福田康夫
福田 康夫 (ふくだ やすお) | |
在任期間 | 2007年9月26日 - 2008年9月24日 |
生没年月日 | 1936年7月16日((2024-1936)+((11-7)*100+(26-16)>=0)-1歳) - |
出生地 | 日本 東京府東京市 |
出身校 | 早稲田大学 第一政治経済学部卒業 |
学位・資格 | 経済学士 (早稲田大学・1959年) |
前職 | 丸善石油従業員 衆議院議員秘書 内閣総理大臣秘書官 |
世襲の有無 | 2世 父・福田赳夫 |
選挙区 | (旧群馬県第3区→) 群馬県第4区 |
当選回数 | 衆7回 |
党派 | 自由民主党 |
花押 | |
福田 康夫(ふくだ やすお、1936年(和暦??年)7月16日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。
内閣官房長官(第67~69代)、沖縄開発庁長官(第41代)、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)、自由民主党総裁(第22代)、内閣総理大臣(第91代)を歴任。第67代内閣総理大臣福田赳夫の長男。
目次
概説
群馬県高崎市出身。大学卒業後、石油会社で17年余りサラリーマン生活を送っていたが、40歳で退社し、政界入りする[1]。父の秘書を14年間務めた後、1990年(和暦??年)の第39回衆議院議員総選挙において群馬県第4区から出馬し初当選を果たす。
第2次森内閣 において内閣官房長官に抜擢され、続く小泉内閣でも官房長官を務めた。自身の年金未納が発覚したことで3年半余り務めた官房長官の職を引責辞任。ポスト小泉の候補として、安倍晋三の対立候補として総裁選への立候補が注目されたが、結局出馬しなかった。2007年(和暦??年)9月、安倍晋三首相の突然の辞任劇の中、当初、後継総裁の最有力と見られた麻生太郎を抑え、自民党の大多数の派閥の支持を背景に2007年自由民主党総裁選挙に立候補、麻生を破り、第22代自由民主党総裁に選出され、第91代内閣総理大臣に就任した。
経歴
生い立ち
1936年(和暦??年)7月16日、東京府東京市世田谷区(現・東京都世田谷区)に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる[2]。戦時中、実家の群馬県群馬郡金古町(後に群馬町、現高崎市)に疎開していた[3]。金古町立金古小学校(現・高崎市立金古小学校)、大宮市立南小学校(現・さいたま市立大宮南小学校)、東京高等師範附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、渋谷区立猿楽小学校などに学ぶ。1949年(和暦??年)3月、東京第一師範学校男子部附属小学校(現・東京学芸大学附属世田谷小学校)卒業。小学生時代の福田は野球の好きなスポーツ少年で、駐箚[4]中国大使を務めた谷野作太郎とはこのときから交流があった[5]。
1952年(和暦??年)3月、麻布中学校、1955年(和暦??年)3月、麻布高等学校卒業[6]。中高時代は文学や音楽に親しみ、成績は優秀であった[3][7] 。同級生には声優の柴田秀勝や、物流大手のサンリツ会長の三浦正英などがいる[3]。
1959年(和暦??年)3月、早稲田大学第一政治経済学部経済学科を卒業。大阪に本社を置く丸善石油(現:コスモ石油)に入社し、1962年(和暦??年)3月から2年間、米国ロサンゼルス支店に赴任[6]。帰国後に石油製品の輸入課長も務め、石油の価格・量の動向の予測・判断、産地国からの石油調達の輸入業務などを行っていた[8][9][10]。このときオイルショックを経験している[11]。
1966年(和暦??年)に元衆議院議長桜内義雄の姪の嶺貴代子に、「政治家の女房にはしない」と誓い結婚[5]。
政界へ
「政治家になるつもりはない」と語っていた福田だが、父の後継者とされた次弟(横手征夫)が病気となり、母三枝が後継者に推したこともあって、政治家を志す[5][12] 。1976年11月に会社を退社し、衆議院議員秘書となり[6]、1977年12月から1年間、父・赳夫の内閣総理大臣秘書官を務める。事務担当秘書官には、保田博、棚橋祐治、小和田恆らがいた。秘書官として、日中平和友好条約へ向けた中国、アメリカとの舞台裏交渉に関与した。1990年2月に第39回衆議院議員選挙で、群馬県第4区から出馬して当選。
