三好長慶
三好 長慶(みよし ながよし)は、畿内や四国を支配した戦国大名。
- 三好元長の嫡男で、三好義賢、安宅冬康、十河一存、野口冬長の兄。
- 通称は孫次郎、官位:従四位下。筑前守、のち修理大夫。史料では「三筑」の略称で彼の名が多く残っている。
生涯[編集]
細川家臣時代[編集]
大永2年(1523年)2月13日、三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市で生まれる。父・元長は細川晴元配下の有力な重臣で、阿波や山城に勢力を誇っていたが、天文元年(1532年)に元長の勢力を恐れた晴元は一向宗の力を借りて、元長を殺害してしまった。このとき長慶は、河内守護代であった木沢長政の仲介や、幼少であるという理由から許されて、細川晴元に従うことになる。
長慶は父や祖父以上に智勇に優れた名将であった。天文8年(1539年)には父の遺領を受けられなかったことに不満を持って、2,500の兵を率いて上洛し、力によってそれを手に入れることに成功した。このとき、時の将軍・足利義晴は長慶を恐れて近江に逃走し、晴元は六角定頼に長慶との和睦を仲介してもらうほどであったという。これにより長慶は摂津守護代、越水城主となった。その後、長慶は細川氏の重臣として忠実に働き、木沢長政や遊佐長教らの敵勢力を次々と打ち破っていき、細川氏の最有力重臣にまでのし上がったのである。
そして父の復讐の機会が遂に訪れた。天文17年(1548年)、細川晴元と敵対していた細川氏綱側に寝返って翌、天文18年(1549年)に晴元と将軍・足利義輝を近江に追放し、同族ながら敵対していた三好政長を討った。これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権が誕生することになった。
三好政権の興亡[編集]
長慶の政権は、幕府を滅ぼすのではなく、将軍を傀儡としてその影として実権を掌握し、畿内を支配することであった。天文21年(1552年)1月、六角氏の仲介で敵対していた晴元・義輝らと有利な条件(長慶は幕府相判衆となり、晴元は氏綱に家督を譲って隠居)で和睦した。ところが天文22年(1553年)から再び両者と争い、永禄元年(1558年)、京都霊山の戦いで足利・細川軍を破ったことを機会に義輝と和睦し、自らは幕府の主導者として、幕政の実権を掌握したのである。さらに堺の経済力を握り、有能な弟たちに軍を預けて、河内や大和、丹波に転戦して、畿内に一大政権を築き上げたのである。
しかし三好政権は長慶の優秀な能力によって支えられているところが大きかったため、永禄4年(1561年)の十河一存、永禄5年(1562年)の三好義賢、永禄6年(1563年)の三好義興という相次ぐ一族の死により心身に異常を来たした長慶の勢力は大きく衰えて、晩年は実権を家宰の松永久秀に操られるようになった。
最期[編集]
永禄7年(1564年)5月、松永久秀の讒言を受けて弟・安宅冬康を誅殺した直後、もともと前年から病がちだったために自身も後を追うように7月4日に河内飯盛城下の屋敷において病死した。享年42。嫡男の義興が前年に早世したため、弟の一存の息子である三好義継が養子として後を継いだ(一説に、冬康を討ったショックから、6月に家督を義継に譲って隠居したともされる)。
これには謀殺説もあり、その説の支持者は、真犯人が松永久秀や三好三人衆の中の誰かではないかと推測している。俗説もしくは後世の作家の創作だとも考えられるが、あり得ない話ではない。これによって三好政権は崩壊してしまった。
官職位階履歴[編集]
※日付=旧暦
人物[編集]
- 長慶は織田信長と同じく堺の経済力に目をつけたり、朝廷との関係を重んじてたびたび連歌会を開くなど、豊かな教養人でもあった。しかし、信長と違って幕府を滅ぼして上に立つのではなく、その影となって実権を掌握するということに、長慶の信長との違いを感じることができる。
- 文武の名将ではあるが、教養人の面のみをあげつらう人もいたが本人は、「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」と見事な和歌で反論している。
- 長慶は父、三好元長の菩提を弔うため、弘治3年(1557年)、臨済宗大徳寺派の寺院龍興山 南宗寺を長慶の尊敬する大徳寺90世大林宗套を開山として創建した。茶人の武野紹鴎、千利休が修行し、沢庵和尚が住職を務めたこともあり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。長慶は常に「百万の大軍は怖くないが、大林宗套の一喝ほど恐ろしいものはない」と常々語っていたほどに大林宗套に深く帰依しており南宗寺の廻りは必ず下馬して歩いたといわれている。
- 名は慣習的に「ちょうけい」と読まれることが多いが、正しくは「ながよし」と思われる。「安倍晴明」(あべのせいめい←はるあき)、「赤松則祐」(あかまつそくゆう←のりすけ)などと同様に慣習的に音読されることが多い人物である。
- 喪は秘され、葬儀は長慶の死から3年後に行なわれた。それだけ三好政権においては重鎮だったと言える。
- 長慶存命中から、松永久秀らによって足利義輝暗殺は計画されていたが、長慶はその計画に最後まで反対したという。
- 晩年の症状から、うつ病であったともいわれる。原因は、無実であった弟・冬康の殺害や一族の相次ぐ死去による心労と思われる。
- 歌会や茶会をたびたび行なって畿内の文化人と親密になるなど、文化人としても優れていた。弟の実休(義賢)もまた文化人として知られる。また、優秀な弟たちにそれぞれの分国を支配させることで国人をまとめ上げ、当時においては山城から伊予まで9カ国を支配下に置くなど、最強の戦国大名でもあった。それだけに弟・実子の早世は痛かったといえる。しかしその後も三好の家系は無事栄え、長慶の家系は、その中でも三好氏が有力人物であるとされている。