともと関東音であった se1 se [se] ze1 ze [ze] が標準音となった。

ハ行転呼[編集]

平安時代以降、語中・語尾の「は行」音が「わ行」音に変化するハ行転呼が起こった。たとえば、「かは(川)」「かひ(貝)」「かふ(買)」「かへ(替)」「かほ(顔)」は、それまで「カファ」「カフィ」「カフ」「カフェ」「カフォ」のようであったものが、「カワ」「カウィ」「カウ」「カウェ」「カウォ」のようになった。「はは(母)」も、キリシタン資料では「faua」(ハワ)と記された例があるなど、他の語と同様にハ行転呼が起こっていたことが知られる。

平安時代末頃には、

  1. 「い」と「」(および語中・語尾の「ひ」)
  2. 「え」と「」(および語中・語尾の「へ」)
  3. 「お」と「を」(および語中・語尾の「ほ」)

が同一に帰した。藤原定家の『下官集』(13世紀)では「お」・「を」、「い」・「ゐ」・「ひ」、「え」・「ゑ」・「へ」の仮名の書き分けが問題になっている。

当時の発音は、1は現在の i1 i [i] (イ)、2は je1 je [je] (イェ)、3は wo1 wo [wo] (ウォ)のようであった。

3が現在のように o1 o [o] (オ)になったのは江戸時代であったとみられる。18世紀の『音曲玉淵集』では、「お」「を」を「ウォ」と発音しないように説いている。

2が現在のように e1 e [e] (エ)になったのは、新井白石『東雅』総論の記述からすれば早くとも元禄享保頃(17世紀末から18世紀初頭)以降[102]、『謳曲英華抄』の記述からすれば18世紀中葉頃とみられる[103]

音便現象[編集]

平安時代から、発音を簡便にするために単語の音を変える音便現象が少しずつ見られるようになった。「次(つ)ぎて」を「次いで」とするなどのイ音便、「詳(くは)しくす」を「詳しうす」とするなどのウ音便、「発(た)ちて」を「発って」とするなどの促音便、「飛びて」を「飛んで」とするなどの撥音便が現れた。『源氏物語』にも、「いみじく」を「いみじう」とするなどのウ音便が多く、また、少数ながら「苦しき」を「苦しい」とするなどのイ音便の例も見出される[104]鎌倉時代以降になると、音便は口語では盛んに用いられるようになった。

中世には、「差して」を「差いて」、「挟みて」を「挟うで」、「及びて」を「及うで」などのように、今の共通語にはない音便形も見られた。これらの形は、今日でも各地に残っている。

連音上の現象[編集]

鎌倉時代室町時代には連声(れんじょう)の傾向が盛んになった。撥音または促音の次に来た母音・半母音が「な行」音・「ま行」音・「た行」音に変わる現象で、たとえば、銀杏は「ギン」+「アン」で「ギンナン」、雪隠は「セッ」+「イン」で「セッチン」となる。助詞「は」(ワ)と前の部分とが連声を起こすと、「人間は」→「ニンゲンナ」、「今日は」→「コンニッタ」となった。

また、この時代には、「中央」の「央」など「アウ」の音が合して長母音 ɔː1 ɔː [ɔː] になり、「応対」の「応」など「オウ」の音が oː1 [oː] になった(「カウ」「コウ」など頭子音が付いた場合も同様)。前者は、口をやや開ける開音と称され、後者は、口をすぼめる合音と称された。この「開合」の区別は次第に乱れ、江戸時代には合一して今日の oː1 [oː] (オー)になった。方言によっては今も開合の区別が残っている[26]

外来の音韻[編集]

漢語が日本で用いられるようになると、古来の日本になかった合拗音「クヮ・グヮ」の音が発音されるようになった。「キクヮイ(奇怪)」「ホングヮン(本願)」のごとくである。当初は外来音の意識が強かったが、平安時代以降は普段の日本語に用いられるようになったとみられる[105]。これらは、一部方言を除き[26]、江戸時代には直音「カ・ガ」に統合された。

近代以降には、外国語(特に英語)の音の影響で新しい音が使われはじめた。比較的一般化した「シェ・チェ・ツァ・ツェ・ツォ・ティ・ファ・フィ・フェ・フォ・ジェ・ディ・デュ」などの音に加え、場合によっては、「イェ・ウィ・ウェ・ウォ・クァ・クィ・クェ・クォ・ツィ・トゥ・グァ・ドゥ・テュ・フュ」などの音も使われる[106]。これらは、子音・母音のそれぞれをとってみれば、従来の日本語にあったものである。「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ・ヴュ」のように、これまでなかった音は、書き言葉では書き分けても、実際に発音されることは少ない。

文法史[編集]

活用の変化[編集]

動詞の活用種類は、平安時代には9種類であった。すなわち、四段上一段上二段下一段下二段カ変サ変ナ変ラ変に分かれていた。これが時代とともに統合され、江戸時代には5種類に減った。上二段は上一段に、下二段は下一段にそれぞれ統合され、ナ変(「死ぬ」など)・ラ変(「有り」など)は四段に統合された。これらの変化は、古代から中世にかけて個別的に起こった例もあるが、顕著になったのは江戸時代に入ってからのことである。ただし、ナ変は近代に入ってもなお使用されることがあった。

このうち、最も規模の大きな変化は二段活用の一段化である。二段→一段の統合は、室町時代末期の京阪地方では、まだまれであった(関東では比較的早く完了した)。それでも、江戸時代前期には京阪でも見られるようになり、後期には一般化した[107]。すなわち、今日の「起きる」は、平安時代には「き・き・く・くる・くれ・きよ」のように「き・く」の2段に活用したが、江戸時代には「き・き・きる・きる・きれ・きよ(きろ)」のように「き」の1段だけで活用するようになった。また、今日の「明ける」は、平安時代には「け・く」の2段に活用したが、江戸時代には「け」の1段だけで活用するようになった。しかも、この変化の過程では、終止・連体形の合一が起こっているため、鎌倉室町時代頃には、前後の時代とは異なった活用のしかたになっている。次に時代ごとの活用を対照した表を掲げる。

現代の語形 時代 語幹 未然 連用 終止 連体 已然 命令
起きる 平安 くる くれ きよ
室町 くる くる くれ きよ
江戸 きる きる きれ きよ(きろ)
明ける 平安 くる くれ けよ
室町 くる くる くれ けよ
江戸 ける ける けれ けよ(けろ)
死ぬ 平安 ぬる ぬれ
室町

近代
ぬる ぬる ぬれ
有る 平安
室町
江戸

形容詞は、平安時代には「く・く・し・き・けれ(から・かり・かる・かれ)」のように活用したク活用と、「しく・しく・し・しき・しけれ(しから・しかり・しかる・しかれ)」のシク活用が存在した。この区別は、終止・連体形の合一とともに消滅し、形容詞の活用種類はひとつになった。

今日では、文法用語の上で、四段活用が五段活用(実質的には同じ)と称され、已然形が仮定形と称されるようになったものの、活用の種類および活用形は基本的に江戸時代と同様である。

係り結びとその崩壊[編集]

かつての日本語には、係り結びと称される文法規則があった。文中の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、かつまた、文末を連体形(「ぞ」「なむ」「や」「か」の場合)または已然形(「こそ」の場合)で結ぶものである(奈良時代には、「こそ」も連体形で結んだ)。

係り結びをどう用いるかによって、文全体の意味に明確な違いが出た。たとえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」という文において、「冬」という語を「ぞ」で受けると、「山里は冬寂しさ増さりける」(『古今集』)という形になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」と告知する文になる。また仮に、「山里」を「ぞ」で受けると、「山里冬は寂しさ増さりける」という形になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」と告知する文になる。

ところが、中世には、「ぞ」「こそ」などの係助詞は次第に形式化の度合いを強め、単に上の語を強調する意味しか持たなくなった。そうなると、係助詞を使っても、文末を連体形または已然形で結ばない例も見られるようになる。また、逆に、係助詞を使わないのに、文末が連体形で結ばれる例も多くなってくる。こうして、係り結びは次第に崩壊していった。

今日の口語文には、規則的な係り結びは存在しない。ただし、「貧乏でこそあれ、彼は辛抱強い」「進む道こそ違え、考え方は同じ」のような形で化石的に残っている。

終止・連体形の合一[編集]

活用語のうち、四段活用以外の動詞・形容詞・形容動詞および多くの助動詞は、平安時代には、終止形連体形とが異なる形態をとっていた。たとえば、動詞は「対面す。」(終止形)と「対面する(とき)」(連体形)のようであった。ところが、係り結びの形式化とともに、上に係助詞がないのに文末を連体形止め(「対面する。」)にする例が多くみられるようになった。たとえば、『源氏物語』には、

すこし立ち出でつつ見わたしたまへば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる。(若紫巻)[108]

などの言い方があるが、本来ならば「見おろさる」の形で終止すべきものである。

このような例は、中世には一般化した。その結果、動詞・形容詞および助動詞は、形態上、連体形と終止形との区別がなくなった。

形容動詞は、終止形・連体形活用語尾がともに「なる」になり、さらに語形変化を起こして「な」となった。たとえば、「辛労なり」は、終止形・連体形とも「辛労な」となった。もっとも、終止形には、むしろ「にてある」から来た「ぢや」が用いられることが普通であった。したがって、終止形は「辛労ぢや」、連体形は「辛労な」のようになった。「ぢや」は主として上方で用いられ、東国では「だ」が用いられた。今日の共通語も東国語の系統を引いており、終止形語尾は「だ」、連体形語尾は「な」となっている。このことは、用言の活用に連体形・終止形の両形を区別すべき根拠のひとつとなっている。

文語の終止形が化石的に残っている場合もある。文語の助動詞「たり」「なり」の終止形は、今日でも並立助詞として残り、「行ったり来たり」「大なり小なり」といった形で使われている。

可能動詞[編集]

今日、「漢字が書ける」「酒が飲める」などと用いる、いわゆる可能動詞は、室町時代には発生していた。この時期には、「読む」から「読むる」(=読むことができる)が、「持つ」から「持つる」(=持つことができる)が作られるなど、四段活用の動詞を元にして、可能を表す下二段活用の動詞が作られ始めた。これらの動詞は、やがて一段化して、「読める」「持てる」のような語形で用いられるようになった[109]。これらの可能動詞は、江戸時代前期の上方でも用いられ、後期の江戸ではふつうに使われるようになった[110]

従来の日本語にも、「(刀を)抜く時」に対して「(刀が自然に)抜くる時(抜ける時)」のように、四段動詞の「抜く」と下二段動詞の「抜く」(抜ける)とが対応する例は多く存在した。この場合、後者は、「自然にそうなる」という自然生起(自発)を表した。そこから類推した結果、「文字を読む」に対して「文字が読むる(読める)」などの可能動詞ができあがったものと考えられる。

近代以降、とりわけ大正時代以降には、この語法を四段動詞のみならず一段動詞にも及ぼす、いわゆる「ら抜き言葉」が広がり始めた[111]。「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居(い)れる」という類である。この語法は、地方によっては早く一般化し、第二次世界大戦後には全国的に顕著になっている。

