「石原慎太郎」の版間の差分
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=== 主要な政策 === | === 主要な政策 === | ||
+ | ==== 新銀行東京 ==== | ||
+ | [[新銀行東京]]参照 | ||
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+ | [[2003年]] (平成15年) 、東京都が石原の発案で「東京発金融改革」と銘打ち、「資金調達に悩む中小企業を救済すること」を理念として設立した。 | ||
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+ | [[2008年]] (平成20年) 3月までに1016億円の累積赤字となっており、既に東京都の出資分1000億円を超過している。さらに、[[2005年]] (平成17年) 4月から2008年 (平成20年) 1月までに出資した2300社が経営破綻し、285億円が不良債権化している。石原は同銀行の再建について「経営者に責任がある」「不退転の決意で必ず再建する」として、400億円の東京都による追加出資を行う方針を示したが、『[[産経新聞]]』や『[[読売新聞]]』も社説で銀行廃止を求めたほか、与党[[自由民主党 (日本)|自民党]]も含め都議会の一部も増資に反対した。石原は2008年 (平成20年) 1月11日の都議会で「トップダウンで銀行設立を決めた知事の責任が大きい」との追及に対し、「私が社長ならもっと大きな銀行にしていた」「都民から預かった大事な税金を失いきる前に、私には銀行を再建する責任がある」と反論し、責任を否定すると共に存続を主張した。 | ||
+ | |||
+ | 世論調査では都民の7割以上が反対していたが、結局都議会は400億円の税金投入による銀行再建を自民、公明両党の賛成多数により可決した。追加出資の400億円は都民1人当たり約3100円に相当し、すでに都が出資した 855億円を合わせて都民の負担は約11000円に達する。この問題ではNPO法人情報公開クリアリングハウスが[[2009年]] (平成21年) 6月、出資金の計1255億円は回収が見込めない、石原と旧経営陣への賠償請求を都に求める住民訴訟を起こしている。 | ||
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+ | 石原は、新銀行東京が2009年 (平成21年) 5月に発表した2009年3月期決算において、同行の赤字が再建計画より少ない金額に留まったことについて「いい成り行きを見せており、とても嬉しい。早く単黒 (単年度黒字) を出すようになってもらいたい」と述べている。 | ||
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+ | ==== 都立高校改革 ==== | ||
+ | [[都立高等学校]]は、[[1967年]] (昭和42年) の[[学校群制度]]導入以来、[[東京大学]]を初めとする難関大学への進学実績が大きく落ち込んでおり、1999年に都知事に就任した石原は、学区制を廃止して競争原理を導入し、生徒に選ばれる特色ある学校づくりが必要だという強い思いを持っていた。東京大学の鈴木啓和は、石原の就任後に実現していった「学区制の廃止」や「[[進学指導重点校]]」の制度、そして「[[エンカレッジスクール]]」は、石原の影響により実現していったものとしている。[[2000年]]2月には[[都立九段高校]]で特別授業の講師担当。 | ||
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+ | [[2001年]] (平成13年) 、[[横山洋吉]]教育長(のち[[東京都副知事]])は「[[進学指導重点校]]」を指定した。第一号に[[東京都立日比谷高等学校|日比谷]]・[[東京都立西高等学校|西]]・[[東京都立戸山高等学校|戸山]]・[[東京都立八王子東高等学校|八王子東]]が指定される。これによって「小尾通達」以来、都立学校としてはおよそ35年ぶりに公式に進学指導を打ち出す。「'''都立復権'''」をスローガンに各校が特色を出す方針を打ち出し、進学指導も都民の多様なニーズに応える一つの施策として位置づけられる。[[2003年]] (平成15年) には第二号として[[東京都立国立高等学校|国立]]・[[東京都立立川高等学校|立川]]・[[東京都立青山高等学校|青山]]を追加した。2003年 (平成15年) には[[学区]]制度を完全撤廃、[[2005年]] (平成17年) には都立学校では初となる附属中学を開校し[[中高一貫教育]]に乗り出した。中高一貫となる都立学校は、[[2010年]] (平成22年) には10校まで増える予定である ([[東京都立桜修館中等教育学校|桜修館]]・[[東京都立小石川高等学校|小石川]]・[[東京都立白鴎高等学校・附属中学校|白鴎]]・[[東京都立両国高等学校・附属中学校|両国]]・[[東京都立富士高等学校|富士]]・[[東京都立大泉高等学校|大泉]]・[[東京都立南多摩高等学校|南多摩]]・[[東京都立北多摩高等学校|北多摩]]・[[東京都立武蔵高等学校|武蔵]]・[[東京都立三鷹高等学校|三鷹]]) 。2007年には「[[進学指導特別推進校]]」に[[東京都立新宿高等学校|新宿]]・[[東京都立駒場高等学校|駒場]]・[[東京都立小山台高等学校|小山台]]・[[東京都立国分寺高等学校|国分寺]]・[[東京都立町田高等学校|町田]]の5校が指定された。いわゆる中堅校に対しては「中堅校活性化推進事業」を展開し、学区撤廃に伴って各校が特色を出すことを推進。また、需要の少なくなった[[底辺校]][[高等学校#定時制の課程|定時制]]や職業科の廃統合を「下から順番につぶす。」「高校の[[事業整理]]。」として積極的に行った。自身は[[学歴]]感について「[[オール5]]を取っても使い物にならない役人にしかなれない。」「自分は東大に50人近く合格者を出した高校で東大へ行けなかったんだから[[落ちこぼれ]]だった。」「何かひとつ秀でたものがあればいいんだ。」等と著書や講演や息子である良純の書いた著書の中での慎太郎の発言として述べている。 | ||
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+ | ==== 認証保育所制度の創設 ==== | ||
+ | 国の認可保育所に申し込み、用件を満たしているものの、保育所の不足により、入所待ちを余儀なくされている[[待機児童]]が増加しており、都内にはその受け皿となる無認可保育所が存在していた。しかし無認可のため、有資格者が不足していたり、環境が劣悪なところもあった。そこで石原は国の認可保育所に頼るのではなく、都独自の基準を設けて、都市型保育のニーズに応える[[認可外保育施設|認証保育所]]を創設。2001年8月1日に都内三カ所でオープンし、2011年現在で615ヶ所の認証保育所が設置されるに至っている。 | ||
