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+ | この方式に沿った言い方に「[[中讃]]」(ちゅうさん)があるが、こちらはより狭い範囲を表すものであり、このスケールでは同じ「西讃」といった場合でも指し示す範囲が異なる。同じように「東讃」も高松地域・小豆地域を除いた範囲を指す狭義が存在する。小豆地域は狭義の東讃にも含むとする概念もあるが、小豆島は航路で結ばれているのが全て高松であるため、直接の結びつきがない香川県東部とは分けて小豆地域、あるいは単に小豆島とする場合が多い。 | ||
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+ | その他にも、東讃に高松市を含んだ上で残りの西部を中讃、西讃の計3つで分ける概念もあるが、この場合では県都の位置する地域が中讃てあると捉えられる場合があるため、あえて県都の高松市を別格として「高松地域」とする場合がほとんどである。 | ||
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+ | 行政区分や天気予報、県立高校の学区などでも用いられるこの区分は自治体ごとに区切られているため、市町村合併により所属地域が変化する例が多く見られた。特に平成の大合併では高松市へ合併した[[綾歌郡]][[国分寺町 (香川県)|国分寺町]]の所属地域が西讃から東讃へ変わったほか、[[木田郡]][[庵治町]]と[[牟礼町]]が同じく高松市への合併により、狭義の東讃から高松地域へ所属地域が変わった。 | ||
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+ | 約2万年前の[[日本列島の旧石器時代|旧石器時代]]人が永く住み着いた国分台遺跡群が知られている。同遺跡群は、高松市と坂出市の境に南北にのびる標高400メートルの台地上および斜面上に立地し、高松市(旧綾歌郡国分寺町)に所在する。そこからは、[[サヌカイト]]製の[[ナイフ形石器]]、[[尖頭器]]、楕円形石器、舟底形石器、錐などの生活必需石器が大量に出土した。 | ||
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+ | [[縄文時代]]晩期後半の林防城遺跡([[高松市]])で、当時の[[土器]]と木製諸手狭鍬が出土しているなどから、県下にも[[稲作]]が伝播し、水田耕作が行われたと推定されが、他に水稲耕作に直接かかわる道具や同時に伝播するはずの文化要素が見当たっていない。また、水稲耕作に従事したムラの形跡がない。 | ||
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+ | 『[[日本書紀]]』などには讃岐国は[[洪水]]や旱魃、地震などの自然災害が多い土地であると記されており、讃岐では[[ため池]]の開発や雨乞い儀式などが行われていた。[[大宝 (日本)|大宝]]年間から工事が開始され、弘法大師[[空海]]が修築工事を指導したとされる[[満濃池]]のほか多くのため池が開発され、それより耕地は灌漑された。[[菅原道真]]も、一時は讃岐国国司となっている。 | ||
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+ | [[平安時代]]には[[関東地方]]での[[平将門]]の乱に乗じて[[藤原純友]]が[[伊予国]]([[愛媛県]])で蜂起し、純友は讃岐国の国府を陥落させた。[[朝廷]]が追捕使として[[小野好古]]を派遣すると讃岐国の[[武士]]も乱の平定のために戦う。[[保元の乱]]で敗れた[[崇徳天皇|崇徳上皇]]は讃岐国に流刑され、讃岐国で死んだ。平安時代後期には[[治承・寿永の乱|源平合戦]]の1つである[[屋島の戦い]]が行われる。[[一ノ谷の戦い]]で[[源義経]]に敗れた[[平氏]]は屋島の戦い(高松市内)においても義経軍の背後からの急襲で敗北し、以後平氏は[[瀬戸内海]]における制海権を失った。 | ||
