部落問題
部落問題(ぶらくもんだい)は、日本における部落団体などが、差別を受けたと主張する問題の総称である、現代では世系差別と地域に対する差別を同和問題という。
目次
「部落」の概念
「部落」は本来「集落」の意味であるが、歴史的にエタ村あるいはエタ(穢多)と称された賤民の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などと呼んだ事から、この呼び名が定着した。
現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする自治体もある。なお年配者や東日本などでは現在でも日常的に差別などの意味を持たない「集落」「地区」などの用法で「部落」という言葉を用いている。
呼称の変遷
近現代に「部落」の語が用いられるに伴い、「地区」の意味での「部落」と混同されないよう部落民自らが「特殊部落民」と称するようになった。なお、「特殊部落」の語の初出は小島達雄の研究によれば1902年「明治三四年度奈良県学事年報」である。しかし「特殊部落民」との呼称も蔑称として使われたことから、「細民部落」「被圧迫部落」「未解放部落」「被差別部落民」などの呼び方に換えられた。
歴史学者井上清が1954年の論文で、従来使われていた「特殊部落」「未解放部落」の語に代わって「被差別部落」の語を考案した。なお井上は、部落問題研究所理事として運営にも関わる等、部落解放運動に積極的に関わっていた。
蔑称として「部落民」「特殊部落民」ほか、近年は「同和行政」という語に由来して「同和」が使われる事もある。
灘本昌久は、1968年頃以降、共産党系は「未解放部落」、部落解放同盟系は「被差別部落」、行政関係者は「同和地区」(2002年の地対財特法失効後は「旧同和地区」)を用いる傾向があるが、近年は共産党系も「同和地区」(「旧同和地区」)で統一している、と指摘している。
旧身分
近世起源説では「江戸幕府が大多数の農民を支配するために、宗教的理由で忌避されていた食肉皮革産業や廃棄物処理、風俗業界、刑吏等の賎民を身分支配のため固定化し、代わりに独占権益を与えたことに始まる」としている。
なお、「部落差別」という呼び方から「集住している人々」に対する差別であるという受け止め方が多いが、これは必ずしも正しくなく、地域的に差が見られる。都市部や農山漁村部を問わず集住している場合が少なくないものの、被差別でない集落の近隣に単独若しくは少数で暮らしている場合もある。
歴史
起源
部落の起源論争参照
被差別部落の起源については諸説が存在し、未だ意見の統一を見ていない。
政府が同和対策に取り組み出した1960年代からおおよそ1980年代の頃までは「近世に幕藩権力が無から全てを作り出した」といういわゆる「近世政治起源説」が信じられていたが、これが学術的に否定されたことによって、現在では中世以前の様々な要素を踏まえた上でその起源についての考証が行われている。
身分制度は社会的地位であり、本来血統とは違っていた。江戸時代以前にも当然存在したが、江戸幕府による政権安定化のための身分世襲化が進んだ。身分制度は儒教的な思想の影響を受け、社会的役割の固定化によって安定がもたらされると考えられていた。
なお、「士農工商」と呼ばれる4身分がよく知られているが、実際はそれ以外にも多種の身分が存在していた。 士と農工商の間に大きな身分的格差があるのであって、農工商の三つについてはほぼ同列だと考えられている。これを平民あるいは平人として一括する意見もある。その下にいわゆる「穢多・非人」と呼ばれた階層があった。大きな線、区別は士と農工商、農工商とその下の「穢多・非人」との間にあった、ということが明らかになってきている。
田中圭一は、「本来、士・農・工・商は職分であり、そのような職分を身分制度として説明すること自体がばかげているのであるが、書物はいまもそれを変えることをしない」と述べている。
身分制度の廃止
1871年に明治政府により「穢多非人等ノ稱被廢候條 自今身分職業共平民同様タルヘキ事」との布告(解放令)が出され、以前の身分外身分階層が廃止されたことが明示された。しかし、近代市民社会の産業革命を成し遂げた欧米列強に見習う部分が多く、一部の知識階級でのみその必要性が理解されたに過ぎない。