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+ | ==== 福祉改革 ==== | ||
+ | 「何が贅沢かといえば、まず福祉」の主張に基づき、石原都知事主導で「福祉改革」 (社会保障費の削減・合理化) を行った。[[1999年]] (平成11年) から[[2004年]] (平成16年) までに以下の政策によって福祉予算を661億円削減した。 | ||
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+ | * シルバーパス (敬老パス) を年間1千円に有料化 | ||
+ | * 寝たきり高齢者への老人福祉手当の段階的廃止 | ||
+ | * 障害者医療費助成の対象を縮小 | ||
+ | * 特別養護老人ホームへの補助を4年間で181億円 (85%) 削減 | ||
+ | * 難病医療費助成の対象から慢性肝炎を除外 | ||
+ | * 盲導犬の飼育代、盲ろう者のための通訳者養成講座の廃止 | ||
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+ | 石原の主導で、「利用者指向の『開かれた福祉』」を目的として下記のとおり「東京都福祉改革推進プラン」が行なわれている。 | ||
+ | # 利用者が「選択」するために必要なサービスの質と量の確保 | ||
+ | # 安心して「選択」できるためのしくみづくり | ||
+ | # 利用者指向のサービス実現のための「競い合い」の促進 | ||
+ | # 「地域」の力と特性を活かした身近なサービスの提供 | ||
+ | # 社会の変化に合わせた一歩先の福祉を構想 | ||
+ | 平成18年度の東京都の福祉保険局予算は7,114億5,200万円となり、東京都予算 (一般会計総額6兆1,720億円) 全体に占める割合は11.5%となっている。 | ||
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+ | ==== 米軍基地返還 ==== | ||
+ | [[横田飛行場|青山公園]]参照 | ||
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+ | 米軍[[横田基地]]の返還・軍民共同利用を公約とし、また麻布ヘリコプター基地 (赤坂プレスセンター、ハーディバラックス) が不法占拠している都立[[青山公園]]の該当部分返還を要求している。 | ||
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+ | ==== 外形標準課税 ==== | ||
+ | 一定規模以上 (資金量の残高が5兆円以上) の大手[[銀行]]を対象に、5年間の時限措置として[[事業税#課税標準の例外:事業の情況に応じた外形標準課税|外形標準課税]]を導入した (いわゆる銀行税) 。しかし銀行側は「狙い撃ち」と反発し訴訟に発展、[[東京高等裁判所|東京高裁]]・[[森脇勝]]裁判長は銀行への課税自体は合法と認めた上で、税率負担の水準が不公平で高すぎるとして違法と判断、都側は事実上敗訴した。平成12年度から15年度までの銀行税収入は3173億円にのぼったが、銀行側と税率引き下げを条件に[[和解]]し年率4.1 - 4.5%という高率で発生した還付加算金123億円を含め2344億円を銀行側に返還した。 | ||
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+ | 敗訴の結果、銀行税は導入時の3%から、過去10年間の銀行の納税額の平均である0.9%へと引き下げられ、都の税収は同税導入以前の水準とほぼ同じ829 億円に留った。「税収を増やす」という本来の目的としては失敗したものの、自治体の独自課税の動きに大きな影響を与えた。 | ||
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+ | ==== カジノ構想 ==== | ||
+ | 税収を増やすために[[お台場]][[カジノ]]構想を提案していたが、現行の法律ではそれができず、実施には国会による法改正を必要とするので実現見通しが立たず[[2003年]] (平成15年) に正式に断念を発表(現在の日本においては、[[公営競技]]や[[宝くじ]]、[[スポーツ振興くじ]]等別途法令で指定された以外の賭け事は全て、[[賭博開帳図利罪]]に問われる[[ギャンブル]]である)。このお台場カジノ構想に関しては、2003年 (平成15年) に公開された映画『[[踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!]]』にてそれらしきものが描写されている。また「千里眼/マジシャンの少女」 (小学館文庫) [文庫]ISBN:978-4094032604[[松岡圭祐]] (著) でもお台場カジノ構想をテーマにした物語が描かれている。 | ||
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+ | ==== 「後楽園競輪」復活構想 ==== | ||
+ | 上述のカジノ構想断念を受け新たな税収源を求めるべく2003年 (平成15年) 6月に、[[東京ドーム]]の地下に現在未使用である[[競輪]]用走路が収納されており、また同地の前身が[[後楽園競輪場]]であった背景も踏まえ、「後楽園競輪」復活構想を掲げた。その後、[[三宅島#2000年の噴火|三宅島災害復興支援]]を名目に都議会にも議案を諮ったが、同地の所在地である文京区の住民による反対運動に後押しされた当時の同区区長・煙山力が早速反対の姿勢を表明したばかりか、都議会議員の多くが消極的な姿勢に終始したこともあって難航。加えて、競輪復活計画のまとめ役を務めていた当時の副知事・[[浜渦武生]]が[[問責決議]]により、同職を辞することになったため、この時点で事実上頓挫した。 | ||
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+ | ==== 首都大学東京 ==== | ||
+ | 設立前後の経緯と大学の詳細については[[首都大学東京]]を | ||
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+ | 「全く新しい大学をつくる」と公約。[[東京都立大学]]の改編により[[2005年]] (平成17年) に設立された大学である。 | ||
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+ | 一般の名称公募では「東京都立大学」が最多だったが、石原の意向で名称が「首都大学東京」となった。都からの一方的なトップダウンの大学改組や雇用不安定化に対し大学教員側が反発、著名な教授などを含めた多数の教職員が他の大学へ移籍した。また、都立大[[法科大学院]]の入試が延期され、[[近代経済学]]グループ16名中15名が大学を去り[[経済学]]コースが設置できなくなり、採択された[[21世紀COEプログラム]]「金融市場のミクロ構造と制度設計」の補助金を返上するなど問題が発生した。 | ||