受け身表現[編集]

受け身の表現において、人物以外が主語になる例は、近代以前には乏しい。もともと、日本語の受け身表現は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の用法の一種であった[112]。したがって、物が受け身表現の主語になることはほとんどなかった。『枕草子』の「にくきもの」に

すずりに髪の入りてすられたる。(すずりに髪が入ってすられている)[113]

とある例などは、受け身表現と解することもできるが、むしろ自然の状態を観察して述べたものというべきものである。一方、「この橋は多くの人々によって造られた」「源氏物語は紫式部によって書かれた」のような言い方は、古くは存在しなかったとみられる。これらの受け身は、状態を表すものではなく、事物が人から働き掛けを受けたことを表すものである。

「この橋は多くの人々によって造られた」式の受け身は、英語などの欧文脈を取り入れる中で広く用いられるようになったと見られる[114]。明治時代には

民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。(伊藤左千夫野菊の墓1906年

のような欧文風の受け身が用いられている。

語彙史[編集]

漢語の勢力拡大[編集]

漢語(中国語の語彙)が日本語の中に入り始めたのはかなり古く、文献以前の時代にさかのぼると考えられる。今日和語と扱われる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども、もともとは漢語からの借用語であった可能性がある[10]。日本で本格的に漢字・漢語が使用され始めた時期は、『古事記応神天皇条の、王仁が『論語』『千字文』をもたらしたという記述に従えば、4~5世紀の頃である。

当初、漢語は一部の識字層に用いられ、それ以外の大多数の日本人は和語(大和言葉)を使うという状況であったと推測される。しかし、中国の文物・思想の流入や仏教の普及などにつれて、漢語は徐々に一般の日本語に取り入れられていった。鎌倉時代最末期の『徒然草』では、漢語および混種語(漢語と和語の混交)は、異なり語数で全体の31%を占めるに至っている。ただし、述べ語数では13%に過ぎず、語彙の大多数は和語が占める[115]。幕末の英和辞典『和英語林集成』の見出し語でも、漢語はなお25%ほどに止まっている[116]

漢語が再び勢力を伸張したのは幕末から明治時代にかけてである。「電信」「鉄道」「政党」「主義」「哲学」その他、西洋の文物を漢語により翻訳した(新漢語。古典中国語にない語を特に和製漢語という)。幕末の『都鄙新聞』の記事によれば、京都祇園の芸者も漢語を好み、「霖雨ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因循シテヰル」(長雨で池があふれて金魚がどこかへ行った、火鉢の火がなかなかつかない)などと言っていたという[117]二葉亭四迷の『浮雲』の中では、お勢という女学生が

私の言葉には漢語が雑ざるから全然何を言ッたのだか解りませんて……

と、漢語の理解できない下女を見下す様子が描かれている。

漢語の勢力は今日まで拡大を続けている。雑誌調査では、述べ語数・異なり語数ともに和語を上回り、全体の半数近くに及ぶまでになっている[118] [119](「語種」参照)。

外来語の勢力拡大[編集]

漢語を除き、他言語の語彙を借用することは、古代にはそれほど多くなかった。このうち、梵語の語彙は、多く漢語に取り入れられた後に、仏教と共に日本に伝えられた。「娑婆」「檀那」「曼荼羅」などがその例である。また、今日では和語と扱われる「ほとけ()」「かわら()」なども梵語由来であるとされる[120]

西洋語が輸入されはじめたのは、中世にキリシタン宣教師が来日した時期以降である。室町時代には、ポルトガル語から「カステラ」「コンペイトウ」「サラサ」「ジュバン」「タバコ」「バテレン」「ビロード」などの語が取り入れられた。「メリヤス」など一部スペイン語も用いられた。江戸時代にも、「カッパ(合羽)」「カルタ」「チョッキ」「パン」「ボタン」などのポルトガル語、「エニシダ」などのスペイン語が用いられるようになった。

また、江戸時代には、蘭学などの興隆とともに、「アルコール」「エレキ」「ガラス」「コーヒー」「ソーダ」「ドンタク」などのオランダ語が伝えられた[121]

幕末から明治時代以後には、英語を中心とする外来語が急増した。「ステンション(駅)」「テレガラフ(電信)」など、今日ではふつう使われない語で、当時一般に使われていたものもあった。坪内逍遥『当世書生気質』(1885) には書生のせりふの中に「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急いて行きよつたら、大丈夫ぢゃらう」「想ふに又貸とは遁辞(プレテキスト)で、七(セブン)〔=質屋〕へ典(ポウン)した歟(か)、売(セル)したに相違ない」などという英語が多く出てくる。このような語のうち、日本語として定着した語も多い。

第二次世界大戦が激しくなるにつれて、外来語を禁止または自粛する風潮も起こったが、戦後はアメリカ発の外来語が爆発的に多くなった。現在では、報道交通機関・通信技術の発達により、新しい外来語が瞬時に広まる状況が生まれている。雑誌調査では、異なり語数で外来語が30%を超えるという結果が出ており[119]、現代語彙の中で欠くことのできない存在となっている(「語種」参照)。

語彙の増加と品詞[編集]

漢語が日本語に取り入れられた結果、名詞・サ変動詞・形容動詞の語彙が特に増大することになった。漢語は活用しない語であり、本質的には体言(名詞)として取り入れられたが[122]、「す」をつければサ変動詞(例、祈念す)、「なり」をつければ形容動詞(例、神妙なり)として用いることができた。

漢語により、厳密な概念を簡潔に表現することが可能になった。一般に、和語は一語が広い意味で使われる[123]。たとえば、「とる」という動詞は、「資格をとる」「栄養をとる」「血液をとる」「新人をとる」「映画をとる」のように用いられる。ところが、漢語を用いて、「取得する(取得す)」「摂取する」「採取する」「採用する」「撮影する」などと、さまざまなサ変動詞で区別して表現することができるようになった。また、日本語の「きよい(きよし)」という形容詞は意味が広いが、漢語を用いて、「清潔だ(清潔なり)」「清浄だ」「清澄だ」「清冽だ」「清純だ」などの形容動詞によって厳密に表現することができるようになった[124]

外来語は、漢語ほど高い造語力を持たないものの、漢語と同様に、特に名詞・サ変動詞・形容動詞の部分で日本語の語彙を豊富にした。「インキ」「バケツ」「テーブル」など名詞として用いられるほか、「する」をつけて「スケッチする」「サービスする」などのサ変動詞として、また、「だ」をつけて「ロマンチックだ」「センチメンタルだ」などの形容動詞として用いられるようになった。

漢語・外来語の増加によって、形容詞と形容動詞の勢力が逆転した。元来、和語には形容詞・形容動詞ともに少なかったが、数の上では、形容詞が形容表現の中心であり、形容動詞がそれを補う形であった。『万葉集』では名詞59.7%、動詞31.5%、形容詞3.3%、形容動詞0.5%であり、『源氏物語』でも名詞42.5%、動詞44.6%、形容詞5.3%、形容動詞5.1%であった(いずれも異なり語数)[115]。ところが、漢語・外来語を語幹とした形容動詞が漸増したため、現代語では形容動詞が形容詞を上回るに至っている(「品詞ごとの語彙量」の節参照)。ただし、一方で漢語・外来語に由来する名詞・サ変動詞なども増えているため、語彙全体から見ればなお形容詞・形容動詞の割合は少ない。

形容詞の造語力は今日ではほとんど失われており、近代以降のみ確例のある新しい形容詞は「甘酸っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」などわずかにすぎない[125]。一方、形容動詞は今日に至るまで高い造語力を保っている。特に、「科学的だ」「人間的だ」など接尾語「的」を付けた語の大多数や、「エレガントだ」「クリーンだ」など外来語に由来するものは近代以降の新語である。しかも、新しい形容動詞の多くは漢語・外来語を語幹とするものである。現代雑誌の調査によれば、形容動詞で語種のはっきりしているもののうち、和語は2割ほどであり、漢語は3割強、外来語は4割強という状況である[119]

表記史[編集]

仮名の誕生[編集]

元来、日本に文字と呼べるものはなく、言葉を表記するためには中国渡来の漢字を用いた(いわゆる神代文字は後世の偽作とされている[126])。漢字の記された遺物の例としては、1世紀のものとされる福岡市出土の「漢委奴国王印」などもあるが、本格的に使用されたのはより後年とみられる。『古事記』によれば、応神天皇の時代に百済の学者王仁が「論語十巻、千字文一巻」を携えて来日したとある。稲荷山古墳出土の鉄剣銘(5世紀)には、雄略天皇と目される人名を含む漢字が刻まれている。「隅田八幡神社鏡銘」(6世紀)は純漢文で記されている。このような史料から、大和政権の勢力伸長とともに漢字使用域も拡大されたことが推測される。

漢字で和歌などの大和言葉を記す際、「波都波流能(はつはるの)」のように日本語の一音一音を漢字の音(または訓)を借りて写すことがあった。この表記方式を用いた資料の代表が『万葉集』(8世紀)であるため、この表記のことを「万葉仮名」という(すでに7世紀中頃の木簡に例が見られる[127])。漢字の音を借りて固有語を表記する方法は、かつての朝鮮の吏読にも見られた。

9世紀には万葉仮名の字体をより崩した「草仮名」が生まれ(『讃岐国戸籍帳』の「藤原有年申文」など)、さらに、草仮名をより崩した平仮名の誕生をみるに至った。これによって、はじめて日本語を自由に記すことが可能になった。平仮名を自在に操った王朝文学は、10世紀初頭の『古今和歌集』などに始まり、11世紀の『源氏物語』などの物語作品群で頂点を迎えた。

僧侶や学者らが漢文を訓読する際には、漢字の隅に点を打ち、その位置によって「て」「に」「を」「は」などの助詞その他を表すことがあった(ヲコト点)。しかし、次第に万葉仮名を添えて助詞などを示すことが一般化した。やがて、それらは、字画の省かれた簡略な片仮名になった。

平仮名も、片仮名も、発生当初から、一つの音価に対して複数の文字が使われていた。たとえば、/ha/(当時の発音は ɸa1 ɸa [ɸa] )にあたる平仮名としては、「波」「者」「八」などを字源とするものがあった。1900年明治33年)に「小学校令施行規則」が出され、小学校で教える仮名は1字1音に整理された。これ以降使われなくなった仮名を、今日では変体仮名と呼んでいる。変体仮名は、現在でも料理屋の名などに使われることがある。

仮名遣い問題の発生[編集]

平安時代までは、発音と仮名はほぼ一致していた。その後、発音の変化にともなって、発音と仮名とが1対1の対応をしなくなった。たとえば、「はな(花)」の「は」と「かは(川)」の「は」の発音は、平安時代初期にはいずれも「ファ」(ɸa1 ɸa [ɸa] )であったとみられるが、平安時代に起こったハ行転呼により、「かは(川)」など語中語尾の「は」は「ワ」と発音するようになった。ところが、「ワ」と読む文字には別に「わ」もあるため、「カワ」という発音を表記するとき、「かわ」「かは」のいずれにすべきか、判断の基準が不明になってしまった。ここに、仮名をどう使うかという仮名遣いの問題が発生した。