初当選後の取材で「二世批判はあるでしょうが、政治家の息子とはいえ私は50歳代。独立した一人の人間として見ていただきたい」と語っていたが、「おじいちゃんのあとを継いだおじいちゃんだから」「あの年寄り(父・赳夫)と一緒にしないでよ」などと漏らしてもいた[13]。以後6回当選する。50歳以上初当選組のクローニンの会に所属している。
議員としては、外務政務次官、衆議院外務委員長、党外交部会長を務めるなど、初入閣までは主として外交関係のポストで地歩を築いていった。
内閣官房長官
2000年10月に第2次森内閣で、女性スキャンダルが問題視され辞任した中川秀直に代わって内閣官房長官に就任する。後任人事として小泉純一郎や尾身幸次や町村信孝があげられていたが、当時森派会長だった小泉が「本人の能力、人間性、人格などすべてを勘案し、今の時点で一番適任」[14]、と考え推薦した。閣僚経験が皆無であったにも関わらず、森内閣で官房長官に起用されたことに疑問の声も上がったが、父親の首相時代に首相秘書官を務めていた経験が生き、無難に調整役をつとめた。森内閣においては首相の失言やKSD事件、外務省機密費流用事件などの弁明に追われることも多く、「弁明長官」と呼ばれた。
その後小泉内閣では2度にわたる内閣改造でも留任。在任期間が延びるにつれ、首相に直言できる女房役としての存在感は次第に増していくことになった。官房長官の記者会見で垣間見える冷笑的態度から、ネットの匿名掲示板では「フフン」というあだ名がついた[15]。
実務能力には定評があり、官邸主導の政治体制が確立していく中で、政府各省や与党との調整に力を発揮した上、本来の得意分野である外交における存在感も徐々に増していった。小泉内閣では、外務大臣田中眞紀子と外務省官僚との軋轢を巡る騒動の中で外務省が機能不全に陥った時は、大臣の頭越しに自ら外務省事務方への指示を行った。そのため、外務官僚が外務大臣よりもまず官邸に赴くことが常態化したため、「影の外務大臣」などと囁かれた。
外務省における軋轢のために小泉首相の意向によって外相を更迭された田中真紀子の後任に川口順子が就任したが、川口は民間人閣僚のため与党内に基盤を持たず、福田の外交への関与はその後も続き、官房長官を退任するまで官邸外交を取り仕切ることになった。
男女共同参画担当大臣を兼任し、「2020年までにあらゆる分野の指導的地位に占める女性の割合を30%にする」という数値目標などを掲げた[11]。また、沖縄開発庁長官として沖縄科学技術大学院大学の設立構想で関係閣僚会合を開くなどして主導、女子暴行事件の容疑者引渡し交渉など米兵による事件にも対応した[16]。こうした経験から、首相就任時に沖縄に関して理解を示す期待が一部でされた[16]。ハンセン病補償法訴訟の控訴断念にも一役買い(後述)、政府の公式謝罪をした[17]。
在職中は、台湾前総統の李登輝が病気治療目的で来日を希望した際に、中国への配慮から、外務大臣河野洋平と共にビザ発給に反対したといわれる。また、北朝鮮による日本人拉致問題に関し、「終始冷淡な態度をとっていた」と家族会は語っている(#エピソードの項を参照)。
中国や韓国等の、靖国神社参拝に反対している国の意見などにも一定の配慮をすべきこと、憲法改正には周辺国の理解が必要と主張していることなどから、反米保守(ナショナリスト)グループから「親中派」、「媚中派」などと批判されることもある。特に、『文藝春秋』とその系列メディアが官房長官在任期間中ほぼ毎回福田批判記事を掲載したことに激怒し、『文藝春秋』から政府広報の広告を引き上げさせたとの報道も一部でなされた(2004年から数ヶ月間、『文藝春秋』の誌面から政府広報が一切無くなった)。
2004年4月、内閣官房長官の在任記録が1259日となり、それまで歴代1位だった保利茂の在任記録を更新し、会見で「秘密主義長官、影の外務大臣、影の防衛庁長官。いろいろ名前はありますが、まあ、しょせん影ですから」と語った[14]。
4月28日に「(国民年金保険料を払っているか否かの公表は)個人情報でそういうものを開示すべきではない」、「犯罪ですか?」云々との旨の本人発言直後に、保険料未納が発覚する。当初未納期間は、1990年2月から1992年9月の間と、1995年8月から1995年12月までの間の合計3年1ヶ月間となっていたが、辞任直前、週刊文春が1976年11月から1990年2月までの間の内の、5年8ヶ月間も同じく未納であったことを報じた。 政治家の年金未納問題 も参照
2004年5月7日 定例記者会見の席で官房長官の辞任を表明。在任日数1289日。「風のごとく来りて、風のごとく去るということだ」との言葉を残して官邸を去った[18]。
ポスト小泉
