田代まさし
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田代 まさし(たしろ まさし、本名:田代 政、1956年8月31日 -)は元タレント、アーティスト。Vシネマの監督も務めた。愛称は「マーシー」、「神」。作詞活動をする時は田代 マサシ名義で行っていた。東京都出身。血液型はA型。2007年8月現在、受刑者。
目次
来歴
デビューまで
母の地元である佐賀県に生まれるが要出典、出生後まもなくしてキャバレーのチェーン店を経営していた父がほかの女性のもとへ走ったため両親は離婚、中学時まで母との母子家庭だった。母は夜の仕事をしながら政を育て、母が留守の間は大家に預けられていた。ミッション系の幼稚園に入園、その後小学校入学直前に東京都新宿区へ転居。転居先の百人町でも母との二人暮らしをする。
政が13歳の時、母が再婚。その後間もなくして父や父の再婚相手である女性と一緒に住む事となったが、その生活になじめず素行不良が目立つようになり、酒・煙草・シンナーに手を染める。10代の頃から、かなりの悪人だったようだ。また、新宿の映画館によく通っていた。
杉並区の中学校への転校を経て、1972年4月に芝浦工業大学高等学校機械科に入学、同年の11月には早くも普通自動二輪運転免許を取得し、オートバイにも乗るようになる。高校入学直後、同校では田代以上の不良だった鈴木雅之と運命的な出会いを果たす。ソウルミュージック好きだった田代と鈴木はすぐに仲良くなり、相変わらず父との生活になじめなかった田代は、鈴木の家によく遊びに行き、鈴木の母からも家族同然にかわいがられていたという。高校生になってからも中学生時代からの素行不良は変わらず、ケンカ、暴走族、ディスコ、ナンパに明け暮れ、傷害事件で警察に留置されたこともあった。高校在学中、映画『レッツ・ザ・グッド・タイム・ロール』中に登場するドゥーワップに刺激された鈴木は、ドゥーワップグループ結成を決意。その後鈴木は高校を中退し、父の工場で働く傍ら、コーラスやダンスの練習を重ねる。当時はプロになるという考えは無かった[1]。
1975年3月、高校卒業。この時期から田代は車に凝りだし、サニー、グロリア、カマロ、フォード、プレリュード、ベンツなど、次々と車を乗り換えている。同年の6月にはついに父と大喧嘩をして、家を飛び出してしまう。直後、シャネルズのメンバー久保木博之の誘いで同じガソリンスタンドに就職し、会社の寮で暮らす事となった。この頃に大型自動車免許を取得している。3年後の1978年にはトラックの運転手に転職する。シャネルズの結成後もしばらくは運転手を続けていた。
シャネルズ
1980年に、鈴木雅之や桑野信義らと結成した和製ドゥーワップグループの「シャネルズ」の一員としてメジャーデビュー。デビューシングル『ランナウェイ』が110万枚のミリオンセラーを達成する。1980年7月、シャネルズメンバー10人のうち5人が不祥事を起こし、書類送検をされた。田代は不祥事を起こした5人のうちには入っていなかったが、シャネルズは半年間謹慎する。その後フランスの高級ブランド、シャネルから物言いがついたことで(化粧品会社のCMソングを担当することになり、シャネルというグループ名を使うことが不適切になったためという説あり)、1983年に同グループが「ラッツ&スター」と改称された後も多数のヒット曲にかかわり、『ザ・ベストテン』などの歌謡番組を通じて日本のお茶の間のお馴染みの顔となる。また、ソロデビューとしてシングル『新島の伝説』[2]をリリースし、作詞家としても小泉今日子の楽曲を手がけるなどの活動を行う。
ダジャレの帝王
その後、ザ・ドリフターズの志村けんにそのお笑いセンスを見出され、1986年頃からお笑いタレントとして芸能界に進出。その独自のお笑いセンスから「ダジャレの帝王」、「ギャグの王様」、「小道具の天才」と呼ばれ、レギュラー番組を何本も持ち、大企業のテレビCMに何本も出演するなど人気を博した。さらには自伝やダジャレ語録などの著作本の出版や、自らの名を冠したファミコン用ゲームソフト『田代まさしのプリンセスがいっぱい』の発売、原宿竹下通りの「マーシーズ」や清里へのタレントショップの開店、また映画監督として映画の撮影を行うなど、多彩な活躍を見せていた。
芸能活動休止
その後、2000年9月24日に東急東横線都立大学駅構内で女性の下着を盗撮しようとして事情聴取された。この事件や翌年の覗き事件により2ちゃんねるなどでは盗撮、覗き行為が「田代」「タシーロ」などと言われるようになり「画像ちゃんねる」のタイトルとして使われたり[3]、Winnyにおける盗撮ジャンルのクラスタワードに使用される[4]などの影響を及ぼす事となった。
