館林市
館林市(たてばやしし)は、群馬県南東部にある市。旧邑楽郡。上毛かるたで「ツル舞う形」と喩えられた群馬県の「ツルの頭」に位置する。
目次
概況[編集]
今から約2万年前に館林に最初に人々が住み始めた。中世になると赤井氏、長尾氏、由良氏などが館林を本拠地とし、最終的には1590年に徳川四天王の一人である榊原康政が関東以北への押さえとして館林城に入り城下町を整備した。江戸時代の第五代将軍徳川綱吉が城主だった時期(25万石)もある。
つつじの名勝つつじヶ岡公園や、全国的に有名な童話分福茶釜で知られる茂林寺、群馬県立館林美術館、製粉ミュージアムなどの観光地がある。
群馬県の平成の大合併以前からあった市としては、唯一市町村合併を行わなかった市であるが、邑楽郡大泉町を除く邑楽郡4町との合併に向けた研究会を設置している(現在協議中)。小麦が多く取れることから、日本のチェルノーゼムと自称している。また七五三は、館林城主徳川徳松の健康回復を願って1681年に始まったものが全国に広がった。
地理[編集]
東毛地域と呼ばれる群馬県の東部に位置し、市域の北部は渡良瀬川を隔てて栃木県佐野市及び足利市、東部は群馬県邑楽郡板倉町、南部は明和町及び千代田町に、西部は邑楽町に接する。
南北を渡良瀬川、利根川の2大河川に挟まれ、鶴生田川が市街地を東西に、市西部を多々良川、近藤川が南北に流れ、新堀川、新谷田川、谷田川が市南部を貫流している。城沼、多々良沼、近藤沼、茂林寺沼などの沼が点在する低湿地帯と台地(大宮台地から切り離された館林台地、主に低台地)から成り立っている。
人口[編集]
総人口:80,268人(男:40,205 人 女:40,063人)
世帯数:31,307世帯
- (2010年現在の推計人口)
外国人登録者数:
中国 | 556人 |
フィリピン | 313人 |
ブラジル | 299人 |
ペルー | 107人 |
韓国・朝鮮 | 104人 |
バングラデシュ | 80人 |
タイ | 78人 |
- 2007年7月1日現在
600px | |
館林市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 館林市の年齢・男女別人口分布(2005年) |
■紫色 ― 館林市
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 }} |
館林市(に相当する地域)の人口の推移 テンプレート:人口統計/10 | |
総務省統計局 国勢調査より |
名物[編集]
気候[編集]
冬から春先にかけて北風(からっ風、赤城おろし)が吹き、夏は雷が多く発生する。
また、他県境付近の市(埼玉県熊谷市、群馬県前橋市など)と同様、しばしば摂氏40度近い猛暑に見舞われる。2007年8月15日には40.2度、翌16日に40.3度を記録した。また、2010年には猛暑日の年間日数を埼玉県熊谷市と共に国内最多の41日を記録した。さらに2011年の6月22日には全国で最初の猛暑日を記録した。また、この年も猛暑日の年間日数が30日と国内最多であった。2012年も同じく猛暑日の日数で32日と国内最多を記録。これらの猛暑の現象は発達した太平洋高気圧がもたらす温かい大気が当市の北西にある赤城山方面から熱風となって吹き降りるためである(フェーン現象)。アメダス観測所は館林消防署(美園町)敷地内の土の上に防草シートを敷き、設置されている。
2001年から市民一斉気温測定を行い、市内の気温分布を調査している。アメダスの記録と比べ、露場が広く、芝生である館林城跡地では0.0~0.4度低く、交通量の多い道路沿いでは2~3度高い。館林市中心部では1~2度高く、郊外の森林や水辺では市街地より3~5度低いことから、高温は市街地で発生することがわかった(ヒートアイランド現象)。市民は打ち水や緑のカーテンなどで気温を下げる活動を行っている。2008年6月に「暑さ対策本部」(本部長は市長)を設置し、市民、企業、行政が一体となって暑さ対策に取り組むことになった。