年金未納が発覚して小泉内閣の官房長官を辞任した後は、政権と距離を置き、第3次小泉改造内閣にも入閣しなかったために、小泉内閣に批判的な一部政治家やマスコミ・知識人などの自民党内外の諸勢力の間に総理総裁就任待望論があり、小泉の2006年9月の総裁任期満了を控え「ポスト小泉」有力候補(俗に言う麻垣康三)の一人に挙げられてきた。
事前の各種世論調査において次期自民党総裁・首相として、安倍晋三に次ぐ支持率を得ることが多く、安倍に次いで次期首相の座に近い立場にあると目され、安倍への対抗馬の筆頭として注目を集めていた。アジア外交などについて小泉内閣の路線を踏襲する色合いの強い安倍に対して、アジア重視の姿勢を見せるなど対立軸を提示し、政権への意欲ともとれる動きも見せていたが、2006年7月21日、総裁選への不出馬を正式に表明。引退の意向すら漏らしたとも伝えられ、出馬を期待していた勢力からは失望の声が聞かれた。これを受け「ポスト小泉」の総裁選は、安倍の大勝に終わった。
安倍内閣においての要職起用は無く、表立った活動は少なかった。2007年6月には党住宅土地調査会会長として「200年住宅ビジョン」を発表したことが話題となった。与党が大きく議席を減らした2007年7月の参院選後は、8月27日の内閣改造人事における起用が取り沙汰されたが、実現しなかった。
しかし、7月の群馬県知事選挙では、自民党候補の大沢正明の選挙対策本部長を務めて当選に導き、そのリーダーシップを発揮した[10]。 2006年自由民主党総裁選挙 も参照
ポスト安倍
2007年9月12日に安倍晋三が内閣総理大臣、自由民主党総裁の辞任を表明し、その翌13日、自由民主党総裁選挙への出馬意思があると報道され、自身も出馬の方針を示した。
15日、自由民主党総裁選挙に立候補の届出をした。対立候補として麻生太郎が立候補したが、町村派含めたほぼすべての派閥(事実上、麻生派以外の全派閥)が福田支持を決定しており、圧倒的優位が伝えられていた[19]が、実際は各派閥の所属議員に対する拘束力が弱まっており圧倒的ではなかった。また、小泉純一郎も事実上福田支持となった。
9月23日実施の自民党総裁選において330票(麻生:197票 無効票:1 計528票)を獲得し当選、第22代総裁に就任。 2007年自由民主党総裁選挙 も参照
福田内閣
2007年9月25日に開かれた内閣総理大臣指名選挙(首班指名選挙)において、与党が過半数を占める衆議院では圧倒的多数で指名されるが、逆に野党が過半数を占める参議院では、民主党の小沢一郎が指名されるという“ねじれ国会”(逆転国会)の象徴的現象が起きた。両院協議会が開催されるが議論はまとまらず、法規に則り衆議院の議決が国会の議決となり、福田が内閣総理大臣に指名された。内閣の組閣に当たり、記者会見で福田は、「一歩でも違えば、自民党が政権を失う可能性もある」と指摘した上で、「背水の陣内閣」と自身の内閣を命名した。
翌9月26日に宮中での親任式を経て正式に第91代内閣総理大臣に就任し(福田康夫内閣)日本憲政史上初の親子での総理大臣となった。就任年齢となる71歳は、奇しくも父・赳夫が首相に就任した年齢と同じ(赳夫は71歳11ヶ月と10日、康夫は71歳2ヶ月と10日)となった。
同年11月、福田と民主党代表小沢一郎との間で大連立構想が模索されたが頓挫し、一時は小沢が代表辞任を表明するなど混乱したが、その後、与野党は対決姿勢を強めることになった。第169回国会では、問責決議が1998年10月16日の額賀福志郎以来10年ぶりに参議院で可決されたが、翌日には内閣信任決議が衆議院で可決された。なお、首相への問責決議案が国会で可決されたのは、田中義一[20]、吉田茂[21]に続き3人目であり、現行憲法で参議院からは初である。
福田康夫内閣 も参照
福田改造内閣
2008年8月2日、内閣改造により福田改造内閣が発足した。それに併せて、麻生太郎を幹事長に指名するなど、自由民主党執行部の人事も刷新した。閣僚の参議院枠は参議院自民党の推薦に基づき選抜するのが慣例だが、今回の組閣では参議院会長尾辻秀久による推薦を一切無視し、福田の独断で林芳正や中山恭子らを入閣させ舛添要一を留任させた[22]。また、副大臣も党執行部の推薦に基づく選抜が慣例だが、今回は党からの推薦が差し戻され、閣僚経験者の鴨下一郎らが起用された[23]。また、内閣総理大臣補佐官は、渡海紀三朗が新たに起用されたため全員が閣僚経験者となった。
2008年9月1日、午後9時30分より緊急記者会見を開催し、その席上、「内閣総理大臣・自由民主党総裁を辞職する」ことを表明した。退陣の理由として「国民生活の為に、新しい布陣で政策実現を期してもらいたい」ということを述べた[24]。