その時々の知識人は、仮名遣いについての規範を示すこともあったが(藤原定家『下官集』など)、必ずしも古い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった(「日本語研究史」の節参照)。また、従う者も、歌人、国学者など、ある種のグループに限られていた。万人に用いられる絶対的な仮名遣い規範は、明治に学校教育が始まるまで待たなければならなかった。

漢字・仮名遣いの改定[編集]

漢字の字数・字体および仮名遣いについては、近代以降、たびたび改定が議論され、また実施に移されてきた[77]

仮名遣いについては、早く小学校令施行規則(1900年)において、「にんぎやう(人形)」を「にんぎょー」とするなど、漢字音を発音通りにする、いわゆる「棒引き仮名遣い」が採用されたことがあった。1904年から使用の『尋常小学読本』(第1期)はこの棒引き仮名遣いに従った。しかし、これは評判が悪く、規則の改正とともに、次期1910年の教科書から元の仮名遣いに戻った。

第二次世界大戦後の1946年には、「当用漢字表」「現代かなづかい」が内閣告示された。これにともない、一部の漢字の字体に略字体が採用され、それまでの歴史的仮名遣いは廃止された。

1946年および1950年米教育使節団報告書では、国字のローマ字化について勧告および示唆が行われ[128]国語審議会でも議論されたが、実現しなかった。1948年には、GHQの民間情報教育局(CIE)の指示による読み書き能力調査が行われた。漢字が日本人の識字率を抑えているとの考え方に基づく調査であったが、結果的に、かえって日本人の識字率は高水準であることが判明した[129]

1981年には、当用漢字表・現代かなづかいの制限色を薄めた「常用漢字表」および改訂「現代仮名遣い」が内閣告示された。また、送り仮名に関しては、数次にわたる議論を経て、1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示され、今日に至っている。戦後の国語政策は、必ずしも定見に支えられていたとはいえず、今に至るまで議論が続いている(「国語国字問題」参照)。

文体史[編集]

和漢混淆文の誕生[編集]

平安時代までは、朝廷で用いる公の書き言葉は漢文であった。これはベトナム・朝鮮半島などと同様である。当初漢文は中国語音で読まれたと見られるが、日本語と中国語の音韻体系は相違が大きいため、この方法はやがて廃れ、日本語の文法・語彙を当てはめて訓読されるようになった。いわば、漢文を日本語に直訳しながら読むものであった。

漢文訓読の習慣に伴い、漢文に日本語特有の「賜」(…たまふ)や「坐」(…ます)のような語句を混ぜたり、一部を日本語の語順で記したりした「和化漢文」というべきものが生じた(6世紀の法隆寺薬師仏光背銘などに見られる)。さらには「王等臣等」(『続日本紀』)のように、「乃(の)」「尓(に)」といった助詞などを小書きにして添える文体が現れた。この文体は祝詞(のりと)・宣命(せんみょう)などに見られるため、「宣命書き」と呼ばれる。

漢文の読み添えには片仮名が用いられるようになり、やがてこれが本文中に進出して、漢文訓読体を元にした「漢字片仮名交じり文」を形成した。最古の例は『東大寺諷誦文稿』(9世紀)とされる。漢字片仮名交じり文では、漢語が多用されるばかりでなく、言い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「何(なん)ゾ言ハザル」のように、漢文訓読に用いられるものが多いことが特徴である。

一方、平安時代の宮廷文学の文体(和文)は、基本的に和語を用いるものであって、漢語は少ない。また、漢文訓読に使う言い回しもあまりない。たとえば、漢文訓読ふうの「甚ダ広クシテ」「何ゾ言ハザル」は、和文では「いと広う」「などかのたまはぬ」となる。和文は、表記法から見れば、平仮名にところどころ漢字の交じる「平仮名漢字交じり文」である。「春はあけぼの。やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりて……」で始まる『枕草子』の文体は典型例の一つである。

両者の文体は、やがて合わさり、『平家物語』に見られるような和漢混淆文が完成した。

強呉(きゃうご)忽(たちまち)にほろびて、姑蘇台(こそたい)の露荊棘(けいきょく)にうつり、暴秦(ぼうしん)すでに衰へて、咸陽宮(かんやうきう)の煙埤堄(へいけい)を隠しけんも、かくやとおぼえて哀れなり。(『平家物語』聖主臨幸)[130]

ここでは、「強呉」「荊棘」といった漢語、「すでに」といった漢文訓読の言い回しがある一方、「かくやとおぼえて哀れなり」といった和文の語彙・言い回しも使われている。

今日、最も普通に用いられる文章は、和語と漢語を適度に交えた一種の和漢混淆文である。「先日、友人と同道して郊外を散策した」というような漢語の多い文章と、「この間、友だちと連れだって町はずれをぶらぶら歩いた」というような和語の多い文章とを、適宜混ぜ合わせ、あるいは使い分けながら文章を綴っている。

文語文と口語文[編集]

話し言葉は、時代と共にきわめて大きな変化を遂げるが、それに比べて、書き言葉は変化の度合いが少ない。そのため、何百年という間には、話し言葉と書き言葉の差が生まれる。

日本語の場合は、平安時代には、書き言葉・話し言葉の差は大きくなかったと考えられる。しかしながら、中世のキリシタン資料のうち、語り口調で書かれているものを見ると、書き言葉と話し言葉とにはすでに大きな開きが生まれていたことが窺える。江戸時代の洒落本滑稽本の類では、会話部分は当時の話し言葉が強く反映され、地の部分の書き言葉では古来の文法に従おうとした文体が用いられている。両者の違いは明らかである。

明治時代の書き言葉は、依然として古典文法に従おうとしていたが、単語には日常語を用いた文章も現れた。こうした書き言葉は、一般に「普通文」と称された。普通文は、以下のように小学校の読本でも用いられた。

ワガ国ノ人ハ、手ヲ用フル工業ニ、タクミナレバ、ソノ製作品ノ精巧ナルコト、他ニ、クラブベキ国少シ。(『国定読本』第1期 1904)

普通文は、厳密には、古典文法そのままではなく、新しい言い方も多く混じっていた。たとえば、「解釈せらる」というべきところを「解釈さる」、「就学せしむる義務」を「就学せしむるの義務」などと言うことがあった。そこで、文部省は新しい語法のうち一部慣用の久しいものを認め、「文法上許容スベキ事項」(1905年明治38年)16条を告示した。

一方、明治20年代頃から、二葉亭四迷山田美妙ら文学者を中心に、書き言葉を話し言葉に近づけようとする努力が重ねられた(言文一致運動)。二葉亭は「だ」体、美妙は「です」体、尾崎紅葉は「である」体を初めとする文章を試みた。このような試みが広まる中で、新聞・雑誌の記事などにも話し言葉に近い文体が多くなった。古来の伝統的文法に従った文章を文語文、話し言葉を反映した文章を口語文という。第二次世界大戦後は、法律文なども口語文で書かれるようになり、文語文は日常生活の場から遠のいた。

方言史[編集]

近代以前[編集]

日本語は、文献時代に入ったときにはすでに方言差があった。『万葉集』の巻14「東歌」や巻20「防人歌」には当時の東国方言による歌が記録されている[131]820年頃成立の『東大寺諷誦文稿』には「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」という記述が見え、これが国内文献で用いられた「方言」という語の最古例とされる。平安初期の中央の人々の方言観が窺える貴重な記録である。

平安時代から鎌倉時代にかけては、中央の文化的影響力が圧倒的であったため、方言に関する記述は断片的なものにとどまったが、室町時代、とりわけ戦国時代には中央の支配力が弱まり地方の力が強まった結果、地方文献に方言を反映したものがしばしば現われるようになった。洞門抄物と呼ばれる東国系の文献が有名であるが、古文書類にもしばしば方言が登場するようになる。

安土桃山時代から江戸時代極初期にかけては、ポルトガル人の宣教師が数多くのキリシタン資料を残しているが、その中に各地の方言を記録したものがある。京都のことばを中心に据えながらも九州方言を多数採録した『日葡辞書』(1603年1604年)や、筑前備前など各地の方言の言語的特徴を記した『ロドリゲス日本大文典』(1604年1608年)はその代表である。

この時期には琉球語(琉球方言)の資料も登場する。最古期に属するものとしては、中国資料の『琉球館訳語』(16世紀前半成立)があり、琉球の言葉を音訳表記によって多数記録している。また、1609年の島津侵攻事件で琉球王国を支配下に置いた薩摩藩も、記録類に琉球の言葉を断片的に記録しているが、語史の資料として見た場合、沖縄奄美地方に伝わる古代歌謡・ウムイを集めた『おもろさうし』(1531年1623年)が、質・量ともに他を圧倒している。

奈良時代以来、江戸幕府が成立するまで、近畿方言が中央語の地位にあった。朝廷から徳川家征夷大将軍の宣下がなされて以降、江戸文化が開花するとともに、江戸語の地位が高まり、明治時代には東京語が日本語の標準語とみなされるようになった。

近代以降[編集]

明治政府の成立後は、政治的・社会的に全国的な統一をはかるため、また、近代国家として外国に対するため、言葉の統一・標準化が求められるようになった[132]。学校教育では「東京の中流社会」の言葉が採用され[133]、放送でも同様の言葉が「共通用語」(共通語)とされた[134]。こうして標準語規範意識が確立していくにつれ、方言を矯正しようとする動きが広がった。教育家の伊沢修二は、教員向けに書物を著して東北方言の矯正法を説いた[135]。地方の学校では方言を話した者に首から「方言札」を下げさせるなどの罰則も行われた[136]

戦後になり、経済成長とともに地方から都市への人口流入が始まると、標準語と方言の軋轢が顕在化した。1950年代後半から、地方出身者が自分の言葉を笑われたことによる自殺・事件が相次いだ[137]。このような情勢を受けて、方言の矯正教育もなお続けられた。鎌倉市腰越の小学校では、1960年代に、「ネサヨ運動」と称して、語尾に「~ね」「~さ」「~よ」など関東方言特有の語尾をつけないようにしようとする運動が始められた[138]。同趣の運動は全国に広がった。

高度成長後になると、方言に対する意識に変化が見られるようになった。1980年代初めのアンケート調査では、「方言を残しておきたい」と回答する者が90%以上に達する結果が出ている[139]。方言の共通語化が進むとともに、いわゆる「方言コンプレックス」が解消に向かい、方言を大切にしようという気運が盛り上がった。

1990年代以降は、若者が好んで方言を使うことに注目が集まるようになった。1995年にはラップ「DA.YO.NE」の関西版「SO.YA.NA」などの方言替え歌が話題を呼び、報道記事にも取り上げられた[140]。首都圏出身の都内大学生を対象とした調査では、東京の若者の間にも関西方言が浸透していることが観察されるという[141]2005年ごろには、東京の女子高生たちの間でも「でら(とても)かわいいー!」「いくべ」などと各地の方言を会話に織り交ぜて使うことが流行しはじめ[142]、女子高生のための方言参考書の類も現れた[143]。「超おもしろい」など「超」の新用法も、もともと静岡県で発生して東京に入ったとされるなど[144]若者言葉の発信地が東京に限らない状況になっている(「方言由来の若者言葉」を参照)。