そのため多くの村々では穢多や非人と同列に扱われるのには反対が強く、解放令発布直後から2年以上にわたって解放令反対一揆が続発した。解放令に反対して部落民を排除する取り決めを行ったり、部落民を「新平民」と呼ぶことにさえ拒否し、旧来どおり「穢多」と呼んだりした。これに対し県レベルの行政では解放令直後に「旧穢多」という言い方が用いられ、後には「新民」「新平民」「新古平民」というものも出てきたが、一方部落民が「新平民」を自称することもあった。
あるとき滋賀県大津の郡役所で村長会議が催された席上、特殊部落改善が話題になったとき、一村長は、「明治4年に解放令など出さずに、穢多を“皆殺し”にしておけば、禍(わざわい)はなかったものを」と放言している。
解放令によって法的な地位においては身分職業の制限は廃止されたが、精神的・社会的・経済的差別は却って強まった。たとえば新制度における警察官などが武士階級のものとされ、下層警察官僚であった身分外身分の者が疎外されたこと、武士(特に上層の武家階級)が新制度においても特権階級とされたのに対し、武士に直属し権力支配の末端層として機能してきた身分外身分がなんら権限を付与されずに放り出されることによって、それまでの支配の恨みを一身に集めたこと、などが原因と考えられている。
また現代に続く「部落差別」の問題の制度的源流は歴史的なものであるが、具体的な差別構造の成立は明治政府の政策や民衆に根付いた忌避感の表れであるとみる者もいる。
差別の具体的な形態は、個人においては交際や結婚や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別部落では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。島崎藤村の「破戒」は、この時代の部落差別を扱っている。
また、1896年(明治29年)歌舞伎座初演の『侠客春雨傘』では登場人物の侠客釣鐘庄兵衛を被差別階級出身者とし、第五幕の「釣鐘切腹の場」で九代目市川團十郎の演じる暁雨が庄兵衛を諭す科白に「ハテ野暮を言う女だなア。穢多だろうが、大名だろうが、同じように生を受け、此世界に生まれた人間、何の変わりがあるものか。それに差別(しゃべつ)を立てたのは此世の中の得手勝手」(『名作歌舞伎全集』・第十七巻)がある。作者福地桜痴が欧米の平等思想を学んだ影響が見られ、舞台芸術で差別問題を扱った最初の例である。
佐賀市外に神野の御茶屋というのがある。旧藩主の郊外別園であったが、お茶屋付近の若者は部落民に出入りさせない。ある年花見に来た部落民は、“身のほど知らずの生意気(なまいき)な奴だ”と入園を拒(こば)まれ、血みどろにされた。
部落民の心理的発達は極めて暗い。ながい間、部落民は卑屈にされていた。部落民に対する侮辱は まず個人的な反逆となって現れてくる。大兇賊として知られた“五寸釘寅吉”はその代表的なものである。彼が殺人二十余人強盗三百二十余回の犯行を敢(あえ)てするに至った動機は下駄直しの職業を侮蔑されて憤り、商売道具を川に投げこみ賭博に入ったことにある。
水平社運動
このような状況を改善するためにかつての賤民階層の人々(いわゆる「部落民」)は、自主的な運動を始め、差別糾弾・行政闘争を軸に運動を展開した。「部落問題が社会不安の原因になることを憂慮」した政府はこれらの運動が「左傾化」する事を怖れ、弾圧と懐柔の両面で相対した。もっとも水平社は当初、「帝国臣民である以上、天皇の赤子として共に報国の権利と義務があり、それを差別により侵害するのは不当である」という意味の宣言をしていた。
国民の融和を目的とし、人権侵害の防止に積極的でなかった政府の運動に反発した西光万吉、阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国水平社が結成された。そして「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる創立宣言で「全國に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。吾々が穢多である事を誇る時が来たのだ。」と宣言した。