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+ | 石原は経済学部のCOE返上問題について「一部のバカ野郎が反対して (COEの) 金が出なくなったが、あんなものどうでもいい」と発言している。 | ||
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+ | ==== ディーゼル車排ガス規制 ==== | ||
+ | ディーゼル車の実態と法規制については[[ディーゼル自動車]] | ||
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+ | 青島都政の政策を引き継ぎ、かねてより環境研究者に指摘されてきた、国の[[自動車排出ガス規制]]での対応では不足となっていた東京都の自動車排ガス公害の深刻さに対応するため、[[ディーゼル自動車|ディーゼル車]]への粒子状物質排出規制を首都圏の他の自治体と共同して行い、[[2000年]] (平成12年) には、都民の健康と安全を確保する環境に関する条例 (通称: [[ディーゼル車規制条例|環境確保条例]]) を制定し、粒子状物質排出基準を超えるディーゼル車の、新車登録7年経過後の走行を禁止した (条例第37条、第38条) 。 | ||
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+ | この条例については、違法な[[上乗せ条例]]であるとの見解や、地域的な特殊性を考慮した適法な条例であるとの見解がある<ref>[[大塚直]]『環境法』</ref>。石原はディーゼル車の数は全ての自動車の中の2割に過ぎないが、全ての自動車から排出される窒素酸化物の約7割と浮遊粒子物質(SPM)のほとんどを排出していることを示し、東京でディーゼル自動車の排気に含まれ排出される粉塵の量が、1日に500ccのペットボトル12万本分にも達するとして、会見等でペットボトル入りの煤を撒いて見せた。このような訴えは、[[環境省]]始め国による環境規制の強化を促したとされる。しかし、国は[[自動車から排出される窒素酸化物及び粒子状物質の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法]]などで[[窒素酸化物]]の排出量がガソリン車の10倍であるディーゼル車からガソリン車への転換を図る政策をとっているが、それに乗じCO2排出量が少ないディーゼル車に対する過度の規制や、殊更にディーゼル車を悪者視するかのようなパフォーマンスは[[地球温暖化]]対策に逆行するという主張もある。 | ||
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+ | 関連して、[[環境汚染]]の原因になるだけではなく[[脱税]]の温床となっている[[不正軽油]]の撲滅にも注力している。 | ||
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+ | ==== 羽田空港再拡張事業 ==== | ||
+ | [[2010年]] (平成22年) 10月に完成・供用が開始された[[東京国際空港]]の四本目の滑走路 (D滑走路) は、世界が時間的・空間的に狭小なものとなってきた国際化の時代に、空からのアクセスが国力の維持に絶対に必要なこととの考えのもと、当時[[政調会長]]であった親友の[[亀井静香]]とともに、当時の[[運輸省]]と協議して、15分の交渉で調査費をつけさせ着手に持ちこんだものとされる。 | ||
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+ | ==== 臨海副都心開発 ==== | ||
+ | [[東京臨海副都心]]参照 | ||
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+ | [[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木都政]]下で開始された[[お台場]]の[[臨海副都心]]開発計画は多額の負債を出して赤字となっているが、石原は事業推進の立場に立っている。当選直後の1998年度 (平成10年度) には[[第三セクター]]3 社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらに都によるビルの借り上げ支援や土地代の減免、収益事業の丸投げなどさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円 (2006年まで) を費やした。これに対し[[ゼネコン]]・ハコモノ重視の土建屋行政という批判がある。 | ||
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+ | 2006年 (平成18年) 5月12日には第三セクター3社([[東京テレポートセンター]]、[[東京臨海副都心建設]]、[[竹芝地域開発]])が財政破綻し、最終的な負債総額は3668億円と確定した。 | ||
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+ | ==== 首都機能移転に反対 ==== | ||
+ | [[首都機能移転]]参照 | ||
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+ | [[首都機能移転]]には「膨大な経費をかけて新都市を建設するよりも、首都東京の歴史的文化的蓄積を活用すべき」とし、強く反対している。東京が「首都」であることを死守することも念頭に、都立大の後身となる大学の名称には、石原の意向により[[首都]]という言葉が組み込んだ「[[首都大学東京]]」が採用された。2001年 (平成13年) 11月21日の衆院の「国会等の移転に関する特別委員会」では1990年 (平成2年) に衆参両院で可決された「国会等の移転に関する決議」を「ばかな決議」と批判し、問題となった。しかし、その際に同委員会の委員長から「新聞社の写真等を見る限り、石原参考人は (同決議の際に) 起立していた」と指摘された。この指摘を受けて「周囲を確認するためだった」との回答書を提出した。 | ||
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+ | ==== 東京オリンピック構想 ==== | ||
+ | [[2016年東京オリンピック構想]]参照 | ||
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+ | [[リオデジャネイロオリンピック|2016年夏季オリンピック]]の[[東京都]]での開催を目指し、招致活動を進めた。[[2006年]] (平成18年) 8月30日には国内候補地選定委員会において[[福岡市]]を破った。招致経費は55億円とされている。東京都は開催に向けて2006年度すでにオリンピック基金1000億円を積み立てており、その後3年間でさらに3000億円積み立てると表明した。 | ||
