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'''ソビエト社会主義共和国連邦'''(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)は、[[1917年]][[3月12日]]の[[ロシア革命]]を受けて誕生し、[[1991年]]を以って崩壊した[[連邦]]国家である。略称は'''ソビエト連邦'''(ソビエトれんぽう)、'''ソ連'''(ソれん)、'''蘇連'''(それん)など。「蘇」は、「ソビエト」の漢字音訳である「蘇維埃」の頭文字である。 | '''ソビエト社会主義共和国連邦'''(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)は、[[1917年]][[3月12日]]の[[ロシア革命]]を受けて誕生し、[[1991年]]を以って崩壊した[[連邦]]国家である。略称は'''ソビエト連邦'''(ソビエトれんぽう)、'''ソ連'''(ソれん)、'''蘇連'''(それん)など。「蘇」は、「ソビエト」の漢字音訳である「蘇維埃」の頭文字である。 | ||
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しかし[[1930年代]]に入ると、[[ドイツ]]に「共産主義打倒」を掲げた[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)が政権を握り、同じくポーランドや[[チェコスロバキア]]などのドイツ支配圏の東ヨーロッパ諸国への東方拡大を狙い始めた。その後両者は東ヨーロッパ諸国の支配権を巡って激突することとなる。 | しかし[[1930年代]]に入ると、[[ドイツ]]に「共産主義打倒」を掲げた[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)が政権を握り、同じくポーランドや[[チェコスロバキア]]などのドイツ支配圏の東ヨーロッパ諸国への東方拡大を狙い始めた。その後両者は東ヨーロッパ諸国の支配権を巡って激突することとなる。 | ||
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2020年1月15日 (水) 00:45時点における最新版
ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)は、1917年3月12日のロシア革命を受けて誕生し、1991年を以って崩壊した連邦国家である。略称はソビエト連邦(ソビエトれんぽう)、ソ連(ソれん)、蘇連(それん)など。「蘇」は、「ソビエト」の漢字音訳である「蘇維埃」の頭文字である。
目次
概説[編集]
世界初の社会主義国であるが、同時に軍事大国としても有名であり、第二次世界大戦後にはアメリカ合衆国と双璧を成す超大国であった。1991年の年の瀬に連邦は解体され、構成国は独立した。
首都はモスクワ。国旗のデザインは、革命を意味する赤地に、労働者と農民のシンボルである鎌と槌を交差させ、その上に五大陸の労働者の団結を意味する五芒星を配した。
国名[編集]
正式名称は、ロシア語で Сою́з Сове́тских Социалисти́ческих Респу́блик(ラテン文字表記の例: Sojúz Sovétskikh Sotsyalistícheskikh Respúblik サユース・サヴィェーツキフ・サツィアリスチーチェスキフ・リスプーブリク)。略称は СССР(SSSR エス・エス・エス・エール)。通称、Сове́тский Сою́з(Sovétskij Sojúz サヴィェーツキイ・サユース)。
英語表記は Union of Soviet Socialist Republics。通称USSR。英語圏では Soviet Union と呼ぶことが多かった。
日本語表記は、ソビエト(蘇維埃)社会主義共和国連邦。通称、ソビエト連邦(「ソビエト」は「ソヴィエト」「ソヴェト」「ソヴェート」とも)。略称はソ連邦、ソ連、または単にソビエト。第二次世界大戦前はソ同盟(蘇同盟)と訳されることが多かった。しかし、ソ連自体が「Союз とは Федерация (連邦)である」と説明していたこと、また戦後に開かれた在日ソ連大使館が「連邦」の訳語を使用したことから、戦後は専ら「連邦」と訳されるようになった。ソビエトとはロシア語で「評議会」の意。固有名詞(地名)を含まない唯一の国名だった(ただし、連邦を構成する諸共和国名には地名が入る)、そのために『連邦』という言葉を常につけていると思われる(固有名詞であるロシア連邦は単にロシアと呼んでいる)。ドイツの連邦も「同盟」を意味する「Bund」が採用されており、欧州連合も「同盟」であるにも関わらず、「連合」と呼ばれており、ソビエト連邦だけに言えることではない。略称として「ソ連邦」という場合もある。
英語圏以外の西側諸国においては一般的には旧国名のロシア(に相当する各言語の単語)と呼ばれることが多く要出典、日本はソ連、ソビエトという呼称が一般的に定着した稀有な事例である(一部では「労農ロシア」などとも呼ばれた)。中国語を使用する漢字文化圏においても「蘇聯」と呼ばれる。また、東欧諸国など東側諸国では「ソビエト連邦」に相当する名称で呼ぶことが普通であった。
歴史[編集]
ロシア革命[編集]
ペトログラードのデモに端を発する1917年の2月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第一次世界大戦でのドイツ軍との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾の目処は付いていなかった。
同年8月にラーヴル・コルニーロフ将軍による反乱が失敗した後、ボリシェヴィキに対する支持が高まった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、10月下旬に権力奪取を成功させた。その後の列強による干渉戦争や内戦にも勝利して権力を確立した。ボリシェヴィキは1919年に共産党と改称した。
誕生[編集]
1922年に行われた全連邦ソビエト大会で国家樹立が宣言され、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。しかし、その僅2年後の1924年1月、ウラジーミル・レーニン死去。
レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは、政敵であるレフ・トロツキーの国外追放(その後トロツキーは亡命先のメキシコで、スターリンが送り込んだ刺客により暗殺された)を皮切りに、反対派を徹底的に粛清して、自らを頂点とした一国社会主義路線を確立した。
1926年には、ソビエト刑法が成立した。全体主義から罪刑法定主義を排除し、社会主義に有害な行為は全て犯罪となり、犯罪者は刑罰でなく社会防衛処分に付されるとされた。ナチス刑法がこれに類似する。この刑法は1960年に改正されるまで、人民は元より共産党員にも猛威を振るった[1]。
1928年から行われた第一次五ヶ年計画の中核に置かれたコルホーズが代表する、強引な農業集団化に伴う「クラーク (富農)」絶滅計画や飢饉によって死亡した人数は、推計によって最大約700万人に達する可能性もあると言われている。1929年7月には満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍を破りると12月22日にハバロフスク議定書を締結し満州における影響力を強めた。
無理な農業集団化の強行により、1932年から1933年には大飢饉が起こり、500万人とも1,000万人とも言われる餓死者が出た。 特にウクライナにおける飢餓(ホロドモール)は甚だしく、400万人から700万人の餓死者が出た。2006年にウクライナ政府はこの飢餓をウクライナ人に対するジェノサイドと認定している。この「拙速な集団化政策」はウクライナ人弾圧のために意図してなされたものであると言う説も有力である。集団化に反対した人々は、白海・バルト海運河の建設現場のグラグへ送られるなどにより命を落とした。
この頃から世界恐慌により多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに世界最高の経済成長を達成したが、その経済成長は農業を軽視した極端な「超工業化」であり、政治犯や思想犯を中心とした強制労働(実質的な奴隷制度)に支えられていた面もあり、その富は共産党の上層部に集中して配分された。
スターリン時代の大粛清時(ピークは1936年から1938年)には裁判を経ずに、多くの党員や軍人、国民が死刑もしくは流罪などにより粛清されたとされる。この頃には、流罪の受け入れ先として大規模な強制収容所(シベリアのコルィマ鉱山など)が整備された。大粛清による犠牲者数には諸説があるが、当時行われた正式な報告によると、1930年代に「反革命罪」で死刑判決を受けたものは約72万人とされる(但し、過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば犠牲者数は増大すると見られる)。
第二次世界大戦[編集]
