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2007年6月3日 (日) 01:17時点における版
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朝日新聞(あさひしんぶん)は朝日新聞社が編集・発行する新聞の1つ。朝日新聞社のメイン新聞であり、発行部数は近年読売新聞に抜かれ第二位で公称800万部。
目次
沿革
- 1879年1月 大阪で創刊。
- 1882年 政府と三井銀行から経営資金援助を受け始める。
- 1888年7月 東京の「めさまし新聞」を買収し「東京朝日新聞」を創刊、東京進出。
- 1889年 大阪本社発行の新聞を「大阪朝日新聞」と改題。
- 1915年 大阪朝日が夕刊の発行を開始。大阪朝日が全国中等学校野球大会(現全国高校野球選手権大会)を開催。
- 1918年 白虹事件
- 1935年2月 西部本社で発行開始。
- 1935年11月 名古屋本社で発行開始。
- 1936年2月26日 2・26事件で反乱軍が東京朝日新聞社の社屋を襲撃。
- 1940年 大阪朝日と東京朝日は題号を統一、朝日新聞とした。
- 1942年 ゾルゲ事件で東京本社政治経済部長田中慎次郎(3月15日)、同部員磯野清(4月28日)が検挙 。
- 1950年9月27日 潜行中の日本共産党幹部伊藤律との単独会見記事を掲載。後にこれが担当記者により捏造されたものであると判明する。
- 1959年6月 北海道支社で発行開始。
- 1963年12月24日 村山社主家が常務取締役・東京本社業務局長永井大三を解任。社内紛争「村山事件」が始まる。
- 1980年11月 東京本社が千代田区有楽町から中央区築地に移転。鉛活字を一切使わず、コンピュータ製作による新聞製作システム「ネルソン」導入。
- 1987年5月 兵庫県西宮市の阪神支局で記者殺傷事件が発生、「赤報隊」と名乗る者から犯行声明(未解決のまま2003年に時効成立)。
- 1988年6月 大阪本社を最後に、鉛活字による新聞製作の歴史に幕。全本社がコンピュータ新聞製作システム「ネルソン」に完全移行。
- 1988年6月 いわゆる「リクルート事件」スクープ。
- 1989年4月 所属記者が沖縄県の珊瑚に落書きする(別掲)。
- 1996年 西部本社の製作(組版など)が福岡本部へ転居。
- 2002年3月 46年間続いた日曜版を廃止、4月より新たに土曜版「be」を発刊する。
- 2003年6月 西部本社を北九州市小倉北区内で新築移転。
- 2004年1月1日 南極支局を開設。
- 2005年4月1日 コンピュータ製作による新聞製作システムをメーンフレームの「ネルソン」から新メディア系システムに移行、経営営業系システム等と統合へ。
- 2005年4月3日 実質的な日曜版の復活となる「be on Sunday」創刊。土曜日は「be on Saturday」に改題。
- 2005年会員制サイト・アスパラクラブスタート
- 2006年1月 朝日新聞創刊127周年記念した「ジャーナリスト宣言。」というキャッチコピーのもと、ANN系列外でも大々的に宣伝する。
- 2007年2月 読売新聞Webサイトの記事盗用発覚により、「ジャーナリスト宣言。」キャンペーンを自粛する。
紙面・論調
- 一般的に左派・リベラル言論の代表紙である。保守派からは左翼的、自虐史観的、中国の政策や北朝鮮の独裁政治に対する批判の欠如が問題視される傾向にある。実際の内容を見ると、中国・北朝鮮に対してほぼ無批判である。しかしながら記事ごとの思想的差異はかなり狭い。ただし後述するように、朝日新聞の論調は各時代で相当の変遷を経ていることにも注意されたい。
