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日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう、日本國憲法)は、日本国の現行の憲法典である。
日本国憲法は、第二次世界大戦における大日本帝国の敗戦後の被占領期に、大日本帝国憲法の改正手続を経て1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。施行されてから現在まで一度も改正されていない。その為、日本国憲法の原本の漢字表記は、当用漢字以前の旧漢字体である。
国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を採り、個人と基本的人権の尊重を期する為、国会・内閣・裁判所・地方自治などの国家の統治機構と基本的秩序を定める。この他、戦争の放棄と戦力の不保持が定められている事も特徴的である。
日本国の最高法規に位置付けられ(98条)、下位規範である法令等によって改変する事は出来ない。また、日本国憲法に反する法令や国家の行為は無効とされる。
目次
概要
基本理念・原理
基本的人権尊重主義
基本的人権の尊重とは、個人が有する人権を尊重する事を言い、自由主義と平等主義とから成る。
自由主義
憲法で自由主義原理が採用されるのは、“個人に至上価値を認める以上は、各人の自己実現は自由でなければならないからであり、また、自由は民主政の前提となるもの”だからである。
自由主義の内容を人権面と統治構造に分けてみると、
- 人権
- 自由権の保障 第3章 11条 97条
- 統治
- 権力分立制 41条 65条 76条(国家権力の濫用防止の為)
- 二院制 42条(慎重・合理的な議事の為)
- 地方自治制 92条~(中央と地方での抑制・均衡を図る為)
- 違憲審査制 81条(少数者の自由確保の為)
となる。
当初は、国家権力による自由の抑圧から国民を解放するところに重要な意味があった。基本的人権は、単に「人権」や「基本権」とも呼ばれ、特に第3章で具体的に列挙されている(人権カタログ)。かかる列挙される権利が憲法上保障されている人権であるが、明文で規定されている権利を超えて判例上認められている人権も存在する(「知る権利」、プライバシーの権利など)。
また、権力の恣意的な行使により個人の人権が抑圧される事を回避するべく、権力分立や地方自治を通して統治機構は機構上権力が一つの機関に集中しないように設計され、個人が虐げられる事のないように自由主義的に設計されていると言われる。
基本的人権の尊重は、古くは、人間の自由な思想・活動を可能な限り保障しようとする自由主義を基調とする政治的理念であった。政治的な基本理念である「自由主義」は、国家権力による圧制からの自由を意味し、国家からの自由の理念を示す為、「立憲主義」と表現される事も多い。特に、権力への不信を前提にする事から、単に「国家からの自由」とも言われる。民主政治の実現過程において、国家権力による強制を排除して個人の権利の保障をする為の理念として自由主義は支持された。自由主義は政治的には市民的自由の拡大、経済的には自由政策の維持として表れるといわれている。さらに、自由主義は、個人の幸福を確保する事を意図した理念でもある事から、国民が個人の集合体に変化するのに伴って、国のあり方を決定付ける理念として把握されるようにもなった。日本国憲法における国家組織の規定も、国民主権の考え方と相互に関連して自由主義を踏襲している。
平等主義
平等主義は、原則として、「機会の平等」(自由と結びついた形式的平等)を意味し、内容としては、
- 人権
- 法の下の平等 14条1項
- 両性の本質的平等
- 等しく教育を受ける権利
- 統治
- 平等選挙 44条
- 普通選挙 15条3項
- 貴族制度の否定 14条2項
- 栄典の限界 14条3項
が挙げられる。
ただし、資本主義下で貧富の拡大した状況下での弱者の個人の尊厳確保の為の修正理念として、平等の理念には「結果の平等~条件の平等」(社会権と結びついた実質的平等(福祉主義))も含むとされる。
福祉主義
憲法において福祉主義が採られるのは、資本主義の高度化は貧富の差を拡大し、夜警国家政策の下では、経済的弱者の生活水準および個人の尊厳の確保が困難となったからとされる。
その内容を人権面と統治構造に分けると、
- 人権 社会権の保障 25条~28条
- 統治 積極国家化(行政国家化)
が挙げられる。
ただし、積極国家化は自由主義原理と緊張関係にあり、一定の限界があるとも言われる。
現代においては、初期の自由政策的な経済によって貧富の格差が生じた事から、自由主義は、社会権(所得の再分配など)による修正を受けるようになった。他方で、現代民主主義が個人の自由の保障に強く依存するのに伴って、自由主義は飛躍的にその重要度を増した。特に、ナチス・ドイツが民主制から誕生し、甚大な惨禍をもたらした事から、国民の自由を保障できない制度は、民主主義と言えない事が認識され、自由主義と民主主義が不可分に結合した立憲的民主主義(自由民主主義)が一般化し、自由は、民主主義に欠く事が出来ない概念として多くの国で認知されるようになった。日本国憲法でも、個々の自由と国家が衝突する場面において、自由を優先させる趣旨の規定が見られる(違憲審査権による基本的な人権の保護等)。
人権保障の限界
憲法における自由主義ないし人権保障とは、国家から侵害を受けない事を意味する。そして、人権が不可侵のものとして保障されている以上、国家は人権を制限出来ない(国会は人権を制限する法律を制定出来ず、行政権は人権を制限する行為が出来ない)のが原則である。
しかしそれでは、例えば通貨偽造等犯罪を犯した者を処罰する事も出来ず、他人の名誉を毀損する言論を制限する事も出来ず、およそ近代国家は成り立ち得ない。そこで、一定の場合には人権を制限出来る(国会は人権を制限する法律を制定出来る)とすべきとの価値判断がなされる。
人権を制限出来る場合としては「憲法が特に認めた場合(18条等)」があるが、それ以外にも一般に「公共の福祉」12条を根拠に制限出来るとされる。
公共の福祉を根拠とする人権制限
公共の福祉を根拠に人権を制約出来るとされる場合、どのような基準・範囲で人権を制限出来るか、即ち「公共の福祉」の意味については争いがあり、22条や29条のような明文がある場合に限って制限出来るとする説もある。しかし、通説は全ての人権について制限が可能と解しており、その理論構成として「公共の福祉は各個人の基本的人権の保障を確保する為基本的人権相互の矛盾・衝突を調整する「公平の原理」であり、従って全ての人権について制限出来る」との論旨を主張している。(一元的内在制約説)(一定の場合には国家は全ての種類の人権を制限出来るとすべき との価値判断が最初にあり、その条文上の根拠として「公共の福祉」が用いられ、公共の福祉とは…公平の原理である とする解釈が採られる) このように、公共の福祉を人権相互間の調整原理であると考える事によって、制約は全ての人権に内在するものと言う結論を導く事になる。そこで、「公共の福祉」と言う語は明文上、12条、13条、22条1項、29条2項にしかないものの、全ての人権が「公共の福祉」により制約され得る事となる。
但し、そこでは制限目的の合理性と制限手段の合理性が必要とされ、これらの合理性がない立法は立法権の裁量を逸脱し違憲とされる。但し、制限目的や制限手段の具体的限界や司法審査における判断基準(合憲性判定基準/違憲審査基準)は、権利の性質によって異なる。
その他の根拠に基づく人権制限
公共の福祉を根拠としない場合でも、憲法が特に認めた場合には人権は制限出来る、とされる。
- 憲法に規定がある場合(刑罰・財産収用・租税賦課/徴収・憲法尊重擁護義務)
- 公共の福祉を根拠とするのに問題があるが、憲法の明文もない事例として、在監関係・公務員関係・未成年者の人権制限がある。これらについては、「憲法秩序の構成要素」であるから と言う論拠と、未成年者の保護・育成の為憲法が認めている と言う論拠を主張する説が有力である。
- 憲法秩序の構成要素とされる場合(在監関係・公務員関係)
- 未成年者の保護・育成の為の措置(未成年者の人権制限)
- これらの場合も制限目的の合理性と制限手段の合理性が必要とされ、これらの合理性がない立法は違憲と考える事が出来る。
国家からの自由と言う理念から、日本国憲法の重要な原則である基本的人権の尊重が導かれる。前文では「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し(後略)」と規定され、11条では「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵す事の出来ない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と宣言されている。また、「表現の自由」(21条1項)など第3章の詳細な人権規定、権力分立による権力集中の防止(これによる権利の濫用の防止)、裁判所の違憲立法審査権(民主的意思決定による基本的人権の侵害を防止・81条)、憲法の最高法規性(第10章)など、ほとんどすべての規定が自由主義の理念の表れと言える。