同年10月4日にこの事実が発覚し、テレビリポーターに盗撮した理由を聞かれ、「『ミニにタコができる[5]』というタイトルのギャグ映像を作ろうとしていた[6]」と弁明した。その後、田代は一時芸能活動を休止した。
芸能活動再開
その後志村けんらが田代の芸能活動復帰を働きかけ、2001年7月頃に『ダウンタウンDX』、『めちゃ²イケてるッ!』、『ぐるぐるナインティナイン』等のテレビ番組、志村けんのバカ殿様等に出演し芸能界復帰した。また、『HAMADA COMPANY 弾丸ヒーローズ』では番組レギュラーを目指して出発点の東京から沖縄まで目撃されずにゴールするという企画に挑戦した。結果的には滞在先の京都府にて写真100枚を撮られて失敗に終わったが、その後も連続してゴールデンタイムの番組にたびたび登場するようになった。
逮捕・懲戒解雇
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『HAMADA COMPANY』の最後の出演から間もない2001年12月9日、田代は男性の風呂場覗きで現行犯逮捕された。これを受け、当時田代の所属していたエムティエムプロダクション(現・ジャパン・ミュージックエンターテインメント)は同年12月11日付で田代の懲戒解雇を発表した。さらには自宅から覚醒剤が発見され、覚醒剤所持・使用発覚で再逮捕された。
これに対し、芸能界復帰に協力した志村けんや桑野信義は「あいつは最低な事をしたのだから芸能界から消えてもらいたい」とコメントした。また和田アキ子[7]やガッツ石松、デヴィ夫人、輪島功一らも批判している。また、2002年1月に放送された『志村けんのバカ殿様』や同年の『新春かくし芸大会』の収録にも参加していたが、逮捕後の放送のため田代の収録分は全てカットされお蔵入りとなった。なお、この懲戒解雇以降、田代は「元タレント」とテレビなどで表記される様になり[8]、シャネルズ・ラッツ&スター時代も含めた田代の過去のVTRや写真が放送・公開される事が極めて難しくなり[9]、またテレビの報道番組で刑事被告人又は犯罪者としては触れるが、「タレント・田代まさし」について触れる事がほとんど無くなった。
事実上の引退とその後
更なる不祥事・逮捕
懲役2年、執行猶予3年の判決を受けた後に2002年春にVシネマ監督として復帰し『鯨道』シリーズなどを手がける。また2003年正月には『サンデージャポン』にVTR出演し[10]、久々に喋り出すようになった。2004年春頃にはテレビ界復帰も検討される様になったが、執行猶予中の2004年6月17日に青梅街道の「Uターン禁止」の場所でUターンした後、オートバイに乗った少年に衝突する人身事故を起こし書類送検され[11]、鈴木雅之が田代の代わりに謝罪をし、復帰の件が白紙となってしまった。
さらに2004年9月20日夜に再び覚醒剤及び刃渡り8cmのバタフライナイフを所持していたとして銃刀法違反と覚せい剤取締法違反の現行犯で逮捕された[12]。野方署の留置所に留置された田代は取り調べの時、何度も嘔吐や気絶を繰り返し、病院へ担架で運ばれ点滴を打つという事態にまで至る[13]。本気で自殺を考えた田代だったが、夢枕に立った母親に止められたという[13]。
本人は「芸能活動において日頃かなりのプレッシャーを感じていたゆえに犯行に及んだ」と弁明した。なお、テレビ出演時に眼鏡やサングラスをしている事が多かったが、実際は伊達めがねで眼鏡なしではテレビに出演できないほどのあがり症だと徹子の部屋で話したことがある。一部ドラマや志村けんのバカ殿様では眼鏡なしで出演している。伊達メガネであるのにもかかわらずメガネメーカーのCMや広告に出演したことがある。
懲役
2005年2月7日、東京地裁で開かれた判決公判で執行猶予中の再犯のため等を主な理由とし懲役3年6ヶ月の実刑判決が下され、同年3月16日付で東京高裁への控訴を取り下げたため刑が確定し、黒羽刑務所に収監され事実上の芸能界引退となった。2008年2月に出所予定である(週刊新潮による)。
関係者の反応
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桑野信義
「もうやってしまった事ですから、罪を償ってしっかり心と体を洗い流して欲しい。二度と芸能界の敷居はまたいで来るな!」と真剣な表情でコメント(事実、田代に対する完全な絶縁宣言、決別表明)。