政権を掌握したヨシフ・スターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国として、第一次世界大戦後にその勢力を急速に強めていたアメリカやその同盟国であるイギリスなどの「帝国主義」国との緩衝地帯にする計画を持っていた。
しかし1930年代に入ると、ドイツに「共産主義打倒」を掲げたアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を握り、同じくポーランドやチェコスロバキアなどのドイツ支配圏の東ヨーロッパ諸国への東方拡大を狙い始めた。その後両者は東ヨーロッパ諸国の支配権を巡って激突することとなる。
しかし1939年、それまで敵対していたナチスドイツと独ソ不可侵条約を結び、同年のドイツのポーランド侵攻の際にはソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともに侵攻し、ポーランドの東半分(ガリツィアなど)を占領した。またバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清、或いは収容所送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。
1941年6月に独ソ戦いわゆる「大祖国戦争」が開始され、その結果ソ連はフィンランド侵略で国連から追放されていたが「敵の敵は味方」の理屈でアメリカ・イギリスから連合国側として第二次世界大戦に参戦する許可を受けた。ドイツ軍の猛攻とスターリンによる無理な作戦の遂行がたたり、開戦後まもなく首都モスクワに数十kmに迫られた他、レニングラード攻防戦やクルスクの戦い等により軍民併せて数百万人の死傷者を出したものの、日ソ中立条約による日本軍の不参戦やイギリス軍やアメリカ軍などによる西部戦線における攻勢、アメリカなどによる軍事物資提供による後方支援のお陰もあり、最終的にドイツの首都であるベルリンを陥落させ勝利した。独ソ戦では2000万以上のソ連人が犠牲になるほどの戦いに勝利した。
その際にソビエト軍は、「ベルリン入城は英米連合国揃って行う」との密約要出典を無視したばかりか、ベルリン陥落後もドイツ領内侵攻を続けたためアメリカを慌てさせた。ソビエト軍はドイツの兵士や市民が降伏、投降した後でも多数の市民の殺害や婦女暴行など傍若無人の乱暴な振る舞いを続けるため、ソビエト軍を恐れたドイツ軍は防衛地域を放棄して反転西進しアメリカ軍に降伏するようにした。これによりソビエト軍はドイツの東側を難なく占領することができ、その後の東西ドイツ分割を招くこととなった。
なお、独ソ戦の開始以前に日ソ中立条約を結んでおり、大戦中を通じ交戦状態になかった日本(大日本帝国)に対しては、連合国首脳によるヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づき、大戦末期の1945年8月8日になって不可侵条約を一方的に破棄し、日本に宣戦を布告をし千島列島や南樺太、満州国(現在の中華人民共和国東北部)、朝鮮半島北部に侵攻した。1945年8月14日、中ソ友好同盟条約を締結する。
この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも増やす目的から日本軍の降伏による停戦さえ無視し侵攻を続け、多くの捕虜を自国内に連行し、劣悪な状況下でインフラ整備等の労働力として酷使したため、その多くが死に至り、生き残った者達に対しても、日本への帰国後に共産革命を起こさせるべく共産主義教育をおこなった(シベリア抑留)。これらの国際法を無視した行為とその後の対応が後の北方領土問題、シベリア抑留問題の原因となった。
第二次世界大戦の勝利によりソ連はドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 また、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を復活させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。 また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。 さらに、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。
ソビエト連邦は連合国として参加した事で勝利し、国連の常任理事国となった。
冷戦の開始[編集]
戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国の反対派を粛清し、スターリン主義的な社会主義政権を導入しこれらをソ連の衛星国とした。ワルシャワ条約機構などにおける東側諸国のリーダーとして、アメリカ合衆国をリーダーとする資本主義(西側諸国)陣営に対抗した。
1953年に死去したスターリンの死後新たな指導者となったニキータ・フルシチョフはスターリン批判を行い、その行過ぎた全体主義的独裁の政策を大幅に緩めた。しかし、ソ連が極端な警察国家、監視国家であることには変わりなかった。彼は食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、砂漠化が進み、結果、ソ連は食料を海外から輸入しなければならなくなった。
なお、東欧のソ連衛星国ではスターリン批判以降しばしば改革共産主義運動や反体制運動が発生したが、ソ連はこれらの運動のいくつかに対しては武力介入してこれを鎮圧し、反対派を殺害・処刑・投獄した(ハンガリー動乱、プラハの春など)他、有形無形の圧力をかけ収拾させた。
また、第二次世界大戦から崩壊までの間を通じて、アメリカとの間では直接戦争こそ生じなかったものの、ベルリン封鎖などの有形無形の敵対行動や朝鮮戦争やベトナム戦争などの世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。特に限りない軍拡と、核兵器の開発競争は世界を核戦争の危機に晒すものだった(1962年のキューバ危機など)。その開発競争が如何に杜撰であったかは、後年のチェルノブイリ原子力発電所事故の経緯が物語っている。原子炉構造に問題があったにもかかわらず当初は運転ミスと断じられ、プリピャチ市民は放射線の恐怖をほとんど知らずに日常の日と変わらずに日光浴や散歩をする者さえいた。
1960年代に入りフルシチョフ体制が安定するとアメリカとの関係は多少改善が進んだ。しかし社会主義の土着化を進めており、フルシチョフの改革路線に懐疑的であった毛沢東率いる中華人民共和国との関係は国境地帯における軍事衝突(ダマンスキー島事件)や北京のソ連大使館襲撃事件が起こるなど逆に悪化した(中ソ対立)。
国力の衰退[編集]
その後1964年に、農業政策の失敗と西側諸国に対しての寛容的な政策を理由に失脚させられたフルシチョフに代わり、強硬派のレオニード・ブレジネフが指導者となると国内問題を放置することが多くなり、官僚の特権階級化など体制の腐敗が進み、食料や燃料、生活必需品の配給が滞るようになり、国民の多くは耐乏生活を強いられるようになっていった。また、改革開放を始めた中国を除いて東側諸国全体の経済が70年代後半から停滞していき、ソ連ではかつては10%を誇った成長率もほころびを見せ、崩壊の直前はGNPも日本に抜かれて三位となる。
1979年にブレジネフは、隣するアフガニスタンの共産主義政権がアメリカと関係を結ぼうとしたためにアフガニスタン侵攻を行ったものの、結果的にパキスタン、サウジアラビア、イラン等といった一部のイスラム諸国および西側諸国による猛反発を受け、翌年に行われたモスクワオリンピックの大量ボイコットを招くことになった。この侵攻は1989年まで続き、国際社会からの孤立を招いただけでなく、莫大な戦費を10年間の長きにわたり浪費することや多くの戦死者を出すことによって、ただでさえ傾きかけていた経済をますます圧迫する結果になった。
また、アメリカのロナルド・レーガン政権からは「悪の帝国」と名指しで批判され、さらなる軍拡競争で闇経済が蔓延、財政赤字が拡大する。
ペレストロイカ[編集]
1982年に死去したブレジネフの後継者となったユーリ・アンドロポフ、アンドロポフの死後に後継者となったコンスタンティン・チェルネンコと老齢の指導者が相次いで政権の座に就いた。しかし共に就任後間もなく闘病生活に入りそのまま病死したため、経済問題を中心とした内政のみならず、外交やアフガニスタン問題についてさえも具体的な政策をほとんど実行に移せなかった。
その後、この両名の時代においてますます深刻化した経済的危機を打開するべく、1985年3月に誕生したゴルバチョフ政権は社会主義体制の改革・刷新を掲げ、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推し進めた。
これにより長きにわたった一党独裁体制下で腐敗した政治体制の改革が進められ、1989年3月26日にはソ連初の民主的選挙である第1回人民代議員大会選挙が実施された。またソ連共産党の指導的役割を定めたソ連憲法第6条は削除され、1990年にはソ連共産党による一党独裁制の放棄、そして複数政党制と大統領制の導入が決定され、同年3月15日人民代議員の投票により初代大統領にゴルバチョフが選出された。また同時期に当局の検閲を廃止した新聞法が制定された。しかしこれらの一連の政治改革は一定の成果を上げた半面、改革の範囲やスピードを巡ってソ連共産党内の保守派と急進改革派との内部抗争を激化させ、民族問題の先鋭化と各共和国の主権拡大を要求する動きを生み出した。また政治面と比較して経済面では改革の成果は上がらず、深刻な経済危機を招いたとして国民のゴルバチョフ政権への不満を増大させる要因となった。