- 中国や北朝鮮、韓国に好意的な立場であり続ける一方、日本政府や公務員(但し日教組は除く)、保守思想に対する批判(保守を超えて日の丸、君が代に批判的)では容赦が無い。また、社説欄や天声人語だけでなく、投書欄(「声」欄)や読者投稿の短歌(「朝日歌壇」)においてそのような政治的意見や揶揄を語らせることもある。
- 他紙と比べると、科学欄ではかなり踏み込んだ専門的な記事もあり、文化欄や読書欄などでも紙面の充実を図っていることが特徴的である。
- 朝日新聞の論調は、敗戦を契機として百八十度の極端な変化がみられた日教組と同じく敗戦トラウマと揶揄されることが多いが、基本的に「戦後民主主義を先導する社会的エリート」という意識が強すぎるため、プライドが高くて他を見下す傾向にあり、報道におけるミスがあってもすんなり謝罪したり認めたりしないという点が認められる。
- 2001年で終わった土曜版の一コーナーである「紙面批評」の末期にはあえて自社を批判する評論家に書かせようとしたものの、社内幹部による記事検閲が執拗におこなわれ、かえって「紙面批評」が消滅する原因となった。
- 小泉政権以降、若い世代の右傾化に強い危機感を持っている。ネット右翼を含む、若者の右傾化についてしばしば特集記事を掲載している。2006年の小泉総理靖国参拝の際、NHKが携帯電話で賛否をとったことを、若い世代の意見に偏ると批判した。また同じ時期、ファッション欄に掲載されたワンポイントマーク復活の記事において、「メンズウエアの胸元に、ワンポイントマークが復活している。かつては中年男性のゴルフ用ポロシャツに、必ずついていた傘や熊などのマーク。それが今、おしゃれな装飾としてさまざまな形に進化している。」という書き出しから「そういえば、自らの国家や民族に固執する右翼系の若者が世界的に増えているという事実も、多少気になるところだが。」と結論付けた。
歴史
- 歴史的に見れば、朝日新聞の論調はその時々の時代状況などに応じて変化し、一定ではなかった。
- まず創刊期には、参議伊藤博文らが参議大隈重信を政府から追放した明治14年政変の翌年以降、政府と三井銀行から極秘裡に経営資金援助を受ける御用新聞として経営基盤を固めた。そしてその間に東京の「めさまし新聞」を買収して「東京朝日新聞」を創刊し、東京進出を果たした。さらに日露戦争前には主戦論を展開し、日露講和にも反対した。
- 大正デモクラシー期には憲政擁護運動の一角を担い桂太郎内閣を批判。寺内正毅内閣期には、同内閣だけでなく、鈴木商店を米の買い占めを行っている悪徳業者であると攻撃して米騒動を煽り、鈴木商店は焼き討ちにあった(白虹事件を参照)。しかしこの事件を再調査した城山三郎によれば、当時、鈴木商店が米を買い占めていた事実はなく、焼き討ちは大阪朝日新聞が事実無根の捏造報道を行ったことによる「風評被害」[1]で、鈴木商店と対立していた三井と朝日の「共同謀議」という仮説を立てている。
- 第一次世界大戦後は軍縮支持、シベリア出兵反対、普通選挙実施を主張していたこともあった。満州事変以降は概して対外強硬論を取るようになり、特に太平洋戦争中は他紙と同様、戦争翼賛報道を行う。そして終戦後、社説「自らを罪するの弁」(1945年8月23日)、声明「国民と共に立たん」(1945年11月7日)を発表して、路線転換する。ただ、終戦後の「転向宣言」や社説だけでもって、単純に社の性格を規定することはできない。また、2006年12月9日の社説「開戦65年 狂気が国を滅ぼした」内での「無謀な戦いを止められなかった無力を思うと」といった、自らが戦争を賛美・先導していた立場にもかかわらず、あたかも反戦派であったかのような論調は、執筆者ごとの世代の大きな間隔が見て取れる。