2008年9月24日、内閣総辞職。なお、国政選挙の結果を経ずに成立し、かつ在任中に国政選挙が無い内閣としては、羽田内閣以来の内閣となる。 福田康夫内閣改造内閣 も参照
内閣総理大臣退任後
内閣総理大臣退任後、インター・アクション・カウンシルのメンバーに就任し[25]、2009年の総会ではヘルムート・シュミット、ジャン・クレティエンらと世界金融危機等政治経済の国際的な諸問題について討議した[26]。また、麻生政権にて度々特派大使として各国を訪問し、日本の国際連合安全保障理事会常任理事国入りに理解を求めるなど、協力関係の構築を進めている[27][28][29]。2009年7月の天皇・皇后北米歴訪の際は福田が首席随員に選任され、明仁天皇、美智子皇后に随伴しカナダやアメリカ合衆国ハワイ州を訪問した[30]。2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党新人で元フジテレビ社員の三宅雪子に苦戦を強いられ一時落選の報も流れたが、結果として福田が三宅を小選挙区で破り7回目の当選を果たした。
政策
基本理念
2007年の自民党総裁選挙で、「希望と安心のくにづくり」、「改革を進め、その先にめざす社会」として次のような基本理念を示した[31][32]。なお、「自立と共生」は10年前から新生党、旧民主党の理念として使われており、民主党代表の小沢一郎は「ずっと昔から僕が使っていた言葉を何かおっしゃっているみたいに感じた」と話している[33]。
一方、福田は2007年10月21日の早稲田大学創立125周年記念式典にて、「自立と共生」は大隈重信が125年前に既に考えていたことだと発言したが、この発言に小沢への切り返しの意図があったのかは不明である。
安全保障
- 非核三原則の見直し
- 2002年5月31日、内閣官房長官在任中、日本は理屈上核兵器保持は可能だが政策判断としてやめていると従来からの政府答弁をした。その直後に政府首脳が「(将来)国民が核を持つべきだということになるかもしれない」と「非核三原則見直し」と発言したと報じられたが、野党はこれを福田の発言であるとした[34]。オフレコでの発言だったものの、非核三原則の見直しと捉えられ批判を呼んだ。同年6月10日、国会でこれらの発言等についての集中審議(議題を絞った審議)が行なわれた中で、福田は「それぞれの時代状況によって安全保障という問題は、国際情勢などを踏まえたさまざまな国民的議論があり得るということを述べたもの」、「将来、政府としての非核三原則見直しをするというような可能性を示唆したというのは自分の真意ではない」、「今後とも非核三原則を堅持していくという立場に変わりない」旨の釈明をした[35]。
- 自衛隊インド洋派遣
- 自衛隊インド洋派遣について肯定的であり、内閣官房長官在任時にテロ対策特別措置法の制定を主導し成立させた。当時の内閣官房参与だった岡本行夫は「安全で安上がり、しかも国際社会から評価された福田流外交の面目躍如」[36]と評している。2007年9月、同法の延長について「(海自の活動は)日本の国際平和協力の一つの柱だ。現行法の延長が時間的制約で難しければ、新法を視野に入れるのはやむを得ない。新法を出すなら、臨時国会だ」[37]との考えを表明していたが、最終的に第168回国会への「テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法」(いわゆる「新テロ対策特措法」、「補給支援特措法」)提出を選択し、2008年1月11日に補給支援特措法を成立させた。前年11月1日にテロ対策特別措置法が失効したため、海上自衛隊はいったんインド洋から撤退していたが、補給支援特措法成立に伴い、福田は海上自衛隊のインド洋再派遣を命じた。
- 自衛隊イラク派遣
- 自衛隊イラク派遣についても外務大臣の川口順子、防衛庁長官の石破茂ら関係閣僚とともに政策立案を主導、内閣官房長官在任時に「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」(いわゆるイラク特措法)を成立させている。
- 防衛省の不祥事
守屋武昌 も参照
- 守屋武昌への接待問題や給油量隠蔽問題など防衛省の不祥事が相次いで発覚したことから、福田は内閣官房長官町村信孝に対し、内閣官房に「防衛省改革に関する有識者会議」を設置し対策を検討するよう指示した[38]。
- 2007年11月28日の自衛隊高級幹部会同では、「なれ合い、和気あいあいの雰囲気でもない」[39]と福田が判断し防衛省による栄誉礼や儀仗を拒否したうえで、綱紀粛正の徹底を訓示した[40]。
- 日米同盟の強化
