「オールナイトニッポン」の版間の差分
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|1974年{{0}}7月 | |1974年{{0}}7月 | ||
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!記録!!パーソナリティ!!終了年月!!復帰年月!!中断期間 | !記録!!パーソナリティ!!終了年月!!復帰年月!!中断期間 |
2024年2月5日 (月) 12:10時点における版
『オールナイトニッポン』(英称:All Night-NIPPON)は、日本のラジオ放送局・ニッポン放送をキー局として日本全国で放送されているラジオの深夜放送。通称「オールナイト」、「ANN」。なお、ここでは現在の放送枠である25:00 - 27:00の内容のほか、「オールナイトニッポン」をタイトル内に含む番組全体の歴史などについても記述する。詳細については枠・番組の記事をそれぞれ参照のこと。
目次
概要
1967年(昭和42年)10月2日の番組開始以来のラジオ放送の長寿番組である。放送開始当初から今日に至るまで全国的な人気を誇り、深夜放送の代名詞的存在となっている。この番組から数多くの人気ラジオパーソナリティが生まれ、「若手芸能人の登竜門」とも呼ばれる。 さらに、ニッポン放送といえば「オールナイトニッポン」といわれるほどのニッポン放送を代表する看板番組であり、現在ニッポン放送制作番組の中で、放送期間は『テレフォン人生相談』に次ぐ第2位となっている。(すでに放送を終了した番組を含めると、『新日鉄コンサート』・『テレフォン人生相談』に次いで第3位となる[1]。)
また、1999年より「LF+R」時代の『SUPER!』・『com』・『r』や、「LF+R」後の『いいネ!』・『エバーグリーン』、『GOLD』、『0(ZERO)』などオールナイトニッポンブランドで多くの番組が放送されてあり、本来の25-29時枠の他、「LF+R」導入後は22-24時枠でも断続的に「オールナイトニッポン」の名を冠す番組が放送されている。詳しくは「ニッポン放送の夜ワイドの変遷」を参照。
現在は、旧1部(25:00 - 27:00)を『オールナイトニッポン』、旧2部(27:00 - 29:00)を『オールナイトニッポン0(ZERO)』、『オールナイトニッポンR(土曜日のみ)』と称している。
放送時間
ネット詳細は下記参照
- オールナイトニッポン
- 月-土曜 25:00 - 27:00(36局ネット)
- 月曜-木曜 27:00 - 28:30(11局ネット、2局は28:00で飛び降り)
- 金曜 27:00 - 29:00(11局ネット、2局は28:00で飛び降り)
- 土曜 27:00 - 29:00(20局ネット、8局は28:00、ニッポン放送は28:30で飛び降り)
- 月曜-木曜 22:00 - 23:50(月曜は19局ネット、火-木曜は20局ネット)
- 土曜 23:30 - 25:00(34局ネット)
- 日曜 27:00 - 29:00(月1回放送、9局ネット)
現在のパーソナリティ
放送曜日 | 名称 | パーソナリティ | 放送方式 | 番組開始日 |
---|---|---|---|---|
オールナイトニッポン PODCAST(月曜-土曜 18:00頃 - 配信) | ||||
月曜日 | オールナイトニッポンPODCASTトータルテンボスのぬきさしならナイト! Season2 | トータルテンボス | 録音(配信) | 2020年5月18日 |
火曜日 | オールナイトニッポンPODCAST 蛙亭のトノサマラジオ | 蛙亭 | 2021年10月5日 | |
水曜日 | \u003Csmall>オールナイトニッポンPODCAST\u003C/small>銀シャリのおトぎばなし | 銀シャリ | 2021年3月3日 | |
木曜日 | \u003Csmall>オールナイトニッポンPODCAST\u003C/small>アンガールズのジャンピン | アンガールズ | 2021年10月7日 | |
金曜日 | \u003Csmall>オールナイトニッポンPODCAST\u003C/small>トム・ブラウンのニッポン放送圧縮計画 | トム・ブラウン | 2021年10月8日 | |
土曜日 | ○○(パーソナリティー名)のオールナイトニッポンPODCAST | (月替わり) | 2021年10月9日 | |
オールナイトニッポン MUSIC10(月曜-木曜 22:00 - 24:00) | ||||
月曜日 | オールナイトニッポン MUSIC10 | 森山良子 | 生放送 | 2015年9月28日 |
火曜日 | 鈴木杏樹 | 2015年9月30日 | ||
第1・3水曜日 | 名取裕子 | 2015年9月29日 | ||
第2水曜日 | 森高千里 | 2020年4月8日 | ||
第4水曜日 | 岸谷香 | 2020年4月22日 | ||
木曜日 | 渡辺満里奈 | 2018年1月4日 | ||
オールナイトニッポンGOLD(金曜 22:00 - 24:00) | ||||
第1金曜日 | あいみょんのオールナイトニッポンGOLD | あいみょん | 生放送or録音 | 2023年4月7日 |
第2・4金曜日 | オールナイトニッポンGOLD スペシャルナイト | (週替わり) | 2013年10月11日 | |
第3金曜日 | 松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD | 松任谷由実 | 2016年4月22日 | |
最終金曜日 | ラブライブ!シリーズのオールナイトニッポンGOLD | ラブライブ!シリーズ | 2020年7月24日 | |
オールナイトニッポンX(月曜-木曜 24:00 - 24:58/金曜 24:00 - 25:00) | ||||
月曜日 | 山田裕貴のオールナイトニッポンX | 山田裕貴 | 生放送 | 2022年4月4日 |
火曜日 | 緑黄色社会・長屋晴子のオールナイトニッポンX | 長屋晴子(緑黄色社会) | 2022年4月5日 | |
水曜日 | JO1のオールナイトニッポンX | JO1(レギュラー:白岩瑠姫) | 2022年4月6日 | |
木曜日 | ○○(パーソナリティー名)のオールナイトニッポンX | (週替わり) | 2022年4月7日 | |
最終木曜日 | 高橋文哉のオールナイトニッポンX | 高橋文哉 | 2022年5月26日 | |
金曜日 | EXITのオールナイトニッポンX | EXIT | 2022年4月8日 | |
オールナイトニッポン(月曜-土曜 25:00 - 27:00) | ||||
月曜日 | Adoのオールナイトニッポン | Ado | 生放送 | 2023年4月3日 |
火曜日 | 星野源のオールナイトニッポン | 星野源 | 2016年3月28日 | |
水曜日 | 乃木坂46のオールナイトニッポン | 乃木坂46(レギュラー:久保史緒里
[10] )||2019年4月3日 | ||
木曜日 | ナインティナインのオールナイトニッポン | ナインティナイン | 2020年5月14日 | |
金曜日 | 霜降り明星のオールナイトニッポン | 霜降り明星 | 2021年4月3日 | |
土曜日 | \u003Csmall>ニチレイ presents\u003C/small>オードリーのオールナイトニッポン | オードリー | 2009年10月10日 | |
オールナイトニッポン0(ZERO)(月曜-木曜 27:00 - 28:30/金曜 27:00 - 29:00/土曜 27:00 - 28:50) | ||||
月曜日 | フワちゃんのオールナイトニッポン0(ZERO) | フワちゃん | 生放送 | 2022年4月4日 |
火曜日 | あののオールナイトニッポン0(ZERO) | あの | 2023年4月4日 | |
水曜日 | 佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO) | 佐久間宣行 | 2019年4月3日 | |
木曜日 | マヂカルラブリーのオールナイトニッポン0(ZERO) | マヂカルラブリー | 2021年4月1日 | |
金曜日 | 三四郎のオールナイトニッポン0(ZERO) | 三四郎 | 2021年4月2日 | |
土曜日 | ○○(パーソナリティー名)のオールナイトニッポン0(ZERO) | (週替わり) | 生放送or録音 | 2018年4月7日 |
最終土曜日 | 日向坂46・松田好花のオールナイトニッポン0(ZERO) | 松田好花(日向坂46) | 生放送 | 2023年10月28日 |
オールナイトニッポンサタデースペシャル(土曜 23:30 - 25:00) | ||||
土曜日 | SixTONESのオールナイトニッポンサタデースペシャル | SixTONES(レギュラー:田中樹) | 生放送 | 2020年4月4日 |
オールナイトニッポン月イチ(日曜 27:00 - 29:00) | ||||
日曜日(毎月1回) | 高嶋ひでたけのオールナイトニッポン月イチ | 高嶋ひでたけ | 生放送or録音 | 2019年4月14日 |
記録 (アナウンサーは含まない)
(2023年2月現在)
出演期間 | ||||
---|---|---|---|---|
記録 | パーソナリティ | 開始年月 | 終了年月 | 出演期間 |
最長レギュラーパーソナリティ | 岡村隆史 | 1994年 | 4月担当中 | 28年 | 10か月-
昇格関連 | ||||
記録 | パーソナリティ | 開始年月 | 昇格年月 | 出演期間 |
番組初昇格 | イルカ | 1974年 | 7月1975年 | 1月0年 6か月 |
-R初昇格 | ゆず | 1998年 | 4月1998年10月 | |
-ZERO初昇格 | 久保ミツロウ&能町みね子 | 2012年 | 4月2013年 | 4月1年 0か月 |
最短期間での昇格 | ダディ竹千代 | 1980年 | 4月1980年 | 7月0年 3か月 |
ナインティナイン | 1994年 | 4月1994年 | 7月||
最長期間での昇格 | 三四郎 | 2015年 | 3月2019年 | 4月4年 0か月 |
Creepy Nuts | 2018年 | 4月2022年 | 4月||
復帰関連 | ||||
記録 | パーソナリティ | 終了年月 | 復帰年月 | 中断期間 |
番組初復帰 | あのねのね | 1973年12月 | 1974年10月 | 0年 9か月 |
最短期間での復帰 | 松村邦洋 | 1996年 | 6月1996年10月 | 0年 3か月 |
村本大輔 | 2015年 | 3月2015年 | 7月||
最長期間での復帰 | 鴻上尚史 | 1989年 | 3月2018年 | 1月28年 | 9か月
パーソナリティの記録
(2015年6月現在 アナウンサーは含まない)
出演期間[17] | ||||
---|---|---|---|---|
記録 | パーソナリティ | 出演期間 | ||
最長レギュラーパーソナリティ | 岡村隆史 | 21年[18] | 3ヶ月~||
最短レギュラーパーソナリティ | hide | 0年 1ヶ月 | ||
昇格・降格関連 | ||||
記録 | パーソナリティ | 昇格・降格年月 | ||
番組初昇格 | イルカ | 1975年 | 1月||
-R初昇格 | ゆず | 1998年10月 | ||
-ZERO初昇格 | 久保ミツロウ&能町みね子 | 2013年 | 4月||
-番組初降格 | 小峯隆生 | 1987年10月[19] | ||
記録 | パーソナリティ | 放送期間 | ||
最短期間での昇格 | ナインティナイン | 0年 3ヶ月 | ||
最長期間での昇格 | ロンドンブーツ1号2号 | 1年 6ヶ月 | ||
復帰関連[20] | ||||
記録 | パーソナリティ | 復帰年月 | ||