平和主義(戦争放棄)
平和主義は、自由主義と民主主義と言う二つの重要な理念と共に、日本国憲法の理念を構成する。平和主義は、平和に高い価値を置き、その維持と擁護に最大の努力を払う事を言う。平たく言えば、「平和を大切にする事」である。
平和主義の内容は、
- 人権 平和的生存権の権利性 - ただし、判例及び有力説は、平和的生存権の権利性を否定する。
- 統治
- 戦争の放棄
- 戦力の不保持
- 交戦権の否認
- 国務大臣の文民性
とされる。
平和状態が国民生活基盤において重要である事について殆ど争いはない。むしろ、その平和な状態を国際秩序においていかにして確保するかと言う点で、激しい論争がある。平和主義は、多くの国で採用されている国際協調主義の一つと位置づける事が出来る。深刻な被害をもたらした第一次世界大戦後、自由主義・民主主義と結びつき、国民生活の基盤としての平和主義が理念として発展した。
しかし第二次世界大戦後の日本では歴史的経緯をふまえ、日本国憲法前文および9条に強く示されるように、国際協調主義を超えた平和主義がめざされてきたと指摘される事もある。
日本国憲法は9条1項で、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と謳っている。さらに同条2項では、1項の目的を達する為に「陸海空軍その他の戦力」を保持しないとし、「国の交戦権」を認めないとしている。つまり、国際平和の為に日本は戦力をもたない、と言う事である。この点について、まず、日本は自衛戦争も放棄したとする解釈がある。この解釈は自衛の為の武力行使さえも行き過ぎると戦争に及ぶものとしたもので、即ち日本は全ての戦争を放棄しているとの解釈である。この解釈の背景には、近代以降の戦争の多くがたとえ侵略的性格を持ったものであっても大義名分としては自衛や紛争解決等の名の下に行われてきた事から、「正しい」戦争の範囲を定める事は実際には困難であると言う問題意識がある。またこの見解に立つならば、武力を持たなくても安心な世界を実現するにはどうしたらいいかと言う根本的な問題が議論されなければならない事になる。
他方、憲法9条は、国権の発動たる戦争を放棄しているが、多国籍軍の制裁戦争(国際法上の戦争概念)への参加や、独立国家に固有の自衛権までも放棄する事を意味しない、とする解釈もある。この見解によれば、国家がその平和と独立を維持する為には、それを自ら防衛する権能を持つ事が求められるからである。そして、自衛の為の必要最小限度の実力(自衛隊)は、2項に言う「戦力」に相当しないと解される(1950年代以降の政府見解)。このように、平和主義と自衛権の行使は、対立するものではなく、達するべき目的とそれを実現する為の手段と言う関係にある、と言う解釈も成り立つとされる。その代わりに政府は、海外派兵および集団的自衛権の行使(自国が攻撃されたわけでもないのに同盟国が行う実力行使に参加する事)は違憲であると言う公式解釈上の歯止めを示して来た。1990年代以降は自衛隊海外派遣と憲法9条の平和主義との整合性を巡って激しい論争が行われている。
平和主義と言う言葉は多義的である。法を離れた個人の信条等の文脈における平和主義は(一切の)争いを好まない態度を意味する事が多い。一方で、憲法理念としての平和主義は、平和に価値を置き、その維持と擁護に政府が努力を払う事を意味する事が多い。日本国憲法における平和主義は、通常の憲法理念としての平和主義に加えて、戦力の放棄が平和につながるとする絶対平和主義として理解される事がある。これは、第二次世界大戦での敗戦と疲弊の記憶、終戦後の平和を求める国内世論、形式文理上、憲法前文と第9条が一切の戦力・武力行使を放棄したと解釈出来る事、第二次世界大戦以降日本が武力紛争に直接巻き込まれる事がなかった事によって支えられた、世界的にも希有な平和主義だとされる。この絶対平和主義については、安全保障の観点がないのではないかと言う意見がある一方で、世界に先んじて日本が絶対平和主義の旗振り役となり、率先して世界を非武装の方向に変えていこうと努力する事が、より持続可能な安全保障であるとの意見がある。なお、これらとは別に自衛権は自明の理であり、自衛権の行使は戦争には当たらないとする意見がある。
権力分立制
権力分立制は、国家権力の集中によって生じる権力の濫用を防止し、国民の自由を確保 権力分立制は、古典的には、立法・行政・司法の各権力を分離・独立させて異なる機関に担当せしめ互いに他を抑制し均衡を保つ制度 といわれ、自由主義的・消極的・懐疑的・政治的中立性と言う特質を持つ。
ただし、近代においては、ある程度の変容を伴うのが一般的であり、ある程度の変容を伴ったものも、近代的権力分立制として認められる。 する事を目的とする制度である。
日本国憲法では、国会の内閣に対する統制強化 と 司法権の強化 と言う特徴を持つ。
国会の内閣に対する統制とは、具体的には議院内閣制や国会の最高機関性 であり、国民主権主義と行政権肥大に伴う行政の権限濫用の危険増大に対応したものと言える。
司法権の強化とは、具体的には行政事件についての裁判権や違憲立法審査権 であり、法の支配の原理に基づくものと言える。
民主主義(国民主権主義)
民主主義は、平たく「民衆による政治」ともいわれ、この理念をもとにした政治形態は民主制(民主主義制、民主政)と呼ばれる。
他方で、憲法学上は、民主主義とは「統治者と被統治者の自同性(国家の統治意思と統治される国民各自の意思を一致させ、統治者と被統治者の間に自同性の関係を持たせようとする原理)」といわれる事が多い。個人の自由の制約は個人の自律的意思に基づくものでなければならないから民主主義と言う制度が採られ、このとき、自由の制約が最小となるとされる。
民主主義を具体化したものとして、日本国憲法では、国民主権主義(前文 1段1文 §1)が採られる。
「主権」とは、国家の統治のあり方を最終的に決定し得る力である。
そして、国民主権の意味については、国家権力の正当性の根拠が全国民に存する事(代表民主制が原則)のみならず、国民自身が主権の究極の行使者である事(直接民主制が原則)も意味する とする折衷説が通説である。
そして、国民主権の内容としては、以下のものが挙げられる。
- 人権
- 参政権
- 選定・罷免権 15条 44条 (国会議員 44条 地方公共団体の長 93条2項 国民審査 79項)
- 国家意思の形成に直接参与する権利(国民投票 96項 地方特別法 95項)
- 参政権を補完する諸権利 (表現の自由 21条 知る権利 21条 集会・結社の自由 21条 請願権 16条)
- 参政権
- 統治
- 選挙制度
- 議院内閣制 66条3項 69条
- 地方自治制
- 国民票決制 96条 95条
- 国政公開の原則 57条2項 91条
- 国会の最高機関性
- 政党制
- 国民代表の解釈
国民主権とは、国家の主権が人民にある事を言う(日本国憲法においては国民と表現されている)。主権も多義的な用語であるものの、結局、国民主権とは国政に関する権威と権力が国民にある事を言うとされる。当初は主権が天皇や君主など特定の人物にないところに重要な意味があった。国民主権は、前文や第1条などで宣言されている。国民主権は、統治者と被統治者が同じであるとする政治的理念、民主主義の国家制度での表れである。
民主主義を最も徹底すれば、国民の意見が直接政治に反映される直接民主制が最良と言う事になる。現に人口の少ない国(スイスなど)や日本でも地方公共団体(地方自治法94条の町村総会、74条以下の直接請求)では、現在でも直接民主制が広く取り入れられている。しかし、現代国家においては、有権者の数が多い為に直接民主制を採る事が技術的に困難である事や、直接民主制が有権者相互の慎重な審議討論を経ず、多数決による拙速な決定に陥りやすいなど、国民意思の統一に必ずしも有利ではない事から、大統領や国会議員などを国民の代表者として選挙で選出し、国民が間接的に統治に参加する体制が採られる。この体制を間接民主制(代議制民主主義)と言う。日本国憲法は、原則として間接民主制を採用している(前文、43条など)。例外的に、憲法改正国民投票(96条)、最高裁判所裁判官の国民審査(79条)など一部の重要事項についてのみ、直接民主制を採り入れている。
「民衆による政治」は、「民衆に拠らない政治」との争いの中で次第に洗練され、現代の民主主義は、より実質的に「民衆による政治」の実現を目指す理念になっている。この理念の下では、単に投票が出来る事に止まらず、政治に関する多角的な意見を知り、また発信出来る事等、個人の権利が重んじられる事が前提とされる。現代民主主義が、自由主義や個人主義を基盤にしていると指摘されるのはその為である。
