池田勇人
池田 勇人 (いけだ はやと)
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在任期間 | 1960年7月19日 - 1964年11月9日 |
生没年月日 | 1899年(明治32年) 12月3日 |
出生地 | 広島県吉名村 (現・竹原市) |
出身校 | 京都帝国大学 |
学位・資格 | 正二位大勲位 学士(京都帝国大学) |
前職 | 衆議院議員 通商産業大臣 自由民主党総裁 |
世襲の有無 | 世襲ではない (家族・親族参照) |
選挙区 | 衆広島2区 |
当選回数 | 7回 |
党派 | 自由民主党 |
花押 | |
池田 勇人(いけだ はやと、1899年(明治32年)12月3日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は日本の大蔵官僚、政治家。第58代から第60代まで内閣総理大臣を務めた。正二位大勲位。19世紀生まれの最後の首相である。
目次
概説
佐藤栄作と並び、吉田学校の双璧であり、吉田茂の最側近として、連合国との講和、冷戦下における日米関係の構築にかかわると同時に、第二次世界大戦後の日本経済の再編成においても指導的な役割を担い、首相就任後は所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展にもっとも大きな役割を果たした政治家の一人。
野田卯一、福田赳夫と共に「大蔵省の3田」と呼ばれる。なお、大蔵省では京大出身者初の局長(主税局長)経験者であり、2006年7月に藤井秀人が主計局長より昇格するまでは唯一の大蔵事務次官経験者であった。
経歴
生い立ちから大蔵省時代まで
1899年(明治32年)、広島県吉名村(現・竹原市)に造り酒屋を営む父・池田吾一郎、母・うめの子として生まれる。旧制忠海中学校、旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法学部へ。大学卒業後、1925年(大正14年)に大蔵省へ入省した。
入省後は地方を廻り、1927年(昭和2年)から函館税務署長、1929年(昭和4年)から宇都宮税務署長を務める。しかし宇都宮税務署長の時に落葉状天疱瘡を発症したため、大蔵省を休職する。病気はなかなか治らず、1931年(昭和6年)に2年間の休職期間が切れたため大蔵省を退職することになる。生死を彷徨った5年間には、直子夫人との死別、看病に献身した遠縁の大貫満枝との再婚といった出来事もあり、長い闘病生活は池田の人生観に大きな影響を与えた。 1934年(昭和9年)に奇跡的に病気が完治、大蔵省を退職していたため池田自身は日立製作所への転職を一度は決めていた。しかし大蔵省より勧められ、新規採用という形で復職する。翌1935年(昭和10年)玉造税務署長の時に、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。
復職後は病気での遅れもあり、税制関係の地味なポストを歩み続けたが、精勤を続けて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て1939年(昭和14年)に本省の主税局経理課長となる。1941年(昭和16年)に主税局国税課長となり、ようやく遅れを取り戻した形となった。本人は後に国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。終戦は主税局長で迎え、1946年(昭和21年)、第1次吉田内閣で石橋湛山大蔵大臣の下で大蔵事務次官を務める。
政治家
1948年(昭和23年)に大蔵省を退官し、翌1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙に出馬し初当選を果たす。選挙後の同年2月16日、1年生議員でありながら、吉田茂が党内の反対を押し切って第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢する。大蔵大臣としては(後の所得倍増計画に見られる積極策ではなく)引き締め政策を採り、同年3月1日にジョゼフ・ドッジと会談し、6日後の3月7日に共にドッジ・ラインを実施した。また同年、吉田の密命を受けて訪米し、独立後の基地提供について米国と協議した。1950年(昭和25年)2月17日から同年4月11日まで通商産業大臣を兼務する。また、第4次吉田内閣まで大蔵大臣を務めた。同年、3月1日の「中小企業の一部倒産もやむを得ない」という発言と、12月7日の「貧乏人は麦を食え」という発言が問題になる。さらに1952年(昭和27年)11月27日、日本社会党加藤勘十の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」と再発言してしまい、翌日に不信任案が提出され可決される[1]。