- 2008年5月の演説にて、福田は日米同盟について「アジア・太平洋地域の公共財」[41]と指摘し、日本の安定維持のためだけでなく、アジア・太平洋での地域協力の基盤と位置づけた。さらに、「日米同盟の強化と、アジア外交の共鳴」[41]を提唱し、日米の同盟関係の強化を積極的に推し進めると表明した[42]。
- イランの核開発問題
- 2008年6月3日、ローマでの日本とイランとの首脳会談にて、福田は「日本とイランは石油以外の関係が進まない。障害は、核開発、ミサイルなど安全保障の問題だ」[43]と主張し、イランの大統領マフムード・アフマディーネジャードに対し核開発を中止するよう直接要請した。
- アフマディーネジャードは福田の主張に対し反論したが、その際に「核兵器は旧式で効率が悪く、保有しても実際には使えないことは、よくわかっている」[43]と述べた。この発言を聞いた福田は言葉尻を捉え「いい話をうかがった」[43]として「大統領が核兵器を中心に安全保障を考えていないことは重視したい」[43]と指摘し、さらに重ねて「濃縮を停止する英断を求めたい」[43]と要求を繰り返した。アフマディーネジャードは既存の核保有国の軍縮を持ち出して再反論したため議論が白熱し、最終的にアフマディーネジャードが「テヘランか東京で議論を続けたい」[43]と収めることになった。
- その際、福田はイランでの日本人学生誘拐事件の早期解決も同時に要請し、アフマディーネジャードから「健康に家族のもとに戻れるよう最善の努力を払う」[43]との言質を取った。イラン当局は犯人グループが被害者をパキスタン領内に連行したことまで確認済みだったが、イランは「パキスタンに借りはつくれない」との立場を取り同国に協力要請をせず、2007年10月から膠着状態となっていた[44]。しかし、福田の要請により日本との外交悪化を懸念したイラン当局は、やむを得ずパキスタンに捜査協力を要請し、パキスタン側から犯人グループ幹部が引き渡され、6月14日に日本人学生は解放された[44]。
- 北朝鮮による核開発
- 首相就任後のCNNからのインタビューにて、核開発を進める北朝鮮について「近隣に脅威を与えるようなものを持つ限りは自立していくのは難しい」[45]と指摘した。さらに、北朝鮮の将来について「今のままではいずれは消滅してしまう」[45]と厳しい評価を下し、北朝鮮の核兵器放棄が必須との考えを表明した。
財政
- 財政健全化
- 中川秀直、麻生太郎ら安倍内閣が提唱した経済成長による税収増を目指す上げ潮派とは一線を画しており、小泉純一郎、谷垣禎一らが小泉内閣において推進した「財政再建重視政策」を主張している。福田は「小泉構造改革は、改革の道筋・日本の行く道を示し、大きな成果を挙げた'」と評価しており[46]、構造改革を「実行する上での諸問題に丁寧に対応し、この改革の方向性を見失うことなく道筋を作っていかなければならない。方向性は変わらない」と語っている[46]。具体的には、小泉内閣が推進した歳出・歳入一体改革の継承を謳っており「歳出・歳入改革を一緒にできないか。一緒に進めることで改革のスピードを上げられれば一番良い」と発言している[46]。また、小泉内閣では先送りされた消費税増税については、「消費税を増税しなければ財政赤字は減らない」としている[46]。
- 基礎的財政収支の黒字化
- 上げ潮派には否定的であり、景気浮揚を目指しての財政出動を伴うバラマキ型政策は採らないとしている。日本政府は2011年度までに基礎的財政収支の黒字化を目指す財政再建目標を掲げているが、福田は「達成するように最大限努力するのは当然だ。先に延ばすことは一切考えていない」[47]と明言している。麻生太郎や公明党幹事長の北側一雄らが財政再建目標の先延ばしを訴えており、連立与党の公明党とも主張が対立している。
上げ潮派 も参照
税制
- 道路特定財源制度についての指針を提示
- 2008年3月19日、自由民主党政務調査会長の谷垣禎一と公明党政務調査会長の斉藤鉄夫に対して指針『道路特定財源の考え方』を示し[48]、一般財源化に向け税制改正による道路特定財源の見直し、新需要予測に基づく道路整備中期計画の見直し、道路予算の透明化・厳格化など5項目の実現を谷垣と斉藤に指示した。
- 福田の打ち出した指針には「道路特定財源は税制抜本改正時に一般財源化に向け見直す」[49]との文言が明記されたうえ、福田が「全額一般財源化を視野に入れたものだ」[49]としたため、福田との会談を終えた谷垣は「首相はここまで考えていたのかと驚いた」[49]と語った。さらに、福田は記者団に対し「税制の抜本改革は前から約束している。その際は(道路特定財源の)全額一般財源化も視野に入れ検討していく」[50]としたうえで「暫定税率は抜本改革の中で考えていい」[50]と語り、一般財源化するだけでなく税率自体の見直しも検討課題に含むと表明した。
