柳川次郎

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柳川 次郎(やながわ じろう、1923年5月 - 1991年12月12日)は、日本ヤクザ右翼活動家。暴力団山口組柳川組初代組長。柳川総業会長。亜細亜民族同盟名誉会長。日韓友愛親善会名誉会長。国際宗教同志会連盟理事長。在日韓国人で、本名は梁 元?ヤン・ウォンソク)。若い頃は「マテンの黒シャツ」と呼ばれた。柳川 魏志とも名乗った。

生い立ち

大正12年(1923年)5月、釜山で生まれた。

昭和2年(1927年)、柳川次郎の父・梁在江が、朝鮮の経済悪化により日本に移住した。梁在江は青果物の行商を営んだ。

昭和5年(1930年)春、父の招きで、柳川次郎は母・河舟淑と弟・亨錫ともに来日した。父の住まいは大阪府豊能郡岡町だった。

昭和7年(1932年)3月、大阪府豊能郡南豊島村第二尋常小学校(後の豊中市立原田小学校)に入学した。父親の方針で小学校時代を韓国名・梁元?で通した。

昭和10年(1935年)、担任先生の福西為一の任命により、副級長となった[1]

昭和15年(1940年)、柳川次郎は、城東職工学校に進学した。同年、阪急電車豊中駅前で、6人の徴用工と睨み合っていた同胞の在日韓国人谷川康太郎(本名は康東華:カン ドンファ。後の柳川組二代目)を助けた。

昭和16年(1941年)、柳川一家は、半ば勧誘、半ば強制労働のような格好で大分県中津市神戸製鋼所の工場に駆り出された。柳川一家は、中津市に移り住んだ。当時の神戸製鋼所は軍需工場の役割を担っており、施設を建設しながら操業すると云う突貫工事に入っていた。大林組が建設を請け負っていた。ここで柳川次郎は鳶職に就いた。このとき、柳川次郎は、朝鮮人を差別していた大林組の鳶達複数と乱闘となり、半殺しの目にあった。

昭和20年(1945年)、敗戦を迎えると、柳川一家は帰国を決意した。柳川一家は、下関釜山間の乗船許可証を入手した。

同年11月5日、柳川一家は下関に到着した。乗船日は同年11月7日だった。

同年11月6日、柳川次郎は、下関の愚連隊3人と喧嘩になり、下関警察署の警官隊に逮捕された。

同年11月7日午後、柳川次郎は釈放されたが、柳川が乗船するはずの船は既に出港していた。柳川次郎は身寄りがいなくなってしまい、豊中市に戻った。

戦後の混乱期から柳川組結成まで

昭和21年(1946年)5月、柳川次郎は谷川康太郎と再会した。2人は神戸市に出て、闇市などでヤミ物資の強奪を繰り返した。それから、柳川と谷川は、仲間とともに、菅谷政雄(通称はボンノ。後の三代目山口組若頭補佐)の率いる国際ギャング団に加担した。

同年5月7日、菅谷政雄が強盗容疑で逮捕された。

同年6月30日、柳川次郎は強盗罪豊中警察署に逮捕された。

昭和22年(1947年)11月9日、谷川康太郎も強盗罪で生田警察署に逮捕された。柳川次郎は大阪拘置所に送致されたが、ここで暴動が起こり、それに乗じて集団脱走した。このため、柳川次郎は、強盗罪で懲役7年に加え、加重逃走で懲役2年の実刑判決を受けた。

同年9月5日、柳川次郎は鳥取刑務所に服役した。

昭和27年(1952年)8月1日、柳川次郎は鳥取刑務所から仮出所した。柳川次郎は、鳥取刑務所で知り合った金昌玉の勧めで、大阪府池田市西本町の「猪名川食堂」経営者・新井孝造(神戸市・五島組系の博徒だった)を訪ねた。柳川次郎は、ここに2ヶ月ほど滞在し、賭場の雑用などを行った。

同年10月、柳川次郎は、以前鳶で働いていた大分県中津市に移った。ここで、中津時代の知り合いだった南仲次と再会した。柳川次郎は、南仲次にテキヤ吉富組吉富政男組長を紹介してもらい、吉富政男の舎弟となった。吉冨政男は、小倉市テキヤ・三代目村上組・村上義一組長(本名は沢田義一。三代目山口組田岡一雄組長の舎弟)の舎弟だった。柳川次郎は、バーや中津駅前のパチンコ店の用心棒となった。