当時は1917年(大正6年)のロシア革命の直後であり、活発化した社会主義運動はこれらの部落解放運動に大きな影響を与えた。また自由民権運動との関わりも深かった。激しい水平社の糾弾闘争は当時の人びとによく知られ、水平社がいわゆる「部落民」の代名詞となったほどである。しかし社会主義運動との連携を恐れた政府は後に水平社、特に日本共産党に関わりを持った左派を弾圧した。1920年代後半の低迷を経て、1930年代以降、再建された全国水平社総本部は、松本治一郎を中心とし、合法無産政党に連なる社民派が掌握した。1933年(昭和8年)の高松差別裁判糾弾闘争のように、大衆的な盛り上がりを見せる事もあったが、次第に戦時体制に呑み込まれていき、弱体化、太平洋戦争突入後の1942年(昭和17年)に消滅してしまった。
戦後、同胞融和ということばから部落問題を同和問題と呼ぶようになった。
戦前の同和教育開始
1942年(昭和17年)8月に文部省社会教育局は『国民同和への道』を刊行し、はじめて政府の教育方針として同和教育政策の理念・具体的方針を示した。
同和教育参照
戦後の同和対策事業
同和対策事業参照
1951年(昭和26年)、在日朝鮮人の生活を差別的に扱った小説「特殊部落」を京都市九条保健所職員が杉山清一の筆名で雑誌『オール・ロマンス』に発表し、問題となった(オールロマンス事件)。設定上の舞台である「特殊部落」は京都市内に実在する被差別部落であるが、登場するのはすべて在日朝鮮人、その「特殊部落」に住んでいれば「部落者」と呼ばれ差別されるが地域を離れればそうでなくなるという、地域の実情や差別の様態とは懸け離れた内容で、地域の住民たちは事実を歪めて興味本位に書いた差別小説として京都市に対して抗議を行った。京都市役所内部に形成されていた左翼グループはこの問題を部落に対する行政上の措置の不十分さから起きた事件として扱うよう図り、水平社運動と融和運動の活動家が大同団結して結成された部落解放全国委員会京都府連は彼らと連携して、「小説は京都市が放置してきた被差別部落の実態を反映したものだ」として行政を批判した。翌年、京都市は前年比5.8倍の同和問題対策予算を計上し、被差別部落のインフラの改善を積極的に推進した。これ以降、部落差別撤廃のための行政闘争が活発化していった。
部落解放同盟(部落解放全国委員会から1955年(昭和30年)に改称)や全日本同和会(旧融和運動系の活動家が解放同盟から離脱して結成された運動団体、保守系)の働きかけと自民党と日本社会党との間で合意が形成された結果として、1969年(昭和44年)に同和対策事業特別措置法が10年間(後に3年間延長)の時限立法で制定された。また、1982年(昭和57年)には地域改善対策特別措置法が5年間の時限立法で制定された。このように部落解放同盟を始めとする各運動団体は行政に強く働きかけ、同和地区のインフラの改善、精神的な部分での差別を解消するための教育などを推進していった。「同和地区」と呼ばれる地域が出てくるのはこれ以降であるが、運動が盛んでない村では指定によりさらに差別を招くのではという恐れから、地区指定を受けずに同和対策事業を受けなかった例も多い。
教育や社会基盤の格差の是正のための各種同和対策事業については、「部落以外の人に比べ優遇されている」(逆差別)と主張されるが、これらの措置はアメリカで女性や黒人、先住民などの雇用や教育に適用されている積極的差別是正措置とも捉えることが出来る。
一連の同和対策事業の一部は1987年(昭和62年)3月31日に新たな時限立法「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」などにより延長されたが、2002年(平成14年)にそれらが期限を迎え、国による同和対策関連事業は終了した。
教科書の無償化運動
1961年(昭和36年)、高知県の同和地区の父母が、学習会において日本国憲法を学んでいたが、第26条に「義務教育は、これを無償とする」と言う条文を見つける。この事で、それまで有償だった教科書に疑問を呈し「義務教科書の無償提供運動」を興した。
結果、1963年(昭和38年)「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」が成立し1969年(昭和44年)までに順次、全国の小中学校の教科書が無償提供されることになる。
八鹿高校事件
八鹿高校事件参照
1974年(昭和49年)11月22日、兵庫県養父郡八鹿町(現養父市)の八鹿高等学校の教職員約70名と解放同盟や総評系労組で構成された八鹿高校差別教育糾弾共闘会議が衝突する事件が起こった。この事件により48名が負傷し、29名が入院、危篤を含め2か月から1週間のけがを負ったとされる。