- 戦後の朝日新聞社においては、購読者層として政官財のトップエリートを含む社会の高学歴層に支持されてきた傾向がある。戦後、この層に濃厚に見られた社会の進歩への憧れ、あるいはこれを刺激する商品作りを進めたことが、朝日新聞の進歩的な論調の背景にあるという面も見逃せないが、(エリートとは無縁な)庶民意識との乖離も見られる。
- 公害問題や環境破壊を積極的に取り上げた側面も無視できない。またこのような社風は熱心な文化事業の展開につながってきた。イラク日本人人質事件においては契約記者が武装勢力に拉致されるという出来事が起こったが、朝日新聞社広報室はいち早く「イラク入りは本社の要請ではない」と発表。当該記者の自己責任を強調した。
注目を集めた報道
- 1959年7月14日号にて熊本大学医学部の水俣奇病総合研究班が水俣病の原因が有機水銀中毒であることを確認したと7月21日に予定されていた医学部水俣病研究会報告に先駆けてスクープ。先にこの情報をキャッチしていたらしい状況証拠のある熊本日日新聞は地元との利害関係に縛られて自由に動けなかったと推測されており、これより2日遅れの報道となる。この時点まで新日本窒素肥料水俣工場首脳部は工場付属病院が熊本大学に出している研究生から水銀説が確認されつつあるとの情報を得ていたものの黙殺しており、この報道で急遽水銀説否定のための資料集めを開始している。
疑義が持たれた報道、スキャンダル
- 1989年4月20日付の夕刊において、沖縄の自然環境保全地域指定海域にある世界一の大きさを誇るアザミサンゴ[2]に傷がつけられていることを取り上げ、その象徴として「K・Y」というイニシャルが刻まれた珊瑚の写真と共にモラル低下を嘆く記事を掲載する。しかし、疑問に思った地元ダイバーらの調査の結果、記者自身によって無傷の状態であったのに「K・Y」というイニシャルが刻まれたという捏造が発覚。[3][4]社長が引責辞任に追い込まれる事態へと発展した。こうして、朝日新聞はリクルート事件という一大スクープを放ったにもかかわらず、その年の新聞協会賞受賞を逃すことになる。
- 1991年から翌年にかけて「従軍慰安婦」問題の連載キャンペーンを展開、吉田清治著の『私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録』にある「昭和18年(1943年)に軍の命令で韓国の済州島で女性を強制連行して慰安婦にした」という体験談を、4回にわたり報道した。 この「体験談」は現代史家・秦郁彦の調査により嘘であることが判明し(『正論』1992年6月号)、吉田清治本人もフィクションであることを認めたにも関わらず(「諸君!」1998年11月号 秦郁彦)、朝日新聞は何ら反応を示さなかった。又、1991年8月11日付け朝日新聞は、社会面トップで「思い出すと今も涙」「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、「日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊として戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人が名乗り出た」と報じた。 この朝鮮人慰安婦の「女子挺身隊として戦場に連行され」たという話にも、「当時、女子挺身隊という制度自体が無いばかりか彼女は親により公娼として売られたことを語っており、全くの捏造である」との反対意見が出されたが(『諸君』1996年12月「慰安婦『身の上話』を徹底検証する」秦郁彦著)、朝日新聞は反応を示していない。