番組初復帰 | あのねのね | 1974年10月 | ||
記録 | パーソナリティ | 中断期間 | ||
最短期間での復帰 | 松村邦洋 | 0年 3ヶ月 | ||
最長期間での復帰[21] | 中島みゆき | 26年 | 0ヶ月
パーソナリティの変遷
ニッポン放送の夜ワイドの変遷 を参照
歴史
番組黎明期・第1次黄金期(1967年 - 1972年)
前身となる番組はニッポン放送にて1959年10月10日から放送していた『オールナイトジョッキー』(DJ:糸居五郎)が当てはまる。子会社の「株式会社深夜放送」[22]が制作していたこの番組は、糸居が選曲・ターンテーブルの操作といった通常はスタッフが行う作業を一人でこなすというディスクジョッキースタイルであり、それが局の省力化した番組を作れないかという思惑と合致していたことから、番組を発展させる形で『オールナイトニッポン』は放送を開始した。
また、背景として1960年代半ばの不況と、1964年の東京オリンピックによるテレビの躍進により広告収入が激減し、ラジオ業界にとっては新しいリスナーの層と広告主(スポンサー)の開拓を迫られていた(ラジオ離れ#1960年代も参照)事がある。その状況に対し、ニッポン放送は1964年4月より「オーディエンス・セグメンテーション」編成を導入し編成方針を抜本的に見直していたが、その動きが深夜に波及したことも影響している。
放送が開始された1960年代後半というのは、いわゆる団塊の世代が大学生生活を送っていた時代であり、『オールナイトニッポン』はそのような大学生、また受験勉強に明け暮れている高校生・中学生(しらけ世代)にターゲットを絞り、それまでテレビやラジオで流れることはほとんどなかったビートルズやレッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックスなど海外のロックミュージックからザ・フォーク・クルセダーズなど日本のフォークソングまで、若者世代の最先端を走る音楽をふんだんに流す編成とした。
- スタート当時、ニッポン放送の新入社員で広報部員だった中川公夫は、「それまでもそれなりにスポンサーはいたわけですからね。それを全部すっ飛ばして新しいスポンサーを探すとか、かなり大胆なことでエネルギーもいる仕事だったんですよ。その作業が大変だったんじゃないかな。」と話し、後に自らもDJを務める亀渕昭信も「当時の編成や営業が偉かったと思うのは、今のままじゃいけない、もっと若い人を開拓しないといけないと決断したこと。しかも、始まったばかりでそんなに知られていない番組もスポンサーに安売りをしなかった。我慢した。1年たったら、本当に有名な番組になりましたもん」と話している。
1967年10月1日深夜から放送開始。放送時間は月曜日~土曜日25:00 - 29:00(翌日未明1:00 - 5:00)。当初のDJ(「パーソナリティ」と呼ぶようになったのは1969年頃から)はニッポン放送アナウンサーの糸居五郎(月曜日)、斉藤安弘(火曜日)、高岡尞一郎(水曜日)、今仁哲夫(木曜日)、常木建男(金曜日)、高崎一郎(土曜日。高崎はアナウンサーではなかったが、プロデューサー兼DJとしてニッポン放送の番組に出演していた)。初回放送のDJは、前身番組「オールナイトジョッキー」のDJだった糸居が務めた。
当時編成部長だった羽佐間重彰は、番組を立ち上げるに当たって、次のような大原則を立てている。
- 外部のタレントではなく、アナウンサーやディレクターといったニッポン放送内部の人間を起用する
- スポンサーを付けない
- 提供スポンサーから番組内容に口出しされることを嫌ったため、番組開始後半年間はスポンサーを付けなかった。のちにスポンサーを付ける際にも、「協賛スポンサー」という形で、番組内容にはタッチしないことを条件としており、パーソナリティがスポンサー名を読み上げる際、「以上各社の協賛で」と付け加えるのはこの原則に由来する。ほかの原則は現在では崩れているなかで、「協賛スポンサー」の原則は現在も守られている。
- 狭いスタジオを使う、ゲストは呼ばない
- 狭いスタジオに閉じこめ孤独感を味わわせることで、聴取者と一対一で喋っているような感覚にさせる。同様にゲストを呼ぶことも禁止した。
- 下ネタはやらない
- 『オールナイトニッポン』開始前は、深夜帯はお色気番組全盛だった。高崎も懇意にしていた盛田昭夫から「これではソニーのトランジスタラジオが売りにくい」と苦言を呈されていたという。
- 40周年となった2007年10月1日、『BEAT CRUSADERS ヒダカトオルのオールナイトニッポン』に特別出演した斉藤安弘は、「ニッポン放送の品位に関わることであって、それで他局に負けてはならないということで、下ネタはやらなかった。そのため、相手を置かずに一人でやった」と語った。その一方、「下ネタはやらない代わりに、自分は26時になると、トイレの話を専門にしていた」とも言った。
- その時の放送中のスタジオの様子について、1968年に入社し、後にディレクターとして名をはせる鈴木隆は「(有楽町の旧社屋の)第5スタジオというのが4階にあって、そこで『オールナイト』をやっていたんだけど、とにかく静かでしたよ。なぜかというと、ディレクターが一人しかいない。ミキサーも兼ねているわけですから。構成作家もいないし、しゃべり手が自分でハガキを選んで曲を決める。基本的にそれだけだし、ちょっと、仕掛けを考えるのも本人ですし。それが第一次黄金時代のパターンですよ。だから、ディレクターにも責任があるし、緊張感ありますよね。僕らが夜中に通ってもスタジオには入れなかったんですもん。外から覗いて『やってるな』という印象は強烈にありましたね」と語っている。
番組のコンセプトとして中川は、「基本は音楽番組の発想、何をしゃべるかについては自分で考える。リスナーからのハガキを使ってもいいし、自分の身辺で起こったことでもいい。困ったら曲をかければいいというイージーな部分をありましたね。」と話している。 番組としてもこれといったコーナーも設けられず、聴取者からのお便り紹介とパーソナリティ自ら選曲した音楽をひたすら流すというシンプルな番組であった。
そのような初期の番組におけるアイデンティティとして、番組の冒頭の「君が踊り僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を、フレッシュな夜[23]をリードする オールナイトニッポン」というフレーズがあげられる。このフレーズは80年代まで笑福亭鶴光が大きくアレンジして使っていたほか、初代DJの斉藤安弘がパーソナリティを務める2003年 - 2009年にかけて放送された『オールナイトニッポンエバーグリーン』、全日空国際線の機内で流れている、SKY AUDIOの『オールナイトニッポンClassics』の中で聞くことができた(2010年8月1日現在)。 この口上は、当時の番組構成作家、山之井慎によるものである[24]。
先述の若者をターゲットとした番組は好評を博す。それを表すエピソードとして、1967年9月に解散コンサートを行ったアマチュアグループ・フォーク・クルセダーズが卒業記念に自主制作したアルバムの楽曲『帰ってきたヨッパライ』を、高崎一郎が関西のラジオで評判になったのを聞きつけオールナイトニッポンでオンエアした所リスナーからの反響が大きく、一晩のうちに同じ曲を複数回にわたって掛けるほどとなり、それを切っ掛けに全国圏のブームとなり2か月で180万枚の売り上げを記録したことが挙げられる。こういった昼間のラジオ番組では決してかけられないようなマイナーな曲や、海外からの新しい音楽を含む深夜番組ならではの選曲が若者を刺激した。
さらに「年上のお兄さん」的存在だった気取らないアナウンサーパーソナリティ達の人柄に惹かれて、各パーソナリティ宛に毎週2万枚ものリクエストやお便りが届き、開始当初は人知れずひっそりと始まった『オールナイトニッポン』は、1年もしないうちに当時の若者層(大学生・高校生)に絶大的な支持を受けるニッポン放送の看板番組に成長、TBS『パックインミュージック』・文化放送『セイ!ヤング』と並んで深夜放送そのものが『深夜の解放区』として一種の社会現象となるに至った。
競合番組が乱立する中『オールナイトニッポン』は何よりもリスナーとの対話を重視し、サブタイトルに「ビバヤング」(=若者バンザイ!)を採用。
前述のオープニングのスタイルもサブタイトルを強調し「“ビバヤング”オールナイトニッポン、この番組は…」となる。
また、放送開始1年後の1968年9月には会報「Viva young」も発行し、発行部数が5万部と常に完売。(印刷物という、別のメディアを持ち込んだのも、オールナイトニッポンが最初である。)
こうして、「ビバヤング」(=若者バンザイ!)は60年代から70年代にかけての『オールナイトニッポン』の合言葉となる。
オールナイトニッポンが以前にも増して脚光を浴びたのは、1969年。この年の1月に木曜日担当に高嶋秀武が、10月に土曜日担当に亀渕昭信が参入する。
亀渕はアナウンサー出身ではなかったが、ディレクター出身のパーソナリティとしてマイクの前に座って、それを逆手にスタジオの中を跳んだり走り回ったりと奇抜かつ斬新なDJスタイルをすることで聴取者から注目が集まり、一気に『オールナイトニッポン』の看板パーソナリティとなると共に、深夜放送に新しい息吹を送り込んだ。亀渕は当時について、「僕は、女の子3人組、モコ・ビーバー・オリーブの『パンチ・パンチ・パンチ』とか、前田武彦さんの『ヤング・ヤング・ヤング』といった番組を作っていたんですけど、よくしゃべるし、面白いからお前がしゃべれよと。自由にさせてもらったし、いい時代だったと思いますね」「僕は“制作上がり”でしたから、“てをには”とか早口言葉とかがうまくないわけ。その分、ほかでカバーしないと追いつかない。立ってしゃべったらとか、走り回ったらとか、ハガキを放り投げたら(当時リスナーから届いた2万枚のはがきをスタジオに放り投げ、一番遠くに飛んだハガキ(リスナー)に1万円をプレゼントしていた。)とか、一生懸命いろんなことをやりましたね。演出感覚ですね、それがちょっと違ってたんじゃないでしょうか」と語っている。
また、1969年7月には、同じパーソナリティ仲間の斉藤安弘とともに「カメ&アンコー」としてCBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)からザ・フォーク・クルセダーズが別の名義で使っていたザ・ズートルビーの同名の曲である「水虫の唄」という曲のレコードを出し、 20万枚を売り上げるスマッシュヒットとなった。この歌は、ベートーベンや、メンデルスゾーンまで取り込んでしまう自在な遊び心と反骨精神が「帰ってきたヨッパライ」に通じており、オリジナルには入っていなかった曲中の台詞ではDJならではのセンスが光っていた。
更に、1970年には今仁哲夫と天井邦夫(その後ニッポン放送副社長や顧問を歴任し、2009年12月3日逝去[25])が日本全国を縦断してリスナーと交流するという画期的な企画「ビバくりげ」も行われる。この企画は、もともと学生時代から車好きが高じた天井が、今仁と共に当時発売されたばかりのホンダクーペ9に乗って全国各地でリスナーと握手をするというもので、いわば天井の公私混同である深夜放送ならではの企画だった。斎藤安弘の記憶では、3ヶ月で64万1780人のリスナーが2人と出会ったという。
なお、このクーペ9は、ホンダから提供されたもので、あっという間にリスナーからの書き込みによって、真っ黒になっていったとされる。
1971年には、50歳を迎えた糸居五郎が1月17日13時30分-19日15時30分にかけて放送を続けるといった過酷な企画『50時間マラソンDJ』も行われ、無事完走している。
こうして、最初は関東ローカルであり、協賛スポンサーもニッポン放送サービス(現:ポニーキャニオン)一社だけだった番組も、夜間はラジオの電波が広範囲に届くことから関東のローカル番組であったにもかかわらず日本全国からはがきが届き、それを受け1970年6月に九州朝日放送、ラジオ大阪、7月にSTVラジオ(ラジオ部門分離前の当時・札幌テレビ放送)が、その後は東北放送、長崎放送などが番組受けを開始する様になるなど、ネット局数が順次増加していき、複数の協賛スポンサーが付くようになった。この時代が『オールナイトニッポン』の第1次黄金期である。