1988年からはナゴルノ・カラバフ自治州の帰属を巡ってアルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国との間に大規模な紛争が発生、グルジア共和国やモルドバ共和国内でも民族間の衝突が起きた。また1990年3月11日年には反ソ連の急先鋒と見られていたバルト3国のリトアニア共和国が連邦からの独立を宣言、ゴルバチョフ政権は経済制裁を実施し宣言を撤回させたものの同年3月30日にはエストニア共和国が、5月4日にはラトビア共和国が独立を宣言した。1990年5月29日にはロシア共和国最高会議議長に急進改革派のエリツィンが当選、同年6月12日にはロシア共和国が、7月16日にはウクライナ共和国が共和国の主権は連邦の主権に優越するという主権宣言を行い各共和国もこれに続いた。こうした民族運動の高揚と連邦からの自立を求める各共和国の動きはゴルバチョフ自身が推進したペレストロイカ、グラスノスチによって引き起こされたと言える半面、連邦議会で保守派との抗争に敗れた急進改革派が各共和国議会に移り、そこでそれらの運動を指揮しているという側面もあった。特にソ連の全面積の76%、全人口の51%、そして他の共和国と比較して圧倒的な経済力を擁するロシア共和国の元首に急進改革派エリツィンが就任したことは大きな意味を持っていた(ただしエリツィン自身は連邦制維持に賛成であった)。
従来の中央集権型の連邦制が動揺する中でゴルバチョフは連邦が有していた権限を各共和国へ大幅に移譲し、主権国家の連合として連邦を再編するという新構想を明らかにした。その上でまず枠組みとなる新連邦条約を締結するため各共和国との調整を進めた。1991年3月17日には新連邦条約締結の布石として連邦制維持の賛否を問う国民投票が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった(共和国別ではロシア共和国で71%、ウクライナ共和国で70%、白ロシア共和国で83%、カザフ共和国で94%、ウズベク共和国で90%、キルギス共和国で95%、タジク共和国で96%、トルクメン共和国で98%、アゼルバイジャン共和国で93%が連邦制維持に賛成票を投じた。ただし独立志向を強めていたバルト三国、グルジア共和国、アルメニア共和国、モルドバ共和国の6つの共和国では投票はボイコットされた)。この国民投票の結果を受け4月23日、ゴルバチョフ・ソ連大統領と国民投票に参加した9つの共和国の元首が集まり、その後各共和国との間に新連邦条約を締結し、連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編を行うことで合意した。その際、国名をそれまでのソビエト社会主義共和国連邦から社会主義の文字を廃止し、主権ソビエト共和国連邦に変更することも決定された。また国民投票と同じ日にロシア共和国では同共和国への大統領制導入の是非を問う国民投票が行われ投票者の69.9%がこれを支持、同年6月12日にロシア共和国大統領選挙が実施されエリツィン・ロシア共和国最高会議議長が当選し、7月10日就任した。
冷戦終結[編集]
東欧ではゴルバチョフが推進する国内改革と衛星国に対する支配の緩和を受けて、1989年から1990年にかけて東ドイツやハンガリー、ポーランドやチェコスロバキアなどの衛星国が相次いで民主化を達成した。そのほとんどは事実上の無血革命であったが、ルーマニアでは一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきたニコラエ・チャウシェスク大統領が改革派による即席裁判で死刑となりその結果民主化が達成された。
なお、ソビエト連邦は冷戦初期に起きたハンガリー動乱やプラハの春の時と違い、これらの衛星国における改革に対して不介入を表明し、これらの政府による国民に対する武力行使に対しては明確に嫌悪感を示した。
ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により東西の冷戦構造は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月2日から12月3日にかけて地中海のマルタでゴルバチョフとアメリカ大統領のジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。
崩壊[編集]
国内では1991年8月20日の新連邦条約締結に向けて準備が進められていた。しかし、新連邦条約締結が各共和国の独立と自らの権力基盤の喪失に結びつくことを危惧したゲンナジー・ヤナーエフやウラジーミル・クリュチコフら8人のソ連共産党中央委員会メンバーらによって条約締結を目前に控えた8月19日にクーデターが発生、ゴルバチョフを軟禁し条約締結阻止を試みたものの、ボリス・エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、さらにアメリカやフランス、日本やイギリスなどの主要国もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わった(→ソ連8月クーデター)。
クーデターの失敗によって新連邦条約締結は挫折、クーデターを起こしたソ連共産党中央委員会メンバーらは逮捕され、ゴルバチョフとソ連共産党の権威は失墜した。8月24日ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任し同時にソ連共産党中央委員会の解散を勧告、8月28日ソ連最高会議はソ連共産党の活動を全面的に禁止し同党は事実上の解体に追い込まれた。連邦を統制してきたソ連共産党が解体されたことにより、これ以後実権はゴルバチョフ・ソ連大統領と各共和国の元首から構成される国家評議会に移っていくことになる。
9月6日国家評議会はバルト三国独立を承認した。新連邦条約締結に失敗したゴルバチョフ・ソ連大統領はこの間も連邦制維持に奔走し、11月14日ロシア共和国も含めた7つの共和国の元首との間で主権国家連邦を創設することで合意した。しかし12月1日にはウクライナ共和国で独立の是非を問う国民投票が実施され投票者の90.3%が独立を支持、当初は連邦制維持に賛成していたエリツィン・ロシア共和国大統領もウクライナが加盟しない主権国家連邦は無意味であるとして、12月3日にこれを承認しソ連崩壊の流れを決定づけた。同年12月8日のベロヴェーシ合意において、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ共和国が独立して独立国家共同体(CIS)を創設、残る諸国もそれに倣ってCISに加入した。12月17日ゴルバチョフ大統領は1991年中に連邦政府が活動を停止することを宣言、12月21日グルジアと既に独立したバルト3国を除く11のソ連構成共和国元首がCIS発足やソ連解体を決議したアルマアタ宣言を採択、これを受けて12月25日ゴルバチョフはソ連大統領を辞任、翌12月26日には最高会議も連邦の解体を宣言し、ソビエト連邦は崩壊した。
地理[編集]
ソビエト連邦 |
思想 |
共産主義 · 社会主義 マルクス・レーニン主義 スターリン主義 |
最高指導者 |
レーニン · スターリン マレンコフ · フルシチョフ ブレジネフ · アンドロポフ チェルネンコ · ゴルバチョフ |
場所 |
モスクワ · レニングラード クレムリン · 赤の広場 |
組織 |
ボリシェビキ · メンシェビキ ソビエト連邦共産党 チェーカー · ゲーペーウー ソ連国家保安委員会 |
歴史 |
ロシア革命 · 大粛清 · 独ソ戦 冷戦 · 8月クーデター · ソ連崩壊 |
ソビエト社会主義共和国連邦は当時において世界一の広さを誇った国であった。そのために隣接している国は東ヨーロッパ、北ヨーロッパ、中央アジア、東アジア、アメリカ大陸など幅が広い。陸だと隣接する国は西はノルウェー、フィンランド、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、南はトルコ、イラン、アフガニスタン、モンゴル、中華民国(1949年以降は中華人民共和国)、北朝鮮(1948年以降)、海だと南は日本(1945年以前は樺太および当時日本領だった朝鮮半島で国境を接していた)、東はアメリカ合衆国である。全域で寒波の影響が非常に強力なため、冬季は北極海に面したところや内陸部を中心に、極寒である。そのためなかなか開発が進まず、強制労働で多くの命が失われた。自動車道の開発は遅れたが雪に強い鉄道が発達しており、シベリア鉄道は超長距離路線であるにもかかわらず「共産主義はソビエト権力+全国の電化である」というレーニンからの方針により電化が進んでおり軍事輸送や貨物輸送に大いに役立った。