- 緊急記者会見で「福田提案」を提唱
- 2008年3月27日、福田は総理大臣官邸で緊急記者会見を行い、道路特定財源制度を全て廃止し2009年度から一般財源化すると正式発表した[51]。道路整備中期計画については整備期間を半減させ[52]、整備計画や一般財源の使途については与野党協議会での協議に応じると提案した[51]。また、公益法人や道路整備特別会計については、無駄な支出の排除徹底を重ねて表明した[51]。さらに、仮に民主党と2008年度予算関連法案について合意できなくても、2009年度からの一般財源化は実施すると明言した。
- 臨時記者会見の発表内容については、財務省、国土交通省、与党役員、道路族議員には相談せず、福田と一部の官邸スタッフだけで策定された[53]。会見直前に内容を知らされた自由民主党幹事長の伊吹文明は「そこまで踏み込む必要はない」[54]「今日会見しなくてもよいのではないですか」[55]「そんなの踏み込みすぎです」[53]と電話で福田を説得したが、福田は応じなかった。驚いた幹事長代理の細田博之は「皆さん軟弱だ。『殿、ご乱心』と言ってくる!」[56]と政務調査会長の谷垣禎一とともに官邸に駆けつけたが、福田は「世論の相場観はそうだろ」[53]と指摘し与党側の説得を一蹴し、臨時記者会見で発表した。自民党の河野太郎は、党の反発を押し切った福田の姿勢を「総理による宮廷クーデター」[57]と評し、福田提案により自民党内の一般財源化主張派が「抵抗勢力から近衛部隊に一変した」[57]とした。河野や水野賢一ら一般財源化主張派は福田提案への賛同者を募り、他党の国会議員をも含む「福田提案を支持し道路特定財源の一般財源化を実現する会」を結成した[58]。
- 道路特定財源の一般財源化の推進
- 道路特定財源制度の一般財源化は小泉政権の聖域なき構造改革ですら実現を見送っており、続く安倍政権では余剰分のみしか一般財源化できず失敗したことから、歴代政権でも断念した難題と指摘されており[59]、実現できれば画期的[60]だが実際には難航すると予想された。しかし、3月30日には国会対策委員長の大島理森が、福田提案を正式な与党案とすることを表明し[61]、翌日には閣僚らが福田提案の具体化に向け協議を開始した[62]。4月11日、政府、自由民主党、公明党は2009年度に道路特定財源を全廃することで正式合意し、福田は「道路特定財源を廃止し、一般財源化を進めるため、与野党協議を進めていただきたい」[63]と指示した。5月12日、福田は若手議員を官邸に集め「これをできないような自民党や公明党には明日はない。必ずやり遂げる」[64]と檄を飛ばし、翌日に道路特定財源の全廃を閣議決定した。
金融
- 金融危機への対応
- 小泉政権下では金融不安解消のため不良債権処理が積極的に推進されたことから、内閣官房長官を務めた福田も金融危機対応の経験を積んだとされる[65]。
- 福田政権下では2008年9月15日にアメリカ合衆国のリーマン・ブラザーズが破綻したが、その際も日本政府は素早い対応を見せた。リーマン・ブラザーズ証券(日本法人)の顧客資産の国外流出が懸念されたことから、顧客資産の保全を名目に9月15日午後3時に国内資産保有命令を発動、同日午後9時に業務停止命令を発動した[66]。同日夜、福田は「明朝に金融関係の閣僚を集めてくれ」[65]と指示し、重ねて日本銀行総裁白川方明にも出席を要請し[65]、さらに財務大臣伊吹文明と対応策を協議した[67]。翌日の朝には白川らも交えた金融関係閣僚等懇談会を緊急招集し、対応策を協議した。
- 空港整備法案の外資規制条項削除
- 2008年、国土交通省が空港運営会社への外資規制を含む空港整備法改正案を提示すると、内閣府特命担当大臣の大田弘子や渡辺喜美らが規制に反対し、国土交通大臣の冬柴鐵三と対立した。世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)にて対日投資の拡大を呼びかけるなど、福田は空港関連会社への外資規制には従来慎重な考えを持っていた[68]。そのため、同年2月5日に規制反対派の中川秀直と会談した際、福田も中川の意見に同意した[68]。閣内不一致を解消するため内閣官房長官の町村信孝が東京国際空港運営会社のみ規制対象外とする妥協案を提示したが、福田は「ダボス発言と矛盾する」[68]と拒否した。同年2月27日には冬柴が町村に再度外資規制の必要性を強く訴えたが、福田は冬柴の意見を却下し[68]規制条項を削除した法案を閣議決定した。
