習志野市
習志野市(ならしのし)は、千葉県北西部に位置する市である。下総台地の端であり、東京湾に面する。人口約16万人で、千葉県内では流山市に次いで10位である。
目次
地理[編集]
下総台地の端であり、海岸部から内陸部にかけて高低差が大きい。東京湾沿いには広大な遠浅の海岸を埋め立てた住宅地や商工業地が広がるが、1ヶ所だけ埋め立てられないで残ったラムサール条約登録地谷津干潟があり、干潟を必要とする渡り鳥の重要な中継飛来地となっている。
歴史[編集]
原始・古代・中世[編集]
千葉市の加曽利貝塚などにも見られるように、千葉県の東京湾岸には多くの縄文時代の遺跡が存在する。習志野市周辺にも藤崎堀込貝塚などの当時の遺跡が多数確認されている。市内には鷺沼古墳群があり、鷺沼地区には有力な豪族がいたことが分かる。律令制下で下総国に属し、古東海道の浮嶋駅を習志野市内に比定する説もあるが詳しくは不明である。治承4年(1180年)、吾妻鏡には、石橋山の戦いに敗れ安房国に上陸した源頼朝が、軍勢を連れて北上して鎌倉に向かったときに陣を置いた館(やかた)の場所として、「鷺沼御旅館」の名前が見られる。現在、市役所がある鷺沼地区の八剱台や、八剣神社周辺、また、暗渠となっている菊田川の左岸が下総台地に迫る位置の大堀込が、中世の武士の城館である鷺沼城跡の候補地となっている。
近世[編集]
中世までは葛飾郡とされることもあったが、江戸時代初期に現市域内に分布した谷津(やつ)、久々田(くくだ、くぐた)、鷺沼(さぎぬま)、藤崎(ふじさき)、実籾(みもみ)などの村々は千葉郡に属し、ほとんどが幕府領または旗本領となっていた。また、大久保(おおくぼ)新田が関西(おもに大阪府羽曳野市)からの移住者によって開発された。当時の資料には海岸部に谷津村や久々田村・鷺沼村などの地名が見られ、内陸の実籾村の北部には幕府によって小金牧が置かれた。藤崎村・大久保新田・実籾村には東金御成街道が通り、藤崎の名はその地を通った徳川家康が「藤咲」と名付けたと伝えられる。後に同地にある子安神社の祭神コノハナサク(咲)ヤヒメの名を憚って「咲」を「崎」に変えたという。また、屋敷(やしき)台新田が馬加村(後に幕張)の一部となっていた。この海岸部の村々と内陸の台地の村々の二つの地域が、その後の習志野市の地理的な二大要素、すなわち後述の「津田沼」と「習志野原」を構成するようになるのである。
東京湾沿岸には海岸近くにまで下総台地が迫り、そこに三本の谷(谷津田)が刻まれている。ここに開けた水田の回りに開けた集落が最も西に位置する谷津、中央の久々田とその上流に位置する藤崎、東の鷺沼であった。
明治 - 昭和[編集]
1888年(明治21年)、町村制施行により、谷津、久々田、鷺沼、藤崎、大久保新田(後の大久保)の5村が合併して、人口約4,500人の千葉郡津田沼村が誕生した。「津田沼」の名は、谷津の津、久々田の田、鷺沼の沼を合わせたものである。一方、実籾村は馬加村などと合併して幕張村となった。1895年(明治28年)、前年開通した総武鉄道に津田沼駅が出来る。1903年(明治36年)には津田沼村が町制をしき、人口約6,000人の津田沼町となった。
1873年(明治6年)、小金牧の大和田原(現・千葉県船橋市習志野台から高根台周辺)で明治天皇御覧の下で陸軍による演習が行われた。後に明治天皇によって、その地は「習志野原」と命名され、陸軍の演習場となった。なお、演習場の敷地は、その後、拡張され、現在習志野市・八千代市の一部の広大なものとなった。
※一説には篠原国幹少将による指揮に感銘し、そのときの天皇の発言(「篠原を見習え」>習え篠原>習志野原)がもととなったという。後に陸軍によって買収され習志野演習場となった。