昭和28年(1953年)2月、福岡県豊前市の歳の市で、中津市のテキヤと地元のテキヤが地割りで揉めた。中津市のテキヤ代表は、金本組金本次郎組長で、豊前市のテキヤ代表は、諏訪組諏訪悦郎組長(後の松葉会常任幹事)だった。対立の中、金本次郎が日本刀で刺殺された。豊前側には、別府市石井一郎(通称は別府のジャギ。本名は山川一郎。後の三代目山口組初代石井組組長)がついていた。石井一郎と金本次郎は兄弟分だった。柳川次郎は、吉富政男から、石井一郎を中津側に戻らせるように説得を依頼された。柳川次郎は、石井一郎と福岡県築城町で会談し、石井一郎の説得に成功した。石井一郎は中津市に戻り、金本次郎の位牌に焼香した。これを契機として柳川次郎と石井一郎は兄弟分となった。石井一郎に裏切られた格好になった諏訪悦郎は、結局豊前から撤退した。

柳川次郎の下には野沢義太郎(後の五代目山口組舎弟)や福田留吉らが集まった。

昭和28年(1953年)、柳川次郎は、石井一郎とともに、大長組大長健一組長(通称は兇建)の舎弟となった。立会人は、村上義一と、村上組若頭格・長谷川則だった。このとき、石井一郎は、村上義一の若衆だった。大長健一は、大長組の金庫番兼代貸格・豊島一広(大長健一の妹婿)を伴って、服役中の大長組幹部・大長定雄(大長健一の弟)を訪ね、人吉市の博徒一家の幹部・宮崎、石井一郎、柳川次郎を舎弟としたことを伝えた。同年、大長定雄が出所した。大長定雄の放免祝いに、石井一郎、柳川次郎、柳川の舎弟・福田留吉が出席し、互いの顔合わせを行った。

このころ、石井一郎は、大分県中津市の吉富組から、カスリを取られていた。

同年、大長組の金庫番兼代貸格・豊島一広と大長組・土谷豊((後の土谷組初代組長)は、石井一郎と柳川次郎と連絡を取り、吉富政男が別府市の石井一郎のところに集金に来る日時を訊いて、別府駅前で吉冨政男を待った。吉冨政男が吉冨組の共の者とともに改札口を出たところで、豊島一広と土谷豊が、吉冨政男に対し、石井一郎の元には行かず中津市に返るように、要求した。そして、豊島一広は、土谷豊と石井一郎とともに吉冨組に赴き、そこで石井一郎に対するカスリについての話合いを持つことを提案した。吉冨政男は提案を了承し、中津市に帰った。豊島一広と土谷豊と石井一郎の3人は、柳川次郎の案内で、別府市から中津市に向かい、吉富政男の自宅兼事務所で、吉富政男と話合いを持った。豊島一広は、吉富政男に、石井一郎からのカスリの放棄を要求した。吉富政男は要求を拒否し、筋を通すように求めた。板ばさみになった柳川次郎は、断指して、吉富政男に詫びを入れた。吉冨政男は、豊島一広の要求を全て呑んだ。吉冨組は、大長組に和解金30万円を支払い、別府市への進出を止めることで、話がついた。

その後、大長健一と石井一郎は対立するようになった。柳川次郎は両者を和解させようとしたが、不調に終わった。

同年10月、この一件を切っ掛けとして、柳川次郎は再度大阪に戻った。野沢義太郎も柳川次郎について、大阪に行った。再度、池田市西本町の新井孝造の世話になった。柳川次郎は、結婚し、うなぎ釣りなどの堅気の仕事に就いた。その後、福田留吉らも柳川次郎の元に集まった。

同年12月ごろ、石井一郎は、別府に石井組を起こした。

柳川次郎は、大阪駅を縄張りとし、プー屋(ダフ屋)からショバ代を取り始めた。大阪駅の裏側を縄張りとしていたのが、「歌楽会」だった。歌楽会会長は生田晴美だった。柳川次郎は、歌楽会と、利権の分担を取り決めた。

昭和30年(1955年)4月、浪速区新川3丁目に本拠を置く高村組と、南区難波新地2番丁に本拠を置く笹田組とが、組員同士の喧嘩に端を発し、縄張り争いの抗争を起こした。高村組の組長は、高村春光。笹田組の組長は、笹田克善。高村組は、西宮市西波止町に本拠を置く諏訪組の友誼団体で、歌楽会とも友好関係にあった。歌楽会・生田晴美会長は、柳川次郎に、高村組の応援を求めた。野沢義太郎ら4人が、笹田組組員1人を生け捕りにし、高村組事務所に連れて行った。さらに、この笹田組組員を奪還に来た笹田組員たちを、柳川次郎一派が撃退した。この抗争は、1ヶ月足らずで、終息した。