- この閣議決定に対し、冬柴の出身母体の公明党では異論が相次ぎ、政務調査会長の斉藤鉄夫は「公明党をなめているのかという声は非常に強い」[69]と批判した。一方、渡辺喜美は「福田康夫首相と町村信孝官房長官の強いリーダーシップで、いきなり外資規制を導入するという乱暴なことが回避されたのは大変結構だった」[70]と評価し「わが国の資本市場が安心して投資できる環境にあることがあらためて確認された」[70]と指摘している。
経済
- 200年住宅ビジョン
- 党の住宅土地調査会では会長に就任し、2007年5月に「200年住宅ビジョン」を提言している。「30年程度しかもたない今の住宅では、土地にしか価値がなくなるから土地が投機対象になる」[71]と指摘し、住宅の耐用年数向上の実現による資産価値向上と、その実現に向け税制改正の可能性に言及している。
- 内閣総理大臣就任後、福田は「大量生産、大量消費をよしとする社会からの決別」[72]を宣言し、30年程度で建て替える日本の住宅のライフサイクルを見直し長寿命化を推進する、と主張した。福田内閣では「長期耐用住宅」に対する不動産取得税や固定資産税の減免を盛り込んだ「長期優良住宅普及促進法」案を策定し、第169回国会に提出した。また、住宅改修時の履歴やエビデンスを記録をさせるなど、中古住宅を安心して購入できる環境を整備し、転売を促進することで中古住宅市場の活性化を図るとしている[73]。第169回国会の混乱の煽りを受け、長期優良住宅普及促進法案は継続審議扱いとなったが、第170回国会にて可決、成立した[74]。
- 消費者保護
- 第168回国会の所信表明演説にて「真に消費者や生活者の視点に立った行政に発想を転換」[75]すると述べ、消費者保護政策を重視する考えを示している。政権発足後、内閣府特命担当大臣(国民生活担当)岸田文雄に対し、消費者の視点で政府の政策や法令を見直し2007年12月までに緊急対策を纏めるよう指示している[76]。今後、中央省庁の案や有識者の意見を踏まえ岸田が福田に報告し、法改正が必要な場合は第169回国会での法案提出を目指すとしている。その他、内閣総理大臣として史上初めて国民生活センターを視察したり、国民生活審議会への出席時間が内閣総理大臣として歴代最長となったり[77]と、さまざまな場で消費者重視政策をアピールしている。安倍政権では国民生活センターの大幅な機能縮小が提言された[78]が、福田は内閣府国民生活局長の西達男に対し「10年後、20年後を見通して組織として充実を図るべきだ」[79]と指示、国民生活審議会で機能強化を検討することになった[80]。
国民生活センター も参照
- 消費者行政一元化
- 2008年4月23日、福田は「消費者行政推進会議」にて、政府の消費者行政を一元化するため内閣府の外局として「消費者庁」を新設し、消費者行政の企画立案や他省庁への是正勧告権を附与すると正式表明した。
- 福田は「消費者行政の司令塔として、消費者の安全、安心にかかわる問題について幅広く所管し、消費者の視点から監視する強力な権限を有する消費者庁を来年度に立ち上げ、早急に事務作業に着手する」[81]とし、各省庁に対する是正勧告権を附与する考えを示した。また、「消費者庁創設は行政組織の肥大化を招くものであってはならない。各省の重複や時代遅れの組織の整理にもつながるものでなければならない」[82]と強調し、消費者庁の組織・定員は他省庁から振り替えることで行政の肥大化を防ぎ、併せて縦割り行政の弊害解消や小さな政府実現を目指すよう指示した。これを受け、政府内にて「消費者庁設置法」などの法制化の準備が進められ、同法をはじめとする関連法案が第170回国会に提出された。これらの法案は次の国会に引き継がれ、第171回国会にて衆議院、参議院とも与野党全会一致により可決、成立した[83]。
消費者庁 も参照
- 経済の構造改革
- 日本経済について「成長だとかGDP(国内総生産)という量的なものではなく、質的な転換がいる」[84]との持論を持っており、経済財政諮問会議に「構造変化と日本経済専門調査会」を新規に設置した。内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)大田弘子に対し、小泉政権当時の経済財政諮問会議議員だった牛尾治朗や、植田和男、香西泰を同調査会のメンバーとするよう指示し、同調査会に対し21世紀版「前川リポート」を策定するよう要請した[84]。