陸軍習志野練兵場には日露戦争の時に捕虜の収容施設が作られ、ロシアの捕虜が、また、第一次世界大戦の時には、ドイツやオーストリア=ハンガリーの捕虜が収容された。大久保には、第十三・十四・十五・十六の4つの騎兵連隊と陸軍衛戍病院(現在の千葉県済生会習志野病院)がおかれ、第1・第2の2つの騎兵旅団が編成された。昭和に入り騎兵連隊が中国大陸へと進駐すると、後には陸軍習志野学校や戦車第2連隊が置かれるようになった。また、近隣の藤崎に騎砲兵第2連隊が、実籾には東西の高津廠舎と糧秣廠倉庫が置かれた。
津田沼には鉄道第二連隊が置かれ、松戸から津田沼までに演習で路線が引かれ、それが現在の新京成電鉄となった。
こうして津田沼町の一帯も含む広い地域が「軍郷」とよばれ、軍隊の街「習志野」が成立した。近年では旧日本陸軍軍用跡地に毒ガス弾が埋設され残っている問題が浮上した。環境省が調査を行っているが、旧日本陸軍習志野駐屯地跡地のある船橋市・八千代市など近隣市町村にまたがる広域の問題となっている。
戦後[編集]
津田沼町周辺は軍郷・習志野の一部として1901年(明治34年)に設置された騎兵第1旅団(現日本大学・東邦大学)、騎兵第2旅団(現東邦大学付属東邦中学校・高等学校など)をはじめ、津田沼駅前に鉄道第二連隊(現千葉工業大学)などの軍関係施設が点在していた。
戦後、軍施設は民用施設に転換され、住宅地となったり、教育施設、病院、工場として利用された。千葉工業大学津田沼キャンパスには、鉄道第二連隊の表門が残されている。北東部の「習志野原」と呼ばれる旧陸軍演習場の敷地の大部分は、外地からの引揚者などの手による開墾地となった。(「平林巌と習志野原の開拓」を参考)
1954年(昭和29年)8月1日 津田沼町が習志野町に名称変更、同日千葉市の一部(旧幕張町北部)を編入合併、同日市制施行により習志野市が成立した。習志野演習場の自衛隊施設に転用された部分を含む旧二宮町は船橋市に編入された(この部分、「習志野市の成立」を参照)。市制が布かれて以降、「津田沼」の地名は旧久々田村の地域を指す地名として残された。総武線は乗客数増加に対応し東京-津田沼間で複々線化し、快速運転を開始するようになった。また、津田沼駅周辺に大型店舗が乱立するようになった。津田沼戦争を参照のこと)。
沖合いに広がる遠浅の海岸は、戦後、伝統的な潮干狩りに加えて海苔の養殖で繁栄したが、1960年代に千葉県企業庁がこれを埋め立て、日本住宅公団が袖ヶ浦団地を造成した。また、1970年代の第二次の埋め立てでは秋津、香澄の住宅公団の団地や分譲住宅地の他、芝園・茜浜などに工業地が作られ、東関東自動車道水戸線の建設の際には緑地が作られた。このとき旧大蔵省管轄の土地が池状に埋め立てられずに残され、東京湾と二本の水路でつながった干潟は谷津干潟と呼ばれ、船橋沖に広がる三番瀬と並ぶ野鳥の飛来地として保護され、ラムサール条約登録地となった。
東日本大震災の影響で、市役所本庁舎の耐震強度が低下したため、本庁舎を建て替えすることになり、2012年10月1日からは別棟の市民課を除き本庁舎内の各課を市役所周辺の施設に移転させた上、習志野市津田沼5丁目(京成津田沼駅前)の以前ホテルが入っていた建物も仮庁舎として使用している。
沿革[編集]
町村制の施行以来、一度も他の市町村全域とのの廃置分合を行っていない珍しい例である。千葉県内では他に鎌ケ谷市、富里市、酒々井町がある。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により谷津村、久々田村(現津田沼)、鷺沼村、藤崎村、大久保新田が合併して千葉郡津田沼村が発足。
- 1903年(明治36年)3月3日(6月3日) - 津田沼村が町制を施行し津田沼町となる。
- 1954年(昭和29年)
- 1955年(昭和30年)9月30日 - 船橋市習志野町の一部(現東習志野)を編入。
- 1957年(昭和32年)12月1日 - 千葉市幕張町2丁目の一部(現花咲)、長作町の一部(現実籾)を編入。
- 1965年(昭和40年)9月1日 - 千葉市長作町の一部(現実籾)を編入。
- 1966年(昭和41年)12月27日 - 公有水面埋立地(現袖ヶ浦)を編入。