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+ | 「五輪が決まれば国が動かざるをえない。東京の欠点は交通渋滞。五輪を引き金に東京の暮らしがよくなる」とオリンピック招致の理由の一つとして道路渋滞の解消を挙げた。 | ||
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+ | 開催都市が決定する2009年 (平成21年) 10月2日に各国の候補都市から東京が選ばれない場合については、「責任を取らなきゃいかんでしょうね」と発言している。 | ||
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+ | [[2008年]] (平成20年) 6月には[[皇太子徳仁親王]]に招致活動への支援を求めるつもりである旨発言。[[宮内庁東宮職]]から「招致活動の段階からというのは…」と難色を示された事について「政府が正式に申し込んだら別な話だと思うね。[[宮内庁]]ごときが決めることじゃない。国家の問題なんだから。木っ端役人が、こんな大事な問題、宮内庁の見解で決めるもんじゃない」と述べた。この発言は都議会民主党に7月、「64年[[東京オリンピック|東京]]、72年[[札幌オリンピック|札幌]]、98年[[長野オリンピック|長野]]、いずれの招致にも皇族は関与していない。"一種の国家の総力戦”なる発言は国際親善を旨とする皇族の活動とは相容れない、"皇太子が日本のために一席弁じてもらうことに反対する人は誰もいない"なる発言は是非の議論を封じる危険な側面さえ持つ」と批判されている。 | ||
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+ | また、[[瑞穂町]]議会で招致賛同決議案が否決されたことに対して「頭がどうかしているんじゃないのか、あとでほえ面かくな」と発言した。 | ||
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+ | なお、2016年夏季オリンピックは、2009年 (平成21年) 10月のIOC総会で[[リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロ]]にて開催される事が決定した。この結果に対して6日、「ブラジルの大統領が、聞くところ、アフリカの人にかなり思い切った約束をしたというようです。[[ニコラ・サルコジ|サルコジ]]大統領もフランスの戦闘機を買ってくれるなら、ブラジルを支持するとか」と裏工作の存在を臭わせる発言を行ない、ブラジルの国内委員会から"聞き捨てならない。ルール違反でありIOCに通知する"とクレームを表明されたが、石原は「本当の事を言ったまでのことだけ」と反論している。 | ||
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+ | 石原は[[2009年]] (平成21年) [[11月9日]]、[[2020年夏季オリンピック]]にも東京都を再度立候補させる意向を表明した。 | ||
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+ | ==== 東京マラソン ==== |
2012年5月2日 (水) 15:25時点における版
石原 慎太郎 (いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎、1932年 (昭和7年) 9月30日 - ) は、日本の政治家、作家。東京都知事 (第14・15・16・17代) 。
参議院議員 (1期) 、衆議院議員 (8期) 、環境庁長官 (第8代) 、運輸大臣 (第59代) を歴任した。
所属政党 = (自由民主党→) (無所属→) (自由民主党→) 無所属
- 東京都 第14・15・16・17代東京都知事 当選回数4回
- 1968年7月8日~1972年11月25日第33回衆議院議員総選挙立候補により自動失職
目次
概要
兵庫県神戸市須磨区生まれ。湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。
一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。大学在学中の1956年 (昭和31年) に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』 (盛田昭夫との共著) 、弟・裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。現在、芥川賞選考委員。
ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、1968年 (昭和43年) に参議院議員選挙に全国区から出馬し初当選。1972年 (昭和47年) には衆議院に鞍替え出馬し当選、以後当選8回。1975年 (昭和50年) 、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬するも落選。その後衆議院議員に復帰し、1976年 (昭和51年) に福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年 (昭和62年) に竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年 (平成元年) には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年 (平成7年) 、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如議員辞職を表明した。
1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康・柿澤弘治といった有力候補を抑え初当選する。2003年東京都知事選挙では史上最高の得票率で再選、2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り3選を果たす。2011年東京都知事選挙では当初不出馬が取り沙汰されたものの、東国原英夫らを破り4選。
都知事就任以降、毎年8月15日に靖国参拝する。新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。江藤淳の後を引き継ぎ、産経新聞にエッセイ『日本よ』を連載している。
趣味はヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。身長181cm、体重77kg、天秤座。俳優の石原裕次郎は弟。家族は妻 (石原典子) と4男 (自由民主党幹事長の石原伸晃は長男、俳優・タレントの石原良純は次男、前衆議院議員の石原宏高は三男、画家の石原延啓は四男) 。