タレントパーソナリティ/2部制導入・迷走期から第2次黄金期へ(1972年 - 1985年)
深夜放送ブームは1970年代に入っても続いていたが、若者層の嗜好の変化(それまでの学生運動世代からシラケ世代への移行など)や時代の変化にあわせ、ニッポン放送は新たな放送スタイルを追求し始めることになる。そのため、1972年6月末を持って、亀淵昭信、今仁哲夫、糸居五郎を除くパーソナリティが降板する。
1972年7月からの1年間は亀渕昭信が『ビバカメショー』と称して、毎日25:00 - 27:00を担当した(9月までは月曜日担当の糸居五郎が継続していたため、月曜を除く毎日25:00 - 27:00。10月から月曜を含む毎日25:00 - 27:00となった)。次いで毎日27:00 - 29:00までは最初は今仁哲夫が担当した『ビバテツショー』が、1973年1月からは池田健が担当する『ビバケンショー』が放送された。この時に初めて27時で番組を分割する2部制の概念が生まれる。
この時代はオールナイトニッポンにとっての最初の停滞期となっており、亀渕は「僕一人で週6日番組を担当するのはとてもつらかった。番組は“敗戦処理”みたいな感じで始まったと思います。『オールナイトニッポン』だけじゃなくて、深夜放送全体が駄目になってきていたのね。露出過多っていうか、“晴れの舞台”に出てきてしまった。それじゃ深夜放送になってないんだよね。もう一度変えなきゃいけないと、作り手もしゃべり手も思ってはいたんだが、一度出来上がったものはなかなか変えにくい。ネット局も増えて全員がニッポン放送のアナウンサーというわけにもいかなくなって。でも局アナが基本でしたから、じゃあお前がやれって。形を変えるまでの踊り場みたいな感じかな。それまでは音楽担当の糸居さん、今仁さんみたいな面白いことをやる人の中間みたいな放送をやってたんだけど、『ビバカメショー』になってからはもっと音楽に徹しました。サイモン&ガーファンクルの詞を訳して特集したり、ビートルズの海賊版を流したり、僕自身は楽しかった。テーマの『ビタースイートサンバ』も代えたんだよ。デニス・コフィーというモータウンのファンクギタリストがいて、頼んで作ってもらったり(#テーマ曲参照)。残念ながらレーティング(聴取率)はあんまりよくなかった。でもそれで“よし”としました。とにかく次に大きくジャンプするためには一度縮こまって昔のイメージを壊し、まっさらにするのが僕のやること。今度は制作者としてまったく新しい『オールナイトニッポン』を作ろうと思ったんです。」と、当時の苦悩を語っている。
一方で1973年にディレクターになった中川も「転機といえば『ビバカメショー』『ビバテツショー』が始まった段階でステーションのアナウンサーがすっかりやめてしまったときでしょうね」と、転機だったことを明かす。さらに「その後にタレントが入るようになるわけで、番組自体が大きくなって、もっとビックな人でも入ってもらえるようなフィールドができたんです」と1973年のタレントパーソナリティ起用の本音を明かす。
こうして、1973年7月からはタレントや芸人・歌手が従来通り4時間にわたってパーソナリティを担当するという決定的な転機を迎える。このタレントパーソナリティ第1期の布陣は小林克也(月曜日)、泉谷しげる(火曜日)、あのねのね(水曜日)、覆面パーソナリティであるカルメン(金曜日)、岸部シロー(土曜日)である(木曜日は斉藤安弘が一旦復活した。また、カルメンはオールナイト史上初の女性パーソナリティである)。いわば、第二次『オールナイトニッポン』の始まりでもあり、現在のオールナイトニッポンの原型が完成した。
しかし、岸部シローがわずか3ヶ月で降板したのをはじめ、あのねのねを除く各パーソナリティは翌1974年夏までに全て降板し、その後約3年間はパーソナリティが根付かずに短期間で入れ替わる不安定な時代が続く。その原因として、体力的にも話力的にも4時間のロングラン放送に耐えられないという点があった事から、1974年7月からは27時を境にパーソナリティを入れ換える2部制が本格的に導入される。
2部制の導入でパーソナリティの数が足りなくなったことから、1970年代半ばにはタレントや歌手だけでなく一般オーディションの形(オールナイトニッポン主催・「全国DJコンテスト」)でも無名の新人発掘に力を注いでいる。また、番組をネットしていた地方ローカル局のアナウンサーなどにも一時期番組を持たせたこともあった(『飛び出せ!全国DJ諸君』グランプリの柏村武昭など)。一方、タレントパーソナリティ選考に当たっては基本的に番組スタッフが前もってオーディションをした上で採用の合否を決定していったのだが、あくまでラジオ番組をやっていけるだけの話力や実力があるのなら職種や音楽知識の有無に囚われることなくパーソナリティに採用するようになったため、野坂昭如や稲川淳二など本来の『オールナイトニッポン』の流れとは明らかに外れた異色のパーソナリティも登場している。この時点で番組本来のコンセプト(ニッポン放送アナウンサーによる音楽主体の若者向け4時間番組)は失われたが、それでも「若者向け」というコンセプトと、主に歌手が番組を持ったことで「音楽番組」としての機能はかろうじて引き継がれた格好となっている。
一方、一旦降板していたDJ・糸居五郎は1975年に金曜2部、さらに水曜を経て1977年10月に古巣である月曜(2部)で復活しており、音楽主体からトーク主体に変わった『オールナイトニッポン』において、唯一開始当初の雰囲気とスピリッツを醸し出していた。糸居五郎の月曜2部は糸居が1981年に定年退職するまで続いた。
迷走状態が続いていた1970年代中盤から1980年にかけて最初に頭角を現したのがあのねのねや笑福亭鶴光、タモリ、所ジョージ、つボイノリオなどの色物系・コミックソング歌手の担当番組であった。
特に笑福亭鶴光は全て大阪弁で番組を通すという特異性から当初は抗議のはがきが多数寄せられたが、「ミッドナイトストーリー」などのネタはがきコーナーを増設し、下ネタを含めた話術の高さもあいまって次第に人気を集めるようになり、70年代末には番組に送られてくるはがきは毎週2万枚、ラジオ聴取占有率80%〜90%というオールナイトの看板パーソナリティに成長、他の曜日が2部制になった後も鶴光担当の土曜日だけは4時間の放送を継続した(一時期金曜も4時間放送にするが、1年半で元の2部制になる)。
当時大人気のあのねのねは番組中、原田伸郎が当時せんだみつおが担当していた『セイ!ヤング』の生放送中に文化放送のスタジオに電話をかけ、清水國明も『セイ!ヤング』の生放送中のスタジオに乗り込んで電話を通して「あのねのねのオールナイトニッポン」と番組宣伝し、番組のジャックを敢行しファンの人気をさらに広めた。番組後半に一般のファンにスタジオを公開して「七不思議のコーナー」などいろんな企画を進行していく「あのねのね・ハッピースタジオ」も人気を博した。
タモリは鶴光が同じ話題として取り上げる「なんちゃっておじさん論争」や「NHKつぎはぎニュース」などタモリのアングラなキャラクターを発揮した番組内容で話題となる。
さらに当時全盛であったフォークソングやニューミュージック系シンガーの番組に火がつき、武田鉄矢・南こうせつ・イルカ・山田パンダ・加藤和彦・自切俳人〔ジキルハイド〕(北山修)・桑田佳祐・長渕剛・松山千春・吉田拓郎などそうそうたる顔ぶれが入れ替わりながらパーソナリティを務めていった。これに加え、従来からの流れであるくり万太郎やなすえりこなどのLFアナウンサーも番組を支え続けた。そして、中島みゆき(1979年- 月曜1部)やビートたけし(1981年- 木曜1部)が登場した1980年代初頭には第2期の黄金時代を迎えることになる。
また1977年以降には『HOUSE ハウス』、『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』、『幻魔大戦』などの映画劇場公開にあわせて、ラジオドラマと出演者やスタッフのトークによる4時間のスペシャルが放送された。のちに文化放送が注力するようになる、アニラジのはしりと言える。
現在のオールナイトニッポンの柱となっている「トーク主体」・「コーナー主体」・「ネタはがき主体」の番組構成はこの時代に確立したシステムであり、ハガキ職人が幅を利かせるようになったのもこの頃である。このようにオールナイトニッポンが番組内容やDJを大きく変えたことで番組全体に見切りをつけた聴取者もかなり多かったが、逆にそれまでとは違う「パーソナリティそのものの魅力」に惹かれた新規のリスナーを大量に獲得することになり、結果として番組名と放送時間帯、テーマソングだけはそのままに、番組を「作る人」も「聴く人」も、番組の「コンセプト」でさえも時代とともに移り変わっていくという流動的なスタイルが形成されていくことになる。
このスタイルゆえに時代の変化に対応できなかった『パックインミュージック』『セイ!ヤング』のオリジナル放送が1980年代初めに打ち切られる中で『オールナイトニッポン』だけが時代の波にうまく乗りながら、深夜放送の代名詞として唯一生き残り続ける。第1期黄金期の人気パーソナリティから番組製作・編成部門に戻り、裏方として新時代の『オールナイトニッポン』を模索し続けた亀渕昭信の努力が実を結んだ格好となった。
安定期間から深夜放送長期低落傾向へ(1986年 - 1999年)
1986年10月1日には20年目突入を記念して『ALL DOGETHER NOW(オール・ドゲザー・ナウ)』という特別番組が放送され、中島みゆき、とんねるず、小泉今日子、ビートたけし、サンプラザ中野、ABブラザーズの当時の1部パーソナリティ6組が一堂に会した(公式には1985年6月15日開催の国立霞ヶ丘陸上競技場での「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」のスピンオフ企画とされ、DOGETHERは「TOGETHER」と「土下座」の掛け言葉とされる)。
1980年代中盤以降、約10年間はライバルであるTBSラジオの深夜番組が定着せず迷走し、また文化放送も『ミスDJリクエストパレード』以降長らく深夜放送に力を入れなかったことから、「若者向け深夜放送=オールナイトニッポン」という図式が一番確立していた時代でもある。
1985年に足掛け12年にわたった鶴光のオールナイトが終了し、その後もABブラザーズや圭修が土曜のお笑い枠を引き継いだが(ABブラザーズ時代の1986年4月より土曜も2部制に移行)、1988年からはニューミュージックの大御所・松任谷由実が土曜1部を担当し1999年までの長期にわたる活躍をすることになる。
1980年代半ばから90年代初頭にかけてはバンドブームが沸き起こり、オールナイトのパーソナリティ人選にもその影響が次第に現れてくる。1部ではサンプラザ中野・デーモン小暮・大槻ケンヂ・木根尚登などが、2部では渡瀬マキ(LINDBERG)・寺田恵子(SHOW-YA)・AYAKO(PINK SAPPHIRE)・川村かおり・THE東南西北などが活躍し、ブームの一端を担うことになる。続く1990年代前半も電気グルーヴ、YUKI(JUDY AND MARY)、吉井和哉(THE YELLOW MONKEY)、大江千里、小沢健二とスチャダラパー、EAST END×YURIなどの有名どころから、コアなファンが多い加藤いづみや石川よしひろまで幅広い層のパーソナリティを輩出した。
お笑い系パーソナリティは1985年に火曜1部でとんねるずが登場、さらに1989年には金曜1部でウッチャンナンチャンが登場する。落語家の弟子であった伊集院光が水曜や金曜の2部で活躍し一気にラジオスターとしての頭角を見せたのもこの頃である。80年代を駆け抜けたビートたけしは途中代役を立てながら1990年まで番組を継続したが、その後はたけし軍団の浅草キッドなども担当。1993年に松村邦洋が、そして1994年には、2014年9月までパーソナリティを続けたナインティナインが登場する(岡村隆史は2014年10月から単独で担当→ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン)。