- 1967年(昭和42年)3月1日 - 東習志野町字新生の一部を千葉市に編入(現長作町)。千葉市幕張町2丁目の一部(現花咲)を編入。
- 1969年(昭和44年)
- 3月1日 - 千葉市幕張町2丁目の一部(現屋敷、花咲)、長作町の一部(現実籾)を編入。
- 10月1日 - 東習志野町字新生の一部を千葉市に編入(現長作町)。
- 1970年(昭和45年)5月1日 - 千葉市幕張町2丁目の一部(現屋敷、花咲)を編入。
- 1971年(昭和46年)5月1日 - 屋敷町の一部を千葉市に編入(現幕張町)。千葉市幕張町2丁目の一部(現花咲、本大久保、花咲)、長作町の一部(現実籾、実籾本郷)を編入。
- 1977年(昭和52年)12月15日 - 公有水面埋立地(現香澄、秋津、茜浜、芝園)を編入。
- 1980年(昭和55年)8月5日 - 公有水面埋立地(現芝園)を編入。
- 1981年(昭和56年)5月1日 - 谷津7丁目の一部を船橋市に編入。
- 1989年(平成元年)2月17日 - 公有水面埋立地(現香澄)を編入。
- 1992年(平成4年)3月3日 - 公有水面埋立地(現袖ヶ浦)を編入。現在の市域となる。
人口[編集]
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習志野市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 習志野市の年齢・男女別人口分布(2005年) |
■紫色 ― 習志野市
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 }} |
習志野市(に相当する地域)の人口の推移 テンプレート:人口統計/12 | |
総務省統計局 国勢調査より |
隣接している自治体・行政区[編集]
現在
旧津田沼町時代
行政[編集]
歴代首長[編集]
津田沼村長
- 初代 伊藤弥一(谷津):1889年(明治22年)5月 - 1893年(明治26年)4月
- 2代 三橋茂兵衛(久々田):1893年(明治26年)5月 - 1894年(明治27年)4月
- 3代 村山吉兵衛(鷺沼):1894年(明治27年)4月 - 1895年(明治28年)6月
- 4代 伊藤弥一(谷津):1895年(明治28年)7月
- 5代 三橋茂兵衛(久々田):1895年(明治28年)9月 - 1897年(明治30年)4月
- 6代 植草十右衛門(久々田):1897年(明治30年)12月 - 1901年(明治34年)12月
- 7代 笠川徳脩(その他):1902年(明治35年)5月 - 1903年(明治36年)3月 大和田町(現・八千代市出身)
津田沼町長
- 初代 笠川徳脩(その他):1903年(明治36年)3月 - 1904年(明治37年)7月
- 2代 中島左内(久々田):1905年(明治38年)3月 - 1908年(明治41年)10月
- 3代 田久保節造(藤崎):1909年(明治42年)2月 - 1911年(明治44年)8月
- 4代 中島左内(久々田):1911年(明治44年)9月 - 1929年(昭和4年)10月
- 5代 田久保清次(藤崎):1929年(昭和4年)11月 - 1931年(昭和6年)1月
- 6代 吉野信(久々田):1931年(昭和6年)1月 - 1946年(昭和21年)11月
- 7代 白鳥義三郎(久々田):1947年(昭和22年)4月 - 1954年(昭和29年)8月
習志野市長
- 初代 白鳥義三郎:1955年(昭和30年)-1963年(昭和38年)
- 2代 大塚軍記
- 3代 吉野孝
- 4代 三上文一:1983年(昭和58年)4月-1991年(平成3年)4月
- 5代 荒木勇:1991年(平成3年)4月-2011年(平成23年)4月
- 6代 宮本泰介:2011年(平成23年)4月-(現職)
死んだハト、血まみれのティッシュ……習志野パチンコ店建設強行問題で、反対住民に相次ぐ嫌がらせ被害[編集]