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+ | 鎌倉新仏教派の[[法然]]上人も流刑されたことで有名。[[足利尊氏]]らの活躍で[[鎌倉幕府]]が滅亡して、[[後醍醐天皇]]の[[建武の新政]]が始まると、讃岐国には足利氏の一門である[[細川定禅]]が入った。以後、南北朝時代を経て[[室町時代]]を通じて、[[細川氏]]が[[守護大名]]として讃岐国を支配した。室町幕府内での政争に敗れて南朝に与した[[細川清氏]]は、従弟の[[細川頼之]]と戦い、敗れた(白峰合戦、現[[宇多津町]]・[[坂出市]])。 | ||
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+ | 讃岐国では、管領を務めた細川京兆家が室町期を通じて守護職を執った。このため阿波国人と同様に讃岐国人も中央へ出る機会が多く、香西、香川、安富、奈良の4氏は細川氏四天王と称されたという([[南海通紀]])。戦国時代初期には讃岐国人と思われる香西氏が山城国守護代を務めるなど重職にも就いた。 | ||
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+ | 戦国時代には讃岐国の分郡守護代である安富氏と香川氏が東西で大きな勢力を擁し、両者中間の香川、阿野、鵜足郡に長尾氏、奈良氏、羽床氏など中小豪族が乱立していた。しかし安富氏が細川・三好氏の援助を受けた[[三木郡]]の十河氏によって滅びると、若干の抵抗があったが讃岐国は三好氏の支配下に入った。三好氏は[[三好長慶]]の弟である[[十河一存]]に讃岐国を任せた。真偽は不明だが、この時期に毛利氏が讃岐に攻め入った[[元吉合戦]]があったとされる。 | ||
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+ | [[長宗我部氏]]が三好・織田氏の内乱に乗じて讃岐へ侵攻してこれを平定する。[[豊臣秀吉]]が四国征伐を行うと讃岐へは[[宇喜多秀家]]を総大将とする豊臣軍が侵攻し、[[長宗我部元親]]が秀吉に屈服すると讃岐は[[仙石秀久]]に与えられ、その後は[[尾藤氏]]、[[生駒氏]]が相次いで封ぜられる。当初は宇多津聖通寺城に拠点が置かれたが、手狭のため高松に新城が築かれ拠点とされた。 | ||
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+ | === 江戸時代 === |
2011年4月29日 (金) 10:56時点における版
香川県(かがわけん)は、瀬戸内海に面し、四国の北東に位置する日本の県の一つ。令制国の讃岐国に当たる。県庁所在地は高松市。
県名は、讃岐のほぼ中央に存在する古代以来の郡名「香川」をとった。
概要
かつては全国で2番目に面積の狭い都道府県だったが、1988年に国土地理院が面積の算定法を見直して香川郡直島町の面積が削除されたため、大阪府に代わって全国で最も面積の狭い県となった。ただし、その後大阪府が関西国際空港などの埋立地を造ったために大阪府の面積は以前より増えており、直島町の面積14.2km²分が復帰したとしても香川県は最下位のままである。現在では岐阜県高山市よりも面積は狭い。一方平野は、県土のほぼ半分を占めており、その率は高い。
古来より雨量、河川の流水量ともに少なく、旱魃に備えて、県内各地に14,000を超える数のため池が造られ点在している。これは県内に高山がなく、高低差が小さいからである。
北部に広がる瀬戸内海には、小豆島など多くの島々が点在している。本州の岡山県とは島々を伝う形で架けられた瀬戸大橋により、道路・鉄路で結ばれている。
瀬戸内海を越えた岡山県や、鳴門海峡を越えた近畿地方との繋がりが深い。特に岡山県との間においては、民間テレビ放送局が同一のエリアになる程であるが、同時に対抗心も強い。
麺のコシがしっかりとした讃岐うどん、こんぴらさんの愛称で親しまれる金刀比羅宮、空海の生誕地としても知られる善通寺(四国八十八箇所の一つ)、寛永通宝の銭形砂絵で知られる観音寺、対岸の倉敷市児島から坂出市にかけて海上に架けられた瀬戸大橋が有名である。