方言学の世界では、かつては、標準語の確立に資するための研究が盛んであったが[145]、今日の方言研究は、必ずしもそのような視点のみによって行われてはいない。中央語の古形が方言に残ることは多く、方言研究が中央語の史的研究に資することはいうまでもない[146]。しかし、それにとどまらず、個々の方言の研究は、それ自体、独立した学問と捉えることができる。山浦玄嗣の「ケセン語」研究に見られるように[79]、研究者が自らの方言に誇りを持ち、日本語とは別個の言語として研究するという立場も生まれている。

日本語研究史[編集]

日本人自身が日本語に関心を寄せてきた歴史は長く、『古事記』『万葉集』の記述にも語源・用字法・助字などについての関心が垣間見られる。古来、さまざまな分野の人々によって日本語研究が行われてきたが、とりわけ、江戸時代に入ってからは、秘伝にこだわらない自由な学風が起こり、客観的・実証的な研究が深められた。近代に西洋の言語学が輸入される以前に、日本語の基本的な性質はほぼ明らかになっていたと言って過言でない。以下では、江戸時代以前・以後に分けて概説し、さらに近代について付説する。

江戸時代以前[編集]

江戸時代以前の日本語研究の流れは、大きく分けて3分野あった。中国語(漢語)学者による研究、悉曇(しったん)学者による研究、歌学者による研究である。

中国語との接触により、日本語の相対的な特徴が意識されるようになった。『古事記』には「淤能碁呂嶋自淤以下四字以音」(オノゴロ嶋(淤より以下の四字は音を以ゐよ))のような音注がしばしば付けられているが、これは、中国語で表せない日本語の固有語を1音節ずつ漢字(万葉仮名)で表記したものである。こうした表記法を通じて、日本語の音節構造が自覚されるようになったと考えられる。また、漢文の訓読により、中国語にない助詞助動詞の要素が意識されるようになった。漢文を読み下す際に必要な「て」「に」「を」「は」などの要素は、当初は点を漢字に添えることで表現していたが(ヲコト点)、後に万葉仮名、さらに片仮名が用いられるようになった。これらの要素は「てにをは」の名で一括され、後にひとつの研究分野となった。

日本語の1音1音を仮名で記すようになった当初は、音韻組織全体に対する意識はまだ弱かったが、間もなく、あらゆる音を1回ずつ集めて詞章にしたものが現れた。平安時代初期には「あめつちの歌」「たゐにの歌」などの手習い歌が用いられるようになり、平安時代中期から後期には「いろは歌」が成立した。これらの歌は、誰がどのような目的で用い始めたかは必ずしも明らかでないが、いずれも当時の日本語音韻の一覧表という性格を持っている。中でも「いろは」は、『色葉字類抄』(12世紀)など辞書の項目順にも用いられ、人々の間にも一般化した。

一方、悉曇学の研究により、梵語(サンスクリット)に整然とした音韻組織が存在することが知られるようになった。平安時代末期に成立したとみられる「五十音図」は、「あ・か・さ・た・な……」の行の並び方が梵語の悉曇章(字母表)の順に酷似しており、悉曇学を通じて日本語の音韻組織の研究が進んだことをうかがわせる。もっとも、五十音図作成の目的は、一方では、中国音韻学の反切を理解するためでもあった。当初、その配列はかなり自由であった(ほぼ現在に近い配列が定着したのは室町時代以後)。最古の五十音図は、平安時代末期の悉曇学者明覚(みょうがく)の『反音作法』に見られる。明覚はまた、『悉曇要訣』において、梵語の発音を説明するために日本語の例を多く引用し、日本語の音韻組織への関心を見せている。

歌学は、平安時代以降、大いに興隆した。和歌の実作および批評のための学問であったが、正当な語彙・語法を使用することへの要求から、日本語の古語に関する研究や、「てにをは」の研究、さらに仮名遣いへの研究につながった。

このうち、古語の研究では、語と語の関係を音韻論的に説明することが試みられた。たとえば、顕昭の『袖中抄』では、「七夕つ女(たなばたつめ)」の語源は「たなばたつま」だとして(これ自体は誤り)、「『ま』と『め』とは同じ五音(=五十音の同じ行)なる故也」[147]と説明している。このように、「五音相通(五十音の同じ行で音が相通ずること)」や「同韻相通(五十音の同じ段で音が相通ずること)」などの説明が多用されるようになった。

「てにをは」の本格的研究は、鎌倉時代末期から室町時代初期に成立した『手爾葉大概抄(てにはたいがいしょう)』という短い文章によって端緒がつけられた。この文章では「名詞・動詞などの自立語(詞)が寺社であるとすれば、『てにをは』はその荘厳さに相当するものだ」と規定した上で、係助詞「ぞ」「こそ」とその結びの関係を論じるなど、「てにをは」についてごく概略的に述べている。また、室町時代には『姉小路式(あねがこうじしき)』が著され、係助詞「ぞ」「こそ」「や」「か」のほか終助詞「かな」などの「てにをは」の用法をより詳細に論じている。

仮名遣いについては、鎌倉時代の初め頃から問題になり始めた。藤原定家の著作と伝えられる『下官集』は、仮名遣いの基準を前代の平安時代末期の草子類の仮名表記に求め、乱れを正そうとした(「定家仮名遣い」と呼ばれる)。ところが、「お」と「を」の区別については、平安時代末期にはすでに相当混乱があったために、そこに基準を見出すことができなかった。『下官集』ではアクセントが高いものを「を」で、アクセントが低いものを「お」で記している。南北朝時代には行阿がこれを増補して『仮名文字遣』を著した。行阿の姿勢も、基準を古書に求めるというものであったが、「お」「を」の区別については定家仮名遣いの原則を踏襲した。ただし、南北朝時代にはアクセントの一大変化があったため、一部の語彙に関しては定家の時代とはアクセントの高低が異なっており、そのために「お」と「を」の仮名遣いに齟齬も生じている。

なお、「お」「を」の区別は平安時代末期にすでに混乱していたため、五十音図においても、鎌倉時代以来「お」と「を」とは位置が逆転した誤った図が用いられていた(すなわち、「あいうえを」「わゐうゑお」となっていた)。これが正されるのは、江戸時代に本居宣長が登場してからのことである。

外国人による日本語研究も、中世末期から近世前期にかけて多く行われた。イエズス会では日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』(1603年)が編纂され、また、同会のロドリゲスにより文法書『日本大文典』(1608年)および『日本小文典』(1620年)が表された。ロドリゲスの著書は、ラテン語の文法書の伝統に基づいて日本語を分析し、価値が高い。一方、中国では『日本館訳語』(1549年頃)、李氏朝鮮では『捷解新語』(1676年)といった日本語学習書が編纂された。

江戸時代[編集]

日本語の研究が高い客観性・実証性を備えるようになったのは、江戸時代契沖の研究以来のことである。契沖は『万葉集』の注釈を通じて仮名遣いについて詳細に観察を行い、『和字正濫抄』(1695年)を著した。この書により、古代は語ごとに仮名遣いが決まっていたことが明らかにされた。契沖自身もその仮名遣いを実行した。すなわち、後世、歴史的仮名遣いと称される仮名遣いである。契沖の掲出した見出し語は、後に楫取魚彦(かとりなひこ)編の仮名遣い辞書『古言梯(こげんてい)』(1765年)で増補され、村田春海『仮字拾要(かなしゅうよう)』で補完された。

古語の研究では、松永貞徳の『和句解(わくげ)』(1662年)、貝原益軒の『日本釈名(にほんしゃくみょう)』(1700年)が出た後、新井白石により大著『東雅』(1719年)がまとめられた。白石は、『東雅』の中で語源説を述べるに当たり、終始穏健な姿勢を貫き、曖昧なものは「義未詳」として曲解を排した。また、賀茂真淵は『語意考』(1789年)を著し、「約・延・略・通」の考え方を示した。すなわち、「語形の変化は、縮める(約)か、延ばすか、略するか、音通(母音または子音の交替)かによって生じる」というものである。この原則は、それ自体は正当であるが、後にこれを濫用し、非合理な語源説を提唱する者も表れた。語源研究では、ほかに、鈴木朖(あきら)が『雅語音声考(がごおんじょうこう)』(1816年)を著し、「ほととぎす」「うぐいす」「からす」などの「ほととぎ」「うぐい」「から」の部分は鳴き声であることを示すなど、興味深い考え方を示している。

本居宣長は、仮名遣いの研究および文法の研究で非常な功績があった。まず、仮名遣いの分野では、『字音仮字用格(じおんかなづかい)』(1776年)を著し、漢字音を仮名で書き表すときにどのような仮名遣いを用いればよいかを論じた。その中で宣長は、鎌倉時代以来、五十音図で「お」と「を」の位置が誤って記されている(前節参照)という事実を指摘し、実に400年ぶりに、本来の正しい「あいうえお」「わゐうゑを」の形に戻した。この事実は、後に義門が『於乎軽重義(おをきょうちょうぎ)』(1827年)で検証した。

また、宣長は、文法の研究、とりわけ、係り結びの研究で成果をあげた。係り結びの一覧表である『ひも鏡』(1771年)をまとめ、『詞の玉緒』(1779年)で詳説した。文中に「ぞ・の・や・何」が来た場合には文末が連体形、「こそ」が来た場合は已然形で結ばれることを示したのみならず、「は・も」および「徒(ただ=主格などに助詞がつかない場合)」の場合は文末が終止形になることを示した。主格などに「は・も」などついた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、必ずしもそうでない。主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける」(万葉集)「にほひの袖にとまれる」(古今集)のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示したことは重要である。

品詞研究で成果をあげたのは富士谷成章(ふじたになりあきら)であった。富士谷は、品詞を「名」(名詞)・「装(よそい)」(動詞・形容詞など)・「挿頭(かざし)」(副詞など)・「脚結(あゆい)」(助詞・助動詞など)の4類に分類した。『挿頭抄(かざししょう)』(1767年)では今日で言う副詞の類を中心に論じた。特に注目すべき著作は『脚結抄(あゆいしょう)』(1778年)で、助詞・助動詞を系統立てて分類し、その活用の仕方および意味・用法を詳細に論じた。内容は創見に満ち、今日の品詞研究でも盛んに引き合いに出される。『脚結抄』の冒頭に記された「装図(よそいず)」は、動詞・形容詞の活用を整理した表で、後の研究に資するところが大きかった。

活用の研究は、その後、鈴木朖の『活語断続譜』(1803年頃)、本居春庭の『詞八衢(ことばのやちまた)』(1806年)に引き継がれた。盲目であった春庭の苦心は、一般には足立巻一の小説『やちまた』で知られる。幕末には義門が『活語指南』(1844年)を著し、これで日本語の活用は、全貌がほぼ明らかになった。