この抗争の後、高村春光は、柳川次郎を諏訪組・諏訪健次組長に紹介した。

同年5月、神戸市生田区中町3丁目の料亭「三ツ輪」で、諏訪組・諏訪健次組長と柳川次郎との、親子の固めのが交わされた。取持人は平錦組勝間芳次組長だった。

昭和32年(1957年)4月、大阪駅で、柳川次郎は、ショバ代を払わなかったプー屋を、日本刀を抜いて恐喝した。曽根崎警察署は、このプー屋を説得して被害届を出させ、裁判所から逮捕令状を取った。柳川次郎は大分県中津市に逃げた。同年5月、柳川次郎は、中津市内で逮捕された。同年6月16日、柳川次郎は、保釈金20万円を支払って、保釈された。

保釈直後、柳川次郎は諏訪組と絶縁した。同年10月、柳川次郎は東淀川区木川西之町3丁目の藤本組藤本芳尾組長の舎弟となった。同年12月、柳川次郎は、酒梅組組長・梅野国生(後に七二の林久五郎の跡目を継承)の客分となり、西成に移り住んだ。

西成には、この地区最大の買春暴力団鬼頭組があった。組長は、鬼頭清。組員は200人。戦闘員は百数十名を誇った。鬼頭組は酒梅組系列だった。西成に移った柳川次郎は、鬼頭組に対して、略奪行為を繰り返した。

昭和33年(1958年)2月、柳川一派の秋良大豪が鬼頭組組員5人に暴行を受け、鬼頭組に拉致された。秋良大豪の顔見知りが、この一部始終を見ていて、柳川一派に急報した。柳川次郎は、鬼頭組とは同系列だった酒梅組・梅野国生組長に仲裁を依頼した。同年2月10日、梅野国生は、鬼頭組事務所に出向き、鬼頭清と折衝した。1時間経っても、梅野国生は、酒梅組事務所に戻らなかった。同日深夜、柳川一派8人は酒梅組事務所から、預けておいた日本刀などの道具を持ち出して、鬼頭組事務所に向かった。このときの8人とは、柳川次郎、福田留吉、高信吉倉本広文(後の五代目山口組若頭補佐)、斉藤登松田重武本ケ慧福成信昭だった。梅野国生と鬼頭清の交渉は不調に終わった。柳川次郎は、鬼頭組事務所から出てきた梅野国生と、鬼頭組事務所前で出会った。このとき、柳川一派は、梅野国生と一緒にいた鬼頭組若頭と斬り合いになり、重傷を負わせた。柳川一派は鬼頭組幹部・玉岡竹夫を斬り殺した。梅野国生は、酒梅組事務所に戻り、支援部隊を送り込んだ。柳川一派8人は、鬼頭組事務所前の細い裏通りで、正面から鬼頭組組員に対して斬り込み、斬り伏せていった。警察への通報があり、パトカーが駆けつけると、鬼頭組組員は姿を消した。これを追った福田留吉は、鬼頭組組員に右腕を刀で刺され、左の頬と背中を斬られ、左手の指3本を切断された。福成信昭はこの戦闘で左腕を切断された。

この事件を切っ掛けに、鬼頭組は瓦解した。

この事件で柳川次郎は収監されたが、9ヶ月の服役だった。同年11月16日、柳川次郎は保釈された。そして、出所直後、柳川次郎は大阪市北区堂山町で、柳川組を結成した。初代若頭には、下川将来が就いた。

柳川組は、谷川康太郎の発案で、「梅田振興互助会」を立ち上げた。商店街の店を会員とし、1ヶ月1000円を徴収した。徴収は、梅田会・石田章六会長(本名は朴 泰俊。後の六代目山口組顧問)が行った。その後、「今里振興互助会」、「布施振興互助会」などを立ち上げた。

山口組直参まで

昭和34年(1959年)2月、柳川組の木下一郎木下弘の兄弟が、鳥取県米子市に、柳川組米子支部を結成した。同年4月5日深夜、ミナミのダンスホール「ユニバース」で愚連隊交星会会員と柳川組組員が口論となり、その後十数人の交星会会員が柳川組の溜まり場だった浪速荘を襲撃した。

その頃、三代目山口組・田岡一雄組長は、昭和34年(1959年)4月から始まる大阪府堺市浜寺の臨海工業地帶造成工事での荷役・労働供給権独占を目指して、勢力を拡大させていた。