同和事業に関わる不正・腐敗
同和対策事業の伸展に伴い、同和地区の環境改善は画期的に進んだが、巨額の予算の執行に伴い、それに関わった行政当局者、運動団体関係者による不正・汚職行為が少なからず発生し、マスコミを賑わせることがたびたびあった。とりわけ1981年(昭和56年)の北九州土地転がし事件、2001年(平成13年)に表面化したモード・アバンセ不正融資事件などに、運動団体の幹部が関与していたことが報道されている。
2006年(平成18年)、奈良県、京都府、大阪府で同和対策事業に関する不正が数多く発覚し、各自治体は同和対策の見直しを発表。奈良県では部落解放同盟奈良県連古市支部の幹部が、奈良市職員でありながら架空の病気を理由にほとんど出勤せず、給与を詐取していた。
2008年(平成20年)鳥取県では、部落解放同盟鳥取市協議会の元会計責任者が架空の人権コンサートをでっちあげて平成17年度の市教委の補助金50万円を不正受給していた。
また、関係者の自作自演による差別事件なども複数発覚している。これは実際には差別事件など起こっていないにもかかわらず、さも差別事件が発生しているように見せかけた悪質なもので、滋賀県公立中学校差別落書き自作自演事件や解同高知市協「差別手紙」事件などがその一例である。これは、現在でも行われており、2009年(平成21年)7月7日には、福岡県で、同和地区の出身者である立花町(現・八女市)の嘱託職員の男が、自宅にカッターナイフの刃を同封した差別的な文書を、町役場にも差別的な記述があるはがきを匿名で送るという事件が発生した。「被害者になれば町が嘱託の雇用契約を解除しにくくなると思った」と男は話しており、県警は偽計業務妨害の疑いで逮捕した。
2009年(平成21年)、福岡県では、2月、立花町役場に採用された被差別部落出身の男性から、県議に、「差別問題を県議会で取り上げてほしい」との電話があった。2003年(平成15年)からこの男性に対する44通の差別的なはがきが役場などに郵送されていた。県議は、電話を受け、県警に徹底捜査を要請した。しかし、3ヵ月後、逮捕されたのは「被害者」であるはずの男性だった。この男性は44通すべての関与を認めており、会合で話をして、講演料まで受け取っている。県警は町に雇用を継続させることが目的だったと見ている。
現在の部落差別
かつて問題となった所得格差やインフラストラクチャー整備の遅れ、進学率の違いは住宅改善事業などの同和対策事業により指定地区ではかなり解消され、若い世代では差別意識は薄れてきている。しかしながら、身元調査が行われている事を背景に過去に被差別部落の闇リスト(特殊部落「地名総鑑」など)が会社の人事担当などを対象に売られる事件が度々起こっている。また大手企業を中心に200社が企業防衛懇話会を発足させ、従業員採用の情報交換などを行っていた。結婚や就職、地域交流に関わる差別は当事者の判断にかかる事柄であり差別事象は多い。また、部落差別解放問題に取り組む団体の関係者(主に行政と地域との間のパイプ役となっている団体役員)による不正行為の発覚、路線の対立する各団体同士間のイデオロギーの差異に端を発する対立によるトラブルなど、違う類の問題も表面化している。
少なくとも高度経済成長による人口の大移動、それに伴う都市近郊の開発・移転によりかつての被差別部落地区が薄れたり、新しく移入してきた住民の間で忘れ去られていく傾向は多い。また各種運動の結果として差別意識が改善している部分も大きい。現在も義務教育の過程の中で、平等主義的な意味で、被差別部落についての教育が行われることがあるが、「寝た子を起こすな論」では「そもそも被差別部落の意味を理解していない(実体験として被差別部落が何であるかを知らない)子供に単に「部落」という言葉が差別語であるという意識を植え付けている」と主張されている。
一方、従来の「周囲の差別的な視線により移転の自由がままならず、同じ血筋の人が代々住み続けているところ」との一般的な部落に対するイメージとは異なり、京都市、大阪市などに多数存在する都市部落では、人口の流出入が極めて活発であり、社会的地位の上昇を果たした階層が転出していき、その代わり社会的に低位な層が転入してくるという循環構造が形成されていることが近年明らかになってきている。近い将来、それらの地区では、新たな貧困と、それに起因する様々な社会的問題を抱えることになるのではないかと懸念されている。早期に同和対策事業が開始された地域では、その一環として取り組まれた社会資本の老朽化が顕著になっているほか、すでに地区住民の実情に合わないものになっており、その対処を巡り新たな課題が発生していると指摘されることもある。