歴史[編集]
- 旧石器時代・縄文時代
- 弥生時代・古墳時代
- 紀元前300年ころ - 伝衛門遺跡・北近藤第一地点遺跡など150以上の地点で弥生時代の住居跡が発見されている。古墳時代になると天神双子古墳、山王山古墳、淵の上古墳など多数の古墳が作られた。調査の結果この地方は当時の中央政権の勢力下であったようである。
- 奈良時代・平安時代
- 鎌倉時代・室町時代
- 1199年 - 頼朝が没し実権が北条氏に移ると佐貫荘など最有力の御家人を次々滅ぼし所領を没収。
- 1333年 - 南朝の新田義貞と北朝の足利尊氏の対立が激化。館林一帯の佐貫荘は足利、新田両軍に分裂した。
- 1338年 - 足利尊氏が室町幕府を開く。新田方の佐貫荘は所領を没収された。この頃館林一帯に足利方の佐貫荘の一族、舞木氏が頭角を現す。
- 1416年 - 関東管領上杉禅秀が、足利持氏と対立。上杉方に舞木氏、岩松氏(新田一族)が加わり参戦する。しかしこの乱は鎮圧され上杉禅秀は自害。翌1417年、今度は岩松氏が蜂起するが、この時は舞木氏は足利方として戦い、岩松満純を討ち取りその首を鎌倉へ差し出した。
- 1454年 - 羽継原合戦が勃発。佐貫荘舞木氏の被官赤井氏が台頭を表す。(赤井、舞木両氏とも足利成氏に重用される。)
- 1471年 - 幕府・上杉方が足利荘と佐貫荘に侵攻。赤井文三、赤井文六が館林城に籠城して上杉勢と戦う。しかし、館林城は落城。上杉方は古河へ進撃、成氏は敗走した。当時の館林城は上杉方・足利方の中間に位置し両陣営攻防の拠点であった。
- 1562年 - 上杉謙信(長尾景虎)が館林城を攻める。城主赤井文六は降伏し、忍城(現在の埼玉県行田市)へ落ちのびる。上杉謙信は館林城を長尾景長に与える。景長の没後、長尾家を金山城主次男(現在の群馬県太田市)由良顕長が継ぐ。長尾・由良陣営は「新田・館林・足利」にまたがる一大勢力になった。
- 1574年 - 長尾・由良陣営は北条氏との関係強化に踏み出す。これに反発した上杉謙信は新田・館林・足利各所に大々的に放火。これを長尾・由良陣営は防戦。
- 安土桃山時代
- 1578年 - 長尾氏の下で東毛地域の勧農開拓の為の植林、用水路事業を行い多大なる貢献をした大谷休泊(大谷新左衛門)が没する。
- 1584年 - 北条氏直が館林城を攻める。翌年落城し館林城は北条氏規に与えられる。館林領は北条氏の直轄領となる。
- 1590年 - 豊臣秀吉が北条氏討伐のため出兵。石田三成を将とする軍勢2万人を館林城に向かわせる(その他関東の北条氏の城にも攻撃)。館林城側は6千人が篭城。5月22日、石田勢は軍勢を三手に分け総攻撃するも4ヶ月たっても城が落ちなかった。石田勢は館林城東南の大沼(城沼)からの侵攻を計画するも、城攻め用に調達した大量の大木が消失する。北条氏勝から稲荷が館林城の鎮守として祭られていることを知ると、狐の霊験を恐れ開城交渉を申し入れた。城側もこれを受け入れ5月末退散した。この年徳川家康の江戸御打入り。江戸の総奉行で徳川四天王の一人榊原康政が館林城主となり、10万石を領する。康政は8月19日、領内茂林寺に対し寺中への狼藉・竹木伐採・放牛馬についての禁制を下す。
- 1591年 - 榊原康政が竜興寺に対し寺中への禁制を下す。
- 1595年 - 榊原康政が利根川、渡良瀬川の両川に計54キロに及ぶ堤防を築く大工事を行う。これにより河川の氾濫が大幅に低下した。
- 1597年 - 館林城城下町に南北通り(日光脇往還)が完成。また、館林内の薬師堂、善導寺、天神宮、観音堂などを城の西側に移設。その後、成島、当郷、小桑原、谷越、足次の5村の農民を新設の城下町に移住させ町民とする(新町人は地税免除)。館林城を中心に城下町、寺社を配置しその周囲を塀で囲み5つの門を設ける。館林城を江戸にいる徳川の防戦砦として整備した。
- 1600年 - 関ヶ原の戦いが起こる。榊原康政は徳川家康の子徳川秀忠について参戦する。資金不足で戦いに間に合わなかった秀忠に家康は会おうともしなかったが、康政は身をもって家康に侘び父子の仲直りが実現した。以後秀忠は家康没後も榊原康政に殊遇を忘れなかった。