同年5月、柳川次郎はテキヤ北三沢組藤本与治組長とキタの露天で提携した。すぐに柳川組と北三沢組は、大野会大野鶴吉会長の舎弟双葉会丹羽峯夫組長と小競り合いとなった。最初は三代目山口組舎弟中川組中川猪三郎組長がこの仲裁に、当たった。結局は、この仲裁は失敗し、別の者の仲裁で解決した。そのような折、柳川次郎が、山口組若頭地道組地道行雄組長の目に留まった。同年6月、中川猪三郎の仲介で、柳川次郎は地道行雄とを交わして、地道行雄の舎弟となった。柳川組の福田留吉・園幸義黒沢明(後の三代目山口組若中)らは、地道組の若衆に直った。

同年7月4日、大阪中央公会堂で、霧島昇を中心とした歌謡ショーを開催した。このショーでは、地道行雄が柳川次郎を後援した。同年10月9日夜、皆生温泉のバー「ニュー皆生」で柳川組米子支部の組員が、鳥取県米子市の岩宮組岩宮要一郎組長に暴行を加えた。この後、両組に鳥取県警の手入れが入り、抗争は中断した。同年11月12日、柳川次郎は債権取立てをめぐる恐喝で、西成警察署に逮捕され、同年12月末に保釈された。

同年暮れ、明友会幹部・宋福泰、明友会幹部・韓博英は、交星会と抗争事件を起こし、検挙された。

昭和35年(1960年)1月31日、福島区野田阪神のバー「オリオン」が、愚連隊排除を柳川組に依頼したことから、柳川組と西谷会が抗争となった。柳川組は、西谷会会員1人を殺害し、1人に重傷を与えた。

同年5月26日、砂子川組系で枚方市松尾組松尾広組長が、柳川組幹部・田中半次の子分に罵倒されたことから、松尾広とその子分1人が、日本刀を持って、田中組事務所に殴り込み、田中組組員1人を負傷させた。柳川組は、田中半次を指揮官として、組員24人で、松尾組事務所に報復した。組員24人は8人ずつ3班に分かれ、まず田中半次率いる第1班が急襲をかけてすぐに退却し、直ちに次の第2班が敵の本拠を攻撃してこれも退却し、第3班が突入して止めを刺すと云う戦術を取った。この殴り込みで、田中半次が松尾組組員1人を射殺した。

同年7月、大阪ミナミで、山口組組員と明友会会員が喧嘩となった。その後、明友会会員は、猟銃を持って、車に乗り込み、神戸市の山口組事務所前で、示威行動をとった。

同年8月9日、明友会事件が勃発した。
詳細は 明友会事件 を参照

この抗争で大阪府警は、山口組側56人を殺人と殺人未遂で検挙し、最終的には組員84人を検挙した。このうち24人が柳川組組員だった。この抗争での柳川組の戦功は、山口組内部で認められた。

同年12月13日、山口組「御事始」(または、「正月事始」。通称「事始め」)の席で、柳川次郎と石井一郎の直系昇格が決定し、「御事始」終了後に山口組本部事務所で結縁の盃事が執り行われた。取持ち人は、倭奈良組舎弟の水谷奈良太郎だった。柳川次郎は、三代目山口組の直参となった。

山口組直参以降から第一次頂上作戦開始まで

元々大阪を地盤にしていた柳川組は、大阪に進出してきた他の山口組系列化の団体と紛争を起こした。山口組は各組の利害を調整するために南道会藤村唯夫会長を、大阪地区の総責任者としたが、柳川組の膨張は止まらなかった。山口組若頭・地道行雄は、柳川組を他府県に進出させることを提案し、三代目山口組・田岡一雄組長が最終的に了承した。

柳川次郎は、他府県進出の指揮官に谷川康太郎を任命した。

昭和36年(1961年)3月8日夜、都島区都島本通のバー「千舟」で、柳川組組員・李万実らと淡熊会寺田組組員らが喧嘩となった。寺田組組員8人は、報復として李万実の自宅を襲ったが、李は不在だった。柳川組組員が、柳川組系都会会長宅で、寺田組への報復の準備をしているところ、全員が警察に凶器準備集合罪で検挙された。同年4月1日深夜、梅田で、柳川組組員・野沢義太郎(後の五代目山口組舎弟)、森安直樹前川秋英浜田荘郎と神戸市・松浦組7人との喧嘩が起こった。前川秋英は刺殺され、森安直樹も重傷を負った。松浦組組員3人も怪我を負った。

同年4月8日、柳川組は、奈良県下のヤクザ組織に、「貴下を大義同志会支部長に命ず」と書いた封書を送った。これを切っ掛けに喜多久一刺殺事件が発生した。
詳細は 喜多久一刺殺事件 を参照