美川憲一
「大馬鹿者、ひっぱたいてやりたい。(刑務所から)出てきたら私のところに来てちょうだい。付き人でも何でもさせて一から叩き直してやるわよ。(私の時は)本当に大変だったんだから…[14]」と涙を流しながら厳しい口調でコメント。
ビートたけし
たけし軍団は不祥事を起こした芸人を叩きなおすのにもってこいというイメージがあったからか、田代がたけし軍団に入団という噂が入った。たけしはそれまではしばしば擁護するコメントを寄せていたが、これは更なる不祥事だった為、「あんな野郎に関わりたくは無い」とコメントし、たけし軍団への入団は実現しなかった。
和田アキ子
最初の不祥事の際に田代の芸能界復帰を大きく後押しした事のある和田だったが、次の不祥事に対しては「馬鹿野郎、あいつは人間やない。」と厳しい口調でコメントした事もあり、今回も「腹たってしゃあない」と厳しい口調でコメントした。
やしきたかじん、桂ざこば、宮崎哲弥
田代の性格について、「あいつは小心者や!」とコメントしている(2004年9月下旬頃放送の「たかじんのそこまで言って委員会」(よみうりテレビ)内にて)。
輪島功一
「ふざけるのもいい加減にしろ!」とコメント。
北大路欣也
「あきれてどうしようもない奴だ」とコメント。
立川談志
「自分の人生を捨てるとは何事だ」とコメント。
他にも様々な業界の人から批判や苦言を浴びている。
その後もネタにされる田代
芸能界を去った後も、田代はネタにされることがしばしばあり、日本テレビ系『エンタの神様』では、青木さやかが名前の一部を隠す傍ら、「タンスの中にカメラが入ってます」と発言したり、田上よしえが「田上のたは田代まさしのた、よしえのしは田代まさしのし。」と発言しており、同じく日本テレビ系『笑点』でも三遊亭楽太郎が「来賓で出席予定の田代まさし様、萩原健一[15]様が来なかったことをお詫び申し上げます」という答えを言ったりしている。また、ダンディ坂野が「ゲッツ・アンド・リターン」の後にかつて田代がバラエティ番組にて小ネタとして使っていた「お久しブリーフ」と発言したりしている。逆に、志村けんが自身の番組のDVD発売記念に「最近見ない家来はもしかしてホリエモンと一緒になったか?」、「5年前にリリースして欲しかった」と連想的な発言をした事から、テレビではオンエアできない状態になったが、TBS系『アッコにおまかせ!』では、時々、田代を名指しで取り上げることもある。
事件の2ちゃんねるへの影響
事件後、インターネット(特に匿名掲示板2ちゃんねる)上で「田代ファン」「田代オタ」「田代信者」が出現し、あたかもネットアイドルかのごとく祭り上げられた。彼らは2ちゃんねるなどの掲示板で田代を話題にすることがあるが、復帰について調査した資料は確認されていないため、田代の芸能界復帰を望んでいる正確な人数は未知数である。
パーソン・オブ・ザ・イヤー
事件後、2ちゃんねる上で、2001年の「タイム」誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に田代 [16] をノミネートしようという悪ふざけが起こった[17]。詳細は「田代祭」を参照の事。
一部の2ちゃんねらーがDoS攻撃を行うツールを「田代砲」と呼ぶようになったのもこの事件を原因とする[18]。
2ちゃんねるぷらす
その後、田代に、上記の(様々な意味での)人気に呼応して、2ちゃんねる関係雑誌の「2ちゃんねるぷらす」が取材し、インタビュー記事と読者からの相談コラムが連載に加わった。毎号精力的にインタビューに答え、復帰への意欲と反省の態度を示したかに見えたが、連載がまだ続いているうちに再び逮捕されたため、連載途中で打ち切りとなった。なお、記者の勧めで、2ちゃんねるに田代が一度だけ書き込みした事がある[19]。
ネットへの影響
この件以降、盗撮の代名詞として、「田代」「マーシー」という言葉が使われるようになった。類義語として「植草」「ミラーマン」がある。
主な出演番組
テレビ
フジテレビ
その他の放送局
- クイズダービー(TBS)
- 特捜TV!ガブリンチョ(テレビ朝日)
- ダウンタウンDX(読売テレビ)
- スーパーJチャンネル ANN(金曜日、テレビ朝日)
- それゆけ!マーシー(毎日放送、冠番組)
- 愛ラブB.I.G(テレビ東京)
ラジオ
- 田代まさしのスーパーギャング(木曜日、TBSラジオ) - 1986.10~1987.3
- 田代まさしのセイ!ヤング(文化放送)
- 田代まさしのオールナイトニッポン(ニッポン放送)
CM
- ほか多数