しかしその後も党・政府の要職を歴任する。1954年(昭和29年)7月26日に自由党幹事長(12月29日まで)、1956年(昭和31年)12月23日に成立した石橋内閣では大蔵大臣[2]、1958年(昭和33年)6月12日に成立した第2次岸内閣では国務大臣[3]。1959年(昭和34年)6月18日の第2次岸内閣改造内閣では通産大臣にそれぞれ就任した[4]。岸内閣のころから、下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちとともに「所得倍増」のもととなる政策構想を練り上げていく。1957年には自らの政策集団・派閥である宏池会を結成した。
内閣総理大臣
日本全国を争乱の渦に巻き込んだ60年安保で岸政権が倒れると、1960年(昭和35年)7月14日に自由民主党総裁選挙に立候補して当選し、自民党第4代総裁に就任した[5]。5日後の7月19日、内閣総理大臣に就任し、第1次池田内閣が発足した[5]。池田が総理となると、池田は政治的論争となりうる課題を極力避け、「所得倍増」をスローガンに掲げて経済重視の内政主義を打ち出した。そして国民の怒りを一身に集める結果となった前政権の反省から、池田政権は徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を全面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた。「寛容」は宮澤喜一、「忍耐」は大平正芳の発案によるという[6]。
政権発足早々の同年10月12日、日比谷公会堂で行われた自由民主党、民社党、日本社会党の党首立会演説会の壇上、社会党の浅沼稲次郎委員長が暴漢によって目前で刺殺される浅沼稲次郎刺殺事件が起った。この事件の直後に池田が衆院本会議で行った追悼演説は今日でも名演説として知られている(後述)。
同年11月20日の第29回総選挙で自民党は60年安保の影響もなく議席数を伸ばし勝利する。これを受けて同年12月8日に第2次池田内閣が発足すると、以前から言及していた「所得倍増」を目指す構想を実行に移し、12月27日に所得倍増計画の閣議決定をする。
外交ではアメリカ合衆国・東南アジア・ヨーロッパ・オセアニアを歴訪した。1961年(昭和36年)6月19日に訪米し、ジョン・F・ケネディ大統領と会談。同年11月11日に非公式来日した朴正煕国家再建最高会議議長と会談した後、16日から東南アジア4カ国(パキスタン・インド・ビルマ・タイ)を訪問した。1962年(昭和37年)は11月4日からヨーロッパ七カ国(西ドイツ・フランス・イギリス・ベルギー・イタリア・オランダ・バチカン)を訪問した。フランスとの首脳会談の際にシャルル・ド・ゴール大統領から「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されながらも、イギリスが日本に対し最恵国待遇を保証した日英通商航海条約を11月14日に調印するなど、成果を挙げる。1963年(昭和38年)9月23日からは東南アジア(フィリピン・インドネシア)・オーストラリア・ニュージーランドの4カ国を訪問した。
そして池田政権では経済成長により日本の国際的地位も向上した。1963年2月11日、OECD加盟申し込みを言明すると、翌1964年(昭和39年)4月28日にOECD加盟を果たした。さらに同年、日本はIMFの8条国(国際収支上の理由で為替制限ができない国)へ移行。同年9月7日のIMF東京総会で池田は演説を行い、日本の経済成長を誇り、それを資金面で支えたIMFに対し謝意を示した。ほかに、1963年8月14日、部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印し、1964年6月15日に批准した。
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)
- 7月14日、自民党総裁選再選[8]。
- 7月18日、内閣改造。第2次池田内閣第2次改造内閣[8]。
- 1963年(昭和38年)
- 7月18日、内閣改造。第2次池田内閣第3次改造内閣。
- 11月5日、郡山市で遊説中、右翼に襲われる。
- 12月9日、第3次池田内閣発足。
- 1964年(昭和39年)
- 7月18日、内閣改造。第3次池田内閣改造内閣。