同年5月、柳川組は、近鉄あやめ池遊園地で、力道山一行のプロレス興行を行った。この興行が成功したので、柳川次郎は「柳川芸能社」を起こした。

同年12月、柳川次郎は、北海道札幌市で力道山一行のプロレス興行を行った。このとき、会津家小高一家(組長は小高龍湖)の実子分・長岡宗一(通称:ジャッキー)は、柳川次郎と柳川組若頭谷川康太郎と知り合った[2]。このころ、長岡宗一は400人の若衆を抱えた。

昭和37年(1962年)1月8日午前1時ごろ、近鉄布施駅前で、柳川組組員が、神戸市諏訪組系坂本組組員に、代紋のバッチを奪われ、踏みつけられた。柳川組組員5人が、布施市足代の坂本組組長宅に殴りこみをかけ、組長を刺殺した。大阪府警は、柳川次郎をはじめ、谷川康太郎、加藤武義(本名は蘇武源)、石田章六(後の六代目山口組顧問)、藤原定太郎(後の三代目山口組若中)ら29人の柳川組組員を検挙した。

同年1月、柳川組は京都に進出した。しかし、中島会図越利一会長(後の三代目会津小鉄会会長)は、武力で柳川組に対抗すると同時に、本多会本多仁介会長を通じて、山口組に働きかけてきた。これにより、柳川組は京都進出を中止した。

同年、柳川次郎は、和歌山県小山組小山十四郎組長を舎弟とした[3]

同年、柳川組若頭の谷川康太郎が石川県の中沢組分家・福島三郎(後の四代目山口組若中)を舎弟にして、石川県に進出した。柳川組は、柳川組北陸支部を作り、支部長に福島三郎を据えた。

同年春、柳川組が、松葉会と中島会との抗争の仲裁人となった。谷川康太郎が、柳川次郎の名代として、加藤武義と金田三俊の舎弟を連れて、片山津温泉の「矢田旅館」で行われた手打ち式に出席した。同日に、中島会が松葉会を襲撃して、手打ち破りを行った。谷川康太郎は加藤義武と金田の舎弟とともに、中島会が滞在していた「矢田旅館」に行き、手打ち式での中島会代表者と地元の中島会系組長を拉致した。谷川康太郎は、地元の中島会系組長に組を解散させ、その縄張りを福島三郎らに譲った。さらに、谷川はこの地元の中島会系組長を北陸から追放した。この追放された組長は、広島市の岡組岡敏夫組長の元に行った。山口組若頭補佐菅谷政雄が、この元組長を舎弟とし、北陸に復帰させようとした。菅谷政雄と谷川康太郎は、三代目山口組・田岡一雄組長に裁断を仰いだ。田岡一雄は、この元組長を北陸に復帰させ、縄張りを元に戻すことにした。

同年、柳川組は、ホットドッグ販売の株式会社大名堂」の用心棒を請け負った。

同年5月、長岡宗一は小高竜湖に逆破門状を送った[4]。長岡宗一は、舎弟や若衆が先に小高龍湖を襲撃することは、認めなかった。小高龍湖は、直ちに長岡宗一を破門し、小高龍湖と会津家宗家五代目・坂田浩一郎の連名の破門状を全国に送付した 。長岡宗一は「長友会」を結成した。長岡宗一が砂川市愚連隊谷内二三男を説得し、長岡宗一の実子分・田村武志長沼町の愚連隊・石間春夫(通称:北海のライオン)を説得して、長岡宗一・石間春夫・谷内二三男の3人は、千歳市の長岡の舎弟が経営する料理屋の2階で、五分の兄弟を交わした。さらに、3人は「長友会」と谷内二三男の愚連隊、石間春夫の愚連隊を統合して、「北海道同志会」を結成した。初代会長には、長岡宗一が就いた。

同年、谷川康太郎の説得により、本多会系米山組副会長・紺谷久雄(後の四代目山口組若中)と曾山修が柳川組に寝返った。

同年9月1日、片山津温泉で、米山組組員と柳川組組員が喧嘩となった。同年9月3日午後5時ごろ、米山組組員12人が、紺谷組事務所を襲撃し、紺谷久雄に拳銃で二発の銃弾を命中させて、重傷を負わせた。続いて、米山組組員は曾山組事務所を襲ったが、柳川組は米山組組員中田勲を殺害し、他1人に重傷を負わせた。