政界においては野中広務が被差別部落出身として有名であるが、出身に起因する差別や妬みなどがあったと言われている。2001年の総裁選では、部落出身であるから総理にはなれないという話も出てきていた。こうした中、野中は同党の麻生太郎が差別発言を行った(野中の著書によれば、新聞記者からの情報があったとされている)として名指しで非難し、麻生が否定するという一幕もあった。
部落問題とマスメディア
部落問題は、現代の日本において一種のタブーであると言われる。そのためマスメディアなどで正面から取り上げられることは少なく(真面目に取り上げられるのは朝まで生テレビなど少数)、また公の場で部落問題を語ることは大きな論争の原因となることが多い。
「部落」という言葉自体も、事実上の放送禁止用語となっており、出演者が「集落」の意味での部落という言葉を使った時でさえ、すぐに謝罪訂正、もしくは「集落ですね」などとその場で言い換えられる。しかし最近では、本来の「部落」の意味や過剰な自主規制への反省からか、特に何事も無く放送が進む場合が多い。
21世紀に入って『同和利権の真相』(寺園敦史、一ノ宮美成、グループK21著・別冊宝島Real、宝島社文庫)というシリーズが発表された。既に累計50万部前後のベストセラーとなっている。また、本書で取り上げられたハンナン株式会社の浅田満元会長が2004年(平成16年)4月17日にBSE対策の補助金詐取の嫌疑で逮捕された。
なお、『同和利権の真相』で主要な批判の対象とされている部落解放同盟の公式見解として公表された反論文や、宮崎学、角岡伸彦など解放同盟外の論者らの同書への批判を眼目とした反論本『『同和利権の真相』の深層』(解放出版社)がある。
部落差別の実状
結婚差別
部落出身者と結婚すると血縁関係が生ずるため、「自分の家系(息子、娘)の血が穢(けが)れる」からと反対する家族(親戚なども)が多くいた。内密に身元調査や聞き合わせを行い、部落出身者と分かると結婚を許さない例や、好きな人と一緒になることに大変大きな妨げがあった。そのため部落民は部落民同士で結婚する事や、仮に部落外の人と結婚できたとしても、それは親族の祝福がない駆け落ちであったりする事が多かった。
また、結婚差別に遭い、自ら命を絶つ者も多くいた。今でも、その傾向は少なからずあり、露骨に反対する場合・それ以外の理由に託けて反対する場合の両方がある。この問題があるため、現在はどの探偵業者も、“差別につながる身元調査はしません”と広告(主として電話帳)に注記している。
就職差別
1975年(昭和50年)11月に、被差別部落とされる地域を一覧で記した本が興信所などにより作成され購入者の人事部に配備したとされる「部落地名総鑑事件」が発覚した。しかし法務省人権擁護局は、被差別部落ではない地名も含まれている、としている。
差別とされた表現の例
- 1956年(昭和31年)1月、小説家石上玄一郎が『朝日新聞』文化欄に発表した評論の中で「文壇には、特殊部落的偏狭さがみちみちている」と記述。これに対して部落解放同盟が朝日新聞社を糾弾。朝日新聞社は「今後、部落問題をタブー視せず、前向きに差別の現実を書く」ことを約束した。
- 1962年(昭和37年)、小説家灰谷健次郎が短編小説『笑いの影』(『新潮』1962年12月号)で被差別部落出身の中学生による暴力・セックス・強姦・殺生・犬肉食などを描く。この作品における、被差別部落出身の中学生の台詞「どうせオレたちは差別教育を受けて、ドカチン(土方)か、アンパン(日雇)になるんだ。センコにおべんちゃらをして泣きついて、せいぜい町工場に就職させてもらうんじゃわりにあう話やない。暴れるだけ暴れてよオ、したいことをして出ていってやる」などが部落解放同盟から「少年非行を通して権力の姿を浮き彫りにするという図式を装いつつ、その実やたらと暴力的な行動と、やたらと猟奇的な行動を、卑俗な興味の中で描こうとした」「いわれもない差別の中に生きている人たちの実態が何もなく、恣意的にしかも偏見に満ちて描かれている」と批判され、糾弾に至った。