- 江戸時代
- 1605年 - 榊原康政の愛妾お辻が他の側室の妬みに耐えかねて、城沼に身を投げて自殺。これを知った村の人々がお辻の死を哀れみ生前に愛したツツジの木を1本、城沼の南岸、龍灯の松のかたわらに植え、その霊を慰めた。
- 1606年 - 5月14日、榊原康政が館林城内で死去し善導寺に葬られる。遺領は三男の康勝が継ぐ。
- 1617年 - 徳川家康の遺骸が日光山改葬のため、館林城下を通過。
- 1627年 - 榊原忠次が城沼の南丘にツツジの名木808株を多数移植。領民遊覧のため拡張する。(現在のつつじヶ丘公園)
- 1661年 - 後の徳川5代将軍徳川綱吉が館林城主となる(館林宰相とよばれた)。館林城は25万石の城となり、また大改築も実施されたため、大変壮大な名城となった。本丸・二の丸・三の丸・屋敷百家・旗本など大名小路は多くの人々で満ち溢れ、館林の繁栄はまるで「江戸の全盛期」のようであったと書物『館林記』に記されている。この時、館林城に近い下野国2郡7村が邑楽郡に編入し、綱吉の新領地に加わる。また、館林城鐘もこの年に鋳造。
- 1676年 - 過重な年貢に苦しむ名主小沼庄左衛門ら18名が越訴の罪で処刑される(日向義民)
- 1680年 - 徳川綱吉が徳川幕府第5代の将軍に任ぜられ権大納言となる。綱吉の子徳川徳松(当時2歳)が館林城主になる。
- 1681年 - 病弱な徳川徳松の健康回復を願って儀式(現在の七五三)が行われる。
- 1683年 - 5月28日午後8時、徳松が病死し、館林城が廃城になる。以後館林は代官が支配する。
- 1707年 - 徳川綱重の次男越智松平氏が館林城主になる。館林城の再築に着手。再築費3万1千両を賄うため領民に増税を割り当てる。目に余る苦しみに領民が享保の館林一揆を起こす。首謀者の田谷村名主小池藤左衛門ら3人が処刑される。
- 1837年 - 館林出身の生田万が乱を起こす。襲撃の際の重症をうけ切腹をとげる。享年37。
- 1845年 - 山形藩より秋元志朝が館林城に入封。幕府の権力衰退の中、江戸の大地震をきっかけに藩政の大改革を断行。多くの江戸の家臣を館林に移した。また、館林藩校の求道館を整備拡充し、造士書院と改称。優秀なものを江戸に遊学させる。
- 1863年 - 館林藩が雄略天皇稜の修理を完了する。
- 1868年 - 館林藩は官軍として戊辰戦争を戦う。東北各地の戦功により永世1万石を下賜される。
- 明治時代
- 1869年 - 江戸幕府が倒れる。版籍奉還により旧館林藩主、秋元礼朝が館林藩の知事となる。
- 1871年 - 廃藩置県により館林県設置。館林城が県庁舎となる。同年11月に新設された栃木県に編入。
- 1873年 - 学制に基づき進修学舎・小学西舎・小学東舎などの学舎が開学する。
- 1873年 - 正田文右衛門が千葉県野田市の茂木房五郎より醤油醸造業を勧められ、正田醤油を創業。
- 1874年 - 大名小路から出火、館林城の大部分が焼ける。当時の書物「邑楽郡誌」には「城内大名小路より失火し折からの西風にあおられ南側どおりを焼き払い城楼に飛び火し瞬時にして、数百年来の名城を烏有にきせしめたるは惜しみても尚余る事なり」と記されている。
- 1876年 - 右大臣岩倉具視から「群馬県となるように」と達しがあったことから館林は群馬県の管轄となる。
- 1878年 - 第四十国立銀行が設立し、開業。
- 1889年 - 町村制施行により邑楽郡内に、館林町、郷谷村、大島村、赤羽村、六郷村、三野谷村、多々良村、渡瀬村が誕生。
- 1897年 - 館林出身の文豪田山花袋が島崎藤村、国木田独歩、柳田國男らと「叙情詩」を出版する。
- 1900年 - 初代館林名誉市民である正田貞一郎が小室良七らとともに「館林実業談話会」を設立。館林発展のために商工業を起こすことを決定。その後、館林製粉会社(日清製粉)を代官町(現・第一小)に設立する。その後正田貞一郎は吉田茂内閣の時に産業功労者として貴族院議員に勅選された。