9月9日、国立がんセンターへ喉頭癌の治療のため入院。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。東京オリンピック閉会式の翌日の10月25日に辞意を表明し、後継総裁として佐藤栄作を指名した。(指名したと言われているが渡辺恒雄は自伝天人天職のインタビューの中で「抗がん剤の副作用で意識が朦朧としていた池田さんを田中角栄と大平正芳が丸め込んだのではないか。」と回想している。)12月に退院するが、翌1965年(昭和40年)7月29日、東京大学医学部附属病院に再入院する。8月4日に手術を受けるものの、8月13日、術後肺炎により死去。享年65。葬儀は自民党葬として行われた。葬儀委員長は佐藤栄作。戒名は大智院殿毅誉俊道勇人大居士。墓所は故郷の広島県竹原市と東京都港区青山霊園にある。
この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。後は適当に頑張って下さい。 |
語録
池田勇人の語録には、後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の流行語にまでなった有名な発言などが多い。
- 貧乏人は麦を食え
- 第三次吉田内閣で吉田は一年生議員の池田を大蔵大臣に抜擢して世間を驚かせたが、池田は有能な大蔵官僚であっても政治家としては駆け出しで、発言に脇の甘さが目立った。
- 1950年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞を刺激した。
- 翌日の朝刊は「貧乏人は麦を食え」という見出しで池田の発言を紹介、これが池田自身の発言として伝わり、各方面から強い批判を受けることになった。[9]
- 中小企業の五人や十人…
- 2年後の第三次改造内閣で池田は通産大臣になっていたが、1952年11月27日の衆院本会議で右派社会党の加藤勘十の質問に対し、池田は「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」と答弁した。
- これに対して野党からは「中小企業を倒産させてよいのか」というヤジと怒号が飛び、議場は一時騒然となった。翌日の新聞はまたしても「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」とこれを報道。
- これを受けて野党が提出した池田通産相不信任案が自由党反主流派の欠席によって可決されると、池田は辞任に追い込まれた。その後池田は自宅に引きこもってしまったが、宮沢喜一秘書官の証言では「これで終わった。明日は土曜日だな。週末旅行でもするか。」と話して[10]さばさばした様子であった。[11]なおこの辞任記者会見の際に「私は正直すぎた。政治家として終戦以後色々あったが政治家には向いていないのかもしれない。」という政治の道を諦めるかのような発言をしている。
- 低姿勢
- 1960年11月20日の第29回総選挙に先立っては自ら自民党のテレビCMに登場して、本音しか言えない池田というイメージを逆手に取って「私はウソは申しません」と言い切った。これらいずれもが当時の流行語となり、これが世論を背景にした政権運営という新しいスタイルに先鞭を付けるものともなった。
- 君は…
- 浅沼稲次郎暗殺事件の発生をうけて池田が衆院本会議用で行った追悼演説は、故人に対して「君」とよびかけ、大正末年に浅沼の友人が浅沼のことをうたった詩「沼は演説百姓よ、よごれた服にボロカバン、きょうは本所の公会堂、あすは京都の辻の寺」を引用するなど型破りな演説で、社会党議員が涙を拭うほどに感動的なものだった。池田のこの演説は今日でも国会における追悼演説の傑作のひとつに数えられる名演説として知られている[12]。
逸話
- 旧制五高在学当時、池田は趣味と実益を兼ねてそば屋と一杯飲み屋の屋台を開業することを発案。「池田屋」と称した。友人達にツケで飲ませ本人も飲むといった調子のため3ヶ月でつぶれた。
- 占領時代に蔵相だった池田は、国家予算などの重要な話し合いをするためGHQを頻繁に訪問。GHQ経済科学局の局長・ウィリアム・フレデリック・マーカット少将に面会するためで、そんな時、まず約束の二時間前に白洲次郎は、マーカット少将の副官で通訳だったキャピー原田中尉に電話をかけ「マーカット少将のご機嫌はいかがなものか」と尋ねる。原田が「今日はあんまり良くないね」と答えると、白洲の横で話を聞いていた池田が電話を横取り、「今からそちらへ伺います。原田中尉、それまでに少将の機嫌を直しておいてください」と頼む。そして1時間前になると、今度は秘書官だった宮澤喜一から確認の電話があり「間もなく大臣はそちらへ伺います。よろしくお願いします」と念を押す。原田はこういう時、マーカットにさり気なく野球の話題を投げかける。往年の大リーグ選手などの話題を持ち出すと、マーカットは機嫌が悪いことも忘れてスイッチが入り、野球の話に夢中になっていく。最高潮に達するとバットを手に持って上機嫌になり、ちょうどその頃、池田がオフィスに現れて、厄介な話もうまく進むというのがお決まりの段取りであった[13]。