長い国境のうちにはいくつかの領土問題を抱えており、1960年代には軍事紛争(中華人民共和国との間におけるダマンスキー島事件)になったケースもある。海を隔てた隣国の1つである日本とは北方領土問題を持っており、この問題はロシアになった現在も続いており解決されていない。またフィンランドにもカレリア地域の問題が残されている。
また旧ソ連はヨーロッパとアジアを跨ぐ国であったことからユーラシアや北アジアと呼ばれていることが多い。なお、サッカーでカザフスタンは欧州の連盟に参加していることからヨーロッパだとする見方があるが、トルコ、キプロス、イスラエルなどの西アジアも加盟しており、全くこれは論拠にならない。なお、ソ連時代に所謂公用語も存在しなかった。すなわちロシア語はソ連の公用語ではなかった。レーニンがオーストロ・マルキシズムやカウツキーの影響のもと、1914年の論文『強制的な国家語は必要か?』において国家語の制定を批判し、スターリンも民族問題の専門家として民族語奨励政策を採用している。
構成国[編集]
(ソビエト連邦構成共和国も参照)
加盟年 | 国名 | ソ連解体後 | 誕生 |
---|---|---|---|
1922年 | ウクライナ社会主義ソビエト共和国 | ウクライナ | |
白ロシア・ソビエト社会主義共和国 | ベラルーシ | ||
ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国 | 1936年連邦解散 | ||
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 | ロシア | ||
1924年 | ウズベク・ソビエト社会主義共和国 | ウズベキスタン | |
トルクメン・ソビエト社会主義共和国 | トルクメニスタン | ||
1929年 | タジク・ソビエト社会主義共和国 | タジキスタン | ウズベクから分割 |
1936年 | アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国 | アゼルバイジャン | ザカフカースを解散 |
アルメニア・ソビエト社会主義共和国 | アルメニア | ||
グルジア・ソビエト社会主義共和国 | グルジア | ||
カザフ・ソビエト社会主義共和国 | カザフスタン | ロシアから分割 | |
キルギス・ソビエト社会主義共和国 | キルギスタン | ||
1940年 | カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国 | 1956年ロシアの自治共和国に降格 | ロシアの一部とフィンランドの一部を合併 |
エストニア・ソビエト社会主義共和国 | エストニア | ||
モルダビア・ソビエト社会主義共和国 | モルドバ | ||
ラトビア・ソビエト社会主義共和国 | ラトビア | ||
リトアニア・ソビエト社会主義共和国 | リトアニア |
なお、構成共和国には、ソビエト連邦から離脱する自由が憲法で認められていた。しかし、連邦離脱の手続きを定めた法律はなく、ソビエト連邦の末期にミハエル・ゴルバチョフが定めた連邦離脱法は、極めてハードルの高いものであった。このためバルト三国は連邦離脱法を無視し、1990年に独立することとなる。
また、国際連合(国連)にはソビエト連邦そのものとは別枠でウクライナ、白ロシア(現・ベラルーシ)が独自に加盟していた。
代表的な都市[編集]
- アンガルスク
- スターリングラード(現ヴォルゴグラード)
- イルクーツク
- ウファ
- ウラジオストク
- スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)
- オムスク
- カザン
- キーロフ
- クラスノヤルスク
- フルンゼ(現ビシュケク)
- クイビシェフ(現サマーラ)
- モスクワ
- レニングラード(現サンクトペテルブルグ)
- タイシェト
- タシュケント
- チェリャビンスク
- チタ
- チュメニ
- トビリシ
- ブラゴヴェシチェンスク
- ナホトカ
- ゴーリキイ(現ニジニ・ノヴゴロド)
- ノヴォシビルスク
- ハバロフスク
- ペルミ
- ロストフ
汚染地域[編集]
ソビエト連邦は超大国であったが軍事や核兵器以外の産業は遅れており、エネルギーの効率や環境対策も遅れていた。そのため汚染地域が多く、ゼルジンスク、ノリルスク、スムガイト(現在はアゼルバイジャン)、チェルノブイリ(同ウクライナ)はきわめて汚染が酷かった。特にチェルノブイリ原発事故は欠陥工事の影響で広島型原爆の約1000発分の放射能がまき散らされ、その被災者が550万人なのでその凄まじさが理解できる[2]。また核実験場のあったセミパラチンスク(現在はカザフスタン・セメイ)では120万人が死の灰を受け30万人が後遺症の深刻な被害を受けている。
政治[編集]
一党独裁制[編集]
間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位(最高ソビエト)まで組織されることで国家が構成されていた。
但し、ソビエト制度が有効に機能した期間はほとんどないに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党が全てのソビエトを支配しており、一党独裁制の国家となっていた(但し、ロシア革命直後のレーニン時代初期とゴルバチョフ時代に複数政党制であった)。党による国家の各単位把握及びその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。
この細胞 (政党)を張り巡らせる民主集中制と計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、アパラチキ(器官の意)による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上なかった。このため、カール・マルクスが唱えた社会主義の理想とは大きくかけ離れ、一般の労働者・農民にとっては支配者がロマノフ朝の皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされておらず、むしろロマノフ朝時代より抑圧的で非民主的な一党独裁体制であった。そのため実質的最高指導者である書記長は「赤色皇帝」とも呼ばれる。
なお、スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、国家元首はソビエト最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党の書記長にあった。なお書記長と最高会議幹部会議長を兼任した者もいる。
司法裁判[編集]
建国者のレーニンは秘密警察のチェーカーを設立し、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられ、これが粛清の引き金となった。チェーカーは建前上、党に所属するものとされていたが、実質レーニン個人の直属であったといっても過言ではない。チェカーの無差別な処刑は反体制派はともかく無関係の者までも日常的に処刑しており、時には罪状をでっち上げて処刑していた。レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」と理由で一家共々処刑を行うなど法に対する姿勢が杜撰であったために、歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは「ボリシェビキが法を守る振りさえしなくなった」契機だと批判した。
スターリン時代は粛清によって、多くの人々が殺害され、スターリン主義のもと、社会主義・共産主義は抑圧的な体制とイコールになってしまった。スターリンは、トロツキーやキーロフなどの政敵たちや党内反対派を殺すためにチェカーを改名したGPU(ゲーペーウー)を用いた。また、GPUは圧制に抵抗する民衆や外国人を弾圧し、次々と刑場や強制収容所に送った。GPUはKGBに引き継がれた。
ナジ・イムレはハンガリー動乱で民主化運動を起こしたために、KGBによる秘密裁判で絞首刑に処された。
東欧革命やソ連崩壊で旧共産圏のあちこちにKGBの残虐さを伝える博物館が建設された。
スターリンの没後も国家反逆罪等で逮捕または亡命を強いられた人は増え続け、ソビエト連邦解体までの70年間に6,200万人以上に及ぶ人々が粛清された。これらは現行のロシア政府が1997年に認めた公式データであり、粛清の全容を部分的にしか公開していない。この中には日本人抑留者や亡命日本人も含まれているが、日本政府は謝罪や賠償を現行のロシア政府に求めようとはしていない。
歴代指導者[編集]
- ウラジーミル・レーニン (1917-1924)
- ヨシフ・スターリン (1924-1953)
- ゲオルギー・マレンコフ (1953)
- ニキータ・フルシチョフ (1953-1964)
- レオニード・ブレジネフ (1964-1982)
- ユーリ・アンドロポフ (1982-1984)
- コンスタンティン・チェルネンコ (1984-1985)
- ミハイル・ゴルバチョフ (1985-1991)
外交関係[編集]
外交関係では、社会主義国(東側)陣営の盟主としてアメリカ合衆国を筆頭とする資本主義国(西側)と対決(冷戦)していた。