- 1902年 - 荒井藤七、鈴木平三郎の両氏が日本の今後の産業についてモスリンの可能性に着目。同志数名とともに荒井織物工場(後の上毛モスリン株式会社)を設立。館林や、東京・関西の資本も加わり上毛モスリンは驚異的な発展を遂げる。1907年には大阪株式市場に上場を果たす。
- 1907年 - 東武伊勢崎線川俣-足利間開通に伴い、館林駅が開業。上毛モスリンが館林城跡地二の丸を秋元氏より買収。工場を大幅に拡充。またモスリン工場から館林停車場までトロッコ軌道が引かれる。(モスリン新道)
- 1907年 - 田山花袋が「蒲団」を発表。
- 大正時代
- 1916年 - 館林町立実科高等女学校(現群馬県立館林女子高等学校)が開校
- 1916年 - 館林町の人口:12, 248名。館林町のマラリア患者数:30名。
- 1917年 - 上毛モスリンで群馬県下初のストライキが起きる。「女工の争議」として新聞に掲載され、社会的に注目される。
- 1921年 - 群馬県立館林中学校(現・群馬県立館林高等学校)が開校。
- 1924年 - 館林出身の画家小室翠雲が文展審査員から帝国美術院会員の勅任待遇となる。(その後帝室技芸員に任じられる)
- 昭和時代
- 1936年 - 館林出身の版画家藤牧義夫が「ガード下のスパーク」を出展。1938年には第14回帝展に「給油所」を出品し入選。
- 1939年 - 館林出身の彫刻家藤野天光がニューヨークの万国博覧会に出展。1947年には日本彫刻家連盟の設立に参加。
- 1945年 - 米軍機による爆撃を受ける。2月10日に渡良瀬地区が空襲を受け、1人負傷。7月10日にも空襲を受け、3人死亡する。
- 1954年 - 市制施行により館林町と郷谷、大島、赤羽、六郷、三野谷、多々良、渡瀬の各村が合併し、邑楽郡を離脱し館林市が誕生。初代館林市長は遠藤仁之輔。1956年には館林市章、館林市歌が制定。
- 1958年 - 11月27日、皇太子明仁親王自身の強い意思により、皇室が始まって以来初めて庶民の中から妃が選ばれ、当市とゆかりの深い正田家より正田美智子が選ばれた。正田美智子を生んだ正田家の地元である当市では、大変な奉祝に満ち溢れていた。
- 1959年 - 4月10日、皇太子明仁親王と正田美智子のご成婚当日、当市内目抜き通りにはお祝いする紅白の巨大なアーチや幕が飾られた。全国からマスコミが押しかけ、市内の道路には社旗をはためかせた取材車が走り回った。全市を挙げて奉祝行事を行い、家々には日章旗が掲げられた。
- 1960年 - 茂林寺北側に広がる茂林寺沼とその一帯の湿原が県の天然記念物に指定される。
- 1963年 - 館林市庁舎落成記念式典が挙行される。
- 1970年 - 館林市民憲章が制定。
- 1972年 - 東北自動車道館林インターチェンジが開通。館林まつりがはじまる。
- 1974年 - 市制20周年記念。市の花、市の木、市の鳥が制定。館林城三の丸跡に館林文化会館、図書館がオープン。
- 1978年 - 郷土資料館(現・第一資料館)がオープン。
- 1981年 - 館林市市役所が現在の新市庁舎に移転する。城沼総合体育館、第二資料館がオープン。
- 1983年 - 皇太子ご夫妻が、館林に。あかぎ国体ご臨席のため行啓される。
- 1984年 - 市制施行30周年記念。「館林市民のつどい」を開催。
- 1986年 - 三の丸芸術ホール、城沼市民プールがオープン。
- 1987年 - 田山花袋記念館、勤労青少年ホームがオープン。
- 平成時代
- 1989年 - 約2キロの保安林に彫刻の小径が完成。
- 1991年 - 館林子ども科学館(現・向井千秋記念子ども科学館)がオープン。プラネタリウムの全天周映画上映開始。
- 1993年 - 総合福祉センターがオープン。
- 1994年 - 市制施行40周年記念式典が開催される。当市出身の向井千秋がNASAのスペースシャトルで日本人女性初となる宇宙飛行を達成。
- 1998年 - 向井千秋が日本人初となる2度目の宇宙飛行を達成。
