尾崎彰春
尾崎 彰春(おざき あきはる、1930年6月6日 - )は、日本のヤクザ。指定暴力団・六代目山口組顧問、心腹会会長。 本名は尾崎 昭治。
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来歴 [編集]
昭和25年(1950年)、尾崎彰春は、新開地・稲荷市場ある元・魚屋「蛸文」だった下宿屋に住んだ。この下宿屋の主は、三代目山口組・田岡一雄組長の舎弟・中坂文八だった。山本健一(後の三代目山口組若頭)、前田豪、益田芳夫(後の益田佳於。後の五代目山口組顧問)、益田啓助(益田芳夫の弟。後の五代目山口組舎弟頭)、大平一雄(本名は松浦一雄。後の三代目山口組若頭補佐)が、中坂文八の下宿屋に下宿していた。
昭和28年(1953年)1月6日午後7時、山本健一、山口組若衆・清水光重(後の三代目山口組若頭補佐)、益田芳夫、尾崎彰春は、鶴田浩二襲撃事件を引き起こした。 昭和29年(1954年)9月3日、山口組と谷崎組の抗争事件が勃発した。 昭和32年(1957年)11月17日、山口組は小松島抗争に介入した。 昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。
同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始した。 このころ、尾崎彰春は、安原会(会長は安原政雄)副会長を務めていた。
昭和42年(1967年)12月15日、安原政雄は、ヤクザから引退し、安原会を解散した[1]。
同年12月、尾崎彰春は、安原会の解散反対派を集めて、心腹会を結成した。
昭和43年(1968年)11月、田岡一雄は、尾崎彰春に盃を与えて、田岡一雄の若衆にした。
昭和56年(1981年)7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。
同年10月25日、神戸市灘区篠原本町の田岡邸で、山口組組葬が行なわれた。喪主は、田岡一雄の未亡人・田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川会・稲川聖城会長だった。服役中の山口組若頭・山本健一が、副葬儀委員長だった。
山口組の運営は、山本健一の出所まで、山広組・山本広組長(後の一和会会長)、小田秀組・小田秀臣組長、中西組・中西一男組長(後の四代目山口組組長代行)、竹中組・竹中正久組長(後の四代目山口組組長)、益田組・益田芳夫組長、加茂田組・加茂田重政組長(後の一和会副会長兼理事長)、豪友会・中山勝正会長(後の四代目山口組若頭)、溝橋組・溝橋正夫組長と、田岡一雄の未亡人・田岡文子で行なわれることになった。
昭和57年(1982年)2月4日、山本健一は、大阪市生野区の今里病院で、肝硬変に腎不全を併発して死去した。これを切っ掛けに山口組四代目跡目問題が浮上した。尾崎彰春は、最終的に、山口組四代目に竹中正久を推すグループを支持した。同年4月27日、山本健一の山口組組葬が、田岡邸の隣で行なわれた。施主は田岡文子、葬儀執行委員長は山口組筆頭若頭補佐・山本広、葬儀執行副委員長は、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田芳夫、加茂田重政、中山勝正、溝橋正夫だった。葬儀出席者は900人だった
同年6月5日、山本広は、三代目山口組組長代行に就任した。
同年6月15日、田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれた。山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、中山勝正、溝橋正夫が主席し、竹中正久の若頭就任が了承された。
昭和59年(1984年)同年6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。
同日、大阪市東区の松美会(会長は松本勝美)事務所で、山本広、加茂田重政、佐々木組・佐々木道雄組長、溝橋正夫、北山組・北山悟組長、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。
同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田重政は、一和会副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会・加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会・加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。
同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。