このほか、江戸時代で注目すべき研究としては、石塚龍麿の『仮字用格奥山路(かなづかいおくのやまみち)』がある。万葉集の仮名に2種の書き分けが存在することを示したものであったが、長らく正当な扱いを受けなかった。後に橋本進吉上代特殊仮名遣いの先駆的研究として再評価した。

近代以降[編集]

江戸時代後期から明治時代にかけて、西洋の言語学が紹介され、日本語研究は新たな段階を迎えた。もっとも、西洋の言語に当てはまる理論を無批判に日本語に応用することで、かえってこれまでの蓄積を損なうような研究も少なくなかった。

こうした中で、古来の日本語研究と西洋言語学とを吟味して文法をまとめたのが大槻文彦であった。大槻は、日本語辞書『言海』の中で文法論「語法指南」を記し(1889年)、後にこれを独立、増補して『広日本文典』(1897年)とした。

その後、高等教育の普及とともに、日本語研究者の数は増大した。東京帝国大学には国語研究室が置かれ(1897年)、ドイツ帰りの上田万年が初代主任教授として指導的役割を果たした。

以下、第二次世界大戦後に至るまで、重要な役割を果たした主な日本語学者を挙げる。

日本国外の日本語[編集]

近代以降、台湾朝鮮半島などを併合した日本は、皇国化政策を推進するため、学校教育で日本語を国語として採用した。満州国にも日本人が数多く移住した結果、これらの地域でも日本語が使用された。日本語を解さない主に漢民族満州族向けに簡易的な日本語である協和語が用いられていたこともあった。台湾や朝鮮半島などでは、現在でも高齢者の中に日本語を解する人もいる。

一方、明治から戦前にかけて、日本人がアメリカメキシコブラジルペルーなどに多数移民し、日系人社会が築かれた。これらの地域では日本語が話されたが、世代が下るにしたがって、日本語を解さない人が増えている。

1990年代以降、日本国外から日本へ渡航する人が増え、かつまた、日本企業で働く外国人労働者も飛躍的に増大しているため、国内外に日本語教育が広がっている。国によっては、日本語を第2外国語など選択教科のひとつとしている国もあり、日本国外で日本語が学ばれる機会は増えつつある[148][149]

とりわけ、1990年代以降、日本のアニメーションゲームドラマ漫画などのサブカルチャーが日本国外でも公開され、しばしばブームになったことなどから、それらに親しんだ日本国外の若者層のなかには積極的に日本語を学ぶ者も多い。インターネットやコミュニケーションツールの整備に伴い、日本人と日本語を学ぶ外国人の距離はますます狭まってきている要出典

日本人が訪れることの多い日本国外の観光地などでは、広告や店員の言葉に日本語が使われることもある[150]。このような場で目に触れる日本語のうち、新奇で注意を引く例は、雑誌・書籍などで紹介されることも多い[151]

また、台湾香港等においては「日本風」な意味合いを出す為に、商品や店名等を日本語で表記する例が散見される。なかでも、ひらがなの「」は、すでに現地語として定着している要出典

日本語話者の意識[編集]

詳細は 日本語論 を参照

変化に対する意識[編集]

詳細は 日本語の乱れ を参照

日本語がときとともに変化することはしばしば批判の対象となる。この種の批判は、古典文学の中にも見られる。『枕草子』では文末の「んとす」が「んず」といわれることを「いとわろし」と評している(「ふと心おとりとかするものは」)。また、『徒然草』では古くは「車もたげよ」「火かかげよ」と言われたのが、今の人は「もてあげよ」「かきあげよ」と言うようになったと記し、今の言葉は「無下にいやしく」なっていくようだと記している(第22段)。

これにとどまらず、言語変化について注意する記述は、歴史上、仮名遣い書や、『俊頼髄脳』などの歌論書、『音曲玉淵集』などの音曲指南書をはじめ、諸種の資料に見られる。なかでも、江戸時代の俳人安原貞室が、なまった言葉の批正を目的に編んだ『片言(かたこと)』(1650年)は、800にわたる項目を取り上げており、当時の言語実態を示す資料として価値が高い。

近代以降も、芥川龍之介が「続澄江堂雑記」で、「とても」は従来否定を伴っていたとして、「とても安い」など肯定形になることに疑問を呈するなど、言語変化についての指摘が散見する。研究者の立場から同時代の気になる言葉を収集した例としては、浅野信『巷間の言語省察』(1933年)などがある。

第二次世界大戦後は、1951年に雑誌『言語生活』(当初は国立国語研究所が監修)が創刊されるなど、日本語への関心が高まった。そのような風潮の中で、あらゆる立場の人々により、言語変化に対する批判やその擁護論が活発に交わされるようになった。典型的な議論の例としては、金田一春彦「日本語は乱れていない」[152]および宇野義方の反論[153]が挙げられる。

いわゆる「日本語の乱れ」論議において、毎度のように話題にされる言葉も多い。1955年国立国語研究所の有識者調査[154]の項目には「ニッポン・ニホン(日本)」「ジッセン・ジュッセン(十銭)」「見られなかった・見れなかった」「御研究されました・御研究になりました」など、今日でもしばしば取り上げられる語形・語法が多く含まれている。とりわけ「見られる」を「見れる」とする語法は、1979年のNHK放送文化研究所「現代人の言語環境調査」で可否の意見が二分するなど、人々の言語習慣の違いを如実に示す典型例となっている。この語法は1980年代には「ら抜き言葉」と称され、盛んに取り上げられるようになった。

「言葉の乱れ」を指摘する声は、新聞・雑誌の投書にも多い。文化庁の「国語に関する世論調査」では、「言葉遣いが乱れている」と考える人が1977年に7割近くになり、2002年11月から12月の調査では8割となっている。人々のこのような認識は、いわゆる日本語ブームを支える要素のひとつとなっている。

若者の日本語[編集]

日本語の変化に対する批判の矛先は、往々にして若い世代に向かう。若者は、旧世代の用いなかった言語および言語習慣を盛んに創出し、時として上の世代に違和感を与えることになる。

若者言葉[編集]

いわゆる「若者言葉」は種々の意味で用いられ、必ずしも定義は一定していない。井上史雄の分類[155]に即して述べれば、若者言葉と称されるものは、以下のように分類される。

  1. 一時的流行語。ある時代の若い世代が使う言葉。戦後の「アジャパー」、1970年代の「チカレタビー」など。
  2. コーホート語(同世代語)。流行語が生き残り、その世代が年齢を重ねてからも使う言葉。次世代の若者は流行遅れと意識し、使わない。
  3. 若者世代語。どの世代の人も、若い間だけ使う言葉。キャンパス用語など。
  4. 言語変化。若い世代が年齢を重ねてからも使い、次世代の若者も使うもの。結果的に、世代を超えて変化が定着する。ら抜き言葉鼻濁音の衰退など。

上記は、いずれも批判にさらされうるという点では同様であるが、1~4の順で、次第に言葉の定着率は高くなるため、それだけ「言葉の乱れ」の例として意識されやすくなる。

上記の分類のうち「一時的流行語」ないし「若者世代語」に相当する言葉の発生要因に関し、米川明彦は心理・社会・歴史の面に分けて指摘している[156]。その指摘は、およそ以下のように総合できる。すなわち、成長期にある若者は、自己や他者への興味が強まるだけでなく、従来の言葉の規範からの自由を求める。日本経済の成熟とともに「まじめ」という価値観が崩壊し、若者が「ノリ」によって会話するようになった。とりわけ、1990年代以降は「ノリ」を楽しむ世代が低年齢化し、消費・娯楽社会の産物として若者言葉が生産されているというものである。

若者の表記[編集]

若者の日本語は、表記の面でも独自性を持つ。1970年代から1980年代にかけて、少女の間で、丸みを帯びた書き文字が「かわいい」と意識されて流行し、「丸文字」「まんが文字」「変体少女文字(=書体の変わった少女文字の意)」などと呼ばれた。山根一眞の調査によれば、この文字は1974年までには誕生し、1978年に急激に普及を開始したという[157]

1990年頃から、丸文字に代わり、少女の間で、金釘流に似た縦長の書き文字が流行し始めた。平仮名の「に」を「レこ」のように書いたり、長音符の「ー」を「→」と書いたりする特徴があった。一見下手に見えるため、「長体ヘタウマ文字」などとも呼ばれた。マスコミでは「チョベリバ世代が楽しむヘタウマ文字」[158]「女高生に広まる変なとんがり文字」[159]などと紹介されたが、必ずしも大人世代の話題にはならないまま、確実に広まった。この文字を練習するための本[160]も出版された。

携帯メールやインターネットの普及にともない、ギャルと呼ばれる少女たちを中心に、デジタル文字の表記に独特の文字や記号を用いるようになった。「さようなら」を「±∋ぅTょら」と書く類で、「ギャル文字」としてマスコミにも取り上げられた[161]。このギャル文字を練習するための本も現れた[162]

ギャル文字ほど極端ではないにせよ、多くの若者はデジタル文字の表記に工夫をこらしている。すでに普及した顔文字絵文字に加え、「小文字」と称される独特の表記法が登場した。「ゎたしゎ、きょぅゎ部活がなぃの」のように特定文字を小字で表記するもので、マスコミでも紹介されるようになった[163]

日本語ブーム[編集]

人々の日本語に寄せる関心は、第二次世界大戦後に特に顕著になったといえる。1947年10月からNHKラジオで「ことばの研究室」が始まり、1951年には雑誌『言語生活』が創刊された。

日本語関係書籍の出版点数も増大した。敬語をテーマとした本の場合、1960年代以前は解説書5点、実用書2点であったものが、1970年代から1994年の25年間に解説書約10点、実用書約40点が出たという[164]

戦後、最初の日本語ブームが起こったのは1957年のことで、金田一春彦『日本語』(岩波新書、旧版)が77万部、大野晋『日本語の起源』(岩波新書、旧版)が36万部出版された。1974年には丸谷才一『日本語のために』(新潮社)が50万部、大野晋『日本語をさかのぼる』(岩波新書)が50万部出版された[165]

その後、1999年の大野晋『日本語練習帳』(岩波新書)は180万部を超えるベストセラーとなった。さらに、2001年齋藤孝『声に出して読みたい日本語』(草思社)が140万部出版された頃から、出版界では空前の日本語ブームという状況になり、おびただしい種類と数の一般向けの日本語関係書籍が出た[166]

2004年には北原保雄編『問題な日本語』(大修館書店)が、当時よく問題にされた語彙・語法を一般向けに説明して好評を得た。翌2005年から2006年にかけては、テレビでも日本語をテーマとした番組が多く放送され、大半の番組で日本語学者がコメンテーターや監修に迎えられた。「タモリのジャポニカロゴス」(フジテレビ 2005~)、「クイズ!日本語王」(TBS 2005~2006)、「三宅式こくごドリル」(テレビ東京 2005~2006)、「Matthew's Best Hit TV+・なまり亭」(テレビ朝日2005~2006。方言を扱う)、「合格!日本語ボーダーライン」(テレビ朝日 2005)、「ことばおじさんのナットク日本語塾」(NHK 2006~)など種々の番組があった。