石原は様々な差別的思想の考えを持っており、それに関しての部分が批判されることもあるが、逆に作家としての能力は高く評価されている。
略年譜
- 1932年 (昭和7年)
- 9月30日 - 兵庫県神戸市須磨区にて海運会社山下汽船に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県の長浜町に生まれ、旧制宇和島中学 (現在の宇和島東高校) を中退し山下汽船に入社した。店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社の重役にまで出世した。母・光子は広島県厳島の出身。なお石原自身は神奈川県を出身地としている。
- 1934年 (昭和9年)
- 12月28日 - 弟の裕次郎が生まれる。
- 1936年 (昭和11年)
- 1943年 (昭和18年)
- 1945年 (昭和20年)
- 4月 - 神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
- 1949年 (昭和24年)
- 1951年 (昭和26年)
- 1952年 (昭和27年)
- 1955年 (昭和30年)
- 12月 - 当時18歳だった石田由美子 (後に典子と改名) と結婚。
- 1956年 (昭和31年)
- 1月 - 『太陽の季節』により第34回芥川賞を当時史上最年少で受賞、ベストセラーとなる。一橋大学法学部を卒業。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行する。
- 映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊等を行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会 (通称、映倫) が作られる契機となった。
- 1957年 (昭和32年)
- 4月19日 - 長男・伸晃が誕生。
- 1958年 (昭和33年)
- 1960年 (昭和35年)
- 1962年 (昭和37年)
- 1月15日 - 二男・良純が誕生。
- 1963年 (昭和38年)
- 3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
- 1964年 (昭和39年)
- 6月19日 - 三男・宏高が誕生。
- 1966年 (昭和41年)
- - 四男・延啓が誕生。
- 1967年 (昭和42年)
- 1968年 (昭和43年)
- 7月 - 第8回参議院議員通常選挙に自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。2位青島幸男・3位上田哲であり、ライバル関係になっていた。
- 1969年 (昭和44年)
- 11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
- 1972年 (昭和47年)
- 1973年 (昭和48年)
- 1975年 (昭和50年)
- 1976年 (昭和51年)
- 12月5日- 衆院選で国政に復帰(同区で民社党新人大内啓伍も当選)。同月24日発足の福田赳夫内閣_(改造)で環境庁長官に就任。
- 1981年 (昭和56年)
- - 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
- 1983年 (昭和58年)
- 1987年 (昭和62年)
- 1988年 (昭和63年)
- 4月8日 - 『漁業施設がヨットに危険』と発言し、海上保安庁に漁業施設を総点検させることになる。
- 1989年 (平成元年)
- 1990年 (平成2年)
- 2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙が旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
- 1995年 (平成7年)
- 1996年 (平成8年)
- - 弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。
- 1999年 (平成11年)
- 4月11日 - 1999年東京都知事選挙に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。鳩山邦夫、舛添要一、明石康、柿澤弘治ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選 (舛添と喧嘩別れした栗本や、栗本が同年末に復党する政党自由連合代表徳田虎雄の支援受けた)
- 2003年 (平成15年)
- 4月13日 - 2003年東京都知事選挙に出馬。308万票(得票率史上最高)を獲得し、樋口恵子、若林義春らを破り再選。石原の圧勝が事前に予想されていたためか、珍しく候補者の少ない都知事選であった。
- 2004年 (平成16年)
- 11月17 - 21日 - 「弟」テレビドラマ化。
- 2007年 (平成19年)
- 4月8日 - 2007年東京都知事選挙に出馬。投票の過半数にあたる281万票を獲得し、浅野史郎、吉田万三、黒川紀章らを破り3選。
- 2010年 (平成20年)
- 4月10日 たちあがれ日本・応援団長就任
- 2011年 (平成23年)
- 4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、2011年東京都知事選挙に出馬を決断し、立候補。東国原英夫、小池晃らを破り、2,615,120票を獲得して四選を果たした (得票率は43.4%) 。
学生時代
『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」と題し、9ページもの大特集を組んだ『サンデー毎日』 (1956年9月9日号) もその一つだった。この記事の中に、湘南高校時代の慎太郎の左翼活動に関する一節がある。
慎太郎が高校一年の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた1948年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する”この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。
慎太郎は後にこの点について、『芸術生活』編集長の御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている。
作家として
芥川賞受賞
一橋大学在学中に、『太陽の季節』で第34回「芥川賞」を受賞。
『ひばり裕次郎 昭和の謎』によると、「昭和三十年、まだ一橋大生だった石原慎太郎が書いた『太陽の季節』が芥川賞を受賞したが、その余りにえげつない風俗描写に世間は眼を剥 (む) いた。青い海原にうかぶ白いヨットやモーターボートの上でくりひろげられる若い男女の赤裸々なセックス、恋人交換、殺人。そして―、