また、この時代には70年代の迷走期とは違った意味で、別業種パーソナリティを投入した時代でもある。トップアイドルだった小泉今日子が水曜1部に登場したのは1986年。その後も、女性アイドル担当番組は裕木奈江・穴井夕子など散発的に見受けられる様になった。他に、劇団『第三舞台』を主宰していた鴻上尚史、雑誌『週刊プレイボーイ』編集者の小峯隆生、漫画家さくらももこなど。極め付きは1992年に素人であった浪人生松永並子&北原ゆきを水曜2部に起用したことである(前述の穴井夕子は、この2人が受験勉強のために休んだ間の6週間限定での登板であった)。後に芥川賞作家となった辻仁成も、この時代にECHOESのボーカル・「辻 仁成(つじ じんせい)」としてパーソナリティを務めている。福山雅治(1992年から2015年3月まで担当)が、当時若手イケメン俳優・歌手というポジションで認知されていた彼の「素」を本番組で公に広く知らしめた事も記憶に新しい。ただ、この頃になると、オーディションでパーソナリティを探し、番組が育てていくことよりも、知名度ありきでパーソナリティに採用することが増えてきた。
1991年10月には、25年目突入を記念して、中島みゆき、タモリ、ビートたけし、笑福亭鶴光の各オールナイトニッポンが、一夜限りの復活放送を行った。また、1997年10月から1998年3月まで、番組放送開始30周年を記念して、過去のパーソナリティが担当する『オールナイトニッポンDX』が、19:00 - 21:00に放送されている。
しかし、1990年代中頃になると、テレビの深夜番組の充実化やビデオデッキ、ゲーム機、パソコン、携帯電話の普及等によって、若年層を中心としたラジオ離れが顕著になり、深夜ラジオ全体の長期低落傾向が目に見えて現れて来る。さらに同じラジオ業界内でも80年代末以降民放FM局が急増した事や、『スーパーFMマガジン』(TOKYO FM)『FMナイトストリート』(JFN)など、民放FM局が深夜帯にAMラジオ的なネタ・トークを中心に据えた番組を制作する様になったことから聴取者全体のパイが分散し、一部の地方局でのCM収入の減少による制作費減少等、AMラジオの深夜放送に対する逆風は強くなっていった。番組に寄せられるはがきやFAXの数も激減し(1997年当時、ナインティナインのオールナイトニッポン宛てに送られてくるはがき・FAXの数はトータルで週3000枚程度であり、60 - 70年代の人気番組の7分の1程度にまで落ち込んでいた)、オールナイトニッポンだけでなく、AMラジオの若者向け深夜放送自体の将来に暗雲が立ち込めていた。その様な中で、ニッポン放送はパソコンや携帯電話、メールなど新しいツールに目をつけ、それらのIT機器とAMラジオの関係を融合させるべく『オールナイトニッポン』を含めた夜帯の大改編を行うことになる。
1998年春の改編では、2部枠(27:00 - 29:00)がR(リラックスの略)がついた『オールナイトニッポンR』に改称。金曜深夜と土曜深夜を除き28:30終了と30分短縮された。この時期にはインターネット放送でのスタジオ同時生中継が試験的に行われ、この試みは後に「LFX488」に生かされた。
LF+R(1999年 - 2003年)
1999年春の改編では、開始時間帯を大幅に前倒ししたうえで2部制から3部制になり、夜帯を「LF+R(Love & Friends + Radio)」と称した上で、22:00 - 24:00に今までの旧1部に近い形の『allnightnippon SUPER!』を開始、25:00 - 27:00をインターネットと連動させた『@llnightnippon.com』、27:00 - 29:00、ないし27:00 - 28:30を『allnightnippon-r』と改題したが、「LF+R」開始当初から様々な問題が発生した(LF+Rの項を参考のこと)。
2000年に土曜深夜の23:30 - 25:00の90分枠に『福山雅治のallnightnippon saturday special・魂のラジオ』(『ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!』の後継番組)を立ち上げ、1998年に降板していた福山雅治を再起用した。
2003年春の改編をもって「LF+R」ブランドは終了し、22:00 - 24:00のSUPER枠は『オールナイトニッポンいいネ!』に改題されパーソナリティを一新。com枠である25:00 - 27:00は4年ぶりにタイトルが『オールナイトニッポン』に、『allnightnippon-r』も『オールナイトニッポンR』と1998年から1年間使用していたタイトルに戻った。
LF+R終了後(2003年 - 2012年)
若者層を中心としたラジオ離れやテレビの終夜放送が進むなかで、ラジオ業界はかつて1960年代 - 70年代にラジオを聴いていた団塊の世代など高年齢者を対象とした番組を多数制作するようになる。オールナイトニッポンもTBSラジオ『JUNK』との競争が激化し若者層聴取が先細りする中で、2003年秋の改編では深夜放送に参入したNHKの『ラジオ深夜便』の好調に影響を受け、若者向けであった『オールナイトニッポンR』の月曜から木曜を打ち切り、代わって中高年層を強く意識した『オールナイトニッポンエバーグリーン』を放送開始、パーソナリティは初代DJの1人である斉藤安弘を再起用した。番組は6年続き、斉藤が2009年春改編にて定年退職で降板した後も、1970年代後半にオールナイトを担当したくり万太郎を起用し『くり万太郎のオールナイトニッポンR』が放送された。 また、2009年11月30日からは22時台で『オールナイトニッポンGOLD』を開始。こちらは本来のオールナイトニッポンよりはやや上の年齢層をターゲットとしたパーソナリティが起用されている。
2006年7月には『オールナイトニッポン』の一部番組でポッドキャストを開始。詳細は「ニッポン放送 ポッドキャスティングステーション」を参照。
2007年10月1日、40周年を記念して週6日放送の生番組では最長であることから、ギネス・ワールド・レコーズに申請した。同日から、『オールナイトニッポンエバーグリーン』は、ニッポン放送では28:30(翌日早朝4:30)で打ち切られるようになった。
一方、2008年1月29日に放送した特別番組『倖田來未のオールナイトニッポン』での倖田の発言が問題となる。番組は事前収録であり、チェック体制が機能しなかったとして、担当プロデューサーの謝罪(『ナインティナインのオールナイトニッポン』・2月8日放送)や制作担当社員のほぼ半数を入れ替える社内処分が行われた。
タイトルを変えての8年半ぶりの2部制復活へ(2012年 - )
2012年4月より携帯端末向けマルチメディア放送として新たにスタートする「NOTTV」のサービスの目玉の一つとして「オールナイトニッポン0(ZERO)(月-金曜 27:00 - 29:00)の開始、並びにNOTTVによるサイマル放送」が開始された[26]。オールナイトニッポン0(ZERO)は2003年秋の“オールナイトニッポンR”月曜 - 木曜が終了して以来8年半ぶりの第2部の位置づけ的番組の復活となった。なお、同枠のパーソナリティオーディションが2012年1月よりYoutubeを利用した一般公募の形式で実施され、19年ぶりに一般人パーソナリティ、本村康祐・西岡隼基が起用されている。
これについて、オールナイトニッポン0(ZERO)の制作統括責任者の松岡敦司は「そもそもオールナイトニッポンという番組は、新しい才能をリスナーに紹介する場だったからです。「新しい才能を発掘していくのがオールナイトニッポンだ」という想いが私自身の中にあったのです。」と語っていて[27]、1990年代から2000年代にかけて見られた知名度ありきのパーソナリティを起用するという方針から、かつて、1970年代半ばに見られた新人パーソナリティの発掘・育成を図るという方針に転換している事を窺わせている。また、Youtubeを利用した投稿を用いたことについて松岡は「とにかく面白いことができる人であれば何人でもかまわない。とにかく気軽に応募して欲しいということ。これだけインターネットが普及している時代なのでやはり、動画投稿サイトを使うのが良いだろうという結論に達しました。」とも語っている[27]。
2013年2月22日 22:00 - 2月24日 22:00は「たけし みゆき 千春も登場! 伝説のパーソナリティが今を語る オールナイトニッポン45時間スペシャル」を放送。同番組は24日 9:00 - 12:00「東京マラソン2013」の生中継などを挟みながら45時間の長時間生放送(一部録音)となった。
2013年4月の改編期には、NOTTVが2012年から始まったオールナイトニッポン0(ZERO)の映像配信に続いて、火曜日(久保ミツロウ・能町みね子のオールナイトニッポン)と水曜日(ダイノジ 大谷ノブ彦のオールナイトニッポン)のオールナイトニッポン1部でも映像付きの同時生放送が1年間にわたって行われた[28]。また、2014年4月の改編期には、金曜日から水曜日に枠が移動となった「AKB48のオールナイトニッポン」をNOTTVで映像付きの同時生放送を行うことになった[29]。
2013年9月16日より21日までの6日間は、「『オールナイトニッポン』×YouTube エンタメウィーク[30][31]連動企画」と題して、史上初めて月曜から土曜日まで旧1部、2部の枠全て(土曜2部を除く)が動画配信された[32][31]。
2015年2月2日からニッポン放送と吉本興業が共同で企画制作するインターネット配信番組「オールナイトニッポンw」(月曜日-金曜日19時から10分から15分程度の動画を配信)がYouTubeを用いて配信[33]。
日曜日
日曜深夜にも1985年以前に『オールナイトニッポン電話リクエスト』という、糸居五郎や木藤隆雄、はたえ金次郎(波多江孝文)などが担当した電話リクエスト番組があった。また、
- 赤坂泰彦のオールナイトニッポン電話リクエスト (1997年10月 - 1999年3月、23:00 - 25:30)
- @llnightnippon.com HYPER REQUEST SUNDAY! (→Sunday Request Night) (荘口彰久→桃乃未琴)(1999年4月 - 2000年3月、23:00 - 25:00)
- SILVAのallnightnippon Sunday Special “Luv mode” (2000年4月 - 2001年3月、23:30 - 25:00)
- 中澤裕子のallnightnippon Sunday Special (2001年4月 - 2001年9月、23:30 - 25:00)
- 中澤裕子のallnightnippon Sunday SUPER! (2001年10月 - 2003年3月、23:00 - 24:30)
- 飯島愛の@llnightnippon Sunday.com (2001年10月 - 2003年3月、24:30 - 25:30)
などの番組を行っていた時期があった。
他にオールナイトニッポンを冠した番組として、2008年4月 - 2009年3月には、『上原隆のオールナイトニッポン サポーターズ』(25:00 - 25:30)が、2009年10月11日 - 2010年9月12日には、『オールナイトニッポンサンデー』が放送されている。
その後、単発で放送された ROLLYと谷山浩子のオールナイトニッポンR(2012年10月14日、27:00 - 29:00)以外は日曜日のオールナイトニッポンは放送されていなかったが、2013年4月改編に「中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ」が放送開始。日曜のオールナイトニッポンレギュラー枠では2003年3月に中澤裕子のallnightnippon Sunday SUPER!と飯島愛の@llnightnippon Sunday.comが終わって以来、10年ぶりとなる。