成立当初は孤立したが、独ソ戦で侵攻してきたドイツを撃退・打倒した第二次世界大戦後に、東ドイツやチェコスロバキア、ブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国を衛星国化させた。さらにユーゴスラビアが主導する非同盟諸国と呼ばれる中華人民共和国・インド・キューバ・エチオピア・エジプト・イラク・シリアといった第三世界と友好協力条約を結び、関係を持つ。コメコンではメキシコ、モザンビーク、フィンランドといった非社会主義協力国もあった。東アジア(ベトナム、ラオス、北朝鮮など)、中南米(ペルーやチリ、ニカラグアなど)、アフリカ(アンゴラ、リビア、コンゴなど)などでも「民族解放」、「反帝国主義」、「植民地独立」を唱える共産主義独裁政権の成立に協力し、アメリカや西ドイツ、イギリスやフランスなどの西ヨーロッパ諸国、日本などの資本主義国と対峙した。
対社会主義陣営[編集]
中華人民共和国との関係[編集]
ソビエト連邦の軍事支援により、蒋介石率いる中国国民党との国共内戦に勝利した中国共産党によって1949年に設立された中華人民共和国とは当初協力関係にあったが、1950年代後半より両国の指導層による相手国への非難の応酬や大使館乱入事件が起きるなど徐々に関係が悪化した。
1960年代の後半には領土問題による軍事衝突(ダマンスキー島事件などの中ソ国境紛争)や指導層の思想的な相違の問題から中ソ対立が表面化した。両国間のこのような対立関係は、その後中華人民共和国における内乱である「文化大革命」が終結する1970年代後半まで続くことになる。
そのような中で、ソ連を牽制しようとしたアメリカが1970年代に入り急速に中華人民共和国に近づき、国交を結ぶと同時に中華民国との国交を断絶し、その後アメリカの同盟国である日本も中華人民共和国と国交を結んだ。また中華人民共和国は、モスクワオリンピックとロサンゼルスオリンピック (1984年)では東側陣営であるのに関わらずアメリカ側についていた。独裁体制を敷きソ連と対峙していた毛沢東の死去と文化大革命の終焉、そしてゴルバチョフの訪中でソ連と中華人民共和国の関係も改善された。
対資本主義陣営[編集]
日本との関係[編集]
ロシア時代に日露戦争で戦い敗北した日本とは、ソビエト連邦成立後も満州国との国境などで度々軍事的衝突を起こしていた。その後第二次世界大戦中の1941年4月に日ソ中立条約が締結されたものの、ヤルタ会議において連合国間で結ばれた密約を元に、1945年8月にこれを一方的に破り日本に対して参戦し、その上日本が降伏した後も侵攻を続け千島列島など日本の領土の一部を違法に占拠した。その上多くの日本人捕虜を戦後長い間拘留し強制労働に処し、その多くを死に追いやった(シベリア抑留)。この件に関してはロシア政府は近年ようやくシベリア強制労働の被害者・遺族に対して謝罪と賠償を始めつつある。
このような経緯による日本の反ソ感情に加え、吉田茂首相が米国との同盟関係を主軸とした外交を採用したことから日ソ関係はしばらく進展がなかったが、アメリカ以外の国も重視した独自外交を模索する鳩山一郎へ政権が交代したことで国交正常化の機運が生まれ、1956年に日ソ共同宣言を出して国交を回復、日本の国連加盟が実現した。しかし日本がアメリカの同盟国で独立回復後も米軍駐留が続いたことや北方領土問題が解決されなかったために関係改善は進展しないまま推移。冷戦終結、ソ連崩壊を経た現在でも日本と事実上の後継国家となったロシアの間には正式な平和条約の締結が成されていない。その一方で、政権与党の自由民主党所属の一部の議員は自主的にソ連とのパイプを持ち日ソ関係が完全に冷却することはなかった。北洋漁業、北洋材の輸入、機械や鉄鋼製品の輸出など両国の経済関係はソ連の崩壊に至るまで続いた。
なお、冷戦の最中には日本社会党や、ベトナム戦争に反対するべ平連などの左翼的な反戦・市民運動組織に対し、資金援助や情報の提供、武器の供与など有形無形の指示・援助を行い保守勢力に揺さぶりをかけたことが判明している。また同時に、自民党の国会議員にも様々な工作を仕掛けている。ソ連国家保安委員会(KGB)などが中心となり大使館員などに偽装した多くのスパイを政府内部や自衛隊などに送り込み、ラストボロフ事件などの数々の事件を起こした。
ソ連の樺太侵攻を描いた映画『樺太1945年夏 氷雪の門』が製作された際には、日ソ関係の悪化を恐れた自由民主党と外務省が映画の製作者側に圧力をかけ要出典、東宝系での公開が中止され、単館上映での公開のみとなった。
アメリカとの関係[編集]
共産主義国陣営の盟主として、資本主義国の事実上の盟主となっていたアメリカ合衆国とは「冷戦」という形で対立し、1950年代における朝鮮戦争や1960年代におけるベトナム戦争など、代理戦争という間接的な形で軍事的対立をしていたが、全面的な核戦争に対する恐怖が双方の抑止力となったこともあり、直接的かつ全面的な軍事的対立はなかった。
しかしベルリン封鎖やキューバ危機などでは全面的な軍事的対立の一歩手前まで行った他、U-2撃墜事件における領空侵犯を行ったアメリカ軍機の撃墜など、限定的な軍事的対立があったのも事実である。
また、このような対立関係にあったにもかかわらず、冷戦下においても正式な国交が途絶えることはなく、双方の首都に対する民間機の乗り入れが行われていた。しかし、大韓航空機撃墜事件やソ連のアフガニスタン侵攻などの事件があった際には、「制裁措置」として民間機の乗り入れが時限的に制限されたり、スパイ事件などが明るみに出て、一方の外交官がペルソナ・ノン・グラータとして国外追放になると、それに対する「報復措置」として、もう一方の国の外交官を同じ容疑で国外追放するなど、茶番じみた外交的駆け引きが行われていた。
外国渡航禁止[編集]
外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。これはソ連社会、および東側社会主義体制の閉鎖性の象徴として西側資本主義陣営からの攻撃材料となった。さらに、旅行者は外国から帰国すると必ずといっていい程諜報部から尋問を受けるので本人にはその意思がなくても外国で見たことを洗いざらい喋らねばならず、結果的にスパイをしてしまうというケースが多かった。
また、西側諸国人との交際や結婚は多くの障害があり、幅広く指定された「国益に直接関係する者」や「国家機密に関わる者」の婚姻は禁じられていた。それでも結婚は可能であったが(石井紘基のナターシャ夫人など)、その時点でソ連社会での出世の道は途絶えた上、今度は配偶者の母国に出国するためのパスポート発給に長い年月を要した。これは西側資本主義国に限らず、衛星国人との結婚でさえも当局からさまざまな妨害を受けたと言われている。なお、外国航路を運行する船舶や外国で演奏旅行をする楽団などには、乗務員や楽団員の亡命を阻止し、外国における言論を監視するために必ず共産党の政治将校が同行していた。それでもスポーツ大会や演奏会などでの亡命は個人・集団を問わずに絶えなかった。運良く移住できた場合でも、移住先の国家や社会からは「ソ連のスパイ」という疑念を持たれることが多く、決して安住の地とは言えなかった。
例外として、1950年代までのユダヤ人のイスラエル出国がある。ソ連政府はパレスチナでのイスラエル建国(1948年)を支持し、戦争からの復興途上にある自国からユダヤ人を平和的に減らせるこの移住政策を積極的に推進した。しかし、イスラエルがアメリカの強い支援を受け、対抗したアラブ諸国がソ連との関係を深めると、このユダヤ人移住も徐々に減っていった。1967年の第三次中東戦争で両国の国交は断絶し、以後、冷戦の終結まで集団出国はほとんど行われなかった。
もう一つ、ソ連政府の意に沿わない人間に対する国外追放があった。国家の安定や社会主義体制の発展に害となり、かつ国外での知名度が高いために国内での粛清や拘禁が困難な場合には、対象者の市民権やパスポートを奪い、西側諸国に強制追放した。これによりレフ・トロツキーやアレクサンドル・ソルジェニーツィンはソ連から出国したが、追放者の帰国を認めない点では、外国渡航禁止と同一の発想に立った政策であった。
軍事[編集]
強力な軍事力[編集]
アメリカを筆頭とする西側諸国への対抗上、核兵器や核兵器を搭載可能な超音速爆撃機、大陸間弾道ミサイルや大陸間弾道ミサイルを搭載可能な原子力潜水艦、超音速戦闘機や戦車などを配備し、強力な軍事力を保持していた。
旧ソ連が製造した「ツァーリボンバ」は広島型原爆の約3300倍の威力の世界最強の爆弾である。
しかし、こうした強力な軍事力の維持は軍事費の増大をもたらし、その分インフラや流通システムなどの整備に遅れをきたし、結果的に国民経済を疲弊させた。また、1979年から10年続いたアフガニスタン侵攻は泥沼化し、何の成果もなく失敗。多大な戦費や人命を失っただけでなく、ソビエト連邦の威信をも低下させソ連崩壊を早めたとされる。
また、大韓航空機撃墜事件のような民間機撃墜事件を引き起こすなど、共産主義的な官僚主義と非人道的さが西側諸国の反発を買った。
軍事支援[編集]
また、ワルシャワ条約機構の中心国となり、東ヨーロッパ諸国に基地を置き、ハンガリー動乱やプラハの春など衛星国での改革運動を武力鎮圧し、ワルシャワ条約機構加盟国のみならず、北朝鮮や中華人民共和国、キューバや北ベトナムなど、世界中の反米的な社会主義、共産主義国に対して小銃から爆撃機にいたるまで各種の武器を輸出した。現在でも第三世界にはソ連製の武器が大量に流通している。