日本語特殊論[編集]

日本語が特殊であるとする論は、近代以降しばしば提起されている。極端な例ではあるが、戦後、志賀直哉が「日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ」として、フランス語国語に採用することを主張した[167]国語外国語化論)。また、1988年には、国立国語研究所所長・野元菊雄が、外国人への日本語教育のため、文法を単純化した「簡約日本語」の必要性を説き、論議を呼んだこともあった[168]

このように、日本語を劣等もしくは難解、非合理的とする考え方の背景として、近代化の過程で広まった欧米中心主義があると指摘される[169] [170]。戦後は、消極的な見方ばかりでなく、「日本語は個性的である」と積極的に評価する見方も多くなった。その変化の時期はおよそ1980年代であるという[170]。いずれにしても、日本語は特殊であるとの前提に立っている点で両者の見方は共通する。

日本語特殊論は日本国外でも論じられる。E. ライシャワーによれば、日本語の知識が乏しいまま、日本語は明晰でも論理的でもないと不満を漏らす外国人は多いという。ライシャワー自身はこれに反論し、あらゆる言語には曖昧・不明晰になる余地があり、日本語も同様だが、簡潔・明晰・論理的に述べることを阻む要素は日本語にないという[171]。また、アメリカ国務省は、日本語を、中国語アラビア語などとともに、世界で一番習得に時間のかかる言語としているという[172]。ただし、これは英語からみて日本語が大きく異なることを指摘したものであって、あくまでも相対的な見方を示すものである。

今日の言語学では、そもそも日本語が特殊であるという見方自体が否定されている。たとえば、日本語に5母音しかないことが特殊だと言われることがあるが、クラザーズの研究によれば、209の言語のうち、日本語のように5母音をもつ言語は55あり、タイプとして最も多いという。また、語順に関しては、ウルタン、スティール、グリーンバーグらの調査結果から、日本語のようにSOV構造をとる言語が40%以上であって最も多いのに対して、英語のようにSVO構造をとる言語は30%強であり、この点からも、日本語はごく普通の言語であるという結論が導かれる[169]。角田太作は語順を含め19の特徴について130の言語を比較し、「日本語は特殊な言語ではない。しかし、英語は特殊な言語だ」と結論している[173]

かつてジャーナリスト森恭三は、日本語の語順では「思想を表現するのに一番大切な動詞は、文章の最後にくる」ため、文末の動詞の部分に行くまでに疲れて、「もはや動詞〔部分で〕の議論などはできない」と記している[174]。このように、動詞が最後に来ることを理由に日本語を曖昧、不合理と断ずる議論は多い。この考え方によれば、世界の言語の約半数の言語が曖昧性の高い不合理な言語ということになる。しかし、文の中では「誰が、何を、どこで」など、述語以外の部分のほうが情報として重要な場合も多い。これらの部分を述語の前に置く妥当性もまた無視しえない。

村山七郎は、「外国語を知ることが少ないほど日本語の特色が多くなる」という「反比例法則」を主張したという[175]。日本人自らが日本語を特殊と考える原因としては、身近な他言語がほぼ英語のみであることが与って大きい。もっとも、日本語が印欧語との相違点を多く持つことは事実である。そのため、対照言語学の上では、印欧語とのよい比較対象となる。

辞書[編集]

詳細は 国語辞典 を参照

日本では古く漢籍を読むための辞書が多く編纂された。国内における辞書編纂の記録としては、天武11年(682年)の『新字』44巻が最古であるが(『日本書紀』)、伝本はおろか逸文すらも存在しないため、書名から漢字字書の類であろうと推測される以外は、いかなる内容の辞書であったかも不明である。

奈良時代には『楊氏漢語抄』や『弁色立成(べんしきりゅうじょう)』という辞書が編纂された。それぞれ逸文として残るのみであるが、和訓を有する漢和辞書であったらしい。現存する最古の辞書は空海編と伝えられる『篆隷万象名義』(9世紀)であるが、中国の『玉篇』を模した部首配列の漢字字書であり、和訓は一切ない。10世紀初頭に編纂された『新撰字鏡』は伝本が存する最古の漢和辞書であり、漢字を部首配列した上で、和訓を万葉仮名で記している。平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』は、意味で分類した漢語におおむね和訳を万葉仮名で付したもので、漢和辞書ではあるが百科辞書的色彩が強い。院政期には過去の漢和辞書の集大成とも言える『類聚名義抄』が編纂された。同書の和訓に付された豊富な声点により院政期のアクセント体系はほぼ解明されている。

鎌倉時代には百科辞書『二中歴』や詩作のための実用的韻書『平他字類抄』、語源辞書ともいうべき『塵袋』や『名語記(みょうごき)』なども編まれるようになった。室町時代には、読み書きが広い階層へ普及し始めたことを背景に、漢詩を作るための韻書『聚分韻略』、漢和辞書『倭玉篇(わごくへん)』、和訳に通俗語も含めた国語辞書『下学集』、日常語の単語をいろは順に並べた通俗的百科辞書『節用集』などの辞書が編まれた。安土桃山時代最末期には、イエズス会のキリスト教宣教師によって、日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』が作成された。

江戸時代には、室町期の『節用集』を元にして多数の辞書が編集・刊行された。易林本『節用集』『書言字考節用集』などが主なものである。そのほか、俳諧用語辞書を含む『世話尽』、語源辞書『日本釈名』、俗語辞書『志布可起(しぶがき)』、枕詞辞書『冠辞考』なども編纂された。

明治時代に入り、1889年から大槻文彦編の小型辞書『言海』が刊行された。これは、古典語・日常語を網羅し、五十音順に見出しを並べて、品詞・漢字表記・語釈を付した初の近代的な日本語辞書であった。『言海』は、後の辞書の模範的存在となり、後に増補版の『大言海』も刊行された。

その後、広く使われた小型の日本語辞書としては、金沢庄三郎編『辞林』、新村出編『辞苑』などがある。第二次世界大戦中から戦後にかけては金田一京助編(見坊豪紀執筆)『明解国語辞典』がよく用いられ、今日の『三省堂国語辞典』『新明解国語辞典』に引き継がれている。

中型辞書としては、第二次世界大戦前は『大言海』のほか松井簡治・上田万年編『大日本国語辞典』などが、戦後は新村出編『広辞苑』などが広く受け入れられている。現在では林大編『言泉』、松村明編『大辞林』をはじめ、数種の中型辞書が加わっている。

今日、最大の日本語辞書として、約50万語を擁する『日本国語大辞典』がある。

脚注[編集]