この「民衆による政治」と言う理念から、日本国憲法において国民主権が重要な原則として制度化された。前文では、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し(中略)ここに主権が国民に存する事を宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」と表現されている。民主主義の憲法上のあらわれとしては、国民の選挙権(15条)、国会の最高機関性(41条)、議院内閣制(66条など)、憲法改正権(96条)など、多くの規定が見られる。
法の支配
大日本帝国憲法における狭い意味の「法治主義」に対置する概念。「法の支配」とは「人の支配」、つまり権力者の恣意的判断を排して理性の法が支配すると言う概念で、英米系法学における憲法の基本的原理を採り入れたものである。
この「法」は、自由な主体たる人間の共存を可能ならしめる上で必要とされる「法」とされ、国民の意思を反映した法、即ち日本国憲法である。そこで、憲法に基づいて権力が行使されたか否かを審査する裁判所がなければならず、制度的には、裁判所に違憲立法審査権を与え、憲法の番人としての司法の優位が確立し、「法の支配」が守られる様に担保している。
法の支配の内容としては、
- 人権
- 基本的人権の永久不可侵性 11条 97条
- 法律の留保を認めない絶対的保障 3章
- 法律の手続き・内容の適正
- 制限規範ゆえに最高法規性が認められる 97条 98条1項
- 統治
- 裁判所の自主・独立性 77条 78条 80条
- 行政事件を含む争訟の裁判権 76条2項
- 法令審査権 81条
- 統治者に憲法尊重擁護義務 99条
が挙げられる。
日本国憲法の構成
人権規定
人権規定は、主に第3章にまとめられている。人権は、包括的自由権、法の下の平等、精神的自由、経済的自由、人身の自由、受益権、社会権、参政権等に大別される。
包括的自由権と法の下の平等
まず包括的な人権規定、包括的自由権である生命・自由・幸福追求権(13条)がある。プライバシーの権利、自己決定権などの新しい人権は、同条により保障される。また、14条では法の下の平等が定められる。同条2項は貴族制度の禁止と栄典に伴う特権付与の禁止を定める。同条のほか、24条では両性の平等が、44条では選挙人資格等の平等が定められている。
精神的自由
精神的自由のうち、内面の自由としては、思想・良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、学問の自由(23条)がある。20条1項(後段)及び3項は89条と共に、政教分離原則を定める。学問の自由からは、大学の自治および学校の自治が導き出される。表現の自由は21条に定められる。同条では、明文にある集会の自由・結社の自由・出版の自由や言論の自由の他、知る権利、報道の自由・取材の自由、選挙運動の自由等、重要な人権が保障されている。また、同条2項では、検閲の禁止と通信の秘密が保障されている。
経済的自由
経済的自由としては、まず22条1項では、職業選択の自由を保障している。ここからは営業の自由が導き出される。また2項と共に、居住移転の自由、外国移住の自由、海外渡航の自由、国籍離脱の自由も保障されている。29条では、財産権が保障されている。
人身の自由
人身の自由は、まず18条で、奴隷的拘束からの自由が定められる。31条では適正手続の保障が規定される。刑事手続に関する詳細な規定は、日本国憲法の特徴とされる。これには、不当な身柄拘束からの自由(34条)、住居等への不可侵(35条)など被疑者の権利と、公務員による拷問及び残虐な刑罰の禁止(36条)、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利、証人審問権・喚問権、弁護人依頼権(37条)、自己負罪拒否特権(38条、黙秘権)、刑罰不遡及(39条)、二重の危険の禁止(一事不再理、39条)など被告人の権利がある。
大日本帝国憲法体制からの経験則として、英米法の経験則が導入された経緯がある。大日本帝国憲法では、法律によらなければ、逮捕・監禁・審問・処罰を受けないと定めていたが、実際には警察による拷問等が行われ、人身の自由の保障は不十分だった。
なお、人身の自由に関する憲法直接付属法は人身保護法(昭和23年法律第199号)である。この人身保護法に関する細則は、最高裁判所規則である人身保護規則(昭和23年最高裁判所規則第22号)に定められる。同法及び同規則によれば、人身保護事件の審理は、原則として民事訴訟の手続で扱われる(規則33条、46条)。人身保護法は、人身の自由を拘束(人身の自由を奪ったり制限すること)をする者を、公務員・公的機関だけに限定していない。
受益権
受益権とは国務請求権とも言う。国民が国家に対し、行為や給付、制度の整備などを要求する権利である。受益権には、請願権(16条)、裁判を受ける権利(32条)、国家賠償請求権(17条)、刑事補償請求権(40条)等がある。
社会権
社会権とは、個人の生存・教育・維持発展などに関する給付を、国家に対し要求する権利である。社会権には、生存権(25条)、教育を受ける権利(26条)、勤労の権利、労働基本権(27条、28条、労働三権)等がある。
参政権
参政権とは、国民が政治に参与する権利である。15条で、選挙権・被選挙権・国民投票権などの参政権を保障している。選挙権は、普通選挙、平等選挙、自由選挙、秘密選挙、直接選挙の5つの要件(原則)を備えなければならない。普通選挙とは財力・教育などを選挙権の要件としない選挙をいい、15条3項と44条で保障される。平等選挙とは選挙権の価値は平等として一人一票を原則とする選挙をいい、14条1項や44条で保障され、投票価値の平等も保障されると解釈される。自由選挙とは投票を罰則などの制裁によって義務づけない選挙を言い、15条1項などにより保障されると解されている。秘密選挙とは投票内容を秘密にする選挙を言い、15条4項で保障される。直接選挙とは選挙人が公務員を直接に選ぶ選挙をいい、国政選挙では直接これを保障する条項はないが、地方選挙では93条2項で保障する。国民投票権は、憲法改正についてのみ認めている(96条1項)。地方自治特別法に関する住民投票権や、最高裁判所裁判官国民審査もこの権利の一種とされる。
統治規定
日本国憲法は権力分立制(三権分立制)を採る。権力分立とは、国家の諸作用を性質に応じて区別し、それを異なる機関に分離し、相互に抑制均衡を保つ事で権力の一極集中と恣意的な行使を防止するものである。権力分立制は、自由主義をその背後の原理とする。通常、立法権・行政権・司法権の権力に区別する。日本国憲法では、立法権は国会(41条)に、行政権は内閣(65条)に、司法権は裁判所(76条)に配される。
日本国憲法は、第1章に天皇に関する事項を定める。天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定される(1条)。天皇は、内閣の助言と承認により、国民のため、憲法改正、法律、政令及び条約の公布(7条1号)、国会の召集(2号)、衆議院の解散(3号)、官吏の任免の認証(5号)、栄典の授与(7号)、外交文書の認証(8号)などの国事行為を行う(7条)。また、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命(6条1項)し、内閣の指名に基づいて最高裁判所長官を任命する(同条2項)(6条)。
国会
国会は国権の最高機関とされ、唯一の立法機関とされる(41条)。国会は衆議院と参議院の二院からなる(42条)。二院の内では、衆議院の優越が定められている(予算先議権:60条1項、内閣不信任決議権:69条、決議の優越:59条2項・60条2項・61条、67条2項)。それ以外は対等であり、法律案は、両議院で可決した時に法律となり(59条1項)、予算案・条約の承認も国会の権能である(60条、61条)。また、両議院には各々、内部規律に関する規則制定権がある(58条2項)。
他の二権との関係では、まず、内閣に対しては、国会に内閣総理大臣の指名権があり(67条)、衆議院には内閣不信任決議権がある(69条)。また、院の権能である国政調査権(62条)を行使して、内閣の行う行政事項に関して調査監視する。裁判所に対しては、裁判官弾劾裁判所を設置して、非行のあった裁判官を弾劾する(64条)。もっとも、裁判官弾劾裁判所自体は国会から独立した機関である。また、裁判官は国会が作った法律に当然に拘束される(76条3項)。
内閣
内閣は行政権を担う(65条)。内閣は、内閣総理大臣と国務大臣からなる合議制の機関である(66条)。内閣の首長たる内閣総理大臣は国会議員の中から国会により指名され(67条1項)、天皇に任命される(6条1項)。国務大臣は内閣総理大臣が任命するが、その過半数を国会議員の中から選ばなければならない(68条1項)。内閣は、一般行政事務を行うほか、条約を締結し、予算案を作成し、政令を制定するなどの権限を行使する(73条)。また、内閣は、天皇の国事行為に対し、助言と承認を行う(7条)。