- 1962年(昭和37年)7月、劇画家平田弘史が劇画『血だるま剣法』(日の丸文庫)で江戸時代の被差別部落出身剣士の復讐を描く。このため、「部落民を残酷な人々と描くことで部落解放運動をゆがめている」等の理由により部落解放同盟大阪府連合会の糾弾を受け、同書は発売後1ヶ月で回収・絶版に追い込まれた。
- 1967年(昭和42年)1月と2月、小説家で精神科医のなだいなだが『毎日新聞』朝刊の人生相談欄『悩みのコーナー』にて、結婚差別を受けたという部落出身女性の投書に対して「部落民という考えは、内部の劣等感によって支えられている」「小さなつまらぬ悩みだ」と回答したところ、部落解放同盟が糾弾に乗り出した。
- 1969年(昭和44年)、経済学者大内兵衛が、岩波書店刊行の雑誌『世界』3月号に論文「東大は滅してはならない」を発表。この論文における「大学という特殊部落の構造」という表現が部落解放同盟によって追及され、執筆者大内と岩波書店が糾弾を受けた。『世界』3月号は回収処分となり、編集部と大内が同誌の4・5月号に謝罪文を発表。
- 1969年(昭和44年)、評論家竹中労が、『週刊明星』連載の「書かれざる美空ひばり」で「ひばりの歌声は差別の土壌から生まれて下層社会に共鳴の音波を広げたこと、あたかもそれは、世阿弥、出雲のお国が賎民階級から身を起こした河原者の系譜をほうふつとさせる。……ひばりが下層社会の出身であると書くことは『差別文書』であるのか」と書き、部落解放同盟大阪府連に糾弾された。
- 1970年(昭和45年)、児童文学者今江祥智が長篇童話『ひげのあるおやじたち』(福音館書店)の中に非人を登場させ、「非人たちは、いつもどこか死人のにおいがした」(pp.112-113)、非人部落の描写として「なんともかともいえぬにおいが、下のほうからむっとのぼってきたのだった。目のなかにまでしみるようなにおいだった」(p.116)などと記述。これらの表現が部落差別を助長しているとされたため、今江は部落解放同盟から糾弾を受け、1971年(昭和46年)4月、『日本児童文学』誌に「わたしの中の"差別"」と題する反省文を発表。『ひげのあるおやじたち』は直ちに絶版・回収・裁断処分となり、2008年(平成20年)に『ひげがあろうが なかろうが』に併録される形で解放出版社から復刊されるまで公刊されなかった。
- 1973年(昭和48年)7月19日、司会者玉置宏がフジテレビのワイドショー『3時のあなた』にて「芸能界は特殊部落だ」と発言したところ、1973年(昭和48年)8月16日、部落解放同盟が玉置とフジテレビと関西テレビを相手取って確認・糾弾会を開いた。玉置は謝罪し、テレビ局側は部落問題解決のための番組作りを約束した。
- 1973年(昭和48年)9月、映画評論家の淀川長治が『サンケイ新聞』のインタビュー記事にて、自らの庶民性を示す証として、両親から近寄らないよう言われていた「特殊な部落にある銭湯にはいったこともあった」、「この貧しい人たちと液体で結ばれたと思ったのにねぇ」という経験を語ったところ、部落解放同盟が「両親の差別意識を肯定するとともに、自らのエリート意識をさらけ出すもの」「エセ・ヒューマニズム」(宮原良雄)と反撥し、糾弾に至った。この事件の後、サンケイ新聞社は1974年(昭和49年)11月から1975年(昭和50年)3月にかけて、部落問題の特集記事として『シリーズ・差別』を大阪本社発行の朝刊に連載した。淀川は、部落解放同盟大阪府連合会制作による狭山事件告発映画『狭山の黒い雨』を部落問題の視点から批評するよう約束した。
- 1979年(昭和54年)8月、曹洞宗宗務総長で全日本仏教会理事長(当時)の町田宗夫が、米国ニュージャージー州プリンストンにおける第3回世界宗教者平和会議にて、「日本に部落差別はない」「部落解放を理由に何か騒ごうとしている者がいる」「政府も自治体もだれも差別はしていない」と発言。このことが部落解放同盟から「部落解放運動の全面否定」とされ、糾弾に至った。
- 1981年(昭和56年)2月、政治学者で東京大学社会科学研究所教授(当時)の有賀弘が、ベルリン自由大学における日本学研究室の金子マーティン講師(当時)の部落問題に関する研究発表に対し、「部落問題は東日本にはない。西日本にはあるが、それは部落解放同盟と日本共産党との同和予算をめぐる金銭上のトラブル」「日本語の部落という言葉は、村落とか集落とかいう一般名詞であって何も差別を意味するものではない」と発言。このことが部落解放同盟の糾弾を招いた。