それだけでなく、軍事技術をこれらの国に輸出した他、将校などを派遣して軍事訓練を行ないこれらの国における軍事技術の向上に寄与し、その中には、モスクワのパトリス・ルムンバ名称民族友好大学や各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれている。
なお、朝鮮戦争やベトナム戦争などの代理戦争の際には、友好国側を積極的に支援しただけでなく、朝鮮戦争においては当時の指導者のヨシフ・スターリンが、北朝鮮の金日成に対して事実上開戦を指示したと言われる。
また、冷戦期間を通じて、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国などの西側諸国や、南アメリカやアジア、アフリカ諸国の非社会主義政権国における社会主義政党や反政府勢力、非合法団体やテロ組織を含む反社会勢力、反戦運動団体(その多くが事実上の反米運動であった)に対する支援を行い、その中には上記と同じく各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれていた。
ロシア・ソ連の軍服 も参照
科学技術[編集]
航空宇宙技術では、アメリカとの対抗上、国の威信をかけた開発が行われた(宇宙開発競争)。人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功、ユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行の成功、宇宙ステーション「ミール」の長期間に渡る運用の成功などの宇宙開発の他、世界初の原子力発電所オブニンスクを建設するなど、ソ連は人類の巨大科学に偉大な足跡を残している。現代のロケット工学や宇宙開発の基礎は、ソ連のコンスタンチン・E・ツィオルコフスキーが築いたものである。
また、航空機でもミコヤン・グレビッチ設計局(ミグ)、イリューシン設計局、ツポレフ設計局などによって独創的な機構が開発された。 これらの宇宙研究や原子力研究は、関係者以外の立ち入りを許さず、地図にも記載されない閉鎖都市で行われることがあった。
一方で、軍事面以外の研究では遅れが目立った。特にスターリン時代では、科学的見地よりイデオロギーが優先されることがしばしばであり、特にルイセンコの提唱したルイセンコ理論等により、ソ連の農業は壊滅的な被害を受け、輸入国に転落した。 また、計画経済による工場の建設や開発は、時として実情を無視したものとなり、利益面や環境面で失敗することも度々であった。このため、地域によっては土壌や河川に深刻な環境破壊が発生し、多くの人が健康被害を受けることになった。しかし、チェルノブイリ原発事故に代表されるような、官僚的な隠蔽体質はこれらの被害を表面上は覆い隠し、被害を拡大させた。特にアラル海の開発計画は20世紀最大の環境破壊と呼ばれる事態を引き起こした。また、時には土木工事等に「国家経済のための核爆発」が使用されることすらあった。
また官僚体制の硬直はブレジネフ時代以降特に顕著となり、進んでいたはずの原子力技術や航空宇宙技術でもアメリカに対して10年単位の遅れを取るようになった。軍用の製品や技術を東芝や日立などの日本のメーカーから導入することもあった(東芝機械ココム違反事件)。半導体・集積回路技術でも大幅に後れを取り、西側のようにコンピュータの急速な進歩と普及を実現することは出来ず、ハイテク分野で決定的に立ち後れることとなった。[3]
経済[編集]
ソ連を成り立たせた経済モデルは、共産党が計画したノルマを労働者に課し、それを果たすというものだった。詳しくはソ連型社会主義を参照。
計画経済[編集]
経済面では計画経済体制がしかれ、農民の集団化が図られた(集団農場)。医療費等が無料で税が全く無いことでも知られた。1930年代に世界恐慌で資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに非常に高い経済成長を達成したため、世界各国に大きな影響を与えた。しかし、その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されていた実態がその後明らかになった。ジョン・ケネス・ガルブレイスは「資本主義諸国が1930年代に大恐慌と不況にあえいでいたとき、ソ連の社会主義経済は躍進に躍進を続け、アメリカに次ぐ世界第二の工業国になった。そして完全雇用と社会保障をやってのけた」としながらも、1970年代には崩壊し始めたと総括している(しかし、1930年代当時のソ連経済の躍進の裏には、数百万人と言われる規模の強制労働従事者のほぼ無償の労働による貢献があったことを、ガルブレイスは見落としているか故意に無視していることに注意が必要である)。実際、1960年代以降は計画経済の破綻が決定的なものとなり、消費財の不足などで国民の生活は窮乏した。
また、流通の整備が遅れたため、農製品の生産が十分にあったとしても、それが消費者の手元に届けられるまでに腐敗してしまうという体たらくであった。そのために闇市場のような闇経済や汚職が蔓延し、そのような中で共産貴族がはびこるという結果になった。そもそも計画経済を他の産業と比べて自然に左右され、成果が保障されない第一次産業にも導入したのは大きな間違いであったといえる。毛沢東が大躍進政策で生態系や、経済の常識をまるで無視した増産計画で大失敗をしたのもこれに起因している。
消費財の流通[編集]
東西対立の世界構造の中で、軍事に高い技術と莫大な資金が投じられる一方、冷蔵庫や洗濯機などの国民生活に必要な電化製品や、石鹸や洗剤、シャンプーなどの一般消費財の開発と生産、物流の整備は疎かにされ、西側諸国に比べ技術、品質ともに比べ物にならない電化製品でさえ、入手するために数年待たなければいけないというような惨憺たる状態であった。
ほとんどの電化製品や自動車の技術は、西側諸国の技術より10年以上遅れていたといわれている上、その多くがフィアットやパッカードなどの西側の企業と提携し、旧型製品の技術供与を受けたものであった。
貿易[編集]
上記のように、電化製品や消費財、工作機械や自動車などの技術や品質が西側諸国のそれに対して決定的に劣っていたことから、西側諸国に対しての輸出は、農産物や魚介類などの第一次産品や、原油や天然ガスなどのエネルギー資源が主であった。また、通貨のルーブル自体が、国外で通貨としての価値が低かったこともあり、エネルギー資源の貿易がある国を除いては、西側諸国との貿易収支はおおむね赤字であったか非常に少ないものであった。
それに反して衛星国や社会主義国との間の貿易は、それらの多くの国の外貨が乏しかったことや、ココムなどの貿易規制により西側諸国からの貿易品目が制限されていたことから、一次産品やエネルギー資源はもとより、西側諸国では相手にされなかった電化製品や消費財、工作機械から自動車、航空機などの軍事物資に至るまでが輸出された。また、その多くが事実上の援助品として、バーター貿易など無償に近い形で供給された。
輸入消費財[編集]
なお、西側諸国の電化製品や化粧品、衣類などの消費財の輸入、流通は原則禁止されていたものの、モスクワなどの大都市のみに設けられた「グム」などの外貨専用の高級デパートで入手することが可能であった。しかし、実際にそれらを購入することができるのは外国人か共産党の上層部とその家族だけであった。そのため、マールボロのタバコやリーバイスのジーンズなど多くの西側製品が闇ルートで流通していた。
アメリカ合衆国との比較[編集]
ソビエト連邦はアメリカとは同レベルのGDPでなかったが、巨大な面積と資源で超大国としての地位を得ていた。国内総生産また一人当たりのGDPもアメリカの2また3分の1ほどであった。
国民の生活レベルを犠牲にして、ひたすら工業投資と、軍事支出に資源を集中していた。1950年代に約15%だったソ連の投資率は、1980年代には30%に達し、軍事費率もある推定では1980年代中頃には16%に達していた。 1970年代以降、コンピュータや半導体といったハイテク部門の重要性が増すと、重工業優先のソ連ではその技術を導入するのが困難となり、技術進歩率は停滞、ついには設備の老朽化と相まって1980年代には技術進歩率はマイナスに陥ってしまった。 ソ連は1950年代~1960年代初頭まで目覚しいペースでアメリカを追い上げており、「20年以内にアメリカを追い抜く」というフルシチョフの強気の発言も信じられていたが、1960年代に入るとそのペースは一服し、1975年にソ連の相対的な国力は対米比45%と頂点に達し、その後は衰退局面に入り、逆にアメリカとの相対的な国力の差は拡大している。
しかしソ連崩壊後にロシアの軍事力と経済力は急激に衰え、アメリカとは一人当たりにGDPと軍事費は大きく差をつけて、さらに経済混乱で最低限の生活をも保障されずに貧しさで苦しんだために、親米的でペレストロイカを行ったゴルバチョフを「アメリカに魂を売った売国奴」「裏切り者」と酷評する声も多い[4]。
交通[編集]
国民の自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていただけでなく、国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があったこともあり、国内外の交通に対する需要は非常に限られていた。鉄道網は、長距離や近距離を問わず軍事転用が容易なことから比較的整備が進んでいたが、西側諸国と違い個人所有の自動車の数が限られていたことから、高速道路やレンタカーなどの自動車インフラは貧弱なままであった。