  1. 見坊 豪紀 (1964)「アメリカの邦字新聞を読む」『言語生活』157(1983年の『ことば さまざまな出会い』(三省堂)に収録)では、1960年代のロサンゼルスおよびハワイの邦字新聞の言葉遣いに触れる。
  2. 井上 史雄 (1971)「ハワイ日系人の日本語と英語」『言語生活』236は、ハワイ日系人の談話引用を含む報告である。
  3. 本堂 寛 (1996)「ブラジル日系人の日本語についての意識と実態―ハワイ調査との対比から」『日本語研究諸領域の視点 上』によれば、1979~1980年の調査において、ブラジル日系人で「日本語をうまく使える」と回答した人は、1950年以前生まれで20.6%、以後生まれで8.3%だという。
  4. 亀井 孝・河野 六郎・千野 栄一 [編] (1997)『言語学大辞典セレクション 日本列島の言語』(三省堂)の南不二男「日本語・総説」などを参照。
  5. 真田 信治 (2002)「ポナペ語における日本語からの借用語の位相―ミクロネシアでの現地調査から」『国語論究』9-25によれば、ミクロネシアでは日本語教育を受けた世代が今でも同世代との会話に日本語を利用し、一般にも日本語由来の語句が多く入っているという。
  6. 青柳 森 (1986)「台湾山地紀行」『東京消防』1986年10月(ウェブ版は、日本ペンクラブ:電子文藝館・地球ウォーカー)。
  7. CIA - The World Factbook -- Field Listing - Languages
  8. 2003年国際交流基金調査
  9. 2004年文化庁調査
  10. 10.0 10.1 亀井 孝 他 [編] (1963)『日本語の歴史1 民族のことばの誕生』(平凡社)。
  11. 大野 晋・柴田 武 [編] (1978)『岩波講座 日本語 第12巻 日本語の系統と歴史』(岩波書店)。
  12. 藤岡 勝二 (1908)「日本語の位置」『国学院雑誌』14。
  13. 13.0 13.1 有坂 秀世 (1931)「国語にあらはれる一種の母音交替について」『音声の研究』第4輯(1957年の『国語音韻史の研究 増補新版』(三省堂)に収録)。
  14. 北村 甫 [編] (1981)『講座言語 第6巻 世界の言語』(大修館書店)p.121。
  15. 亀井 孝・河野 六郎・千野 栄一 [編] (1996)『言語学大辞典6 術語編』(三省堂)の「アルタイ型」。
  16. 泉井 久之助 (1952)「日本語と南島諸語」『民族学研究』17-2(1975年の『マライ=ポリネシア諸語 比較と系統』(弘文堂)に収録)。
  17. 大野 晋 (1987)『日本語以前』(岩波新書)などを参照。研究の集大成として、大野 晋 (2000)『日本語の形成』(岩波書店)を参照。
  18. 主な批判・反批判として、以下のものがある。家本 太郎・児玉 望・山下 博司・長田 俊樹 (1996)「「日本語=タミル語同系説」を検証する―大野晋『日本語の起源 新版』をめぐって」『日本研究(国際文化研究センター紀要)』13/大野 晋 (1996)「「タミル語=日本語同系説に対する批判」を検証する」『日本研究』15/山下 博司 (1998)「大野晋氏のご批判に答えて―「日本語=タミル語同系説」の手法を考える」『日本研究』17。
  19. 服部 四郎 (1959)『日本語の系統』(岩波書店、1999年に岩波文庫)。
  20. 中川 裕 (2005)「アイヌ語にくわわった日本語」『国文学 解釈と鑑賞』70-1。
  21. 新村 出 (1916)「国語及び朝鮮語の数詞に就いて」『芸文』7-2・4(1971年の『新村出全集 第1巻』(筑摩書房)に収録)。
  22. 服部 四郎 (1950) "Phoneme, Phone and Compound Phone" 『言語研究』16(1960年の『言語学の方法』(岩波書店)に収録)。
  23. 亀井 孝 (1956)「「音韻」の概念は日本語に有用なりや」『国文学攷』15。
  24. 松崎 寛 (1993)「外来語音と現代日本語音韻体系」『日本語と日本文学』18では、外来音を多く認めた129モーラからなる音韻体系を示す。
  25. 金田一 春彦 (1950) 「「五億」と「業苦」―引き音節の提唱」『国語と国文学』27-1(1967年に「「里親」と「砂糖屋」―引き音節の提唱」として『国語音韻の研究』(東京堂出版)に収録)などを参照。
  26. 26.0 26.1 26.2 26.3 26.4 徳川 宗賢 [編] (1989) 『日本方言大辞典 下』(小学館)の「音韻総覧」。
  27. 服部 四郎 (1984) 『音声学』(岩波書店)。
  28. 斎藤 純男 (1997)『日本語音声学入門』(三省堂、2006年に改訂版)。
  29. 金田一 春彦 (1981)『日本語の特質』(新NHK市民大学叢書)p.76-9。
  30. 服部 四郎 (1951)「原始日本語のアクセント」『国語アクセント論叢』(法政大学出版局)。
  31. 金田一 春彦 (1954)「東西両アクセントのちがいができるまで」『文学』22-8。
  32. 奥村 三雄 (1955)「東西アクセント分離の時期」『国語国文』20-1。
  33. 33.0 33.1 三上 章 (1972) 『続・現代語法序説』(くろしお出版)。
  34. 三上 章 (1960)『象は鼻が長い―日本文法入門』(くろしお出版)。
  35. 森重 敏 (1965)『日本文法―主語と述語』(武蔵野書院)。
  36. たとえば、東京書籍『新編 新しい国語 1』(中学校国語教科書)では、1977年の検定本では「主語・述語」を一括して扱っているが、1996年の検定本ではまず述語について「文をまとめる重要な役割をする」と述べたあと、主語については修飾語と一括して説明している。
  37. 北原 保雄 (1981)『日本語の世界 6 日本語の文法』(中央公論社)
  38. 38.0 38.1 橋本 進吉 (1948)『国語法研究(橋本進吉博士著作集 第2冊)』(岩波書店)。
  39. 渡辺 実 [編] (1983)『副用語の研究』(明治書院)などを参照。
  40. 鈴木 一彦 (1959)「副詞の整理」『国語と国文学』36-12。
  41. 41.0 41.1 時枝 誠記 (1950) 『日本文法 口語篇』(岩波全書)。
  42. 山田 孝雄 (1909) 『日本文法論』(宝文館)。
  43. 金田一 春彦 (1988)『日本語 新版』上(岩波新書)。
  44. 国立国語研究所 (1964)『分類語彙表』(秀英出版)。
  45. 中野 洋 (1981)「『分類語彙表』の語数」『計量国語学』12-8。
  46. 柴田 武・山田 進 [編] (2002)『類語大辞典』(講談社)
  47. 亀井 孝・河野 六郎・千野 栄一 [編] (1996)『言語学大辞典6 術語編』(三省堂)の「人称代名詞」。
  48. 改田 昌直・クロイワ カズ・『リーダーズ英和辞典』編集部 [編] (1985)『漫画で楽しむ英語擬音語辞典』(研究社)による。
  49. 山口 仲美 [編] (2003)『暮らしのことば擬音・擬態語辞典』(講談社)p.1。
  50. 浅野 鶴子 [編] (1978)『擬音語・擬態語辞典』(角川書店)p.1。
  51. 手塚 治虫 (1977) 『マンガの描き方』(光文社)p.112。
  52. 堀淵 清治 (2006) 『萌えるアメリカ 米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか』(日経BP社)。
  53. 金田一 京助他 [編] (2002)『新選国語辞典』第8版(小学館)裏見返し。
  54. 柳田 国男 (1938)「方言の成立」『方言』8-2(1990年の『柳田國男全集 22』(ちくま文庫)に収録 p.181)
  55. AskOxford: How many words are there in the English language?
  56. 野村 雅昭 (1998)「現代漢語の品詞性」『東京大学国語研究室創設百周年記念 国語研究論集』(汲古書院)。
  57. 柴田 武 (1988)『語彙論の方法』(三省堂)などを参照。
  58. 大槻 文彦 (1889)「語法指南」(国語辞書『言海』に収録)。
  59. 佐久間 鼎 (1936)『現代日本語の表現と語法』(厚生閣、1983年くろしお出版から増補版)。
  60. 佐竹 昭広 (1955)「古代日本語における色名の性格」『国語国文』24-6(2000年に『萬葉集抜書』(岩波現代文庫)に収録)。
  61. 小松 英雄 (2001)『日本語の歴史―青信号はなぜアオなのか』(笠間書院)。
  62. Brent Berlin & Paul Kay (1969), Basic color terms: their universality and evolution, Berkeley: University of California Press.
  63. 大矢 透 (1899)『国語溯原』p.26など。
  64. 64.0 64.1 柴田 武 (1968)「語彙体系としての親族名称―トルコ語・朝鮮語・日本語」『アジア・アフリカ言語文化研究』(東京外国語大学)1別冊(1979年の『日本の言語学 第5巻 意味・語彙』(大修館書店)に収録)。
  65. 田中 章夫 (1978)『国語語彙論』(明治書院)第2章の図。
  66. 鈴木 孝夫 (1973)『ことばと文化』(岩波新書)p.158以下にも言及がある。
  67. 樺島 忠夫 (1981)『日本語はどう変わるか―語彙と文字』(岩波新書)p.18、およびp.176以下。
  68. 岩田 麻里 (1983)「現代日本語における漢字の機能」『日本語の世界16』(中央公論社)p.183。
  69. 現代語の例は、陳 力衛 (2001)「和製漢語と語構成」『日本語学』20-9の例示による。
  70. 以上は、石綿 敏雄 (2001)『外来語の総合的研究』(東京堂出版)の例示による。
  71. 鈴木 孝夫 (1990)『日本語と外国語』(岩波新書)。
  72. 樺島 忠夫・飛田 良文・米川 明彦 [編] (1996)『明治大正新語俗語辞典』(東京堂出版)。
  73. 飯野 公一 (2003)「ポリティカリー・コレクト」『新世代の言語学―社会・文化・人をつなぐもの』(くろしお出版)。
  74. 梅棹 忠夫 (1972)「現代日本文字の問題点」『日本文化と世界』(講談社現代新書)など。
  75. 鈴木 孝夫 (1975)『閉された言語・日本語の世界』(新潮選書)など。
  76. 文化庁 (2001)『公用文の書き表し方の基準(資料集)増補二版』(第一法規)には、1981年の『公用文における漢字使用等について』『法令における漢字使用等について』など、諸種の資料が収められている。
  77. 77.0 77.1 西尾 実・久松 潜一 [監修] (1969)『国語国字教育史料総覧』(国語教育研究会)。
  78. 北条 忠雄 (1982)「東北方言の概説」『講座方言学 4 北海道東北地方の方言』(国書刊行会)p.161-162。
  79. 79.0 79.1 山浦 玄嗣 (1986)『ケセン語入門』(共和印刷企画センター、1989年に改訂補足版)。
  80. 西岡 敏・仲原 穣 (2000)『沖縄語の入門―たのしいウチナーグチ』(白水社)p.154。
  81. 国立国語研究所 [編] (1969)『沖縄語辞典』(大蔵省印刷局)に記載されている表音ローマ字を国際音声記号に直したもの。
  82. 笹原 宏之 (2006)『日本の漢字』(岩波新書)p.142-5。
  83. 飛田 良文 [編] (2007)『日本語学研究事典』(明治書院)の半澤幹一「談話体」p.266。
  84. 松岡 弘 [編] (2000)『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』(スリーエーネットワーク)p.324。
  85. 橋本 進吉 (1928)「国語学史概説」(1983年『国語学史・国語特質論(橋本進吉博士著作集 第9・10冊)』岩波書店)p.4の図に「独語体・対話体」の語が出ている。
  86. 金水 敏 (2003)『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店)。
  87. 林 四郎・南 不二男 [編] (1974)『敬語講座8 世界の敬語』(明治書院)。
  88. 敬語の指針(文化庁・文化審議会国語分科会、PDFファイル)
  89. 89.0 89.1 宮地 裕 (1971)「現代の敬語」『講座国語史5 敬語史』(大修館書店)。
  90. 90.0 90.1 宮地 裕 (1976)「待遇表現」『国語シリーズ別冊4 日本語と日本語教育 文字・表現編』(大蔵省印刷局)。
  91. 蒲谷 宏・坂本 恵・川口 義一 (1998)『敬語表現』(大修館書店)。
  92. 入江 敦彦 (2005)『イケズの構造』(新潮社)。
  93. 東条 操 (1954)『日本方言学』(吉川弘文館)。
  94. 金田一 春彦 (1964)「私の方言区画」(日本方言研究会編『日本の方言区画』東京堂)。
  95. 和田 実 (1966)「第一次アクセントの発見―伊吹島―」『国語研究』(国学院大学)22。
  96. 山口 幸洋 (2002)「「伊吹島」アクセントの背景―社会言語学的事情と比較言語学的理論」『近代語研究』11。
  97. 吉田 則夫 (1984)「方言調査法」『講座方言学 2 方言研究法』(国書刊行会)。
  98. 橋本 進吉 (1917)「国語仮名遣研究史上の一発見―石塚龍麿の仮名遣奥山路について」『帝国文学』26-11(1949年の『文字及び仮名遣の研究(橋本進吉博士著作集 第3冊)』(岩波書店)に収録)。
  99. 上田 万年 (1903)「P音考」『国語のため 第二』(冨山房)。
  100. 橋本 進吉 (1928)「波行子音の変遷について」『岡倉先生記念論文集』(1950年の『国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集 第4冊)』(岩波書店)に収録)。
  101. 土井 忠生 [編] (1957)『日本語の歴史 改訂版』(至文堂)の土井 忠生「鎌倉・室町時代の国語」p.158-159。
  102. 橋本 進吉 (1942)「国語音韻史の研究」(1966年の『国語音韻史(橋本進吉博士著作集 第6冊)』(岩波書店)に収録)p.352。
  103. 外山 映次 (1972)「近代の音韻」『講座国語史2 音韻史』(大修館書店)p.238-239。
  104. 桜井 茂治 (1966)「形容詞音便の一考察―源氏物語を中心として」『立教大学日本文学』16。
  105. 橋本 進吉 (1938)「国語音韻の変遷」『国語と国文学』15-10(1980年の『古代国語の音韻に就いて 他2篇』(岩波文庫)に収録)。
  106. 「外来語の表記」(1991年6月内閣告示)による。
  107. 奥村 三雄 (1968)「所謂二段活用の一段化について」『近代語研究 第2集』(武蔵野書院)。
  108. 阿部 秋生・秋山 虔・今井 源衛 [校注] (1970)『日本古典文学全集 源氏物語 一』(小学館)p.274。
  109. 坂梨 隆三 (1969)「いわゆる可能動詞の成立について」『国語と国文学』46-11。なお、坂梨によれば、「読むる」などの形が歴史的に確認されるため、「読み得(え)る」から「読める」ができたとする説は誤りということになる。
  110. 湯沢 幸吉郎 (1954)『増訂江戸言葉の研究』(明治書院)。
  111. 松井 栄一 (1983)『国語辞典にない言葉』(南雲堂)p.130以下で、明治時代の永井荷風『をさめ髪』(1899年)に「左団扇と来(こ)れる様な訳なんだね。」という例があることなどを紹介している。
  112. 小松 英雄 (1999)『日本語はなぜ変化するか』(笠間書院)。
  113. 池田 亀鑑・岸上 慎二・秋山 虔 [校注] (1958)『日本古典文学大系19 枕草子 紫式部日記』p.68。
  114. 楳垣 実 (1943)『日本外来語の研究』(青年通信社出版部)の「形式的借用概説」。
  115. 115.0 115.1 宮島 達夫 [編] (1971)『笠間索引叢刊4 古典対照語い表』(笠間書院)。
  116. 宮島 達夫 (1967)「近代語彙の形成」『国立国語研究所論集3 ことばの研究3』。
  117. 『都鄙新聞』第一 1868(慶応4)年5月(1928年の『明治文化全集』17(日本評論社)に収録)。
  118. 国立国語研究所 (1964)『現代雑誌九十種の用語用字』。
  119. 119.0 119.1 119.2 国立国語研究所 (2006)『現代雑誌200万字言語調査語彙表』。
  120. 楳垣 実 (1943)『日本外来語の研究』(青年通信社出版部)。
  121. 以上、伝来の時代認定は、『コンサイスカタカナ語辞典』第3版(三省堂)による。
  122. 山田 孝雄 (1940)『国語の中に於ける漢語の研究』(宝文館、1958年に訂正版)の「第一章 序説」。
  123. 飛田 良文 [編] (2007)『日本語学研究事典』(明治書院)の遠藤好英「和語」p.152。
  124. 岩田 麻里 (1983)「現代日本語における漢字の機能」『日本語の世界16』(中央公論社)。
  125. 鈴木 一彦・林 巨樹 [編] (1973)『品詞別日本文法講座4 形容詞・形容動詞』(明治書院)の「古今形容詞一覧」には1343語の形容詞が載り、うち文語形が示されているものは1192語である。残りの151語のうち、『日本国語大辞典』第2版(小学館)において明治以降の用例のみ確認できるものは「甘酸っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」など30語程度である。
  126. 山田 孝雄 (1937)『国語史 文字篇』(刀江書院)p.41以下などを参照。
  127. 2006年10月、大阪・難波宮跡で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」(春草のはじめのとし)と記された木簡が発見された。7世紀中頃のものとみられる。
  128. 村井 実 [訳・解説] (1979)『アメリカ教育使節団報告書』(講談社学術文庫)には、第1次報告書が収められている。
  129. 読み書き能力調査委員会 (1951)『日本人の読み書き能力』(東京大学出版会)。
  130. 高木 市之助・小澤 正夫・渥美 かをる・金田一 春彦 [校注] (1958)『日本古典文学大系33 平家物語 下』p.101。用字は一部改めた。
  131. 万葉集に記録された東国方言は8母音ではないことが知られる。佐藤 喜代治 [編] (1971)『国語史』再版(桜楓社)の前田 富棋「奈良時代」p.60-64。
  132. 真田 信治 (1991)『標準語はいかに成立したか』(創拓社)。
  133. 文部省 (1904)『国定教科書編纂趣意書』に収録されている「尋常小学読本編纂趣意書」の「第二章 形式」には、「文章ハ口語ヲ多クシ用語ハ主トシテ東京ノ中流社会ニ行ハルルモノヲ取リカクテ国語ノ標準ヲ知ラシメ其統一ヲ図ルヲ務ムルト共ニ……」(p.51)とある。
  134. 1934年に発足した放送用語並発音改善調査委員会の「放送用語の調査に関する一般方針」では、「共通用語は、現代の国語の大勢に順応して大体、帝都の教養ある社会層において普通に用いられる語彙・語法・発音・アクセント(イントネーションを含む)を基本とする」とされた(日本放送協会放送史編修室 (1965)『日本放送史 上』(日本放送出版協会)p.427)。
  135. 伊沢 修二 (1909)『視話応用 東北発音矯正法』(楽石社)。
  136. 仲宗根 政善 (1995)『琉球語の美しさ』(ロマン書房)の序では、1907年生まれの著者が、沖縄の小学校時代に経験した方言札について「あの不快を、私は忘れることができない」と記している。
  137. 石黒 修 (1960)「方言の悲劇」『言語生活』108には茨城なまりを笑われて人を刺した少年の記事が紹介されている。また、『毎日新聞』宮城版(1996年8月24日付)には1964年に秋田出身の少年工員が言葉を笑われ同僚を刺した事件その他が紹介されている(毎日新聞地方部特報班 (1998)『東北「方言」ものがたり』(無明舎)に収録)。
  138. 橋本 典尚 (2004)「「ネサヨ運動」と「ネハイ運動」」『東洋大学大学院紀要』(文学研究科 国文学)40。
  139. 加藤 正信 (1983)「方言コンプレックスの現状」『言語生活』377。調査は1979~1981年。回答者は首都圏・茨城県・東北地方を中心に全国に及ぶ。
  140. 『朝日新聞』夕刊 1995年6月22日付など。
  141. 陣内 正敬 (2003)「関西的コミュニケーションの広がり―首都圏では」『文部省平成14年度科研費成果報告書 コミュニケーションの地域性と関西方言の影響力についての広域的研究』。
  142. 『産経新聞』2005年9月18日付。
  143. コトバ探偵団 (2005)『THE HOUGEN BOOK ザ・方言ブック』(日本文芸社)その他。
  144. 井上 史雄・鑓水 兼貴 [編] (2002)『辞典〈新しい日本語〉』(東洋書林)。
  145. たとえば、脇田 順一 (1938)、『讃岐方言の研究』(1975年に国書刊行会から復刻版)の緒言には、「児童をして純正なる国語生活を営ましむるには先づ其の方言を検討し之が醇化矯正に力を致さなければならぬ」とある。また、戦後の高度成長の頃でも、グロータース, W. A./柴田 武 [訳] (1964)『わたしは日本人になりたい』(筑摩書房)の中で「日本の方言研究家たちは、方言によって標準語を豊かにしようという考えだから、結局は、標準語によっる日本語の統一が重要な目標になる。」(p.153)と指摘されている(グロータースは方言学者)。
  146. 柳田 国男 (1930)『蝸牛考』(刀江書院、1980年に岩波文庫)では、方言が中央を中心に同心円状の分布をなすこと(周圏分布)が示される。
  147. 橋本 進吉 (1928)「国語学史概説」(1983年の『国語学史・国語特質論(橋本進吉博士著作集 第9・10冊〔合冊〕)』(岩波書店)に収録)p.61。
  148. 本名 信行 [他] (2000)『アジアにおける日本語教育』(三修社)。
  149. 世界の日本語教育も参照。
  150. 井上 史雄 (2001)『日本語は生き残れるか』(PHP新書)。
  151. 月刊宝島編集部 [編] (1987)『VOW 現代下世話大全―まちのヘンなモノ大カタログ』(宝島社)、田野村 忠温 (2003)「中国の日本語」『日本語学』22-12(2003年11月号)など。
  152. 金田一 春彦 (1964)「日本語は乱れていない」『文藝春秋』1964年12月号。
  153. 宇野 義方 (1964)「日本語は乱れていないか―金田一春彦氏に反論」『朝日新聞』夕刊 1964年12月5日付。
  154. 国立国語研究所 (1955)『国立国語研究所年報7 語形確定のための基礎調査』。
  155. 井上 史雄 (1994)『方言学の新地平』(明治書院)。
  156. 米川 明彦 (1996)『現代若者ことば考』(丸善ライブラリー)。
  157. 山根 一眞 (1986)『変体少女文字の研究』(講談社)。
  158. 『週刊読売』1996年9月15日号。
  159. 『AERA』1997年6月30日号。
  160. 『HA・YA・RI系文字マスターノート』(アスキー 1997)など。
  161. NHK総合テレビ「お元気ですか日本列島・気になることば」2004年2月18日など。
  162. 『ギャル文字 へた文字 公式BOOK』(実業之日本社 2004)など。
  163. 『毎日新聞』2006年10月5日付など。
  164. 菊地 康人 (2003)『敬語再入門』(丸善ライブラリー)。
  165. 見坊 豪紀 (1977)「日本語ブームの回顧と展望」『辞書と日本語』(玉川大学出版部)は、1975年頃の日本語ブームを検証した文章である。
  166. 以上、部数の数字は『朝日新聞』夕刊 2002年11月18日付による。
  167. 志賀 直哉 (1964)「国語問題」『改造』1946年4月号(1974年の『志賀直哉全集 第7巻』(岩波書店)p.339-343 に収録)。
  168. 野元 菊雄 (1979)「「簡約日本語」のすすめ―日本語が世界語になるために」『言語』8-3などですでに主張されていたが、論議が起こったのは1988年のことである。
  169. 169.0 169.1 柴谷 方良 (1981)「日本語は特異な言語か?」『言語』12-12。
  170. 170.0 170.1 松村 一登 (1995)「世界の中の日本語―日本語は特異な言語か」『アジア・アフリカ言語文化研究所通信』84。
  171. Edwin O. Reischauer (1977) The Japanese, Tokyo: Charles E. Tuttle, p.385-386.
  172. 千野 栄一 (1999)『ことばの樹海』(青土社)。
  173. 角田 太作 (1991)『世界の言語と日本語』(くろしお出版)。
  174. 森 恭三 (1959)『滞欧六年』(朝日新聞社)。
  175. グロータース, W. A./柴田 武 [訳] (1984)「日本語には特色などない」『私は日本人になりたい―知りつくして愛した日本文化のオモテとウラ』(大和出版 グリーン・ブックス56)p.181-182。

