「石原慎太郎」の版間の差分
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− | + | [[ファイル:Ishihara Mishima.jpg|thumbnail|240px|[[三島由紀夫]]と。奥にいるのが石原。[[1956年]]、[[千代田区]][[紀尾井町]]の[[文藝春秋|文春ビル]]にて]] | |
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− | [[ | + | 都知事就任以降、毎年[[8月15日]]に[[靖国参拝]]する。[[新しい歴史教科書をつくる会]]に賛同している。[[日本会議]]代表委員、[[戸塚ヨットスクール]]を支援する会会長を務める。[[江藤淳]]の後を引き継ぎ、[[産経新聞]]に[[エッセイ]]『日本よ』を連載している。 |
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− | [[ | + | [[趣味]]は[[ヨット]]、[[テニス]]、[[スキューバダイビング]]、[[射撃]]。身長181cm、体重77kg、[[天秤座]]。[[俳優]]の[[石原裕次郎]]は弟。家族は妻 ([[石原典子]]) と4男 ([[自由民主党幹事長]]の[[石原伸晃]]は長男、俳優・[[タレント]]の[[石原良純]]は次男、前[[衆議院議員]]の[[石原宏高]]は三男、[[画家]]の[[石原延啓]]は四男) 。 |
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− | [[ | + | * [[1932年]] (昭和7年) |
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− | [[ | + | * [[1934年]] (昭和9年) |
− | [[ | + | : 12月28日 - 弟の[[石原裕次郎|裕次郎]]が生まれる。 |
− | [[ | + | * [[1936年]] (昭和11年) |
− | [[ | + | : 6月 - 父が小樽出張所主任となり[[北海道]][[小樽市]]に転居。[[学校法人藤学園|小樽藤幼稚園]]卒園し[[小樽市立稲穂小学校|稲穂国民学校]]に進学 |
− | [[ | + | * [[1943年]] (昭和18年) |
− | [[ | + | : 2月 - 父が東京支店副長の辞令を受け神奈川県[[逗子市]]に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者[[山下亀三郎]]の別邸。 |
− | [[ | + | * [[1945年]] (昭和20年) |
− | [[ | + | : 4月 - 神奈川県立湘南中学(後の[[神奈川県立湘南高等学校]])へ進学。 |
− | [[ | + | * [[1949年]] (昭和24年) |
+ | : 立身出世主義的な校風に反撥し、胃腸の病を口実に1年間[[休学]。休学中は[[文学]]・[[美術]]・[[演劇]]・[[音楽]]・[[映画]]に耽溺し、[[フランス語]]を学習。 | ||
+ | * [[1951年]] (昭和26年) | ||
+ | : 10月 - 父が[[脳溢血]]で急死。山下近海汽船[[社長]][[二神範蔵]]から一橋大への進学と、当時できたばかりの[[公認会計士]]の取得を強くすすめられる。 | ||
+ | * [[1952年]] (昭和27年) | ||
+ | : 4月 - [[一橋大学]]法学部に入学。柔道部、サッカー部に入部する。[[簿記]]や[[会計学]]などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する。 | ||
+ | * [[1955年]] (昭和30年) | ||
+ | : 12月 - 当時18歳だった石田由美子 (後に典子と改名) と[[結婚]]。 | ||
+ | * [[1956年]] (昭和31年) | ||
+ | : 1月 - 『[[太陽の季節]]』により第34回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を当時史上最年少で受賞、[[ベストセラー]]となる。一橋大学[[法学部]]を[[卒業]]。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「[[太陽族]]」、「[[スポーツ刈り#慎太郎刈り|慎太郎刈り]]」が流行する。 | ||
+ | :映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊等を行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、[[映画倫理委員会]] (通称、映倫) が作られる契機となった。 | ||
+ | * [[1957年]] (昭和32年) | ||
+ | : 4月19日 - 長男・[[石原伸晃|伸晃]]が誕生。 | ||
+ | * [[1958年]] (昭和33年) | ||
+ | : - [[東宝]]で映画「若い獣」の[[監督]]を務める。また、[[大江健三郎]]、[[江藤淳]]、[[谷川俊太郎]]、[[寺山修司]]、[[浅利慶太]]、[[永六輔]]、[[黛敏郎]]、[[福田善之]]ら若手文化人らと「[[若い日本の会]]」を結成し、[[安保闘争|60年安保]]に反対。 | ||