反対運動が起こっていた千葉県習志野市のパチンコ店建設で、一部の反対住民が嫌がらせ被害を受けていた。
「おまえの施設が出て行ったらええねん/20人ぐらいのガキのために/何千人もいるパチンコファン犠牲にすんなや」
同市にある障害児童福祉施設に、こんなメールが送られてきたのは、ちょうど建設が始まったばかりの2013年5月のこと。新設のパチンコ店とは、わずか90メートルの距離とあって、施設の関係者がこの建設に対して問題提起を行っていたところ、こうしたメールのほか、多数のゴキブリの死骸や血のついたティッシュペーパーなどが敷地内に投げ入れられた。
さらには運営者の自宅にまで連日、石やゴミが投げつけられるありさまで、反対運動をしていた中心メンバーにも被害が集中。反対集会を主催した男性の自家用車が傷つけられたり、この件を取材していた地元の記者には「おまえパチンコに反対して何の得があんねん」という脅迫電話があり、庭には死んだハトの死骸が複数、投げ込まれた。
「それまでこんなことは一度だってなかったのに、パチンコ反対運動をした途端にこれですからね……」
マルハン習志野店の建設は、2013年2月ごろになって住民の知るところとなったが「その時点ですでに、4月に着工予定と、ストップはかけられない状態だった」。現場は閑静な住宅街だが、約4,000平方メートルに777台の駐車場を持つ大型店ができるという話に、周辺は騒然となった。目前には高校や福祉施設があったからだ。
習志野市は、教育施設から200メートル以上の距離を置く独自のルールを制定していたが「まったく同じタイミングで、市はその条例を撤廃して、まるで市がパチンコ店を誘致したような形なので、宮本泰介市長にも掛け合いましたが“もう決まったこと”と冷たく突き放された」と住民男性。現地では「行政と店側がデキているのではないか」というウワサも立った。
癒着疑惑がささやかれたのは、地元警察もしかり。数々の嫌がらせ被害に対し、被害者が所轄の警察署に相談したところ「イヤなら引っ越せばいい」と冷たく返される始末だった。パチンコ業界には多くの元警察OBが天下りするなど、長く癒着関係がいわれてきただけに、住民の不信感は高まるばかり。
「もちろん嫌がらせの犯人は分かっていませんが、マルハンは説明会でも一部の社員が住民に対する横柄な応答で反感を買っていて、市の定めた開発事業指導要綱というルールにも違反していながら建設を強行したり、工事の進め方に協定を締結したいと申し入れてもダメで、そういう姿勢なので、嫌がらせは“ここを担当する(マルハンの)連中がやったんじゃないか”って言う人もいます」
結局、店舗が完成し、大きな看板と照明群が夜遅くまで点灯。
「交通量も増えて、変わってしまった住環境は元には戻せない。店の営業時間は23時までですが、せめて照明だけでももっと早く落せないかと要望をしているんですが、現時点で色よい返事はもらえていない」
相次ぐ嫌がらせ被害には、怖がって反対運動や交渉をやめてしまった人も続出。別の住民女性によると「11月に入っても、気を滅入らせるようなメールが続いている」という。
「マルハンが犯人だとは言いませんが、説明会では住民の名前と住所を書かせていたし、近隣のマンションには戸別訪問の意思も示していて、まるで反対住民の個人情報を把握したがっていたように見えたので、怖い」
おびえる住民をよそに、店舗前の道路には車の通行が急増。こうした問題は全国各地で起こっており、実質は賭博場であるパチンコ店の建設には、さらなる規制が必要という声も根強い。
しかし、パチンコ業界は、関連企業の役員の親族の結婚式に安倍晋三や小泉純一郎ら新旧の首相が出席するほど、政界の後押しを取り付けており、自民党が進めているカジノ解禁にも深く食い込む動きを見せている。こうした巨大利権の結びつきの前では、抗議むなしく、市民も悲しい目で見つめるだけとなっている。
反対運動あった習志野パチンコ店・マルハン周辺で続く住民トラブル「明らかに治安が悪化」[編集]