外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。しかしながら、国力と友好関係を誇示することを目的に、国外への航空機や船舶による定期便は比較的整備されていた。
航空[編集]
アエロフロート[編集]
広大な国土は主に航空機によって結ばれていた。なお、国内の航空路線網は唯一にして最大の航空会社である国営のアエロフロート・ソビエト航空によって運行されており、長距離国際線や、航空機によってのみアクセスが可能な僻地や、舗装された滑走路が整備されていない地方空港への運行が可能なように、大型ジェット機からターボプロップ機、小型複葉機まで様々な機材を運行していた。
国際線[編集]
同じく国際線もアエロフロートによってのみ運行されていたが、ソビエト国民の海外渡航や国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があるにもかかわらず、国力と友好関係を誇示することを目的に、西側の主要国や東欧の衛星国、キューバやアンゴラ、北朝鮮などの友好国をはじめとする世界各国に乗り入れを行っていた。しかし、その目的から完全に採算度外視で運行していた上、そのサービスは西側諸国のものには遠く及ばなかったことから、西側諸国の多くでは格安な料金と劣悪なサービスでのみ知られていた。
また、海外からは多くの友好国の航空会社がモスクワなどの大都市を中心に乗り入れていたほか、日本やアメリカ、ドイツなどの西側諸国からも、日本航空やパンアメリカン航空、ルフトハンザ・ドイツ航空などの航空会社が乗り入れていた。なお、日本との間は日本航空とアエロフロートが東京(羽田空港、成田空港)、新潟(新潟空港)とモスクワ、ハバロフスク、イルクーツクとの間に定期便を運行していた。
鉄道[編集]
シベリア鉄道を代表とする鉄道網によって各都市が結ばれていた他、衛星国を中心とした近隣諸国に国際列車も運行されていた。なお、モスクワやレニングラード(現:サンクトペテルブルク)などのいくつかの大都市には地下鉄網が整備されており、社会主義建設の成功を誇示する目的で、スターリン時代に建設された一部の駅構内は宮殿のような豪華な装飾が施されていた。
自動車[編集]
個人による自動車の所有だけでなく、自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていたこともあり、西側諸国で行われていたような高速道路による国民の移動は一般的なものではなかった。なお、大都市の市街地にはバス路線網が張り巡らせられていた。
言論・報道[編集]
国内向け報道管制[編集]
上記のように外国の放送の傍受が禁止されていた上、テレビやラジオ、新聞などのマスコミによる報道は共産党の管制下に置かれ、国家や党にとってマイナスとなる報道は、1980年代にグラスノスチが始まるまで流れることはなかった。
このような規制は外国の事件や、チェルノブイリ事故や大韓航空機撃墜事件のような国際的に影響がある事件に対してだけでなく、国内の政治、経済的な事件も、党幹部の粛清や地下鉄事故、炭鉱事故のような事件に至るまで、それが国家や党に対してマイナスの影響を与えると判断されたものはほとんど報道されることがなかったか、もし報道されても国家や党に対して有利な内容になるよう歪曲されていた。そのため、西側の国でオリンピックなどがあると、そこで初めて真実を知ったソ連の選手や関係者がそのまま亡命希望するケースが頻発した。 またロシア革命以前の支配者のニコライ2世はともかくその家族を裁判なしに銃殺した真実はソ連政府にとってはタブーとされ、1979年に地質調査隊が皇帝一家の遺骨の発掘を行い、KGBに逮捕された事例がある。しかしソ連崩壊後にロシアでは70年以上も隠蔽されたこの事実が明らかになり、ロシア革命から80年後の1998年に葬儀が行われた。
外国向け報道管制[編集]
なお、西側諸国の報道機関の特派員は基本的に国内を自由に取材、報道することは禁じられており、事前に申請が必要であったがその多くは却下され、たとえ許されたとしても取材先の人選や日程は全てお膳立てされたものに沿わなければならなかった。また、モスクワオリンピックなどの国際的イベントや、西側諸国の首脳陣の公式訪問が行われる際にソ連を訪れた報道陣に対しては、このようなお膳立てされた取材スケジュールが必ず提供された。
また、西側諸国の報道機関で働くソビエト人従業員も自主的に選択することは許されず、当局から宛てがわれた者を受け入れるのみとされ、その多くが西側諸国の報道機関やその特派員の行動を当局に報告する義務を負っていた。
「クレムリノロジー」[編集]
国内における報道管制の一環として、共産党書記長などの党の要人が死去した際には、党による正式発表に先立ち、テレビやラジオが通常の番組を急遽停止し、クラシック音楽もしくは第二次世界大戦戦史などの歴史の映像に切り替わり、クレムリンなどの要所に掲揚されている国旗が半旗になるのが慣わしであった。このため、国民(と西側の報道機関)の多くは、テレビやラジオの番組が変更され、要所に掲揚されている国旗が半旗になる度に、どの要人が死去したかを推測しあっていたと言われている。
また、党の要人が失脚した(もしくは粛清された)際にはその事実が即座に政府より正式発表されることはまれで、このため西側諸国の情報機関員や報道機関の特派員は、メーデーなどをはじめとする記念日のパレードの際にクレムリンの赤の広場の台の上に並ぶ要人の立ち位置の変化を観測し、失脚などによる党中央における要人の序列の変化を推測し、これを「クレムリノロジー」と呼んでいた。
プロパガンダ[編集]
ソビエト連邦のプロパガンダは現代の手法を先駆けるものであり、ソ連は世界初の宣伝国家と呼ばれる(en:Peter KenezのThe Birth of the Propaganda State;Soviet Methods of Mass Mobilization 1985)。映画ではレーニンの「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」との考えから世界初の国立映画学校がつくられ、エイゼンシュテインがモンタージュを編み出したことにより、当時としては極めて斬新なものになり、その精巧さは各国の著名な映画人や、後にナチス党政権下のドイツの宣伝相となるヨーゼフ・ゲッベルスを絶賛させた。宣伝映画を地方上映できるよう、移動可能な映写設備として映画館を備えた列車・船舶・航空機が製造・活用された(例:マクシム・ゴーリキー号)。看板やポスターではロシア・アヴァンギャルドから発展した力強い構図・強烈なインパクトのフォトモンタージュが生まれ、これは世界各国でしきりに使われた。
特にバベルの塔にも例えられる世界最大最高層の超巨大建築物を目指したソビエト・パレスは後世の建築家だけでなく、形態的にはイタリアやドイツ、日本などの建築に大きな影響を与えた。日本でもソビエト・パレスの計画を見て丹下健三が建築家を目指すに至った。当時世界一高い建造物であったオスタンキノ・タワーも完成させた。スターリンはモスクワをニューヨークのような摩天楼にするため、スターリン様式の建物を多く建設した。ソ連のプロパガンダはイワン・パヴロフやレフ・ヴィゴツキーなどの心理学者の理論に基づいていた点で先駆的だったと評するものもいる。他にもブラウン管を使ったテレビを世界で初めて発案した専門家もおり、テレビの研究も活発だった。
宗教[編集]
弾圧[編集]
ロシア革命によって無神論を奉じるソビエト連邦が成立すると、ロシアの国教であったロシア正教会は多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。後に世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。
また、聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され致命した。初代の京都主教を務めたことのあるアンドロニク・ニコリスキイ大主教は生き埋めの上で銃殺されるという特異な致命で知られる。当初は無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたモスクワ総主教ティーホン(チーホン)であったが、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動は著しく制限された。政府の迫害を恐れ多数の亡命者も出た。
1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂が爆破された。
しかし1940年代に入ると、独ソ戦におけるドイツの侵攻に対して国民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った正教会への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に総主教ティーホンが永眠して以降、空位となっていたモスクワ総主教の選出を認めた(1943年)。この際にそれまで禁止されていた教会関連の出版物が極めて限定されたものではあったものの認められ、1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。