+ | * [[1960年]] (昭和35年) | ||
+ | : - 隊長として、南米横断1万キロ・[[ラリー]]に[[ラビットスクーター]]で参加。 | ||
+ | * [[1962年]] (昭和37年) | ||
+ | : 1月15日 - 二男・[[石原良純|良純]]が誕生。 | ||
+ | * [[1963年]] (昭和38年) | ||
+ | : 3月 - 『[[狼生きろ豚は死ね・幻影の城]]』を新潮社より出版。 | ||
+ | * [[1964年]] (昭和39年) | ||
+ | : 6月19日 - 三男・[[石原宏高|宏高]]が誕生。 | ||
+ | * [[1966年]] (昭和41年) | ||
+ | : - 四男・[[石原延啓|延啓]]が誕生。 | ||
+ | * [[1967年]] (昭和42年) | ||
+ | : - [[読売新聞社]]の依頼で、[[ベトナム戦争]]を取材。 | ||
+ | * [[1968年]] (昭和43年) | ||
+ | : 7月 - [[第8回参議院議員通常選挙]]に[[自由民主党 (日本)|自民党]]から[[全国区]]に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。2位[[青島幸男]]・3位[[上田哲]]であり、ライバル関係になっていた。 | ||
+ | * [[1969年]] (昭和44年) | ||
+ | : 11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。 | ||
+ | * [[1972年]] (昭和47年) | ||
+ | : 11月25日 - 参議院議員を辞職。 | ||
+ | : 12月10日 - [[第33回衆議院議員総選挙|衆議院選挙]]に[[東京都第2区 (中選挙区)|旧東京2区]]から無所属で出馬して当選。後に自民党に復党。 | ||
+ | * [[1973年]] (昭和48年) | ||
+ | : 7月 - [[渡辺美智雄]]、[[中川一郎]]、[[浜田幸一]]らと憲法改正や金権政治の打破を謳った[[タカ派]]集団「[[青嵐会]]」を結成。 | ||
+ | * [[1975年]] (昭和50年) | ||
+ | : 3月18日 - 衆議院議員を辞職。 | ||
+ | : 4月13日 - 現職の[[美濃部亮吉]]に挑戦する形で[[1975年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。 | ||
+ | * [[1976年]] (昭和51年) | ||
+ | : 12月5日- 衆院選で国政に復帰(同区で[[民社党]]新人[[大内啓伍]]も当選)。同月24日発足の[[福田赳夫内閣_(改造)]]で[[環境大臣|環境庁長官]]に就任。 | ||
+ | * [[1981年]] (昭和56年) | ||
+ | : - 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。 | ||
+ | * [[1983年]] (昭和58年) | ||
+ | : - [[自由民主党の派閥]]、[[自由革新同友会]]を継いで代表就任、後に[[清和会]]へ合流。[[黒シール事件]]によって[[野村秋介]]より抗議を受ける。 | ||
+ | * [[1987年]] (昭和62年) | ||
+ | : 7月17日 - 弟・裕次郎が[[肝細胞癌]]で逝去 (52歳) 。 | ||
+ | : 11月6日 - [[竹下内閣]]で[[運輸大臣]]に就任。 | ||
+ | * [[1988年]] (昭和63年) | ||
+ | : 4月8日 - 『漁業施設がヨットに危険』と発言し、[[海上保安庁]]に漁業施設を総点検させることになる。 | ||
+ | * [[1989年]] (平成元年) | ||
+ | : 8月8日 - [[亀井静香]]・[[平沼赳夫]]・[[園田博之]]らに推される形で[[自民党総裁選]]に出馬するも[[竹下派]]が推す[[番町政策研究所|河本派]]の[[海部俊樹]]に敗れる。 『[[「NO」と言える日本]]』を[[盛田昭夫]]と共著で出版。 | ||
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+ | * [[1995年]] (平成7年) | ||
+ | : 4月14日 - [[国会議員]]在職25年表彰の国会演説で突然の議員辞職を表明(最初の地盤継承者は[[栗本慎一郎]])。 | ||
+ | * [[1996年]] (平成8年) | ||
+ | : - 弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。 | ||
+ | * [[1999年]] (平成11年) | ||
+ | : 4月11日 - [[1999年東京都知事選挙]]に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。[[鳩山邦夫]]、[[舛添要一]]、[[明石康]]、[[柿澤弘治]]ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選 (舛添と喧嘩別れした栗本や、栗本が同年末に復党する[[政党自由連合]]代表[[徳田虎雄]]の支援受けた) | ||