建設時に反対運動が起こっていた千葉県習志野市のパチンコ店・マルハンで、客が塀を乗り越えて隣のマンションに不法侵入する事件が起こっていたことが分かった。
被害に遭ったマンションの管理組合によると、2014年9月13日の午後15時20分ごろ、マルハン敷地内から男が塀を乗り越えてマンションの駐車場に侵入し、周辺を物色。男は住民の目撃に気付いて、その場から逃走。被害はなかったが、マンション側は警察に被害届を出したという。
2013年のマルハン建設時、反対した近隣住民の敷地に石やゴミ、鳥や虫の死骸、血のついたティッシュペーパーなどが投げ入れられるという嫌がらせが相次ぎ、以前から警察に相談する住民が続出していた。
「それらの嫌がらせを、パチンコ店側と直接結び付ける証拠はなかったんですが、今回は明らかにマルハンの敷地内からの侵入。パチンコで金を失った人が、腹いせに何か盗もうとしたのかもしれません」とマンション住民。
パチンコ店は大手マルハンが約1年前に開店。だが、周辺が閑静な住宅街とあって、約4,000平方メートルの敷地に777台の駐車場を持つ大型店に対し、昨年5月の建設時から住民たちが反対集会を開いて習志野市長やマルハン側に建設の見直しを求めていた。
というのも、それまで習志野市は風俗店の建設などに対し、教育施設から200メートル以上の距離を置く独自のルールを制定しており、目前に学校や福祉施設があったことから本来は建設にストップがかけられる条件だった。だが、なぜかマルハンの出店と同じタイミングで、この条例が撤廃されるという、市議会の異様な決議があったのだ。
住民間では市側とパチンコ店の癒着を疑う声も噴出、マルハンの開いた説明会で反対の声も飛んだが、出席したマルハン社員は「最近のパチンコ店はお年寄りの交流の場になったりしている」と反論。場内から失笑が漏れると、顔色を変えて「笑うな!」と怒鳴りつける場面があり、緊迫した状態となった。
「結局、住民側はマルハン側に営業時間の短縮や、照明、警備の再考など、数々の要望を出したんですが、マルハン側はほとんど受け入れないまま、開店が強行されてしまいました」(同)
反対した住民からは開店前、治安の悪化と渋滞に対する不安の声が数多く集まったというが、実際に開店後は、それまでに一度も見られなかった渋滞が頻繁に見られるようになったという。
「現場の道路は学校の通学路でもあるんですが、歩道がかなり狭いことから当初、マルハンの雇った警備員が交通整理をしていました。でも、それは開店直後だけ。現在は、地元住民がボランティアで誘導するしかない状況です。ついには今回のような事件が起こってしまい、転居の準備をしている人もいます」(同)
侵入のあったマンションの管理組合は、マルハンに対して再発防止、監視カメラの精度向上などを求めているが「現時点で明確に対策が取られてはいない」という。
「パチンコ店への苦情を警察に言っても、極端に後ろ向きで、まるで取り合ってもらえない。『嫌なら引っ越せ』と言われた住民もいるほど」(同)
現在、全国のパチンコ店に関しては政府・自民党内で、法人税の引き下げに伴う税収減の穴を埋める財源のひとつとして、パチンコの換金時に徴税する「パチンコ税」の創設案が出されているが、前出住民は「パチンコの換金は実質的には違法行為なので、パチンコ税を認めるとパチンコ自体が合法化してしまうのではないか」と懸念している。
不法侵入による実害こそ食い止められたが、住民たちのパチンコへの反発は、今回の事件でより強まった印象だ。
産業[編集]
農業[編集]
住宅化が進み、農地は減って来ているが、近郊農業は行われている。主な産物はニンジンやネギなどで、菊田川・浜田川上流域において水田が僅かに存在する。
工業[編集]
東習志野にいくつか大きな工場がある。千葉港から広がる京葉工業地域には、重化学工業が発達している。