内閣は、天皇への助言と承認を通して衆議院を解散することが出来る(7条3号)。内閣は、最高裁判所長官を指名し(6条2項)、その他の下級裁判所裁判官を最高裁判所が作成した名簿より任命する(79条1項)。
裁判所
すべて司法権は、裁判所に属する。裁判所は最高裁判所および下級裁判所からなる。特別裁判所の設置は禁じられている。最高裁判所長官は内閣の指名に基づき、天皇が任命する。その他の裁判官は、内閣が任命する。特に、下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿により、内閣が任命する。最高裁判所の裁判官は、任命後初めて行われる衆議院議員総選挙とその後10年ごとの衆議院議員総選挙において、国民審査を受ける。下級裁判所の裁判官は、任期を10年とし、再任されることが出来る。裁判所には、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則制定権がある(77条1項)。
裁判所は、法令審査権(違憲立法審査権、違憲審査権)を行使する(81条)。同条は、最高裁判所を「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」と規定するが、これは下級裁判所も法令審査権を行使しうることを示している(判例もそれを示している。「警察予備隊違憲訴訟」昭和27年10月8日大法廷判決昭和27年(マ)第23号日本国憲法に違反する行政処分取消訴訟。)。この法令審査権は、裁判所が裁判を行うにあたって適用する法令が違憲であるか否か判断する権限とされる(附随的違憲審査制)。ドイツの憲法裁判所やイタリア、オーストリア等の裁判所に見られる、具体的な事件から離れて抽象的にある法令が違憲であるか否か審査する権限(抽象的違憲審査制)は、日本国憲法に定められていない。
財政・地方自治
第7章は財政に関する事項を定める。国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて行使される(財政国会中心主義、83条)。また、租税法律主義(84条)、内閣の予算案作成権(86条)、国の収入支出の決算と会計検査院に関する事項などが定められる(90条)。なお、皇室経済に関しては、皇室費用の予算計上(88条)は第7章に、皇室への財産譲り渡し、皇室の財産譲り受け、もしくは賜与に関する国会の議決は第1章の8条に定める。
第8章は地方自治に関する事項を定める。地方自治は、住民自治と団体自治をその本旨とする(92条)。地方公共団体には、その長(首長)と議会が置かれ、住民は首長と議員を直接選挙で選出する(93条)。地方公共団体は、その財産を管理し、行政を執行する権能を有する他、法律の範囲内で条例を制定する権限を有する(94条)。また、一の地方公共団体のみに適用される特別法(地方自治特別法)は、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は制定する事が出来ない(95条)。
憲法保障
憲法保障とは、憲法秩序の存続や安定を保つことである。その為の規定・制度としては、まず憲法の最高法規性が挙げられる。98条は、明文で憲法の最高法規性を定める。この形式的な最高法規性の定めを、97条の最高法規性の実質的根拠と、96条の硬性憲法の定めが支える。また、99条は公務員に憲法尊重擁護義務を課している。さらに、権力分立制や違憲審査制も憲法保障を図る制度である。
憲法改正
憲法改正手続は、96条で定められている。まず、憲法改正案は、「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」により「国会」が発議する。この発議された憲法改正案を国民に提案し、国民の承認を経なければならない。この承認には、「特別の国民投票又は国会の定める選挙」の際に行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。この憲法改正案が、国民の承認を経た後、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
この改正手続を定める国民投票法(正式名称・日本国憲法の改正手続に関する法律)が、2007年5月14日、可決・成立した。その他の論点については、憲法改正論議の項目を参照の事。
制定史
大日本帝国憲法
明治維新により近世の幕藩体制・封建制社会から復古的な天皇制・国民国家へと脱皮した日本国は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法の制定により、近代市民国家へと変貌した。大日本帝国憲法は神権的な天皇制と古典的自由主義・民主主義理念が共存し、国家の統治権が天皇にあることとともに国民(臣民)の権利が定められ、議会政治の道が開かれた。
大正時代には、都市中間層の政治的自覚を背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して護憲運動・普通選挙運動が展開された。民主主義(民本主義)、自由主義、社会主義の思想が高揚、帝国議会に基礎を持つ政党内閣誕生に結実した。政党内閣は、制限選挙における投票条件を徐々に緩和、1925年(大正14年)に25歳以上の男子による普通選挙を実現させた。この時期、大日本帝国憲法は民主的に運用され、日本は実質的に議会制民主主義国であったと指摘される(「大正デモクラシー」も参照)。
大日本帝国憲法の第11条に、天皇の大権として陸海軍の統帥権を定めた規定があった。この規定は、天皇の直接的な軍の統帥を念頭においた規定ではない。実質的には、軍の統帥を政府の管轄から独立させ、陸海軍当局の管轄としたところに意味があった。しかしこの条項の解釈をめぐり、ロンドン海軍軍縮会議締結の際にいわゆる統帥権干犯問題が起き、政府の介入が天皇の大権を侵すものとの主張がなされた。この後、政府・議会の軍管理が徹底されず、民主的基盤を持たない軍が国政に強く関与することになる。1937年(昭和12年)には盧溝橋での部隊衝突をきっかけとする日中戦争(支那事変)が勃発し、1941年(昭和16年)には太平洋戦争(大東亜戦争)に突入、戦時体制下において軍部主導の国家運営がなされた。
日本国憲法の制定
ポツダム宣言の受諾と占領統治
1945年(昭和20年)7月、米英ソ三国首脳(アメリカのトルーマン大統領・イギリスのチャーチル首相・ソ連のスターリン共産党書記長)は、第二次世界大戦の戦後処理について協議するため、ドイツのベルリン郊外・ポツダムで会談を行った(ポツダム会談)。この席で、三者は「日本に降伏の機会を与える」ための降伏条件を定め、中華民国の蒋介石・国民政府国家主席の同意を得て、同月26日、米英中の三国首脳の名でこれを発表した(「ポツダム宣言」)。この「ポツダム宣言」のうち、特に憲法に関する点は次の点である。
- 軍国主義を排除すること。
- 六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
- 七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
- 十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
日本政府は、先ずこれを「黙殺」すると発表し、態度を留保した。アメリカ軍は翌8月6日に広島、同9日に長崎に原爆を投下し、ソ連軍は8月8日にソ連対日参戦した。ここに至って日本政府は戦争終結を決意し、8月10日に連合国にポツダム宣言を受諾すると伝達した。日本政府はこの際、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾」するとの条件を付した(8月10日付「三国宣言受諾ニ関スル件」[2])。これは、受諾はするものの、天皇を中心とする政治体制は維持する、いわゆる国体護持を条件とすることを意味した。
連合国は、この申し入れに対して、翌11日に回答を伝えた。この回答は、アメリカの国務長官であったジェームズ・F・バーンズの名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。この「バーンズ回答」で連合国は、次の2点を明示した。[3]
- 降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為その必要と認める措置を執る「連合国軍最高司令官」(SCAP)に従属する(subject to)。
- From the moment on surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.