正月には、餡餅の入った白味噌仕立の雑煮「餡餅雑煮」を食べる風習がある。江戸時代、讃岐の国では塩・砂糖・木綿が特産で、「讃岐三白」と呼ばれていた。このうち砂糖は幕府への献上品として多くが用いられ、庶民の口には滅多に入らなかったことから「せめて正月ぐらいは(砂糖を使った餡の入った甘い餅を食べたい)…」という思いから餡餅雑煮が誕生したと言われている。
香川県庁舎の設計者は丹下健三。この他にも、丹下は香川県立体育館や県営一宮団地も設計している。
温暖な気候風土で、堅実な小金持ちが多く、四国お遍路へのお接待の精神もある。
県全体の人口密度が高いのが特徴的であるが、これは平野が多いからである。
県内を供給区域とする電力会社は四国電力であるが、岡山県に隣接した島嶼部である香川郡直島町及び小豆郡の全域は海底地形の理由から、本来の四国電力ではなく中国電力の供給区域となっている。
地理
香川県は四国の北東部に位置し、北部には瀬戸内海に面して讃岐平野が広がる。南部には讃岐山脈が連なる。最高峰は竜王山で1059.9メートルあるが、丘陵部は500~800メートルで各地峠越えに行き来が行われた。
多島海である瀬戸内海には小豆島をはじめ、塩飽諸島や直島諸島など約110余りの島々が存在する。
川が少なく、またどれも33~38キロぐらいで短いため、昔から渇水対策に手を焼いてきた。このため、空海が作ったことで知られる満濃池をはじめとするため池が県内に16,000余あり全国有数である。
- 行政区分:日本、四国地方
- 川と平野:湊川と鴨部川の大川平野、新川・春日川と香東川の高松平野、綾川と大東川の坂出平野、土器川と金倉川の丸亀平野、高瀬川と財田川の三豊平野、他に詰田川、御坊川がある。
- ため池:満濃池は全国一の規模を誇る。
- 用水:香川用水
自然公園
気候
冬から春までの季節における瀬戸内海沿岸地域に含まれる特徴として、冬期は北西の季節風が吹きつけるため肌寒く、曇天の日が多く日照時間が少ない。冬から春にかけて、中国大陸から流入する黄砂に悩まされることが多い。
気候は、瀬戸内海式気候で、晴天の日が多く雨量が少ないのが特徴である。日照時間が長いことが塩の生産・発展に役立ち、「塩田王国香川」と言われた。しかし、少雨の傾向は夏場に多く水不足をもたらし、大雨になると河川が氾濫し、洪水をもたらした。
太平洋岸気候と違い、北西の季節風の影響で、冬季の降水日数が日本海側ほどではないものの、太平洋岸気候に属する地域に比べると多くなっている。
太平洋岸気候と違い、瀬戸内海式気候の冬から春までの季節における瀬戸内海沿岸地域の特徴として、冬でも暖かい日が続くと言われているが、曇り空で雨と雪(みぞれ)が多く、すっきりとしない青空が望めない天気の日が長く続く。冬から春に掛けては晴天日数は非常に少ない。
積雪も一冬に1~2回程度は起こる。特に冬は梅雨の時期のような天候が多く、洗濯物や布団を屋外に干すことが難しい。緯度の割には朝晩の冷え込みは厳しく、沿岸部を除いて氷点下まで下がるのが普通である。
それでも冬から春先に掛けては雨と曇り、みぞれが非常に多い天候の影響で、鼻水や花粉症、咽の痛みなど冬の乾燥性の疾患には悩まされないことが多い。
瀬戸内海式気候と呼ばれる冬から春にかけての気候は瀬戸内海沿岸部や兵庫県南部、大阪湾沿岸部だけではなく、京都府南部、滋賀県南部、奈良県北部、和歌山県北部、三重県伊賀地方などでも同様の性質を持つ。
太平洋高気圧に覆われる夏季には瀬戸内海沿岸特有の「凪」が発生し、日中の気温は35度を超える猛暑・酷暑となり、熱帯夜になることも多い。
地域区分
地域区分は広義・狭義とも県民生活の基盤にもなっており、この区分によって気候・風土・方言(讃岐弁参照)なども異なっている。
東西に長い香川県を分けて考える場合、最も多く用いられるのが五色台を境に東部を「東讃」(とうさん)、西部を「西讃」(せいさん)とする概念である。この名称は香川県が旧讃岐国の範囲と合致しているため、旧国名である「讃岐」に東・西を冠した言い方である。このスケールは県民の会話上でも西讃のことを「西の方」や単に「西」、東讃のことを「東の方」や単に「東」と呼ぶことで通用するほど定着した概念である。