習志野市は当初、内陸部・東習志野の旧陸軍習志野演習場を解放した開拓地を、農地法による売買制限解除前に買い上げ、工業団地を造成して日立製作所などの大工場を誘致した。沿岸部では第二次埋立の行われた1970年代に公害が大きな社会問題となったこともあって大工場の誘致は行わず、埋め立て完了後、茜浜に中小工場による工業団地を造成した。
また、鷺沼で天然ガスの採掘が行われていたが、現在は休止中である。
商業[編集]
習志野の陸軍施設の玄関口として総武線津田沼駅北口には戦前から駅前商店街が形成されたが、それらの多くは船橋市(旧二宮町)に属する。津田沼駅北口・南口の再開発事業によって大型商業施設が集積する1970年代後半までは京成電鉄の谷津遊園(現・谷津)・京成津田沼・京成大久保・実籾の各駅周辺に駅前商店街が形成される以外に目立った商業施設は無かった。その中で谷津遊園に続く谷津遊園駅南口と、大久保の陸軍施設(戦後は国立病院および大学)に続く京成大久保駅北口の商店街は早くから発展し、市内で最も繁華な地区であった。
1970年代後半、千葉県立千葉工業高等学校と習志野第一中学校といった駅周辺に大きな面積を占めていた学校施設の移転後に再開発事業の行われた津田沼駅周辺では、隣接する船橋市域に跨って長崎屋やパルコ、イトーヨーカドー、丸井(以上北口)、高島屋、ダイエー(以上南口)などの大型店が相次いで進出し、新京成電鉄沿線の船橋市東部も含めた膨大な居住人口を背景に津田沼戦争と呼ばれる激しい競争が展開した。これらの大型店のうち長崎屋、高島屋は1980年代に、ダイエーが2005年(平成17年)末に、丸井が2007年(平成19年)に撤退しているが、2003年(平成15年)10月4日にイオン株式会社がイオン津田沼ショッピングセンター(現・イオンモール津田沼)をオープン、2007年(平成19年)11月9日にファーストリテイリングがユニクロを核店舗としたミーナ津田沼を丸井撤退後の店舗にオープンさせ、更に2008年(平成20年)にはダイエー撤退後の津田沼サンペデックビルがモリシア津田沼と名称を変え、ヤマダ電機LABI津田沼店とイオンモリシア津田沼店ほか多数テナントをオープンさせたため、激しい競争の再来が予想される。
2000年代に入って、造成の遅れていた京葉線新習志野駅南側に郊外型大型商業施設が進出した。これに対してかつては団地住民の日常の買い物で賑わった袖ヶ浦団地内のショッピングセンターは、苦戦を強いられながらも比較的健闘していたが、秋津団地のショッピングセンターは撤退に至った。
姉妹・提携都市[編集]
交通[編集]
鉄道[編集]
習志野という駅は市内に存在せず(習志野駅は船橋市にある。経緯は習志野の項を参照の事)、船橋市にまたがる津田沼駅が市の中心駅となっている。京成線が京成津田沼駅で京成本線と千葉線に分岐する。また、京成津田沼駅は新京成線の起点である。またJR総武線、京葉線が通っていて、習志野市内にそれぞれ車両基地がある。
東日本旅客鉄道(JR東日本)
- 開設当時は、津田沼駅は二宮町側のみに存在した。
- 京葉線: - 新習志野駅 -
路線バス[編集]
- 習志野新京成バス
- ちばレインボーバス
- 八千代緑が丘駅行き 船尾車庫行き 千葉ニュータウン中央駅行き 木下駅行き
- 千葉シーサイドバス
- 習志野市ハッピーバス
- 京成津田沼駅内陸ルート
- 京成津田沼駅海浜ルート
- 京成大久保駅ルート
高速バス[編集]
深夜急行バス[編集]
道路[編集]
高速道路
一般国道
その他
- 旧東金街道(御成街道)
港湾[編集]
観光[編集]
史跡・名所[編集]
- 谷津干潟
- 谷津バラ園(谷津遊園内にあったバラ園が市に移管されたもの)
- 旧鴇田家住宅(実籾本郷公園にある千葉県指定有形文化財の民家)
- 旧大沢家住宅(藤崎森林公園にある千葉県指定有形文化財の民家)
- 藤崎堀込貝塚(千葉県指定史跡)
- 軍隊史跡(旧鉄道第2連隊正門、騎兵旅団の碑、騎兵第13・14連隊の碑・ドイツ捕虜オーケストラの碑など)
- 巨人軍発祥の地の碑(谷津バラ園の近く)
- 鷺沼城跡
- 実籾城跡