また、「中島みゆきの月イチ」は一部の局ではあるがネットされており、サンデースペシャルが放送される時間帯ほとんどの局ではネット受けやプロダクション制作の番組の放送やメンテナンスに充てることがほとんどのため、日曜日の枠がネットされるのは初のことである。
テーマ曲
- 『BITTERSWEET SAMBA(ビタースウィート・サンバ)』
- テーマ曲として採用された経緯については諸説ある。
- 実際はA面だった曲(ティファナ・タクシー)を使用していたが、高崎一郎の番組のスタッフが間違えてB面の曲(BITTERSWEET SAMBA)をかけてしまったところ、高崎が「この曲のほうがよいのでは」と言ってこの曲に変更された。ただし「ビタースウィート・サンバ」はアルバム『Whipped Cream & Other Delights』のA面4曲目。ティファナ・タクシーは別のアルバム『Going Places!!』のA面1曲目であり、間違えるはずはないという指摘もある[34]。編集盤やシングル盤という可能性もあるが詳細は不明。
- 違う曲(レモン・ツリーまたはティファナ・タクシー)がテーマ曲候補に上げられていたが、この曲の収録されたレコードをかけようとしてたまたま同じ面に収録されていた BITTERSWEET SAMBA が誤ってかかってしまい、曲を聴いた高崎がテーマ曲として決定した[35]。
- 斉藤安弘は「もともとこの曲をテーマにする予定だったと聞いていた」と、自身の番組『オールナイトニッポンエバーグリーン』で発言している。
- 『オールナイトニッポン40周年記念!笑福亭鶴光と松本ひでおの深夜放送ヒット電話リクエスト』(2007年2月19日放送分)の中で、松本ひでおがスタッフの間違いではなく高崎一郎が初めから決めていたことだと明らかにし、同時に「スタッフ間違え説」を否定した。
- 栃木放送開局50周年特別番組『真夜中のビタースイートサンバ』(2014年3月23日放送)にて朝妻一郎がインタビューでこのことに触れており、高崎からテーマ曲の候補を探すよう依頼され朝妻の会社が著作権を持っている曲のなかで一番良いと選んで高崎に視聴させたところ「演奏はよいがリズム感が…これじゃないだろう」と同じ盤に入っていた他の曲を聞きだした。そのなかでビタースイートサンバを高崎自身が選んだという。その後、高崎が逸話として話を面白くするため「盤を裏返しに…」と話したそうである。
- 『タモリのオールナイトニッポン』においてハーブ・アルパートが特別ゲストとして招かれたとき、その当時のテーマ曲のバージョンをトーク無しのフル演奏で流したことがある。
- 1973~74年頃のオープニングには、前述のデニス・コフィー(正確には「Dennis Coffey & The Detroit Guitar Band」)による演奏(1973年にキングレコードより国内向けにリリース。原曲は演奏時間2分40秒。[1]TRACK LIST で1分43秒間試聴できるが、テーマ曲として使われた時のイントロは原曲を多少アレンジしてある。)でアレンジされた「ビタースイート・サンバ」を採用。ロック調またはディスコ調ヴァージョン? 特に出だしのイントロは、エレクトリックギターで演奏され現在使用されているテーマ曲とはリズムが全く違い、他の楽器としてボンゴを使用。なおこの曲は海外向けにもA&Mレコードより1973年にリリースされておりB面に収録されている[2][36]。しかし、リスナーの間では評判が悪かったため、後にオリジナル(ハーブ・アルパート)版に戻されている(一部ではCBCラジオのように番組放送後の提供クレジットで流されていた局も存在した)。最後に使用されたのは、1974年末頃の土曜深夜『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』のみで、他曜日のオープニングは随時オリジナル版に戻された。
- 以前はネット局により午前3時(第1部終了)までの局(全ての局ではないがCBCラジオやラジオ大阪など)はそれぞれの局において、第2部のオープニング(午前3時の時報)までにかかる繋ぎの曲の途中からフェードインしエンディングとして流し、各局のアナウンサーが番組協賛スポンサー及び番組終了のアナウンスを入れていたが、現在は行われておらず、次番組が始まるまでに繋ぎの曲(つまり、第1部のエンディング曲)をフェードアウトしてからコマーシャルなどが入るようになった。
- ニッポン放送の場合、第1部のエンディング曲を3時の時報前まで流し、時報に入る直前に「○○のオールナイトニッポン」というジングルを入れて時報に入り、第2部(現在のZERO/R枠)に突入する。
- また、現在は、木曜日の『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』、土曜日の『オードリーのオールナイトニッポン』などで一節が繰り返されている物のフル演奏を聴くことができる。また、一部の番組では、先のものとは別の部分を延々繰り返している物を曲紹介・スポンサー読み・コーナー呼び込みまで掛ける事もある。
- 第2部では番組設置の経緯(4時間の大きな放送枠を便宜上二つに分ける)から、オープニングでは流さず、エンディングに後半部分から流し始め、曲の終了と共に番組も終了するというスタイルが長らく続いていた[37]が、「R」では旧オールナイトニッポンとは別の番組枠となったとしてオープニングにもかけられる場合が多数となった他、エンディングも単なるフェードアウトとなる場合が多くなった。「ZERO」では旧・第2部の復活という理由付けを行い、旧第2部と同じ構成で曲が使われている。
- 1988年10月から1989年1月にかけて昭和天皇の体調の悪化で日本国内が自粛ムードに包まれ、その間全く異なるBGMに差し替えた。
- 2014年、ニッポン放送開局60周年企画の1つとして行われた投票企画「あなたが『オールナイトニッポン』で出会った忘れられぬミュージックランキング」にて1位を獲得したが、この旨をハーブ・アルパートに連絡したところ「使用されていたこと自体を知らなかった」事が発覚した[38]。
ウィークリーソング
- 週替わりで各曜日にかかわらずヘビーローテーションで新譜が流される。これはかつて月間(月間時のヘビロテの名称は「オールナイトニッポン・スーパーディスク」)であった。
- 2012年4月から当番組の推薦曲がエンディングで流されるようになった。
番組ジングル
CM前とCM明けのジングルを数々のアーティストが手がけており、放送開始から40周年・45周年を記念した特別番組・特別企画においてはこれらのジングルが様々使用された(90年代後半のものなど、使用されなかったジングルも多い)。現在の通常放送でも、ディレクターの意向により現在使用されていないジングルを放送する場合もある。
1960年代 - 1980年代の担当アーティスト
- 2012年3月までくり万太郎が担当する『くり万太郎のオールナイトニッポンR』で流れていた。過去には斉藤安弘が担当する『オールナイトニッポンエバーグリーン』でも流れていた。70年代、亀渕昭信が担当していた『ビバ・カメショー』にも「カメ、カメー」や、斉藤安弘が担当していた頃の「オールナイートニーッポン、アンコー」(「アンコー」の部分が「アンコーさーん」のヴァージョンもある)など担当DJ専用ジングルもあった。
- 大橋純子(1977年4月-1982年10月)
- EPO(1982年10月-1986年4月2週目)
- 山下達郎
- 竹内まりや
- 大貫妙子
- 中島みゆき
- 谷山浩子
- 角松敏生(1986年4月3週目-1989年1月6日)
- 20周年記念バージョンのジングル。『20th Anniversary』のフレーズが入っている。
- クレヨン社(1989年1月9日-1992年3月14日)
1990年代の担当アーティスト
- To Be Continued(1992年3月16日-7月11日)
- 中西圭三(1992年7月13日-1993年2月27日)
- 25周年記念バージョンのジングル。『25th Anniversary』のフレーズが入っている。
- Selfish(1993年3月1日-1994年5月14日)
- L⇔R(1994年5月16日-1995年10月7日)
- 平井堅(1995年10月9日-1997年7月19日)
- チャーミースマイル&グリーンヘッド(1997年7月21日-11月1日)
- 30周年記念バージョンのジングル。『thirty Years』のフレーズが入っている。
- Ram Jam World(1997年11月3日-1999年3月27日)
- (不明)(1999年3月29日 - 2001年3月31日 『LF+R』の初期)
2000年代の担当アーティスト
- smorgas(2001年4月2日 - 2001年12月)
- savage genius(2002年1月-2003年3月)
- 担当当時は、ボーカル&歌詞を担当する"ああ"とギター&作曲のtakumiのユニットだった。「SUPER!」で使用。
- チェンジング・マイ・ライフ(2002年1月-2003年3月)
- サム41(2003年3月31日-2008年9月18日)
- 海外のアーティストがこの番組のジングルを手がけるのはこれが初。毎日使用していたのは2005年7月1日までである。毎日の使用中止後も、木曜日のナイナイのANNで1パターンのみ使用していたが、2008年9月18日をもって使用を中止した。
- Tommy february6(2003年7月7日-2007年4月12日)
- 毎日使用していたのは2005年7月1日までである。毎日の使用中止後も、木・金のみ使用していたが、木曜日のナイナイは2007年4月12日・金曜日は4月6日をもって使用を中止した。
- B-DASH(2003年10月3日 - 2009年10月3日「R」)
- 金・土曜日の「R」専用ジングル。「オールナイトニッポンRだよ〜」と歌っているもの。「ANN」は全て2009年10月9日より25時台と同じものへ統一されたため、「R」専用のジングルは消滅した。
- 奥華子(2005年7月4日-2007年4月10日)
- 倭製ジェロニモ&ラブゲリラエクスペリエンス(2006年5月19日-2007年4月11日)
- Remark Spirits(2007年4月13日-2008年9月30日)
- 40周年記念バージョンのジングル。『40th』もしくは『40th Anniversary』のフレーズが入っている。
- GIRL NEXT DOOR(2008年10月1日-2009年10月3日)
- さかいゆう(2009年10月5日-2011年12月31日)
- ピアノを基調にしたジングルで、「Allnight-long」「Allnight-nippon」が織り込まれているものが多かった。
2010年代の担当アーティスト
- MAN WITH A MISSION(2012年1月2日-2013年3月30日)
- 45周年記念バージョンのジングル。『45th Anniversary』が織り込まれている。
- kz(livetune) × 八王子P(ボーカル:初音ミク)(2013年4月1日-)
- 後任が使用開始日の放送途中にサプライズ発表となった関係で、発表の直前まで使用された。
- 星野源(2017年1月3日1時台後半(編成上は1月2日25時台後半)- )
- 50周年記念バージョンのジングル。『50周年』や『ゆうらくちょう』といったフレーズが織り込まれているバージョンもある。このジングルの使用開始日に「星野源のオールナイトニッポン」の中で、このジングルを星野源自身が作ったことを明らかにした[39]。作成したのは13パターンのジングルで[40]で、そのジングルの作詞・作曲・編曲の一切を星野源自身が担当したもので、その13パターンのジングル[40]は、アップテンポ調・スロー調、あるいはファンク調・メタル調などのアレンジと、まさに、星野源の「アイデア」に加えて「遊びゴコロ」を満載させたジングルに仕上がった[41]。
CD・レコード
シングル