- 1996年、フリージャーナリストの岩瀬達哉は、雑誌『Views』に発表した「株式会社朝日新聞社の研究」(のち「朝日新聞社の研究」と改題して『新聞が面白くない理由』に収録)において、巻頭コラム「天声人語」の執筆者だった疋田桂一郎や、海外ルポルタージュで知られる本多勝一らの著名記者が、リクルートから、リクルート事件が発覚する前年の1987年に接待を受けていたと報じた。本多は編集長を務める雑誌『週刊金曜日』や、雑誌『噂の真相』での自身の連載記事・コラムで岩瀬の記事を捏造と非難した上、岩瀬に対し「講談社の番犬」「狂犬」「売春婦よりも本質的に下等」「(フリージャーナリストは)卑しい職業」の言葉を浴びせた。これに対し岩瀬は本多と疋田を名誉毀損で告訴し、本多も反訴した。東京高裁は2005年3月、岩瀬の記事について名誉毀損、また本多の反論も「限度を越えた」と認定、互いに敗訴で確定。
- 2002年6月にはFIFAワールドカップに関連して、「日本代表での最後の W 杯。 国の名誉という鎧を着せられた試合は楽しめない。 中田英寿選手が周囲に語る」との記事を掲載し、中田選手が否定して抗議したにもかかわらず謝罪しなかった。4ヵ月後、中田選手が再び日本代表になったときも、「記事内容と異なる結果になったことをお詫びします」と謝罪しつつ、あくまで報道自体は正しかったと主張した。
- 2002年4月20日の朝刊に掲載された有事法制に関する FAQ の中で、「ミサイルが飛んできたら?」という問いに対して「武力攻撃事態ということになるだろうけど、1発だけなら、誤射かもしれない」と回答した。
- 2004年、社会部記者が取材でミニディスクに無断録音し、さらに録音内容を第三者に渡したため朝日は記者を退社処分にした。朝日は処分の理由は無断録音ではなく、取材相手に敵対する側に内容を渡したからと説明しているが、結果的に今後取材の録音には相手の内諾を得ると内規を作った。
- 2005年1月12日、自民党の安倍晋三・中川昭一両議員から2001年1月30日放送のNHK番組の編集についてNHK上層部に圧力があったのではないかとする報道を行った。7月に、朝日新聞は上記報道の検証記事を掲載した。8月に社内関係者が番組改変の証拠とされる録音テープを魚住昭にリークして講談社の月刊誌『現代』に書かせた。9月30日、朝日新聞がNHK番組改変疑惑の信憑性の検証を委託した第三者機関「『NHK報道』委員会」が「(記者が疑惑を)真実と信じた相当の理由はあるにせよ、取材が十分であったとは言えない。」(「NHK報道」委員会の見解より引用)という見解を出す。これを受けて朝日新聞は取材の不十分さを認めた。一方で記事の訂正や、謝罪はなかった。委員会の見解でも、朝日新聞は検証が十分ではないと指摘されている。番組改変の記事を執筆した記者は激しい批判を受け、2006年に異動になった。
- 2005年8月21日の朝刊に亀井静香と田中康夫が長野県内で会談を行なったという記事が掲載された。この記事は、取材をともなわない虚像のメモをもとに作成されたもので、実際は東京都内で会談が行なわれていた。この事件などをきっかけとして朝日新聞の改革が行なわれた。詳細は朝日新聞の新党日本に関する捏造事件を参照。
- 2005年10月19日の朝刊で「首相の靖国参拝 賛否二分」という世論調査を元にした記事が掲載されたが、その記事の内容をめぐって前日に社員同士が暴力沙汰を起こし築地署に110番通報していたことが判明した。40代社員が30代社員に暴行を加え、警察に助けを求めようとした際に携帯電話を破壊したとされる。
- 皇室典範改正について2006年2月02日の社説で寛仁親王に発言を控えるよう忠告するが、昭和天皇の靖国に関する発言(いわゆる富田メモ)が報じられた後の7月21日の社説において「重く受け止めたい」とし、皇族の発言の政治利用についてオポチュニズムが徹底している。