- 日本の最終的な統治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定される。
- The ultimate form of Government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people.
日本政府はこの回答を受け取り、御前会議により協議を続けた結果、8月14日にポツダム宣言の受諾を決定し、連合国に通告した。ポツダム宣言の受諾は、日本国民に対しては、翌15日正午からのラジオを通じて昭和天皇が「大東亜戦争終結ノ詔書」を読み上げる「玉音放送」で知らせた。この詔書の中では、「国体ヲ護持シ得」たとしている。翌9月2日、日本の政府全権が、横浜港のアメリカ戦艦・ミズーリ号上で、降伏文書に署名した。
降伏により、日本は独立国としての主権を事実上失い、その統治権は連合国軍最高司令官の制約の下に置かれた。連合国軍最高司令官は、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置を執ることができるものとされた。8月28日、連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着し、同30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着した。マッカーサーは、直ちに総司令部(GHQ)を設置し、日本に対する占領統治を開始した。この占領統治は、原則として、日本の既存統治機構を通じて間接的に統治する方式を採り、例外的に特に必要な場合にのみ、直接統治を行うものとした。
日本政府および日本国民の憲法改正動向
降伏直後から、日本政府部内では、いずれ連合国側から、大日本帝国憲法の改正が求められるであろうことを予想していた。しかし、憲法改正は緊急の課題であるとは考えられていなかった。
日本政府によって、それが緊急の課題であると捉えられたのは、1945年(昭和20年)10月4日のことである。この日、マッカーサーは、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に、憲法改正を示唆した(昭和20年10月4日付「近衛国務相、「マックアーサー」元帥会談録」[4])。
- なお、この日、総司令部は、治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃など、いわゆる「自由の指令」の実施を日本政府に命じた。翌5日、東久邇宮内閣は、この指令を実行できないとして総辞職し、9日に幣原喜重郎内閣が成立する。
同11日、幣原首相が新任の挨拶のためマッカーサーを訪ねた際にも、マッカーサーから口頭で「憲法ノ自由主義化」の必要を指摘された(昭和20年10月11日付「幣原首相ニ対シ表明セル「マクアーサー」意見」[5])。
先にマッカーサーから憲法改正の示唆を受けた近衛(東久邇宮内閣の総辞職後は内大臣府御用掛)は、政治学者の高木八尺・東京帝国大学教授、京都から招いた憲法学者の佐々木惣一(10月13日内大臣府御用掛に任命)、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を開始した。10月8日には、近衛は高木らとともに総司令部政治顧問のジョージ・アチソンと会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。また、近衛らの作業と並行して、幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した(10月13日閣議了解、10月25日設置。)。
こうして、内閣と内大臣府の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることとなった。このうち、近衛らの調査に対しては、近衛自身の戦争責任や、閣外であり憲法外の機関である内大臣府で憲法改正作業を行うことに対する憲法上の疑義などが問題視されて、批判が高まった。11月1日、総司令部は「近衛は憲法改正のために選任されたのではない」として、マッカーサーが近衛に伝えた憲法改正作業の指示は、近衛個人に対してではなく、日本政府に対して行ったものであるとの声明を発表した。これにより、近衛らの調査活動は頓挫したものの、近衛らは作業をつづけ、11月22日に近衛案(「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」[6])、11月24日に佐々木案(「帝国憲法改正ノ必要」[7])をそれぞれ天皇に奉答した(なお、総司令部の指示により、11月24日に内大臣府は廃止された。)。
かかる経緯をたどって、憲法改正作業は、内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることになる。松本委員会は、美濃部達吉、清水澄、野村淳治を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義・東京帝国大学教授、河村又介・九州帝国大学教授、清宮四郎・東北帝国大学教授や、法制局幹部である入江俊郎、佐藤達夫らを委員として組織された。松本委員会は、10月27日に第1回総会を行い、同30日に第1回調査会を行った。以後、総会は1946年(昭和21年)2月2日まで7回、調査会(小委員会)は同1月26日まで15回開催された。
1946年(昭和21年)1月9日の第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出した。[8]この「私案」は、前年12月8日の衆議院予算委員会で、松本委員長が示した「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。「憲法改正四原則」の概要は次の通り。[9]
- 天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。
- 天皇ガ統治権ヲ総攬セラルルト云フ大原則ハ、是ハ何等変更スル必要モナイシ、又変更スル考ヘモナイト云フコト
- 議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。
- 議会ノ協賛トカ、或ハ承諾ト云フヤウナ、議会ノ決議ヲ必要トスル事項ハ、之ヲ拡充スルコトガ必要デアラウ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、従来ノ所謂大権事項ナルモノハ、其ノ結果トシテ或ル程度ニ於テ制限セラルルコトガ至当
- 国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。
- 国務大臣ノ責任ガ国政全般ニ亙リマシテ、而シテ国務大臣ハ帝国議会ニ対シ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、間接ニハ国民ニ対シテ責任ヲ負フト云フコト
- 人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。
- 民権ト申シマスカ、人民ノ自由、権利ト云フヤウナモノニ対スル保護、確保ヲ強化スルコトガ必要デアラウ
委員会は、この「憲法改正四原則」に基づいて憲法を逐条的に検討した。宮沢委員が「私案」を要綱化して松本がこれに手を加え、「憲法改正要綱」とした。1月26日の第15回調査会では、この「憲法改正要綱」(甲案)と「憲法改正案」(乙案)を議論した。[10]内閣は1月30日から2月4日にかけて連日臨時閣議を開催して、「私案」「甲案」「乙案」を審議。2月7日、松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上し、翌8日に説明資料とともに総司令部へ提出した。この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではなく、まず総司令部に提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であった。
他方、近衛や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。近衛や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった。そのような中でも特に異彩を放った改憲案には、天皇制を廃止して人民主権の原則を採用した日本共産党の「日本人民共和國憲法(草案)」[11]、象徴的な天皇制を残しつつ国民主権の原則と直接民主制的諸制度を採用する憲法研究会の「憲法草案要綱」[12]、大統領を元首とする共和制を採用した高野岩三郎の「日本共和国憲法私案要綱」[13]などがある。なお、内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して行った「憲法改正に関する輿論調査報告」(1945年(昭和20年)12月19日付、報告総数287件。)では、全体の75%(216件)が「憲法改正を要する」としている。
マッカーサー草案
総司令部は、当初、憲法改正については過度の干渉をしない方針であった。しかし、総司令部は、1946年(昭和21年)の年明け頃から、民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目しながら、日本の憲法に関する調査・研究の動きを活発化させた。もっとも、同年1月中は、憲法改正に関する準備作業を続け、日本政府による憲法改正案の提出を待つ姿勢をとり続けた。
ここで総司令部内で問題となっていたのは、マッカーサーが日本の憲法改正について、いかなる権限を持つのかという法的根拠、法的論点であった。この点につき、総司令部の民政局長であったコートニー・ホイットニーは、「現在閣下は、日本の憲法構造に対して閣下が適当と考える変革を実現するためにいかなる措置をもとりうるという、無制限の権限を有しておられる」と結論づけるリポートを提出した(1946年2月1日付「憲法改正権限に関するホイットニー・メモ」[14][15])。このレポートでは、2月26日に迫った極東委員会の発足後は、マッカーサーの権限が無制限でなくなることも併せて指摘している。
このレポートが提出されたのと同じ日、2月1日付の毎日新聞が、「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載した。[16]この記事に載った「松本委員会案」とは、宮沢委員が委員会での議論を踏まえて試みに作成し、1月4日の第8回調査会に提出した「宮澤甲案」であった。この「宮澤甲案」の内容は、松本委員会に提出された草案の中では比較的リベラルなもので、内閣の審議に供された「乙案」に近かった。政府は直ちに、このスクープ記事の「松本委員会案」は実際の松本委員会案とは全く無関係であるとの談話を発表した。
しかし、その記事を分析したホイットニー民政局長は、それが真の松本委員長私案であると判断した(1946年2月2日付「毎日新聞記事「憲法問題調査委員会試案」に関するホイットニー・メモ」[17])。また、この案について、「極めて保守的な性格のもの」と批判し、世論の支持を得ていないとも分析した。そこで総司令部は、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特にソ連、オーストラリア)から天皇制の廃止を要求されるおそれがあると判断し、総司令部が草案を作成することを決定した。その際、日本政府が総司令部の「受け容れ難い案」を提出された後に、その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前に総司令部から「指針を与える」方が、戦略的に優れているとも分析した。
2月3日、マッカーサーは、総司令部が憲法草案を起草するに際して守るべき三原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示した(「マッカーサー・ノート」)。三原則の内容は以下の通り。[18][19]
- 天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
- Emperor is at the head of the state.His succession is dynastic.His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsive to the basic will of the people as provided therein.