- 今、僕たちにできる事(ポニーキャニオン)- 歌:オールナイトニッポン・パーソナリティーズ(1992年10月期当時のパーソナリティ全員が参加 対後天性免疫不全症候群運動のために制作された)
- ビタースウィート・サンバ(ポリドール) - 演奏:ハーブ・アルパートとティファナ・ブラス(1994年10月26日発売。当初テーマ曲の予定だったティファナ・タクシーも収録。廃盤)
アルバム
- オールナイトニッポン(LP盤)(キャニオン・レコード : 1970年12月)- 最初のオールナイトニッポンのアルバム、当時のパーソナリティ全員参加
- 海賊放送局(LP盤)(キャニオン・レコード : 1971年11月)- 今仁哲夫と天井邦夫によるビバ栗毛の珍道中記、パーソナリティ全員参加のラジオドラマ、カメカメ合唱団の歌
- 深夜放送グラフティ オールナイト・ニッポン(エピック・ソニーレコード : 1991年11月)- 糸居五郎、カメカメショー(ゲスト:あのねのね)、斉藤安弘(最終回)のそれぞれの抜粋を収録
- オールナイトニッポン Radio Days Bitter Hits(東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン))
- オールナイトニッポン Radio Days Sweet Hits(UM3/USM Japan)
- オールナイトニッポン パーソナリティーズヒッツ〜青春 ON AIR〜(ポニーキャニオン)
- 以上の3作品は、2003年に発売した35周年記念のコンピレーションアルバム
- オールナイトニッポン EVERGREEN (EMIミュージック・ジャパン、ビクターエンタテインメントほか) - 2008年1月23日に6枚同時発売した40周年記念のコンピレーションアルバム
商品
- 青春のオールナイトニッポン(タカラ)
- BCLラジオのフィギュア。つまみを模したボタンを押すとジングルや糸居五郎や笑福亭鶴光らの番組の一部音声が流れる。ビタースウィートサンバはオリジナル。2004年発売。
- 懐かしのオールナイトニッポンキャンデー(ブルボン)
- 番組内容の一部とパーソナリティの持ち歌で構成した8cmCD付きのコーヒーキャンデー(食玩)。2004年発売。
- オールナイトニッポン スーパーマリオブラザーズ(ファミリーコンピュータ ディスクシステム)
- 有名なゲーム『スーパーマリオブラザーズ』の一部キャラクターの絵をパーソナリティの顔にしたもの。
- 1987年、番組放送開始20周年を記念して任天堂と共同製作。
- オールナイトニッポン40周年記念カップ麺が日清食品、明星食品の制作でサークルK/サンクスにて2007年10月31日発売[3]
- オールナイトニッポンを作ろう!(mobage)
- 自分で番組運営のほか多彩なゲストと魅力的なスポンサー集めのほか他のユーザーとの交流や名刺の奪い合い、携帯電話のGPS機能を利用した位置でエリア拡大などを詰め込んだ番組運営シミュレーションソーシャルゲーム
事件・エピソード・逸話など
※ この項目では、既に前述されている記事に記載されているもの以外のものを取り上げる。
- 笑福亭鶴光のオールナイトニッポンで、放送時に「ニッポン放送に爆弾を仕掛けた」という脅迫電話が掛かってきたことがあり、厳戒態勢の下で放送が行われたが、鶴光本人は至って平然を装い「爆弾魔がなんぼのもんや!」と放送を続けたが、放送終了後あまりの緊張から、トイレに駆け込み嘔吐していたという。
- 番組から生まれるムーブメントも数多く、鴻上尚史のオールナイトニッポンからは、書籍化された「究極の選択」、「10回クイズ」などがブームとなった。
- 80年代後半から90年代前半の一時期、25:00の時報コマーシャル枠を川鉄商事(現・JFE商事)が買い取っており、25:00の時報だけニッポン放送正規の時報音ではなく、そのメロディを楽曲化したものが用いられていた。
- 1972年2月に発生したあさま山荘事件の影響で28日の突入作戦まで、それに関する内容を放送した。
- 1982年2月8日未明にホテルニュージャパン火災が発生し、『中島みゆきのオールナイトニッポン』では同日2部担当の同局上村貢聖アナウンサーが冒頭から登場し詳報を伝えた。また、翌9日は日本航空350便墜落事故が発生。このため、1部は所ジョージ、タモリ、ビートたけしが2部は阿呆鳥、伊丹哲也、永井龍雲がそれぞれ休止。
- 1985年8月12日、日本航空123便墜落事故が発生し、『中島みゆきのオールナイトニッポン』は休止し、同日2部担当の同局上柳昌彦アナウンサーが午前5時までの4時間、全国ネットで詳報した。また、翌日の桑田佳祐と白井貴子も休止した。
- 1989年1月7日、昭和天皇が崩御し、それに関する特別番組に差し替え、当日の松任谷由実と田中義剛が休止。
- 1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生し、当時その日担当の石川よしひろが火曜2部であった「YUKIのオールナイトニッポン」(毎週録音で放送されていた)を休止して4時間スペシャルを行った。翌日は松村邦洋と篠原美也子を休止し、同局アナウンサーによる4時間スペシャルを行った。
- 2001年9月11日、『西川貴教のallnightnippon SUPER!』放送時番組放送開始前後に米国同時多発テロが起こり、番組進行をしながらその様子が刻々と伝えられた。これは異例のことであり、通常は別のスタジオにいるアナウンサーが「報道特別番組」として放送中の番組を中止させて放送されるが、西川のパーソナリティーとしての能力を買い、そのまま『西川貴教のallnightnippon SUPER!』として放送させた。
- このあとの『加藤晴彦の@llnightnippon.com』は内容を大幅に変更しての放送、allnightnippon-rは休止・-comを29:00まで拡大し「報道特別番組」として放送。
- 2004年10月23日、新潟県中越地震が発生。『魂のラジオ』では当日ゲスト出演予定だった杉崎美香が現地からのリポートを行なう形となり、25時からはSHOGOとグローバーを休止し報道特別番組に差し替えた。[42]
- 2009年4月20日から5月25日まで『城田優のオールナイトニッポン』において「ROOKIESスペシャル」と題して、城田優が出演する映画『ROOKIES -卒業-』のタイアップとして、城田と共演する市原隼人・小出恵介・佐藤健・五十嵐隼士といった「ニコガク野球部」のメンバーが週代わりで、6週連続で登場。ちなみに、同作品を制作するのはTBSであり他局制作の作品のこれほどまでの宣伝は異例中の異例と言えよう[43]。
- 2011年3月11日に発生した東日本大震災の影響で同日[44]と翌12日の『オールナイトニッポン』『オールナイトニッポンR』『魂のラジオ』、14日の『オールナイトニッポンGOLD』は放送を休止しニッポン放送アナウンサーによる災害報道特別番組へと切り替えられた。3月14日からの1週間は通常通り放送、ただし3月18日は自身も気仙沼市にて被災したサンドウィッチマンが担当した。
- 2014年8月22日、歴代最長の20年半を『ナインティナインのオールナイトニッポン』で務めたナインティナインが、秋改編で降板することを番組中で発表。多くのタレント達から驚きと退任を惜しむコメントが寄せられる。だがしかし、翌週8月29日の放送で矢部が9月いっぱいで卒業することにより岡村が10月より「ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン」を担当することが明らかになった。
- 2015年3月6日、当時アルコ&ピースのオールナイトニッポンで金曜1部を担当していたアルコ&ピースが、4月から木曜日の0枠を担当すると発表した。1度1部をレギュラーで担当したパーソナリティーが2部に降格するのは初のことである。
- 2015年6月13日、「オールナイトニッポンサタデースペシャル大倉くんと高橋くん」にて、パーソナリティーの大倉忠義が、生電話をかけるという特別コーナーで、電話番号を間違い、全然違う人にかけてしまうハプニングが発生。危うく放送事故になりかけた。
ネット局
現在、『オールナイトニッポン(1部)』は全国36局ネットであり、AMラジオ番組の中でもネット局数が多い番組の中の1つである。地方でのネット局は主にニッポン放送も加盟しているNRN系列局が多いが、3部制となった1999年のLF+R時代以降、時間帯によってネット局が変わるなど状況が複雑化しつつある。
東海地方
東海3県ではJRN単独系列のCBCラジオ[45]でネットしており、CBCラジオはニッポン放送から東京都千代田区九段のCBC東京支社経由で番組をネットしている。伝送にはNTTコミュニケーションズの帯域保証のIP回線を使用[46]。これはニッポン放送が番組開始当初、全国ネット拡大を試み、この地区はまずNRN系列の東海ラジオにネットの依頼をしたが、東海ラジオは自社制作の人気番組『ミッドナイト東海』(現:『東海ラジオミッドナイトスペシャル』及び『ミッドナイト東海21』)を放送中でネットを断られてしまった。このため、CBCラジオに依頼したところ、反対に『ミッドナイト東海』に劣勢であったこともあり、ネットを了承したという経緯があったためである。後に東海ラジオは22時枠(『allnightnippon Super!』、『魂のラジオ』、『オールナイトニッポンGOLD』)のネットを開始したため、東海地方ではオールナイトニッポンシリーズが2局でまたがって放送されることになった。
CBCラジオでは平日は1部のみのネットである(土曜日はRを28時までネット。2003年3月までは29時までネット。2009年4月から2010年3月までは平日もRを28時までネットしていた)。AMラジオ局が複数存在する地域の多くが『オールナイトニッポン』を29時までネットしているにもかかわらず、東海地区は27時までという状況となっている(これは東海ラジオが平日27・28時台に『日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲』を文化放送から受けていることも一因である)。そのような経緯から、平日25・26時台はJRN系の番組が流れないという事態が起こっている。また、東海ラジオが平日25・26時台に『リッスン? 〜Live 4 Life〜』(文化放送、月-木曜)のネット受けを2012年10月から開始したため、月-木曜の25・26時台はNRN系の番組が表裏になっている。
京阪神地区
京阪神地区(関西地区であるが、NRN・JRN双方加盟の和歌山放送は除外する)で『オールナイトニッポン』をネットしていたのは長らくラジオ大阪(OBC)とKBS京都であったが、2001年4月から3年にわたり独立局のAM KOBE(AMK、現在のCRK・ラジオ関西)でも『SUPER!』→『いいネ!』がネットされた。それまでは自社製作の深夜ワイド番組『神戸アコースティックストーリー』を放送していたが、AMK側の都合で打ち切り、後番組を自社制作にはせず、ニッポン放送からの番販購入の形でこの番組を同時ネット受けすることになった。また、2007年4月からは変則的に『エバーグリーン』の飛び乗りネットを開始し、10月以降は27時からのフルネットに枠拡大した。
2009年7月、京阪神地区で長年22時台に独自の深夜番組を製作していた朝日放送(ABCラジオ)は、月曜から木曜までの自社製作を打ち切り、ニッポン放送の『銀河に吠えろ!宇宙GメンTAKUYA』をネットすることになった。この枠は2009年11月に『オールナイトニッポンGOLD』に移行したため、在阪局ではOBCに次いでABCでも『オールナイトニッポン』シリーズがネットされることになった。ただし、当該時間帯におけるABCのニッポン放送からのネット受け開始を受けて、CRKとKBSは『TAKUYA』の途中の2009年10月改編で当該時間帯のネット受けを撤退し、KBSは金曜を除いて文化放送の裏番組『レコメン!』を全編ネット、CRKは当該時間帯の自社制作を再開している。また、2010年4月からは『魂のラジオ』についてもABCラジオでネット開始される。