- 「構造変化と日本経済専門調査会」の初会合で福田は植田和男を会長に指名し、第34回主要国首脳会議前でにリポートを纏め、内需主導の経済構造の実現を訴えることを目指すとした[85]。
通商・資源・エネルギー
- 資源国との関係の強化
- 豊富な天然資源を持つBRICs諸国やアフリカ諸国との関係強化を図り、日本として資源・エネルギーの安定的な確保を積極的に推し進めた。
- 2008年5月に開催された第4回アフリカ開発会議では、史上初めて内閣総理大臣として議長に就任した。その際、会議に出席するため日本を訪れた40人以上の首脳と個別に会談し、レアメタルなどの資源確保や常任理事国改革について日本への協力を要請した[86]。さらに、アフリカ10ヶ国委員会との首脳会談も、日本の内閣総理大臣として初めて行った[87]。
- 大陸棚の認定範囲の拡大
- 小泉政権の閣僚懇談会の席上、国土交通大臣扇千景が大陸棚調査体制の不備を述べたところ、内閣官房長官の福田は「大陸棚の画定は国益にかかわる重大課題。政府を挙げて対応する必要がある」[88]と主張し、関係省庁に対して検討会議の設置を指示した。内閣官房長官退任後は「大陸棚調査推進議員連盟」を結成し、扇を名誉会長に据え、福田はその会長に就任した。
- 福田政権成立後は、内閣総合海洋政策本部に参与会議を設置するなど、機能の強化を図った。その席上「大陸棚調査推進議員連盟の会長であったため、海洋分野にも深い関心があることから、今回の参与会議の開催を喜ばしく思う」[89]としたうえで「政府一体となって海洋政策を強力に推進していく」[90]と述べ、海洋資源権益確保の推進を指示した。2008年6月には、日本の大陸棚認定範囲の拡大を国際連合に対し申請することを決定した。日本が独自開発できる海域は、従来は排他的経済水域447万平方キロに留まっていたが、この申請の承認により新たに38万平方キロ(日本列島の面積に匹敵)が加わることになり[91]、コバルトなどレアメタルの確保が図れるとされている[92]。
文教・科学技術
- 知的財産戦略の策定
- 知的財産権について、福田は「知財戦略は誤れば国全体の競争力を失いかねない非常に重要な政策だ」[93]と述べ、コンテンツ産業の育成と競争力強化を目指し著作権法を2008年中に見直すと表明した。
- 福田内閣の下で策定された「知的財産推進計画2008」では、時代に合致しない法律の改定や国外での知的財産侵害への対策強化を謳っている[94]。具体的には、GoogleやYahoo!などの検索サービスの2008年度中の合法化、国外の運営者に対し日本のコンテンツ事業者が削除要請できる仕組みの構築、などが盛り込まれた[94]。
- また、ニコニコ動画やYouTubeの興隆など、著作物の二次利用は新たなビジネス創出に繋がると判断し、著作物の無許可利用を解禁するフェアユース規定の導入を検討している[94]。二次利用コストの低減、新しいビジネスモデルの開発、新規事業者の参入促進を目指し、2008年度中に包括的な権利制限規定の結論を出すとしている[94]。
- iPS細胞の開発支援
- 福田内閣の「知的財産推進計画2008」には、先端医療分野に対する支援策も盛り込まれた[93][94]。特許保護体制の早急な整備・構築を打ち出すとともに、人工多能性幹細胞研究に対し国内の大学・研究機関の総力を投入し、オールジャパン体制でのiPS細胞開発支援を打ち出した[94]。
- 学校行事としての靖國神社、護国神社訪問を解禁
- 文部省は1949年の事務次官通達にて、学校行事としての靖國神社訪問を禁止していた。しかし、福田はこの通達の失効を閣議決定し、各学校に対し靖國神社や護国神社への訪問を解禁した。
- 文部省が1949年に発した事務次官通達「社会科その他、初等および中等教育における宗教の取扱について」によれば、学校の行事として靖國神社や護国神社など戦没者を祀る施設に訪問することは禁止されていた。以来、この規定は、修学旅行や社会科見学などで靖國神社や護国神社を訪問できない根拠の一つとされていた。
- 2008年5月23日、福田内閣は通達の失効を明言する答弁書を作成し、閣議決定を経て衆議院に提出した[95]。この閣議決定により、戦没者を祀る施設を訪問する学校行事が解禁されることになった。
- 学習指導要領解説書に竹島領有権問題を明記
- 学習指導要領解説書に竹島領有権問題を明記した。
- 主要国首脳会議にて福田が明記することを韓国大統領の李明博に直接通告し、李は見送るよう懇願したが、福田は文部科学大臣の渡海紀三朗に指示し竹島問題を明記することで決着した。
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