- 国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
- War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.
- 日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。
- The feudal system of Japan will cease.No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent.No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.Pattern budget after British system.
この三原則を受けて、総司令部民政局には、憲法草案作成のため、立法権、行政権などの分野ごとに、条文の起草を担当する8つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が設置された。2月4日の会議で、ホイットニーは、すべての仕事に優先して極秘裏に起草作業を進めるよう民政局員に指示した。起草にあたったホイットニー局長以下25人のうち、ホイットニーを含む4人には弁護士経験があった。しかし、憲法学を専攻した者は一人もいなかったため、日本の民間憲法草案(特に憲法研究会の「憲法草案要綱」)や、世界各国の憲法が参考にされた。民政局での昼夜を徹した作業により、各委員会の試案は、2月7日以降、次々と出来上がった。これらの試案をもとに、運営委員会との協議に付された上で原案が作成され、さらに修正の手が加えられた。2月10日、最終的に全92条の草案にまとめられ、マッカーサーに提出された。マッカーサーは、一部修正を指示した上でこの草案を了承し、最終的な調整作業を経た上で、2月12日に草案は完成した。マッカーサーの承認を経て、2月13日、いわゆる「マッカーサー草案」(GHQ原案)[20]が日本政府に提示された。
日本政府案の作成と議会審議
2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、先に日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。提示を受けた日本側、松本国務大臣と吉田茂外務大臣は、総司令部による草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッカーサー草案」の手交に驚いた。[21]
「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、2月18日に、松本の「憲法改正案説明補充」[22]を添えて再考するよう求めた。これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った。2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し、「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。
2月26日の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫・第一部長を助手に指名し、入江俊郎・次長とともに、日本政府案を執筆した。3人の極秘作業により、草案は3月2日に完成した(「3月2日案」[23])。3月4日午前10時、松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示した。総司令部は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始した。英訳が進むにつれ、総司令部側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。午後になり、松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、総司令部を退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、総司令部は、続いて確定案を作成する方針を示した。午後8時半頃から、佐藤・法制局第一部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。5日午後4時頃、総司令部における折衝はすべて終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」[24]が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、天皇に草案の内容を奏上した。翌3月6日、日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」[25])を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持・了承する声明を発表した。日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった。[26][27]
3月26日、国語学者の安藤正次博士を代表とする「国民の国語運動」が、「法令の書き方についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これを主たる契機として、憲法の口語化に向けて動き出した。4月2日、憲法の口語化について、総司令部の了承を得て、閣議了解が行われ、翌3日から口語化作業が開始された。まず、作家の山本有三に前文の口語化を依頼し、作成された素案を参考にして、入江・法制局長官、佐藤・法制局次長、渡辺佳英・法制局事務官らの手により、5日に口語化第1次案が閣議で承認された。[28]4月16日に幣原首相が天皇に内奏し、まず憲法を口語化した後、憲法の施行後には順次他の法令も口語化することを伝えた。
4月10日、衆議院議員総選挙が行われた。総司令部は、この選挙をもって、「3月6日案」に対する国民投票の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった。選挙を終えた4月17日、政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」[29]を公表し、枢密院に諮詢した。4月22日、枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された(5月15日まで、8回開催。)。同日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、5月27日に再諮詢された。5月29日、枢密院は草案審査委員会を再開(6月3日まで、3回開催。)。この席上、吉田首相は、議会での修正は可能と言明した。6月8日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉・顧問官を除く起立者多数で可決した。
これを受けて政府は、6月20日、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、憲法改正案を衆議院に提出した。衆議院は6月25日から審議を開始し、8月24日、若干の修正を加えて[30]圧倒的多数(421票。日本共産党などの8名が反対[31])で可決した。
続いて、貴族院は8月26日に審議を開始し、10月6日、若干の修正を加えて[32]可決した。翌7日、衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続はすべて終了した。
芦田修正について
なお、憲法改正草案の衆議院における審議の過程では、芦田修正と呼ばれる修正が行われた[33]。芦田修正とは、憲法議会となった第90回帝国議会の衆議院での憲法改正草案第9条の修正作業である。当時の衆議院帝国憲法改正小委員会委員長・芦田均の名を冠して芦田修正と呼ばれる。芦田修正の経緯は以下の通り。
まず、帝国議会に提出された憲法改正草案第9条の内容は、次のようなものであった。
- 第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。
- 陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない。
衆議院における審議の過程で、この原案の表現は、いかにも日本がやむを得ず戦争を放棄するような印象を与え、自主性に乏しいとの批判があったため、このような印象を払拭し、格調高い文章とする意見が支配的であった。そこで、各派から、様々な文案が示され、これらを踏まえて、芦田委員長が次のような試案(芦田試案)を提示した。
- 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。
- 前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
芦田試案について、委員会で懇談が進められ、1項の文末の修正や1項と2項の入れ替えなどについて、原案をもとにすることなどがまとまった。芦田委員長は、これらの議論をまとめて案文を調整し、最終的に次のように修正することを決定した。
- 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
- 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この修正について、総司令部側からは何ら異議もなく、成立に至った[34]。芦田修正では、「前項の目的を達するため」という一文が、後に9条解釈をめぐる重要な争点の一つとなり、芦田の意図などについても論議の的となった。
日本国憲法の公布と施行