- 2001年 - 県内2館目となる群馬県立館林美術館がオープン。「自然と人間」をテーマに「シロクマ」などの近現代美術作品を展示。
- 2004年 - 市制施行50周年記念式典が盛大に挙行される。
- 2005年 - 大西飛行場で撮影された映画『ALWAYS 三丁目の夕日』が大ヒットを記録
- 2007年 - 館林駅開業100周年。全国で観測史上8位となる最高気温40.3℃の猛暑日を記録。
- 2009年 - 7月27日、F2スケール(風速約50m~69m)の竜巻が発生、21人が重軽傷を負う災害が発生。歴史の小径事業を開始(1.5キロにわたり歴史的建造物を移築し整備)。12月には館林駅の新駅舎が完成し東西通路が竣工。
- 2012年 - 日清製粉株式会社が製粉の歴史を学べる博物館、製粉ミュージアムを創業の地である当市にオープン。
行政[編集]
- 市長
警察・消防[編集]
- 館林警察署
- 館林地区消防組合(館林市、邑楽郡で構成)
- 館林消防署
- 西分署
- 北分署
- 館林消防署
経済[編集]
地元企業[編集]
ショッピングセンター[編集]
- 館林つつじの里ショッピングセンター(アピタ・ユニー・アゼリアモール)
- アクロス館林ショッピングセンター(ツタヤ・ダイソー・シュープラザ・ディスカウントストアーアイザワ・オフハウス)
金融機関[編集]
- 群馬銀行 館林支店、館林南支店
- 東和銀行 館林支店、館林駅前支店
- 足利銀行 館林支店
- みずほ銀行 館林支店 - ※東毛地区唯一の支店かつ、群馬県内唯一の旧第一勧業銀行店舗。(それ以外の群馬県内支店は店舗統廃合により、最終的に廃店もしくは旧富士銀行側へ統合)
- 館林信用金庫 本店、南支店、西支店など
- 桐生信用金庫 館林支店
- 東群馬信用組合 館林支店
- 中央労働金庫 館林支店
- 邑楽館林農業協同組合 本所、大手町支所など
- 館林郵便局
など
教育[編集]
大学・短大[編集]
- 私立関東短期大学(大谷町)
高等学校[編集]
- 群馬県立館林高等学校(富士原町)
- 群馬県立館林女子高等学校(尾曳町)
- 私立関東学園大学附属高等学校(大谷町)
中学校[編集]
- 館林市立第一中学校(台宿町)
- 館林市立第二中学校(加法師町)
- 館林市立第三中学校(青柳町)
- 館林市立第四中学校(上赤生田町)
- 館林市立多々良中学校(西高根町)
小学校[編集]
- 館林市立第一小学校(代官町)
- 館林市立第二小学校(本町三丁目)
- 館林市立第三小学校(尾曳町)
- 館林市立第四小学校(大島町)
- 館林市立第五小学校(羽附町)
- 館林市立第六小学校(新宿二丁目)
- 館林市立第七小学校(上三林町)
- 館林市立第八小学校(西高根町)
- 館林市立第九小学校(足次町)
- 館林市立第十小学校(近藤町)
- 館林市立美園小学校(美園町)
幼稚園[編集]
- 館林市立東幼稚園(大島町)
- 館林市立西幼稚園(近藤町)
- 館林市立南幼稚園(本町三丁目)
- 館林市立北幼稚園(代官町)
- 館林市立杉並幼稚園(新宿二丁目)
- 私立富士幼稚園(富士見町)
- 私立常楽幼稚園(木戸町)
保育園[編集]
公立
- 館林市立長良保育園(台宿町)
- 館林市立東保育園(瀬戸谷町)
- 館林市立南保育園(本町三丁目)
- 館林市立六郷保育園(新宿二丁目)
- 館林市立多々良保育園(日向町)
- 館林市立渡瀬保育園(足次町)
- 館林市立三野谷保育園(上三林町)
- 館林市立美園保育園(美園町)
- 館林市立高根保育園(北成島町)
- 館林市立松波保育園(高根町)
私立
- ルンビニ保育園(赤生田本町)
- 聖ルカ保育園(大街道三丁目)
- 双葉保育園(松原一丁目)
- ももの木保育園(花山町)
- 青柳保育園(青柳町)
特別支援学校[編集]
- 館林市立養護学校(上三林町)
学校教育以外の施設[編集]
- 館林地区高等職業訓練校(館林地区職業訓練運営会が運営する認定職業訓練施設)
交通[編集]
主要都市までの距離[編集]