また、2013年10月からは『中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ』を大阪のFM局FM COCOLO[47]がネットするが[48]、オールナイトニッポンの歴史上FM局でネットが行われるのは初となる。さらに2014年4月改編からは『オールナイトニッポンGOLD』のABCのネット終了を受ける形で、FM COCOLOでネットする事となった(金曜を除く)[49]。
この結果、2014年4月改編以降京阪神地区においては、GOLDと月イチはFM COCOLO(金曜GOLDを除く)、1部はOBCとKBS、27・28時台はCRK(土曜Rを除く)とKBS、サタデースペシャルはABCとKBSというように、番組ごとにネット局が変わる事態となった。
KBS京都は1978年4月に開始しているが、ネット開始する以前(1976年7月当時)は『日本列島ズバリリクエスト』(23:00 - 26:00)と『ミュージック・オン・ステージ』(26:00 - 29:00 木-土曜は別番組の関係で時差開始)を放送していた。
サタデースペシャル
もともとは『ドリアン助川の正義のラジオ!ジャンベルジャン!』が放送されていた土曜日23:30 - 25:00枠『サタデースペシャル』については、さらにネット局が複雑化している。北海道に関しては以前は25時-29時枠と同様STVラジオがネットしていたが2002年3月に打ち切ったため、1年半のブランクを置いて2003年10月より競合局のHBC(北海道放送)でネットしている。福岡県でも同様に25時から29時枠は全てKBC(九州朝日放送)で流れているにもかかわらず、『サタデースペシャル』枠だけはRKB毎日放送がネットしているといった腸捻転現象がおきている。特にRKBラジオはNRNには加盟していないため、CBCラジオ同様特殊なケースとなっている。また、東海地区では『ジャンベルジャン』枠を引き継いだ東海ラジオが『魂のラジオ』放送開始からネットを行っている。2010年4月からは上記の通りABCラジオでもネットを開始した。
その他
NRN・JRN回線を使用する際にそれを表示している局の番組表からも分かるとおり、NRN回線は使用していない(単に「LF」と表示されている)。
ネット局での番組割愛時の対応
12月25日AM1:00(新聞上は12月24日の放送欄)からのオールナイトニッポンはオールナイトニッポン ラジオ・チャリティー・ミュージックソンとして放送される(ラジオ・チャリティー・ミュージックソンの一環)。以前はニッポン放送は関東ローカル独自の放送のため放送されず、裏送りのみされたが、2007年度以降は、ニッポン放送発の番組をミュージックソン非参加局を含む各ネット局がネットしている。一方独自でラジオ・チャリティー・ミュージックソンの企画番組を放送する局はネットは割愛される。
ワールド・ベースボール・クラシックやFIFAワールドカップなど日本時間の深夜に日本あるいは海外で行なわれる野球・サッカー中継をニッポン放送が中継・ネットする当日にオールナイトニッポンの放送とかぶる場合は、オールナイトニッポンを放送せず、裏送りのみを行なう。その際、放送される試合によっては放送権の関係でradikoでの放送はできないため、フィラー音楽とその間にニッポン放送のアナウンサーによる「放送権の都合によりradikoでの放送は行ないません。地上波でお聴きください」という説明が放送される。また、NRN系の多くの局も試合の中継を優先するため、オールナイトニッポンは放送されない(場合によっては飛び乗り)。そのため、場合によってはネット受けがラジオ大阪およびCBCラジオ二局のみの時もある(中京広域圏では東海ラジオ、関西広域圏はABCラジオでサッカー中継をネットすることが多いため)。
各番組ネット局一覧
- 一覧の数字は以下の番組を意味する。
- オールナイトニッポンGOLD (月-金曜22:00 - 24:00:月・金19局、火-木20局)
- オールナイトニッポン (月-土曜25:00 - 27:00:36局)
- オールナイトニッポン0(ZERO) (月-金曜27:00 - 29:00:11局)
- オールナイトニッポンR (土曜27:00 - 29:00:18局)
- オールナイトニッポンサタデースペシャル 大倉くんと高橋くん (土曜23:30 - 25:00:34局)
- 中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ (月1回日曜27:00 - 29:00:9局)
- ※ - かつて同時間帯の番組をネットしていたが打ち切りとなった枠[注 1]。
放送局名 | 放送番組 | 備考 | ネット開始年月 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
STVラジオ | 1 | 2 | 3 | 4 | ※ | 6 | [注 2] | 1970年7月 |
北海道放送 | - | - | - | - | 5 | - | 2003年10月 | |
青森放送 | 1 | 2 | ※ | ※ | 5 | - | [注 3] | 1973年4月 |
IBC岩手放送 | 1 | 2 | - | 4 | 5 | - | 1は金曜は23時飛び乗り 4は4時まで |
1972年4月 |
東北放送 | 1 | 2 | 3 | ※ | 5 | 6 | 1は火-金曜のみ、23時50分まで 火-木曜は23時50分、金は23時30分に飛び降り[注 4] |
1970年10月 |
秋田放送 | - | 2 | - | - | 5 | - | 1979年10月 | |
山形放送 | 1 | 2 | - | 4 | 5 | - | 4は4時まで | 1977年4月 |
ラジオ福島 | ※ | 2 | - | - | 5 | - | [注 5] | 1982年4月 |
茨城放送 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | - | [注 6] | 2001年4月 |
栃木放送 | - | 2 | 3 | 4 | - | - | 1995年7月 | |
山梨放送 | 1 | 2 | - | ※ | 5 | ※ | [注 7] | 1990年4月[注 8] |
静岡放送 | ※ | 2 | - | ※ | 5 | 6 | [注 9] | 1970年6月 |
CBCラジオ | - | 2 | ※ | 4 | - | - | 4は4時まで[注 10] | 1972年10月 |
東海ラジオ | 1 | - | - | - | 5 | - | [注 11] | 1999年10月 |
新潟放送 | - | 2 | - | - | 5 | - | 1976年4月 | |
信越放送 | 1 | 2 | - | ※ | 5 | 6 | 1970年10月[注 12] | |
北日本放送 | ※ | 2 | - | - | 5 | - | 1977年4月 | |
北陸放送 | 1 | 2 | - | ※ | 5 | - | [注 13] | 1982年3月 |
福井放送 | 1 | 2 | - | 4 | 5 | - | 4は4時まで | 1981年4月 |
KBS京都 (KBS滋賀) |
※ | 2 | 3 | 4 | 5 | - | [注 14] | 1978年4月 |
朝日放送 | ※ | - | - | - | 5 | - | [注 15][注 16] | 2009年11月 |
ラジオ大阪 | - | 2 | - | - | - | - | 1970年6月 | |
FM COCOLO | 1 | - | - | - | - | 6 | 1は月-木曜のみ[注 17] | 2013年10月 |
和歌山放送 | 1 | 2 | - | 4 | ※ | - | 4は4時まで[注 18] | 1981年4月 |
ラジオ関西 | ※ | - | 3 | - | - | - | 2001年4月[注 19] | |
山陰放送 | ※ | 2 | - | - | 5 | - | [注 20] | 1985年4月 |
山陽放送 | 1 | 2 | - | - | 5 | - | [注 21] | 1997年10月 |
中国放送 | ※ | 2 | ※ | ※ | 5 | 6 | [注 22] | 1970年10月 |
山口放送 | 1 | 2 | - | 4 | 5 | - | 1988年4月 | |
南海放送 | ※ | 2 | 3 | 4 | 5 | - | 3は月-木は4時まで | 1979年4月 |
西日本放送 | ※ | 2 | 3 | 4 | 5 | - | 3・4は4時まで[注 23] | 1971年4月 |
四国放送 | - | 2 | - | 4 | 5 | - | 1977年4月 | |
高知放送 | ※ | 2 | 3 | - | 5 | - | [注 24] | 1971年4月 |
九州朝日放送 | 1 | 2 | 3 | 4 | - | 6 | [注 25] | 1970年6月 |
RKB毎日放送 | - | - | - | - | 5 | - | 2000年3月 | |
長崎放送 (NBCラジオ佐賀) |
1 | 2 | - | 4 | 5 | - | 1970年10月 | |
熊本放送 | ※ | 2 | 3 | ※ | ※ | 6 | [注 26] | 1971年3月 |
大分放送 | 1 | 2 | - | 4 | 5 | ※ | [注 27] | 1979年4月 |
宮崎放送 | 1 | 2 | - | 4 | 5 | - | 4は4時まで[注 28] | 1977年4月 |
南日本放送 | ※ | 2 | - | 4 | 5 | - | 4は4時まで | 1979年10月 |
ラジオ沖縄 | - | 2 | - | - | 5 | - | [注 29] | 1977年4月 |
関連項目
- ニッポン放送
- ニッポン放送番組一覧
- オールナイトニッポンのパーソナリティ一覧
- オールナイトニッポンDX(1997年10月 - 1998年3月)
- allnightnippon SUPER!(1999年 - 2003年)
- @llnightnippon.com(1999年 - 2003年)
- allnightnippon-r(1999年 - 2003年)
- オールナイトニッポンエバーグリーン(2003年 - 2009年)
- オールナイトニッポンR(1998年 - 1999年、2003年-)
- オールナイトニッポンR スペシャルナイト(1998年、2003年-)
- オールナイトニッポンいいネ!(2003年 - 2004年)
- オールナイトニッポンレコード(全国ネットは2002年 - 2004年)
- オールナイトニッポンTV
- オールナイトニッポン高校水泳部
- オールナイトニッポンアゲイン(2006年 - 2007年)
- オールナイトニッポンリスナーズBEST(2002年 - 2004年)
- オールナイトニッポン 週替わりスペシャル (1994年 - 1998年、2003年 - 2004年)
- オールナイトニッポン FRIDAY SPECIAL (2003年)
- オールナイトニッポン 有楽町音楽室 (2007年 - 2008年)
- オールナイトニッポン サポーターズ (2007年 - 2009年)
- オールナイトニッポン クリエイターズナイト(2008年)
- オールナイトニッポンサンデー(2009年 - 2010年)
- オールナイトニッポン ラジオ・チャリティー・ミュージックソン
(毎年・日曜深夜(月曜未明)以外の12月24日(12月25日未明)に放送) - オールナイトニッポンモバイル - 携帯電話専用ウェブサイトとレコチョクで配信されているダウンロード販売ラジオ番組
- セイ!ヤング・オールナイトニッポン Are you ready? Oh! (2010年-2011年)- 1960年代末期から1980年代初期まで当番組の裏番組として放送の『セイ!ヤング』(文化放送)とタッグを組んだ番組。放送は、土曜日の20時30分-21時30分で、21時まで文化放送で放送して、時報の後21時からニッポン放送で放送するというリレー放送である。