同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川会・稲川聖城会長。取持人は諏訪一家・諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長、会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家・大野鶴吉総長、今西組・辻野嘉兵衛組長、松浦組・松浦繁明組長、大日本平和会・平田勝市会長、森会・平井龍夫会長、草野一家・草野高明総長。見届け人は旭琉会・翁長良宏会長。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長。霊代は、田岡文子。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った。尾崎彰春は竹中正久の舎弟に直った。
昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。 昭和63年(1988年)6月ごろ、山口組五代目跡目問題が浮上した。尾崎彰春は、山口組五代目に四代目山口組若頭・渡辺芳則(二代目山健組組長)を推すグループに属した。 平成元年(1989年)4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中組・竹中武組長(竹中正久の弟)は、態度を保留した。四代目山口組若頭・渡辺芳則と四代目山口組組長代行・中西一男(中西組組長)が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。
同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。
同年4月下旬、神戸市花隈の山健組事務所で、渡辺芳則と山口組本部長・岸本才三(岸本組組長)と近松組・近松博好組長が、竹中武を山口組に留め置くことを確認し、竹中武の連れ戻しを協議した。しかし、山口組若頭補佐・宅見勝(宅見組組長)は、竹中武の連れ戻しに反対だった。宅見勝は、尾崎彰春に依頼して、岸本才三に、竹中武連れ戻しを断念させた。渡辺芳則も宅見勝の考えに同調し、竹中武の連れ戻しは白紙になった。
同年5月18日、山口組本家で、舎弟24人、若衆45人と盃直しを行なった。尾崎彰春の実子・尾崎勝彦ら4人が新たに直参になった。竹中武、二代目森川組・矢嶋長次組長、牛尾組・牛尾洋二組長、森唯組・森田唯友紀組長は欠席した。
同年5月27日、渡辺芳則は、山口組最高顧問を新設し、中西一男を最高顧問に据えた。渡辺芳則は、英組・英五郎組長、倉本組・倉本広文組長、黒誠会・前田和男会長、弘道会・司忍会長、芳菱会・滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。渡辺芳則は、益田啓助を舎弟頭に据えた。渡辺芳則は、章友会・石田章六会長、大石組・大石誉夫組長、西脇組・西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽組・嘉陽宗輝組長、一心会・桂木政夫会長(後に舎弟頭補佐)、角定一家・木村茂夫総長は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり、山口組総本部長となった。二代目吉川組・野上哲男組長は、山口組総本部副本部長となった。益田組・益田佳於組長、小西一家・小西音松総長、伊豆組・伊豆健児組長は、顧問に就任した。新人事には、宅見勝の意向が強く反映された。
同年7月20日、神戸市灘区の山口組本家2階の80畳敷きの大広間で、渡辺芳則の山口組五代目襲名相続式典が行われた。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長、後見人は稲川会・稲川聖城総裁、取持人は稲川会・石井隆匡会長、奔走人は稲川会・稲川裕紘理事長(後の三代目稲川会会長)。推薦人は、四代目会津小鉄会・図越利一総裁、松葉会・中村益也会長、四代目今西組・辻野嘉兵衛組長、三代目森会・平井龍夫会長、二代目大日本平和会・平田勝義会長、侠道会・森田幸吉会長、工藤連合草野一家・工藤玄治総裁、四代目小桜一家・神宮司文夫総裁、住吉連合会・堀政夫総裁。見届人は、導友会、愛桜会、四代目砂子川組、三代目倭奈良組、三代目互久楽会、二代目大野一家、三代目南一家、四代目佐々木組、諏訪会、二代目松浦組、三代目旭琉会。霊代は、中西一男。しかし、兵庫県警が、山口組五代目襲名式阻止の方針を打ち出したため、実際に山口組五代目襲名相続式典に出席したのは、山口組直系組長92人と、稲川聖城、石井隆匡、稲川裕紘、五代目酒梅組・谷口政雄組長、東亜友愛事業組合・沖田守弘理事長、双愛会・石井義雄会長ら10数人の親戚筋だけだった。渡辺芳則は、先代である竹中正久の内妻・中山きよみに、全く祝儀を届けなかった[2]。
エピソード・人物 [編集]
- 五代目山口組舎弟頭・益田啓助(名古屋市の益田(啓)組組長)と五代目山口組顧問・益田佳於(横浜市の益田組組長)とは従兄弟。また、益田啓助と益田佳於は兄弟であった。
- 六代目山口組尾崎組・尾崎勝彦組長は実子
脚注[編集]
参考文献 [編集]
- 飯干晃一 『山口組三代目 1.野望篇』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-146421-8
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 2』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5764-5
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