柳田國男

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
ファイル:Kunio yanagita02 1920.jpg
柳田國男の生家(兵庫県福崎町)

柳田 國男(やなぎた[1] くにお、1875年明治8年)7月31日 - 1962年昭和37年)8月8日)は日本民俗学者である。福崎町名誉町民第1号。正三位勲一等

年譜[編集]

没後、兵庫県福崎町に建設された柳田國男・松岡家顕彰会記念館の西隣に「自らの民俗学の原点」と評した生家は移築・保存された。蔵書は成城大学に寄贈され、同大学民俗学研究所の柳田文庫として活用されている。また東京都世田谷区成城にあった柳田國男邸は、長野県飯田市飯田市美術博物館に移築された。

家族・親族[編集]

系譜[編集]

  • 松岡氏
松岡左仲━━小鶴         ┏松岡鼎
       ┃  (操と改名) ┃
       ┣━━━松岡賢次  ┣松岡泰蔵(井上通泰)
       ┃     ┃   ┃
      中川至    ┣━━━╋松岡國男(柳田國男)
             ┃   ┃
            たけ   ┣松岡静雄
                 ┃
                 ┣松岡輝夫(松岡映丘)
                 ┃
                 ┗松岡俊次

柳田民俗学の特徴[編集]

文献中心主義批判[編集]

國男は『郷土生活の研究法』(1935年)のなかで「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」と述べている。

ここでは、文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないとしており、それゆえ公文書などに示された一揆災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決してみえてこないという認識が示されている。「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険がともなうのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じている。

柳田國男と歴史学[編集]

和歌森太郎の『柳田国男と歴史学』(1975年)によれば、國男の問題意識と関心は常に歴史学歴史教育にあったことが記されている。本書では、國男が長野県東筑摩郡教育会で「青年と学問」と題して講演した際に「自分たちの一団が今熱中している学問は、目的においては、多くの歴史家と同じ。ただ方法だけが少し新しいのである」と述べたことが紹介されている。そして「日本はこういうフォークロアに相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである」としている。たとえば、ヨーロッパでは千年以上のキリスト教文明民族大移動、そしてまた近代以降の産業革命の進展のためフォークロア(民間伝承、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡がのこっているというのである。

言い換えれば日本にはフォークロアを歴史資料としてゆたかに活用できる土壌があるということであり、柳田民俗学とはこのような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものということができるのである。

代表作[編集]

東北地方の伝承を記録した、柳田民俗学の出発点(話者:佐々木喜善)。
各地のカタツムリの名称を比較検討することにより、日本語が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにした考察。これは文化が中心から周辺へと伝播する過程で、周辺にかえって古い文化が残っていることを示した文化周圏論である。國男自身は晩年になって『蝸牛考』について「あれはどうも駄目なようです」と述懐し、文化周圏論に懐疑的になっていたといわれる。
昔話の解析を通して、日本社会の断面図を描こうとしたものだが、この手法は民俗・民族学、文化人類学に応用され多くの後継者を生み出した(例:中野美代子の『孫悟空の誕生』)。
日本文化が沖縄諸島から南島づたいに伝播してきたという考察。沖縄には稲作文化がなかったことから発表当初は否定されたが、近年の考古学的・言語学的調査などにより南方からの影響もそれなりにはあったとされる。ただ、日本列島の文化を後に構成した要素の多くはやはりユーラシア大陸からもたらされたと近年では考えられている。また國男の「海上の道」論の背景には植民地問題もあったと指摘する研究もある(村井紀『南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義』)。
  • 『「イタカ」及び「サンカ」』
イタコ山窩の考察。

柳田批判[編集]

日本民俗学の祖としての功績は非常に高く評価できる反面、彼自身の性格・手法によって切り捨てられた民俗があることも指摘されている(例えば性に関する民俗は言及を避けた)。國男が意図的に無視した漂泊民非稲作民被差別民同性愛を含む性愛、超国家的民俗などの解明は同時期に宮本常一によって多くの先駆的研究が為された他、網野善彦によって歴史学の分野でも注目を集めた。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. なお柳田の読みは「やなぎ」ではなく「やなぎ」である
  2. 『柳田國男 ちくま日本文学全集』 431頁 - 父は姫路藩儒者角田心蔵の娘婿田島家の弟として一時籍を入れ“田島賢次”という名で仁寿山黌や好古堂という学校で修行し医者となった
  3. 上司であった徳川家達との性格不和が原因とされる。官僚の出世コースから外れた國男は以後学者として高名をはせることになった。参考文献:『恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919』 ISBN:4532166365

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

Wikipedia-logo.svg このページはウィキペディア日本語版のコンテンツ・柳田國男を利用して作成されています。変更履歴はこちらです。