県境付近にあるため、20km圏内の狭い範囲に群馬県(太田市)、栃木県(佐野市、足利市)、茨城県(古河市)、埼玉県(羽生市、行田市等)の4県それぞれの市がある。
- 前橋市まで約50km。(群馬県内の市の中では最も遠い)
- 宇都宮市まで約50km。
- 東北自動車道があるため、所要時間は前橋より宇都宮の方が短い。
- 高崎市まで約60km(前橋と同じく群馬県内の市では最も遠い)。
- 東京まで約70km(鉄道の特急で都心へ60分ほどであり、通勤圏内)。
鉄道[編集]
路線バス[編集]
かつては東武鉄道バス(当時)を含め3社が市内や周辺自治体への路線バスを運行していたが、モータリゼーションの進行に加えて、比較的平坦な土地だったことから自転車が普及し、路線バス利用者は減少した。1980年ごろから路線の廃止が進み、1986年12月31日には古河市・下都賀郡藤岡町(現・栃木市)を結ぶ2路線が廃止されたことにより、当時日本に653あった市のなかで唯一、路線バスが存在しない市となった。その後しばらくは高齢者にタクシーチケットの配布で対応していたが、1993年からは館林市が貸切バス事業者に運行委託をする形で、路線バスの運行が再開されている。
道路[編集]
高速道路[編集]
国道[編集]
県道[編集]
出身有名人[編集]
- 生田万
- 岡谷繁実 - 名将言行録
- 正田貞一郎
- 田山花袋
- 小室翠雲
- 柳家蝠丸
- 岸浪百草居 - 日本画家(1889年-1953年)
- 坂村貞雄
- 正田建次郎
- 正田英三郎
- 藤野天光
- 藤牧義夫
- 谷津義男 - 前衆議院議員(元農林水産大臣)
- 見城美枝子
- 向井千秋
- 宗次郎
- 原恵一 - アニメーション監督
- 相沢巧弥子
- 根岸弥生
- 前原章宏 - とりせん社長
- 茂木正叔 - プロレスラー(プロレスリングナイトメア所属)
- 木村浩一郎 - プロレスラー(DDTプロレスリングに参加、基本的にフリー)
- 笠原紳司
- 佐々木昌信 - セリーグ審判員
- 清瀧千晴 - バレエダンサー
- あらいすみれ - 17歳でミス日本(2007年現在最年少記録)
- 北詰友樹
- 川村喜十郎 - DIC創業者
- ビリー - ギターウルフ
- 茂原岳人(柏レイソル)
- 小川晃一 - 北海道大学名誉教授
- 丸山不二夫
- 松林らんぜ(マルチタレント)
館林市ゆかりの人[編集]
- 東喜代駒 - 東京漫才の始祖の一人とされる昭和初期に活躍した漫才師。館林生まれ
- 大谷休泊 - 防風林や用水路などの事業を行う
- 徳川綱吉 - 館林城主。江戸幕府5代将軍
- 田中正造 - 足尾銅山鉱毒事件。雲龍寺に墓
- 皇后美智子 - 戦時中の疎開先。祖父・父の出身地
観光地[編集]
- つつじが岡公園
- 旧秋元別邸(館林藩最後の藩主である秋元家が所有していた建物)
- ザ・トレジャーガーデン(旧、館林野鳥の森フラワーガーデン)
- 日本最大級の薔薇のロングボーダーガーデンがある。
- 茂林寺
- 城沼(館林城の近くにあることから)
- 茂林寺沼
- 多々良沼(白鳥の越冬地として有名)
- 群馬県立館林美術館
- 向井千秋記念子ども科学館
- 製粉ミュージアム(世界的にも珍しい製粉の歴史博物館)
- 雲龍寺(田中正造の墓)
- 善導寺(榊原康政の墓)
- 彫刻の小径
- 狩野ぼたん園
- 田山花袋記念文学館
- 田中正造記念館
- 館林城跡
- 鶴生田川
その他[編集]
隣接する邑楽郡板倉町や明和町と同様に、群馬県でありながら東北自動車道沿線にあるため、宅配便では隣接県扱いになる例が多い。
※その他の群馬県は23群馬ターミナル管轄である。
※その他の群馬県と埼玉県本庄市は15群馬ターミナル管轄である。
参考文献[編集]
- 内務省衛生局保健衛生調査室編『各地方ニ於ケル「マラリア」ニ関スル概況』1919年(大正8年)発行(2008年2月26日現在、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で閲覧可能)