- 1982年(昭和61年)、俳優座がブレヒト原作『屠殺場の聖ヨハンナ』を上演した折、「屠殺」という表現が部落差別とされ、改題してもなお激しい糾弾に遭い、上演は困難を極めた。
- 1986年(昭和61年)、『旅の手帖』誌(弘済出版)が山陰観光キャンペーンの記事で「ミニ独立国」へ「税金」を払うと特産品が送られてくる企画を紹介。金額によって「くにびき」「オロチ」などと名付けられた金額別のコースを「平民向け」「富豪向け」「大富豪向け」と記した表現が島根県当局によって「『平民』など差別的な表現」とされ、出版社への抗議や雑誌の回収に至った。この事件は部落解放同盟広島県連合会発行の『部落解放ひろしま』5号(1986年12月)でも論評抜きに肯定的紹介がなされたが、「『平民』が『庶民』とでもいいかえられておれば、問題化しなかったのであろうが、笑止の沙汰である」「本来、解放同盟が差別の矮小化として注意を喚起すべきところ」という批判を呼んだ。
- 1988年(昭和63年)、山口県新南陽市当局が同和事業執行の必要から市営住宅に関する条例を改め、市営住宅の入居資格における「寡婦、引揚者、炭鉱離職者」という従来の制限に「その他の社会的に特殊な条件下にある者」という条項を加えた。これが部落解放同盟から「部落民を特殊な者として差別した表現」と問題視されて糾弾に発展、市当局者は「結果的に同和地区の人々にとって痛みを感じるような表現になったのは遺憾」と陳謝し、条例を改めた。これに対して灘本昌久は、「水平社時代であれば絶対に糾弾されなかったこと」「『特殊』という言葉に、これほどこだわることは驚くほかない。『特殊』の代わりに、『特別』とでも書いておけばよかったのだろうか。これを差別事件として麗々しく取り上げた『解放新聞』の記事は、運動史上の汚点のひとつである」と批判した。
- 1989年(平成元年)、ニュースキャスターの筑紫哲也が「ニューヨークの街も多分屠殺場だね」と番組で発言をした。当時、公の場で使われる差別的な言葉が問題となっていたため(批判的な意味で言葉狩りとも呼ばれた)、筑紫は「屠殺場」という言葉の使い方が不適切であったとして翌日に謝罪をした。しかし一部の屠場労組から抗議があり、部落解放同盟も加わっての糾弾会が行われた。
- 1989年(平成元年)、岩波新書の『報道写真家』(桑原史成)における「戦場という異常な状況下では牛や豚など家畜の屠殺と同じような感覚になる」という記述における「屠殺」の語句が問題とされ、回収処分となった。
- 1996年(平成8年)、講談社が発行した少女漫画誌『別冊フレンド』3月号の連載漫画『勉強しまっせ』(みやうち沙矢)の中に大阪市西成区が登場。西成について、副編集長の手により「大阪の地名。気の弱い人は近づかない方が無難なトコロ」との解説が付された。このため、みやうちと講談社は部落解放西成区民共闘会議等に糾弾された。
- 2004年(平成16年)、代々木ゼミナール講師(古文担当)の吉野敬介が講義の中で「鑑別所にランクってあるんです……俺なんか暴走族の特攻隊長のとき、入ってんだよ。鑑別所に入った瞬間に、天皇陛下級なの、ほんとに……レイプとかな、強姦なんかで入っちゃった日にゃ、な、エタ・ヒニンだ。ほんとに」などと発言。このため吉野と代々木ゼミナール法人総括本部長ら計6人が共に部落解放同盟から糾弾を受け、吉野は反省文の提出を、代々木ゼミナールは「人権研修」の実施などを要求された。
- 2005年(平成17年)、テレビ朝日系の番組「サンデープロジェクト」において、ハンナン偽装食肉事件に関する報道VTRの放映の直前に生放送中のスタジオ内で田原総一朗が「この人(浅田満)をやらないマスコミが悪いんですよ。この人が被差別部落のなんとかといってね、恐ろしがっている。何にも恐ろしくない。本当はね。それを大谷さんがやるんだよね。この人は被差別部落をタブー視しないからできる」と発言し、それを受ける形で高野孟が「大阪湾に浮くかもしれない」、うじきつよしが「危ないですよ2人とも」と発言。これらの発言を部落解放同盟が「部落への強烈な予断と偏見を視聴者に植えつける」ものと位置づけたため、糾弾に至った(サンデープロジェクト糾弾事件)。