- 2006年末から2007年初頭にかけて、静岡総局長の私有パソコンからWinnyを通じて個人情報および業務情報が流出した。これによって社員年収の情報も露呈して、格差社会の頂点に立つ朝日新聞の実情が明らかとなり、インターネットの掲示板で批判と羨望を受けた。
- 2007年1月6日の夕刊で「スポーツ総合誌 苦境」という記事が掲載された。この記事はスポーツ総合誌を「冬の時代に入った」と批判する内容であったが、"Number"(文藝春秋社)に関して事実と反する部分が存在した。
- 2007年2月1日、1月30日の夕刊で掲載された富山県のかんもち作りに関する記事で、朝日新聞東京本社編集局の駐在員が、読売新聞のインターネット版に27日に掲載された「寒風で育つかんもち」という記事を盗用していたことが判明する。問題の駐在員は、「読売新聞のホームページの記事を参考にしながら自分の原稿を書き直した」と話しているという。朝日新聞東京本社では1日午後に読売新聞に謝罪した。後に他の2件の記事も同じく読売新聞のホームページ記事から引用されていることが分かり、記事を書いた記者を解雇するなどの処分を行った。
- 漫画家の小林よしのりと対立関係にあり、彼の作品である「戦争論」等を巡って社説で数回にわたり直接批判した。朝日新聞が社説において一般人(政治家等以外の立場の人物)を複数にわたり批判したのは小林のみである。
社会主義陣営に対する報道とそれに対する批判
- 朝日新聞の中国報道は批判の中でよく言及される。朝日新聞の中国報道問題を参照。
- 主に朝日新聞の特定の記者への批判がなされている[5]。
- 最近の傾向は左翼的な記事が少なくなり、かなり中道よりの路線が多くなった。
題字とその地紋
- 朝日新聞の題字は、唐の書家・欧陽詢の『宗聖観記』の中の筆跡から作字したもので、1879年の創刊から使われている。題字の「新」の中の「木」の部分は「未」となっている。これは古い字体であり、この文字が書かれた当時は誤字ではなかった。またその「新」の字が『宗聖観記』の中に無かったことから、「親」の偏と「柝」の旁から点を取り除いたものを組み合わせて「新」を作字した。[6]
- 題字の地紋は、東日本(静岡県以東)と西日本(愛知県以西)で異なっている。東京本社と北海道支社の地紋は、1888年に「東京朝日新聞」として東京に進出した頃から使用している「サクラ」。「朝日ににほふ山桜花」の古歌の意味を表わしている。大阪本社と西部本社、名古屋本社の地紋は「浪速の葦(なにわのあし)」で、大阪で生まれた新聞であることを表わしている。なお、社旗も東日本と西日本で異なっており、東日本は朝の字が左端にあって旭光が右に向かっているのに対し、西日本はその逆となっている。それぞれ朝日が東日本・西日本を照らしている意味からきている。
文字表記
- 1950年代から、当用漢字表外の漢字の表記について、朝日新聞社が独自に簡略化した通称朝日文字と呼ばれる字体が使用されている。2007年1月15日からは、約900について朝日文字の使用を取りやめ、康煕字典体を使用している。
広告
- 大学教員や学校教師が愛読して他人にも読まそうとするので学生の読者も多い。そのためか就職情報などの広告が他紙に比べて多く大学入試の試験問題にも良く出される。
- 『週刊新潮』など自社に都合の悪いことを書くメディアの広告を拒否したり検閲したりする。
- 近年はさまざまな理由で広告収入減の傾向にある(そのためかもともと受け入れない方針の創価学会の広告を受け入れるようになった)。
関連著名人
- 安藤正純(元文部大臣)
- 池辺三山(元東京朝日新聞社主筆)
- 石井光次郎(元衆議院議長)
- 石川啄木(歌人)
- 伊豆冨人(元熊本日日新聞社社長)
- 上野精一(元朝日新聞社社長)
- 上野理一(元朝日新聞社社長)
- うつみ宮土理(タレント・作家)
- 緒方竹虎(元自由党総裁)
- 尾崎秀実(ゾルゲ事件で処刑)