帝国議会における審議を通過して、10月12日、政府は「修正帝国憲法改正案」を枢密院に諮詢(19日と21日に審査委員会。)した。10月29日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下で、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した(美濃部・顧問官など2名は欠席。)。同日、天皇は、憲法改正を裁可した。11月3日、日本国憲法が公布された。同日、貴族院議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、宮城前では天皇・皇后が臨席して「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。
1947年(昭和22年)5月3日に、日本国憲法は施行された。同日には、天皇臨席の下、皇居前広場で「日本国憲法施行記念式典」が開催された。1948年(和暦??年)には、5月3日は憲法記念日とされ、「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。」ための国民の祝日とされている。
占領下における日本国憲法の効力
日本国憲法が1947年5月3日施行されたものの、日本が独立を回復する1952年4月28日まで、占領下であったことから完全な効力を有していなかった。最高裁は、1953年4月8日の大法廷判決(刑集7巻4号775頁)において、日本国の統治の権限は、一般には憲法によって行われているが、連合国最高司令官が降伏条項を実施するためには適当と認める措置をとる関係においては、その権力によって制限を受ける法律状態におかれているとして、連合国司令官は、日本国憲法にかかわることなく法律上全く自由に自ら適当な措置をとり、日本官庁の職員に対し指令を発してこれを遵守実施することができるようにあったと判断している。そして、いわゆるポツダム命令の根拠となった「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号)について、憲法の外で効力を有したものと判断している。
その意味で、日本国憲法が完全に効力を有するようになったのは、1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約の発行により、日本に対する占領が終了したときということができる。
さらに、主権回復時に米軍の占領下にあった地域(すなわち奄美、小笠原、沖縄)について、憲法の効力が完全に及ぶまではさらに時間を要し、その返還のときすなわち奄美(1953年12月25日)、小笠原(1968年6月26日)、沖縄(1972年5月15日)となった。そして、日本政府が実効支配していない、北方領土及び竹島については、憲法の効力は未だ完全に及んでいないことはいうまでもない。
議論
成立の法理
日本国憲法の制定過程において瑕疵があるか否か、また、その瑕疵があるとして、これがため憲法自体が無効とされるか否かについても議論がある。関連項目一覧や記事中リンクなども別途参照されたい。
大日本帝国憲法の改正の限界
日本国憲法は、大日本帝国憲法に定める改正手続(第73条[35])を経て成立している。しかし、その内容において、主権(統治権)が「天皇」から「国民」へ移っているため、憲法改正には一定の限界があるとする立場(憲法改正限界説)からは、日本国憲法は大日本帝国憲法の改正憲法ではなく、全く新しい別個の憲法であり、しかも、それは、国民自らが制定した民定憲法であるとする。
この点について、憲法改正限界説に立ちつつ、これを整合的に無難に説明する見解としては、八月革命説がある。この説は、天皇及び日本政府が1945年(和暦??年)8月にポツダム宣言を受諾したことで、国民の憲法制定権力を認めて主権の所在が変更し、法学的意味での革命が行われたとする。その結果、大日本帝国憲法は、改正条項も含めて、ポツダム宣言の趣旨と矛盾する限りにおいて失効した。にもかかわらず大日本帝国憲法の改正手続を用いて新憲法を制定したのは、新旧両憲法の間に法的連続性の外観を与えることにより、急激な価値転換により惹起される混乱を予防しようとする政策的意図によるものと説明する[36]。
また、憲法改正無限界説によれば、改正手続きが正しく行われれば主権の所在を変更することも可能であるから、主権が移動したこと自体は特に問題とされない。なお、憲法改正無限界説に立ちつつ、日本国憲法は、その制定過程から見て大日本帝国憲法の全部改正であって新憲法の制定ではなく、欽定憲法であって民定憲法ではないとする見解もある(全部改正説)[37]。
この点について、日本政府は、憲法改正限界説・無限界説のいずれに立つか明示することなく、「日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続によって有効に成立したものであって、その間の経緯については、法理的に何ら問題はないものと考える。」と表明している[38]。
占領軍の関与
日本国憲法は、アメリカ合衆国軍を中心とする連合国軍が日本を間接統治していた1946年(和暦??年)に公布され、翌1947年(和暦??年)に施行されている。さらに、その立案・制定過程においても、連合国軍総司令部が大きく関与している。このため、改正作業が行われている最中から、占領軍による憲法改正作業への介入に異議が唱えられ、日本国憲法の成立後も、同憲法は国際法上無効ではないかという押し付け憲法論が唱えられた。この立場には、日本国憲法はその制定手続と内容から無効であるとする説、または、日本国憲法は占領下では効力を有するとしても、占領終結によって失効すべきものであるとする説がある。この点については、ハーグ陸戦条約43条との整合性が問題とされている。
ハーグ陸戦条約第43条は、次のように定めている。
- 第43条
- 国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法規を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施し得べき一切の手段を尽くすべし。(原文は旧字体、カタカナ書き。)
この定めによれば、日本国憲法は、占領という異常事態の下で、しかも、占領軍の圧力に屈して制定されたものであるから、同条に違反し、日本国憲法は無効であるとする[39]。こうした主張に対しては、ハーグ陸戦条約は交戦中の占領軍にのみ適用されること、日本の場合は交戦後の占領であり、したがって、原則としてその適用を受けないこと、仮に適用されるとしても、ポツダム宣言・降伏文書という休戦協定が成立しているので、特別法は一般法に優先するという原則に従い、休戦条約(特別法)が陸戦条約(一般法)よりも優先的に適用されることなどが指摘されている[40]。
なお、日本政府は、この点について、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則中の占領に関する規定は、本来交戦国の一方が戦闘継続中他方の領土を事実上占領した場合のことを予想しているものであって、連合国による我が国の占領のような場合について定めたものではないと解される。」と答弁している[41]。
制定過程に外国人(強いていうならば占領軍)が関与した点については、議論が今もなお続いている。もっとも、新憲法成立後多くの国民がそれを支持し、朝鮮戦争時に改正を打診された政府も「その必要なし」と回答、さらに新憲法下で数十年にわたって無数の法令の運用がなされた今、憲法は無効だという主張は少数となった。憲法は慣習として成立したと説明されることもある。一方で憲法改正におおいに関与したアメリカは1956年6月14日の上院外交委員会秘密会で国務次官補ロバートソンがハンド議員の質問に答え、アメリカが押しつけたものだと証言した。また、駐日大使を務めた、エドウィン・O・ライシャワーは著書の中で「日本人自身によって制定されたものではなかったのだ。」としている。
なお、極端なものだが、マッカーサーを事実上天皇の摂政であったとし、(当時は有効であった)大日本帝國憲法第七十五條の摂政をおいた期間での憲法・皇室典範変更を禁じる条文に反する[42]ので、現在の憲法は当時の憲法に違憲であり無効ではないかという意見要出典がある。一般にマッカーサーは摂政とはみなされていない。摂政及び国事行為臨時代行は、成年に達した皇族が1.皇太子、皇太孫2.親王及び王3.皇后4.皇太后5.太皇太后6.内親王及び女王の順位で就任する。
憲法改正手続
日本国憲法の改正のための要件は、第96条に規定されており、通常の立法のための要件よりも加重されたものとなっている(硬性憲法)。それによれば「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」に基づき国会が憲法の改正を発議し、国民投票による「その過半数の賛成」による承認を必要とするものとされている。当該国民投票を実施するための細則については新たに法令によりこれを定める必要がある(2007年日本国憲法の改正手続に関する法律が制定された)。
そのほか各種の議論
- 基本理念についての議論
- 基本的人権の尊重に関して
- 天皇は元首か - 第1条、元首
- 女帝、生前退位は認められるか:憲法上は触れられていない。- 第2条、皇室典範。
- 国家安全保障上の不備 - 第9条
- 私学助成の制度は第89条に違反しているのではないか。 - 私立学校振興助成法
- 検察官の無罪判決に対する上訴は第39条の二重の危険の禁止に反しているのではないか。
憲法典に述べられていない問題
日本の憲法の主たる法源は、日本国憲法(形式的意味の憲法)である。ここでは、日本国憲法には述べられていない憲法上の問題について述べる。
領土
ゲオルク・イェリネックのいう国家の三要素のうち、国民 (Staatsvolk)・国家権力 (Staatsgewalt) に関して日本国憲法は論じているが、国家領土 (Staatsgebiet) に関しては、日本国憲法は沈黙している(これは比較憲法的には異例に属する)。日本国の領土を決定する法規範は、主として条約にある。