だがスターリンの死後、フルシチョフは再度、ロシア正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復することは無かった。
その他の宗教[編集]
広大な国土の中でも、中央アジア地域ではイスラム教が大きな勢力を持っていたが、ソビエト連邦の成立とともにロシア正教など他の宗教とともに弾圧されることとなった。しかし人々の心の中の信仰心までは抑えることができず、他の宗教と同じくソ連崩壊後は教勢が回復した。なお信仰されていた地域に偏りはあったものの、全ソビエト連邦領内におけるイスラム教徒の人口は最終的に7000万人前後にも達し、総人口の実に4人に1人がイスラム教徒(もしくはイスラムを文化的背景に持つ人)で占められていた。この数字はイラン、トルコ、エジプトなどの総人口にも匹敵し、ソビエト連邦は総人口においても、国民に占める割合においても、非イスラム教国家としては最大級のムスリム人口を抱える国家となっていた。またイスラムが多数派の地域以外のロシア連邦等の諸州においても、イスラムを背景に持った諸民族、特にタタール人、アゼルバイジャン人が全土に居住し、ソビエト連邦内のどの地域においても一定数のイスラム社会が存在していた。この点は同じ非イスラム教国でありながら全土にイスラム社会を内包しているインドや中国とも共通していた。ただソビエト連邦におけるイスラムは、中国やインドとは異なり、多数派民族と、文化、言語、血統、形質などを共有する集団、具体的に言えば、スラヴ系のロシア人等と文化や言語を共有する集団の間にはあまり広まらなかった。ソビエト連邦内のイスラムはあくまでチュルク系やイラン系、コーカサス系などの、(多数派民族であるロシア人から見た)異民族の間で主に信仰されていた。また全土に幅広く分散していたイスラム系民族のうちタタール人の間にはスンニー派が多く、アゼルバイジャン人の間にはシーア派が多いため、両派が近い比率で全土に散らばっていたこともユニークである。この点はソビエト連邦崩壊後も、ロシア連邦において引き継がれている。 またソ連国内における布教活動自体は許されることはなかったものの、日本の創価学会とは外交的見地から友好関係を保っていた要出典。
文化[編集]
芸術[編集]
言論・表現の自由がなかったため、文学者の中には亡命を余儀なくされるものや、ノーベル文学賞受賞のボリス・パステルナークのように受賞辞退を余儀なくされるもの、同じくノーベル文学賞受賞の ソルジェニーツィンのように国外追放されるものがいるなど、文化人にとっては受難が相次いだ。
革命直後のソ連ではウラジミール・レーニンが革命的な前衛芸術を奨励したため、抽象芸術や構成主義が生まれ、ロシア・アヴァンギャルドは共産党のいわば公認芸術となっていた。当時のソ連は世界初の電子音楽機器テルミンが作られ、モンタージュ理論が生まれるなど前衛芸術のメッカと化しており、外国から不遇だった多くの前衛芸術家がソビエト連邦の建設に参加した。例えば、前述したソビエト・パレスの計画にはル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルスゾーン、オーギュスト・ペレ、ハンス・ペルツィヒといった新進気鋭のモダニズム建築家たちが関わった。レーニン自身もダダイストだったという学説も出ている(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』)。また、フセヴォロド・メイエルホリドがアジ・プロ演劇手法の確立、古典の斬新的解釈に基づく演出、コメディア・デラルテ、サーカスなどの動きと機械的イメージを組み合わせた身体訓練法「ビオメハニカ」Biomechanicsの提唱などを次々と行い1920年代におけるソビエト・ロシア演劇はもとより20世紀前半の国際演劇に大きな影響を与えた(スターリン政権期にはスタニスラフスキー・システムがあった)。
スターリン政権下の1932年に行われたソ連共産党中央委員会にて「社会主義リアリズム」の方針が提唱されて以降は、1930年代前半のうちに文学や彫刻、絵画などあらゆる芸術分野の作家大会で公式に採用されるに至り、これにそぐわぬものは制限され、次第に衰退することを余儀なくされた。
一方でバレエなどのロシアの伝統的な芸術は政府の後援の元高い水準を維持し、クラシック音楽でも、当局による制限を受けながらショスタコーヴィチらが作品を残し、ムラヴィンスキー率いるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団などが名演奏を残している。
ソ連を描いたもしくは題材にした映画[編集]
- 戦艦ポチョムキン(1925年、ソ連)
- 僕の村は戦場だった(1962年、ソ連)
- モスクワは涙を信じない(1979年、ソ連)
- ロッキー4(1985年、アメリカ)
- レッド・オクトーバーを追え!(1988年、アメリカ)
- レッドブル(1988年、アメリカ)
- スターリングラード(2001年、アメリカ)
- ククーシュカ ラップランドの妖精(2002年、ロシア)
- K-19(2002年、アメリカ)
- 007シリーズ
ソ連を描いたもしくは題材にしたアニメ[編集]
- ウサビッチ(日本)
ソ連を描いたもしくは題材にしたゲーム[編集]
ソ連の社会主義体制が描かれている作品[編集]
- 007シリーズやゴルゴ13等、40年代から90年代までの世界情勢を背景とするフィクション作品において、ソビエト連邦は頻繁に描かれている。特に諜報機関KGBの暗躍や、政府高官や科学者の亡命事件等がよく題材となる。作成された国が西側諸国であるためと、ソビエト連邦の内部が不明であったために、ソビエト連邦の関係者は悪役として描かれることも多い。
- ルパン三世では『ルパン三世 ロシアより愛をこめて』や『ルパン三世 ルパン暗殺指令』などにソ連の関連人物が出演している。
- ウォッカ・タイム(片山まさゆき)
外来文化[編集]
西側諸国で人気のあったロックンロールやヘヴィメタル、ジャズなどの音楽や、ハリウッド映画などの大衆文化は、「商業的で、退廃を招く幼稚なもの」として原則的に禁止され、わずかに北ヨーロッパ諸国や西ドイツなどのポピュラー音楽や、衛星国や日本、イタリアなどの芸術的要素の高い映画のみが上映を許されていた。また、外国のラジオ放送を傍受することも禁止されていた。
スポーツ[編集]
ステート・アマチュア[編集]
スポーツでは国の威信をかけた強化策がとられ、いわゆるステート・アマチュアと呼ばれる国家の選手育成プログラムによって育成させられた選手が、オリンピックで数多くの栄冠を手にしている。特にアイスホッケーやバレーボール、バスケットボール、ホッケーなどの強豪国として知られオリンピックのメダル獲得数で常にアメリカや東ドイツなどと首位を競う存在であった。しかし崩壊後にそれらの選手の多くが違法ドーピングなどによる薬漬け状態であったことが当事者の告白により明らかになった。また、非識字率が70%であった革命直後から数十年で非識字率を13%に改善させ、戦後にほぼ100%を達成させたことから教育レベルが高く、チェス、数学オリンピック、国際コンテストでも強豪国として知られた。
なお、共産主義というシステム上、全てのスポーツが国家の管理下におけるアマチュアスポーツであると言う位置づけであり、よって資本主義諸国のようなプロスポーツ及びプロ選手は存在しなかった。
モスクワオリンピック[編集]
1980年に、ソビエト連邦の歴史上唯一の夏季オリンピックであるモスクワオリンピックが行われた。
冷戦下ということもあり、国の総力を挙げてオリンピックの成功を目指したものの、前年に行われたアフガニスタン侵攻に対する抗議という名目で、日本や西ドイツ、アメリカなどがボイコットを行い事実上失敗に終わった。しかし、これ以降ソビエト連邦の崩壊までの間夏季、冬季ともにオリンピックが再び行われることはなかった。
そして、次回1984年開催されたロサンゼルスオリンピックでは、1983年のアメリカ軍によるグレナダ侵攻への抗議という名目で、ソビエト連邦と東ドイツのメダル王国をはじめ、東側諸国の多くがボイコットした。
関連項目[編集]
- ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
- クレムリン
- 一党独裁制
- 日本共産党
- 中国共産党
- 全体主義
- 大粛清
- 共産貴族
- 計画経済
- コルホーズ
- ソフホーズ
- ピオネール
- 極東共和国
- チェカ
- ソ連国家保安委員会(KGB)
- ロシアン・マフィア
- コミンテルン(第三インターナショナル)
- コミンフォルム(コミンテルンの後継組織)
- モスクワオリンピック
- モスクワ放送
- アネクドート
- エレバン放送
- ロシア・アヴァンギャルド
- 社会主義リアリズム
- 宇宙開発
- 宇宙ステーションミール
- スプートニク計画
- ボストーク
- ソユーズ
- ソ連の有人月旅行計画
- グラスノスチ
- ソビエト連邦科学アカデミー
- つるふさの法則
- ソビエト連邦の諸外国との外交関係樹立の日付