音楽作品
シャネルズ、ラッツ&スター名義でリリースされた作品はラッツ&スターを参照のこと。
- 新島の伝説(1986年8月27日発売)
- パラディラタンの夜は更けて(1987年9月21日発売、「慎之介&マーシー」名義)
- ウンジャラゲ(1988年11月2日発売、「志村けん&田代まさしとだいじょうぶだぁファミリー」名義)
- 熱帯夜(1994年7月1日発売、「マーシー&いずみ」名義)
- 婆様と爺様のセレナーデ(1993年12月17日発売、「けん&マーシー」名義)
- 愛が懐かしい(1995年3月8日、「田代まさし&麻木久仁子」名義)
映像作品
- マーシーの不良風 女を口説く方法 あの手この手教えます(1992年)
- マーシーの禁断! お嬢様学園危機イッパツ(1993年)
- クレープ(1994年)
- ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦(1999年)
- マネーギャング 極楽同盟(2002年)
- 企画:吉田達 / 製作:仁平幸男 / プロデューサー:服巻泰三・山本芳久
- 監督:宮坂武志 / 脚本:岩澤勝己 / 音楽:松崎裕子 / 美術:野尻均
- 出演:田代まさし・濱田のり子・TEAH・小沢和義・山田辰夫・桑野信義・天宮良
- 実録やくざ抗争史 LB熊本刑務所 vol.4 刑務所前バス停(2003年、第1回DVシネマ大賞[21]受賞)
- 実録・プロジェクト893XX 金嬉老 無期懲役・拘禁52年 3(2004年)
- 四国やくざ・戦場の主役たち2(2004年)
著書
- 田代まさしの道徳読本(1988年5月、講談社、ISBN 4061031015)
- マーシーの超法則(1994年4月、マガジンハウス、ISBN 4838705344)
- シネマで愛して―映画の数ほど、恋したい(1993年10月、日本文芸社、ISBN 4537023848)
- 自爆―THE JUDGEMENT DAY(2002年7月、ケイツー出版販売、ISBN 4434022520)
脚注
- ↑ 北海道テレビ放送株式会社『夢チカ18 ゲスト 鈴木雅之/Epic Records/マザーポップコーン』
- ↑ 『新島の伝説/パシフィック(夏は罪つくり)』作曲:鈴木雅之、作詞:秋元康。「パシフィック」は作曲:鈴木雅之、作詞:田代まさし。
- ↑ なお、現在は『植草板』という名称になっている。
- ↑ 「盗撮大好きタシーロ」、特殊クラスタワードによる。
- ↑ 「耳にタコができる」という慣用表現とかけたシャレ。
- ↑ The Press conference of Masashi Tashiro
- ↑ 和田は田代の最初の不祥事の際、田代の謹慎中、志村らと共に芸能界復帰を大きく後押していた。
- ↑ 正確には、この事件の公判で裁判長から職業を質問された際に、田代自身が「元タレント」と発言したため。
- ↑ 放送または公開される可能性のあるものは、田代の音声が薄らかであるか全体を修正されたり、顔にモザイクを掛けられたり、身体の一部しか映らない程度の映像に限られた。
- ↑ 現在、田代の報道系以外でのテレビ番組出演はこれが最後である。
- ↑ 英語版ウィキペディア『田代まさしさん交通事故 少年が重傷』
- ↑ ZAKZAK『田代まさし逮捕』2004年9月21日
- ↑ 13.0 13.1 サイゾー『芸能-取り調べ中に気絶した田代まさし 雑居房で口にした心境とは?』2004年12月
- ↑ 美川は1985年に大麻取締法違反で逮捕され、懲役1年、執行猶予3年の判決を受けている。
- ↑ 田代の事故と同時期の2004年10月に萩原は交通事故を起こし業務上過失致傷罪で現行犯逮捕され、懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の有罪判決を受けている。
- ↑ 「Masashi Tashiro」として投票された。
- ↑ ITmedia『1位はなんと?TIME「PERSON OF THE YEAR」投票にネットの“力”』2001年12月21日
- ↑ 通信用語の基礎知識/ 田代砲/ 超田代砲/ 2ちゃんねる
- ↑ 田代まさしが書き込んだ2ちゃんねるのスレッド『【マーシー】 田代まさし 【シャネルズ】』(32レス目が田代の書き込み)
- ↑ 2007年現在「ファミリー劇場」にて放送されており彼を唯一電波を通じて見られる番組。
- ↑ 元暴力団組長で画家の山本集がプロデュースする映画の賞。DVはデジタルビデオの略。
外部リンク