- 蔵相時代の池田の秘書官を務めていた頃の大平正芳は陽明学者の安岡正篤に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は織田信長の草履とりを務めていた間に信長の欠点を知り尽くした豊臣秀吉であると答え、以後、大平は池田の欠点を知り尽くして政治家になるための経験を積んだという[14]。
- 私邸に新聞記者を集めては、経済政策、所得倍増を熱心に語った。
- 首相になるにあたって、放言癖や前岸内閣で傷ついた政府のイメージを払拭し、親しみやすさをアピールすることに努めた。例えば、スーツはダブルからシングルに、メガネは黒縁から銀縁に替えたりしたことなどが挙げられる。
- 池田は各界の著名人を私邸に招いて交遊を図っていた。特に俳優の石原裕次郎を気に入り、石原裕次郎と私邸の風呂に一緒に入浴したこともあったという[15]。
- 大平は、総理総裁たる者は「徹底的に庶民」にならなければならないとして、お茶屋とゴルフには行かないことを池田に約束させた[16]。
- 中曽根康弘は、2008年9月3日付の読売新聞朝刊(13面)に、同年9月1日に辞任会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べ、その例えとして、がんで入院して生命力もないという段階において、ぎりぎりまで耐え抜いて後継に佐藤栄作を指名した池田を挙げ、政治家としての最後までの志、執念を持つべき、と話した。
- かつての大蔵省の門前の銘版は池田の筆によるものである。
- 戦後の総理大臣の中で東京以外に位置する日本の大学を卒業しているのは池田のみである(日本以外の大学も含めるならば、鳩山由紀夫がアメリカのスタンフォード大学院の出身である。また、宇野宗佑は神戸商業大学中退)。
- 大蔵官僚出身とは思えないほどさばけた気さくな性格だった。特に酒造家の出ということもあり酒豪で鳴らし「酒の味がわからずに人様に売れるか。」と冗談を言うほどであった。宮澤等にも「俺は京大卒の落ちこぼれでおまえ等は東大卒の優等生だからな。」と話していたという。しかし一方では芯の強いところもあり宮澤と車中で口論になった際には外が大雨にもかかわらず「お前降りろ。」「私は絶対降りませんから先生こそ降りてください。」という激論を延々と交わした事もあったという。
- 忠海中学校の1年先輩にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がおり、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。竹鶴が「私の履歴書」に記したところでは、池田は竹鶴(当時寮長)に対して「こわい」という印象を抱いていたという。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続いた。
栄典
- 1965年(昭和40年)8月13日:贈大勲位菊花大綬章
家族・親族
著書
- 『均衡財政‐附・占領下三年のおもいで』中公文庫、1999年(書籍情報: ISBN 4-122033-58-6)
脚注
- ↑ 『大平正芳』 66頁。
- ↑ 『大平正芳』 77頁。
- ↑ 『大平正芳』 80頁。
- ↑ 『大平正芳』 81頁。
- ↑ 5.0 5.1 『大平正芳』 88-89頁。
- ↑ 『大平正芳』 94頁。
- ↑ 『大平正芳』 99頁。
- ↑ 8.0 8.1 『大平正芳』 100頁。
- ↑ 1950年12月7日の参議院予算委員会の議事録を閲覧
- ↑ 読売新聞1952年11月29日朝刊
- ↑ 1952年11月27日の衆議院本会議の議事録を閲覧
- ↑ 1960年10月18日の衆議院本会議の議事録を閲覧。この演説は、池田の「場内がシーンとなる演説を」という注文によって、首席秘書官の伊藤昌哉が書いた。「あの演説は五億円か十億円の値打ちがあった。」と池田は述懐している(若宮啓文「忘れられない国会論戦」中公新書 1206 中央公論社 1994年 ISBN 4121012062 C1231)。
- ↑ 市岡弘成・福永あみ『プロ野球を救った男 キャピー原田』ソフトバンククリエイティブ、2009年、140、141頁。