- オールナイトニッポン45周年特別企画
- たけし みゆき 千春も登場! 伝説のパーソナリティが今を語る オールナイトニッポン45時間スペシャル - オールナイトニッポン45周年記念特別番組
備考
- ニッポン放送とBSフジ(フジテレビのBSデジタルテレビ局)共同制作の番組『お笑いネクストブレーカー』の番組内でお笑い芸人が出されたテーマに、オールナイトニッポンをベースにトークをするコーナー「オールナイトニッポンへの道」があった。
- CBCラジオでは、2009年2月1日から2月28日まで、親局である長島ラジオ送信所の施設改修工事に伴い、午前0時から午前4時までの間放送が休止されたため、1ヶ月間オールナイトニッポンの放送が休止となった(協賛部分のみ休止直前の番組でCMとして流した)。
- 信越放送では2009年4月 - 9月の間、経費削減などのため停波を伴う放送休止の時間に充てるのを伴い、祝日に当たる日にのみオールナイトニッポンの放送が休止となった。なお協賛部分のみ休止直前と再開直後でCMとして流す。
- ラジオ福島では東日本大震災以降の方針で2011年7月26日に放送された特別番組『SKE48のオールナイトニッポン』を放送せず、裏番組の『爆笑問題カーボーイ』に差し替えた。
- ホームページ・メールアドレスは基本的にニッポン放送の深夜放送の番組(オールナイトニッポンの冠が入っていない番組も含む)で使用される「allnightnippon.com」のドメインが使われているが、一部の派生番組(オールナイトニッポン・サンデーなど)では通常番組のドメイン「1242.com」が使われる番組もある。
参考文献
- 夜明けの紙風船(ペップ出版八曜社、1975年刊行)
- 夜明けの紙風船 パート2(ペップ出版八曜社、1977年刊行)
- オールナイトニッポン大百科(主婦の友社)
- オールナイトニッポン30周年を記念して1997年に刊行。
- 村野まさよし『深夜放送がボクらの先生だった』(実業之日本社、2008年刊行)
- 文化放送&ニッポン放送&田家英樹『セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説』(扶桑社、2011年刊行)
脚注
注釈
- ↑ 1・5については『オールナイトニッポン』の冠がついた番組に限る。
- ↑ 5は2002年3月終了
- ↑ 2001年3月まではR(古くはオールナイト2部)も朝5時まで放送していた。
- ↑ 1は2013年4月2日開始。3は2013年4月1日開始。6は2013年5月12日・6月9日・7月14日に放送。2014年1月12日から再開
- ↑ 1は2011年9月終了
- ↑ 5は2004年10月開始
- ↑ 4は2015年3月終了、6は2014年8月終了
- ↑ ただし、1970年代後半から1983年3月31日までネットしていた事がある。その後1990年にネット再開した。
- ↑ 6は2015年4月開始
- ↑ 27時台の平日ネットは2009年4月開始、2010年3月終了。旧タイトルのオールナイトニッポンR時代
- ↑ 5は2000年3月の放送開始から。また、ネット開始の時の放送枠は22時枠
- ↑ 1については一時期月曜のみ未ネットだった時期がある。1974年6月の2部制導入までは放送終了まで放送。以降は平日のみ第1部終了で飛び降り。2012年4月から2014年3月、2015年4月からは土曜日も第1部終了で飛び降り。
- ↑ 27時台(土曜のみ)は2005年9月終了
- ↑ 5は2005年10月開始
- ↑ 1は2014年3月末終了。今後はFM COCOLOでネット
- ↑ 5は2010年4月開始
- ↑ 1は2014年4月開始
- ↑ 5は2009年3月終了、1は2010年4月再開
- ↑ 3は旧エバーグリーン枠(月-木曜)を2007年4月から、2012年10月からは金曜もネット開始。2001年4月 - 2004年3月に22時台をネット
- ↑ 1は2010年3月終了
- ↑ 1は2015年4月開始
- ↑ かつては2部も放送していたが、1976年12月6日に走れ!歌謡曲のネット局になったため放送打ち切りとなった。6は2013年12月開始
- ↑ 1は2010年9月終了
- ↑ 1は2010年9月終了
- ↑ 1は2010年10月再開
- ↑ 27時台の平日ネットは2010年4月開始、2015年3月終了、4も2015年3月終了、6は2015年4月開始
- ↑ 4は2013年4月、6は2013年10月開始、2014年3月終了
- ↑ 2009年10月開始
- ↑ 5は2009年3月に一旦打ち切り、2012年4月再開。
出典
- ↑ 『プロが教えるラジオの教科書』(花輪如一 著、199ページ - 203ページ)より。
- ↑ 2020年4月以降、第5水曜日がある月の場合、当該日は「オールナイトニッポン MUSIC10」としてスペシャルパーソナリティが担当、または「MUSIC10」の放送を休止し「オールナイトニッポンGOLD」名で特別番組を放送していたが、2024年1月以降、第5水曜日がある月の場合は名取裕子が担当する。
- ↑ 2020年3月までは水曜日。
- ↑ 2020年3月までは火曜日。
- ↑ 毎週金曜の放送のほか、2020年10月以降の第5水曜日がある月は「MUSIC10」の放送を休止し「オールナイトニッポンGOLD」名でスペシャルパーソナリティを起用し放送
- ↑ 『○○(パーソナリティー名)のオールナイトニッポンGOLD』として放送。
- ↑ 第2期の開始日。第1期は2019年7月 - 2020年3月に放送された。
- ↑ 2022年3月までは金曜日に放送。
- ↑ 2017年3月までは月曜日。
- ↑ 放送開始から2022年2月10日までは新内眞衣、2022年2月17日から久保史緒里。
- ↑ 第2シーズンの開始日。第1シーズンは1994年4月から2014年9月まで放送された。
- ↑ 第2期の開始日。第1期は2015年4月から2019年3月まで放送された。
- ↑ 放送時間では4時間放送していた笑福亭鶴光が最長である。またアナウンサーを含めると、斉藤安弘は5年半の期間を毎週4時間、エバーグリーンとして5年半、週4日を2時間放送(更に増刊号放送もある)したのが放送時間最長となるほか、糸居五郎は11年半の期間DJを務めている。
- ↑ 2014年10月から2020年5月までは単独で、それ以外はコンビ(ナインティナイン)で担当。2010年7月 - 11月は体調不良のため休演
- ↑ アナウンサーを含めると、番組初復帰は今仁哲夫(1969年10月)である。
- ↑ アナウンサーを含めると、最長期間での復帰は高嶋秀武の47年3か月である。
- ↑ 放送時間では4時間放送していた笑福亭鶴光が最長である。またアナウンサーを含めると、斉藤安弘は5年半の期間を毎週4時間、エバーグリーンとして5年半、週4日を2時間放送(更に増刊号放送もある)したのが放送時間最長となるほか、糸居五郎は11年半の期間DJを務めている。
- ↑ 2014年9月まではコンビ(ナインティナイン)で担当。2010年7月 - 11月まで休養のため出演せず
- ↑ 終了から再開まで1年半の中断期間があった。
- ↑ アナウンサーを含めると、番組初復帰は今仁哲夫(1969年9月)である。
- ↑ アナウンサーを含めると、最長期間での復帰は斉藤安弘は29年3ヶ月である。
- ↑ 現・フジサンケイエージェンシー。現在は保険代理店とイベント関連のみで、制作事業からは手を引いている
- ↑ 糸居五郎は「新しい時代の夜」、また「エバーグリーン」当時の斉藤安弘は「フレッシュな夜明け」と言っていた。このように、パーソナリティによっては部分的にアレンジして使うこともあった。
- ↑ 『月刊ラジオパラダイス』1989年8月号『ニッポン放送35周年グラフィティ』29ページより。
- ↑ 天井邦夫氏死去 元ニッポン放送副社長 - 47NEWS
- ↑ スマホ向け放送「NOTTV」は月額420円で4月1日に開始 - AV Watch・2011年11月29日
- ↑ NOTTV 2013年4月からの主な番組 株式会社mmbi
- ↑ ニッポン放送「AKB48のオールナイトニッポン」4月からNOTTV同時生放送決定! 株式会社mmbi
- ↑ 2013年9月14日より9月23日までの10日間、総合プロデューサーに高須光聖を迎えて開催される、『エンターテイメントコンテンツの祭典』
- ↑ 31.0 31.1 (2013-09-04) 鬼龍院翔、AKB48、ナイナイほか『オールナイトニッポン』をYouTubeで観る1週間 BARKS [ arch. ] 2013-09-09
- ↑ (2013-09-02) オールナイトニッポンが1週間限定でYouTube同時配信 お笑いナタリー [ arch. ] 2013-09-03
- ↑ 橋本環奈 ユニットでユーチューブ版ANN初回MC スポーツニッポン
- ↑ テンプレート:cite album-notes
- ↑ 「ビタースウィート・サンバ」と「レモン・ツリー」は同一アルバム内、A面の4曲目と5曲目
- ↑ 1973年12月30日放送の「あのねのねのオールナイトニッポン」のオープニング 参照(冒頭午前1時の時報から1分29秒より当時のテーマ曲。イントロから清水國明と原田伸郎のトーク、女性アナウンサーによるスポンサー及びネット局(当時15局ネット)紹介、再度清水と原田のトークまで約1分50秒間聴くことが出来る。このテーマ曲はのち1978年にアメリカ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(ジョン・トラボルタ主演)が日本で上映され、ディスコが大ブームになった頃の『タモリのオールナイトニッポン』スペシャルで、おすぎをゲストに招いて、ディスコファン中心のリスナー公開で放送されたときのオープニングに、約4年ぶりに使用された。ちなみに海外向けにリリースされたレコードのA面は『Theme From Enter The Dragon(燃えよドラゴンのテーマ)』)。
- ↑ しかし、土曜2部の『川村かおりのオールナイトニッポン』や『電気グルーヴのオールナイトニッポン』では第1部と同じくオープニングに「ビタースウィート・サンバ」を流して番組を始めており、例外も存在している。
- ↑ 2014年12月19日放送「オールナイトニッポンGOLD 忘れられぬミュージックスペシャル」にて吉田尚記が発言
- ↑ 星野源『オールナイトニッポン』50周年ジングルを制作 ファンクやメタル調も オリコンスタイル
- ↑ 40.0 40.1 第40回 「重大発表!」(星野源のオールナイトニッポン公式サイトより)
- ↑ 星野源「オールナイトニッポン」ジングル作成 Narinari.com
- ↑ 28:30以降はニッポン放送では通常通り『大切な一言』(金光教の時間・幸福への出発)を放送し、ネット局は『オールナイトニッポンレコード』を休止し引き続き報道特番を放送。
- ↑ ただし、テレビ部門がTBS系列局である放送局にもネットしている。
- ↑ 『新保友映のオールナイトニッポンGOLD』は西日本のネット局のみ通常通り放送された。
- ↑ 2013年3月までは中部日本放送がラジオ放送免許を持っていたが、2013年4月1日をもって、CBCラジオに分割譲渡・免許承継され、ラジオ単営放送局のCBCラジオとして再出発。
- ↑ 中部日本放送 編「CBC技術報告会」第55回、中部日本放送、2012年3月
- ↑ 現在の運営会社であるFM802はニッポン放送が筆頭株主という資本的繋がりがある。
- ↑ MEDIA INFO - NAKAJIMA MIYUKI OFFICIAL SITE
- ↑ 史上初、『オールナイトニッポンGOLD』がFM COCOLOでもレギュラー放送開始,BARKS,2014年3月18日
外部リンク
公式サイト
- オールナイトニッポン.com ニッポン放送(オールナイトニッポン・ニッポン放送夜の番組ページ)
- オールナイトニッポン40周年記念サイト
- オールナイトニッポンの歴史(パーソナリティ年表)
非公式サイト