この方式に沿った言い方に「中讃」(ちゅうさん)があるが、こちらはより狭い範囲を表すものであり、このスケールでは同じ「西讃」といった場合でも指し示す範囲が異なる。同じように「東讃」も高松地域・小豆地域を除いた範囲を指す狭義が存在する。小豆地域は狭義の東讃にも含むとする概念もあるが、小豆島は航路で結ばれているのが全て高松であるため、直接の結びつきがない香川県東部とは分けて小豆地域、あるいは単に小豆島とする場合が多い。
その他にも、東讃に高松市を含んだ上で残りの西部を中讃、西讃の計3つで分ける概念もあるが、この場合では県都の位置する地域が中讃てあると捉えられる場合があるため、あえて県都の高松市を別格として「高松地域」とする場合がほとんどである。
行政区分や天気予報、県立高校の学区などでも用いられるこの区分は自治体ごとに区切られているため、市町村合併により所属地域が変化する例が多く見られた。特に平成の大合併では高松市へ合併した綾歌郡国分寺町の所属地域が西讃から東讃へ変わったほか、木田郡庵治町と牟礼町が同じく高松市への合併により、狭義の東讃から高松地域へ所属地域が変わった。
歴史
原始・古代
約2万年前の旧石器時代人が永く住み着いた国分台遺跡群が知られている。同遺跡群は、高松市と坂出市の境に南北にのびる標高400メートルの台地上および斜面上に立地し、高松市(旧綾歌郡国分寺町)に所在する。そこからは、サヌカイト製のナイフ形石器、尖頭器、楕円形石器、舟底形石器、錐などの生活必需石器が大量に出土した。
縄文時代晩期後半の林防城遺跡(高松市)で、当時の土器と木製諸手狭鍬が出土しているなどから、県下にも稲作が伝播し、水田耕作が行われたと推定されが、他に水稲耕作に直接かかわる道具や同時に伝播するはずの文化要素が見当たっていない。また、水稲耕作に従事したムラの形跡がない。
『日本書紀』などには讃岐国は洪水や旱魃、地震などの自然災害が多い土地であると記されており、讃岐ではため池の開発や雨乞い儀式などが行われていた。大宝年間から工事が開始され、弘法大師空海が修築工事を指導したとされる満濃池のほか多くのため池が開発され、それより耕地は灌漑された。菅原道真も、一時は讃岐国国司となっている。
平安時代には関東地方での平将門の乱に乗じて藤原純友が伊予国(愛媛県)で蜂起し、純友は讃岐国の国府を陥落させた。朝廷が追捕使として小野好古を派遣すると讃岐国の武士も乱の平定のために戦う。保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国に流刑され、讃岐国で死んだ。平安時代後期には源平合戦の1つである屋島の戦いが行われる。一ノ谷の戦いで源義経に敗れた平氏は屋島の戦い(高松市内)においても義経軍の背後からの急襲で敗北し、以後平氏は瀬戸内海における制海権を失った。
中世
鎌倉新仏教派の法然上人も流刑されたことで有名。足利尊氏らの活躍で鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇の建武の新政が始まると、讃岐国には足利氏の一門である細川定禅が入った。以後、南北朝時代を経て室町時代を通じて、細川氏が守護大名として讃岐国を支配した。室町幕府内での政争に敗れて南朝に与した細川清氏は、従弟の細川頼之と戦い、敗れた(白峰合戦、現宇多津町・坂出市)。
讃岐国では、管領を務めた細川京兆家が室町期を通じて守護職を執った。このため阿波国人と同様に讃岐国人も中央へ出る機会が多く、香西、香川、安富、奈良の4氏は細川氏四天王と称されたという(南海通紀)。戦国時代初期には讃岐国人と思われる香西氏が山城国守護代を務めるなど重職にも就いた。
戦国時代には讃岐国の分郡守護代である安富氏と香川氏が東西で大きな勢力を擁し、両者中間の香川、阿野、鵜足郡に長尾氏、奈良氏、羽床氏など中小豪族が乱立していた。しかし安富氏が細川・三好氏の援助を受けた三木郡の十河氏によって滅びると、若干の抵抗があったが讃岐国は三好氏の支配下に入った。三好氏は三好長慶の弟である十河一存に讃岐国を任せた。真偽は不明だが、この時期に毛利氏が讃岐に攻め入った元吉合戦があったとされる。
長宗我部氏が三好・織田氏の内乱に乗じて讃岐へ侵攻してこれを平定する。豊臣秀吉が四国征伐を行うと讃岐へは宇喜多秀家を総大将とする豊臣軍が侵攻し、長宗我部元親が秀吉に屈服すると讃岐は仙石秀久に与えられ、その後は尾藤氏、生駒氏が相次いで封ぜられる。当初は宇多津聖通寺城に拠点が置かれたが、手狭のため高松に新城が築かれ拠点とされた。