+ | * [[2003年]] (平成15年) | ||
+ | : 4月13日 - [[2003年東京都知事選挙]]に出馬。308万票(得票率史上最高)を獲得し、[[樋口恵子]]、[[若林義春]]らを破り再選。石原の圧勝が事前に予想されていたためか、珍しく候補者の少ない都知事選であった。 | ||
+ | * [[2004年]] (平成16年) | ||
+ | : 11月17 - 21日 - 「弟」テレビドラマ化。 | ||
+ | * [[2007年]] (平成19年) | ||
+ | : 4月8日 - [[2007年東京都知事選挙]]に出馬。投票の過半数にあたる281万票を獲得し、[[浅野史郎]]、[[吉田万三]]、[[黒川紀章]]らを破り3選。 | ||
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+ | * [[2010年]] (平成20年) | ||
+ | : 4月10日 [[たちあがれ日本]]・応援団長就任 | ||
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+ | : 4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、[[2011年東京都知事選挙]]に出馬を決断し、立候補。[[東国原英夫]]、[[小池晃]]らを破り、2,615,120票を獲得して四選を果たした (得票率は43.4%) 。 | ||
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+ | == 学生時代 == |
2012年5月2日 (水) 15:11時点における版
石原 慎太郎 (いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎、1932年 (昭和7年) 9月30日 - ) は、日本の政治家、作家。東京都知事 (第14・15・16・17代) 。
参議院議員 (1期) 、衆議院議員 (8期) 、環境庁長官 (第8代) 、運輸大臣 (第59代) を歴任した。
所属政党 = (自由民主党→) (無所属→) (自由民主党→) 無所属
- 東京都 第14・15・16・17代東京都知事 当選回数4回
- 1968年7月8日~1972年11月25日第33回衆議院議員総選挙立候補により自動失職
概要
兵庫県神戸市須磨区生まれ。湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。
一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。大学在学中の1956年 (昭和31年) に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』 (盛田昭夫との共著) 、弟・裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。現在、芥川賞選考委員。
ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、1968年 (昭和43年) に参議院議員選挙に全国区から出馬し初当選。1972年 (昭和47年) には衆議院に鞍替え出馬し当選、以後当選8回。1975年 (昭和50年) 、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬するも落選。その後衆議院議員に復帰し、1976年 (昭和51年) に福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年 (昭和62年) に竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年 (平成元年) には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年 (平成7年) 、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如議員辞職を表明した。
1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康・柿澤弘治といった有力候補を抑え初当選する。2003年東京都知事選挙では史上最高の得票率で再選、2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り3選を果たす。2011年東京都知事選挙では当初不出馬が取り沙汰されたものの、東国原英夫らを破り4選。
都知事就任以降、毎年8月15日に靖国参拝する。新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。江藤淳の後を引き継ぎ、産経新聞にエッセイ『日本よ』を連載している。
趣味はヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。身長181cm、体重77kg、天秤座。俳優の石原裕次郎は弟。家族は妻 (石原典子) と4男 (自由民主党幹事長の石原伸晃は長男、俳優・タレントの石原良純は次男、前衆議院議員の石原宏高は三男、画家の石原延啓は四男) 。
石原は様々な差別的思想の考えを持っており、それに関しての部分が批判されることもあるが、逆に作家としての能力は高く評価されている。
略年譜
- 1932年 (昭和7年)