なお、大日本帝国憲法も、国家領土については沈黙していた。このため、帝国憲法施行後に獲得された領土については、憲法の場所的適用範囲が問題となった。これについては、肯定説・否定説・折衷説が対立した。
国家の自己表現
いわゆる国家の自己表現 (Selbstdarstellung des Staates) について、日本国憲法は規定していないが、比較憲法的には珍しいケースである。主な法源として、次のようなものがある。
- 日本国の国家体制、国号、政体に関する規定(ex.日本国は自由と民主主義に基く立憲君主国である、など)。
- 国旗国歌法:日本国の国旗は日章旗、国歌は君が代であることを規定している。
- 元号法:元号は政令で定めるべきこと、元号は皇位継承があった場合に限り改めること(一世一元の制)を規定している。
- 国民の祝日に関する法律
- 首都に関しては、1950年(昭和25年)の首都建設法がある(ただし、1956年に廃止)。
日本国憲法の解釈
日本国憲法は硬性憲法(改正のための要件が法律に比して厳しい)であるため、裁判所の判断(判例)のもつ重要性はより高いといわれる。
注釈・出典
- ↑ なお、この場合であっても、根本原則に関わる条文の改正は「憲法の破壊に繋がる」ため、改正される事はないと解されている。
- ↑ 国立国会図書館、「日本国憲法の誕生」、ポツダム宣言受諾に関する交渉記録
- ↑ 同、ポツダム宣言受諾に関する交渉記録
- ↑ 同、近衛国務相・マッカーサー元帥会談録 1945年10月4日
- ↑ 同、昭和20年10月11日付「幣原首相ニ対シ表明セル「マクアーサー」意見」
- ↑ 同、近衛文麿の憲法改正要綱
- ↑ 同、佐々木惣一「帝国憲法改正ノ必要」 1945年11月24日
- ↑ 同、松本国務相「憲法改正私案」
- ↑ 同、松本国務相「憲法改正四原則」 1945年12月8日
- ↑ 同、松本委員会「憲法改正要綱」と「憲法改正案」
- ↑ 同、各政党の憲法改正諸案
- ↑ 同、憲法研究会「憲法草案要綱」 1945年12月26日
- ↑ 同、高野岩三郎の憲法改正案
- ↑ 同、1946年2月1日付「憲法改正権限に関するホイットニー・メモ」
- ↑ なお、訳文は「高柳賢三ほか編著『日本国憲法制定の過程:連合国総司令部側の記録による I』有斐閣、1972年、79頁」参照。
- ↑ 国立国会図書館、「日本国憲法の誕生」毎日新聞記事「憲法問題調査委員会試案」 1946年2月1日
- ↑ 同、1946年2月2日付「毎日新聞記事「憲法問題調査委員会試案」に関するホイットニー・メモ」
- ↑ 同、マッカーサー3原則(「マッカーサーノート」) 1946年2月3日
- ↑ 訳文は、「高柳賢三ほか『過程 I』99頁」を参照。
- ↑ 国立国会図書館、「日本国憲法の誕生」GHQ草案 1946年2月13日
- ↑ 同、GHQ草案手交時の記録
- ↑ 同、松本国務相「憲法改正案説明補充」 1946年2月18日
- ↑ 同、日本国憲法「3月2日案」の起草と提出
- ↑ 同、GHQとの交渉と「3月5日案」の作成
- ↑ 同、「憲法改正草案要綱」 の発表
- ↑ なお、アメリカ国務省およびその出先機関である総司令部政治顧問部は、「3月6日案」の内容を事前に知らされていなかった。国務省は草案を批判的に検討し、起草作業にあたったアルフレッド・ハッシー中佐が反論している(「憲法改正草案要綱」に対する国務省の反応)。
- ↑ 3月20日には極東委員会が、マッカーサーに対し、憲法草案に対する極東委員会の最終審査権の留保と、国民に考えるための時間を与えるため総選挙を延期することなどを要求している。これに対して3月29日、マッカーサーは、極東委員会の総選挙延期要求を拒否する返電を打った。さらに5月13日、極東委員会は、3点からなる「新憲法採択の諸原則」を決定した。その原則とは、(1)審議のための充分な時間と機会を与えられること、(2)大日本帝国憲法との法的連続性をはかること、(3)国民の自由意思を明確に表す方法により新憲法を採択することの3点。
- ↑ 国立国会図書館、「日本国憲法の誕生」口語化憲法草案の発表
- ↑ 同、口語化憲法草案の発表
- ↑ 衆議院における修正点のうち、重要なものは次の通り。(1)前文、1条の国民主権の趣旨を明確化、(2)44条但書きに「教育、財産又は収入」を加えて普通選挙の趣旨を徹底、(3)67条、68条に関して、内閣総理大臣は国会議員の中から指名すること、国務大臣の過半数は国会議員の中から選ぶものとし、その選任についての国会の承認を削ったこと、(4)9条1項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言を加え、2項冒頭に「前項の目的を達するため」の文言を加えたこと、(5)第3章に関して、10条の「国民の要件」、17条の「国家賠償」、30条の「納税の義務」、40条の「刑事補償」の規定を新設し、25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」との規定を加えたこと、(6)98条に国際法規遵守に関する2項を追加したこと。このうち、(1)(2)(3)は総司令部の要請によって修正された点であり、(4)(5)(6)は衆議院の自発的な修正である。この点につき、「野中俊彦ほか著『憲法 I』有斐閣、2006年、59頁」を参照。
- ↑ 穂積七郎、細迫兼光、柄澤とし子、志賀義雄、高倉輝、徳田球一、中西伊之助、野坂参三
- ↑ 貴族院における修正点のうち、重要なものは次の通り。(1)15条に、公務員の選挙について、成年者による普通選挙を保障する規定を加えたこと、(2)66条に、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないとの規定を加えたこと、(3)59条に、法律案について両院協議会の規定を追加したこと。このうち、(1)(2)は総司令部の要請によって修正された点、特に(2)は総司令部が極東委員会の要請を受けて日本政府に追加修正を求めた点であり、(3)は貴族院の自発的な修正である。この点につき、「野中ほか『憲法 I』60頁」を参照。
- ↑ この節、「野中俊彦ほか著『憲法 I』有斐閣、2006年、150頁」を参照。
- ↑ 総司令部や極東委員会の内部では、芦田修正により「日本が defence force を保持しうる」とする見解が有力であった。
- ↑ 大日本帝国憲法 - 第七十三條:将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ。此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス
- ↑ 宮沢俊義『憲法の原理』岩波書店、1967年。375頁以下。
- ↑ 佐々木惣一『改訂日本国憲法論』有斐閣、1952年。71頁以下。
- ↑ 1985年(和暦??年)9月27日提出、「森清議員提出日本国憲法制定に関する質問主意書」に対する答弁書。本答弁書は、自由民主党に所属する衆議院議員の[[森清 (愛媛2区)|]]が提出した質問主意書に対して、中曽根内閣が決定したものである。質問の内容は「明治憲法の根幹は『天皇統治』であり、新憲法は、『国民主権』となっている。このように、憲法体制の根幹の改変は、その憲法の改正手続によってはできないのではないか。」というもの。
- ↑ 相良良一「現行憲法の効力について」公法研究6号25頁以下、1957年、参照。
- ↑ 芦部信喜『憲法学I 憲法総論』有斐閣、1992年。187頁。
- ↑ 上掲、1985年(和暦??年)9月27日提出、「森清議員提出日本国憲法制定に関する質問主意書」に対する答弁書。この答弁書は、森清議員の「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ条約)第43条は、次の如く規定している。(条文省略)憲法改正について占領軍総司令官のとった行為は、この条項に違反しているのではないか。」という質問に対して決定された。
- ↑ 大日本帝国憲法 - 第七十五條: 憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス
関連書
- 『比較憲法』現代法律学全集 樋口陽一 青林書院 ISBN 9784417010753
関連項目
用語
制度・組織
法律・条約
その他
発行物
- 切手
- 特殊切手として1947年5月3日、日本国憲法施行記念として50銭、1円、そして両方が無目打ちで印刷された小型シートが発行された。
外部リンク
- リンク集/日本国憲法 - 日本国憲法に関するリンク集
- 日本国憲法の誕生 - 国立国会図書館
- 特別展示。憲法制定当時の背景などを解説しているほか、各種の草案、議事録などの重要文書がスキャン画像やテキストデータとして提供されている。
日本国憲法 |
全文 : 新字体(総務省・法令データ提供システム) | 原本(国立公文書館) |
上諭 | 前文 | 第1章 天皇 1 2 3 4 5 6 7 8 | 第2章 戦争の放棄 9 | 第3章 国民の権利及び義務 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 | 第4章 国会 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 | 第5章 内閣 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 | 第6章 司法 76 77 78 79 80 81 82 | 第7章 財政 83 84 85 86 87 88 89 90 91 | 第8章 地方自治 92 93 94 95 | 第9章 改正 96 | 第10章 最高法規 97 98 99 | 第11章 補則 100 101 102 103 |
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