昭和37年(1963年)10月、柳川組若頭・谷川康太郎は、日本プロレスの札幌興行で、力道山の用心棒として札幌市に入った。同月、長岡宗一の自宅の神棚の前で、長岡宗一と谷川康太郎とは、長友会の舎弟や若衆を見届け人として、五分の兄弟分となった。翌日、石間春夫が長岡宗一の自宅を訪ねてきた。谷川康太郎はまだ、長岡宗一の自宅に滞在中だった。長岡宗一は、石間春夫に、谷川康太郎を紹介し、長岡と谷川が五分の兄弟分になったことを報告した。長岡宗一は、石間春夫に「石間春夫も谷川康太郎と五分の兄弟分にならないか」と持ちかけた。石間春夫は返事を保留した。間もなく、石間春夫は警察に逮捕された。それから、長岡宗一は、谷川康太郎から、柳川次郎を紹介された。谷川康太郎は、長岡宗一に、柳川次郎の舎弟となることを打診してきた。長岡宗一は、石間春夫と谷内二三男と一緒に柳川次郎の舎弟になることを望み、根回しに動いた。長岡宗一は、札幌市の拘置所にいた石間春夫を訪ね、長岡と一緒に、柳川次郎の舎弟になるように説得した。石間春夫は、長岡宗一に、谷川康太郎と気が合わないことと柳川次郎の舎弟になる気はないことを告げた。その後も、長岡宗一は、何度か拘置所を訪ね、熱心に石間春夫を説得した。石間春夫は、自分なりに柳川次郎や柳川組を調べた上で、結論を出すことに決めた。石間春夫は、昭和33年(1958年)2月10日に起こった柳川一派と鬼頭組との乱闘事件や明友会事件を知り、柳川次郎の舎弟になることを決めた。石間春夫は、保釈で拘置所を出ると、長岡宗一に、柳川次郎の舎弟になることを告げた。

同年11月3日夜、枚方市のマージャン店で、柳川組枚方支部長の弟感秀之と松尾組・松尾広組長らが喧嘩となり、感秀之と松尾組組員が負傷した。柳川組組員は松尾組に殴り込みをかけようとしたところを、一斉に検挙された。

同年11月16日夜、富山県射水郡大門町で、源清田一家の組員が米山組組員と喧嘩になり、米山組組員を負傷させた。これに対し、米山組組員12人が、源清田一家五代目総長を襲い、総長代紋と現金3万円を奪った。柳川組富山支部は源清田一家を応援し、柳川組組員15人が、日本刀で米山組組員6人を斬った。

同年暮れ、長岡宗一と石間春夫と谷内二三男は、柳川次郎の舎弟となった。北海道同志会は、柳川組北海道支部の看板を掲げた。支部長には長岡宗一が就いた。長岡宗一の自宅兼事務所が、柳川組北海道支部の事務所となった。

同年12月、柳川組は、福井県の倉島組(組長は倉島官司)を傘下に収め、柳川組福井支部の看板を掲げた。

谷川康太郎は、大垣市に西原組を作り、韓吉洙を組長に据えた。昭和38年(1963年)3月13日午後10時30分ごろ、大垣市高島町のバー「夕暮」で、柳川組西原組組員と本多会河合組組員と喧嘩になった。同年3月14日午前0時30分、河合組組員と河合組の友誼団体木原組組員17人が、西原組組員10人の宿泊先だった大垣市高橋町の旅館「みその」を襲撃した。1人が死亡した。本多会若頭平田勝市は、自身の平田会を率いて、大垣市に入った。山口組は若頭地道行雄を大垣市に派遣した。山口組は本多会を破ったが、岐阜は地道組の直轄となった。

柳川次郎は、昭和34年に起こした債権取立てに絡んだ恐喝容疑の裁判で、懲役1年が確定し、昭和38年(1963年)3月1日から、大阪刑務所に服役した。地道行雄が三代目山口組若中清水光重(後の三代目山口組若頭補佐)を柳川組の目付役とした。

昭和38年(1963年)3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。

同年秋、長岡宗一が、長岡宗一は、覚醒剤取締法違反札幌北警察署に逮捕され、罰金50万円・懲役2年6ヶ月の実刑判決を受けた[5]。長岡宗一は釧路刑務所に服役した。

同年7月、柳川組北海道支部・長友会苫小牧支部長・橋川国郎は、幹部・阿島邦春と幹部・奥山雄高を連れて、苫小牧市のテキヤの親分の自宅に殴り込みをかけ、テキヤの親分の若衆を日本刀で刺し、重傷を負わせた。