[裸の上半身にタオルをかけ、離れに上がると彼は障子の外から声を掛けた。“英子さん”部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃起 (ぼっき) した陰茎を外から障子に突き立てた。障子は乾いた音をたてて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。本は見事、的に当って畳に落ちた。その瞬間、竜哉は体中が引き締まるような快感を感じた (『太陽の季節』) 。〕
この"勃起 (ぼっき) する男性シンボル"場面は文壇にも旋風を巻き起こし、支持派と反対派の真っ二つに分れた。支持派の舟橋聖一は、"若い石原が世間を恐れず、率直に生き生きと《快楽》に対決してその実感を容赦なく描き上げた肯定的積極感が好きだ"と述べ、反対派の佐藤春夫は、"この作者の鋭敏げな時代感覚も、ジャーナリストや興行者の域を出ず文学者のものではない。美的節度の欠如"と評し、カンカンガクガクの論争が続いた」
現在に至るまで
その後『処刑の部屋』 (映画原作) 、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。1957年10月『新潮』に発表した「完全な遊戯」について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、『群像』には一度も執筆していない。
政治家への転身以降、発表する作品数は減ったものの、現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。1970年 (昭和45年) に書下ろし長篇『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年 (昭和63年) 、『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟裕次郎を描いた1996年 (平成8年) の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。創作以外でも『スパルタ教育』 (1969年、70万部) 『「NO」と言える日本』 (1989年、125万部) 、『法華経を生きる』 (1998年、33万部) 『老いてこそ人生』 (2002年、82万部) などのベストセラーを刊行している。
1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めていたが、辛口の批評が多かった。石原が推して受賞した者に辻仁成、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太などがいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。2012年の第146回芥川賞の選考会の前に候補作のほぼ全てを中傷したが、選考会後に受賞者の田中慎弥に批判を受けると「田中君の作品は評価していた」と発言をし、その直後に選考委員を辞任した。
映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年 (昭和33年) 、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年 (平成19年) 5月には映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。
東京都知事として
財政運営面では、財政危機に対応し自らの知事給与を10%カットするなど、人件費の圧縮や福祉・教育及び学術研究予算の削減を行い、一方で「東京から国を変える」をスローガンに自らの発案になる大型プロジェクトや臨海開発事業へは積極的な投資を行うのが石原都政の特徴である。銀行への外形標準課税 (銀行税) の導入、日本初で世界三番目のキャップ・アンド・トレード型排出量取引制度の導入、浮遊粒子状物質 (SPM) を減らすためのディーゼル車排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億円の都予算を投入した新銀行東京 (石原銀行とも) の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。知事三期目は二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約とした。
特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債 (借金) は、バブル経済崩壊後の景気回復の影響を受けた都税収入の増加などにより、都の財政が黒字化して債務は減少しつつある。一方、特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を進めている。
また、日本の警察官の増員、警察官僚出身の竹花豊の副知事への任命など治安対策を重視しており、新宿歌舞伎町などの違法営業店の数が激減した。
2007年 (平成19年) には猪瀬直樹を副知事に起用。猪瀬は東京DC特区構想 (山手線の中側を中心とした区域を政府直轄地にして東京から切り離す) を提案し、オリンピック誘致にも懐疑的であるなど主張が異なる部分もあるが、石原は猪瀬について、「個人的に次の知事にふさわしいと思う」と話している。知事・副知事共に現役の作家というのは異例の組み合わせである。同年、東京マラソンの開催を実現した。
主要な政策
新銀行東京
新銀行東京参照
2003年 (平成15年) 、東京都が石原の発案で「東京発金融改革」と銘打ち、「資金調達に悩む中小企業を救済すること」を理念として設立した。
2008年 (平成20年) 3月までに1016億円の累積赤字となっており、既に東京都の出資分1000億円を超過している。さらに、2005年 (平成17年) 4月から2008年 (平成20年) 1月までに出資した2300社が経営破綻し、285億円が不良債権化している。石原は同銀行の再建について「経営者に責任がある」「不退転の決意で必ず再建する」として、400億円の東京都による追加出資を行う方針を示したが、『産経新聞』や『読売新聞』も社説で銀行廃止を求めたほか、与党自民党も含め都議会の一部も増資に反対した。石原は2008年 (平成20年) 1月11日の都議会で「トップダウンで銀行設立を決めた知事の責任が大きい」との追及に対し、「私が社長ならもっと大きな銀行にしていた」「都民から預かった大事な税金を失いきる前に、私には銀行を再建する責任がある」と反論し、責任を否定すると共に存続を主張した。
世論調査では都民の7割以上が反対していたが、結局都議会は400億円の税金投入による銀行再建を自民、公明両党の賛成多数により可決した。追加出資の400億円は都民1人当たり約3100円に相当し、すでに都が出資した 855億円を合わせて都民の負担は約11000円に達する。この問題ではNPO法人情報公開クリアリングハウスが2009年 (平成21年) 6月、出資金の計1255億円は回収が見込めない、石原と旧経営陣への賠償請求を都に求める住民訴訟を起こしている。