関連書籍[編集]

入門書・概説書・一般向けの教養書などを中心として、各分野ごとに、著者五十音順に掲げる。原著の文庫化されたものは、文庫の出版年を掲げる。

1 日本語(学)一般

〔講座〕

  • 大野 晋柴田 武 [編] (1976-1978) 『岩波講座 日本語』全12巻 別巻1 (岩波書店)
  • 大野 晋・丸谷 才一 [編] (1980-1986) 『日本語の世界』全16巻 (中央公論社
  • 町田 健 [編] (2001-2004) 『シリーズ 日本語のしくみを探る』全6巻 (研究社)
  • 宮地 裕 他 [編] (1989-1991) 『講座日本語と日本語教育』全16巻 (明治書院)

〔事典〕

2 日本語系統論

3 音声・音韻

4 文法

〔講座〕

5 語彙

6 表記

7 文章・文体

8 方言

〔講座〕

9 待遇表現・敬語

10 日本語の歴史(総説)

〔講座〕

  • 亀井 孝 他 [編] (1963-1966) 『日本語の歴史』 (平凡社、部分的に平凡社ライブラリーに収録)
  • 松村 明 他 [編] (1971-1982) 『講座国語史』 (大修館書店)

11 日本語教育

12 日本語と外国語

13 日本語手話

関連項目[編集]

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ウィキブックスに、日本語に関連する電子書籍があります。

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五十音順に示す。

外部リンク[編集]

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