同年8月、谷川康太郎は、数人の幹部や若衆を連れて、洞爺湖に遊びに来た。洞爺湖では、毎年8月1日から3日間、湖水祭りが行われていた。谷川康太郎は、数人の幹部や若衆を連れて、湖水祭りに繰り出した。柳川組幹部が露店でトウモロコシを買おうとしたとき、露天商とどのトウモロコシにするかで揉めた。柳川組幹部や若衆らは、露店の屋台をひっくり返した。湖水祭りに来ていたテキヤ衆は、地元の世話人を中心に結束して、谷川康太郎が宿泊していた洞爺湖畔のホテルに押しかけた。谷川康太郎についていた長岡宗一の若衆2人が、ホテルを出て、地元の世話人に、ホテルの中で谷川康太郎と話し合うように勧めた。地元の世話人1人がホテルに入り、長岡宗一の若衆2人に案内されて、谷川康太郎の宿泊している部屋に入室した。谷川康太郎は、地元の世話人の脇腹に拳銃を突きつけ、両手を挙げさせて、ホテルの窓際まで移動させた。テキヤ衆は、谷川康太郎に拳銃を突きつけられた地元の世話人を目撃し、地元の世話人が人質に取られたことを悟り、その場を解散した。テキヤ衆が解散すると、谷川康太郎は地元の世話人に詫びを入れ、解放した。

同年9月27日昼、都島区で池田組組員が柳川組都会会員に殴られた。これに対し、池田組は都会事務所に殴り込みをかけ、都会会員山本道男を日本刀で刺殺し、小林菊松を負傷させた。柳川組は報復を開始した。同年10月30日までに計4回池田組事務所に殴り込みをかけ、ダイナマイトで池田組事務所を爆破した。

その後、谷川康太郎は、長岡宗一に無断で、会津家小高一家の外田友彦と五分の兄弟盃を交わした。外田友彦は、長岡宗一が会津家小高一家にいた頃は、長岡宗一の格下だった。長岡宗一は、妻の将子に、谷川康太郎と話がしたい旨を伝えた。谷川康太郎は、長岡将子からの電話連絡を受けると、その日のうちに飛行機で大阪から札幌に行った。翌日、谷川康太郎は、釧路刑務所所長から特別面会の許可をもらい、長岡宗一と面会した。谷川康太郎は、長岡宗一を説得した。

同年11月16日夜、富山県射水郡大門町で、源清田一家の組員が米山組組員と喧嘩になり、米山組組員を負傷させた。これに対し、米山組組員12人が、源清田一家五代目総長を襲い、総長代紋と現金3万円を奪った。柳川組富山支部は源清田一家を応援し、柳川組組員15人が、日本刀で米山組組員6人を斬った。

柳川次郎は、昭和32年4月大阪駅で起こしたプー屋恐喝事件、昭和33年2月10日に起こした鬼頭組との乱闘事件、他2件の併合審理事件を上告していたが、昭和39年(1964年)1月16日に棄却されることが確実となり、懲役7年の刑が決定的となった。上告棄却2日前の1月14日、柳川次郎は獄中で引退声明を出し、それを引き換えに仮出所を許された。同年2月、柳川次郎は、柳川組組員たちから、豊中市の300坪の家[6]をプレゼントされたが、受け取らず、「レストラン・サンマテオ」とし、梅本昌男に経営させた。

昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。

同年2月、警察庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。

第一次頂上作戦以降

同年3月5日、柳川次郎は大阪市北区中之島の回生病院に入院した。柳川次郎は長期の服役を余儀なくされたので、組の跡目を決定する必要に迫られた。本来なら九州時代からの舎弟・野沢義太郎だが、柳川次郎は谷川康太郎を考えた。この案に、野沢義太郎、加藤武義金田三俊らが難色を示した。地道行雄は柳川組二代目に清水光重を推薦した。このため、柳川組幹部一同は、谷川康太郎を柳川組二代目に推挙することでまとまった。初代柳川組組長・柳川次郎の舎弟、若中をそのまま二代目組長・谷川康太郎が引き継ぐこととなった[7]

同年3月8日、谷川康太郎の二代目襲名の盃事が、有馬温泉中の坊の「グランドホテル」で行われた。見届け人は、大野会芝生健副会長、誠会川口義昌会長、谷政組谷口政雄組長、橋本組橋本正男組長だった。取持人は、大野会若頭・津村和麿。後見人は、柳川次郎だった。

同年3月10日、大阪市生野区新今里町の料亭「山市」で、同年3月8日の二代目襲名の盃事に漏れた若中10人の盃事が、行われた。

同年3月26日、警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会川崎日本義人党、東京・北星会だった。