国の登録有形文化財[編集]
- 千葉工業大学通用門(旧鉄道第2連隊正門)(津田沼)
- 廣瀬家住宅 主屋など(津田沼)
主な神社[編集]
主な寺院[編集]
- 東福寺(谷津)
- 西光寺(谷津)
- 東漸寺(津田沼)
- 慈眼寺(鷺沼)
- 正福寺(藤崎)
- 無量寺(実籾)
- 薬師寺(大久保)
イベント[編集]
過去に存在した主な軍事施設[編集]
- 陸軍習志野錬兵場の一部(大部分は二宮町に属していた)
- 騎兵第1旅団(敷地の一部が二宮町に属していた)
- 騎兵第2旅団
- 陸軍習志野学校
- 鉄道第2連隊
- 鉄道連隊材料工廠
- 鉄道連隊演習線
- 支那囲壁砲台(一部現存)
住宅団地[編集]
教育[編集]
旧軍隊施設跡地に誘致された東邦大学(ただし東邦大学は船橋市内に位置する)や日本大学生産工学部、千葉工業大学のキャンパスが大久保や津田沼、さらに埋立地の芝園にあり、学生の数が多い。京成大久保駅周辺は学生街を形成している。
市立習志野高校は高校野球や吹奏楽部、サッカー等で活躍し、全国的に有名であり、千葉県立津田沼高等学校には音楽コースが設けられており、ここでも音楽教育が盛んである。
幼稚園[編集]
市立
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私立
他の幼児施設
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小学校[編集]
中学校[編集]
高等学校[編集]
専門学校[編集]
大学[編集]
過去に所在した大学関係施設[編集]
- 巣鴨経済専門学校(現・千葉商科大学) - 1945年から1946年まで
- 東洋高等学校 (旧制)(現・東洋学園大学) - 1947年から1950年まで
- 順天堂大学習志野キャンパス - 1947年から1988年まで
- 千葉大学腐敗研究所 - 1949年から1987年まで
習志野市を舞台とする作品[編集]
- 「BPS バトルプログラマーシラセ」
- 「ゴジラ×メカゴジラ」
- 「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」
- 「でじぱら」(髙木信孝の漫画作品)
- 「ツマヌダ格闘街」(上山道郎の漫画作品)
- 「キャッチボール×3」2010年(平成22年)秋公開の映画
出身人物[編集]
- 鳳凰馬五郎(大相撲元大関 5代目年寄宮城野)
- 鈴木大地(水泳選手ソウルオリンピック100m背泳ぎ金メダリスト)
- 高田昌明(サッカー静岡FC選手兼監督)
- 服部公太(サッカーファジアーノ岡山選手)
- 砂川誠(サッカーコンサドーレ札幌選手)
- 北嶋秀朗(サッカーロアッソ熊本選手)
- 小川淳司(プロ野球東京ヤクルトスワローズ一軍監督)
- 平沼定晴(プロ野球元中日ドラゴンズ千葉ロッテマリーンズ西武ライオンズ選手)
- 宮本泰介(政治家・千葉県習志野市長)
- 福浦和也(プロ野球千葉ロッテマリーンズ選手)
- 立石尚行(プロ野球北海道日本ハムファイターズ元選手)
- 野口寿浩(プロ野球横浜ベイスターズ元選手)
- 井上貴朗(プロ野球阪神タイガース千葉ロッテマリーンズ元選手)
- 白鳥伸雄(競輪元選手・元賞金王)
- 長谷部徹(スタジオ・ミュージシャン ドラマー 元T-SQUAREのメンバー)
- 中村晃子(女優・歌手)
- 長柄琢磨(元えちうら)
- 白鳥充紀(元えちうら)
- 森田彩華(美少女クラブ31)
- 松尾翠(フジテレビアナウンサー)
- 斎藤恒雄(元福岡放送アナウンサー)
- 有岡大貴(アイドル)
- 反田有沙(モデル)
- 本村剛一(テニス選手)
関連項目[編集]
- 下総国
- 千葉郡
- 習志野
- 津田沼
- 二宮神社
- 千葉県国際総合水泳場
- オービックシーガルズ - オービック習志野グラウンドが茜浜にあり、市内の教育イベントに参加するなど、地元密着の姿勢を盛んに打ち出している。