- 川本三郎(評論家)
- 河野一郎(元農林大臣・建設大臣)
- 小坂徳三郎(元経済企画庁長官・運輸大臣)
- 佐々弘雄(元参議院議員・熊本日日新聞社社長)
- 志賀健次郎(元防衛庁長官)
- 篠田弘作(元自治大臣)
- 下村宏(元国務大臣(内閣情報局総裁)・NHK会長)
- 杉村楚人冠(随筆家、俳人)
- 鈴木正文(元労働大臣)
- 田岡俊次(ジャーナリスト・軍事評論家)
- 田川誠一(元新自由クラブ代表・自治大臣)
- 筑紫哲也(ジャーナリスト・テレビニュースキャスター)
- 永井道雄(元文部大臣)
- 中野正剛(元衆議院議員・東方会総裁)
- 夏目漱石(小説家)
- 野田武夫(元自治大臣)
- 野村秀雄(元NHK会長・熊本日日新聞社社長)
- 橋本登美三郎(元建設大臣・官房長官・運輸大臣)
- 長谷川如是閑(ジャーナリスト、文明評論家)
- 羽田武嗣郎(元衆議院議員。元内閣総理大臣羽田孜の父)
- 服部敬雄(元山形新聞社社長)
- 広岡知男(元朝日新聞社社長)
- 藤井丙午(元新日鉄副社長・参議院議員)
- 二葉亭四迷(小説家)
- 古垣鐵郎(元NHK会長)
- 細川護熙(元内閣総理大臣)
- 本多勝一(ジャーナリスト)
- 前田多門(元文部大臣・初代ソニー社長)
- 前田義徳(元NHK会長)
- 松井やより(ジャーナリスト)
- 松島みどり(自由民主党衆議院議員)
- 松本清張(作家)
- 美土路昌一(初代全日空社長・元朝日新聞社社長)
- 村山長挙(元朝日新聞社社長)
- 村山美知子(朝日新聞社社主)
- 村山龍平(元朝日新聞社社長)
- 笠信太郎(元朝日新聞社論説主幹(常務取締役))
関連項目
4コマ漫画
- ののちゃん(となりの山田くん) - いしいひさいち作 - 2005年12月現在連載中
- 地球防衛家のヒトビト - しりあがり寿 - 2005年12月現在連載中
- サザエさん - 長谷川町子作 - 1940年代後半~1974年2月21日
- フジ三太郎 - サトウサンペイ作 - 1965年4月1日~1991年9月30日
ポッドキャスティング
参考文献
- 古森義久+井沢元彦+稲垣武(共著)『朝日新聞の大研究』(扶桑社)
- 稲垣武『朝日新聞血風録』(文春文庫)
- 片岡正巳『朝日新聞の「戦後」責任』(展転社)
- 小林よしのり、井沢元彦『朝日新聞の正義』(小学館)
- 読売新聞論説委員会編『読売VS朝日 21世紀・社説対決』『読売VS朝日 社説対決・北朝鮮問題』『読売VS朝日 社説対決・50年』(中公新書ラクレ)
- 城山三郎『鼠 鈴木商店焼打ち事件』(文春文庫)
- 安田将三+石橋孝太郎(共著)『朝日新聞の戦争責任』(太田出版)
- 田辺敏雄『朝日に貶められた現代史』(全貌社)
- 国際情勢風刺寓話集ニホンちゃん
脚註
- ↑ 情報紙『有鄰』No.385 P1
- ↑ 太平洋資源開発研究所ホームページ内アザミサンゴ発見
- ↑ 太平洋資源開発研究所ホームページ内アザミサンゴ KY事件
- ↑ 朝日新聞社「落書き、ねつ造でした」 朝日新聞朝刊 1面 朝日新聞社 1989年5月20日
- ↑ ただし、1980年代ごろ迄の朝日新聞を批判した書籍によれば、朝日新聞の報道姿勢は「親ソ連的の反面、同じ共産主義国の中国に対しては批判的であり、二重基準を取っている」とされていた。そのため、近年になって過去の経緯が忘れられて主張されている面もある。
- ↑ 大修館書店「漢字Q&A(その4)(Q0161)」
外部リンク
- asahi.com:朝日新聞の速報ニュースサイト - 朝日新聞による公式ニュースサイト
- 朝日新聞アスパラクラブ - 愛読者のクラブ
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