同年3月28日、曽根崎警察署は、谷川康太郎を逮捕した。

同年4月7日、岡山東警察署は、谷川康太郎を、交通事故にからむ恐喝容疑で、検挙した。

同年4月22日、谷川康太郎の勾留期限が過ぎて、保釈された。

同年5月8日、大阪市南区坂町の「喜楽別館」で、谷川康太郎は、柳川組若中200人と盃を交わした。

同年5月15日、谷川康太郎は、柳川組京都支部、同組和歌山支部、同組奈良支部の全員と盃を交わした。

同年5月20日、谷川康太郎は、柳川組北陸支部全員と盃を交わした。

同年6月7日、谷川康太郎は、柳川組北海道支部全員と盃を交わした。

同年7月10日、福岡市旧柳町の料亭「新三浦」で、地道行雄と谷川康太郎の兄弟が行われた。谷川康太郎は、地道行雄の舎弟となった。

同年7月25日、山口組本家で、谷川康太郎は、三代目山口組・田岡一雄組長から、若中の盃を受けた。これで、二代目柳川組は山口組直参となった。

同年7月26日、谷川康太郎の柳川組二代目襲名披露式が、兵庫県有馬温泉のホテル池の坊「満月城」で執り行われた。

昭和40年(1965年)、柳川組に対する第一次頂上作戦が開始された。
詳細は 第一次頂上作戦#柳川組に対する第一次頂上作戦 を参照

昭和44年(1969年)4月1日、大阪府警は「レストラン・サンマテオ」の経営内容を理由に、柳川次郎を名古屋刑務所から大阪の田辺警察署に移送した。ここで、田辺警察署は、柳川次郎の口から柳川組解散を引き出した。

同年4月8日、柳川次郎は、谷川康太郎を大阪刑務所で説得し(谷川康太郎は大阪刑務所に収監されていた)、解散の同意を取り付けた。谷川康太郎が署名した「解散声明書」及び、柳川次郎が署名した「解散同意書」の日付は、昭和44年4月9日となっている。

同年8月1日[8]、田岡一雄は、本家に無断で柳川組を解散させたと云う理由で、柳川次郎と谷川康太郎を絶縁とした。

昭和48年(1973年)、柳川次郎は右翼団体・亜細亜民族同盟を創立した。その後、柳川次郎は佐野一郎(元公安調査庁調査官)に会長を譲り、自らは名誉会長となった。また、日韓友愛親善会を設立し、日韓の親善に尽力した。

昭和49年(1974年)、柳川次郎は、アントニオ猪木らとともに、45年ぶりに祖国韓国の地を訪れた。

平成3年(1991年)12月、柳川次郎は、大阪で死去。享年68。

脚注

  1. 当時は、韓国人に対する差別や偏見が蔓延しており、画期的なことだった
  2. 飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0では、長岡宗一と柳川次郎谷川康太郎が知り合った時期を、「昭和36年(1961年)12月」としているが、山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2では、「昭和37年(1963年)10月、長岡宗一の舎弟・日比野兼治(通称:ホラ兼)が、谷川康太郎を、長岡宗一の自宅に案内し、長岡宗一に引き合わせた。日比野兼治は山代温泉でストリップ劇場を経営しており、山代温泉で谷川康太郎と知り合った」としている
  3. 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.51
  4. 事の経緯は以下の通り。
    昭和36年(1961年)ころから、小高龍湖に、長岡宗一の兄弟分から長岡への讒言が相次いだ。
    例えば、小高龍湖に、『長岡宗一の新築の家の神棚の鳥居には「長岡」と書かれてある。本来ならば「小高」と書くべきだ」と云った話がもたらされた。長岡宗一の新築の家の神棚の鴨居には「札幌神社」と書かれていた。
    小高龍湖は、長岡宗一に対して「新車に乗れて、新しい家も建つのだから、子分からの上納金でとても儲かっているのだろう」と云った。
    この小高龍湖の発言を切っ掛けに、長岡宗一と小高龍湖は反目しあうようになった。
  5. 事件の経緯は以下の通り。
    昭和38年(1963年)6月中旬、長岡宗一は、長岡の若衆に案内された知り合いの会社社長の訪問を受けた。
    知り合いの会社社長は、長岡宗一に、会社が経営危機に陥っていることを話し、150万円で覚醒剤を仕入れてくれるように懇願した。
    長岡宗一は、会社社長の頼みを受けることにした。
    長岡宗一は、大阪日比野兼治(通称:ホラ兼)に連絡し、会社社長と長岡の若衆2人を連れて、大阪に入った。
    日比野兼治は150万円分の覚醒剤を用意していた。
    長岡宗一たちは、覚醒剤を千雀飴の缶に入れて、北海道に帰った。
    長岡宗一は覚醒剤を、長岡の若衆に預けた。
    その覚醒剤の一部を盗んだ長岡宗一の若衆がいて、密告により、その若衆が逮捕された。
    その若衆の自供により、長岡宗一も逮捕された。
  6. 総工費1億円。2年5ヶ月で完成した
  7. 通常だと、組長が引退した場合、その舎弟もみんな引退する。若中は舎弟となり、新組長の直属だった若中は、そのまま組の若中となる
  8. 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.297

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参考文献


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