- ↑ 『大平正芳』 59-60頁。
- ↑ 『太陽への神話』 石原裕次郎 集英社 1981年
- ↑ 『大平正芳』 92頁。
関連項目
- 宏池会
- 吉田学校
- 吉田13人衆
- 保守本流
- 自由民主党総裁
- 第1次池田内閣
- 第2次池田内閣
- 第2次池田内閣第1次改造内閣
- 第2次池田内閣第2次改造内閣
- 第2次池田内閣第3次改造内閣
- 第3次池田内閣
- 第3次池田内閣改造内閣
- 所得倍増計画
- 池田・ロバートソン会談
- 農業基本法
- 部分的核実験禁止条約
- 東京オリンピック
- 財界四天王 - 池田内閣を支えた小林中、水野成夫、永野重雄、櫻田武を指す
関連人物
- 吉田茂
- 佐藤栄作 - 高等学校受験の際、偶然に同じ下宿に泊まって以来の深い交流
- 前尾繁三郎
- 大平正芳
- 鈴木善幸
- 宮澤喜一
- 宮澤裕
- 伊藤昌哉 秘書
- 下村治 エコノミスト、池田ブレーンの一人
- 島桂次 - 終生の恩人と名前を挙げている(『シマゲジ風雲録』133頁 文藝春秋、1995年)
- 坂本龍一- 祖父が池田の生涯の親友であったという(坂本龍一著 『音楽は自由にする』23頁 新潮社、2009年)
参考文献
- 鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』光文社・カッパブックス、1965年 62-67頁、156-158頁
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年 76-90頁
- 山田栄三 『正伝 佐藤栄作(上)』 新潮社 1988年 44-46頁
- 伊藤昌哉『池田勇人とその時代』 朝日文庫で再刊 ISBN 4-022603-39-9
- 伊藤昌哉『池田勇人』<日本宰相列伝21>時事通信社もある。1985年
- 沢木耕太郎 『危機の宰相』 魁星出版 2006年、文春文庫 2008年
- 吉村克己『池田政権・一五七五日 高度成長と共に安保からオリンピックまで』行研、1985年
- 塩口喜乙 『聞書 池田勇人 高度成長政治の形成と挫折』朝日新聞社 1975年
- 小林吉弥 『花も嵐も 宰相池田勇人の男の本懐』 講談社 1989年
- 『池田勇人展 その人生と素顔に迫る』竹原市立たけはら美術館編、2005年
- さいとうたかを画 『池田勇人と佐藤栄作の激突 歴史劇画大宰相第4巻』 講談社+α文庫 1999年
- 福永文夫 () 福永文夫 [ 大平正芳…「戦後保守」とは何か ] 初版 中公新書 中央公論新社 2008-12-20 9784121019769
外部リンク
官職 | ||
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先代: | 内閣総理大臣 第58・59・60代:1960年 - 1964年
|
次代: |
先代: | 通商産業大臣 第2代:1950年
第7代:1952年 第19代:1959年 - 1960年 |
次代: |
先代: | 大蔵大臣 第59代:1949年 - 1952年
第63代:1956年 - 1957年 |
次代: |
先代: | 経済審議庁長官 第3代:1952年
|
次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党総裁 第4代 : 1960年 - 1964年
|
次代: |
先代: 結成
|
宏池会会長 初代 : 1957年 - 1964年
|
次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第57代 岸信介 |
第58・59・60代 1960年 - 1964年 |
第61代 佐藤栄作 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |
歴代の経済産業大臣(通商産業大臣) |
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通商産業大臣 |
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経済産業大臣 |
平沼赳夫 - 中川昭一 - 二階俊博 - 甘利明 |
歴代の財務大臣(大蔵大臣) |
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大蔵大臣(大日本帝国憲法下) |
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