石原は、新銀行東京が2009年 (平成21年) 5月に発表した2009年3月期決算において、同行の赤字が再建計画より少ない金額に留まったことについて「いい成り行きを見せており、とても嬉しい。早く単黒 (単年度黒字) を出すようになってもらいたい」と述べている。
都立高校改革
都立高等学校は、1967年 (昭和42年) の学校群制度導入以来、東京大学を初めとする難関大学への進学実績が大きく落ち込んでおり、1999年に都知事に就任した石原は、学区制を廃止して競争原理を導入し、生徒に選ばれる特色ある学校づくりが必要だという強い思いを持っていた。東京大学の鈴木啓和は、石原の就任後に実現していった「学区制の廃止」や「進学指導重点校」の制度、そして「エンカレッジスクール」は、石原の影響により実現していったものとしている。2000年2月には都立九段高校で特別授業の講師担当。
2001年 (平成13年) 、横山洋吉教育長(のち東京都副知事)は「進学指導重点校」を指定した。第一号に日比谷・西・戸山・八王子東が指定される。これによって「小尾通達」以来、都立学校としてはおよそ35年ぶりに公式に進学指導を打ち出す。「都立復権」をスローガンに各校が特色を出す方針を打ち出し、進学指導も都民の多様なニーズに応える一つの施策として位置づけられる。2003年 (平成15年) には第二号として国立・立川・青山を追加した。2003年 (平成15年) には学区制度を完全撤廃、2005年 (平成17年) には都立学校では初となる附属中学を開校し中高一貫教育に乗り出した。中高一貫となる都立学校は、2010年 (平成22年) には10校まで増える予定である (桜修館・小石川・白鴎・両国・富士・大泉・南多摩・北多摩・武蔵・三鷹) 。2007年には「進学指導特別推進校」に新宿・駒場・小山台・国分寺・町田の5校が指定された。いわゆる中堅校に対しては「中堅校活性化推進事業」を展開し、学区撤廃に伴って各校が特色を出すことを推進。また、需要の少なくなった底辺校定時制や職業科の廃統合を「下から順番につぶす。」「高校の事業整理。」として積極的に行った。自身は学歴感について「オール5を取っても使い物にならない役人にしかなれない。」「自分は東大に50人近く合格者を出した高校で東大へ行けなかったんだから落ちこぼれだった。」「何かひとつ秀でたものがあればいいんだ。」等と著書や講演や息子である良純の書いた著書の中での慎太郎の発言として述べている。
認証保育所制度の創設
国の認可保育所に申し込み、用件を満たしているものの、保育所の不足により、入所待ちを余儀なくされている待機児童が増加しており、都内にはその受け皿となる無認可保育所が存在していた。しかし無認可のため、有資格者が不足していたり、環境が劣悪なところもあった。そこで石原は国の認可保育所に頼るのではなく、都独自の基準を設けて、都市型保育のニーズに応える認証保育所を創設。2001年8月1日に都内三カ所でオープンし、2011年現在で615ヶ所の認証保育所が設置されるに至っている。
福祉改革
「何が贅沢かといえば、まず福祉」の主張に基づき、石原都知事主導で「福祉改革」 (社会保障費の削減・合理化) を行った。1999年 (平成11年) から2004年 (平成16年) までに以下の政策によって福祉予算を661億円削減した。
- シルバーパス (敬老パス) を年間1千円に有料化
- 寝たきり高齢者への老人福祉手当の段階的廃止
- 障害者医療費助成の対象を縮小
- 特別養護老人ホームへの補助を4年間で181億円 (85%) 削減
- 難病医療費助成の対象から慢性肝炎を除外
- 盲導犬の飼育代、盲ろう者のための通訳者養成講座の廃止
石原の主導で、「利用者指向の『開かれた福祉』」を目的として下記のとおり「東京都福祉改革推進プラン」が行なわれている。
- 利用者が「選択」するために必要なサービスの質と量の確保
- 安心して「選択」できるためのしくみづくり
- 利用者指向のサービス実現のための「競い合い」の促進
- 「地域」の力と特性を活かした身近なサービスの提供
- 社会の変化に合わせた一歩先の福祉を構想
平成18年度の東京都の福祉保険局予算は7,114億5,200万円となり、東京都予算 (一般会計総額6兆1,720億円) 全体に占める割合は11.5%となっている。
米軍基地返還
青山公園参照
米軍横田基地の返還・軍民共同利用を公約とし、また麻布ヘリコプター基地 (赤坂プレスセンター、ハーディバラックス) が不法占拠している都立青山公園の該当部分返還を要求している。
外形標準課税
一定規模以上 (資金量の残高が5兆円以上) の大手銀行を対象に、5年間の時限措置として外形標準課税を導入した (いわゆる銀行税) 。しかし銀行側は「狙い撃ち」と反発し訴訟に発展、東京高裁・森脇勝裁判長は銀行への課税自体は合法と認めた上で、税率負担の水準が不公平で高すぎるとして違法と判断、都側は事実上敗訴した。平成12年度から15年度までの銀行税収入は3173億円にのぼったが、銀行側と税率引き下げを条件に和解し年率4.1 - 4.5%という高率で発生した還付加算金123億円を含め2344億円を銀行側に返還した。
敗訴の結果、銀行税は導入時の3%から、過去10年間の銀行の納税額の平均である0.9%へと引き下げられ、都の税収は同税導入以前の水準とほぼ同じ829 億円に留った。「税収を増やす」という本来の目的としては失敗したものの、自治体の独自課税の動きに大きな影響を与えた。
カジノ構想
税収を増やすためにお台場カジノ構想を提案していたが、現行の法律ではそれができず、実施には国会による法改正を必要とするので実現見通しが立たず2003年 (平成15年) に正式に断念を発表(現在の日本においては、公営競技や宝くじ、スポーツ振興くじ等別途法令で指定された以外の賭け事は全て、賭博開帳図利罪に問われるギャンブルである)。このお台場カジノ構想に関しては、2003年 (平成15年) に公開された映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』にてそれらしきものが描写されている。また「千里眼/マジシャンの少女」 (小学館文庫) [文庫]ISBN:978-4094032604松岡圭祐 (著) でもお台場カジノ構想をテーマにした物語が描かれている。
「後楽園競輪」復活構想
上述のカジノ構想断念を受け新たな税収源を求めるべく2003年 (平成15年) 6月に、東京ドームの地下に現在未使用である競輪用走路が収納されており、また同地の前身が後楽園競輪場であった背景も踏まえ、「後楽園競輪」復活構想を掲げた。その後、三宅島災害復興支援を名目に都議会にも議案を諮ったが、同地の所在地である文京区の住民による反対運動に後押しされた当時の同区区長・煙山力が早速反対の姿勢を表明したばかりか、都議会議員の多くが消極的な姿勢に終始したこともあって難航。加えて、競輪復活計画のまとめ役を務めていた当時の副知事・浜渦武生が問責決議により、同職を辞することになったため、この時点で事実上頓挫した。
首都大学東京
設立前後の経緯と大学の詳細については首都大学東京を
「全く新しい大学をつくる」と公約。東京都立大学の改編により2005年 (平成17年) に設立された大学である。