- 9月30日 - 兵庫県神戸市須磨区にて海運会社山下汽船に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県の長浜町に生まれ、旧制宇和島中学 (現在の宇和島東高校) を中退し山下汽船に入社した。店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社の重役にまで出世した。母・光子は広島県厳島の出身。なお石原自身は神奈川県を出身地としている。
- 1934年 (昭和9年)
- 12月28日 - 弟の裕次郎が生まれる。
- 1936年 (昭和11年)
- 1943年 (昭和18年)
- 1945年 (昭和20年)
- 4月 - 神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
- 1949年 (昭和24年)
- 1951年 (昭和26年)
- 1952年 (昭和27年)
- 1955年 (昭和30年)
- 12月 - 当時18歳だった石田由美子 (後に典子と改名) と結婚。
- 1956年 (昭和31年)
- 1月 - 『太陽の季節』により第34回芥川賞を当時史上最年少で受賞、ベストセラーとなる。一橋大学法学部を卒業。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行する。
- 映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊等を行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会 (通称、映倫) が作られる契機となった。
- 1957年 (昭和32年)
- 4月19日 - 長男・伸晃が誕生。
- 1958年 (昭和33年)
- 1960年 (昭和35年)
- 1962年 (昭和37年)
- 1月15日 - 二男・良純が誕生。
- 1963年 (昭和38年)
- 3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
- 1964年 (昭和39年)
- 6月19日 - 三男・宏高が誕生。
- 1966年 (昭和41年)
- - 四男・延啓が誕生。
- 1967年 (昭和42年)
- 1968年 (昭和43年)
- 7月 - 第8回参議院議員通常選挙に自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。2位青島幸男・3位上田哲であり、ライバル関係になっていた。
- 1969年 (昭和44年)
- 11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
- 1972年 (昭和47年)
- 1973年 (昭和48年)
- 1975年 (昭和50年)
- 1976年 (昭和51年)
- 12月5日- 衆院選で国政に復帰(同区で民社党新人大内啓伍も当選)。同月24日発足の福田赳夫内閣_(改造)で環境庁長官に就任。
- 1981年 (昭和56年)
- - 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
- 1983年 (昭和58年)
- 1987年 (昭和62年)
- 1988年 (昭和63年)
- 4月8日 - 『漁業施設がヨットに危険』と発言し、海上保安庁に漁業施設を総点検させることになる。
- 1989年 (平成元年)
- 1990年 (平成2年)
- 2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙が旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
- 1995年 (平成7年)
- 1996年 (平成8年)
- - 弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。
- 1999年 (平成11年)
- 4月11日 - 1999年東京都知事選挙に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。鳩山邦夫、舛添要一、明石康、柿澤弘治ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選 (舛添と喧嘩別れした栗本や、栗本が同年末に復党する政党自由連合代表徳田虎雄の支援受けた)
- 2003年 (平成15年)
- 4月13日 - 2003年東京都知事選挙に出馬。308万票(得票率史上最高)を獲得し、樋口恵子、若林義春らを破り再選。石原の圧勝が事前に予想されていたためか、珍しく候補者の少ない都知事選であった。
- 2004年 (平成16年)
- 11月17 - 21日 - 「弟」テレビドラマ化。
- 2007年 (平成19年)
- 4月8日 - 2007年東京都知事選挙に出馬。投票の過半数にあたる281万票を獲得し、浅野史郎、吉田万三、黒川紀章らを破り3選。
- 2010年 (平成20年)
- 4月10日 たちあがれ日本・応援団長就任
- 2011年 (平成23年)
- 4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、2011年東京都知事選挙に出馬を決断し、立候補。東国原英夫、小池晃らを破り、2,615,120票を獲得して四選を果たした (得票率は43.4%) 。