一般の名称公募では「東京都立大学」が最多だったが、石原の意向で名称が「首都大学東京」となった。都からの一方的なトップダウンの大学改組や雇用不安定化に対し大学教員側が反発、著名な教授などを含めた多数の教職員が他の大学へ移籍した。また、都立大法科大学院の入試が延期され、近代経済学グループ16名中15名が大学を去り経済学コースが設置できなくなり、採択された21世紀COEプログラム「金融市場のミクロ構造と制度設計」の補助金を返上するなど問題が発生した。
石原は経済学部のCOE返上問題について「一部のバカ野郎が反対して (COEの) 金が出なくなったが、あんなものどうでもいい」と発言している。
ディーゼル車排ガス規制
ディーゼル車の実態と法規制についてはディーゼル自動車
青島都政の政策を引き継ぎ、かねてより環境研究者に指摘されてきた、国の自動車排出ガス規制での対応では不足となっていた東京都の自動車排ガス公害の深刻さに対応するため、ディーゼル車への粒子状物質排出規制を首都圏の他の自治体と共同して行い、2000年 (平成12年) には、都民の健康と安全を確保する環境に関する条例 (通称: 環境確保条例) を制定し、粒子状物質排出基準を超えるディーゼル車の、新車登録7年経過後の走行を禁止した (条例第37条、第38条) 。
この条例については、違法な上乗せ条例であるとの見解や、地域的な特殊性を考慮した適法な条例であるとの見解がある[1]。石原はディーゼル車の数は全ての自動車の中の2割に過ぎないが、全ての自動車から排出される窒素酸化物の約7割と浮遊粒子物質(SPM)のほとんどを排出していることを示し、東京でディーゼル自動車の排気に含まれ排出される粉塵の量が、1日に500ccのペットボトル12万本分にも達するとして、会見等でペットボトル入りの煤を撒いて見せた。このような訴えは、環境省始め国による環境規制の強化を促したとされる。しかし、国は自動車から排出される窒素酸化物及び粒子状物質の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法などで窒素酸化物の排出量がガソリン車の10倍であるディーゼル車からガソリン車への転換を図る政策をとっているが、それに乗じCO2排出量が少ないディーゼル車に対する過度の規制や、殊更にディーゼル車を悪者視するかのようなパフォーマンスは地球温暖化対策に逆行するという主張もある。
関連して、環境汚染の原因になるだけではなく脱税の温床となっている不正軽油の撲滅にも注力している。
羽田空港再拡張事業
2010年 (平成22年) 10月に完成・供用が開始された東京国際空港の四本目の滑走路 (D滑走路) は、世界が時間的・空間的に狭小なものとなってきた国際化の時代に、空からのアクセスが国力の維持に絶対に必要なこととの考えのもと、当時政調会長であった親友の亀井静香とともに、当時の運輸省と協議して、15分の交渉で調査費をつけさせ着手に持ちこんだものとされる。
臨海副都心開発
東京臨海副都心参照
鈴木都政下で開始されたお台場の臨海副都心開発計画は多額の負債を出して赤字となっているが、石原は事業推進の立場に立っている。当選直後の1998年度 (平成10年度) には第三セクター3 社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらに都によるビルの借り上げ支援や土地代の減免、収益事業の丸投げなどさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円 (2006年まで) を費やした。これに対しゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政という批判がある。
2006年 (平成18年) 5月12日には第三セクター3社(東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発)が財政破綻し、最終的な負債総額は3668億円と確定した。
首都機能移転に反対
首都機能移転参照
首都機能移転には「膨大な経費をかけて新都市を建設するよりも、首都東京の歴史的文化的蓄積を活用すべき」とし、強く反対している。東京が「首都」であることを死守することも念頭に、都立大の後身となる大学の名称には、石原の意向により首都という言葉が組み込んだ「首都大学東京」が採用された。2001年 (平成13年) 11月21日の衆院の「国会等の移転に関する特別委員会」では1990年 (平成2年) に衆参両院で可決された「国会等の移転に関する決議」を「ばかな決議」と批判し、問題となった。しかし、その際に同委員会の委員長から「新聞社の写真等を見る限り、石原参考人は (同決議の際に) 起立していた」と指摘された。この指摘を受けて「周囲を確認するためだった」との回答書を提出した。
東京オリンピック構想
2016年夏季オリンピックの東京都での開催を目指し、招致活動を進めた。2006年 (平成18年) 8月30日には国内候補地選定委員会において福岡市を破った。招致経費は55億円とされている。東京都は開催に向けて2006年度すでにオリンピック基金1000億円を積み立てており、その後3年間でさらに3000億円積み立てると表明した。
「五輪が決まれば国が動かざるをえない。東京の欠点は交通渋滞。五輪を引き金に東京の暮らしがよくなる」とオリンピック招致の理由の一つとして道路渋滞の解消を挙げた。
開催都市が決定する2009年 (平成21年) 10月2日に各国の候補都市から東京が選ばれない場合については、「責任を取らなきゃいかんでしょうね」と発言している。
2008年 (平成20年) 6月には皇太子徳仁親王に招致活動への支援を求めるつもりである旨発言。宮内庁東宮職から「招致活動の段階からというのは…」と難色を示された事について「政府が正式に申し込んだら別な話だと思うね。宮内庁ごときが決めることじゃない。国家の問題なんだから。木っ端役人が、こんな大事な問題、宮内庁の見解で決めるもんじゃない」と述べた。この発言は都議会民主党に7月、「64年東京、72年札幌、98年長野、いずれの招致にも皇族は関与していない。"一種の国家の総力戦”なる発言は国際親善を旨とする皇族の活動とは相容れない、"皇太子が日本のために一席弁じてもらうことに反対する人は誰もいない"なる発言は是非の議論を封じる危険な側面さえ持つ」と批判されている。
また、瑞穂町議会で招致賛同決議案が否決されたことに対して「頭がどうかしているんじゃないのか、あとでほえ面かくな」と発言した。
なお、2016年夏季オリンピックは、2009年 (平成21年) 10月のIOC総会でリオデジャネイロにて開催される事が決定した。この結果に対して6日、「ブラジルの大統領が、聞くところ、アフリカの人にかなり思い切った約束をしたというようです。サルコジ大統領もフランスの戦闘機を買ってくれるなら、ブラジルを支持するとか」と裏工作の存在を臭わせる発言を行ない、ブラジルの国内委員会から"聞き捨てならない。ルール違反でありIOCに通知する"とクレームを表明されたが、石原は「本当の事を言ったまでのことだけ」と反論している。
石原は2009年 (平成21年) 11月9日、2020年夏季オリンピックにも東京都を再度立候補させる意向を表明した。